ウンカとキリギリス

blog170523-9226富士山の雪が遠目にもかなり融けてきて、夏山になりつつあるのは明らかです。

暑さ厳しい季節に入りつつある証そのものであり、夏が嫌いな私にとっては、今年の夏もいつも通り暑いぞ~、と脅しをかけられているような気分になってきます。

とはいえ、富士山そのものに悪気があるわけでなし、日々変化する凛々しいその姿でどれだけ心が洗われていることか。がしかし、富士の守り神、木花咲耶姫もまた暑い夏がお嫌いだからこそ、その高嶺の涼しい場所に鎮座しておられるに違いありません。

そろそろ厚く着込んだ十二単を脱ぎ捨てて衣替えをされているに違いなく、もしかしたら、今日あたりは残雪を使ってかき氷など、召し上がっているかもしれません。

それにしても今日も暑くなりそうです。朝から気温がどんどん上がり、9時の時点でもう既に25度。まだ、5月だというのに…です。

ここは山の上ゆえに、やや気温は低いものの、午後には30℃まではいかないまでも、おそらくそれに近い暑気になるのではないでしょうか。

こうした暑さに誘われてか、虫が多くなってきました。先日、庭の水やりをやっている間に、今年初めて蚊に食われ、仕舞ってあったキンカンはどこかと探し回る、という一幕があったばかり。そろそろ虫よけスプレーを買い、蚊取りも求めて、これからのムシムシする季節に備える必要がありそうです。

ところで、虫といえば、その昔は、虫送り(むしおくり)という行事があったそうな。

虫追い(むしおい)ともいい、農作物の害虫を駆逐し、その年の豊作を祈願する目的で行われるこれは、今はかなり廃れてしまった日本の伝統行事のひとつです。

ちょうど春から夏にかけての今の時期、すなわち初夏のころ行われていた行事で、夜間たいまつを焚いて行います。一般的には藁人形をつくって悪霊にかたどり、作物を食い尽くす害虫をくくりつけて、鉦や太鼓をたたきながら行列して村境にいき、川などに流しました。地域によっては七夕の行事などと一緒にやることもあったようです。

しかし、明治時代以後、虫送りは各地で廃れていきました。農薬が普及するようになったことと、火事の危険などから行われなくなったことが原因のようです。

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とはいえ、長い歴史を持つす風習だけに、現在も続いているところもあちこちにあり、私の郷里の山口でも、長門市から下関市にかけての日本海沿いの北浦地方で「サバー送り」という虫送りの風習が残っています。萩藩やその支藩では、虫の害によって米の凶作が起こることも多く、その度に飢饉が生じたため、各地で虫送りが行われました。

北浦地方の場合、「サバーサマ」「サネモリサマ」という2体の騎馬武者姿の藁人形を作ります。それを自分たちの地域から隣の地域へ、さらに隣の地域へと、かつての村の境を幾つも越え、延々と送り出していく、リレー形式であるのが特徴です。どこまで行くかについては、その年によって異なりますが、最長では60km近くになるようです。

確認されたものでは最長約53kmあったそうで、そのときは約1ヵ月にわたって送り出されています。こういった形の虫送りは、全国的にもまれで、2009(平成21年)には、県の無形民俗文化財に指定されました。

この北浦地方の「サバー送り」「サバーサマ」のサバーとは、稲の害虫であるウンカなどを指します。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与える、体長2~3cmほどのバッタとセミのあいの子のような虫で、ウンカは「浮塵子」と書きます。「「雲霞のごとく」、という表現がありますが、こちらは「雲」や「霞」のように人が集まっている、という場合に使い、虫のウンカとは関係ありません。

「サネモリサマ」のほうですが、こちらは、源平合戦で亡くなった老武士・斉藤実盛(さいとう さねもり)のことです。その死にざまから、無念の死を遂げた怨霊が稲を荒らすようになったという伝説があります。その怨霊を鎮めるために「サネモリサマ」として崇めるようになり、害虫であるウンカの化身であるサバーサマをよそへ連れて行っていただくよう祈る行事として「サバー送り」が定着したようです。

この北浦地方のサバー送りは、6月末から7月上旬にかけて長門市の飯山八幡宮で、地域の人々が藁人形を作ることから始まります。長門市中心部から南の山の手のほうに行ったところにある、東深川藤中(ふんじゅう)にある古社です。奈良時代に湊の浜にまつられ、平安時代初期に現在地に移されたと伝えられています

