そうめん雑学

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梅雨が明けました。

今年もうあと一ヵ月、いや、それ以上の長きにわたって、暑い日々が続ことになるのでしょう。

暑さに弱く、蝋細工のような私にとっては、一年で一番辛い時期でもあります。

そんな中、多少なりともその暑気を和らげてくれるのが、冷たい食べ物。

とりわけ、毎年お世話になるのが、そばや冷麦(ひやむぎ)、冷やし中華といった冷麺ですが、中でもやはり食する頻度がダントツに高いのは素麺(そうめん)です。

清涼感を求めて食する夏の麺料理として代表的なものといえますが、その消費比率はどのくらいなのか、調べてみました。

すると、日本で生産されている冷麺用の乾麺の生産量は、そうめん類がだいたい44%、うどん類が23%、日本そば19%、ひやむぎ類10%、干し中華(インスタントラーメン除く)4%、となっているようです。

やはり素麺はダントツに人気なのがわかります。

夏の間、広く日本中で食される代表的な食べ物であるわけですが、日本各地にあるそうめんの生産地のうち、奈良県の三輪地方を本拠とする「三輪素麺」は、最も素麺つくりの歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあります。かつては、全国の素麺の相場は、三輪で決められていたといいます。

その味といい、のどごしといい、日本を代表するそうめんであることには疑いの余地はありません。原料に良質の小麦粉を使い、極寒期に手延べ法により精製する、といったこだわりにより、腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを実現しています。

かつては、製造から1年以上寝かしたものは「古物(ひねもの)」、2年以上は「大古(おおひね)」と呼ばれ珍重されました。また、麺が細いほど高級とされ、そうめんのランク(細さ)を上から、次の大きく4つに区分していました。

神杉(かみすぎ)…極細の最高級品
緒環(おだまき)・・・神杉より少々太い高級品
瑞垣(みずがき)・・・誉より少し細い高級品
誉(ほまれ)・・・通常の三輪そうめん

ところが、本来国内産の麦はグルテン量が少なく、細く作ることには不適なのだそうです。グルテンは、小麦、ライ麦などの穀物の胚乳から生成されるタンパク質の一種です。小麦加工品を作る上で弾性や柔軟性を決定し、膨張を助ける重要な要素です。

麦が生育する環境の違いもあり、国産小麦は輸入ものに比べてグルテンの量が少なく、「ねばり」が弱い傾向にあります。しなやか、かつ、弾力のある麺を作るには、しっかりしたグルテン膜が必要です。

このため、三輪そうめんだけでなく、国内の各生産者とも独自の外国産小麦の輸入ルートを確立し、製造法も工夫して、極細の麺でも弾性や柔軟性を確保できる麺を製造できるよう、努力してきました。

ただ、現代では、お中元などで高級品を贈る以外には、それほど高級品にはこだわりがない向きも多く、三輪そうめんでも、従来の4ランクから、瑞垣(鳥居の金帯)、誉(鳥居の黒帯)の2ランクといった、大まかな区分けがされる程度となっているようです。

また、そうめんといえば、「三輪」と呼ばれるほど、かつては品質が突出していたようですが、近年では他の地域でも製造技術が向上し、大きな品質差はなくなり、どれを食べても十分に満足できるレベルになってきています。

とはいえ、長い歴史に基づいた確かな品質を重んじる消費者も多く、一般には、「日本三大そうめん」といわれるブランドがあり、これが珍重される傾向は今も続いています。その3つとは、三輪素麺(奈良県)と、播州素麺(兵庫県)、小豆島素麺(香川県)になります。

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これに加え、近年では、長崎の「島原素麺」、が第四のそうめんとしてクローズアップされてきています。なぜ長崎なのか、ですが、一説によれば、これは香川県の小豆島の素麺職人が移住し、島原でそうめん作りを始めたのが起源といわれます。

島原そうめんのはっきりとした産地形成は、文化年間(1804~1818年)ごろといわれますが、昭和初期までは数えるぐらいの業者数であり、近隣諸県に行商する程度であったようです。戦後、経済統制もようやく平静を取り戻しつつある昭和28年、島原地区で初の製麺業者組織「長崎県手延素麺製粉協同組合」が設立され、本格的に地場産品としての生産に乗り出しました。

昭和29年〜47年の高度経済成長期になると、高級志向・贈答がもてはやされるようになりました。手延素麺の老舗ブランドとして一足早く全国へ名を馳せていた「三輪素麺」の問屋は大いに活気づき、その供給量の不足を島原に求めるようになりました。

一方で日本の最西端にあるためもあり、販路不足に悩んでいた島原は、これを機に一気に他有名産地の委託下請け生産地として生産量を増大させ、製造者戸数も増加の一途をたどりました。現在にいたるまで、島原半島の南側にある、南島原市・西有家地区を中心にした地域は、およそ400軒が軒を並べる全国第二位の一大生産地となっています。

そうした中、2002年、三輪の大手のそうめん販売業者3社が、突如、長崎県産の素麺を「三輪そうめん」として販売していたとして告発を受け、その結果、農水省の立入検査と改善の指導を受けるという事態に発展しました。

「三輪素麺」とされるものには、大きく分けて、三輪に本社を置く大手企業が作るそうめんと、小口の生産者の団体「奈良県三輪素麺工業協同組合」が取り仕切って作るそうめんの2つがあります。

工業組合は、三輪市内の工業組合員が生産するそうめんこそが「三輪そうめん」である、と、長年主張を続けていました。これに対して、三輪に本社を置く大手そうめん業者たちは、工業組合を通したそうめんも販売する一方で、長崎県産(島原産)を仕入れながら「三輪」の表示を使用して販売を行っていました。

これは、長崎県産の素麺の市場価格が三輪と比較してずっと安価であったためだったようです。年々そうめんの需要が伸びえていく中で、長崎産のものも「三輪素麺」ブランドで売れば安定供給もでき、かつ安価で販売できるため、常習的に長崎産を使うようになっていったようです。

