ああ広陵

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この夏の高校野球では、地元広島の高校が大活躍したので我が家でも大盛り上がりでした。

普段はあまり見ない高校野球ですが、今年は2回戦から決勝戦までほぼすべてのイニングを鑑賞しました。

この広陵高校の怪物球児、中村奨成君の活躍もさることながら、広島勢が決勝戦まで行ったのは、10年ぶりのことであり、これは久々の快挙です。同じく地元といえる山口の決勝進出となると、32年前の1985年に遡り、このときは宇部商業がPL学園に敗れています。

なかなか郷里の球児たちが活躍する場を見る機会もない中で、今年は5試合も応援できたということで、骨折療養中の私としては大きな慰みになりました。

残念ながら、10年前と同じく今年も優勝はできませんでしたが、プロ野球の広島カープのほうは、どうやらぶっちぎりでペナントレースを制しそうな勢いなので、優勝の美酒を味わうのはこちらで、ということにしましょう。もっとも主砲の鈴木誠也外野手が右足の骨折とのことで、今シーズン終盤での活躍が見れそうもないのが残念ですが。



ところで、この広陵高校ですが、広島では一二を争うほど古い歴史を持つ学校です。明治40年(1907年)、呉服商・石田米助が出資して自らが校主となり、校長に鶴虎太郎を迎えて、旧制中学校として認可されました。

この二人、地元でもあまり知られていないようですが、教育者として広島の街に大きな貢献をした人物です。石田米助のほうは、このほか広島山陽高校、広島経済大学などを設立。一方の鶴虎太郎も。広陵高校、広島国際学院、鶴学園でといった学園を次々に創設したほか、他にも小中学校などの教育分野で多大な足跡を残しています。

広陵高校は正式には広陵学園広陵高等学校といい、現在は広島市の北西部、安佐南区にあります。大正期には現在の修道中学校・修道高等学校の前身である修道中学、明道中学(1923年廃校)とともに私立の中では広島三中と呼ばれていた程の名門校でした。

しかし、1945年8月6日、原子爆弾の投下により講堂及び教室一棟が倒壊。戦後しばらくは休校していたようですが、1948年5月の学制改革により広陵高等学校(全日制普通科)として改めて開校。1950年には定時制(普通科)を併設するとともに、1953年には 全日制・定時制とも商業科を併設するなど、規模を拡大しました。

1960年代までは、広島南部、海にも近い宇品というところに立地していましたが、1971年に安佐南区に広陵幼稚園を開園したのを契機に、翌々年の1973年、現在の安佐南区に全面移転。翌年には理数科を新設しました。

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実は80年代までは男子校でした。が、1998年4月 男女共学に移行、2000年頃までに定時制の普通科と商業科を廃止し、現在に至っています。そして校訓「質実剛健」のとおり、中身のぎっしり詰まった多数の良質な卒業生を世に送り出し、野球界だけでなく今の広島の街を支えています。

「広陵高校野球部 有志の会」のHPによれば、広陵高校野球部の歴史の始まりは、旧制中学として発足した明治40年からすぐの明治44年(1911年)のことで、「庭球部と合体し“球術部”として誕生」とあります。翌年球術部が解体して野球部と庭球部に分離しており、「野球部」の名称でのスタートは明治45年(1912年)になるようです。

大正5年(1916年)8月の第2回山陽大会への出場が公式戦への初参加で、大正12年(1923年)の第1回夏の全国大会に初出場、翌年の第2回 センバツ大会にも初出場して以来、何度も甲子園に行っています。日本の高校野球では広島商業ともども、広島県のみならず全国的にも有名で、1926年、1991年、2003年といずれも春の選抜大会で3回優勝しており、「春の広陵」の異名があります。

夏の選手権大会では1927年、1967年、2007年と、これまでも40年おきに3度決勝へ進出していますが、いずれも準優勝に終わっています。準優勝は春夏合計6回で、今回を入れれば7回にもなります。

卒業生としては、漫才師の島田洋七や演歌歌手の角川博、マジシャンのふじいあきら、などがいるほか、プロ野球界にはそれこそゴマンといった卒業生がいます。

野球界において、おそらく最も有名な選手は金本知憲、現阪神タイガース監督(第33代)でしょう。南区青崎出身で、中学校はその近くにある大洲中学校を卒業しています。実はどちらも私の母校であり、少々くち幅ったい感じもしますが。後輩ということになります。

広島市立青崎小学校4年時にリトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めましたが、練習についていけず、また体育の授業で手を骨折して練習が出来なくなったこともあり、それを口実に1年で退部したそうです。一学年下に、1990年代の大洋・横浜で主力投手として活躍した野村弘樹がおり、同チームのエースで四番打者でした。

その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー。広陵高校に入学して硬式野球部に入部したあと頭角を現しました。広陵では2年生からレギュラーとなり、左翼手として1985年の広島大会決勝に進出しましたが、広島工業に敗退。翌年も広島大会で敗れ、全国選手権出場はありませんでした。

高校では通算20本塁打を打ち、東北福祉大学に入学。大学野球で活躍したあと、広島カープにドラフト4位指名で入団していますが、その後の活躍はご存知のとおりです。

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このほか、広陵出身のプロ野球選手としては、長年、阪神タイガースで投手として活躍した福原忍、巨人・日ハムの二岡智宏、阪神タイガースに現役で所属する新井良太などがいます。ちなみに、この新井選手は広島東洋カープの新井貴浩の実弟です。

このほか現役では、カープのエースピッチャー、野村祐輔や中継ぎや抑えで活躍中の中田廉、巨人の小林誠司捕手などがおり、プロ野球だけでなくアマチュアや野球界にも多数の人材を輩出しています。野球以外では、日本初の柔道五輪メダリスト、かつ1964年東京五輪金メダリスト、中谷雄英も広陵高校の出身です。

この広陵高校野球部の歴史が長いことは前述のとおりですが、戦前の1936年にプロ野球連盟(日本職業野球連盟)が発足した当時から既にここに多数の名選手を送り出しています。

広陵中学(現・広陵高校)を経て慶応大学卒業後、八幡製鐵所野球部など社会人野球で活躍していた「加藤喜作」は、1940年、創設三年目のプロ野球南海軍に助監督兼選手として入団。戦時下の1942年、南海三代目の監督に就任し、終戦前年の1944年まで指揮を執りました。

また、広陵中学時代から捕手として活躍した、「小川年安」はおそらく、広島出身の選手として初めてプロ野球登録をした選手です。慶応大学に入学し、水原茂や宮武三郎といったその後の草創期の日本プロ野球の人気を支えた投手とバッテリーを組みました。また強打の4番としてスター選手となり、2度目の慶應義塾大学野球部の優勝に貢献しました。

慶応卒業後の1935年、この年創設された大阪タイガースと契約、入団。背番号2。翌1936年、プロ野球リーグが開幕すると、この年は主に3番を任され、チームトップの打率.342を記録。誰も打てなかった巨人沢村栄治のホップする剛速球を、「大根切り打法」で攻略するなど活躍しました。しかし、その後招集され、1937年(昭和12年)、東京中野の第一電信連隊へ入隊。惜しむらく1944年に中国で戦死した、とされます。

正確な没日、没地などの詳細は不明で、出征後帰還しないため戦死として記録されたものです。享年33。タイガースの初代主将で、現役時代には名選手、監督時代にも名監督と謳われた松木謙治郎は、その著書の中で「復員していれば、人柄からみて必ずタイガースの監督になっていた」と述べています。

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この小川年安とともに広陵時代にバッテリーを組んでいた選手に「田部武雄」という人がいます。その実力は小川に勝るとも劣らないといわれたほどの選手でした。東京巨人軍創成期の1番打者、主将として活躍し、巨人で最初に背番号3を着けた選手で、現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもあります。

戦時中に亡くなった巨人軍の名選手といえば沢村栄治が真っ先に思い起こされますが、1936年に日本職業野球連盟が結成され、アメリカへ遠征壮行会が行われたとき、巨人の選手の中でアメリカ大リーグが最もマークしていたのが沢村とこの田部だったといわれます。沢村の影に隠れてしまっていますが、もっと評価されてもいいのに、と思わせる人物です。

なので、今少し詳しくこの人物について書いてみたいと思います。

田部武雄は1906年3月28日、広島県広島市袋町(現在の中区)に生まれました。8人兄弟の5番目で早くに父を亡くし、家庭の事情は苦しかったようですが、お母さんは苦労してこの子供たちを逞しく育てたようです。

その甲斐あってか、次兄・謙二は、1915年に初開催された全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に、広島一中(現・広島国泰寺高校)の6番・捕手として出場しました。実はこれも私の母校になります。どうも今日はそういう日のようです。

この試合で指を痛め付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話が残っています。ちなみ広島一中(国泰寺高校)はその後サッカーの名門になりましたが、野球部は現在に至るまで二度目の全国大会出場は成し遂げていません。