この神社で、宮司さんたち主導で、街の有志が藁の馬に人が乗った形の「サバーサマ」「サネモリサマ」を作ります。騎馬武者姿のこの2体の藁人形が出来上がると、顔には、白い半紙を貼り付け、目・鼻・口を描き、頭には紙で作った兜をかぶせ、背には羽織代わりに貼った紙に「一○」と書き、腰には木の枝で作った刀を差します。

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ネットで見つけた写真で見ると意外に大きく、中学生の背丈ほどもあります。2日間の神事の後、地域の人たちがこの藁人形を担ぎ、幟(のぼり)を持ち、鉦(かね)や太鼓をたたきながら八幡宮を出発し、長いリレーが始まります。その後は、車に乗せ換え、初日は旧長門市域と長門市街の西にある日置(へき)との境に藁人形を置いて立ち去ります。そこからは、子ども会などが徒歩や車で中継点まで運び、そっと置いて立ち去ると、また送り出されます。

このリレーは日置のさらに西にある、油谷(ゆや)に入っても同様に行われます。その後も、西へ西へと進み、各自治会や子供会などにより、数週間をかけ、最終的には下関市豊北町の粟野のあたりに達します。このあたりは、美しい海岸線が続く場所で、大きな海水浴場こそはありませんが、碧い海と岩礁帯、そして青い空との組み合わせが魅力です。

このころになると、藁人形はかなり傷んでいますが、見つけた人によってさらに運ばれ、置く場所も一定せず、どこまで行くかはその年次第です。豊北町には、このさらに西に、粟野以上に美しい海岸線のある角島という景勝地があり、このあたりまで行ったこともあるのではないか、と想像します。

豊北町では、この藁人形を運べば不幸にならないとされてきたため、その昔から誰がしかが見つけると、こっそりと別の村へと運び出す、ということが繰り返されてきたようです。ただ、近年では伝承を知らない人が増え、道端に放置された藁人形は、雨風に打たれるまま、そのうち朽ちていく、といったこともあったようです。

しかし、有形文化財に指定されてからは逆に有名になり、新聞なども取り上げるようになりました。今では、藁人形を見つけた子どもたちが、そのいわれを寺社や地域の古老に聞いて地域の伝承や歴史を学ぶ、ということもあり、古くからあるこうした風習を、社会教育的な意味合いを込めて紹介されることも多くなっているようです。

豊北へ来たあとの藁人形の行方は不定ですが、最終的には海に流されることが多いようです。誰がどういう基準で最後を決めるのかはよくわかりませんが、不幸の源とされるものはいつかは始末しなければなりません。その行先が海のかなたというのは、そこに冥土があると信じられてきたからでしょう。

こうした虫送りは、昔から全国的に見られる行事でした。しかし、現在では広域にわたり送り継がれる例は全国的にも稀となり、この山口県の例のようにヒトガタを用いて行われるものはかなり少なくなりました。山口県内でも数少なく、貴重なものであり、今後こうしたかつての農耕文化を象徴するような行事は長く伝えていってほしいものです。

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ところで、このサバー送りの「サネモリサマ」の語源となった、斉藤実盛ですが、なぜ害虫のシンボルになったかといえば、それは「平家物語」に書いてあった逸話から来ているといいます。

斎藤実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたといい、その後実盛は民間伝承の中に取り込まれ、稲を食い荒らす害虫(稲虫)ということで定着していきました。馬が切り株につまづいた、というのはちょっと想像しにくいシチュエーションですが、それがきっかけとなったとしたら、稲の切り株さえなければ~、と実盛が死後の世界で強く思ったとしてもおかしくはありません。

実盛にすれば、稲憎しだったわけですが、これが高じて稲を食い荒らす稲虫(ウンカ)に例えられ、あげくは実盛虫とまで呼ばれるようになりました。そして、虫送りのことを実盛送りまたは実盛祭とも呼ぶようになっていきました。

それにしても、この実盛とは実際にはどんな人物だったのでしょう。

調べてみると、平安時代末期に生きた武将のようです。時代背景を見てみると、ちょうどこのころが武士が台頭し始めた時期であり、武力を背景にさかんに朝廷の政治に口出しをするようになったころです。その結果として保元・平治の乱が勃発し、それを契機に朝廷の権威がゆらぐようになり、やがては平清盛の率いる平氏が台頭し始めた、という時代です。

実盛は、越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現、埼玉県熊谷市)を本拠とする、長井別当と呼ばれる斉藤家の一子として、天永2年(1111年)に生まれました。このころの武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯でした。

源義朝といえば、あの有名な源頼朝・源義経らの父です。そのさらに父の源義家はもともとは畿内・河内の人でした。その死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていましたが、都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。その後勃発した保元の乱では、東国武士団を率いて戦功を挙げ、さらに勢力を伸ばしました。