これに対して、工業協同組合側は、三輪で作られたものでしか「三輪そうめん」と呼べない、と主張しました。これは当然のことであり、地場産品の均一された品質は、その土地ならではの環境や風土に基づいて形成されることが多いのも事実です。また、長年、三輪という土地に住まう人々が育んできた技術によって生産されてきたものが、新興の他地域での産物と同一視される、ということは悔しいことに違いはありません。

その、強い地元意識を農水省にぶつけた結果、国もこれを受け入れ、立入検査、という結論になったのでしょう。

これを受けて、大手メーカーは、これ以降、自社販売品のうち三輪での生産ではない場合は、「三輪そうめん」とは表示しなくなりました。

この件により、長い歴史を持つ「三輪ブランド」は、三輪で生産したものに限られることになりました。しかし、長年この地で製造に励んできた、三輪のはえぬきの業者たちは、今回のことを教訓として、より三輪素麺のブランド力を高めていくことの必要性を痛感しました。

以後、三輪素麺の品質や歴史性の宣伝を内外に行うようになり、行政への働きかけも行い始めました。

そうした努力の結果、今年の6月、桜井市は「そうめん条例」を制定しました。これは、三輪素麺の普及のために、三輪素麺を食べる習慣を広め、伝統文化への理解の促進を目的に、市が、三輪素麺の普及を促進するために必要な措置を講じるよう努める、というものです。

三輪ブランドを守るため、市がその普及促進のための措置を講じ、生産業者の主体的取り組みを援助するしくみで、その活動に市民も協力してよ、というわけです。市をあげて地元産のそうめん作りを全国にアピールしていこう、という意気込みの表れともいえます。

こうした取り組みにより、三輪のそうめんは、日本におけるトップブランドとして、ゆるぎない地位を保ち続けており、現在でも桜井市三輪は日本のそうめんの生産の中心地と目されているわけです。

ただ、三輪では、そうめんだけでなく、もうひとつの雄、「ひやむぎ」も生産しており、こちらも全国トップクラスの生産をあげています。三輪の手延べひやむぎ、手延べ三輪うどんといった商品は、いま手延べそうめんに次ぐ、大きな収入源になりつつあります。

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そこで、ひとつ疑問が浮き上がるのですが、この、ひやむぎ(冷麦)とそうめん(素麺)はいったい何が違うのでしょうか?

多くの人が、単に太さが違うんだ、と思っているでしょう。

これは当たってもおり、当たっていなくもありです。実はこの二つ、製法が違う、ということをご存知でしょうか。

一般に出回っているひやむぎの多くは、細打ちにした「うどん」と同じで、小麦粉と塩と水を混ぜたものを練って延ばし、切って作ります。

一方のそうめんは、小麦粉と塩と水を練るところまでは同じですが、ひやむぎのように切らず、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、よりをかけて引き延ばし、細く仕上げて、天日干しにして作ります。

素麺は「索麺」とも書き、これは、糸やひもを引き出す、という意味です。ひもをたぐって中の物を引き出すように、手づるによってさがしもとめる、という意味があり、つまり、「手延べ索麺」=「手延べそうめん」です。

ひやむぎの方は、小麦が原料の「小麦粉」を練り、うどんよりもやや細めに切ります。これを「切り麦」といい、熱して食べるものを「熱麦」、冷やして食べるものを「冷麦」と呼んだことから、「ひやむぎ」の名があります。

「索麺」と「冷麦」、この文字そのものが、如実に製法の違いを表しており、原料は同じ小麦であるものの、仕上がりは別のものであるわけです。

昔ながらの手延べで作る「索麺」は、人力が入るために作るのにそれなりに手間暇がかかりますが、「冷麦」は、今日では機械でもってかなり簡単に作ることができます。今日では機械製麺が主流であり、上で述べたとおり、うどんと製法が同じです。

そして、うどん業界では、細切りのものを「ひやむぎ」、さらに細いものを「そうめん」と呼んで売り出しています。ところが、手間のかかる「手延べそうめん」のほうは製法が違うのに、こちらも普通は「そうめん」と呼ばれます。ここに、混乱があります。

これに関して、JAS規格(日本農林規格)の「乾めん類品質表示基準」では、機械製法によって小麦粉由来の麺を作る場合、麺の太さが1.7mm以上を「うどん」、長径1.3mm以上1.7mm未満を「ひやむぎ」、長径1.3mm未満を「そうめん」と分類しており、基本的には麺の太さで区別します。

太さを基準に「うどん」のほか「ひやむぎ」と「そうめん」としたのは、製麺機で作られる麺の種類が増え、商品の流通上、都合がよいからです。

極太麺の「うどん」、やや太麺の「ひやむぎ」、そして細麺の「そうめん」とバラエティを変えれば、料理法もさまざまになり、消費者に喜ばれます。また、うどん業者などから税金を取る役人にとっても、いろんなバリエーションを作ってくれるほうが税金を取りやすくなり、税収が多くなる、というわけです。

これに対して、昔ながらの手作業で、そうめんを作る場合は、単に小麦粉と水と塩を混ぜて練るだけでなく、もうひと手間、難しい工程加わります。機械によってつくられる麺と異なり、油を加えてさらに細くする、という手間が加わっており、これが「手延べ」の意味するところです。

この「手延べそうめん」は、太さに関しては、機械麺ほど厳しい農林規格はありません。人力により手延べ麺にする場合の呼称は、「そうめん」でも「ひやむぎ」でも良いことになっています。そして、農林規格上、その太さについては、1.7mm以下ならばどちらでも良い、とされています。

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ところが、それでは機械でつくる「うどんそうめん」や「うどんひやむぎ」と違いがわからなくなってしまい、買ってもらえなくなる可能性があります。このため、その頭に「手延べ」をつけることで、差別化を図ることが許されています。