この兄はその後、毎日新聞広島支局の記者となり、セミプロ野球団「大阪毎日野球団」の結成にコーチ兼任格として参加。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めました。上述の加藤喜作と同じ袋町小学校出身で、少年野球チーム・旭ボーイズに所属していたといいます。

袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学しますが、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなったことです。そのころ長兄と三兄は満州に渡って職についており、その仕送りもあったでしょうが生活は苦しかったと考えられます。兄の死を契機にこのとき16歳だった武雄は、自らも収入を得るため単身満州に渡ることを決心します。

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1924年、大陸に渡り、奉天でサラリーマンとなり、大連実業団に参加し野球を続けました。大連実業は、当時、人気絶頂だった東京六大学のスタープレーヤーがこぞって海を渡って結成されたチームで、満鉄中心の「大連満洲倶楽部)」と並んで社会人野球の都市対抗戦では、ぶっちぎりの強さを誇っていました。

武雄が満州に渡った理由としては家計の問題以外にも複雑な家庭環境があったこと(親戚か他の兄弟との確執?)が取り沙汰されており、学校あげての野球部満州遠征のメンバーに加えられなかった不満があったことなども理由ではなかったかと言われています。

他に彼の野球に関する天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられた、といった説もありますが、はっきりしたことはわかっていません。とまれ六大学出身の花形選手ばかりだというのに、いきなりレギュラーポジションを掴み、再三戦った「満州倶楽部」との“実満戦”は「大連の早慶戦」と呼ばれ、人気を博したといいます。

この当時の田部の勤務先は「銭荘」だったようで、これは、中国における旧式の金融機関のことです。この当時、事実上の本位通貨として通用していた銀の固形体である銀錠(馬の蹄の形をしており、馬蹄銀と呼ばれ広く用いられていた銀貨)と銅銭の両替を行い、その際に手数料を得ることが主業務であり、比較的お気軽な職業だったようです。

こうして満州で職業人野球を満喫していた田部ですが、1926年からは、内地の実業団と戦うために内地に戻り、逆に国内各地を転戦するようになります。大連実業の1番二塁手として内地を転戦していたころ、そのころの監督で明治大学OBだった中島謙などから、明治大学への進学を勧められました。これを受けて帰国し広陵中学4年に復学(このころの中学は5年生で現在の高1に相当)。

この当時は広陵から多くのOBが明大野球部に進んでおり、進学しやすくするための措置だったようです。当時の広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年復学」と書かれています。当時中学は5年が修了期限でしたが、4年修了と同時に大学に進学することも可能であり、大学へ行く資格を取るための一時編入だったのでしょう。

この内地で暮らした短い期間にも彼は野球に没頭しています。この頃既に21歳になっていた田部は、この年の春の選抜大会で「中学生」として甲子園に出場。この当時の選抜には年齢・学年とも制限が無かったためです。広陵はその前年度に初優勝しており、この満州がえりの剛腕投手の加入をチームは諸手を挙げて歓迎しました。

このころの広陵野球部は、田部を加えて史上最強チームと言われ、八十川胖(のち明大)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)などの名選手がそろっており、その後の「野球王国」の礎を築きつつありました。

田部は、春連覇を狙いエース3番として勝ち進み決勝までいきますが、快速球左腕小川正太郎(のちに早慶戦など大学野球で活躍)を擁する和歌山中学(和中)の前に惜しくも敗退しました。この大会で田部はピッチャーとして奮闘しましたが、バッターとしてもランニングホームランを打つなど走攻守に渡って活躍しました。

しかし、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかったといいます。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていましたがそれも叶わず、試合後、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたといいます。

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このころ田部はまだ大連実業に籍を置いており、この年の夏の選手権は出場できませんでした。その理由は、毎日新聞が主催する春の「選抜」と異なり、夏の大会では主催者である朝日新聞が他チームから移籍してきたメンバーの出場を制限していたためです。

この当時、田部のように実力十分な選手が加わることで、チーム力がすぐに上昇する現実が、中学校の選手争奪戦を激しくしていました。田部のように「放浪生活」を続けて各チームを渡り歩くといったやり方は中等野球選抜でも問題となっており、夏の選手権大会ではその後1932年には、「在学一年以上」「落第生の出場禁止」など出場資格についての制限が加えられました。

夏の選手権に出場できなかった田部は、その後広陵中を後にして大連実業に復帰したようです。が、その後、大学にも進学しており、進学に必要な卒業資格は得ていたようです。推論ばかりですが、これはちょうどこの時期の田部の行動に関する資料が欠落しているためです。おそらく、いろいろと波風の立つことのあった広陵での野球生活は早めに切り上げ、進学までの短い時間を住み慣れた大連で過ごしたい、といったことだったでしょう。

1928年9月、鮮満遠征にやってきた明治大学との試合では、大連実業の1番遊撃手として登場。ピッチャーが一塁に山なりの牽制球を投げるのを見てとると、三塁から脱兎の如く本塁を駆け抜け見事ホームスチールを成功させました。逆に田部のいた大連実業が東京に遠征して早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学と対戦する、ということもあったようです。

同じ年の1928年、時期はよくわかりませんが4月以外の季節に、22歳で明治大学の3年に進学。「広陵学園野球クラブ会員名簿」には昭和4年(1929年)広陵を卒業と明記されているため、広陵中に籍を置いたまま明治大学に進学したことになります。

現在なら、二重学歴となり、決して認められることはありませんが、この当時は明治大正のおおらかな雰囲気がまだ残っている時代です。個人の才能を十分に伸ばすことができるのならば、といった緩やかな教育条件が整っていたものと推察されます。ただ、この入学問題のため「明大は田部を買った」「球界の不祥事」などと大きく批判されました。

明治入りした田部はすぐにレギュラーを確保、主に二塁と遊撃を守りましたが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取りました。現在の日ハムの二刀流、大谷翔平ばりの活躍ですが、この当時の大学野球はプロのレベルに限りなく近かったようで、現在の大谷選手と比較しても遜色はなかったかもしれません。

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投手としては、踏み出した左足を地面に付けて、やや遅らせて球を投げるというボークすれすれの新しいモーションを編み出し、この投げ方は田部以外のピッチャーも真似し、当時流行したといいます。三塁にけん制球を投げるふりをし、反転、一塁へ牽制球を投げるという戦法も田部が編み出したものだそうです。

またランナーとしても優秀でした。塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし、片足を突き出してピッチャーを挑発。観客の大歓声が沸き起こるなか、まるで隣の家に行くようにやすやすと盗塁やってのけたといいます。

さらに俊足強肩の外野手としても知られ、慶明戦でセンターを守っていた田部は、ランナー三塁で大きなセンターフライを背走して好捕。100m近い距離からバックホームをしてランナーを刺したこともあったといいます。

全てを兼ね備えた天才選手といわれ、この当時の明大の黄金時代に大いに貢献しました。リーグ通算67試合出場の間、22打点で36盗塁を記録しましたが259打数56安打で打率.216、本塁打は0本で、大砲というよりもマシンガンといったところでしょうか。

ただ、東京六大学を代表する美男子ともいわれ、明治の練習に女性がくれば九割が田部のファンだったといい、野球部の同僚たちは田部のファンからの差し入れのケーキや寿司をよく回してもらったといいます。

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1931年、読売新聞社主催の「日米野球」では日本選抜チームの外野手としてファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場、初来日した鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブら大物ら米大リーグ選手と対戦しました。もっともこの交流戦では、日本は初めてオールスターチームを結成して挑んだものの、17戦全敗に終わっっています。

1932年明治大学を卒業後、東京市の深川にあった藤倉電線に入社。このころはまだプロ野球は発足しておらず、田部の野球選手としての活躍の場は、アマか社会人野球だけでした。東京市に本拠地を置くクラブチーム、「東京倶楽部」の一員として第6回全日本都市対抗野球大会に出場。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場しましたが、この大会優勝した全神戸に田部の三塁への暴走等で敗れました。

このころ、明治在学中から日活のトップ女優であった伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせました。父・伏見三郎が新派の俳優で、信子は早くから姉の直江と共に舞台の子役などで新派の舞台に出演し、1933年(昭和8年)、松竹蒲田に入社。五所平之助監督「十九の春」主演をキッカケに人気女優となり、小津安二郎監督の「出来ごころ」に人気男優の大日方伝(おびなたでん)と共演し、人気を不動のものとしました。

しかし騒いでいたのはマスコミだけで、その実は深いつきあいではなかったようです。田部の本命は東京日本橋の老舗乾物問屋のお嬢さんだったそうで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消しました。

日本を去って南洋ジャワ島の開拓に行ったと当時の雑誌に書き立たれましたが、実際は山口県の小さな鉄道会社の身を落ち着けた後、1934年に福岡県の九州電気軌道(西日本鉄道の前身)に転職し、車掌をしていました。

しかし彼ほどの逸材を野球界が放っておくはずもなく、1934年の日米野球のアメリカ遠征チームで監督を務めていた「三宅大輔」が彼を勧誘します。三宅は慶應で名捕手として鳴らし、卒業後は1927年(昭和2年)から始まった第1回全日本都市対抗野球大会に出場し大会第1号本塁打を放ったことで知られています。壮年のこのころ日米親善野球の日本選抜チームの選手を中心にした「大日本東京野球倶楽部」の結成を画策していました。