実盛の本拠地は、現在の東京・埼玉にあたる武蔵国ですが、その南にある、現在の神奈川県にあたる相模国を支配していたのが、源義朝でした。逆に北側にある、上野国、現在の群馬県にあたる地域に進出し、支配をしていたのが、義朝の弟の義賢になります。

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実盛は初め、この兄のほうの義朝に従っていましたが、相模よりも大きな武蔵国と上野国を併せた地域で勢力を伸ばしていくほうが、今後関東地方に君臨していく上では有利と考えたのでしょう。義朝を見限って、やがて義賢の幕下に伺候するようになっていきます。

対する、義朝には、義平という長男がいました。通称は鎌倉悪源太といい、母は京都郊外の橋本の遊女とも言われ、源頼朝・義経らの異母兄にあたる人物です。勇猛果敢な武将として恐れられていました。

武蔵衆と上野衆の連合という、こうした動きを見ていたこの義朝の子、鎌倉悪源太・義平は、これを危険視し、ついに行動に出ます。そして、久寿2年(1155年)、義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。「大蔵合戦」といい、ともに源氏であるこの両家の身内争いは、その後それぞれの後ろ盾である宮中の勢力の争いにつながっていったため、保元の乱の前哨戦とも言われています。

この実盛という人は、もともと旧恩には篤い性格だったらしく、義朝の元を離れて義賢の元に伺候するようになってからも、義朝への義理を忘れていなかったようです。そのためもあり、義賢が討たれるとみるや、今後の関東の勢力地図は義朝中心になっていくとみて、再び義朝・義平父子とよりを戻し、再びその麾下に入りました。

ただ、旧知の恩に報いるタイプ、というよりも、時勢のバランスを見ながら世を渡っていく、八方美人的な人物だったというのが正しい見方かもしれません。

この義朝・義平父子の配下には、もう一人畠山 重能(はたけやま しげよし)という人物がいました。大蔵合戦では、源義賢を討った立役者で、義平はこの重能に、義賢の子で2歳になっていた「駒王丸」を探し出して必ず殺すよう命じました。

しかし、見つけたその幼子に刃を立てる事を躊躇した重能は、その子をそのころ義朝・義平父子の部下に戻っていた斎藤実盛に託します。義賢に対する旧恩を忘れていなかった実盛はこれを了諾し、重能から密かに預かった駒王丸を信濃国へ逃しました。

信濃国には、木曾地方に本拠を置く豪族、中原兼遠という武将がおり、実はこの兼遠の奥さんが、駒王丸の乳母でした。そういった縁もあり、兼遠は斎藤実盛から、駒王丸が源義賢の遺児であることを聞かされると、ひそかに匿って養育することを約束します。

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こうして、駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、長じてからは、育った土地にちなんで、「木曾」姓を名乗るようになります。義朝を叔父に持ち、つまり源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたるこの人物こそが、後に「旭将軍」と呼ばれ、頼朝・義経の最大のライバルとなる「木曾義仲」です。

保元の乱、平治の乱において実盛は、平家打倒を旗印に上洛する義朝の旗下、忠実な部将として奮戦します。しかし、やがて清盛率いる平家の逆襲に遭い、徐々に義朝は追い詰められていきます。東国で勢力挽回を図るべく東海道を下りますが、その途上度重なる落武者狩りの襲撃を受け、配下の重鎮たちは深手を負い命を落としていきました。

そんな中、義朝の三男の頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、兄の義平は別行動で北陸道を目指して一旦離脱します。そして再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党と共に清盛暗殺を試みますが、失敗してしまいます。

その後も、義平は近江国に潜伏して清盛を付け狙いますが、結局は平家の郎党に生け捕られ、六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けます。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまったといいます。

やがて義平は六条河原へ引き立てられますが、その斬首の太刀取りに向かい、「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言ったそうです。太刀取りが「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と言い返すと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答え、義平は斬首されました。このときの義平の享年はわずか20でした。

この話には後日談があります。それから8年後、この太刀取りだった、難波経房という人物は、清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行きました。すると、にわかに雷雨となり、激しい雨の中、突然稲光が光ったと思うと、あっという間に雷に打たれて死んでしまったといいます。はたしてこの雷を落としたのは義平だったのでしょうか。

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一方、父の義朝も平家軍との緒戦での連敗を重ねます。やがては馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せました。しかし、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受け、ついには殺害されました。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊と呼ばれる真言宗の寺院の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられています。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池があるそうです。

