龍宮

日本の政治が騒がしくなってきました。

毎日のように新しい政変劇を知らせるニュースを、日本中の人が固唾をのんで見ていることでしょう。

どうやら民進党という党はなくなるようで、新進集団に飲み込まれた上で無色になってしまう危機にあるようです。緑色のなかで目立つ色は赤ですが、はたしてそんな色に変われるのでしょうか。

それにしても、前からこの党の名が、ニンシン・ニンシンと聞こえてしかたがないのですが、わたしだけでしょうか。だとすれば、さしずめ今は、この党が新たに生まれ変わるべき時期に来ているということなのでしょう。

母は「キボウ」という名らしい。どんな子が生まれくるのかわかりませんが、とまれ無事に生まれて、新しい展開をこの国にもたらしてほしいものです。




ところで、妊娠といえば動物の大多数は、メスが妊娠します。性的二形、すなわち♂と♀の別を持つ種では、ほとんどの場合オスが精子を生産し、受精卵を宿すことはまれです。

ところが、オスのタツノオトシゴは、メスから卵をもらって妊娠を受け持ち、子供を「出産」します。

タツノオトシゴの♂の腹部には育児嚢(のう)という袋があります。メスはタマゴを排出する輸卵管をオスのこの育児袋の中に差し込んで産卵、受精します。やがて袋の中でふ化した子供でいっぱいになったオスのおなかは膨れ、ちょうど妊娠したような外見となります。

生まれた仔魚は孵化後もしばらくは袋の中で過ごしたのち稚魚になります。やがて袋の中からポンポンと勢いよく飛び出してめでたく「出産」となりますが、この時、オスは尾で海藻などに体を固定し、さながら陣痛のように体を震わせながら稚魚を産出します。けなげです。

この稚魚は全長数mmほどと小さいながらも既に親とほぼ同じ形をしており、海藻に尾を巻きつけるなど親と同じ行動をします。かわいらしいです。

普通の魚は横長の状態で泳ぎますが、タツノオトシゴは体を直立させて泳ぎ、常に頭部が前を向く姿勢で移動します。この姿が竜やウマの外見に通じることから「龍の落とし子」の名がつけられ、ほかに「海馬」、あるいは「龍宮の駒」ともよばれます。英語圏では龍はあまりなじみがない動物なので、”Seahorse” と呼ばれています。

この「龍宮の駒」の龍宮とは、言うまでもなく浦島太郎の伝説に出てくる龍宮城のことです。乙姫さまあるいは龍王が統治する世界として水中に存在するとされている宮殿ですが、その源流は中国の故事にあります。

中国において神仙たちの住む地とされた蓬莱(ほうらい)などの仙境は、海の果てにある島であると考えられていました。海中に存在するのでは、という想像からその中に「龍宮」といいう桃源郷がかたちづくられ、道教や説話文学などで語られました。これが中国から移入され、日本特有の龍宮伝説になったと考えられています。



また、中国中部、湖南省北東部には、中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい湖、「洞庭湖(どうていこ)」というのがあります。この周囲に「龍女」の話が伝わっており、この伝説を下地に日本化された物語が「浦島太郎」である、というのが定説です。

龍女の話というのは、ある人物がいずれも溺れる少女を救い、その恩返しを受ける、というものです。水中の別世界に案内され、結婚に至り、日が過ぎて、故郷を懐かしみ、贈り物をもらい故郷へ帰るというよく似た展開になっています。

日本の浦島太郎の話では少女が亀に化け、玉手箱のくだりが付け加えられました。「古事記」や「日本書紀」のころのこの話にはまだ乙姫は登場せず、おそろしげな海神の住んで居る宮殿とされていましたが、「万葉集」あたりから見目麗しい乙姫様が浦島太郎を接待する、というふうに変わってきたようです。

万葉集の中では、この宮殿は綿津見神宮(わたつみのかみのみや)と表現されています。「わたつみ」とは「海神」とも書き、日本各地にこの神様を祀った場所があり、たとえば福島県二本松市(旧塩沢村)もそのひとつで、ここにはこんな話が残っています。

ある男が川で鍬を洗っていて、誤って水中に落とし、水底を探し回っていたら龍宮まで辿りついてしまいました。その龍宮にいたのはブスばかりでしたが、ただ1人美しい姫がいて、機織りをしていました。男はこの姫様が織った布でおしゃれな服を作ってもらい、数々の寵愛を受けますが、村が恋しくなり、3日目に帰郷します。

