こうもり傘の候

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梅雨も半ば、というか、沖縄はもう既に梅雨明けとのことで、本土でも夏がもうすぐそこまで来ている感があります。

とはいえ、まだまだ梅雨前線は活発なようで、先日は激しい雨が降ったばかりです。ここしばらくは、外出時に傘が手放せない日が続くことでしょう。

我が家の傘立てには、だいたい10本ぐらいの傘があり、このほか折り畳み傘も3~4本くらいあるようです。このうち、自分で使う傘はだいたい2本、折り畳み傘も1本くらいで、残りはタエさんの所有物、もしくは彼女の父母の遺品です。

家族構成にもよりますが、平均的なお宅では、だいたいどこの家庭でも、少なくとも5~6本くらいは傘があるのではないでしょうか。しかしそのうち、自分が使う傘の数となるとかなり限られてくるのでは。皆さんはいったい自分で使う傘を何本お持ちでしょうか。

ネットで統計的な平均データを調べてみると、一番多いのは、やはり普通の傘2~3本、折り畳み傘1~2本程度のようです。

「1本あれば十分」という人も多いようですが、その多くは男性で、女性は1本では足りないという人が多いらしい。

普通の傘は洋服に合わせて4~5本。折り畳みも気分で3~4本を使い分け、日傘も数本、というのが普通。そのときの気分に応じた色やデザインを選んでいるうちに自然に増えていた、という人も多いようで、傘もファッションの一つと考えている女性が大多数のようです。

一方で、男性には傘に関するこだわりは少なく、雨に濡れずにすめば何でもいい、また、傘は持って行かずに出先で雨が降ったら、買ってしまう、という、ズボラ派な人も多いかと思われます。私自身もそれほどのこだわりはありませんが、着て出る服装に合った傘を使いたい、という気分だけはあります。もっとも、常用傘が2本ではその要求に応える術はありませんが…

この傘、難しい漢字では「簦」とも書くようです。言うまでもなく、上から降下してくる雨を防護する目的の用具のことで、頭部に直接かぶって使う用具である「笠」と区別されます。現代においては、雨や雪などの降水時に体や持ち物を濡らさないために使うほか、夏季の強い日射を避けるために使います。

歴史的には欽明天皇の時代552年(欽明天皇13年)に、百済(くだら)の聖王の使者が、手土産にと持参した外来品が最初の傘だそうです。百済とは、古代の朝鮮半島南西部にあった国家で、聖王(せいおう)は、百済の第26代の王です。この当時、日本はまだ伝説の王女、卑弥呼が統治していたといわれるヤマト政権時代であり、そんな時代から傘はあったのか、と改めて感心する次第です。

ただ、このころの傘はまだ、主に日射を避ける「日傘」として用いていたようで、その後雨の多い日本独自の気象に沿った構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていったようです。

上述のとおり、古来、日本では「かさ」とは「笠」を指し、直接頭にかぶるものでした。ところが、朝鮮からの輸入品はこれとは別に「傘」と称すようになり、これは「さしがさ」を意味します。

傘の文字を見ればわかるとおり、八の字の下に縦棒があり、これは頭にかぶるものではなく、柄(え)を持って雨を防ぐ道具であることを意味します。柄は「がら」とも読み、このことから、当初は「がらかさ」と呼び、これが「からかさ」となり、時代が下るにつれて単に「かさ」と呼ぶようになっていきました。

「かさ」に「唐」の文字をあて、「唐傘(からかさ)」と呼ぶ場合もありますが、これは唐茄子や唐辛子と同様に、外国からの舶来品であることを示す際に使う名称です。

現在の日本語では、使う目的によって雨傘、日傘と呼んで区別します。また、日本の伝統的な工法と材質で作られたものを和傘、西洋の伝統的な工法と材質で作られたものを洋傘と呼ぶ区別もあります。

頭上を防御するための傘を広げることを「さす」といいますが、「刺す」ではなく「差す」が正しい使い方です。もともと頭にかぶる笠を指していたため、「笠をかぶる = 傘をかぶる」といっていましたが、これが変じて「傘をこうむる」となり、やがては「こうもり傘」と呼ばれるようになったという説もあります。

もっともこれはかなりゆがめられた俗説で、実際には、ペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから、こうした呼び方が生まれたようです。

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この「蝙蝠」という漢字。漢字テストで書けと言われても書ける人は少ないでしょうが、その字義を調べてみると、「蝙」の「(扁)は平たい、(虫)は動物」で、「蝠」が「へばり付く動物」の義で、「飛ぶ姿が平たく見え、物にへばりつく」というコウモリの生態から来ています。

「かはほり」、「かはぼり」とも呼ばれていたようで、これは「加波保利」と書きます。元々は、「蚊(カ)、屠(ホフリ)」で、これは、コウモリが蚊を大好物にしている生態からきています。古来、俳句では蚊食鳥(カクイドリ)とも呼ばれ、「かわほり」の呼称とともに夏の季語でもあります。

蚊を食すため、その排泄物には難消化物の蚊の目玉が多く含まれており、それを使った四川料理に「蚊の目玉のスープ」というメニューがあるというもっともらしい話があります。

コウモリのたくさんいる洞窟で蚊を食べるコウモリの排泄物を採取し、それを水で洗うと小さな眼玉だけは、固いキチン質なので消化されずに残ります。それを裏ごしで集めてスープ仕立てとすると、これが風味といいコリコリとした食感といい絶品だというのです。

が、実はこれは同様の製法で作られた蚊の目玉の漢方薬、「夜明砂(ヤメイシャ)」のことではないかといわれています。これを湯に浸して服用しますが、その薬用湯のことを「夜明菜心湯」、「夜明谷精湯」といい、これが四川料理と間違われたのではないか、というのが実のところのようです。

コウモリ(蝙蝠)は、脊椎動物亜門哺乳綱コウモリ目に属する動物の総称で、鳥の形をしていますが、哺乳類に分類されています。ネズミが飛んでいるように見えることから、別名、天鼠(てんそ)、飛鼠(ひそ)とも呼ばれ、全世界に約980種程がいます。その種数は哺乳類全体の4分の1近くを占め、ネズミ目(齧歯類)に次いで大きなグループとなっています。

極地やツンドラ、高山、一部の大洋上の島々を除く世界中の地域に生息していますが、これだけ、世界の至るところに生息できるようになったのには理由があります。

恐竜の栄えた中生代において、飛行する脊椎動物は、恐竜に系統的に近い「翼竜」と恐竜の直系子孫である鳥類がほとんどでした。この鳥類は現在の鳥類とは異なり、諸説ありますが、いわゆる始祖鳥のようなものだったと考えられています。

ところが、中生代の終わりごろに地球に大隕石が衝突したことが原因となり、恐竜とともに翼竜は絶滅し、始祖鳥のような恐竜由来の鳥類も系統が途絶えました。これにより、飛行する脊椎動物という生態系ニッチ(ある生物が生態系の中で占める位置)には幾分か「空き」ができました。

ここに進出する形で哺乳類から進化したのがコウモリ類であるといわれています。コウモリが飛行動物となった時点では、鳥類は既に確固とした生態系での地位を得ていたため、コウモリはその隙間を埋めるような形での生活圏を得ました。鳥類は樹上や空間をテリトリーとするのに対し、哺乳類は地上がその住処です。コウモリはその中間の世界に生息することができ、これがコウモリが世界中に普遍的に存在する理由、というわけです。

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コウモリは南極以外の全大陸に分布し、さらに海洋島にも広く分布しますが、他の哺乳類でこれほど他地域に生息するものはありません。クジラなどを除けば哺乳類のほとんどが、陸上動物であり、世界に広まったのは大陸移動による各大陸の分裂が原因です。

時間的にも空間的にもその広がりが大きく制限されてきたのに対し、コウモリ目は鳥類同様に翼による飛翔能力を持ち、海などによって遮られた場所でも自由に移動できました。哺乳類のように大陸移動による広がりを待たずして全世界に散らばることができたため、これほど多くの種が蔓延することになったわけです。