こうして義朝そその傘下の武将たちが次々と平家に捕えられ、命を落としていく中、義朝たちと行動を共にしていた実盛だけは、関東に無事に落ち延びました。

通常ならば、ここで命運が尽きてもよさそうなものですが、しかし、ここでも実盛はその八方美人的な才能?を発揮して生き延びます。

その後平氏隆盛の世の中になることに気付くと、今度は逆に平家に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されようになっていきました。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平清盛の嫡孫、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣しています。

その後、平氏軍は富士川の戦いにおいて、伊豆で蜂起した頼朝に大敗を喫します。

富士川の戦いとは、駿河国富士川で源頼朝らと平維盛が戦った合戦です。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国で再挙し、集めた東国武士による大軍と、都から派遣された平維盛率いる追討軍とが戦ったもので、この戦いに勝利した頼朝はその後、鎌倉幕府の基礎を東国で築いていくようになります。

この富士川の戦いでは、平氏軍が突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま戦闘が終結しました。この件に関しては以下のような逸話が有名です。

両軍が富士川を挟んで対峙していたその夜、頼朝方の武将、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れました。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ち、これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者までおり、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたといいます。

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、総崩れになって逃げ出し、遠江国まで退却しますが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていたそうです。

この話にはもうひとつ逸話があり、実はその敗因の原因のひとつには、実盛の存在が大きかったのでは、といわれています。このころ69歳になっていた実盛は、事あるごとに頼朝ら東国武士の勇猛さを日ごろから説いていたといい、このため、維盛以下味方の武将の多くはついには過剰な恐怖心を抱くようになったといいます。

その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまった、という説ですが、事実がどうかはわかりません。が、それだけ平家は武士というよりも公家化しており、維盛軍は烏合の衆だったわけです。戦わずして負ける、とよく言いますが、源氏側にすれば勝つべくして勝ったと言っていいでしょう。

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その後、実盛は72歳まで生き延びます。寿永2年(1183年)には、再び維盛らと、今度は木曾義仲追討のため北陸に出陣しました。

このころの義仲はというと、これに遡ること3年前の治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発したのち、これに賛同して行動をともにすることを誓います。兵を率いて北信で平家と戦う源氏方の救援に向かい、さらには頼朝勢力が浸透していない北陸に進出して、ここで勢力を広めていました。

実はこのころから、義仲と頼朝との関係は急速に悪化しており、同じ平家打倒を掲げていながら、両者は反目するようになっていきます。そのきっかけは、頼朝と敵対し敗れた、父義賢の弟、源義広(志田義広)と、同じく頼朝から追い払われた叔父の源行家が義仲を頼って身を寄せたことにあるといわれています。

この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化し、ついには直接戦うに至ります。そして、このわずか一年後の、宇治川や瀬田での戦いで、義仲は源範頼・義経率いる鎌倉軍に敗れ、その後近江国粟津(現在の滋賀県大津市)であっけなく討ち死にしています(享年31)。

木曾義仲は、頼朝や義経ほどではないにせよ、多くの武勇伝がある武将です。が、本項では主人公ではないため、ここではこれ以上詳しくは述べません。

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とまれ、このころはまだ義仲も頼朝の部下として北陸方面で元気に奮戦していた時期であり、破竹の勢いで、各地の平家軍を蹴散らしていました。無論、平家方に付いていた実盛とは敵味方同士です。

こうした中、勢力を強める義仲を討伐しようと、平維盛らは実盛らの旗下の兵を率いて、義仲が牛耳る北陸へと出陣してきました。しかし、加賀国の「篠原の戦い」では、緒戦の倶利伽羅峠の戦いで敗れたところへ、義仲らの源氏軍からの追走を受け、平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走しました。

平氏側は甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てては山林に逃亡しましたが、ことごとく討ち取られました。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経らは一人の供もなく逃げ去ったといいます。

味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られました。このとき、その死の原因となったのが、最初に述べた、稲の切り株に馬がつまづいたことだったとされるわけですが、なにぶん900年以上も昔の話であり、本当かどうかを証明するものは何もありません。

ただ、この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた、という話が残っているようです。このため首実検の際にもすぐには実盛本人と分かりませんでしたが、そのことを義仲は、側近の樋口兼光の口から聞きます。

この樋口兼光とは、義仲を実盛から預かった、あの中原兼遠の息子であり、義仲が駒王丸と呼ばれていたころのあの乳母の息子でもあります。乳母子として義仲と共に育ち、長じてからは忠臣として義仲に従って各地を転戦し、上の倶利伽羅峠の戦いなどでも重要な役割を果たしています。おそらくは、母である乳母伝いに、武蔵国にいたころの知人から実盛の近況を聞き及んでいたのでしょう。