その初代監督に就任すると田部を東京に呼び戻し、3年ぶりに上京した田部はこうして大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。結成時の背番号は3でした。

仲立ちしたのは大学の先輩の小西得郎で、都市対抗野球大会に審判員として出場し、第1回大会では、開幕戦の球審を務めていました。大日本東京野球倶楽部に入団した田部は、1935年の内地巡業時に背番号が1となり、初代主将二出川延明の退団に伴い、2代目主将となりました。

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東京六大学出身で端整なマスクに、ショーマンシップ溢れたプレースタイルは、男女問わず非常に人気が高く、また伝説的な韋駄天選手と持ち上げられました。ただ、それなりの実力は持ち合わせており、1935年の同チームの第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録しました。

また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、アメリカ人を驚かせるとともに「タビー」の愛称を獲得しました。

1936年、大日本東京野球倶楽部は、ジャイアンツを巨人と訳した「東京巨人軍」に正式改称。このころの国内の巡業試合での巨人のライバルの一つは、東京鉄道局野球部(のちの国鉄スワローズの前身)でしたが、この東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治であり、田部対策として内野安打での出塁を防ぐ前進守備の田部シフトを敷いたといいます。

同年2月5日、日本職業野球連盟(プロ野球)が結成され、直後の2月14日からの第2次アメリカ遠征では、全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板しました。沢村と二人だけ写真入りで取り上げられ、共にメジャーリーグから勧誘を受けたのはこのときです。

この1936年という年は、翌年の1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の前年であり、その後太平洋戦争に突入するきっかけとなるこの戦争を境に日米関係は急速に悪化していきます。そうした雰囲気の中、さすがにメジャーへの参加もままならなかったでしょう。

沢村も同様であり、無論日本初のメジャーリーガーは実現していません。ちなみに、日本人初のメジャーリーガーは、1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツに投手として入団した村上雅則が初めてになります(通算成績:54試合5勝1敗9S 防御率3.43)。

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帰国後、主将としての役目上、選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団します。この当時、沢村を先頭として選手たちのあいだにチーム内の学閥に対する不公平などへの不満があり、また渡米前に阪急へ移籍させられた恩人、三宅大輔と仲の良かった内野手、苅田久徳(東京セネタース(現日ハム)へ移籍)が火種となりました。

この年、巨人は77試合を43勝33敗1分の成績で大阪タイガース(現阪神)を破って初優勝を飾りましたが、浅沼誉夫新監督と選手の間では軋轢が多く、勇退を要求する声も高くなりました。主将の田部主将と水原茂副将を中心に、メンバーから署名捺印を集めて正力松太郎に直訴しましたが、結局受け入れられませんでした。

田部は三宅が監督となった阪急軍に転じるつもりでしたが、移籍は認めないという規定が契約書に含まれていたことから進退を迫られることになります。結局、日本初のプロ野球リーグが開幕したというのに、退団を選択。同年秋、田部を筆頭に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団の設立も画策されたようですが、これも頓挫。

こうして田部は日本を去り再び満州大連に戻りました。当時の大連は日本からの資本が続々と投入された時期で活気にあふれており、田部もトラック運送業を始め事業も成功しました。元々大連でサラリーマンとして勤めていた田部は、実業野球に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれます。

その言葉通り、1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場、準優勝するなど、古巣での嬉々としたプレーが目立っていました。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせ、また1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場しています。

しかし、米軍相手の泥沼戦争はこのころ最終局面に向かっていました。戦争末期の1944年、ついに田部も大連で現地召集されます。すぐに戦況悪化の激戦地、沖縄に送られましたが、1945年、地上戦最中の6月、消息を絶ちました。沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡した、と推測されています。没日ほか詳細は不明。満39歳没。

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広陵時代、バッテリーを組んでいた小川年安が入団したタイガースの初代主将・松木謙治郎は田部とともに明治大学を卒業しており、親交も深かったようで、その著書の中で田部の事にも触れています。それによれば田部は、同年ロサンゼルスオリンピックに出場し、東洋人として初めて陸上短距離で入賞した「吉岡隆徳」と競争したことがあったそうです。

どちらが速いか、とこの当時“暁の超特急”といわれた吉岡に挑戦したといいますが、神宮球場でのこの勝負において、田部は馴れない陸上用のスパイクを履きながら後半までリードしたといいます。吉岡は当時世界で一番速いとも言われていたので、これが本当なら50mなら田部が世界一速かったという事になります。

ちなみに、吉岡は現役を退いたあと1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任、戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わりました。また、1952年には広島カープの初代トレーナーを勤めるなど当地のスポーツ界に功績を残しています。

田部はその生涯独身ではなく、大連に戻った1942年、結婚して子供を設けました。男の子だったそうで、明大中野高校を卒業しましたが、父と同じ明治大学には進学しなかったようです。戦後の1950年から1952年ころ東映フライヤーズでバットボーイをしていたようで、そのころはまだ母親は息災だったようです。

田部親子はその後、野球関係者に連絡を取ることはなかったといいます。しかし、松木謙治郎が1957年に大映スターズの監督として沖縄へ行った時、田部親子を見たと話しています。沖縄摩文仁海岸の崖の上でひっそりと祈る二人を見たといいますが、その後、メディア等の表に出ることはなかったようです。

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれています。1969年、野球殿堂入り。

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まだまだ今も左利き

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前回のブログを読まれた方は、ある疑問を持たれたことでしょう。

それは、右手が不自由なくせに、いったいどうやってブログを書いているの? ということ。

たしかに右手の骨折によりギブスをはめてはいるのですが、私の場合、医者先生に強くお願いをして、右手の指の先端と他の4本の指の第一関節の部分だけはフリーになるようしてもらっています。

そのおかげで、なんとかパソコンのキーボードだけは叩ける、というわけなのですが、それでも文字をつづるのに、ふだんの5割増し以上時間がかかるのに加え、パソコンの操作以外の右手の操作はほとんどできません。服のボタンをはめるのも一苦労といったありさまで、その他食事も入浴もほとんどを左手で行う毎日が続いています。

かくして、大部分の人が右利きのこの世において、左利きの人の不便さ、あるいは障害があって左手しか使えない方の不自由さを、まざまざと感じているわけなのです。

それならばそれで、ということで、では左手利きであることについて、スポーツ以外ではどんなメリットがあるのだろうと思いつき、調べてみることにしました。

すると、主として人文科学的な理由により、少数派である左利きにとってのほうが有利になっていることもいくつかあるようです。

たとえば、文字を縦書きするときに手が汚れない、ということがあります。但し、これは日本語や中国語の・韓国語などのように右から左に縦書きする言語の場合であって、英語やモンゴル語のように行を左から右に書く言語の場合は当てはまりません。ただ、アラビア語のように横書きではあるものの、右から左に書く言語の場合は、左利きの方が手を汚さずに済むようです。



このほか、現代に住む我々にとって不可欠な道具となっているコンピュータにおいては、これを扱うためのメインの入力機器となるキーボードの配列が左利きにとって有利な配列だといいます。

例えば、もっとも一般的なQWERTY配列は、左手の使用頻度のほうがわずかながら右手より多いのだそうで、限られた時間内に数多く文章を書かなければならない、といったシチュエーションでは、左利きのほうが多少なりとも有利になる、ということになるようです。

このほか、ビデオゲームのコントローラは、業務用ゲーム・家庭用ゲームを問わず、方向キーやジョイスティックを左手で操作するものが標準となっているそうです。

ゲームの種類にもよりますが、多くの場合、複雑・微妙な操作を要求されるのは左手のほうだといいます。ほとんどコンピュータゲームをやらない私にはよくわかりませんが、ゲーマーの中にはなるほど、と思う人も多いのかもしれません。ゲームダコが左手指にできることが多いことも、ビデオゲームのコントローラが左手偏重である証です。

なぜ左手のほうを難しくしているのかはよくわかりませんが、こうした風習は初期の業務用ゲームの時代からの慣習のようです。推測ですが、簡単にゲームをクリアしてしまうと面白くないので、利き手の多い右手よりも左手のほうに重要な操作を多くしたのかもしれません。

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ほかにも、世界における左利きの割合は約10%なのに対し、MENSA(知能指数130以上の人しか入れない団体)の会員の2割は左利きだそうです。また左利きのほうが頭脳明晰な人が多いということを反映してか、平均的に左利きの男性は右利きの男性よりも15パーセント収入が多いのだそうです。

さらに、これは必ずしも左利きの人だけが有利とはいえませんが、一般に左手を使用している時は、左の耳はゆっくりとした音の変化に敏感になるといわれているようです。つまり、どちらの手を使っているかによって音の聴こえ方が変わってくる、というわけで、左手を多用する左利きの人は右利きの人とはまた違った音感を持っている可能性があります。音楽の世界などではよりクリエイティブな活動ができるのかもしれません。

