ああ広陵

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この夏の高校野球では、地元広島の高校が大活躍したので我が家でも大盛り上がりでした。

普段はあまり見ない高校野球ですが、今年は2回戦から決勝戦までほぼすべてのイニングを鑑賞しました。

この広陵高校の怪物球児、中村奨成君の活躍もさることながら、広島勢が決勝戦まで行ったのは、10年ぶりのことであり、これは久々の快挙です。同じく地元といえる山口の決勝進出となると、32年前の1985年に遡り、このときは宇部商業がPL学園に敗れています。

なかなか郷里の球児たちが活躍する場を見る機会もない中で、今年は5試合も応援できたということで、骨折療養中の私としては大きな慰みになりました。

残念ながら、10年前と同じく今年も優勝はできませんでしたが、プロ野球の広島カープのほうは、どうやらぶっちぎりでペナントレースを制しそうな勢いなので、優勝の美酒を味わうのはこちらで、ということにしましょう。もっとも主砲の鈴木誠也外野手が右足の骨折とのことで、今シーズン終盤での活躍が見れそうもないのが残念ですが。



ところで、この広陵高校ですが、広島では一二を争うほど古い歴史を持つ学校です。明治40年(1907年)、呉服商・石田米助が出資して自らが校主となり、校長に鶴虎太郎を迎えて、旧制中学校として認可されました。

この二人、地元でもあまり知られていないようですが、教育者として広島の街に大きな貢献をした人物です。石田米助のほうは、このほか広島山陽高校、広島経済大学などを設立。一方の鶴虎太郎も。広陵高校、広島国際学院、鶴学園でといった学園を次々に創設したほか、他にも小中学校などの教育分野で多大な足跡を残しています。

広陵高校は正式には広陵学園広陵高等学校といい、現在は広島市の北西部、安佐南区にあります。大正期には現在の修道中学校・修道高等学校の前身である修道中学、明道中学(1923年廃校)とともに私立の中では広島三中と呼ばれていた程の名門校でした。

しかし、1945年8月6日、原子爆弾の投下により講堂及び教室一棟が倒壊。戦後しばらくは休校していたようですが、1948年5月の学制改革により広陵高等学校(全日制普通科)として改めて開校。1950年には定時制(普通科)を併設するとともに、1953年には 全日制・定時制とも商業科を併設するなど、規模を拡大しました。

1960年代までは、広島南部、海にも近い宇品というところに立地していましたが、1971年に安佐南区に広陵幼稚園を開園したのを契機に、翌々年の1973年、現在の安佐南区に全面移転。翌年には理数科を新設しました。

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実は80年代までは男子校でした。が、1998年4月 男女共学に移行、2000年頃までに定時制の普通科と商業科を廃止し、現在に至っています。そして校訓「質実剛健」のとおり、中身のぎっしり詰まった多数の良質な卒業生を世に送り出し、野球界だけでなく今の広島の街を支えています。

「広陵高校野球部 有志の会」のHPによれば、広陵高校野球部の歴史の始まりは、旧制中学として発足した明治40年からすぐの明治44年(1911年)のことで、「庭球部と合体し“球術部”として誕生」とあります。翌年球術部が解体して野球部と庭球部に分離しており、「野球部」の名称でのスタートは明治45年(1912年)になるようです。

大正5年(1916年)8月の第2回山陽大会への出場が公式戦への初参加で、大正12年(1923年)の第1回夏の全国大会に初出場、翌年の第2回 センバツ大会にも初出場して以来、何度も甲子園に行っています。日本の高校野球では広島商業ともども、広島県のみならず全国的にも有名で、1926年、1991年、2003年といずれも春の選抜大会で3回優勝しており、「春の広陵」の異名があります。

夏の選手権大会では1927年、1967年、2007年と、これまでも40年おきに3度決勝へ進出していますが、いずれも準優勝に終わっています。準優勝は春夏合計6回で、今回を入れれば7回にもなります。