義仲は、これを聞き、その首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったといい、これで実盛の死が確認されました。

このとき、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだといいます。

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こうして実盛の死から長い年月が経ちました。それから約230年後の室町時代前期の応永21年(1414年)3月のこと、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)というところで、浄土宗の僧たちが庶民とともに七日七夜の念仏勤行を行っていました。

そうしたところ、突然、白髪の老人が現れ、居合わせた「太空」という高僧から十念(「南無阿弥陀仏」を十回称える作法)を受けるやいなや、諸人群集のなかに立ち入り、そのまま忽然と姿を消してしまったといいます。

このことは噂として広まり、この老人こそが、源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたちました。太空はその供養を決め、卒塔婆を立てて、その霊魂をなぐさめたといいます。のちにこの話は、観阿弥とともに謡曲の祖といわれる猿楽師、世阿弥のもとにもたらされ、謡曲「実盛」としても作品化されました。

以来、浄土宗の盛んな地域を中心に、実盛の供養が慣例化するようになるとともに、謡曲として実盛が演じられる機会も増えることになりました。やがては、それらが虫送りの風習とつながり、住民の間では夏を迎える行事として定着するようになっていったのでしょう。

実盛が最後を迎えた「篠原の戦い」の古戦場は、現在の加賀市の片山津温泉から2kmほど北西に行ったところの、海岸に近い場所にあります。現在ここには「篠原古戦場跡実盛塚」がという碑とその説明文の立札が建てられています。また、ここから東へ1.4kmほど離れたところには、実盛の首を洗ったとされる池も残っています。

さらに、この実盛がかぶっていたとされる兜が、ここから10kmほど東の小松市内の多太神社に残されています。実盛が討たれたあと、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献したものとされ、現在、国の重要文化財となっているようです。同神社では、現在でも回向が行われているといいます。

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実は、江戸時代の元禄二年(1689)に、かの有名な俳人、松尾芭蕉もこの地を訪れています。

奥の細道の途次、旧暦の七月二十四日(現8月27日)に北陸路を金沢から小松へ入り
ここに宿泊して、句会を開催。多太神社にも詣でて、実盛の兜や袖を拝観しました。このとき、木曽義仲と斉藤実盛の数奇な巡りあわせに思いをはせ、詠んだといわれるのが、有名な次の句です。

「むざんやな 甲の下のきりぎりす」

句中の「きりぎりす」は、秋の季語であって、実際のキリギリスのことではありません。この場合、全国あちこちでよくみられる、ツヅレサセコオロギのことだと言われています。2~3cmの小型で黒い色をしており、農耕地、庭、草地に生息します。成虫は夏から秋に出現し、家屋内に入ってくることも多く、見たことがある人も多いでしょう。

中国では、このツヅレサセコオロギを喧嘩させて楽しむ闘蟋(とうしつ)という遊びがあり、この国の伝統的昆虫相撲競技です。子供の楽しむ純娯楽的なものではなく、闘犬、闘鶏、闘牛に近く、あるいはタイ王国の国技「ムエタイ」のような国技だといいます。

奇妙な名前ですが、漢字では「綴れ刺せ蟋蟀」と書くそうです。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来するそうです。

で、芭蕉の句に戻って、「むざん」とは、いたわしい、ふびんなこと。「いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。おいたわしいことである。」という鎮魂の感情を表した句です。

謡曲の「実盛」にも、「むざんやな」という表現があり、芭蕉の句はそれを引用したと言われています。

それにしても、コオロギが鳴き終わる秋は当分来そうもありません。ウンカやコオロギが死に絶え、私の大嫌いな夏の終わりが一日でも早く来ることを祈りつつ、今日の項を終えたいと思います。

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異邦人

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ふもとの温泉場のはずれから、「いろは道」、と地元では呼ばれている、のどかな農道があります。

このあたり一帯は、湯舟集落と言い、つい先週までに終わった田植えによって、見渡す限りが水郷になっています。その瑞々しい風景の真ん中に続く緩い坂道を歩くこと約30分、「奥ノ院」と呼ばれる古刹に辿りつきます。

正覚院ともいい、延暦10年(791)に18才の空海が修業をした場所といわれています。石段を上がったところに駆篭の窟(くりゅうのくつ)という奥行2~3mほどの幅広の洞があり、その上の岩壁からは「阿吽のノ滝」という小さな滝が流れ落ちています。

滝の下には、その飛沫をかぶりながら修行をしたという、弘法大師像が正面にしつらえられており、またその右手には「降魔壇」と呼ばれる石があって、その左右におよそ20体ほどの石仏が置かれています。