ところが、コウモリの直系の祖先にあたる動物や、コウモリが飛行能力を獲得する進化の途上過程を示す化石は未だに発見されておらず、そのご先祖様がネズミだったのかリスだったのか、あるいはもっと別のものだったのか、という点は明らかになっていません。

恐らく彼等は樹上生活をする、何等かの小さな哺乳類であったであろう、という推測だけであり、この小動物が前肢に飛膜を発達させることで、樹上間を飛び移るなど、活動範囲を広げていき、最終的に飛行能力を得たと思われます。そういう意味では、ムササビやモモンガのような動物がコウモリの先祖だったのかもしれません。もっとも現在の生物学的分類では、ムササビやモモンガはネズミやリスの仲間ですが。

確認される最古かつ原始的なコウモリは、アメリカ合衆国ワイオミング州の始新世初期(約5200万年前)の地層から発見された化石に見られます。この時期には既に前肢は翼となっており、飛行が可能になっていたことは明白です。ただ、化石から耳の構造を詳細に研究した結果、反響定位、いわゆるレーダーの能力を持っていなかったことが判明し、コウモリはまず飛行能力を得たのちに、反響定位能力を得たことが分かっています。

コウモリは、グライダーのように滑空するムササビやモモンガとは違い、翼をもち、多くの鳥類と同様、羽ばたきながら完全な飛行ができます。鳥類に匹敵するほどの完璧な飛行能力を有する哺乳類はコウモリのみです。前肢が翼として飛行に特化する形に進化していますが、コウモリの翼は鳥類の翼と大きく構造が異なっています。近くでコウモリを見たことがある人はおわかりでしょうが、鳥類の翼は羽毛によって包まれているのに対し、コウモリの翼は飛膜と呼ばれる伸縮性のあるゴムのような膜でできています。

この飛膜はその人差し指以降の指の間から、後肢(後ろ足)の足首までをカバーしており、腕と指を伸ばせば、文字通りコウモリ傘のようになって広がり、腕と指を曲げればこれを簡単に折りたたむことができます。洞窟中で、自分の飛幕にくるまってミノムシのようにぶら下がっているのを見たことがある人も多いでしょう。

実はこれは、コウモリは鳥と異なり、後ろ足は弱く、立つことができないためで、休息時や睡眠をとるときは後ろ足でぶら下がる以外に方法がないためです。ただ、いつも後ろ足でぶら下がっているだけではなく、前足の親指には爪があって、この指でぶら下がることができ、これによって排泄などもできます。また、場合によってはこの指と後ろ足で、地上を這い回ることができます。

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コウモリが超音波を用いたレーダー能力を持っていることは良く知られています。その能力は、前述のとおり反響定位(エコーロケーション)といいます。自分が発した音が何かにぶつかって返ってきたもの(反響)を受信し、その方向と遅れによってぶつかってきたものの位置を知る能力のことです。

各方向からの反響を受信すれば、周囲のものと自分の距離および位置関係を知ることができ、音による感受法でありながら、音を聞くだけの受動的な聴覚よりも、むしろ視覚に近い役割を担っています。コウモリは口から間欠的に超音波の領域の音を発して、それによってまわりの木の枝や、虫の位置を知ります。虫を捕らえる直前には、音を発する頻度が高くなります。

我々人間のような哺乳動物は目に入る光によって、対象が何であるかを知ります。光は伝達速度が速く、到達距離が長く、波長が短いので、素早く遠くから多量の情報を得るには適しています。ところが、光が遠くまで届くのは空気中のことであって、水中では、光は強く水に吸収されるので、100m先も見通せません。また土中ではそもそも光は通りません。

このため、夜や水中など、光が十分に利用できない条件下では、通常の動物は遠くの敵や餌の情報をキャッチできません。しかし、コウモリは音波を使うことで、遠方にいる彼らの情報を得ることができます。

音は水中では空中よりはるかに速く伝達します。空気中での音の伝達速度は340m/s程度ですが、水中では1,500m/s近くに達し、土中ではさらに速くなります。また、波長が短いほうが、跳ね返ってきたときに得られる情報量が多いので、高い音ほど有用であり、人の可聴域以上の音、すなわち超音波が用いられるわけです。

種によって異なりますが、コウモリは主に30kHzから100kHzの高周波の超音波を出し、その精度はかなり高く、ウオクイコウモリのように微細な水面の振動を感知し、水中の魚を捕らえるものまでいます。目の前の獲物だけでなく、次の獲物の位置も先読みしながら最適なルートを飛んでいるといわれています。

コウモリの存在する地域における夜行性の昆虫やカエルなどは、このコウモリの発する超音波をとらえて、見つからないようにする器官を備えているものすらいます。コウモリの餌のひとつであるガの中には、コウモリの発する音を聴くための耳をもち、コウモリの反響定位音をとらえると、羽を閉じてストンと落下するなどの回避行動をとるものがいるといいます。

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日本で一番よく見られるコウモリは「アブラコウモリ」と呼ばれ、体長5cmほどの小さいコウモリです。その重さはわずか10gほどしかなく、その小さな体を活用し、民家の隙間から侵入してきます。暖かな住宅を好んで天井裏などを巣にしてしまうため別名イエコウモリとも呼ばれています。

同じく天井裏などに住むヤモリは「家守」とも書かれるほどで、あまり人間に危害を加えることもないため、それほど毛嫌いされることはありません。ところが、このアブラコウモリはいわゆる害獣として嫌われることも多く、日本のほぼ全域で目撃・被害があります。

基本的に冬は冬眠をし、春から秋が活動期になりますが、特に真夏には活動が活発化になり、繁殖期にあたるこの時期には1度に3匹ほども出産します。雀などに比べれば声は比較的小さく、また夜行性であるため昼間はおとなしくしています。このため、巣があることに気付かない家庭も多く、気がついたら何年も住みついていて100匹以上天井裏にコウモリがいたという事例もあります。

同じ場所に大量の糞をしますから、いつのまにやら天井から糞が染み出してきたり、乾燥した糞が空気中に飛散して感染症を引き起こすといったこともあります。また、コウモリ自体にノミやダニなどが寄生していることが多いので布団などに侵入し二次被害を与える事例も多くあります。コウモリは狂犬病のウイルスを持っている可能性もあります。日本では1956年(昭和31年)以降の狂犬病の発症例はないので、あまり心配はありませんが、用心するにこしたことはありません。

このように人に多くに被害を与え危険な生物と思われがちなコウモリですが、蚊だけでなく、蛾やゴキブリといった虫も餌としており、農家にとっては「益鳥」とみなす人も多いようです。

また鳥獣保護法により保護されており、無許可での殺処理が禁止されています。このため、その駆除のためには、生息範囲や侵入口などを十分に調べた後に追い出しを行い、二度とコウモリが戻って来ることができなくなるように侵入口を塞ぐ施工をすることが基本です。それゆえ、こうした狭い出入り口を見つけ、駆除にあたるのが得意なコウモリ駆除の専門業者、という様態が成立し、各地に多数存在します。

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日本では、このアブラコウモリを含めて約35種のコウモリが確認されています。移入種を除く約100種の哺乳類のうち、約3分の1に当たり、約4分の1に当たるネズミ目24種を抑えて、最多の種数を擁しています。また、近年は琉球列島の島々に固有種が発見されているとのことです。

この中にはアブラコウモリのような、嫌われ者もいるわけですが、個々の種についてみれば、個体数が少ないと判定されているものもあり、多くの種がレッドデータブック入りとなっています。

特に、森林性のコウモリについては、その生活の場である自然の広葉樹林と、それ以上に、住みかとなる樹洞ができるような巨木が極めて減少しており、棲息環境そのものが破壊されつつあるようです。洞穴に生活するものは、集団越冬の場所などが天然記念物となっている場所もあります。