しかし、村では25年ほどの時が過ぎていました。知らない人ばかりなので龍宮へ帰りたいと思いましたが、交通手段がなく、泣く泣くそこで一生を終えました。ただ、死ぬ前に思い出の姫様を偲び、その記念として「機織御前の御社」を建てたといいます。

龍宮城にいたら一生幸せに暮らせたのに…

このほか、香川県三豊市にも龍宮伝説があり、ここでは市内の詫間町にある荘内半島沖にある、粟島(あわしま)に龍宮があったとされます。この半島一帯には、浦島太郎が生まれた場所とされる「生里」、玉手箱を開けた「箱」、箱から出た煙がかかった「紫雲出山」ほか浦島太郎伝説にちなむ地名が多く残っています。

この粟島には、浦島太郎の墓や太郎が助けた亀が祀られている「亀戎社(かめえびすしゃ)」もあり、龍宮へ連れて行ってくれた亀の遺骸が祀られているといいます。

このほかにも龍宮伝説が残っている場所は各地にあり、三重県志摩市の伊雑宮(いざわのみや)には、龍宮から戻った海女が持ち帰ったといわれる玉手箱が保管されているほか、長崎県対馬市には海神神社や和多都美神社など、海神系の神々を祀る古社が多く、古くから龍宮伝説が残っています。

この龍宮、実は地球外にもあります。

といっても、それほど大昔のものではなく、ごく最近発見されたもので、カタカナで“リュウグウ”と表記されます。

地球近傍小惑星の一つで。宇宙航空研究開発機構 (JAXA) が実施する小惑星探査プロジェクトはやぶさ2の目標天体です。1999年5月10日に、アメリカのニューメキシコ州ホワイトサンズに天文台を持つ、リンカーン研究所の自動観測プログラムLINEARによって発見されました。

もともとは、1999 JU3という発見年と記号だけを組み合わせた名称でした。が、一般に馴染みにくいためJAXAが名前を募集したところ、神話・伝説由来の名称案の中で多くの提案がありました。この中からJAXAが選定した”Ryugu”を、国際天文学連合に提出して了承を受け、最終決定しました。

通常、審査に3ヶ月程度かかるといいますが、この時は異例の速さで審査を終えたといいます。おそらくは最初の探査機、「はやぶさ」の成功が幅を利かせたのでしょう。

2015年10月5日、小惑星リストに“162173Ryugu”と掲載されました。JAXAは、「Ryugu」の選定について、「はやぶさ2」が持ち帰るであろう小惑星のかけらが入ったカプセルが、浦島太郎が持ち帰った「玉手箱」に例えられるから、と説明しています。

JAXAが最初の「はやぶさ」の探査対象だった小惑星のイトカワに次いで、このリュウグウを選定したのは、この小惑星もまたタイムカプセルのようなものだと考えたからです。原始の太陽系が形成されたころの有機物や含水鉱物を多数含んでいると考えられ、また、地球から比較的近い軌道要素を持っていたこともこの小惑星が選ばれた理由でした。




こうして「はやぶさ2」を積載したH-IIAロケット26号機は、2014年12月3日に種子島宇宙センター・ロケット発射場から無事に打ち上げられました。

この「はやぶさ2」には、有機物や水のある小惑星を探査して生命誕生の謎を解明する上での、より大きな科学的成果を上げることが期待されています。世界で初めて小惑星の物質を持ち帰ることに成功した「はやぶさ」がいわば「実験機」だったのに対し、初の「実用機」として開発されました。

基本設計は初代「はやぶさ」と同一ですが、その運用を通じて明らかになった問題点の数々を改良しています。

サンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチダウン」方式ですが、事前に爆発によって衝突体を突入させて直径数メートルのクレーターを作る際ために飛ばす「弾丸」にはより強力なものが搭載されています。「はやぶさ」で発射された弾丸はわずか5gでしたが、今回は重さ 2 kg の純銅製の弾丸をリュウグウに衝突させ、クレーターを作ります。

このクレーター内または周辺で試料を採取することにより小惑星内部の調査が可能となりますが、採取した物質は、前回のハヤブサと同様、耐熱カプセルに収納されて地球に回収されます。