以上、私が調べた限りの左利きであるメリットですが、たかがそんなもんかい、と思われる方もいるでしょう。ただ、前回のブログでも書いたように、とくにスポーツの世界において、左利きはサウスポートして歓迎されていますし、一般には左利きのほうが脳が活性化されやすく、とくに芸術的な才能に恵まれることが多い、といったことが言われているようです。

さらに左利きにとってうれしいのは、最近ではユニバーサルデザインの視点から、右利き左利きどちらでも快適に暮らせる社会にしようとの動きも出始めていることです。

例えば、マウスにも左利き専用のものがあり、左利き専用マウスを発売する会社も増えています。

そのひとつ、ロジテック社のCEOのゲリーノ・デルーカは左利きだそうで、マイクロソフトのビル・ゲイツも左利きであり、そうしたトップの意向もあるのかもしれません。もっともマイクロソフトは左利き専用のマウスは発売していません。ただ、左右対称のマウスを基本形としているため、どちらの手でも同じように使えるのだそうです。

このほか、大手民鉄、JRが導入している一部の自動改札は、左手で使う場面も考え、券投入口が左に5度傾いており、これで投入がしやすくなるといいます(ただし、小児検知センサーを付ける支柱がない“バーレススタイル”と呼ばれる機種のみ)。

他にも左右両開きの冷蔵庫など家電製品にも対応品があり、左利き用のはさみなどの文房具は多くの文具店にみられるほか、最近では左利き文具の専門店も増えているといいます。

そんな少数派のための商品を作っていて儲かるのかしらん、と思うわけですが、社会的に左利きのような少数派に迎合できる企業というのは、ボランティア精神に富んでいるということでそれだけ信用も高くなります。株価などにも反映するため結果的には利益につながる、ということなのでしょう。

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ところで、社会的といえば、現在欧米を中心に世界中の道路に「右側通行」が多いのは、ナポレンオの影響だ、といわれているようです。

フランス皇帝ナポレオンが登場する前、ヨーロッパのほとんどの国は左側通行でした。しかし左側通行で馬に乗っていると、左利きのナポレオンは戦闘になった時に右側から向かってくる敵を切り付けにくい、ということがあったようです。このため、自分が統治している国々の道をすべて右側通行にしてしまったのだそうです。

かくして、その後ナポレオンに占領された国々でも次々に右側通行が導入されるようになっていき、現在でも右側通行の国が多いのはその名残りなのだとか。ところが、ヨーロッパ諸国ではイギリスだけが左側通行であり、これはこの国が唯一フランスの手に落ちなかったからだといわれています。

他にはオーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、インド、香港、ケニア、南アフリカ共和国などが左側通行ですが、これらの国はかつてイギリスの植民地であった地域です。タイのように植民地になっていない国でも、近代になってイギリスの制度や技術等を取り入れた際に、影響を受けて左側通行となった場合もあるようです。

では、日本も同じ理由で左側通行になったのでしょうか?

答えはノーです。その理由は日本独自のものであり、江戸時代より以前の武士の時代の名残だといわれています。

日本の路地は大変狭い場所が多く、対面で右側通行になったときに、左腰に差している刀の鞘(さや)同士がぶつかってしまうので、「武士の喧嘩の種」によくなっていたようです。この無用な争いを避けるために、侍のルールとして左側通行が定着していったという説が有力です。

やがて、江戸幕府が終わり、明治時代に入った際、鉄道や道路などの交通における新しい技術の導入にあたってはフランスよりもイギリスをお手本にすることが多く、同じく左側通行の英国と友好を深めるためもあって、左側通行を正式に交通法とし定めたそうです。

このように、右か左かといった社会的な風習は、文化的・軍事的な理由のほか、驚くべきことにその時代の統治者が右利きか左利きかという事実に、文字通り「左右」されてきました。

こうした中、世界中、のみならず日本における文化・軍事面にも大きな影響を与えているアメリカ合衆国のリーダーについても、近年、左利きが多くなっている、ということが話題になっているようです。

実は、2017年の現在に至るまでの、直近の8人の大統領のうち5人が左利きだ、という事実をご存知でしょうか。トルーマンの時代まで戻れば、13人のうち5人(あるいは6人)が左利きだといい、1992年の大統領選挙では、有力候補であったジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、そしてロス・ペローの3人は全員左利きでした。

1996年の大統領選挙でも左利きに関係の深い候補が3人登場します。左利きのクリントンとペロー、そして第二次世界大戦中の怪我がもとで右手が麻痺してしまったことにより左手を使うようになったボブ・ドールです。加えて、2008年の大統領選挙においても、二大政党の候補者であったバラク・オバマとジョン・マケインの両方が左利きでした。

アメリカにおける左利きの人口比率は、他国と同様に約10%でしかありません。にもかかわらず、このように近年の大統領、大統領候補者に左利きの比率が高いように見えることについては、単なる偶然であるとする見方がある一方で、科学的な説明を考察する研究者も現れています。

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例えばカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教授で、神経遺伝学の権威として知られるダニエル・ゲシュビン(Daniel Geschwind)博士は、このように近年の大統領に左利きが多いことには何らかの意味がある、と言っています。

ゲシュビンは、人間の利き手に影響を与える要因と、左利き人と右利き人の脳構造の違いに関する研究で知られており、過去12人の大統領のうち6人が左利きであるということは統計的にも有意であるとし、研究の対象に値する、と述べました。

また、今年3月に亡くなった、遺伝子研究の第一人者で、インド系アメリカ人のアマル・クラー(Amar Klar)博士は、利き手の研究でも良く知られており、左利きの人たちは広範囲に物を考え、多くのノーベル賞受賞者や作家、画家が左利きに偏っていると指摘していました。クラーは、左利き、そして両利きは、両方の半球において言語を処理することができ、それにより、さらなる複雑な論理的思考が可能である、とも示唆していました。

さらに、米オンタリオ州、グェルフ大学の神経心理学者、マイケル・ピーターズ(Michael Peters)が20万人以上の被験者を対象にアンケート調査を行った結果、左利きの人の多くが、識字障害、喘息、注意欠陥多動性障害、同性愛になりにくいという結果が得られたといいます。これらは、「一般的な」生活を送る上においては障害になりうる可能性がある因子ばかりです(同性愛の場合は「障害」という表現は適当ではありませんが)。

ピーターズ博士は、左利きの人は右利きに適している世界でうまく暮らしていかなければならず、そのことが右利きよりも優位な「精神的回復力」を生みだすのではないかと指摘しました。つまり、左利きであることが、もともとのハンディである左利きということを十分に補うだけの新たな能力を逆に与える、ということのようです。

脳、特に大脳皮質が部分ごとに違う機能を担っているとする理論を、「脳機能局在論」といいます。これによれば、左側の大脳半球は通常、言語を司りますが、左利きの人の場合、この区分はそれほど明確になっていないことがわかっています。これについては、前回のブログでも少し述べましたが、左利きの人の脳は、何かに集中するときに使う脳の部分が右利きの人よりもより分散しているようです。

左利きの人のうち7人に一人は、言葉を使っているとき、脳の左だけでなく左右両方を使って処理していることもわかっており、一般的な右利きの人々の場合、こうしたことができるのは20人に一人にすぎません。

このことは、左利きであることと、言語を操る上での器用さの間には深い相関があることを示しており、左利きの場合、脳内で言語に割り当てられる場所が増加するため、高いコミュニケーション能力が得られている可能性があります。

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本題に戻りましょう。近年の大統領、中でもとくにレーガン、クリントン、そしてオバマ元大統領はとくに演説が上手だった、と記憶しているのは私だけではないと思います。左利きの彼らは、その高い言語能力を駆使して、合衆国トップに登り詰めた、といえるのかもしれません。

ところが、アメリカ合衆国大統領の利き手に関しては、彼らより以前の大統領、ここ数十年より以前のリーダーに関しては確実に特定することは、極めて困難だといいます。なぜかといえば、アメリカ合衆国が建国された18世紀から19世紀にかけて、左利きの人は障害者と見做され、教師の多くは左利きの生徒に対してこれをやめさせるように努力したためです。

2017年現在、データ上では、アメリカの左利きの人の割合はわずか2%になっています。ただしその代わり、両利きの人の割合が約28%もあり、これは実は、アメリカで左利きに生まれた人の多くは、右手も使える様にして、後天的に両利きになった人が多いためです。

伝統的に左利きを矯正して両利きにすることが行われてきたという経緯があり、その結果、左利きの人の割合が少なく見えてしまっていますが、平均的には他国と同じ10%前後と考えられています。

こうした理由のため、20世紀初期より前の大統領に関しては、利き手を確実に決定できるような出典はほとんど存在していません。左利きであった最初の大統領は、第31代のハーバート・フーヴァー(任期1929 – 1933年)であったとされていますが、これについても議論が存在します。

ましてや、これより前に左利きの大統領がいたという証拠はありませんが、第20代大統領の、ジェームズ・ガーフィールド(任期1881年の6か月間、同年7月暗殺により死去)は右手でラテン語を、そして左手で古代ギリシア語を同時に書くことができたと言われています。つまり両利きです。