ただ、日本ではコウモリを専門とする研究者が少なく、その実態が必ずしも明らかになっていないようです。彼らの生活そのものも、未だに謎が多い部分が多いそうです。ユビナガコウモリという集団繁殖する種などについては、もしかしたら季節的に大きな移動を行っているのではないか、といわれていますが、具体的な習性については、現在研究が進められつつある段階といいます。

コウモリの文化的な面をみていくと、日本では、アブラコウモリのように嫌がられる種もいますが、歴史的にコウモリを嫌忌する、といった伝統はないようです。中国では、コウモリ(蝙蝠)の「蝠」の字が「福」に通ずることから、幸福を招く縁起物とされ、また「蝙蝠」 (biānfú) の音が「福が偏り来る」を意味する「偏福」 (piānfú) に通じるため、幸運の象徴とされています

百年以上生きたネズミがコウモリになるという伝説もあり、長寿のシンボルとされており、このため、日本もこうした中国の影響をうけてきたようです。西洋の影響を受ける明治中期ごろまでは日本でもその影響で縁起の良い動物とされており、日本石油(現:JXエネルギー)では1980年代初頭まで商標として用いられていました。

また福山城のある「蝙蝠山」を由緒とする広島県福山市の市章はコウモリをあしらったものであり、長崎のカステラ店福砂屋などはコウモリを商標としています。さらに、使用例は少ないようですが、コウモリの家紋も存在します。

キューバでも蝙蝠を家紋とした例があったようで、絶滅した先住民タイノス(タイノ族)族はコウモリが健康、富、家族の団結などをもたらすと信じており、同地で創業した世界的ラム酒バカルディのロゴマークに採用されています。

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昭和40年代に流行った、アニメの黄金バットや、アメリカンコミックが発祥のバットマンのように正義のヒーローのモチーフとして扱われることもあります。昔の仮面ライダーでは、蝙蝠男という悪役がいましたが、平成版の仮面ライダーシリーズにおいてはコウモリを模したヒーロー、「仮面ライダーナイト」、「仮面ライダーキバ」などが登場しています。

このように、日本人にとってコウモリとはそれほど悪いイメージがある動物ではないようです。

ところが、欧米、とくにヨーロッパでは嫌われものであることが多いようです。これは、コウモリの中には吸血種もいることから、この部分だけがクローズアップされたためです。吸血鬼の眷属、あるいはその化身として描かれるようになったコウモリですが、その中でも象徴的に描かれるのが、映画や舞台にもなった吸血鬼ドラキュラです。

怪力無双、変幻自在、神出鬼没で、コウモリだけでなく、ネズミ、フクロウ、ガやキツネ、オオカミなどを操り、嵐や雷を呼び、壁をトカゲのように這うことができる怪物です。オールバックの髪型で夜会服にマントを羽織っており、その鋭い牙で美女の首に噛みついて血をすするその姿は、吸血コウモリの姿を模したものと言われています。

しかし、実際に他の動物の血を吸う種(チスイコウモリ)はごくわずかです。たいていは植物(主に果実)や虫などの小動物を食べます。そもそも吸血性のコウモリは中央アメリカから南アメリカにかけてのみ分布しており、ヨーロッパには生息していません。

こうした吸血コウモリの情報がヨーロッパに伝わったのも、ヨーロッパ人の新大陸進出後のことで、コウモリが悪者扱いされるようになったのも、比較的最近のことといえます。

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このほか、天使が背中に白い鳥の翼を持つとされるのに対し、いわゆる「悪魔」は背中にコウモリの翼を生やしている姿で描かれることが多いようです。肌が紺色、あるいは黒や赤色で、目は赤く、とがった耳、とがった歯を有する裂けた口を持ち、頭部にはヤギのような角を生やし、矢印みたいに鋭く尖った尻尾を持ちます。そしてとがった爪の付いた黒い翼は悪魔のシンボルであり、その特徴のほとんどがコウモリを模したものとわかります。

その昔、「グレムリン」という妖精?の映画がヒットしましたが、こちらも現代版の悪魔といえ、そのモデルはおそらくコウモリではないでしょうか。

一方、コウモリは日本ではあまり悪者のイメージがありません。が、「強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者」の意で、「鳥無き里の蝙蝠」という諺があります。織田信長はこれをもじって、四国を統一した土佐の大名、長宗我部元親を「鳥無き島の蝙蝠」と呼びました。

これは信長が初めて例えたのではなく、平安時代の歌からの引用です。平安末期の歌人和泉式部の歌には、コウモリについて歌ったものが多く、その中に「人も無く 鳥も無からん 島にては このカハホリ(蝙蝠)も 君をたづねん」という歌があり、これからとったもののようです。人も訪れず、鳥もいないこの島では、君を訪れるのはコウモリぐらいのものだろう、といった意味でしょう。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げました。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。豊臣政権時の天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かいました。

しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死ましした。信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにしたといいます。信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量がありましたが、愛息の死後はそれまでの度量を失い、家中を混乱させたままこの世を去りました。

信長が、「鳥無き島の蝙蝠」に例えたとおり、このように晩年の元親のイメージはあまりいいものではありません。「鳥無き里の蝙蝠」の諺があまり良い意味に使われないのはこのことも関係があるようです。

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このほか、コウモリを悪者にした逸話に、イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」というのがあります。

昔々、獣の一族と鳥の一族が戦争をしていました。 その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣の一族が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です。」と言いました。一方、鳥の一族が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です。」と言いました。

その後、鳥と獣が和解したことで戦争が終わりましたが、幾度もの寝返りを繰り返し、双方にいい顔をしたコウモリは、最後には鳥からも獣からも嫌われ仲間はずれにされてしまいます。双方から追いやられて居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、夜だけ飛んでくるようになった、というものです。

この寓話からは、いつも八方美人で、何度も人にウソとついては世を渡っている輩は、やがては誰からも信用されなくなる、という解釈ができます。

秘密保護法やら共謀罪やらを、その都度、都合のいいことを言って人を騙し、無理やり自分の都合の良い理屈を押し通してきた、どこかの国の政治政党と似ており、こうした連中はやがて信用されなくなるに違いありません。

が、別の見方では、獣と鳥の戦争に巻き込まれなかったコウモリ一族は、その後洞窟の中で安泰に暮らすことができるようになったわけです。これは、状況に合わせて豹変する輩は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおす、という解釈もできるわけで、悔しいけれども、今の政治状況に似ていなくもありません。

その洞窟が、ニッポンという名の狭い国でないことを祈るばかりですが…

片や、オーストラリアにも良く似たストーリーの「太陽の消えたとき」というおとぎ話が伝わっており、こちらの話の結末は少し違っています。

この話では、カンガルーを大将とする動物たちと、エミューを大将とする鳥たちが大戦争を繰り広げます。動物からも鳥からも仲間扱いされていなかったコウモリは、どちらかの勝利に貢献すれば仲間にしてもらえると考えました。最初は鳥が優勢だったので、コウモリは得意のブーメランを武器にして鳥の味方をしました。

ところが、しばらくすると動物が盛り返したので、コウモリは動物側に寝返ります。やがてカンガルーとエミューの一騎討ちになりますがが、お互いに争いが馬鹿らしくなっており、仲直りしようということになります。コウモリは勝ち負けがなくなったことにがっかりして洞窟に帰っていきました。

こうして平和は戻りましたが、今度は太陽が昇らなくなるという大事件が起こります。太陽は争いを繰り広げる鳥と動物に呆れ果てて、空に顔を出すのをやめてしまったのです。動物と鳥たちは太陽が帰ってくるよう知恵を絞りましたが、誰一人としてその方法が思いつきませんでした。

しばらくしてトカゲが、コウモリに頼めば何とかしてくれるのではないかと提案します。カンガルーとエミューからの懇願を受けたコウモリが、地平線に向かって3度ブーメランを投げると、太陽は再び顔を出しました。そして、それ以来動物と鳥は恩を忘れず、朝日の出る頃にコウモリを見かけても、いじめたりしないようになった、とのことです。