江戸時代から続く、人の手によってつくる「正統派」の手延べめんは、「手延べそうめん」あるいは、「手延べひやむぎ」と表示されています。がしかし実質この二者に違いはなく、太さが違うだけです。従って、かなり太くても「そうめん」という場合さえあり、実際、徳島県の手延べの名産品「半田そうめん」は太く、1.7mm前後あります。

ただし、「手延べ」と呼称する場合は、「手延べ干しめんの日本農林規格」というのが農林水産省で決められています。この規格の中には手延べの細かい製造方法が定められており、ある程度これに書かれているレシピに準じて作られたものでなくては「手延べ」を名乗ることはできません。

そのレシピは、上でも述べましたが、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、よりをかけて引き延ばし、細く仕上げて、常温で一定期間放置することにより熟成させ、さらには天日干しにする、といったものです。ここでは単に2~3行で書いていますが、ほかにも長年蓄積された、細かいノウハウが必要になります。

一方、機械で作った麺は、「ひやむぎ」「そうめん」と商標表示することはできますが、製法が違うため、あたまに「手延べ」をつけることは許されません。手延べの工程がないぶん、仕上がりはかなり異なったものになります。

従って、万一お店で売られている冷麦や素麺が、手延べの工程を経ていないのに「手延べ」と表示されていたら、それは法律を犯して販売されている、ということになります。

なので、お店でそうめんやひやむぎを買う場合には、「手延べ」なのかそうでないのかを見分けましょう。

まず、表面を見て、「手延べ」でのことばが書いてあるかどうかを確認します。さらに裏面を見れば、小麦や水のほかに「油」が入っている旨の成分表示があるはずであり、これで手延べ麺であるかどうかを確認できます。単に機械で作られたものには、「手延べ」の表示はないばかりか、成分表示にも何ら油成分は記載されていないはずです。

これで、冷麦と素麺の違い、そして手延べ麺とそうでないものの違いについての疑問が解決しました。このブログを見て勉強すれば、もう素麺と冷麦の違いについて迷うことはないわけです。

ところで冷麺に関するまた別の疑問。こちらも、日ごろから不思議に思っておられる方も多いと思のですが、麺に赤や緑の彩色麺が何本か入っている、アレです。理由はいったいなんなのでしょうか。

実はこれ、揖保乃糸など一部の「手延べ麺」の製造業者が、製麺所において、そうめんとひやむぎを区別するため、ひやむぎの麺束のほうに、これらの彩色麺を混入していたのがはじまりです。

揖保乃糸(いぼのいと)は、兵庫県手延素麺協同組合が有する手延素麺の商標です。その歴史は三輪そうめんほど古くはなく、とはいえ、15世紀前半に最古の記録が残るなど、日本を代表する手延べ素麺のひとつです。

この彩色麺を混入する、という風習を他の業者も真似し、1980年代後半までは関東地方(東京)などを中心に多く見られましたが、1990年代には徐々に縮小していき、揖保乃糸以外の大多数が白一色のひやむぎになってしまいました。

しかしその一方で、一部の製造業者が現在でもこの風習を続けており、中には子供が喜ぶから、という理由で、機械そうめんなどにも入れられていることがあります。

もっともこれに関しては色麺が入っていいたからといって農林規格に反するわけでもなく、罰則規定などもありません。白い冷麦の中に交じって、赤や緑の素麺が入っているのをみると涼しげで、いかにも夏を感じさせます。

と、同時に色つき麺が入っていると何やら楽しい気分にさせてくれます。子供時代にひやむぎを食べたとき、争うようにして、色のついた麺を取り合った、という経験をした人も多いのではないでしょうか。

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さて、こうしたいろいろな違いがあるにしても、そうめんもひやむぎも、その食べ方はほぼ同じです。湯を沸かしてゆでてから、氷水や流水で冷し、ぬめりを取るためのもみ洗いをした後、めんつゆにつけて食べるのが最も一般的です。

無論、ゆがいたあと、温かいままでいただく場合もあります。そうめんの場合、熱いツユで食べるものを、「にゅうめん」などと呼ぶようです。夏が過ぎ、涼しくなってから食べるにゅうめんは、冷やしそうめんとはまた違った魅力があります。

いずれの場合も、ゆでる水には塩を入れないのが普通です。これは逆に麺に含まれている塩分を出すためでもあります。冷やしそうめんの場合、茹で上がったらできるだけよい水で洗ってぬめりをとりますが、とくに手延べの場合、製造時に混入した油をとりのぞく効果があります。

そうめんつゆは醤油、出汁、みりんあるいは砂糖などからなる甘辛いもので、また、そばつゆよりは砂糖やみりんが多く添加され、甘味が勝るものが多いようです。出汁の材料は地域によってさまざまですが、鰹節、干しエビ、干し椎茸などが一般的です。付け合わせに煮込んだシイタケ、茄子、錦糸卵、トマト、蒲鉾、海老、缶詰のみかん等がつく場合もあるようです。

夏季には各醤油メーカーや食品メーカーから、「そうめんつゆ」と呼ばれる調味済みのめんつゆが販売されます。また、ごまだれをめんつゆに入れたりつけ汁として用いる、というご家庭も多いのではないでしょうか。

関西地方では冷やし中華(冷麺)のようにハム、キュウリなども添えるのが一般的で、薬味としては、刻み葱、おろし生姜、胡麻、ミョウガ、山椒、海苔、鰹節、大葉、おろし山葵などが用いられます。我が家も家内とともに広島・山口の出自なので、この手の薬味を入れることが多いようです。

そうめんに、焼いた鯖の身を入れる、という独特のレシピもあります。滋賀県長浜市周辺の湖北地方に伝わるそうめん料理で、焼鯖素麺、または鯖素麺とも呼ばれています。農繁期である5月に、農家へ嫁いだ娘を持つ親が忙しい娘を気遣い、実家から嫁ぎ先に焼鯖を届ける「五月見舞い」という湖北地方独特の習慣に由来するそうです。

農繁期に気軽に作って食べられる料理として、また客をもてなす際などのハレの料理としても伝えられてきたといいます。湖北地方は内陸に位置しますが、比較的近い地域に若狭湾という鯖の産地があるため、鯖は一般的な食材でした。