卒業生としては、漫才師の島田洋七や演歌歌手の角川博、マジシャンのふじいあきら、などがいるほか、プロ野球界にはそれこそゴマンといった卒業生がいます。

野球界において、おそらく最も有名な選手は金本知憲、現阪神タイガース監督(第33代)でしょう。南区青崎出身で、中学校はその近くにある大洲中学校を卒業しています。実はどちらも私の母校であり、少々くち幅ったい感じもしますが。後輩ということになります。

広島市立青崎小学校4年時にリトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めましたが、練習についていけず、また体育の授業で手を骨折して練習が出来なくなったこともあり、それを口実に1年で退部したそうです。一学年下に、1990年代の大洋・横浜で主力投手として活躍した野村弘樹がおり、同チームのエースで四番打者でした。

その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー。広陵高校に入学して硬式野球部に入部したあと頭角を現しました。広陵では2年生からレギュラーとなり、左翼手として1985年の広島大会決勝に進出しましたが、広島工業に敗退。翌年も広島大会で敗れ、全国選手権出場はありませんでした。

高校では通算20本塁打を打ち、東北福祉大学に入学。大学野球で活躍したあと、広島カープにドラフト4位指名で入団していますが、その後の活躍はご存知のとおりです。

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このほか、広陵出身のプロ野球選手としては、長年、阪神タイガースで投手として活躍した福原忍、巨人・日ハムの二岡智宏、阪神タイガースに現役で所属する新井良太などがいます。ちなみに、この新井選手は広島東洋カープの新井貴浩の実弟です。

このほか現役では、カープのエースピッチャー、野村祐輔や中継ぎや抑えで活躍中の中田廉、巨人の小林誠司捕手などがおり、プロ野球だけでなくアマチュアや野球界にも多数の人材を輩出しています。野球以外では、日本初の柔道五輪メダリスト、かつ1964年東京五輪金メダリスト、中谷雄英も広陵高校の出身です。

この広陵高校野球部の歴史が長いことは前述のとおりですが、戦前の1936年にプロ野球連盟(日本職業野球連盟)が発足した当時から既にここに多数の名選手を送り出しています。

広陵中学(現・広陵高校)を経て慶応大学卒業後、八幡製鐵所野球部など社会人野球で活躍していた「加藤喜作」は、1940年、創設三年目のプロ野球南海軍に助監督兼選手として入団。戦時下の1942年、南海三代目の監督に就任し、終戦前年の1944年まで指揮を執りました。

また、広陵中学時代から捕手として活躍した、「小川年安」はおそらく、広島出身の選手として初めてプロ野球登録をした選手です。慶応大学に入学し、水原茂や宮武三郎といったその後の草創期の日本プロ野球の人気を支えた投手とバッテリーを組みました。また強打の4番としてスター選手となり、2度目の慶應義塾大学野球部の優勝に貢献しました。

慶応卒業後の1935年、この年創設された大阪タイガースと契約、入団。背番号2。翌1936年、プロ野球リーグが開幕すると、この年は主に3番を任され、チームトップの打率.342を記録。誰も打てなかった巨人沢村栄治のホップする剛速球を、「大根切り打法」で攻略するなど活躍しました。しかし、その後招集され、1937年(昭和12年)、東京中野の第一電信連隊へ入隊。惜しむらく1944年に中国で戦死した、とされます。

正確な没日、没地などの詳細は不明で、出征後帰還しないため戦死として記録されたものです。享年33。タイガースの初代主将で、現役時代には名選手、監督時代にも名監督と謳われた松木謙治郎は、その著書の中で「復員していれば、人柄からみて必ずタイガースの監督になっていた」と述べています。

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この小川年安とともに広陵時代にバッテリーを組んでいた選手に「田部武雄」という人がいます。その実力は小川に勝るとも劣らないといわれたほどの選手でした。東京巨人軍創成期の1番打者、主将として活躍し、巨人で最初に背番号3を着けた選手で、現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもあります。