我が国にも、四方の大国にブーメランを投げ、世界中の人々の信頼を獲得できるコウモリのような指導者が現れてくれるのを祈るばかりです。

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あじさいの季節に ~下田市

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カラ梅雨であるそうな。

それでもわが家の庭のあじさいは、今年もたくさんの青い花をつけてくれています。

ここ修善寺では、青いあじさいをよく見かけるような気がします。あじさいは一般に酸性度の高い土地では青くなり、アルカリ性の強い場所では赤くなるそうです。修善寺一帯は、ほとんどが古火山である達磨山からの流出物でできている土壌が基盤であり、火山性土壌にはアルミニウムがたくさん含まれているとか。

これが溶け出し、酸性になりやすいため、青いあじさいになりやすい、というもっともらしい説なわけですが、本当でしょうか。

実際、同様に火山性土壌の多い伊豆では、あちこちで青いあじさいを見かける機会が多いように思います。が、品種の改良によって、酸性度が強い土壌でも赤い色になるあじさいもあるようで、また土や肥料を調整してわざわざ赤いあじさいにする場所もあるとのこと。

伊豆での紫陽花の名所、下田公園もそのひとつなのでしょう。長年、地元の人によって数多くの品種が育てられてきたこの地では、いろいろな色のあじさいが楽しめます。

下田市内の南西部の海に面した丘の上にあり、毎年6月末まで「あじさい祭」がおこなわれており、この時期には、およそ15万株、300万輪のあじさいが咲き乱れます。丘全体があじさいに覆われているようで、初めてこの青と赤の氾濫を見た人は圧倒されるようです。

この下田公園、実はその昔の城跡です。九州平定を終え、天下統一に向け、歩みをすすめていた豊臣秀吉に対し、後北条氏が秀吉方との対決に備え、南伊豆防衛の拠点として築城したもので、伊豆半島でも最大規模の山城です。

天正18年(1590)3月、総勢1万人を超えたともいわれる豊臣方の軍勢が下田に押し寄せたとき、これを迎え撃つ城将・清水上野介康英をはじめとする軍勢は、わずか600名だったといわれています。ここでの篭城戦は50日にも及びますが、秀吉方軍の海上封鎖及び陸上での包囲作戦により、後北条側はついに力尽き、4月下旬には開城されることとなりました。

6月には後北条氏の拠点であった小田原城も開城し、前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老などほぼ全員が切腹。豊臣家と親交のあった一部の一族が助命されましたが、そのほとんどは高野山などに追放になりました。

北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5,000石を治め、当城主となりました。しかし、忠次の子・尊次は慶長6年(1601年)に三河国の田原城へ転封となり、以後、下田城は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配するところとなり、廃城となりました。その後、長い間ただの木々が生い茂るうっそうとした森でしたが、戦後、地元の有志によりあじさいの植栽が始まり、現在では静岡県、いや日本を代表するほどの紫陽花の名所となりました。

この下田城、山城とはいいますが、標高は約70mにすぎません。「鵜島山」という正式名称があり、その頂上に主郭(現在の天守台跡)を置き、そこから伸びる尾根の要所には曲輪(くるわ)が設けてありました。曲輪とは、役割や機能に応じて城内で区画された小区域のことで、城の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓などが建てられていました。

現在あじさいが多数植えられている場所の多くは、こうした城としての機能を保つ設備で覆い尽くされていたに違いなく、現在のような公園としての風情などはこれっぽっちもなかったでしょう。

主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられ、戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯ました。最南端のお茶ケ崎や狼煙埼に物見櫓があり、直下の「大浦(和歌の浦とも)」とよばれる船溜りがありました。ここに、戦国時代最強とされた伊豆水軍の艦隊が集結するとともに、常時城の周りの海の警戒にあたっていました。

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この城を造営した、清水康英という人は、後北条氏の譜代の家臣で北条家第3代当主である北条氏康の傅役(もりやく)、つまり養育係でした。さらに母は、氏康の乳母でした。このことからも、伊豆へ進出してきた後北条家と、地侍であった清水氏とが強い関係を築いていたことがうかがわれます。

康英は、後北条氏に帰依した数ある伊豆衆のうちの五家老の一人にも数えられる実力者であったようです。訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆も務めており、氏康の参謀でもあったと思われます。

ちなみに、下田城が落城した後、康英は河津に退去し、家臣らに籠城の苦労を謝して離別。自らは菩提寺である河津の三養院という寺に入って隠栖。天正19年(1591年)に59歳で没しました。

清水康英はまた、伊豆水軍の頭領でもありました。もともとは三島宿以南の伊豆半島を中心とした地域を拠点とした土着の水軍で、北条早雲が興した後北条氏が伊豆に腰を据えるようになってからは、清水康英の配下に組み込まれ、以後、「北条水軍」ともいわれるようになりました。

伊豆水軍は、北条早雲が伊豆に侵攻してきた際にその配下に下った在地領主が中核となっており、土肥(現伊豆市)の富永氏や、西浦江梨(沼津市)の江梨鈴木氏、三津(沼津市)の松下氏らが含まれていました。それに加えて三浦半島に勢力を持った旧三浦水軍や、後北条氏の始祖、北条早雲の出自といわれる熊野から招かれた梶原氏を組み込んで組織されていました。

伊豆水軍は、この下田条とは別に、西伊豆、現在の沼津市西浦に位置する長浜城を本拠にしており、北方から伊豆に侵入してくる敵の脅威に常におびえていました。実際、付近の武田氏、今川氏と対峙し、駿河湾では幾度となく武田氏の水軍と衝突していました。

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そうした中、現在では戦艦に相当する「安宅船」を有した強力な艦隊を伊豆水軍は編成しました。上の秀吉の下田城攻めに遡ること10年前の、天正8年(1580年)には、駿河湾海戦で武田水軍と衝突し、その際、大砲を積んだ、特大の安宅船を用いたことが記録されています。

この安宅船は、あたかぶね、と呼びならわすことが多いようです。が、阿武船(あたけぶね)という呼称もあるようです。由来は定かではありませんが、戦国時代に淡路近辺を根拠としていた安宅氏からきているという説、巨大で多くの人の乗り組める船であったから「安心できる家(宅)→安宅」となったという説、「暴れる」という意味があった「あたける」という動詞から来ているという説、などなどさまざまです。

北陸道の地名である安宅(あたか、現石川県小松市)と関係あるという説、陸奥の阿武隈川流域を指した古地名の阿武と関係があるという説などもあります。

言葉の定義はともかく、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船です。巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ませんが、戦闘時には数十人から百人単位の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができたといわれます。

室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の「関船」と関船をさらに軽快にした「小早」があり、安宅船がこれらで構成される艦隊の中核を成していました。

近代艦種でいえば、安宅船が戦艦に相当し、関船が巡洋艦、小早は駆逐艦に例えられます。近代的な戦艦や巡洋艦、駆逐艦の役割と、この時代の安宅船・関船・小早の用途分担は比較できるものではない、とはよくいわれます。が、快速で、火縄銃や弓矢による射撃を得意とする関船は、中型高速で艦砲射撃の得意な巡洋艦とよく似ています。また、小型俊足で、焙烙火矢や投げ焙烙(ほうろくひや・なげほうろ、火薬を用いた兵器)を主要武器として用いていた小早は、魚雷を主兵装とする現在の駆逐艦と似ています。

戦艦に例えられる安宅船のほうは、遣明船でも使われた二形船(ふたなりぶね)や伊勢船(いせぶね)などの大型和船を軍用に艤装したものです。船体構造は航(かわら)と呼ばれる板材を船底部に置き、前後両側に重木(おもき)というL型の丈夫な部材を用いました。何枚もの横板を重ね継ぎして周囲を囲った上で、横断方向には多数の船梁(ふなばり)を渡して補強しており、これは「棚板造り」と呼ばれる構造です。

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室町時代以前、日本では、古代には諸手船(もろたぶね)と呼ばれる同じ構造の小型の手漕ぎ船が軍事用に使われていたことが記録にあり、これが、のちの安宅船の起源と考えられます。