窟や滝、石の名前といい、弘法大師の像を中心になにやら巧妙に配置されたように見えるこれらはまるで何かの舞台装置のよう。もともとは背後に流れ落ちる、滝があるだけの山深い場所にすぎなかったでしょうが、土地の人々は、その景勝にインスピレーションを働かせ、ここを弘法大師が修行した場所としてしつらえたのでしょう。

伊豆へ引っ越してきてからここを訪れるのは、5回目くらいになるでしょうか。久々にこの場所を訪れたのは、新緑のころを迎え、さぞかしすがすがしい空気が味わえるだろうと考えたからでもあります。

が、この場所の持つ何やら不思議な魅力に惹かれるから、というのも偽らざるところでもあります。霊感のある私にはわかるのですが、ここを訪れるたび「何か」を感じることも多く、ある種のパワースポットと考えていいでしょう。

連休明けのことでもあり、その雰囲気を独占できると考えたわけでもあるのですが、なるほどこの日は明るい陽光の中、ひとっ子ひとりいない澄んだ空気を存分に味わうことができました。残念ながらこの日は邪念が多かったせいか、上からの宣託らしいものは何ら受け取ることはできませんでしたが…

私だけではなく、多くの人はこの地に何等かの「気配」を感じるようです。この妖しい雰囲気にふさわしい逸話も残っており、その昔、この地に天魔地妖が多く出て住民をも煩わせた、という話もあります。この地で修行を始めた大師様も、あまりにもその妨げになるといいうので、あるとき、妖魔が出たころを見計らい、天空に向かってエイやっ!と大般若経の文字を書いたそうな。

すると、妖魔たちはギャーっと叫びながら、あれよあれよと、この岩谷に封じ込められてしまったとか…

その名残がこの殺伐とした岩屋の風景なのだ、と言われればなんとなくそぅであるような、とすれば、そこここにちらばっている岩々の中には、風魔が閉じ込められたままなのか……

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この弘法大師こと、空海の名を聞いたことがない、という日本人は少ないでしょう。774年に生まれ、835年4月22日に61歳で滅したとされる、平安時代初期の高僧です。真言宗の開祖でもあります。

その名の通り、「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージを持つこの人物、歴史上もっとも有名な僧と言われます。天皇から「大師号」を下賜された僧は全部で27名いるそうですが、一般的に大師といえば、たいていの場合は弘法大師を指すことが多いようです。空海や弘法大師を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いでしょう。

全国津々浦々に逸話が残されており、弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるそうです。無論、わずか60年余りのその生涯で日本中のそれだけ多くの土地に出没して逸話を残すというのは不可能なこと。歴史上の空海の足跡をはるかに越えています。

しかし、そういう伝説が各地に残るということは、それほど人気があったということでしょう。弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたります。が、この中でも特に多いのが「弘法水」に関する伝説であり、日本各地に残されています。

これすなわち、弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった類の伝説であり、この「弘法水」なる伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといいます。ここ修善寺温泉もその一つであって、大師が手に持つ「独鈷(とっこ)」で岩盤を、トンっと突くと、あれよあれよと豊富な湯が湧き出たのが始まりといわれます。

無論そんなわけはありません。いろいろ歴史を調べてみると、空海が創建したとされる修禅寺が建立されたころ、といえば、ちょうど彼は唐への留学から予定より早めの帰国。朝廷からはもっと長い間勉強しろ、と言われていたのを切り上げて、無理やり帰国した時期のようです。その理由の朝廷への申し開きを前に、福岡で謹慎待機をしていた時期であり、こんな伊豆半島の片田舎までわざわざやってきて、修行に励んでいたはずもありません。

とはいえ、それも真実と思えるほどに、中国留学から帰ってきたのち、空海が布教のために活発にあちこちを渡り歩いたのは事実のようです。彼の弟子たちの一人が空海の布教を助けるため、伊豆あたりまでやって来た、といったことももしかしたらあったかもしれません。

上の悪魔退治の話もそのあたりから出てきたことと思われ、まったく弘法大師と関係がない、というのも言い過ぎでしょう。

弘法大師が、いろいろな不思議な術を使ったという話も弟子たちが広めたものでしょう。10人以上もいたといわれる高弟たちが、全国で真言宗を広め歩いている間、伊豆にも足を延ばし、村人に接待されているうちに、出たホラ話に尾ひれがついていった、というのが本当のところでしょう。

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とはいえ、法大師だけでなく、その弟子たちにも不思議な術を使う人がいたといい、こういう魔術を使う人のことを実は、「異邦人」と言ったりもするようです。