また、第40代のロナルド・レーガンも、必ずしも左利きだったと確認されているわけではありません。左のほうが利き手として優勢と噂されることが多かっただけで、学校の教師や両親に強制的に右利きにされたのではないか、といわれています。もし事実であれば、レーガンも元は左利き由来の両利き、ということになります。

二度のピューリッツァー賞を受けた有名な伝記作家、デビッド・マッカロウの研究によれば、第33代大統領のハリー・S・トルーマンも同様に左利きである、と噂された人物だったようです。

トルーマンといえば、日本への原子爆弾投下を指示したとされ、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している指導者です。また、全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領であり、この人もまた演説が上手なことで定評がありました。

1940年から1941年にかけ、アメリカでは、NTSC(National Television System Committee)が白黒テレビの標準方式を走査線525本、60フィールド方式に決定し、世界に先駆けて白黒テレビの放送が開始されました。1945年4月に大統領に就任したトルーマン大統領は、このテレビを高く評価し、その前年の大統領選における主な演説のすべてにおいて、このテレビを最大限に活用するよう、部下たちに指示していたそうです。

現在でも、アメリカでは政争となると、テレビ討論がよく行われていますが、こうした場合にも、左利きの政治家は有利なのだそうです。

テレビの討論会においては、左利きの政治家は、利き手である左手をジェスチャーでよく動かします。すると、テレビスクリーンを見ている右利きの視聴者によりアピールでき、優位に立てるのだといい、そういわれてみれば、オバマ大統領が大統領選を戦っていたときのスピーチでもよく左手を使っていたような記憶があります。

現職のトランプ大統領はどうやら右利きのようです。だから頭が悪い、演説も下手、というわけではないでしょうが、世界の中でも卓越した国力を持つアメリカという国を牽引してきた指導者の多くが左利きであり、それがこの国の魅力を作ってきたと考えるとすれば、この大統領にはあまり多くは期待できないのかな、とついつい思ってしまいます。

しかし、こうしたアメリカのような傾向は他国では見られていません。イギリスでは戦後、左利きの首相はジェームズ・キャラハンとデーヴィッド・キャメロンの二人しかいませんし、またカナダでも、少なくとも1980年以降、左利きの首相はいません。かといってこれらの国に魅力がないとはいえず、美しく逞しい世界に誇れる国づくりを行ってきています。

お隣、北朝鮮の歴代の指導者にも左利きはいないようです。金正恩(キム・ジョンウン)総書記やその父の金正日(キム・ジョンイル)、祖父の金日成(キム・イルソン)がそうだったという情報はないようなので、彼の国に関してだけは、指導者にも恵まれてこなかったばかりか、右利きの指導者がもたらした弊害が最も色濃く残った失敗作ということがいえるのかもしれません。

それにしても、米朝の緊張が続く中、両国のリーダーとも右利きということで、この先の事態がどうなっていくのか不安でしかたありませんが…

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それでは我が国はどうか?戦時下の首相、東条英機は左利きだったそうで、上述のトルーマンとともに、太平洋を隔てて左利きのリーダーを持った両国が戦っていた、というのは、こちらもまた不思議なかんじがします。

最近の首相では、安倍晋三氏や野田佳彦氏、菅直人氏は箸やフォークを右手で持っており、右利きと思われます。また都知事経験者では、石原慎太郎氏が左利きだそうですが、現職の小池百合子氏が左利きという話はないようです。そのほかにも、私が調べた限りでは、目ぼしい?日本の政治家に左利きはいないようです。

ただ、小池氏と同じくニュースキャスターだった故筑紫哲也氏は左利きだったそうで、現役の小宮悦子さんも左利きです。また、解剖学者の養老孟司氏や宇宙飛行士の野口聡一氏、新進作家の綿矢りささんが左利きだそうですが、こうした異分野の中から、新しい時代を形成する政権政党の左利きリーダーが出てくることを期待したいものです。

戦時下の東条内閣は別とし、日本においては、アメリカのようにリーダーが左利きだった、という歴史があるのかどうかは明らかではありません。戦国の武将、松永久秀や上杉謙信、宮本武蔵や新選組の斎藤一などが左利きだったという説がありますが、我が国でも左利きは差別対象ともなり、あまり公表せず矯正させていたりするので、確証は難しそうです。

箸の国日本では、食事の時に隣の人の邪魔になるからという理由で左利きが少ないという俗説もあるようですが、それではいったい、現在の日本人の左利きの割合はどのくらいでしょうか。

これは、「約11%」と言われています。日本人の総人口が、”1億2695万人(平成27年7月1日現在)”ですので、数にすると「約1397万人」の方が左利きという事になります。

政治家だけでなく、天才肌や芸術肌などと言われる事が多いこうした「左利き」の人たち。近代日本を代表する文豪・夏目漱石、同じく俳人・正岡子規も左利きだったと伝わっています。

現在の芸能界をみただけでも、男性では、坂本龍一、鹿賀丈史、ガクト、玉木宏、小栗旬、女性では、倍賞美津子、川原亜矢子、増田惠子、斉藤由貴、そして先日亡くなった小林麻央といった、魅力あふれる方々が実は全員左利きという事を考えると、やはりちょっと彼らに憧れてしまう部分はあります。

しかし、近年の研究により、左利きは右利きよりも酒を頻繁に飲み、飲酒量も多いのだとか。1970年代に、左利きはアルコール依存症になりやすいとの研究結果が発表されたこともあり、現在ではこれは間違いだとは判明しているものの、やはり左利きの酒量は多くなる傾向にあるそうです。

現在、左利き状態である私も酒を飲みすぎないように気を付けなくてはいけません。しかし最近、以前にも増してインスピレーションが鋭くなっているように感じるのは、やはり左利きになってから、全脳を使用する度合いが増えているからかもしれません。

左利きとしての一時期の間、その個性を存分に楽しむとともに、右利きに戻ってからもその能力が維持されることを期待したいものです。

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わたしのいまは左利き

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前回のブログで少し触れたとおり、およそ2週間、約半月にわたって、手術入院しておりました。

原因は右手の骨折です。

「舟状骨」といい、手の関節8つある「手根骨」という骨の1つで母指(親指)側にあり、手根骨の中でも重要なものの1つです。船底のように彎曲をしており、船のような恰好の骨ということで舟状骨と言います。

舟状骨は、母指の列にあるため他の指の列とは45度傾いて存在します。そのため、通常のX線(レントゲン)写真の撮り方では骨折箇所が見えにくく、見逃されてしまうこともあります。事実、私の場合も、初診ではただの脱臼と判断され、整形外科では対処の余地なしと判断されました。

それなら整骨院でみてもらおうとしたところ、病院での診断書が必要といわれ、再度同じ病院を受診したところ、たまたま手が専門の先生がおられ、骨折と告げられました。

舟状骨の骨折は、放置すると偽関節になりやすいのだとか。偽関節とは、骨折した骨がつかず、関節のように動くものをいいます。私の場合もここの部分がぶらぶらした状態で痛みを伴うので、いったいなんだろうと思っていました。

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https://www.joa.or.jp/public/sick/condition/scaphoid_fracture.html
公益社団法人日本整形外科学会HPより

スポーツや交通事故などで手首を背屈して手をついたときによく起こるといいい、私の場合、いつの日だか野外で樹木の伐採をしていたとき、切り株につまづいて右手をひどく地面に突いたような記憶があります。

数か月前のことだったようですが、そのときは骨折しているとは思わず、捻挫したと思ったまま放置したため、偽関節になってしまったようです。

急性期では、手首の母指側が腫れ、痛みがある、といいますが、あまりその記憶もありません。急性期を過ぎると一時軽快しますが、放置して骨折部がつかずに偽関節になると、手首の関節の変形が進行し、手首に痛みが生じて、力が入らなくなり、また動きにくくなっていくといいます。

なので、みつかったのは手が動かなくなる直前で、もしかしたらこのあとさらに手が不自由になっていくタイミングだったかもしれません。

初期には普通のX線写真でも発見されにくいことが多く、これが偽関節になる原因の1つです。私の場合、さいわいにも発見され、CTやMRIをとってさらに詳しい検査をしたところ、骨折部分の壊死もなく、手術をすれば完治する、という判断がなされました。

ただ、舟状骨は血行が悪いため、非常に治りにくい骨折の1つです。早期に発見された場合、ギプス固定で治療することになりますが、この固定は長期になることが多いため、最近では特殊なネジによる固定を行って治療期間を短縮することが積極的に行われており、私の場合もそれです。

折れてしまった部分は削除することになりますが、それでは短くなってしまうので、自分の腰骨を削って移植する「骨移植」が必要といわれました。単に手だけの手術かとおもっていたら、だんだんと大がかりになってくるのをみて、あー、これはこういう機会に自分の体のメンテナンスをしろ、というメッセージなのだと思ってあきらめました。