中世の前半には海上で活動する軍事勢力が活躍するようになりますが、もともとは水軍専用に建造された軍船はなく、漁船や商船を陸戦で用いられる楯板で臨時に武装したものを使用していました。つまりは、軍事目的で開発されたものではなく、民間利用の商船の外壁を固めて軍船として利用したのが始まりと考えられます。

この当時の日本の有力者には、海外に出かけてまで紛争に関わるような力はなく、海での戦いといえば、国内の閉鎖水域で断片的な海戦を繰り返す程度でした。従って欧米のような本格的な外洋船の建造には至らず、内海限定で作られた軍船であったため、構造的には弱いまま建造技術が固定されました。

西洋の船が応力を竜骨や肋材を使用し強度を得ることで大型化をなしとげたのに対し、日本の船舶はそのような構造を持たず、古代の丸木舟以来、外板を継ぎ合せたのみの構造で引き継がれました。

ヨーロッパでは、8-10世紀にはヴァイキングと呼ばれたノルマン人たちがガレー船と呼ばれる独特の丈夫な船を駆って西ヨーロッパの海を支配していたのに対し、日本ではこうした安宅船のような大きな和船の登場すら、14世紀の室町時代中期以降のことでした。

このように、日本の造船技術はこの当時のヨーロッパ諸国と比べて極めて見劣りがするものでしたが、片や船を集めて「船団」として運用する技術には長けており、戦国時代に入ると、戦国大名により、いわゆる「水軍」の組織化が進みました。

彼らは当初は海賊行為を主体とした小規模な集団に過ぎませんでしたが、陸上で武士階層の成立が進んでいく中、海上でも同じように海上の武力をもって世業とする海の武士たちが登場するようになり、これが水軍と呼ばれるようになっていきました。

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戦国大名の側から、積極的に海賊衆と呼ばれていた彼らに水軍の編成に対する働きかけを行い、警固衆として陸上の土豪や国人と同じように家臣団に組み入れるようになり、農村に対する動員とともに漁村に対しても水軍への参加を呼びかけ、組織としての補強を行いました。

とくに、後北条氏では、相模田浦(現横須賀市田浦)や武蔵本牧(現横浜市本牧)の漁民に対して、葛船と呼ばれる大型漁船での操業を許可するという漁業上の特権を与え、その代わりに有事に際して水軍として参加を要請する、といった形での動員が行われました。

水軍の兵士たちは、平時には漁業に従事しており、後北条氏の必要に応じて水産物を上納する義務を負っていましたが、一方ではそれらを自らの糧とすることが許されていました。しかし、いったん戦闘が勃発すると戦闘員として動員されることも課せられており、平時の漁民と有事の水軍兵士という二つの顔を使い分けていました。

毛利氏、武田氏、後北条氏などの有力な大名もまた、こうした平時は漁民、有事は兵士として機能する便利な民の使い方を重要視するようになりました。初め、諸大名配下の水軍は少数にすぎませんでしたが、あちこちの大名に便利に使われるうちにその技術も洗練されていき、やがては主要な軍事集団に成長しました。

大名たちは、船の構造にも詳しい彼らを徴用し、さらには軍船を建造させるようになります。そして、彼らが建造した大型軍船は、いつの時代からか総称して「安宅」と呼ばれるようなっていきました。

安宅船は、小さいものでは500石積から、大きいもので1000石積以上の規模を誇り、これを千石船と呼びました。「石」はこの時代の米の分量を示す単位であり、一石は100升(1升は1.8リットル)になります。米一石=40貫(150kg)であり、これからすると千石積船=150トンということになります。積載能力は150トンということになり、排水量は約200トンと推定されます。

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200トンというと、どれぐらいの大きさか想像しかねると思いますが、漁船でいえば遠洋漁業に使えるようなかなり大型な船になり、また海上自衛隊のミサイル艇がだいたい200トンありますから、現在の軍艦でいえば大きさとしては小型の駆逐艦程度、といったところでしょう。ただ、この時代の軍艦の動力は風力もしくは人力ですから、大きさだけの比較は適当ではありませんが。

比較と言えば、船としての形状も現在の船とはまったく違っており、船首上面が角ばった形状をしており、矢倉と呼ばれる甲板状の上部構造物も方形の箱造りとなっているのが特徴です。上部構造物は船体の全長近くに及ぶため、総矢倉と呼ばれ、聖書に出てくるノアの方舟のようなずんぐりとしたものでした。

この形状によって確保した広い艦上に、木製の楯板を舷側と艦首・艦尾に前後左右の方形に張って矢玉から乗員を保護します。もともと速度の出ない大型船であるため船速は犠牲にされ、楯板は厚く張られて重厚な防備とされました。楯板には狭間(はざま)と呼ばれる銃眼が設けられ、隙間から弓や鉄砲によって敵船を攻撃しました。

また、この時代は「移乗攻撃」がかなり有力な攻撃方法でした。このため、敵船との接舷時には楯板が外れて横に倒れ、橋渡しとできるようになっていました。楯板で囲われた総矢倉のさらに上部には箱状の「屋形」が重なり、外見の上でも城郭施設に似ています。このため、その構造と重厚さから、安宅船はしばしば海上の城にたとえられます。

戦前に活躍した日本や欧米の戦艦も城のような巨大な上部構造物を擁していましたから、そうした点からも、安宅船と現在の戦艦がよく比較されるのでしょう。

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特に大きな安宅船には二層から四層の楼閣があり、これは、高い望楼があればあるほど索敵が容易になるためです。この当時の和船に共通する船体構造としては、板材を縫い釘とかすがいによって繋ぐことが基本であり、西洋や中国の船のように「背骨」としての、いわゆる「竜骨」はありません。

現代の自動車や、鉄道車両、航空機などのように、外板で応力を受け持つ構造を「モノコック構造」といいますが、安宅船もまさにそうした構造でした。竜骨などの内部の骨組みが必要無い分、軽量で頑丈な構造船を建造することができましたが、一方では外壁一で作ったいわば風船のような構造であるため、衝突や座礁等による漏水には非常に弱かったようです。

これはとくに、自らの体当たりで敵の船を沈める、といった攻撃が不可能である事を意味し、大きな欠点となりました。西洋の軍船の船首には古代から「衝角」という喫水線下に取り付けられる体当たり攻撃用の固定武装具が設けられるのが普通でしたが、これは船体が丈夫な竜骨で作られているからこそできる技でした。

安宅船にはこうした体当たり攻撃、といった発想はなく、また西洋の航洋船と違い、国内での沿岸戦闘を目的とするため、外洋に出る能力はほぼゼロといえました。

推進には帆も用いることもあったようですが、戦闘時にはマストを倒して、艪だけで航行しました。艪の数は少ないもので50挺ほどから多いもので150挺以上に及び、50人から200人くらいの漕ぎ手が乗ったとされます。

大きな安宅では2人漕ぎの大艪を用いる場合もあったようで、戦闘員は漕ぎ手と別に乗り組むため、数十人から数百人にのぼった、という記録もあるようですが、これから計算すると、乗船する者の数は400~500人にものぼることになります。

船の規模を考えると、いくらなんでもこれは多すぎるため、おそらくは漕ぎ手と戦闘員が兼ねることが多く、実質は200人内外が限度だったのではないでしょうか。ただ、「海上の城」として限定使用し、極端に移動性能を犠牲にした場合には、それぐらいの人数は乗せたかもしれません。

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戦国時代も後期に入ると大型化と重武装化がいっそう進み、特に火器を使った戦闘に対応して楯板に薄い鉄板が張られることもありました。武装も陸上の持ち運びに適さない大鉄砲や大砲が配備され、強力な火力で他艦を圧倒しました。

1573年(元亀4年)、織田信長は自領の内海となった琵琶湖で長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造したとされます。同年、この大船は坂本から湖北の高嶋に出陣し、ここにあった木戸城、田中城を落城させています

1578年(天正6年)には信長の命により、九鬼水軍を率いる部将九鬼嘉隆が、黒い大船6隻を、滝川一益が白い大船1隻を建造した、という記録があります。九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いたといわれ、その本拠は志摩の国(現三重県)でした。