「はやぶさ」ではこの弾丸射出がうまくいかなかったばかりではなく、サンプルが採れたかどうかも確認できずに帰還する際にはありとあらゆる機器が故障しました。

いわば満身創痍、ほうほうの体で地球にかろうじて帰ってきましたが、この初代の轍をふまぬよう、「はやぶさ2」では、何としてもサンプルを確実に採取し、リターンさせることを目的に数々の改良が行われました。

ちなみに、初代「はやぶさ」においては着地探査ローバーとして「ミネルバ」が用意されていましたが、その着地も成功させることが出来ませんでした。今回の「はやぶさ2」ではこちらでも万全を期すため、着地探査ローバーの搭載数は、1基から3基に増加させています。

また、ドイツ航空宇宙センターとフランス国立宇宙研究センターが共同開発した着陸ローバー「マスコット」(MASCOT, Mobile Asteroid Surface Scout)と併せて投入、運用されますから、成功すれば合計4機ものローバーが龍宮城をはい回ることになります。




このほかはやぶさ2には姿勢制御用にリアクションホイール(RW)という機器が搭載されています。リアクションホイールを1台だけ回転させると、その角運動量により軸回りの姿勢の安定度を得ることができます(コマが回転していると回転軸が安定して倒れない原理)。

初代では信頼性強化の改造が裏目となり、3基中2基が運用不能となったこのリアクションホイールもかなり改造され、かつ3基から4基へと増加されています。また、今回はなるべく着陸時までは温存するため、できるだけ太陽光圧を利用するとともに可能な限り一基のリアクション・ホイールでの運用でリュウグウへの到達を目指す予定だといいます。

また、新たに高速通信が可能な平面アンテナを従来のアンテナに追加したことで、全般的な高速通信速度が可能となり、極限時の指令運用ができるようになりました。これにより、指令のデータが迅速に遅れるようになり、より速やかかつ正確なタッチダウンが行えるようになるはずです。

さらに、今回のミッションでは、イトカワでの3ヵ月に比べて6倍にあたる1年半を費やして調査することにしています。



目標小惑星である姿勢がほぼ垂直であったイトカワでは、だいたい12時間の自転毎に天体全面を観察できたのに比べて、リュウグウの場合はかなり観測がしずらいことが予想されています。リュウグウの自転速度は7時間半とイトカワに比べてかなり短く、何より自転軸が黄道面に対して横倒しに近くなっています。

つまり、炭火の上の焼き鳥のような状態で自転しているようなものであり、太陽からの光があたりにくく、観測効率が極めて悪くなることが予想されます。このため観測時間をできるだけ延ばし、観測データ不足を補おうというわけです。

「はやぶさ2」計画は、生命誕生の謎を解明するために実施されると上で書きましたが、とくに持ち帰ったサンプルの分析によっては、生命の起源についてのさらに新たな知見をもたらす可能性があります。

とくにアミノ酸の採取が期待されています。アミノ酸は、NASAが1999年に彗星探査を目的に打ち上げた探査機スターダストでも確認されており、同探査機が2006年に持ち帰った資料の中にも含まれていました。しかし、日本の「はやぶさ」と同様、得られた試料は極めて微量であったため、今回のミッションにより多くの期待がかかっています。

「はやぶさ2」が目指すリュウグウは、C型小惑星と呼ばれてており、炭素を多く含む「炭素質コンドライト隕石」と似た物質で出来ていると考えられる小惑星です。

この「炭素質コンドライト」の中には生命が誕生する際に必要となる有機物が含まれている可能性が高いといいます。地球近傍に存在するリュウグウのような小惑星が有機物を含むことが実証されれば、これらが隕石として地球に落ち生命の起源に寄与したという仮説が成立することになります。

2014年12月3日13時22分、はやぶさ2は、H-IIAロケット26号機により打ち上げられました。その後、イオンエンジンや通信系などの初期のチェックアウトをすべて順調に終了。2015年3月3日、巡航フェーズへ移行後、同年12月3日、地球スイングバイを実施、現在順調にリュウグウへ接近しています。

2018年夏、リュウグウに到着し、約18ヶ月間滞在する予定で、とりあえずは探査ローバーの着陸とサンプル採取の成功が期されています。その後、オリンピックが開催される2020年末、地球へ帰還する予定ですが、初号機「はやぶさ」のようなトラブルもなく、無事に帰ってくることが期待されます。