骨移植に使用する骨は、亡くなられたドナー、または組織バンクで無菌化・保管されている提供者の体から利用される場合もありますが、患者自身の骨、または人工の骨が利用される場合のほうが多いようです。骨移植によって、新しい生きた骨が成長する骨格ができますが、「自家骨移植」の場合、患者自身の内部の骨から作られた移植片を使いますから、くっつきやすく、合併症などが起こりにくいといわれます。

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手術は全身麻酔で行われます。麻酔の状態と患者の回復は、麻酔科医によってモニタリングされます。次に執刀医が、骨移植が必要な部位の皮膚を切開します。その後、移植する骨を移植部位にあわせて整形します。ピンやプレート、ねじなどを使用して、移植する骨が固定されます。移植骨がしっかり固定されたら、切開部は縫合で閉じられ、包帯で傷口が覆われます。

と、いえば簡単に聞こえますが、私の場合、偽関節部分を削ってフレッシュ化した部分に腰骨からとった移植骨をあて嵌め、固定する作業にかなり手間取ったそうです。通常のピンだけでは足りず、もう一本固定のためのワイヤーが必要になったとのことで、通常なら2~3時間で終わる手術が4時間もかかりました。

手術後の一夜は経過観察室で過ごしましたが、翌日には大部屋に移り、傷が治癒するまでおよそ2週間の入院を余儀なくされました。骨移植からの回復は、移植の規模やそのほかの条件によって決まります。通常、回復には2週間から3ヶ月を要します。この間、右手はギブスで固定されていますが、2週間後にいったん抜糸のためにギブスを外します。

抜糸後あらためて新しいギブスをはめ、退院しましたが、ギブスが完全にとれるまでにはさらに4週間かかるそうで、さらに最大半年間、激しい運動を避ける必要がある、と医者先生にはいわれました。

回復を待つ間、手術を行っていない部位の筋肉を運動させることで、体を良好に保つことができます。また回復プロセスを促すために、健康的な食事を心がけることが必要とされますが、いかんせん、手術したのが利き手の右手だったために、現在は食事をはじめとして多くの日常的作業を左手で行う、ということになっています。

いわば、にわか左利きであり、いまのわたしは「左ギッチョ」です。

この何気なく使っている「ギッチョ」ということばですが、調べてみると「毬杖(ぎっちょう)」からきています。これは、先端に槌がついた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む、平安時代の童子の遊びが起源です。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、ひだりぎっちょう、左ギッチョといわれるようになった、といわれているようです。

毬杖はその後形骸化し、江戸時代頃までは正月儀式として残っていましたが、無論現在はほとんど行われていません。

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英語では「サウスポー(southpaw)」です。野球やボクシングなどスポーツ競技の左利き選手や、楽器などの左利き演奏者のことをさします。英語でサウス(south)は南を、ポー(paw)は動物の前足を意味します。

その昔、野球場は、午後の日差しが観戦の妨げにならぬよう、バッターからピッチャーを向く方向がやや東向きになるよう設計されるのが一般的でした。このため、右投手が投げる球はほぼ北側から飛んでくることになりますが、左投手の投げる球は南側に近い方角から飛んでくることになります。

投手のその手を動物の前足に例えたことから、南(south)から左手(paw)で玉を投げる投手のことをサウスポーと呼ぶようになったようです。

が、アメリカ南部出身のピッチャーに左腕投手が多かったためサウスポーと呼ばれ始めたという説もあるようです。200年以上も歴史があるといわれる野球のことであり、そのはじめのころに使われるようになった用語のようですから、どちらがほんとうなのかよくわかりませんが。

それはともかく、野球では左利きの人は重宝がられます。スポーツにおいては、左利きであることが有利に働く場合が多く、野球だけでなく、ボクシング、相撲、柔道など直接人と勝負するスポーツや一対一で必ず対戦するようなスポーツにおいては左利きであることが有利に作用します。

これは、右利きと左利きの人口比から左利きが右利きと対戦する機会が多いのに対して右利きは左利きと対戦する機会が少ないからです。右利きにとっては慣れないフォームの相手と戦う不利に加え、左利きが逆方向・逆回転の攻撃をしてきます。このため、多くのスポーツで左利きを利点として戦う選手がトップクラスにいます。

一対一競技だけでなく、サッカーやアイスホッケーといった相手側と対称のコートで行う団体球技の場合、右側には右利きの選手、左側には左利きの選手を配置するのが有利であるとされるようです。

統計では成人人口の8%から15%が左利きであり、また、わずかながら女性よりも男性の方が左利きが多いという統計結果もあります。この割合は古今東西を問わずほぼ一定だといいます。

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左利きは全ての動作を左手で行うと思われがちですが、文字を書くのは右でも、ボールを投げたりするのは左を使うなど、動作によって使う手が異なる場合もあるため、実際には右手で行う動作をすべて左手で行う「完全な左利き」は少ないそうです。

古代の壁画や石像を見ても右利きの方が圧倒的に多かったことが確認されており、このため左利きが生まれるのは文化・教育・食事など後天的要因によるものではないことが分かっています。しかし、なぜ左利きが少数なのか、なぜ10%前後で変動がないのかについては、これほど科学技術や医学が発達した現在でもはっきりとした理由が分かっていません。

左利きが発生する要因とされている説のなかには「自然選択説」があります。これは、人類の長い「戦い」の歴史の中で、左利きの戦士は左手に剣を持ち右手に盾を持って戦うため、心臓を危険にさらし致命傷を負う確率が高くなり、従って右利きの人間より生き残る率が低くなった、という説です。

しかしこの説では、利き腕が遺伝することを前提としていますが、利き腕に関わる遺伝子の存在は確認されていません。また盾を使ったとされる年代や地域は限定されるほか、盾がまだない石器時代から左利きが少数であったこと、盾が廃れた近代になっても左利きが増えないことなどを説明できません。

このほか、DNAや染色体異常などの突然変異により左利きが生まれるとする「突然変異説」もありましたが、右利きと左利きでDNAや染色体に変化がないことは証明されています。

また、左利きが生まれることによって、人間は生物の「種」として多用化することになり、未知の環境変化対して「種の自己防衛」になる、という説もあります。が、利き腕の差異があるだけで、はたして種が守れるのか、という点において議論が分かれるようです。

このほかにもいろいろ説がある中で、もっともらしいのが「脳の半球説」です。ご存知の通り、脳の右側は左半身を、左側は右半身を制御していますが、脳の左側は人間が持つ特有の能力「言語」も制御しています。このため、脳の左側が制御する右半身の方が発達しやすくなる、という説です。

他の霊長類のなかには人間のような話し言葉を使うものはおらず、利き腕の偏りが見られないこともこの説を後押ししています。また、90%前後の右利きの人は言語を制御するのに脳の左半球を使っていますが、左利きの人は左半球の場合と右半球の場合があり可変であることが多いといいます。

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左利きの人が脳卒中の発作に見舞われた場合、右利きの脳卒中患者よりも復帰が早いそうで、左利きの人のほうが左右の脳を有効に使っている可能性があります。

この説を裏付けるため、右利きの脳と左利きの脳の基本的な違いを脳スキャンで確認するいくつかの研究が行われています。その結果、通常の脳の特定部位が各作業に使われている状態で、右利きの人の脳は非常に集中的に使われていましたが、こうした集中化は左利きの人の脳ではあまりみられなかったといいます。

このことから、左利きの人の脳は、脳の各所に機能を分散する度合いのほうが高く、一点に集中させる度合いが低いらしい、ということがわかっています。

これに関連してか、利き腕と脳についてよく言われる説で右利きは理論に優れ、左利きは芸術など感性に優れるとよくいわれます。

前述のとおり人間の左脳は言語野など理論的なものがあります。対して、右脳には感性を司る部位があります。利き腕と脳はクロスした太いつながりがあることが考えられ、左利きの人は、感性が優れているのかもしれません。もっとも、左利きの人は理論的ではない、ということもなさそうですが。

ちなみに、人の言葉を巧みに真似することのできるオウムの90%は、左足利きだそうです。このことからも、ことばを操るということと、脳の働きには何等かの関係がある可能性がうかがわれます。

2004年、英ベルファストのクイーンズ大学博士・ピーター・ホッパーが行った研究によると、人間が右利きになるか左利きになるかは妊娠10週間目の頃に決定しているとされ、これは新発見である、といわれました。

ホッパー教授が、妊娠中の女性1000人に超音波走査を実施した結果、例えば10週間目から12週間目の頃に胎児が左手の親指よりも右手の親指を頻繁に吸っていた場合、子供はほぼ確実に右利きとして生まれてくるという関係性が明らかになったといいます。

スピリチュアル的には、ちょうどこうした胎児の発生の時期、生まれ変わる魂は地上にいる父母を選んでその胎児の中に「滑り込んでくる」といい、この時点で親子関係が決まるといいます。同時に、その後この世に生を受けて一生を送る間の利き腕についての選択肢もこの時期に与えられるのかもしれません。

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しかし、右利きの多い中、左利きで生まれてくるということは、多くの試練にさらされることになります。道具や機械、楽器など、世の中の製品のほとんどは、右利き用に設計されている、といってよく、これは左利きにとって不便なだけでなく、生きていく上においては危険性が高くなる、といってもよいかもしれません。