九鬼水軍は、強力な水軍であった毛利水軍を第二次木津川口(後述)の戦いで破り、信長方の水軍として近畿圏の制海権を奪取しており、その後の信長の全国制覇を支えた文字通り織田軍のホープです。

九鬼嘉隆が建造したとされる、黒い大船の規模は、その噂を聞いて書き残した興福寺の僧侶の記録「多聞院日」によれば横七間(幅約12.6m)、竪十二、三間(長さ約24m)鉄張りであったといい、これは現在の200トン型漁船よりもやや小ぶり、といった大きさです。

そして、これが有名な信長の「鉄甲船」といわれるものです。鉄張りにしたのは毛利氏の水軍が装備する火器の攻撃による類焼を防ぐためと考えられ、当時の軍船としては世界的にみても珍しいもので、最新鋭技術といっていいでしょう。

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この鉄甲船の戦闘を実見した宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの証言によれば、各船は3門の大砲と無数の大鉄砲で武装していたといいます。この年、6月20日に伊勢から出航して雑賀衆や淡輪の水軍と戦い、大阪湾に回航し、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で、九鬼嘉隆の6隻が毛利氏の村上水軍や塩飽水軍と交戦、勝利しており、これが第二次木津川口の戦いです。

ちなみに、このオルガンティノという宣教師は、主として戦国時代末期に宣教活動を行っていたイエズス会のイタリア人宣教師で、人柄が良く、日本人大好きな好々爺したオジサンだったようです。40歳前に来日した彼は、「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。

日本に好感を持っていたオルガンティノは、書簡の中で「ヨーロッパ人はたがいに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」と述べています。

また、「日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互いを褒め、相手を侮辱することを好まない」とも述べています。昨今のせちがない世の中に住み、気性も態度も矮小になってしまった我々にとっては少々面はゆい評価ではありますが。

1591年に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では軍需物資や兵員を輸送し、兵站を維持するために大量の輸送船が西国の大名によって建造されました。これらの輸送用の船舶とは別に、緒戦期に朝鮮水軍の襲撃で被害が出ると、日本側も水上戦闘用に水軍の集中と整備を行いました。

「太閤記」などの記述によれば、このとき秀吉は、各大名に石高十万石につき安宅船二隻を準備させたといいます。その結果、慶長の役ではこうして建造された多数の安宅船で構成された日本水軍が活躍することとなりました。

この役のために九鬼嘉隆が建造した「鬼宿」は、山内一豊に宛てた手紙では、「船長十八間(約32m)、幅六間(約11m)」の大きさだったとされます。櫓百挺で、漕ぎ手と戦闘員をあわせて180名が乗り込んだとされ、豊臣秀吉の命名によってその後「日本丸」と改名されました。

現在の韓国南部、閑山島と巨済島の間の海峡に、単独出撃をした脇坂安治率いる1500人の水軍が、朝鮮水軍の誘引迎撃戦術により壊滅状態に陥った、閑山島海戦(かんざんとうかいせん)では、敵の襲撃を強靱な船体で受け止め、多くの兵士の脱出に寄与したといわれています。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆(西軍)と子の九鬼守隆(東軍)が東西に分かれて戦い、西軍が負けたため、嘉隆は自害しました。

嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献しました。しかし守隆没後は家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり、ここに、日本を代表する水軍として長年高い評価を得てきた九鬼水軍の歴史は終わりを迎えました。

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関ヶ原の戦いを経たのちの江戸時代初期には、日本の各地で次々に巨城が築城され始めました。こうした軍事的な緊張の時代を反映して、西国の諸大名によって九鬼氏の日本丸を上回る巨艦が次々に建造され、安宅船の発展はピークを迎えました。しかし慶長14年(1609年)に江戸幕府は西国大名の水軍力の抑止をはかるため、500石積より大きな船を没収しています。

元和元年(1615年)に大坂の陣が終わり、ようやく平和の時代が訪れると安宅船の軍事的な必要性は薄れていきました。速力が遅く海上の取り締まりの役に立たない安宅船は廃れ始め、かわって諸藩の船手組(水軍)は快速の関船を大型化させて軍船の主力とするようになっていきました。

寛永12年(1635年)には武家諸法度により全国の大名に大型の軍船の保有が禁じられました。「大船建造の禁」といい、500石積み以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限したもので、軍船に転用可能な商船も対象としていました。ただ、500石以上の船格であっても外洋航行を前提とする朱印船は除外されていました。

一方、江戸幕府は500石積より上の軍船保有を禁じたのと同年に、超大型の安宅船を建造しています。長さ三十尋(約55m)で3重の櫓をあげ、200挺の大櫓を水夫400人で漕ぐという史上最大の安宅船で、その名も「安宅丸」と命名されました。ただ、この安宅丸は、伝統的な和船構造ではなく竜骨を持つ和洋折衷船であり、典型的な安宅船ではなかったといわれています。

建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたといいます。その巨大さから「日本一の御舟」などとよばれ、江戸の名物の一つでもありました。外板の厚みは1尺(約30cm)もあり、当時の関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能であり、さらに船体・上構すべてに銅板を張っていたため、防火・船喰虫対策は完璧でした。

しかし、あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく将軍の権威を示す以外にはほとんど機能せず、また維持費用も巨額にのぼりました。巨体のために航行に困難が伴い、このため隅田川の河口にほとんど係留されたまま長年留め置かれたままでした。その後、奢侈引き締め政策の影響もあり、1682年(天和2年)に解体され、和船最後の巨船となりました。

安宅船の消滅以降、幕府や諸藩が巡行や参勤交代に使う御座船を始めとした、関船主力の時代が幕末まで続きます。そして幕末には西洋式海軍の建設が図られ、在来型の軍船の時代は終わり、安宅船は再び世に出ることはありませんでした。しかし、安宅船の建造で培われた「頑丈な船を創る」という技術は後世に引き継がれることになります。

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その後、幕末の動乱を経て、明治を迎える中、島国であった日本は古くから海外との交流を展開し、異国の文化を輸入する中で、建造技術においても、これを海外から取り入れていく方針に転じます。

近世においては鎖国して外界との接触を避けてきた日本にとって1800年代前後から黒船来航など海外の国々が日本に忍び寄る危機に直面したことが、その転換のきっかけでした。尊皇攘夷を唱える水戸藩が海防を強く主張、水戸藩主徳川斉昭は腹心の安島帯刀に日本初の洋式軍艦「旭日丸」を建造させ幕府に献上しました。しかし、この旭日丸は進水する時に座礁するなど、当時の日本の西洋船舶建造技術はまだ不十分でした。

明治以降の日本は明治政府によって富国強兵、脱亜入欧政策の下、文化的、経済的に一等国となるよう近代化への道を歩んでいきました。小さな国土の島国で地下資源の乏しい日本が貿易による経済とエネルギー供給を支えたのは海運業であり造船でした。

当時、政商として栄えた三井財閥や三菱財閥などの大企業が、国策事業として支援を受けながら海運と造船業界を成長させました。この時代は、西欧列強による植民地拡大政策の脅威と帝国主義の時代であったため、国防上、海軍の役割は一層重要となりました。造船業界は海運業だけでなく軍艦建造でも大きな需要を得るようになり、その後、日本はさらに艦船建造による軍備増強の道を歩み、太平洋戦争に至るまでそうした時代が続きました。

しかし、太平洋戦争で日本は保有船舶の大半を喪失しました。ある統計によれば、日本が喪失した艦船は、軍船・商船も含め、100トン以上のものだけでも2800隻にも上ったといわれます。ところが、戦後、傾斜生産政策や朝鮮戦争での特需によって早期に造船業は回復するとともに海運業とともに成長路線に戻り、戦後日本の経済成長を支えました。

日本の高度経済成長時代には「造船業は日本のお家芸」とまで言われましたが、これは、安宅船の建造以来、500年以上にわたって蓄積された造船技術が一気に開花した時代、といっても過言ではないでしょう。