戦時中に亡くなった巨人軍の名選手といえば沢村栄治が真っ先に思い起こされますが、1936年に日本職業野球連盟が結成され、アメリカへ遠征壮行会が行われたとき、巨人の選手の中でアメリカ大リーグが最もマークしていたのが沢村とこの田部だったといわれます。沢村の影に隠れてしまっていますが、もっと評価されてもいいのに、と思わせる人物です。

なので、今少し詳しくこの人物について書いてみたいと思います。

田部武雄は1906年3月28日、広島県広島市袋町(現在の中区)に生まれました。8人兄弟の5番目で早くに父を亡くし、家庭の事情は苦しかったようですが、お母さんは苦労してこの子供たちを逞しく育てたようです。

その甲斐あってか、次兄・謙二は、1915年に初開催された全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に、広島一中(現・広島国泰寺高校)の6番・捕手として出場しました。実はこれも私の母校になります。どうも今日はそういう日のようです。

この試合で指を痛め付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話が残っています。ちなみ広島一中(国泰寺高校)はその後サッカーの名門になりましたが、野球部は現在に至るまで二度目の全国大会出場は成し遂げていません。

この兄はその後、毎日新聞広島支局の記者となり、セミプロ野球団「大阪毎日野球団」の結成にコーチ兼任格として参加。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めました。上述の加藤喜作と同じ袋町小学校出身で、少年野球チーム・旭ボーイズに所属していたといいます。

袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学しますが、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなったことです。そのころ長兄と三兄は満州に渡って職についており、その仕送りもあったでしょうが生活は苦しかったと考えられます。兄の死を契機にこのとき16歳だった武雄は、自らも収入を得るため単身満州に渡ることを決心します。

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1924年、大陸に渡り、奉天でサラリーマンとなり、大連実業団に参加し野球を続けました。大連実業は、当時、人気絶頂だった東京六大学のスタープレーヤーがこぞって海を渡って結成されたチームで、満鉄中心の「大連満洲倶楽部)」と並んで社会人野球の都市対抗戦では、ぶっちぎりの強さを誇っていました。

武雄が満州に渡った理由としては家計の問題以外にも複雑な家庭環境があったこと(親戚か他の兄弟との確執?)が取り沙汰されており、学校あげての野球部満州遠征のメンバーに加えられなかった不満があったことなども理由ではなかったかと言われています。

他に彼の野球に関する天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられた、といった説もありますが、はっきりしたことはわかっていません。とまれ六大学出身の花形選手ばかりだというのに、いきなりレギュラーポジションを掴み、再三戦った「満州倶楽部」との“実満戦”は「大連の早慶戦」と呼ばれ、人気を博したといいます。

この当時の田部の勤務先は「銭荘」だったようで、これは、中国における旧式の金融機関のことです。この当時、事実上の本位通貨として通用していた銀の固形体である銀錠(馬の蹄の形をしており、馬蹄銀と呼ばれ広く用いられていた銀貨)と銅銭の両替を行い、その際に手数料を得ることが主業務であり、比較的お気軽な職業だったようです。

こうして満州で職業人野球を満喫していた田部ですが、1926年からは、内地の実業団と戦うために内地に戻り、逆に国内各地を転戦するようになります。大連実業の1番二塁手として内地を転戦していたころ、そのころの監督で明治大学OBだった中島謙などから、明治大学への進学を勧められました。これを受けて帰国し広陵中学4年に復学(このころの中学は5年生で現在の高1に相当)。

この当時は広陵から多くのOBが明大野球部に進んでおり、進学しやすくするための措置だったようです。当時の広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年復学」と書かれています。当時中学は5年が修了期限でしたが、4年修了と同時に大学に進学することも可能であり、大学へ行く資格を取るための一時編入だったのでしょう。

この内地で暮らした短い期間にも彼は野球に没頭しています。この頃既に21歳になっていた田部は、この年の春の選抜大会で「中学生」として甲子園に出場。この当時の選抜には年齢・学年とも制限が無かったためです。広陵はその前年度に初優勝しており、この満州がえりの剛腕投手の加入をチームは諸手を挙げて歓迎しました。