そのオリンピックのとき、小池さんははたして東京都知事のままでいるのでしょうか。

龍宮がらみでもうひとつ、「龍宮童子」という、人間の願いをかなえる力を持っている龍宮の子供についての昔話をしましょう。

年の瀬に正月用の松や薪などを売っていたおじいさんがいましたが、一向に品物が売れません。売れ残っても商売にならないため、ついには「龍宮にさしあげます」と言って海の中に叩き捨ててしまいました。ところが、帰ろうとするおじいさんに、もしもしと水中から声をかける者がいるではありませんか。

なんだろう、とおじいさんが水面に顔を近づけたとたん、いきなり水の中に引きずり込まれ、気が付くとそこは龍宮城でした。やがて乙姫様が現れ、松や薪をくれたお礼だといって、飲むや食え、歌えの大宴会。ひとしきりのもてなしを受けたあと一人の子供が贈られました。

これが龍宮童子です。帰宅後、その子供がおじいさんとおばあさんの願うものを次々と出してくれるため、二人はとても裕福になります。しかし、その童子は非常に汚かったため、ふたりは次第にその子を邪険にするようになり、最後には追い出してしまいます。

すると今まで出してくれた金品は全て失われてしまい、家はもとのように貧しくなってしまった、といいます。

一向に人気が出ないニンシン党はキボウの党にタダ同然で身売りをしました。ニンシン党は良く働き、多額のお金を貢いだために、キボウの党は裕福になり、ついに政権をとることができました。

しかしあまりにも内情がひどかったため、国民に見放され、最後には邪見にされて追い出されてしまい、両方ともまたもとの貧しい党に戻ってしまいました…

ということにならないよう、頑張ってほしいものです。




噴火と野次と…

気のせいか、今年は秋の進行が速いような気がします。

庭のヒガンバナも例年より早く開花したようで、いつもだと10月になってようやく、といったところが、今朝ほどの段階ではもうほぼ満開です。

ふもとのヒガンバナもさぞかし見頃だろうし、撮影に行きたいなと思っているのですが、いかんせん今年は手が…

カメラを構える利き腕がまだ十分に回復していないので、せっかくの季節なのに野外撮影もままならないわけですが、それでも身近なもので気になるものがあればなるべく撮影するようにしています。

とくにきれいな夕焼けが窓から見えると、手が痛いのにカメラを抱えてついついシャッターを切ってしまいます。

この季節には夕焼がきれいになります。季節が冬に近づくにつれて、空気が乾燥し、空気中に水分が少なくなってくることが理由です。

太陽光線が大気中の微粒子にぶつかると、“散乱”と呼ばれる現象が起こり、一部の波長が四方八方に散らばります。“レーリー散乱”という、とは先日も書きました。

大気中の成分の主なものは酸素と窒素ですが、これらは極めて微小で、太陽光の波長の1000分の1ほどしかありません。従って、色の中でも波長の短い青と紫から先に、これらの粒子にあたって散乱していきます。昼間、空が青く見えるのはこのためです。



一方、赤や橙色といった波長の長い色はほとんど散乱しません。唯一太陽の部分だけが赤色に見えるはずですが、光り輝く太陽は眩しすぎてこれを直視できる人は普通いません。このため日中、赤や橙色は際立たないというわけです。

ところが、日没時には、太陽が真上にある日中に比べて、相対的に太陽までの距離が長くなります。必然的に太陽光が目に届くまでには時間がかかり、かつ通過する大気層も多くなります。このため、波長の短い青は、我々の目に届くころにはほとんどが散乱してしまって見えなくなってしまいます。

代わって、波長の長い赤や橙色は散乱しにくいため残り、我々の目には届きやすくなります。厚い大気に遮られて明るさもぐっと弱められるため、赤い太陽はより見えやすくなる、というわけです。

しかし、春から夏にかけては、大気中に水分が多く、この赤や橙色も吸収してしまいます。結果として、夕方でも青でもない赤でもないどんよりとした灰色の空になりがちであり、このため、夕日もあまりきれいな色になりません。

ところが、秋や冬の時期、大気が乾燥するようになると、赤や橙色を吸収する水分が少なくなります。赤や橙色はより目に届きやすくなり、よりクリアで綺麗な夕日や夕焼けがみえることになります。つまり、この時期、夕焼けが美しく見えるというのは、大量の澄んだ空気がある、ということになります。