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しかし、オイルショック以降、造船業は伸び悩み、その間に中韓の2か国が力をつけてきました。2015年現在、世界シェアは中国が40%、日本が30%、韓国が20%程度と東アジア3か国で90%を占めているため、「三国志」と形容されています。

とはいえ、低迷していた日本の造船業も2000年前後からの世界貿易増加に伴う船舶不足により息を吹き返し、高付加価値の船舶を中心に受注が増えています。

ただし、同時期に始まった鋼材の高騰により高騰以前の受注案件が軒並み利益を確保できない状況であること、典型的な労働集約型産業であるため、「2007年問題(団塊の世代の一斉退職にともない、発生が予想された問題)」による優秀な職工の大量退職への対応も迫られるなど、造船各社とも苦しい経営を強いられています。

また、2000年代後半のリーマン・ショック等を契機とする世界的な景気減退と急激な円高ドル安の進行は、さらに日本の造船業界の競争力を低下させ、2014年には受注残すら無くなるのではないかとする「2014年問題」も懸念されることとなりました。これは、2010年代初頭、世界の造船会社の受注残が極端に減少し、2014年頃には新たに造る船舶がなくなるのではないかとする危機感を問題視したものです。

中国や韓国では徐々に中・小造船会社の淘汰が始まり、メーカー間の価格競争も厳しく、利益率の大きい大型案件を受注しても、後日、他社が行った受注条件に応じて、追加値引きを余儀なくされる例も見られるようになりました。

中国では、半数近くの会社が2014年問題を乗り越えられないとする推測があります。2014年からは既に3年が経っていますが、現在の中国の造船業は「受注の崖」から抜け出せず中国造船所の75%が閉鎖しているといいます。

一方、日本の造船業界は、合併などで生き残りを図るようになったほか、2012年末に成立した第2次安倍内閣がアベノミクスを提唱すると70円台だった円相場が100円台になるなどの追い風を受け、2013年後半には各社が徐々に競争力を取り戻し、新規受注に成功するなどの動きが見られるようになりました。韓国の造船業は2010年代以降、構造不況に陥っているため、相対的に日本の造船業の復権が進んでいます。

今年の1月、急激な「受注絶壁」で数年来危機を持ちこたえてきた韓国造船業が、ついに受注残高で日本に抜かれる状況に至っており、1999年末に日本を抜いて世界首位に上がって以来、17年ぶりに“「造船王国」の地位から陥落しました。

しかし、日本も安閑としてはいられません。今後、島国日本の造船業がどうなっていくかは、コスト削減もさることながら、安宅船以来培ってきた造船技術に加え、いかに新たな技術を加えて他国の造船業立ち向かっていけるか、にかかっています。

そんな中、スポーツとしての造船技術も日本の技術は飛躍的に進歩しつつあります。1851年より現在まで続く国際ヨットレース、アメリカズカップで日本は、これまで蓄積してきた造船技術を駆使したヨットを投入し、1992年・1995年・2000年の3回に渡り「ニッポン・チャレンジ」がアメリカズカップに挑んできました。

いずれも準決勝にて敗退(3回とも4位)していますが、今年、6月初めから英領バミューダ諸島で始まった、第35回アメリカスカップでは、ソフトバンクが関西ヨットクラブと連携し「ソフトバンク・チーム・ジャパン」として久々に挑戦しました。

残念ながら今回も日本は敗退したようですが、そのレースのために建造された、新しいレース艇は、全長50フィート(約15m)と、これまでよりもサイズが大きくなり、性能面なども桁違いです。 スピードは最高で時速80kmにもなると言われる、このカタマラン型(双胴)のこのレース艇は、まさに高い技術力で進化する現代日本の造船技術を体現するものといわれます。

造船工学・建築工学・材料工学・流体力学・航空力学・気象学など、各国の最先端技術や軍事からの応用技術が投入されるなど、参加国の威信を賭けた国別対抗レースとしての一面も持ち合わせているこのアメリカズ・カップ。

その最終決戦は、アメリカとニュージーランドの間で戦われます。

ディフェンダー・アメリカ オラクルチーム VS チャレンジャー・プレイオフで挑戦権を得た、ニュージーランドのチーム “Emirates Team New Zealand” の間の決勝戦はもうすぐ火ぶたが切って落とされます。

テレビでの放映予定はないようです。ご興味のある方は、ネットでどうぞ。

2017年6月17日、18日、24日~27日

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シヴァと大黒

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6月になりました。

新緑は早、深緑になりつつあり、その色が伊豆の野山のほぼ全部に定着するようになるころには、そろそろ雨の季節がやってきます。

東海地方の梅雨入りの平年値は、6月8日だそうで、昨年は少し早く6月4日でした。長期予報を見ると、来週末あたりが雨になっており、おそらく今年の梅雨入りは平年並みなのではないでしょうか。

この、梅雨をもたらす、梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つだそうです。モンスーン(monsoon)とは、ある地域で、一定の方角への風がよく吹く傾向があるときの風、「卓越風」のことを指します。季節によってその卓越風の向きは変わります。このため、アラビア語では「季節」を示す(マウスィムmawsim)と呼び、これがこの言葉の語源といわれます。

日本では夏季には太平洋高気圧(小笠原気団)から吹き出す南東風が卓越し、モンスーンとなります。これが、中国北部・モンゴルから満州にかけて発生する、暖かく乾燥した大陸性の気団、揚子江気団や、オホーツク海にある、冷たく湿った海洋性の気団、 オホーツク海気団と干渉しあって梅雨前線ができるわけです。

日本を含む南アジアや東南アジアで発生するモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因です。この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、このため、世界最多の年間降水量を誇ります。広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれ、同時にこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアといいます。

気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島、そして日本列島の大部分もモンスーン・アジアに含まれます。

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このモンスーン・アジアにおいて、世界最多の年間降水量を有する場所は、インドのチェラプンジです。インドの東部、メーガーラヤ州にある都市で、北西部にはネパール、東にはミャンマーがあり、それぞれの国境まではわずか200kmほど、という位置関係です。

標高1,484mの山地に位置し、ベンガル湾からの吹き上げる湿気の影響が非常に大きく、これが多雨の原因です。1860年8月から1861年7月の1年間には26,461mmという世界最高の年間降水量を記録し、長年、年間降水量世界一の記録を保持していました。

しかし、1994年、近隣のマウシンラムにその記録を抜かれました。

マウシンラムは、同じメーガーラヤ州のカーシ山地にある村で、2017年現在も、「世界で最も湿った地」として知られ、ここ約50年間の年平均降水量はおよそ11900mmに達します。ギネスブックによれば、中でも1985年度の降水量は26000mmに達したとされます。

日本で一番雨が多いとされる高知県の年間降水量が3700mm程度ですから、いかにものすごいかわかります。ちなみに、静岡県は9位で、2400mmほど。1985年のマウシンラムの降雨量のわずか10分の1以下です。

加えて、ここの降水量は年較差が比較的少ないのが特徴です。また、極めて霧が多く、晴天を望むことが少ないといいます。年から年中雨、というのは、考えただけでも気が滅入りそうですが、いったいどんなところなのか、想像に絶します。カビ対策はどうしているのでしょうか。

ところで、このマウシンラムと多雨度に関してライバル関係にあるチェラプンジは、東に直線距離でわずか9~-16kmの位置関係です。従って、その降雨量に関してはおそらく目糞鼻糞です。このためマウシンラムが1994年に世界で最も降水量が多い地として認定された際、ライバルのチェラプンジの住民が強く憤慨したといいます。

このマウシンラムには、「マウシンビン」とよばれる洞窟が存在します。マウシンビンにはシヴァ神の宝塔を象ったかのような巨大な石筍(せきじゅん)や巨大な岩塔が立ち並び、シンパー・ロック(Symper Rock)とよばれています。