この伝統が伝わったのかどうかは定かではありませんが、東北地方の山形県では、たれと薬味に加え、サバの水煮缶を汁ごと、どんと中に入れるのが普通のようです。テレビのバラエティ番組で紹介されていたのを見て、我が家でも試してみましたが、確かにおいしいと思いました。無論、お好みもあると思いますが、みなさんも試してみてください。

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さて、暑い夏がこれから長く続きます。

食欲のない方は、本日のレシピを見て、冷たい麺で夏場を乗り切ってください。

ただ、「夏太り」にはご注意を。

現代の日本の夏は、基礎代謝が低下しやすい環境と言われています。基礎代謝とは、何もせずじっとしていても、生命活動を維持するために自動的に行われている活動で、そのために必要なエネルギー消費のことです。

秋から冬、そして春にかけては、寒暖差がそれなりにあるので、私たちの体は、体温を一定に保とうとかなり活発に基礎代謝を行います。ところが、夏場は一日を通して温度差が少ないため、そもそも代謝を上げなくても体温調整ができてしまいます。

そこにきて、暑いからと運動量が減りますし、発汗によってエネルギー代謝を促進するビタミンBが不足します。さらには睡眠不足とエアコンの多様が自律神経の乱れを誘発します。

結果、本来、自動的に脂肪を燃焼してくれるはずの基礎代謝ががくんと落ちてしまいます。

夏太りになった人の多くは、「そんなに食べていないのに太った」と口を揃えて言いますが、
そうした人に限って、冷たい麺類やパン類ばかり摂取しているようです。そうすると、いくら小食でも、エネルギー価の高い炭水化物のオンパレードとなり、ただでさえ低下した身体の代謝が追いつかなくなってしまいます。

食欲不振で「何か食べなくては」と、冷麺ばかり食べていると、栄養の偏りで代謝低下に拍車をかけることになるわけです。

なので、そうめんを食べるなら、それなりに運動もし、規則正しい生活を送って、できることならエアコンを使わずに快適に眠れる方法を模索します。ビタミンBを多く含む、酵母やレバー、肉、魚介類、野菜などをたくさんとり、基礎代謝量を保ちましょう。

バランスよく他の食材と合わせながら素麺を食べ、暑い夏を乗りきったあとも、美しい体型を保つ。これをこの夏の目標にしてはいかがでしょうか。

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ハゲの里

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6月7日に梅雨入りしてから40日ほどが過ぎました。

今年はカラ梅雨とのことでしたが、伊豆ではそれなりに雨に恵まれ、おかげで庭木の水やりにもそれほど気を遣わなくて済んでいます。

ただ、逆にこれから梅雨末期にかけて雨が降りやすい時期であって、集中豪雨などの大雨には注意が必要です。

先日の熊本・大分の集中豪雨も、台風3号が取り込んだ湿った空気によって、積乱雲が次々と発生し、同じ場所に連続的に雨を降らせました。

いわゆる「線状降水帯」です。この九州北部を襲った降水帯は9時間以上停滞したといい、気象庁の専門官も「これほど狭い範囲に長時間停滞するのは驚きだ」と話していました。

その原因は、梅雨末期になると、梅雨前線を構成する北側のオホーツク海気団と南側の太平洋高気団のバランスが崩れ、不安定になってくることと関係があるようです。

上空では寒気や乾燥した空気が流入し、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入しやすくなります。そこへ、西から台風や低気圧が近づいてきたりすると、前線の活動が活発化し、積乱雲をともなった強い雨雲が発生し、時に豪雨となります。

梅雨末期のこうした大雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼びます。とくに雷をともなった雨が降ることも多く、これは、送り梅雨(おくりづゆ)と呼ばれます。

その後、梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされます。

ここ、東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日で、他の地域もだいたいこれに準じてこの前後の事が多いようです。

今年もまたその時期が近づいてきました。

一方では、梅雨明けした後も雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがあり、これを帰り梅雨(かえりづゆ)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼びます。

こうした年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にあるといいます。昨年も結構暑い夏になりましたが、7月下旬に限っては、東日本は冷夏であり、平年より気温はかなり低くなりました。

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日本では1983年までは2年以上連続で猛暑になることはなく、1993年までは冷夏の頻度も高かったようです。しかし、かなりの酷暑となった1994年以降、猛暑となる年が急増しています。最近では、2004~- 2008年の間は、5年連続の猛暑となりました。

さらに、2010年(平成22年)は1994年を大幅に上回る、観測史上「最も暑い夏」になりました。多くの地点で平均気温の最高記録や熱帯夜などの最多日数を更新し、特に8月は平年よりも2℃以上高い所が多く、全国77の気象官署で月平均気温の最高記録を更新しました。

9月になってからも38℃以上の記録が相次ぎ、札幌市、岐阜市、名古屋市などの9地点の気象官署では9月の平均気温が過去最高になりました。

この観測史上最も暑かったといわれる2010年に匹敵するほどの暑さだったとされるのが、2013年(平成25年)の夏です。前年には記録的な高温にならなかった西日本太平洋側や南西諸島も含め、3ヶ月及び全ての地方を通して高温になりました。

特に8月中旬は暑さが厳しく、8月12日に、高知県四万十市、「江川崎(えかわさき)」で日本の最高記録41.0℃を更新し、その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続しました。

この、「日本で最も暑い場所」として最高気温が観測されたのは、北緯33度10.2分 東経132度47.5分、標高72mの地点にある、気象庁の観測所です。

「江川崎観測所」といい、気象庁の誇る、アメダス(地域気象観測システム)の拠点観測地のひとつです。正確な所在地は、「四万十市・西土佐用井(もちい)」で、これは四万十市立の西土佐中学校に隣接する場所になります。