このころの広陵野球部は、田部を加えて史上最強チームと言われ、八十川胖(のち明大)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)などの名選手がそろっており、その後の「野球王国」の礎を築きつつありました。

田部は、春連覇を狙いエース3番として勝ち進み決勝までいきますが、快速球左腕小川正太郎(のちに早慶戦など大学野球で活躍)を擁する和歌山中学(和中)の前に惜しくも敗退しました。この大会で田部はピッチャーとして奮闘しましたが、バッターとしてもランニングホームランを打つなど走攻守に渡って活躍しました。

しかし、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかったといいます。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていましたがそれも叶わず、試合後、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたといいます。

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このころ田部はまだ大連実業に籍を置いており、この年の夏の選手権は出場できませんでした。その理由は、毎日新聞が主催する春の「選抜」と異なり、夏の大会では主催者である朝日新聞が他チームから移籍してきたメンバーの出場を制限していたためです。

この当時、田部のように実力十分な選手が加わることで、チーム力がすぐに上昇する現実が、中学校の選手争奪戦を激しくしていました。田部のように「放浪生活」を続けて各チームを渡り歩くといったやり方は中等野球選抜でも問題となっており、夏の選手権大会ではその後1932年には、「在学一年以上」「落第生の出場禁止」など出場資格についての制限が加えられました。

夏の選手権に出場できなかった田部は、その後広陵中を後にして大連実業に復帰したようです。が、その後、大学にも進学しており、進学に必要な卒業資格は得ていたようです。推論ばかりですが、これはちょうどこの時期の田部の行動に関する資料が欠落しているためです。おそらく、いろいろと波風の立つことのあった広陵での野球生活は早めに切り上げ、進学までの短い時間を住み慣れた大連で過ごしたい、といったことだったでしょう。

1928年9月、鮮満遠征にやってきた明治大学との試合では、大連実業の1番遊撃手として登場。ピッチャーが一塁に山なりの牽制球を投げるのを見てとると、三塁から脱兎の如く本塁を駆け抜け見事ホームスチールを成功させました。逆に田部のいた大連実業が東京に遠征して早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学と対戦する、ということもあったようです。

同じ年の1928年、時期はよくわかりませんが4月以外の季節に、22歳で明治大学の3年に進学。「広陵学園野球クラブ会員名簿」には昭和4年(1929年)広陵を卒業と明記されているため、広陵中に籍を置いたまま明治大学に進学したことになります。

現在なら、二重学歴となり、決して認められることはありませんが、この当時は明治大正のおおらかな雰囲気がまだ残っている時代です。個人の才能を十分に伸ばすことができるのならば、といった緩やかな教育条件が整っていたものと推察されます。ただ、この入学問題のため「明大は田部を買った」「球界の不祥事」などと大きく批判されました。

明治入りした田部はすぐにレギュラーを確保、主に二塁と遊撃を守りましたが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取りました。現在の日ハムの二刀流、大谷翔平ばりの活躍ですが、この当時の大学野球はプロのレベルに限りなく近かったようで、現在の大谷選手と比較しても遜色はなかったかもしれません。

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投手としては、踏み出した左足を地面に付けて、やや遅らせて球を投げるというボークすれすれの新しいモーションを編み出し、この投げ方は田部以外のピッチャーも真似し、当時流行したといいます。三塁にけん制球を投げるふりをし、反転、一塁へ牽制球を投げるという戦法も田部が編み出したものだそうです。

またランナーとしても優秀でした。塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし、片足を突き出してピッチャーを挑発。観客の大歓声が沸き起こるなか、まるで隣の家に行くようにやすやすと盗塁やってのけたといいます。

さらに俊足強肩の外野手としても知られ、慶明戦でセンターを守っていた田部は、ランナー三塁で大きなセンターフライを背走して好捕。100m近い距離からバックホームをしてランナーを刺したこともあったといいます。