「異邦人」といえば、そのむかし、久保田早紀が唄ったエキゾチックな名曲を思い浮かべる人も多いでしょう。が、「邦人」とは日本人という意味ではなく、「邦」とは「くに」と読みます。すなわち「国」のことであり、つまりは日本には住んでいない、異国の人、「異人」という意味になります。

社会集団の成員とは異質なものとして認識された人物であり、異界の住人、異国の人、西洋人、普通でない性質を持つ人であり、また別の意味では、「優れた人」、そして不思議な術を使う人を意味し、共同体の外部から内部へ接触・交渉する形象、とも目されていました。

ちなみに、久保田早紀のこの歌は、中近東のどこかをイメージして作られたと思っている人が多いと思いますが、実は、この曲は西東京の国立駅前の大学通りの景色をイメージして書かれたものだそうです。

「子供たちが空に向かい 両手を広げ …」という歌い出しは、歌詞作りに苦しんでいた久保田さんが、美しい並木通りのある国立駅近くの空き地で遊ぶ子供たちの姿を電車から見、とっさにイメージとして写しとったものだそうです。本人もそんな不思議なイメージの曲が売れるとは思っていなかったのでしょう。のちに「そんな、ふとした瞬間に出来た曲が、ここまでヒットするとは思わなかった。」と語っています。

それはさておき、「異人」とはそもそもは、「まつろわぬもの」、つまり朝敵として排斥された人々のことです。世の中からのけ者にされた人々であり、やがては、乞食、難民、犯罪者、被差別民・障害者なども異人だと決めつけられるようになりました。

さらに時代が下るにつけ、その後は「もののけ」と呼ばれるような霊的な存在こそが異人であると考えられるようになり、これはすなわち、鬼や怨霊のことです。これらの「もののけに」ついて語る、語り部の多くが、「耳なし芳一」で知られるような盲目の障害者であったようです。一般的には「琵琶法師」と呼ばれ、彼らもまた異人と目されていました。

この当時、異人のことを「モノ」と呼び、ここから「物の怪(もののけ)」ということばができました。語り部であるモノが、モノ(まつろわぬもの・もののけ)を語ることが「物語」であり、すなわち、「物語」とは元来、語り部である琵琶法師たち、異人が異人の話を語ることにほかなりません。

この琵琶法師たちが語った異人は、やがては神・来訪神と同一、と考えられるようになっていきます。古い時代の共同体の人々は外との境界を区切り、秩序ある世界像を作ろうとしました。

伝承において異人は、福を運んでくる存在として、異人である神を歓迎する一方で、禍をもたらす存在として排除したり、犠牲に供するようになっていきます。今我々の周囲に数多くある神社は、そうした神に生贄を屠る場所でもあり、通常の生活から隔離する場所でもありました。

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日本だけでなく、こうした「異人」を忌とするイメージは全世界にあり、英語では“Outsider”(アウトサイダー)、“Stranger”(ストレンジャー)などと呼び慣わされています。極端な例では“Alien”(エイリアン)という表現もあり、こちらは宇宙からやってきた異人というわけです。

オーストラリア北方のメラネシアでは、年に一度季節を定めて他界から来訪する、こうした異人、神を祀る祭りを催すそうです。彼らはこのときの仮面仮装の神を「異人」と呼びますが、日本にも似たような風習があり、地方によっては呼び方がかなり異なります。

例として、秋田のナマハゲや沖縄八重山のアカマタ・クロマタなどがそれであり、村落あるいは社会の外部から来訪し幸福をもたらすとされます。日本の場合、山伏をはじめとする遍歴の宗教者などが形を変えたものといわれています。

古代の日本では、このように、特定の時代・地域に限定されない、外部からやってくる人を、「異人」として扱うという概念が生まれました。昔の人々は海の彼方にあると信じられている他界からこれらの人が定期的に来訪すると考え、こうした霊的存在を「まれびと」と呼びました。

「まれびと」とは「客人」を訓読みで読んだもの、という説もあり、本来、神と同義語であり、その神はあちらの世界から来訪するとされます。

時たまにしか来ないため、マレビト(稀人)と書く、という説もあります。時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神であり、民俗学者たちは、こうした呼びならわしの変遷を今日の日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりと考えているようです。

実際、今日でも、外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられます。その理由は経済的、優生学的なものが含まれます。

「優生学」というのは聞きなれないことばでしょうが、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義され、20世紀初頭に大きな支持を集めました。