付近には駐車できる場所もあることから、日本の過去最高気温を記録して以来、この観測所を一目見ようと訪れる観光客の姿も見られるようになったといいます。

また日本の最高気温記録を更新した、2013年8月12日の翌日の13日には、商工会が「日本一の暑さ江川崎」の看板を制作したほか、農産物直売所の「西土佐ふるさと市」で、気温41度にちなんだ41円のかき氷を販売するなど、以後、現在に至るまで、「暑い」をテーマとして、地域振興に結び付ける取り組みが行われてきました。

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現時点で、日本一暑い町といわれる、この江川崎ですが、高知県の南西部の山間にある地域です。私の生まれた場所、愛媛県の大洲市から直線で約40kmほどのところにありますが、無論私も、生まれてこのかた、こんな山深い土地を訪れたことがありません。

町や村ではなく「地区」として扱われていて、6つの大字で構成されています。それぞれ「西土佐」が頭に付き、西土佐「江川(えかわ)」、西土佐「長生(ながおい)」、西土佐「西ケ方(にしがほう)」、西土佐「半家(はげ)」、西土佐「用井(もちい)」、および、西土佐「江川崎(えかわさき)」になります。

このうち、西土佐江川崎(にしとさえかわさき)が中心的な地区になるようで、中世以来の地域の中心地でもあり、JR予土地線の江川崎や四万十市役所の西土佐総合支所などの役所があるのもこの場所です。

行政区分上は、これら6地区を併せて「江川崎地区」と呼び、「江川崎」の名称は、旧「江川崎村」に由来します。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、江川・長生・西ケ方・半家・用井、および下山(川崎)・の6村が合併し、この江川崎村が成立しました。村役場は下山の「宮地」という場所に置かれていました。

大正期以降、交通の要として発達しました。1932年(昭和7年)頃の資料によると、村の総生産は、農産が最も高く特に生繭・米・桑葉・用材・木炭が主要産品でした。1953年(昭和28年)、愛媛県西方の「豊後水道」に面する町、宇和島を始発駅とする日本国有鉄道「宇和島線」が成立し、これが延長されて「江川崎駅」が開業、終着駅となりました。

1958年(昭和33年)、隣接する津大村と合併し西土佐村が発足、村名としての江川崎は失われましたが、下山が江川崎に改称となり、大字名として「江川崎」の名が残されました。

西土佐村成立後、江川崎は現在に至るまで、法務局出張所、営林署、土木出張所などの出先機関や役場・商工会・中央公民館などが設けられ、地域の拠点として発展を続けました。1978年(昭和53年)には、四万十川を横断する西土佐大橋架橋が完成し、これにより、対岸の「用井」も村の中心機能の一部を担うこととなりました。

この用井は、上で述べたとおり、2013年に国内最高気温を記録した場所です。それまでの用井は、陸の孤島状態にありましたが、西土佐大橋の架橋後、西土佐中学校や村の総合グラウンドが建設されるなどの開発が進み、江川崎の中心地と目されるようになりました。

1974年(昭和49年)には江川崎駅以東の鉄道路線が開業、宇和島線から「予土線」に改められました。ちなみに、この予土線は、終点の若井駅を経て土佐くろしお鉄道:中村線に乗り入れ、さらに四国旅客鉄道:土讃線に接続して、高知県の県庁所在地、高知に至ります。

ローカル線であるがゆえに、運行頻度は低いようで、乗り換えも必要ですが、県庁所在地まで、一本の路線で行ける安心感があります。

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江川崎は、2005年(平成17年)、平成の大合併により、隣接する中村市とともに四万十市の一部となりました。ちなみに、この中村市は、江川崎の南に位置し、昭和時代までは高知県西部(幡多郡)の中心都市でした。戦国時代には土佐一条氏の城下町であり、中心市街地は碁盤目状に区画されていました。「土佐の小京都」として知られるとともに、「土佐中村」として独自の文化を築いてきました。

人口も合併前には35,000人ほどもあり、これに比べると、同じ四万十市に属するながら、江川崎地区の世帯数は670世帯、人口は1,600人弱にすぎません。段丘上に集落を形成する山間の小さな町であり、産業の中心は農業と林業で、米・野菜・シイタケなどを産出するほか、木材が大きな収入源です。

かつて江戸時代以前に「下山郷」と呼ばれていた時代、ここから産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国(現大阪府南西部)などへ出荷されていました。当初、木材輸送には四万十川のいかだ流しを利用していましたが、近代ではトラック輸送に取って代わられています。

1983年(昭和58年)、NHK特集「土佐四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が日本全国に放映されました。このとき、アナウンサーが用いた「日本最後の清流」の語は、のちに四万十川を表す語として全国に響き渡るところとなりました。

この番組は、全国的にセンセーションを巻き起こし、放映後、江川崎では四万十川を活用した観光が盛んとなっていきます。旧西土佐村の観光客は1990年(平成2年)には10万人であったものが、1997年(平成5年)には23万人へと増え、観光業が急成長しました。

江川崎の古くからの観光スポットには白綾の滝や金刀比羅宮があります。金刀比羅宮といっても香川県にあるそれと比べるとかなり規模の小さいものです。ただ、天正年間(1592~1593年)の勧請ということで、歴史は古く、ネットで調べてみると奥深い風情のある神社です。

一方の白綾の滝は落差が10mほどあり、天保8年(1837年)には宇和島藩主が訪れています。が、こちらも他地域にある滝に比べるとそれほど大きなものではないようで、観光スポットとしての集客効果は、少々弱そうです。

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これに比べ、四万十川の知名度はダントツです。この川が観光資源になるという認識は、NHKの報道により有名になるまでは、地元、江川埼住民にも高知県行政にもなかったようです。が、放送をきっかけに、この四万十川中流域にある小さな町にも一大観光ブームが訪れました。

今や全国的にも知名度の高くなった、この四万十川は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196km、四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっています。上流にダムが建設されていないことから、上のとおり「日本最後の清流」のキャッチフレーズを持つほか、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」とされ、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれています。

ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではないといいます。

水質以上にその環境が評価されている川であり、その高い評価のひとつには、四万十川には支流も含めて47の沈下橋があることです。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところに、主として鉄筋コンクリートなどにより架橋されるものです。床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。

かつて架橋技術が未熟であった時代は、洪水でも壊れない橋を造ること自体が難しい、という現実がありました。このため、あえて増水時に沈む高さで橋を造って流木などが橋の上を流れていきやすいようにする、という苦肉の策が採用されるところとなり、これが、全国でも増えました。

土木用語としては「潜水橋」あるいは「潜り橋」というのが正式な名称で、その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られ、とくに台風などの豪雨に度々見舞われる、四国をはじめとする西日本の各地で多く建設されました。

しかしその後、架橋技術が進歩するにつれ、現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られるようになり、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えない、ということもありました。こうして沈下橋は新たに建築されなくなり、永久橋に架け替えられて徐々に姿を消しつつあります。

こうした中、沈下橋を河川の文化的景観、技術的遺産、観光資源として保存する動きもあり、この四万十川流域でも、江川崎にある沈下橋も含め、重要文化的景観に選定されているものが多数あります。高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定しています。

また、四万十川には堰がないことから、カヌーに最適とされ、日本有数のカヌーの盛んな地域となりました。拠点となる「四万十 川の駅 カヌー館」にはカヌー資料館が併設され、江川崎周辺ではカヌー教室やリバーツーリングが展開されます。

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とはいえ、これ以外にこれといって大きな観光の目玉があるわけではなく、宿泊施設もホテル星羅四万十というホテルがひとつと、西土佐山村ヘルスセンターという公営の日帰り温泉施設がひとつ、このほか旅館や民宿が5~6軒ほどもある程度です。

ただ、この地には綺麗な夜空があります。町の内外に建つ住宅は分散していることから光害が少なく、星がきれいに見えるため、この星を使った町おこしに最近取り組んでいるようです。旧環境庁から「星空の街」の認定を受けているとのことで、最近小さな天文台も作られたようです。

このほか、この地はその昔、土佐国と伊予国の境にある軍事要衝地であり、支配する権力者が次々と変わるなど、歴史的にみると、かなり面白い場所であるようです。現在の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれ、伊予国に占領されていましたが、文明元年8月(1469年9月)土佐国の、土佐一条氏が奪還しました。

土佐一条氏は、室町時代の公卿・古典学者であった、「一条兼良」を高祖とする一族です。

一条家は、五摂家のひとつで、摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流です。また、五摂家とは、公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のことで、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できるという家格の高い家柄です。

兼良は、その一条家の中にあっても、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、和歌・連歌・能楽などにも詳しかったといいます。

1468年(応仁2年)に、この一条兼良の子で関白の「一条教房」が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに、一族の歴史が始まります。そしてその土地こそが、江川崎の南側にある、旧中村市になります。

鎌倉時代末期から室町時代にかけてこの地は地元の豪族の争いが絶えず、朝廷にしてみればその安定化を図る目的もあったと考えられます。教房は、この中村の前身である幡多郡(はたのしょう)を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置きました。

以後ここは「中村御所」と称され、同時にここを中心とする地域を「中村郷」と称するようになりました。また、教房とともに京にいた公家や武士、職人などもここに下向するなど、土佐一条氏繁栄の基礎が築きあげられました。

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しかし、繁栄を誇った土佐一条氏も、5代目の一条兼定の代に没落します。兼定の父の4代目房基は、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威をさらに拡大していましたが、1549年(天文18年)、突如として自殺しました(一説に暗殺説も)。

その子の一条兼定は、暗愚で遊興にふけったため信望を失い、他豪族を滅ぼして勢力を拡大しつつあった長宗我部氏(当主 長宗我部元親)が中村に侵攻してきます。このとき、一条氏の家臣は先を争って元親の軍門に降り、これにより兼定は九州豊後国に追放されました。以後、土佐一条氏は土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となります。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い、四国全土に勢力を広げたことで知られる人物です。しかし、その後織田信長が四国平定に乗り出すところとなり、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

慶長4年(1599年)に元親が死ぬと、長宗我部盛親が第22代当主となります。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしますが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に組みしました。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、このため長宗我部氏は戦後所領を没収されて改易となり、浦戸という狭い土地に押し込まれました(浦戸藩・現在の高知県高知市浦戸)。

その後盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に付きましたが、この戦いでも豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され、直系は絶えました。

しかし、長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫が土佐藩に下級藩士として仕え、断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっていきます。が、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられており、再び長宗我部を名乗ることができるようになったのは、明治維新後のことです。

長宗我部元親は、その全盛時代、現在の江川崎地区である下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施しています。それまでの川埼村が下山村と呼ばれるようになったのはこの時代であり、以後江戸時代に至るまで、もっぱらこの地は下山郷、もしくは下山村と呼ばれていました。

合わせ4つの城があり、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となるなど重要な軍事拠点でしたが、関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となりました。

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山内氏は、内助の功で知られる千代を妻に持つ、ご存知「山内一豊」を開祖とする一族です。千代と一豊の国盗り物語は、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」の中で描かれたため、ご存知の方も多いでしょう。千代役を仲間由紀恵さんが、一豊を上川隆也さんが演じ、なかなか視聴率も高かったようです。

一豊はその後、江戸期を通じて繁栄した土佐藩の初代藩主となります。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行いました。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わっており、それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになりました。これが鰹のタタキの起源だとされています。

江戸時代を通して下山郷もまたこの一豊を初代藩主とする土佐藩の配下にありました。しかし、長宗我部時代に伊予国とのつながりが深かった下山郷は、土佐藩領になっても隣国の伊予国との交流が深く、自国よりもこちらの民との婚姻が結ばれることも多かったといいます。現在でも方言や家屋の様式に類似性が認められるようです。

下山郷のうち、町の中心である下山は舟運の拠点で、四万十川河口部の海に面する下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んでした。また、現在の「西土佐江川」に相当する江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生しました。