それが大量に西側にあり、それが翌日こちらにやってくる場合、「晴れる」可能性が高くなります。秋晴れの前日に夕焼けが多いのはこのためです。

もっとも、いかに赤く見えるか、ということについては、大気中に含まれる塵も影響しているようで、大量のちりが大気中にある場合には、赤や橙色の光がそれにあたって散乱しやすくなるため、より鮮やかな夕焼けになる、ということがいわれているようです。

1883年、世界中で鮮やかな夕焼けが確認されましたが、これはこの年に噴火したインドネシアのクラカタウ火山の噴火により大気中に障害物が撒き散らされたため、といわれています。同じ現象は1991年に起こった今世紀最大規模の噴火、フィリピンのピナトゥボ火山噴火のときにも確認されています。

日本でも夕焼けが多かったという声が多かったようですが、とくにアメリカ西海岸においても同様の現象が観測されているといいます。もっとも火山噴火の影響の場合は朝夕関係ないはずなので、必ずしも夕焼けばかりではなく、朝焼けも多かったのではないかと推察されますが…

ところで、火山といえば、2014年9月27日に御嶽山が7年ぶりに噴火しました。山頂付近にいた登山客が巻き込まれて死者58名、行方不明者5名という被害をもたらしたこの噴火からちょうど3年が経ちます。

あれからもう3年も経ったか、と唖然とする一方で、当時見たニュース映像などが脳裏によみがえってきたりして、改めて火山噴火は恐ろしい、と思う次第。

ネットに、この当日に登山中だった人たちのツイッターが残っていたので見てみたところ、「御嶽山、噴火しました ((( ;゚Д゚)))」といったのんびりとしたものから、時間が経つにつれて緊迫感が増し、“やばいなんだこれなんだこれ”、“火山弾降ってきた”、“これどうすんだ…避難小屋から出れない…“というふうに刻々と変化。

“噴火がとまらねぇ #” “今は火山灰で体真っ白になって、外は真っ暗で明かりないとなにも見えない…”

この人たちは、本当に助かったのだろうか、と思わせる投稿の数々で、あらためて、SNSというのはスゴイなーと、感心してしまいます。

臨場感あふれる実況をマスコミの人ではなく、普通の人がやってできる、というところが、こうしたSNSのスゴさですが、ツイートだけでなく、写真や映像まで配信されているものもあり、あぁ時代はここまで来たか、とさらに感心するしだいです。

1991年に雲仙普賢岳が噴火した際には、まだこうしたSNSはなく、代わって多くのマスコミがこうした映像を流していましたが、そのマスコミ等報道関係者を中心として43名の死者・行方不明者の犠牲を出しました。

こうした災害報道の在り方については当時からいろいろ問題視されていて、火山噴火だけでなく、土砂災害や地震災害の取材、台風などの現地レポートなどについても、取材しているマスコミ自らが危険にさらされていることを顧みない、という批判が相次いでいます。

非日常的事象に対して関心が向くのは人間の本能であり、仕方がないというべきかもしれませんが、いわゆる「野次馬」とは、こうした人間本来の本能が行動となって現れた現象です。

野次馬的興味をきっかけに一転して、事件が解決したとかいったことも、ときたまあったかもしれません。しかし、本質的に、野次馬行為は社会に対して肯定的事象をもたらすものではありません。事件や事故の現場に集まることで、救援者や問題解決にあたっている責任者の業務に支障を来たすことのほうが多いようです。

最近ではマスコミだけでなく、一般人が大規模な火災現場や事故現場などに自動車で乗りつけたりするケースも多く見られます。消防車や救急車の到着が遅れる、野次馬の整理や誘導に警察官の人員を割かれる、被害者の肖像権を無視した興味本位の撮影が行われるなどといった害も少なからず発生していて、以前にも増して社会問題となっています。

この「野次馬」ですが、語源は「親父馬(おやじうま)」で、文字どおり「歳を取った馬」を意味します。本来は歳を取った馬や御しがたい馬を指すことばですが、いつの頃からか「おやじ-うま」が「やじ-うま」へと転訛しました。

歳を取った馬は先頭に立たず若い馬の後をただ着いていくだけであることから転じて、自分とは直接関係の無い他人の出来事を無責任騒ぎ立てる人や、物見高く集まって囃し立てる、面白半分に騒ぎ立てる人を指し示す意味で使われるようになりました。

野次馬行為に及ぶような心根(こころね)を「野次馬根性」と言い、また、「野次る」という表現もあり、これは「野次馬」が動詞化されたもので、「やじを飛ばす」も同様です。