また一般に左利き用の製品は右利き用に比べ割高であり、生涯にわたって経済的負担を強いられる、ということもあるしょう。

個人差は多く見られますが、大人になるほど利き手の変更は困難です。このため、こうしたビハインドを補うため、日本を始めとする世界の多くの国で、「利き手の変更」を行なわせようとすることが多いようです。

幼少時に周囲の人物が、箸や鉛筆を右手で使うように強いるわけですが、しかしこの「矯正」は本人が望んだものではありません。「矯正」の指導をする親が激しく叱ることも多く、このため、うまく腕を動かせないストレスが加わるなど、心理的な悪影響が少なくないようです。

洋の東西を問わず、かつては左利きを身体障害者と考える人・地域は多く、さらには知的障害の一種のように扱われることもありました。西欧では20世紀前半までは、利き手の矯正はかなり高い比率で行われており、時には厳しい体罰を伴ってでも矯正されていました。

近年、左利きは障害ではないことが広く知れ渡ると同時に個性のひとつとして考えられるようになったため、矯正する親の割合は減ってきました。しかし、現在においても文字筆記上の不便さから学校受験などで不利になると考え、また生活上の不便を考えて、子供に矯正を促す親も多いようです。

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一方では、上の「脳の半球説」を信じ、我が子をクリエイティブな能力のある子供に育てようと、右利きの子供をわざわざ左利きにしようとする一部の親もいます。その効果?のほどはよくわかっていませんが、「変更しようとする」ということは、つまりその子は既に右を多用しているわけです。

心身共に著しい成長を遂げつつあるこうした幼少期に、強い影響力をもって親がその成長に関与することがはたしてその子にとって良いのかどうか、いずれどういう影響を与えることになるのか、という面を理解した上で矯正にのぞんでいるのでしょうか。

ただ、子供のころからそうした「試練」を克服することこそがその子の人生にとってはプラスになる、という考え方もしかりであり、その良否のジャッジはそれぞれの家庭で考えるべき問題なのでしょう。もっとも、そうした是非をそれぞれでよくよく考える、ということが大前提なように思いますが。

一方では、「右」と「左」とにそれぞれ意味をもつ文化では、右手左手を使い分けが定められている場面もあり、それを無視すれば礼儀やマナーに反することにもなるため、子供が左利きの場合、あえて利き手を右にしようとする場合もあります。

時と場所によっては、利き手にかかわらず右手でなければならないことがある場合もあり、例えばインドでは左手は一般的に排便の処理をする「不浄の手」であり、食べ物を左手で食するのは多くの場合マナー違反です。

また、日本の多くの「道」や文化では利き手に関わらず、右優位のしきたりが決まっている事があります。書道・茶道・花道・剣道・弓道等や日本料理等においては、時に左手を使うことがルール違反やマナー違反になることもあるようです。

とくに武道の場合には、右手を優先することが時には危険回避の為に有効な場合もあるようです。敵としての相手には圧倒的に右手使いが多いわけであり、これに対して左手で対処すると命を落としかねない、というケースもあるのかもしれません。

もっとも、日本の場合、利き手の概念に囚われず、”「道」としての心を培う” ことが大事、とする分野も多いようです。そのあたりの文化的な違いについては、他の国との比較において研究してみると面白そうです。

さて、病後はあまり手を使わない方がよさそうなので、今日はこれくらいで。

このテーマ、少し面白そうなので、次回気が向けばまた続編を書いてみるカモ、です。

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輪が三つ

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しばらくぶりです。

実はこの半月ほど、入院していました。

その詳細はまた別の機会に改めて書くとして、今日は先日、そうめんについて書いたので、その続編を。

この「素麺」の起源ですが、古代中国の後漢の「釈名(後漢末の劉熙が著した辞典)」や唐の文献に度々出てくる「索餅(さくべい)」とする説が有力です。

日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっています。奈良時代には索餅は米の端境期を乗り越える夏の保存食であり、「正倉院文書」にも平城京での索餅の取引きの記録が残っているそうです。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもの、とされており、現在も中国で食される「油条(ヤウティウ)」に似たものだったのではなかったか、という説があります。

油条は、油で揚げたパンで、食塩、重炭酸アンモニウムを水で混ぜたものに小麦粉(薄力粉)を少しずつ加えながらこねて生地を作ります。中国や香港、台湾などでの朝食に、豆腐脳、粥や豆乳の添え物としてよく食べられますが、横浜の中華街などで食べたことがある人も多いでしょう。

奈良時代に日本へ唐から伝来したのが、この油条そのものだったのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ唐菓子の1つではないかといわれています。一般に唐菓子といえば、米粉や小麦粉などの粉類に甘葛(あまずら)の汁など甘味料を加えてこね、果物の形を造った後、最後に油で揚げた製菓をさしますから、油状にも似ています。

日本では、神社や神棚に供える供物のことを「神饌(しんせん」といいますが、これが日本に当初伝わった当時の「索餅」に近いのではないか、といわれています。この神饌が、一般生活に浸透し、別の形に変わったものが、「鏡餅」です。

ただ、当初中国から入ってきて、日本風に変化していった索餅の材料・分量、作るための道具についてはあまり詳しいことはわかっていません。

日本では、まず奈良時代に上の索餅が輸入されました。

その原型については諸説あるようですが、小麦粉と米粉を水で練り、塩を加え縄状にした食品だったらしく、このため、索餅は、「麦縄」とも書くことがあります。乾燥させて保存し、茹でて醤・未醤・酢付けて食べたとみられており、他にごま油を和えたり、ゆでアズキに付けて食べたとみられています。

平安時代中期の「延喜式」にも一部その製法についての記述があります。こちらにも、小麦粉と米粉に塩を加えて作る、といった記述がありますが、形状については言及がなく、そもそも麺だったのかどうかもわかりません。一説によれば、現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないか、ともいわれています。

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ところが、本場の中国では日本よりもはるかに早く、「麺」として成立していたそうです。日本の平安時代とほぼ時期を同じくする、北宋時代(960~1127年)の書物に既に「索麺」の表記が出てきます。「居家必要事類全集」という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」といった近年の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてあります。

この製法がなぜそのまま日本に上陸しなかったのかはよくわかりませんが、現在のそうめんにかなり近いものは、鎌倉時代には既に作られていたようです。後追いで古代中国の「策麺」の製造方法が伝わり、既に輸入済みだった「索餅」の製法のひとつとして発展したのではないでしょうか。

そして、室町時代になると「索麺」や「素麺」の文字が使われるようになりました。 このころからそうめんは、寺院の間食(点心)として広がり、この時代に現在のそうめんの形、作り方、料理方法がほとんど形成されたと考えられています。

文献にもよく登場するようになりますが、主な舞台は寺院や宮中の宴会などで、まだ庶民が気軽に食べられるものではなかったようです。奈良期以降、この時代までに「索餅」「索麺」「素麺」の名称が混じって用いられていましたが、やがて「素麺」として統一して呼ばれるようになっていきました。

室町時代には、茄でて洗ってから、再度蒸して温める、という食べ方が主流だったことがわかっており、その調理法から、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれていたようです。

この時代の文献に、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されており、七夕ごろの夏の風物詩であったことがわかります。この時代の宮廷の女房言葉(朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人が使うことば)では、素麺を「おぞろ」と呼び、七夕の行事に饗せられていました。

その後、戦国時代までには、そうめんが庶民の口にも入るようにもなっていたようです。安土桃山時代に豊臣秀吉が、本拠地として姫路城に居城することとなり、入城したときには、「播州名産の煮麺の饗応を受けた」と伝えられています。

江戸時代に入ると、素麺作りはさらに栄え、庶民の間で素麺が食べられるようになり、元禄の頃には、現在のような醤油ベースのつゆが誕生しました。七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まり、これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものです。

素麺作りが急激に発展したのには、飢饉の影響もあるといわれています。米は雨が降らないと作れませんが、小麦は多少の水不足でも育ちます。さらに、乾麵である素麺は数年日持ちがするため飢饉食として使えます。このため、幕府もその製造を推奨していました。

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先日のブログでも触れましたが、現在、「日本三大そうめん」といわれているのは、①三輪素麺(奈良県)、②播州素麺(兵庫県)、③小豆島(香川県)です。このうち、三輪素麺は、最も「素麺つくり」の歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあり、全国的にも有名な、奈良の特産品です。

この地で、中国から入ってきた索餅が派生変化した、との説があり、奈良時代の遣唐使により、小麦栽培・製粉技術、製麺方法が伝えられたとされています。

ただ、上で述べたとおり、鎌倉時代以前では、まだ現在と同じような麺の形の完成形はなかったというのが通説です。この地方だけに、素麺の製法が中国から伝来した、という話には、何やらうさんくさい臭いがします。おそらくは、これを売らんがするために作られた創作話でしょう。