紙漉きはまた、隣接する長生のほか、半家でも行われていました。

この半家、実は平家の落人が開いた村であった、という伝承があります。

グーグルマップをみると、予土線の「半家駅」以外にとくに目立ったランドマークのない、ひなびた山村ですが、ちょうど四万十川がうねりにうねってSの字型に蛇行した場所にあり、その左右岸の緩い山裾の斜面に家々と田畑が広がるという地形を持った山里です。

明らかに四万十川の水利を利用して生活維持をしてきた様子がうかがえ、そのために古くから、氾濫の多い万十川への架橋が試みられてきたようです。そのひとつ、「半家沈下橋」は、現在四万十川流域にある沈下橋のうちの最も古い橋になります。

と同時に、四万十川に架かる47もある沈下橋のうちの最上流の沈下橋で、四万十川における「沈下橋観光」の撮影スポットの一つです。急流に架かり、瀬音や白い水しぶき楽しめる全長約125mの橋で、普通車の通行可能が可能といいます。すぐそばに半家天満宮というひっそりと静かな古刹があり、秋祭りでは「牛鬼」と呼ばれる、中に人が入った大きな赤牛の形をした人形が、この沈下橋の上などを練り歩きます。

秋祭りには、多くのカメラ愛好家や地元住民らが訪れるといい、この牛鬼は、古くから交流が盛んだった愛媛県宇和島市から伝わったとされます。土佐国に属しながら、国境にあるがゆえの伝統であり、隣国である伊予国の影響が色濃い地域である証でもあります。牛鬼の行進のほかに、「五鹿(いつしか)踊り」や「花取り踊り」が半家天満宮で毎年行われ、五穀豊穣(ほうじょう)や魔よけを、地元の人たちが願うといいます。

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そして、その人々の先祖こそがこの地に住み着いた平家の落人だという伝承が伝わります。

実は「半家」は、「はんげ」と読むのではなく、「はげ」と読みます。ハゲというと、最近、「このハゲ~」発言でひんしゅくを買った、某女性政治家を思い出してしまいますが、なぜこういう読みになったのかは不明です。

が、漢字の由来は、そもそも平家の落人だったこの村の先祖たちが、源氏方の追討を逃れるために「平家」の「平」の字の横線を移動させて「半」にしたためと言われています。と同時に、その読みも「へいけ」では都合が悪いので、「ハゲ」ということにしたのでしょう。

この半家の村人たちは、その昔から「助け合い」の精神が強い人たちが多かったといわれ、江戸時代には、「半家義民村」と呼ばれるほどだったといいます。義民(ぎみん)とは、本来、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、義人とも言いますが、この場合は、命を賭すほどのこともなく、単に郷土愛にあふれた義侠民のことのようです。

日本各地にはあちこちにこうした義民伝説が残っていますが、この半家でも「半家義民録」「半家義民記」といった形でその記録が残されているそうです。

伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村(はげぎみんそん)」と呼ぶように、と8代藩主、山内豊敷(とよのぶ)から許しを得るとともに、12代藩主、山内豊資(とよすけ)から米を下賜されたりしました。戦前には、そうしたことが教科書で取り上げられる、ということもあったといいます。

この半家の義民たちが、平家の落人だった、といわれているわけですが、彼らは、平家滅亡の元となった、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き延びた人々の可能性があります。

この乱の末期に行われた、屋島の戦い(讃岐国屋島(現高松市))や、壇ノ浦の戦い(現下関市)での生き残りと考えられ、当地は高松市と下関市を結ぶ直線のほぼ中間地点にあります。その両方からここへ命からがら逃げてきた、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

源平合戦において敗北し、僻地に隠遁した落人としては、主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられます。連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方のいわば「難民」であり、残党の追捕から逃れた者が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになりました。

ただし、武士に限っては平家の「落武者」と呼ぶ場合もありますが、落ち延びたのは必ずしも平家一門の末裔であるとは限りません。「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士、あるいはその家族なども含まれていました。

このため、平家の「落人」という言われ方をすることの方が多いようです。そうした平家の落人が潜んだ地域は、後年、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれるようになりました。

源氏に見つかることを恐れ、山の奥深くや離れ島や孤島などに存逃げ込んだといわれており、このため、人口が少ないところや山間部や谷間などが、隠れ里だと言われることが多いようです。この半家の郷も四万十川の最上流部に位置する山里であり、落人伝説が発生したとしても不思議ではない土地柄です。

落ち延びたのは必ずしも身分の高い人々だけではなかったと思われるわけですが、こうした伝説がある場所では、落ち延びたのは実は、もともと平家の中でもとくに身分が高い人たちだった、という憶測が往々にして生まれました。その理由としては、彼らがふだんから使っている食器や生活用品に高級品が多かった、とされることなどからです。

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それにしても、そうした高級品を彼らが持っていることが、どうして巷でも知られるようになったのか、ですが、こうした隠れ里の生活の中では、それらを川で洗ったりする時にうっかり流してしまった、ということがあったようです。また、隠れ家を探しての移動中、山中に落としてしまった、といったハプニングも時に起こりうります。

平家の隠れ里以外に住まう人たちにすれば、ある日見慣れない、こうした漆塗りの高級器が流れてきたり、山中の思いがけない場所でそうした「証拠」を発見して、あれっ?と思うわけです。

が、そうした異変に気づくのはごく少数にすぎません。大抵の場合、平家の落人の隠れ里の存在を知る者もごくごく限られ、たとえその存在を知っても、あえて隠れ里を探そうとしたり、公にしたりするケースも少なかった、と考えられます。

それはなぜか?ですが、そのひとつは判官贔屓(ほうがんびいき)の心理が働いたからだ、という説があります。これは平家を滅亡に追いやった源義経(九郎判官義経)が、のちに兄の頼朝から討伐を受けた際に生まれた用語です。

第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」といった心理現象を指します。

同じ感情が、平家の落人に対してもあったとしてもおかしくなく、あえて彼ら落人のことを追及したり、話題にすることすらタブーとなっていたと考えられます。かくして、長い年月のうちには、平家の隠れ里は伝説となり、やがては「桃源郷」として神秘的な存在になっていきます。