野球やサッカーなどのスポーツでのファンによる野次はつきものですが、政治の世界においても野次は日常的に飛ばされています。

言論を生業とする政治家ならではの絶妙な応酬を評価するものとして、野次は「議会の華」という言葉があるくらいで、むしろ野次を肯定的にとらえる向きもあります。

1920年(大正9年)の第43回帝国議会で、原敬内閣の大蔵大臣、「高橋是清」は海軍予算を説明していました。「陸海軍共に難きを忍んで長期の計画と致し、陸軍は10年、海軍は8年の…」と言いかけましたが、このときに、三木武吉(みきぶきち・後年の三木武夫元総理とは別人)が「だるまは9年!」とヤジを飛ばした、といいます。

これは、高橋大臣のあだ名が「だるま」であり、中国少林寺の高僧、達磨大師壁に向かって九年間座禅し、悟りを開いた、という故事にかけたものです。そう言われてもピンとこず、たいして面白くないように感じますが、現場に居合わせた彼らは、なかなか機知に富んだギャグとして受け取ったようです。

このときの議会場は爆笑に包まれ、高橋も演説を中断して、ひな壇にいた原敬総理を振り返って「やるじゃないか」と言いたげに苦笑いしたといいます。普段から謹厳なことで知られる加藤高明や濱口雄幸(いずれも後年の総理経験者)までが、議席で笑い声をあげたといいます。

この三木さんは、別名「ヤジ将軍」といわれるほど野次の名人だったそうで、別の逸話もあります。

当時の原内閣のある閣僚が、何の抑揚もないお経のような調子で、提出法案の趣旨説明をだらだらとしていたところ、一区切りついたところで一声、「次のお焼香の方、どうぞ」とやったそうです。議場は爆笑に包まれたといい、こうした絶妙なヤジの入れ方は絶妙でした。

このほか、吉田茂首相の演説にもよくヤジが飛んだといいますが、あるとき、衆院本会議で演説中に野党議員から「それでよく総理が務まるなあ」といヤジが飛びました。これに対して、すかさず与党席から応酬で飛んできたヤジが「お前でさえ代議士が務まるようなもんだ」、でこちらも一同大爆笑に終わったということです。

この当時の国会答弁はわりとのほほんとしたところがあったようです。ヤジは国会の潤滑油でもあり、「こいつ、やるな」と議場全体がニヤリとすれば、中だるみした国会に活が入り、会議は進み、ということがよくあった、といわれています。



ところが、最近の国会の野次はどちらかといえばシリアス、あるいはダイレクトなものが多く、あまり面白くありません。

その中でも比較的面白いものとしてはこんなものがあります。

1990年、自民党の大野明・運輸大臣がリニアモーターカーの実験線について説明していると、「迂回するな」というヤジが響きました。大野大臣の父、伴睦は自民党の初代副総裁であり、政治力で東海道新幹線のルートを変更させ、「岐阜羽島」駅を設置させたことで有名です。

このヤジに対して大野明代議士は、少しも騒がず、「迂回(鵜飼)は長良川だけです」と答えたといい、妙意即答のこの答弁に拍手が沸き起こったといいます。

しかしこうしたヤジがいつも会場を和ませるとは限りません。アメリカでは、発したヤジが「不適切である」として、懲戒や謝罪に追い込まれることもよくあるようです。

2009年9月9日、共和党議員ジョー・ウィルソンは、アメリカ合衆国議会上下両院合同会議で医療保険改革について演説中のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマに対して、「嘘つき!”You lie!”」)とヤジを飛ばしました。

オバマ大統領のプランの効果に疑問を呈した発言だったようですが、議会開催中に「嘘つき」というのは穏やかではありません。案の定、同国下院は9月15日、ウィルソンに対する譴責(けんせき)決議を賛成240、反対179の賛成多数で採択しました。ちなみにこの医療保険改革こそが、現在トランプ大統領が廃案にしようとしている、「オバマケア」です。

日本でもこうしたヤジが議員の進退に影響を与えた例があり、1978年(昭和53年)2月、衆議院予算委員会において、自由民主党の浜田幸一衆議院議員が日本社会党の安宅常彦議員を「強姦野郎!」と野次りました。

平時から過激な発言の多い浜田議員のことでもあり、社会党は当初、浜田を懲罰委員会にかけると息巻いていましたが、当の安宅が提訴を取り下げてほしいと言ってきました。党が詳しく事情を聞くと、確かに女性問題があり、もみ消しのために内閣官房長官田中六助に金の工面を依頼していた事実が発覚しました。