全てを兼ね備えた天才選手といわれ、この当時の明大の黄金時代に大いに貢献しました。リーグ通算67試合出場の間、22打点で36盗塁を記録しましたが259打数56安打で打率.216、本塁打は0本で、大砲というよりもマシンガンといったところでしょうか。

ただ、東京六大学を代表する美男子ともいわれ、明治の練習に女性がくれば九割が田部のファンだったといい、野球部の同僚たちは田部のファンからの差し入れのケーキや寿司をよく回してもらったといいます。

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1931年、読売新聞社主催の「日米野球」では日本選抜チームの外野手としてファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場、初来日した鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブら大物ら米大リーグ選手と対戦しました。もっともこの交流戦では、日本は初めてオールスターチームを結成して挑んだものの、17戦全敗に終わっっています。

1932年明治大学を卒業後、東京市の深川にあった藤倉電線に入社。このころはまだプロ野球は発足しておらず、田部の野球選手としての活躍の場は、アマか社会人野球だけでした。東京市に本拠地を置くクラブチーム、「東京倶楽部」の一員として第6回全日本都市対抗野球大会に出場。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場しましたが、この大会優勝した全神戸に田部の三塁への暴走等で敗れました。

このころ、明治在学中から日活のトップ女優であった伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせました。父・伏見三郎が新派の俳優で、信子は早くから姉の直江と共に舞台の子役などで新派の舞台に出演し、1933年(昭和8年)、松竹蒲田に入社。五所平之助監督「十九の春」主演をキッカケに人気女優となり、小津安二郎監督の「出来ごころ」に人気男優の大日方伝(おびなたでん)と共演し、人気を不動のものとしました。

しかし騒いでいたのはマスコミだけで、その実は深いつきあいではなかったようです。田部の本命は東京日本橋の老舗乾物問屋のお嬢さんだったそうで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消しました。

日本を去って南洋ジャワ島の開拓に行ったと当時の雑誌に書き立たれましたが、実際は山口県の小さな鉄道会社の身を落ち着けた後、1934年に福岡県の九州電気軌道(西日本鉄道の前身)に転職し、車掌をしていました。

しかし彼ほどの逸材を野球界が放っておくはずもなく、1934年の日米野球のアメリカ遠征チームで監督を務めていた「三宅大輔」が彼を勧誘します。三宅は慶應で名捕手として鳴らし、卒業後は1927年(昭和2年)から始まった第1回全日本都市対抗野球大会に出場し大会第1号本塁打を放ったことで知られています。壮年のこのころ日米親善野球の日本選抜チームの選手を中心にした「大日本東京野球倶楽部」の結成を画策していました。

その初代監督に就任すると田部を東京に呼び戻し、3年ぶりに上京した田部はこうして大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。結成時の背番号は3でした。

仲立ちしたのは大学の先輩の小西得郎で、都市対抗野球大会に審判員として出場し、第1回大会では、開幕戦の球審を務めていました。大日本東京野球倶楽部に入団した田部は、1935年の内地巡業時に背番号が1となり、初代主将二出川延明の退団に伴い、2代目主将となりました。

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東京六大学出身で端整なマスクに、ショーマンシップ溢れたプレースタイルは、男女問わず非常に人気が高く、また伝説的な韋駄天選手と持ち上げられました。ただ、それなりの実力は持ち合わせており、1935年の同チームの第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録しました。

また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、アメリカ人を驚かせるとともに「タビー」の愛称を獲得しました。

1936年、大日本東京野球倶楽部は、ジャイアンツを巨人と訳した「東京巨人軍」に正式改称。このころの国内の巡業試合での巨人のライバルの一つは、東京鉄道局野球部(のちの国鉄スワローズの前身)でしたが、この東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治であり、田部対策として内野安打での出塁を防ぐ前進守備の田部シフトを敷いたといいます。

同年2月5日、日本職業野球連盟(プロ野球)が結成され、直後の2月14日からの第2次アメリカ遠征では、全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板しました。沢村と二人だけ写真入りで取り上げられ、共にメジャーリーグから勧誘を受けたのはこのときです。