そうした中においては、ある日偶然にもそうした場所にうっかり足を踏み入れてしまった、といった話も出てきます。たとえば、貧しい家の女が小川に沿って蕗(ふき)を採っていく内に、道に迷って谷の奥深くにまで分け入り、豪勢な御殿を発見して中に入りますが、人の姿が見えないので怖くなり逃げ出した、といった類の話です。

そして、そうした話には、やがて尾ひれがつき、お伽噺の形態を帯びるようになっていきます。後日、その貧し家の女が小川で洗い物をしていると、上流から赤い椀が流れて来ます。その椀を使うと穀物をいくら使っても減らず、その家はやがて村一番の金持ちになっていく、といった具合です。

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東北、関東地方には、このように訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家の話が数多く残っており、山中のこの種の家は「迷い家(まよいが)」と呼ばれ、マヨイガが転じて、マヨヒガとも呼ぶようになりました。

柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、「遠野物語」によれば、迷い家とは訪れた者に富貴を授ける不思議な家であり、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよい、というものでした。

転じて、無欲ゆえに富を授かった貧しい家の者が、迷い家を訪れることで救われることになった、という成功譚と、欲をもったせいでその富が身を滅ぼす原因になったという失敗譚のふたつが一対になってそこに描かれています。

こうした桃源郷は一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられ、「隠れ世」とも呼びならわされてきました。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、などという話が語り継がれています。

そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごします。

が、いったん外部の世界に戻り、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできません。奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地はある種の「霊界」ともいえるような場所でしょう。何の憂いもなく平和な世界であり、しかも人間の世界とは違う時の流れがあります。

岩手県和賀・鬼柳村(現・東和賀郡北上市)にはこんな話があります。あるとき、「扇田甚内」という人物が、朝早く起きて沼を見ると若い女が手招きをしていました。同じことが2、3日毎朝続いたので近くへ行ってみると夫婦の約束をするため家に来てくれといいます。女はこの世に類のない艶やかさであり、甚内は一目ぼれしてしまいます。

女の後を付いていくと見たこともないような世界に着き、家に着けば美しい女達があまたいて甚内を主のように尊敬してくれます。やがて女の一人と契りを結びますが、月日が流れるにつれ、ふるさとの妻子が気にかかりはじめます。

そのこと女に話すと、家にいない間に男の家を有徳富貴にしておいたから案ずるな、といいます。それでも甚内が帰ろうとすると、女は口外してはならぬと約束させ、ここでの生活のことを外で語れば、あなたとは二度とは会われぬだろう、と泣きます。

それを振り切るようにして、男が家へ帰ると、なるほど実家は豊かになっていました。ところが、1ヶ月とばかり思っていたが三年の月日がたっており、甚内は死んだものとされ、自分の法事まで終わっていました。

家内にどこに居たと問いただされ、真実を吐くと、たちまちの内に甚内は腰を折って気絶し、そのまま不具廃人となりました。そしてそれ以前の貧乏になり、つまらぬ一生を送った、とされます。

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こうした話は、無論平家の落人伝説とは関係なく、全国に伝わる、民話、伝説にみられる一種の山仙郷のお話です。

が、このような隠れ里は地下の国や深山幽谷といった、いかにもありそうな、一応到達可能そうな場所に置いているところが特徴的であり、そこに平家の落人が住んでいてもおかしくない、と人々に思わせるところがあります。

ただ、その伝説の発展形は、かなり現実に近い話とお伽噺の類の話の大きく分けてふたつがあるようです。各地の隠れ里伝承を比較研究した柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしています。

とくに西日本によくある、夢幻的な話の中には、隠れ里を訪ねた者が贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものが多く、また隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多いようです。

また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたというものが多く、時間の経ち方が違っています。こうした逸話は隠れ里の異境性をよく表しており、「浦島太郎」などの説話との共通点も見られます。

一方では、同じ西日本にあって、四国にはかなり現実味を帯びた平家の隠れ里伝説も数多く残っています。

徳島県三好市東祖谷阿佐には、屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、追手に脅かされ祖谷に住んだというは話が残っています。

阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存します。この平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、他の平家落人伝承より注目度が高いとしてされます。

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このほか、江川崎から、直線で50kmほど北東にある同じ高知県の越知町にある横倉山には、安徳天皇の陵墓ではないか、とされる墓があるそうです。「屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲した」との言い伝えがあるといい、歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常ではないといわれます。

また、この地にある横倉山の前を流れる川は、仁淀川と呼ばれているほか、京都ゆかりの地名が多く存在します。北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ、とされます。周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置くだけ、といった風習があり、これは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致します。

これらのことから、香川県の屋島から徳島県の東祖谷へと逃れた平家一門が、最後に住み着いた場所である可能性は高い、と考えられているようです。

片や、残念ながら、江川崎の半家が、平家の落人の里であるという確証データはほとんど何もありません。

が、ここからほど近い愛媛県八幡浜市の佐田岬には、壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が上陸したという話があります。すぐそばの「伊方」を流れる、宮内川上流の谷、「平家谷」に隠れ住んだとの言い伝えがあり、それによれば、落人たちは8名で畑を開き暮らしていました。が、やがて源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったといます。

平家谷には平家神社がまつられているといい、もしかしたら、この伊方の落ち武者の他の生き残りやその家族が半家に辿りつき、ここに住み着いたのやもしれません。

……想像は膨らむばかりです。

さらに想像を膨らませたいところですが、まるで私自身が、桃源郷にいたかのごとく、このブログを書いてしまっていました。そのための時間も一瞬であったように思えるものが、気が付けばかなり長い時間になってしまっているようです。

この続きは、このあとの熱帯夜の寝苦しい宵に夢としてでも見ることとし、今日の項は、そろそろここで終わりにしたいと思います。

それにしてもはてさて、梅雨は明けたのでしょうか…

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