難しそうですが、難しく考える必要がなく、その最たるものがナチス政権による人種政策です。要は、自分たちの人種だけが優れていると考え、他を排除するための方法論を確立するための学問というわけです。ただ、ここでいう優生学的とは、その逆で、排斥するのではなく、それを自分たちの共同体に取り込もうとするわけです。

他からやってくる異人たちこそ優れた人種と考え、食事だけでなく金品を与え、できるだけ長居をしてもらい、挙句の果ては嫁を持たせて、自分たちの子孫の能力を向上させていこうという試みであり、それこそが自分たちが生き残る術と考えたわけです。で、あるからこそ、来訪者、まれびとを大事にしたわけです。

この風習の根底には、異人を「常世」からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれます。「常世」とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていました。今も集落の中心や神社などに数多く残る、「常夜灯」はこの世とあの世の境の「結界」の証しであり、信仰の対象として設置されたものです。

常夜は、古くは、かくりよ(隠世、幽世)ともいい、永久に変わらない神域です。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされます「永久」を意味し、時代の変遷とともに「常夜」と表記するようになりました。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙したものに、「現世(うつしよ)」があります。

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やがて、農村の住民達は、毎年定期的に、この常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至ります。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになり、現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるといいます。

時代が下がるにつけ、「まれびと」とい言う言葉もその意味も失われていきましたが、異邦人である神が祭場で歓待を受ける、という風習は残りました。やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることとなり、神格化すらされるようになります。

上のメラネシアと同じような風習は秋田や沖縄以外の各地でも残っています。「万葉集」や「常陸国風土記」といった古い書物には、祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されているそうです。

さらに時代が下ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、彼らに対しても神様並の歓待がなされるようになりました。こうしたことから、「遊行者」と呼ばれる存在が社会的に認められるようになっていきますが、やがてそれは宗教的な意味合いを強めていきました。

仏教の世界では「遊行」とは、仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くことです。つまり、日本中を旅して説法を行った空海もまた、異人、異邦人であったわけです。ほかにも、行基、空也、一遍などがその典型的な例であり、彼らは「少欲知足」を主旨とし「解脱」を求め、全国を遊行して歩きました。

空海のみならず、こうした過去の有名な僧侶の遊行先には数多くの伝説などが存在します。また僧侶自身が知識人であるため、寺の建立、食文化の普及、農作物の普及など地域文化に数多くの影響を与えたようです。

修善寺という土地柄が成立した背景にもそうした影響がうかがえます。空海本人の行幸はなかったとはいえ、その弟子たちがその理想を伝え、師匠から学んだ土木技術や農業技術を地元に落としていったと考えるのもまた、不自然ではなく、ごくごく自然のことと考えられます。

このように、日本各地には、伝説の人物がそこに訪れたかどうかは定かではないものの、その恩恵を受け、地域の発展に大いに果たした、といった話が数多くあります。

一方では、「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という言葉があります。尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つといった説話のことです。「物語」の類型の一種であり、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるというたぐいの話です。

「源氏物語」では、光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となりますが、その後栄誉を得た復帰、伊勢物語では、藤原の業平が都を去り東国に下るものの、その後復権して、朝廷の重鎮になる、といったのがそれで、ほかにも平家の落人伝説や、源義経を主題とした復活話などが有名なところです。

実はあの人は死んでいなかった、という類の話でもあります。全国各地に残る弘法大師伝説もまたそうであり、日本中のあちこちで大師様は今でも生きていて、あそこで修行を続けておられる…といった話をよく聞きます。これももまた、貴種流離譚の一種なわけです。

昨今、本屋に行けば数多く居並ぶ「小説」もまた、そうした貴種流離譚にルーツを持ち、そこから派生した「物語」であり、そうした物語文学こそが、日本文学の原型だとする説もあるようです。

日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼるとされ、同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは世界的に類例が少ないといいます。

古くはあの世からやってきた異邦人、すなわちご先祖様や神様がもたらし、その結果形成された日本文化の上に根付いたのが日本文学、と考えると、今こうしてその日本語を使ってこのブログを書いていること自体、なにやら不思議な気分になってきます。

いわんや、私のブログなど文学といえるようなシロモノではありませんが、この先訪れる長雨の季節、ひとつやふたつ、きちんとしたものを読破してみたいと、考えたりもします。

どんなものがいいでしょう。空海は当代一流の文人としても知られていたようなので、そうしたもののひとつでも読んでみたいと思ったりもしますが、敷居が高すぎるでしょうか。

その昔、司馬遼太郎さんが「空海の風景」という小説を書いておられました。私は既に一度読んでいますが、もう一度読み返すのもよろしいかと。みなさんも遠い平安の時代の昔を、この本を通じて味わってみてはいかがでしょう。

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