石筍とは、洞窟の天井の水滴から析出した物質が床面に蓄積し、たけのこ状に伸びた洞窟生成物です。これに対して、洞窟の天井面から垂れ下がる形態のものが鍾乳石です。鍾乳石は、広義ではこの石筍や石柱などを含む洞窟生成物の総称としても使用されています。

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シヴァは、サンスクリット語で「吉祥者」の意味です。ヒンドゥー教の神であり、現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人。そしてヒンドゥー教の一派、シヴァ派ではとくに最高神に位置付けられています。

シヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマンであるといわれます。ブラフマン(brahman)とは、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。一方、アートマンは、最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、意識の最も深い内側にある個の根源を意味します。「真我」とも訳されます。

真我は、スピリチュアル的には、「自我」、「魂」であり、言い換えれば「本当の自分」です。自己の中心であるアートマンと宇宙そのものであるブラフマンとは、同一であるとされており、つまり、宇宙と真我は表裏一体、ひとつのもの、ということです。

これを古代インドの思想では梵我一如(ぼんがいちにょ)といいます。アートマンとブラフマンが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとするのが梵我一如であり、インド哲学の聖典、ヴェーダの究極の悟りとされます。

ヴェーダ(Veda)は、日本語では「梵」と書き、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称で、「知識」の意でもあります。

こうした流れから、すなわち「シヴァ」とは全ての中の全て、創造神、維持神、破壊神、啓示を与える者です。全てを覆い隠すものだと信じられており、とくにシヴァ派にとってシヴァは単なる創造者ではなく、彼(彼女)自身も彼(彼女)の作品だといいます。

シヴァは全てであり、普遍的な存在である… というのですが、ここまでくると何やらわけがわからなくなってきそうです。この世、いなや宇宙に広がり、私たちの体をも突き抜けるという、ダークマターのようなもの、というのが現代的な解釈かもしれません。こちらも物理学が専門でない私にはわけのわからないものですが…

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ただ、そうした説明は一般人にもわかりかねます。このため、古来から数多くのシヴァ像が形作られてきました。偶像上のシヴァの特徴としては、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)、などなどがあります。

また、シヴァは通常「リンガ」という形に象徴化され信仰されることも多いようです。リンガは、一般に男性の性器(男根)を指すサンスクリット語で、本来は「シンボル」の意味を持ちます。

特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されています。リンガ像の原型が、インダス文明にあるという説もあります。が、この当時の遺跡から発掘されたものが性器崇拝に使われたかどうかは判然としません。ただ、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられているようです。

こうした性器崇拝に関する記述は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩「マハーバーラタ」にも数多くみられます。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、そこには豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されています。

後世にシヴァ信仰の広まりとともに、こうしたシヴァの姿がより人々に鮮明に意識されるようになり、大小さまざまなリンガ像が彫像されるようになりました。こうした彫像が多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになったのはこの聖典に拠るところが大きいといわれます。

その説明によれば、通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現されます。人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣があります。

シヴァの主要な性格は、「サマディ」で、これは日本語の「三昧」に相当する言葉です。日本では、「贅沢三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味でよく使われますが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、極度の偏執的な「凝り性」を表しているといいます。

つまり、瞑想だけでなく、エッチに関しても、何に関してもシヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するわけです。こうした究極の凝り性の姿が「リンガ」という偶像に例えられ、これを尽きることなく生命を生み、さらに破壊する女神として崇めるわけです。リンガは、シヴァの原理や現世の本質をあらわしており、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされてきました。

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こうした性器崇拝はかつての日本にもありました。我が国にも「男根崇拝」の時代があり、その名残のひとつが、実は「道祖神」だといいます。ご存知の通り、守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状のものが多いようです。基本的には、厄災の侵入防止を祈願するために村の守り神として崇められてきましたが、実はそのルーツには子孫繁栄の意味も含まれていたといいます。

こうした思想を生み出したインドの特異性は、その思想をさらに発展させ、性魔術である「タントラ思想」を生み出しました。今でもインド北部のカジュラーホーには、ミトゥナという男女の性交場面を現した彫刻がありますが、これはタントラ思想を具現化したものと言われます。

シバ神妃の性力 (śakti)を崇拝し、実践行法に関する規則や、神を祀る次第、具体的方法も含む魔術だそうで、その術は192種もあるとされます。どんな秘術なのか想像しかねますが、セックスにも48手あるそうなので、あるいは似たようなものなのかも(※ここのところ未成年の閲覧不可!!)。

これが元となり、のちに発展したインド密教では、タントラを所作、行、ヨーガの3種に分類しています。また、チベット密教では、タントラを所作、行、ヨーガ、無上ヨーガ、の4種に分けています。

所作とは、現在の日本語では、行い、振る舞い、しわざのことで「一日の所作を日記に記す」という風に使います。が、もともとは仏語で、身・口・意の三業(さんごう)が発動することを意味します。

また、行も、現在の日本語に名残として残っており、こちらも仏教用語です。心の働きが一定の方向に作用していくこと、意志形成力のことであり、例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、といった場合に使われます。

ヨーガは、現在では、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にした、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われていますが、本来のヨーガは、古代インドに発祥した伝統的な宗教的行法です。心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱」に至ろうとするものです。

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こうした現在の日本語にも残るタントラの思想を日本にもたらしたのが、密教です。性魔術であるタントラ思想は、最初インド密教に取り入れられ、さらにはヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教、そして仏教にも取り入れられて共通して存在します。こうしたタントラはさまざまな形で南アジア、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、チベット、モンゴル、中国、韓国、そして日本に伝わりました。

タントラ思想と仏教が融合したものが、チベット密教であり、これが中国に伝わり、そしてこれを初めて日本に持ち帰ったのが、弘法大師こと、空海です。空海はこれを真言密教の形にまとめ上げ、これがさらに発展したのが、今なお日本中に数多くの信者のいる真言宗になります。

タントラの心は日本に今なお強く息づいているといえ、このタントラの流れをひく密教の聖地としては、比叡山、高野山などが有名です。このほか、全国の身近にある稲荷もタントラの影響から発生したものといわれています。

このタントラを人類にもたらしたのは、そもそも人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムです。そしてそれを具現化したものがシヴァであったわけですが、このシヴァは実は非常に化身が得意だとされます。このため、多数の別名を持ちますが、その一つが「マハーカーラ」です。「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味します。

マハーは「大いなる」もしくは「偉大なる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れます。シャマシャナという森林に住み、不老長寿の薬をもします。力ずくでも人を救済するとされており、本来は、究極のいいヤツです。

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ここで、「大」と「黒」といえば、日本人ならすぐに思い浮かべるのがあの「大黒天」です。

タントラの流れを引く密教用語が、日本に入ってきた際に翻訳されてできた言葉ですが、大黒天は、大暗黒天とも漢訳され、その名の通り、もともとは青黒い身体に憤怒の形相をした護法善神でした。

例えば、東京の神田明神の大黒天像は怖い顔をしており、福岡県の大宰府市にある観世音寺の大黒天立像も憤怒相です。

この逆に、千葉県市川市にある日蓮宗の寺院、本光院の大黒様は柔和な顔をしていますし、近年お土産物店などで売られている大黒天像なども、ほとんどが優しい顔をしています。

これはなぜか。実は、憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような福徳相で作られるようになったためです。習合(しゅうごう)とはさまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視される現象のことで、神道の神格と仏教の尊格が習合した場合は神仏習合と呼ばれます。

日本での大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合したといわれており、現在の大黒天が上記の本来の姿と違い柔和な表情を見せているのはこのためです。

しかし、鎌倉期以前は、破壊と豊穣の神として信仰されていました。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となりました。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。

現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表されますが、袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされます。

奈良市の春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があります。

かつて、ここ静岡、熱海の伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていたそうです。が、現在では熱海の老舗温泉旅館、古屋旅館に移されているといいます。一泊数万円する高級旅館のようなので、当分、お目にかかることはないでしょうが。

その熱海に近い場所に住む、我々夫婦の結婚記念日もそろそろ近づいてきました。6月20日のそのころにはもう既に梅雨に入っていることでしょう。

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