この1936年という年は、翌年の1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の前年であり、その後太平洋戦争に突入するきっかけとなるこの戦争を境に日米関係は急速に悪化していきます。そうした雰囲気の中、さすがにメジャーへの参加もままならなかったでしょう。

沢村も同様であり、無論日本初のメジャーリーガーは実現していません。ちなみに、日本人初のメジャーリーガーは、1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツに投手として入団した村上雅則が初めてになります(通算成績:54試合5勝1敗9S 防御率3.43)。

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帰国後、主将としての役目上、選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団します。この当時、沢村を先頭として選手たちのあいだにチーム内の学閥に対する不公平などへの不満があり、また渡米前に阪急へ移籍させられた恩人、三宅大輔と仲の良かった内野手、苅田久徳(東京セネタース(現日ハム)へ移籍)が火種となりました。

この年、巨人は77試合を43勝33敗1分の成績で大阪タイガース(現阪神)を破って初優勝を飾りましたが、浅沼誉夫新監督と選手の間では軋轢が多く、勇退を要求する声も高くなりました。主将の田部主将と水原茂副将を中心に、メンバーから署名捺印を集めて正力松太郎に直訴しましたが、結局受け入れられませんでした。

田部は三宅が監督となった阪急軍に転じるつもりでしたが、移籍は認めないという規定が契約書に含まれていたことから進退を迫られることになります。結局、日本初のプロ野球リーグが開幕したというのに、退団を選択。同年秋、田部を筆頭に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団の設立も画策されたようですが、これも頓挫。

こうして田部は日本を去り再び満州大連に戻りました。当時の大連は日本からの資本が続々と投入された時期で活気にあふれており、田部もトラック運送業を始め事業も成功しました。元々大連でサラリーマンとして勤めていた田部は、実業野球に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれます。

その言葉通り、1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場、準優勝するなど、古巣での嬉々としたプレーが目立っていました。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせ、また1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場しています。

しかし、米軍相手の泥沼戦争はこのころ最終局面に向かっていました。戦争末期の1944年、ついに田部も大連で現地召集されます。すぐに戦況悪化の激戦地、沖縄に送られましたが、1945年、地上戦最中の6月、消息を絶ちました。沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡した、と推測されています。没日ほか詳細は不明。満39歳没。

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広陵時代、バッテリーを組んでいた小川年安が入団したタイガースの初代主将・松木謙治郎は田部とともに明治大学を卒業しており、親交も深かったようで、その著書の中で田部の事にも触れています。それによれば田部は、同年ロサンゼルスオリンピックに出場し、東洋人として初めて陸上短距離で入賞した「吉岡隆徳」と競争したことがあったそうです。

どちらが速いか、とこの当時“暁の超特急”といわれた吉岡に挑戦したといいますが、神宮球場でのこの勝負において、田部は馴れない陸上用のスパイクを履きながら後半までリードしたといいます。吉岡は当時世界で一番速いとも言われていたので、これが本当なら50mなら田部が世界一速かったという事になります。

ちなみに、吉岡は現役を退いたあと1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任、戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わりました。また、1952年には広島カープの初代トレーナーを勤めるなど当地のスポーツ界に功績を残しています。

田部はその生涯独身ではなく、大連に戻った1942年、結婚して子供を設けました。男の子だったそうで、明大中野高校を卒業しましたが、父と同じ明治大学には進学しなかったようです。戦後の1950年から1952年ころ東映フライヤーズでバットボーイをしていたようで、そのころはまだ母親は息災だったようです。

田部親子はその後、野球関係者に連絡を取ることはなかったといいます。しかし、松木謙治郎が1957年に大映スターズの監督として沖縄へ行った時、田部親子を見たと話しています。沖縄摩文仁海岸の崖の上でひっそりと祈る二人を見たといいますが、その後、メディア等の表に出ることはなかったようです。

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれています。1969年、野球殿堂入り。

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