とはいえ、それだけ他に比べれば長い歴史を持っており、それなりのこだわりを持って長年の生産が続けられてきました。そのこだわりのひとつの表れが、三輪産のそうめん製品に取りつけられている「鳥居のマーク」です。

この鳥居のマークこそが、大和三輪においてそうめんが発祥したとされる、「大神神社(おおみわじんじゃ)」の鳥居です。大神神社は、奈良県桜井市三輪にある神社で、別称を「三輪明神」・「三輪神社」ともいい、祭神は大物主(おおものぬし)、または大物主大神(おおものぬしのおおかみ)です。

その拝殿は、国指定の重要文化財になっており、日本でも古い神社の一つです。皇室の尊厳も篤く、進んで外戚を結んだ、といわれていることから神聖な信仰の場であったと考えられます。

伝説によれば、紀元前91年(崇神天皇7年)、五代目の「大物主」の孫(または子)である、「大田子根子命(おおたたねこのみこと)」が大神神社の大神主に任ぜられたことに、その起源があるとされます。

さらに、奈良時代の宝亀年間(770~781年)のころ、その十二世の孫である「大神朝臣(おおみわのあそん)・狭井久佐(さいくさ)」の次男、穀主(たねぬし)なる人物が、本殿に飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願しました。そうしたところ、三輪の地で小麦をつくるようにと神からの啓示を賜ったといいます。

穀主は常日頃から農事をもっぱらにして、穀物の栽培にこころをくだいていましたが、三輪の地に適した小麦の栽培を行い、小麦と三輪山の清流で素麺作りを始めたとされます。ちなみに、「朝臣」とは、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるため、狭井穀主は、かなり位の高い人物であったと推定されます。

この縁で、大神神社の祭神、「大物主」は素麺作りの守護神とされ、毎年2月5日には、その年の三輪の生産者と卸業者の初取引の際、卸値の参考価格を神前で占う「卜定祭」が営まれるようになりました。また、大物主は、別名、三輪明神とも呼ばれるようになりました。

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この大物主は、蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として、現在でも篤い信仰を集めています。

また国の守護神である一方で、祟りをなす強力な神ともされます。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきており、このことから、最も古き神々の一柱とも考えられます。古事記によれば、日本の初代天皇とされる神武天皇の岳父(義親)、綏靖天皇(すいぜいてんのう)の外祖父にあたる、とされているようです。

国造りの神であり、神様の中の神様、大国主(おおくにぬし)の分霊でもあるといわれるため、大国主と同じく大黒様(大黒天)として祀られることも多いようです。

大物主にまつわる神話は数多くあります。

そのひとつ、古事記・神武紀に書かれているものによれば、古代の三島地方(現 大阪府茨木市 及び 高槻市) を統率していた豪族 の三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れしました。

大物主は玉櫛媛に何とか声をかけようと、赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、その娘の富登(ほと)をつき刺しました。

ほと、とは「陰所」のことであり、姫は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去ったといいます。イススキとは、「狼狽」の意味の古語ですから、ここでは「ぎゃあ゛~」といったかんじでしょうか。

彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると、ポンッと大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれました。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となったといいます。初代皇后ということになります。

大物主に関しては、またこんな神話もあります。

第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)= 百襲姫(もそひめのみこと)は、奈良県桜井市に今も残る、箸墓古墳((はしはかこふん)に葬られている実在したとされる人物です。

大物主神の妻となりましたが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼に姿は見せなかったといいます。そこで、夜ごと訪ねてくるこの夫に、「ぜひ顔をみたい」と頼みますが、大物主神は、これを拒否しました。しかし、何度も頼まれるうちに断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になってから小物入れをのぞくように、と妻に言いました。

朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、なんとそこには小さな黒蛇の姿がありました。驚いた百襲姫が、悲鳴を上げたため、大物主神はこれを恥じて御諸山(三輪山・後述)に登ってしまいました。

百襲姫がこれを後悔し、がっくりと腰を落とした瞬間、そこに立ててあった箸が陰部(ほと)を突いたため、百襲姫は死んでしまいました。こうして、大市(現在の奈良県桜井市箸中)に墓が創られ、葬られました。以後、人々はこの墓を「箸墓」と呼びました。

この墓の造営にあたっては、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられており、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたといいます。

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さらに、大物主にはこんな伝説もあります。

海神である、綿津見大神(ワダツミノオオカミ)には、活玉依比売(イクタマヨリビメ)、通称、玉依姫(タマヨリビメ)という娘がいました。「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指します。

ある日、玉依姫の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚しました。しかも彼女はそれからすぐに身篭ってしまいます。不審に思った父母が問いつめたところ、姫は名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを両親に告白しました。

父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えました。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると近くの山の社まで続いていました。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、以後、その山を「三輪山」と呼ぶようになったといいます。

この山こそが、三輪山(みわやま)です。上述の、大神神社の東方にそびえる標高467.1m、周囲16kmの山で、位置的には、奈良県北部奈良盆地の南東部になります。三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、なだらかな円錐形の山です。

「古事記」によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神(スクナビコナ)が常世の国(死後の世界)へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国にある、この三輪山に自分を祭るよう進言しました。

この神様こそが大物主であり、「日本書紀」の一書では大国主神の別名としています。大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主として祀った、とあります。

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古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が築造されました。この一帯を中心にして強力な政治的勢力が発展したと考えられており、これこそがヤマト政権の初期政権(王朝)である、という説が有力です。

200~300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされます。また、上で述べた、百襲姫の陵墓、箸墓古墳(はしはかこふん)は、この山の西に位置する大神神社から北北西へ約1.5kmの位置にあり、実は、近年の調査から、「魏志」倭人伝に現れる邪馬台国の女王、かの有名な「卑弥呼」の墓ではないかと取り沙汰されています。

つまり、上の百襲姫こそが卑弥呼、ということになります。この三輪山を中心とした一帯は大物主に関わりのあるこうした神様の「居住団地」といってもよく、三輪山は古くから「神宿る山」とされ、山そのものが御神体であると考えられてきました。

このことから、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされていますが、飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられました。

鎌倉時代に入ってからは神仏両部思想(日本土着の神道と仏教信仰をひとつ信仰体系として再構成(習合)する思想)を確立したことで知られる僧侶、慶円(けいえん)が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山「平等寺」を建立しました。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れたもの、とする考えです。

中世以降は長らく神仏習合の影響が色濃く、神宮寺も数多く建立され、徳川将軍家などに「三輪明神」として篤く信仰されました。

三輪山そのものが、大神神社の御神体として正式に記録されたのは、1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書に、神山とは「三輪山を指す」と使ったのが初めてです

江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できませんでしたが、明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになりました。

三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社・拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあります。

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これらは、いわゆる「巨石群」であり、「磐座(いわくら)」とは、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を神座と考え、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をしたものです。

けっして驚くほど大きいものばかりではなく、中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなど、いろいろです。そしてこれらの磐座も自然のものと、人工的な仕組みのものとがあり、人間の生活が山麓から低地へ移っていく過程で、平野部で造られるものほど、人為が入っているものが多くなるといいます。

頂上には高宮神社が祀られていますが、この神社は、古代には、太陽祭祀に深く関わっていた神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)であったと推測されています。同名の神社が、麓の大神神社の南にあり、古い時代に山頂からここに移されたものと考えられます。

頂上付近はかなり広い平地です。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんあります。これが奥津磐座です。

現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけです。奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、「日本書紀」巻二の天孫降臨に際しての高皇産霊尊の勅に「天津神籬および天津磐境を起こしたて」とある磐境にあてる、といった考証もあるようです。

山ノ神遺跡に関しては大正7年に偶然発見されたものです。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われました。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていました。

調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされますが、残った遺物には、おびただしい数の宝物が残されていました。

小形の素文鏡3、碧玉製勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などなどであり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られています。

その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセット、いわゆる三種の神器の形式をとっているものが多いほか、三輪山の神が農耕神としての一面を持つ宝物が多いようです。臼、杵、杓、匙、箕といったものがそれらです。

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入山する際は、後述の規則(掟)を遵守する必要があります。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から直接、神体である三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採ります。したがって、大神神社には本殿がなく、そこには自然そのものを崇拝する古神道が息づいています。

さらに登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければいけません。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納めます。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませます。道中このたすきを外すことは禁止されています。

行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで登下山できますが、3時間以内に登下山しなければならないという規則が定められています。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもあります。

午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合があります。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもありますが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の記入が求められます。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができません。

原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできません。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、檜などのほか、杉の大樹に覆われています。

日本酒の造り酒屋ではこの杉を使い、風習として「杉玉」を軒先に吊るすことがあります。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれます。

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれます。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たします。「搾りを始めました」という意味です。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語っています。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちですが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったわけです。

俗に一休の作とされる句、「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものです。

又六は一休和尚のいた大徳寺の門前の酒屋の名です。

極楽は遠くにあるのではなく、案外近くにあるものですよ。例えばほら、そこの杉玉を吊るした酒屋さんとかね、といった意味かと思われます。

さて、人生初の入院も終わりました。まだまだ極楽に行くわけにはいきません。

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