このため安宅常彦議員は結局、社会党から公認を受けられず、その後政界を引退することになったといいます。思い起こせば、浜田さんの発言や行動というのは何も考えていないハチャメチャなもののようで、実はその裏に確固たる理由がある、ということはよくありました。

さらに記憶の新しいところでは、2014年(平成26年)6月18日に、東京都議会本会議において、塩村文夏都議が浴びた「セクハラ野次」です。

塩村議員の演説中に「自分が早く結婚したらいいじゃないか」「産めないのか」といったセクハラ野次が発せられ、欧米メディアが取り上げるまでの大きな問題となりました。ご記憶の人も多いでしょう。

発言者のうち一人が特定され謝罪し、この件は落着したようですが、何とも品のない、かつウィットのかけらもないヤジです。

マスコミが報じなければなかなか我々も耳にすることのないこうしたヤジですが、たまに報道されたりする場合に聞くヤジには、どうも程度の低いものが多いような気がします。戦前の三木さんのような機知に富んだヤジならもっと聞いてみたい気がしますが…

さて…

御嶽山噴火から3年、そしてこのセクハラ野次からも早3年… 初の女性都知事・小池百合子氏が率いる「都民ファーストの会」は都議会に君臨し、女性議員の立ち位置も変わってきているようです。

その「都民ファーストの会」は「希望の党」に発展しました。次回の国政選挙で、日本の政治にはたして大噴火はあるでしょうか。




サムシング・ブルー


先日、NHKの朝のニュースで、「幸せを呼ぶハチ」の話題を流していました。

高知に北川村という村があります。県南東部、室戸岬にほど近い村で、県庁所在地の高知市や北部の徳島市から遠く離れ、高齢化と過疎化に悩んでいるといいます。

その山村が村興しとして、2000年に開園したのが、「モネの庭マルモッタン」。フランス、画家モネの花園にちなんだもので、フランス。・ジヴェルニーにある実際のモネの庭を北川村の自然を生かし再現したものです。

フランスにも行き、実際のモネの庭の管理責任者にも指導を得ながら再現を試みたそうで、「光の庭」、「水の庭」、「花に庭」の三つがあります。もともとの土地は、柚子ワインを生産するワイナリー誘致のためのものだったそうで、バブルの崩壊により用途が未定となっていたものだとか。

苦労してモネの庭を再現した甲斐あり、テレビで見る限りはモネの絵そのもののように見えました。開園以来100万人以上の人たちが訪ねるようになったそうですが、さらに、最近は見つけたら幸せになれる「青いハチ」も見られるようになり、話題になっているといいます。




体は黒色で、鮮やかな青緑色の斑紋があるのが特徴。青い色であることから「幸せを呼ぶハチ」と呼ばれており、これは絶滅危惧種に指定されている「ルリモンハナバチ」という種です。ナミルリモンハナバチともいい、7月から9月ごろまで楽しめるといいます。

一応、全国に生息している、といわれているようですが、大分など一部の県では絶滅危惧種に指定されています。どちらかといえば中四国・九州での目撃談が多く、四国でもここのように一部の地域でみられるようです。

ケブカハナバチという別のハチの巣をみつけて産卵し、幼虫はこのハチが餌として確保したものを食べて成長します。労働寄生といい、特殊な生態なゆえに、数が少ないのでしょう。

「モネの庭マルモッタン」でも希少ゆえに見ると幸せになれる、といつしか言われるようになり、全国から独身者が集まるようになったといい、ホームページなどでもアピールし、さらなる集客を図っていく予定だそうです。

ルリモンハナバチ

青色をした虫ではこのほか、「幸運の蝶」としてよく知られる、オオルリアゲハがおり、こちらは通称「ユリシス」の名で親しまれています。オーストラリアやソロモン諸島で見られ、「見ると幸せになれる」「1日の内に3回見るとお金持ちになれる」「肩など体にとまると、より大きな幸福が訪れる」というジンクスが伝えられています。

わりと大型の蝶で14cmほどもあるといい、飛ぶとき表の翅は光を反射し、その光は数百メートル先にも届くといいます。残念ながら日本では見られないようですが、別の蝶で、アオスジアゲハという種がおり、これは街中でも普通に見ることができます。青い筋が特徴のアゲハチョウなので、街を歩くときは気を付けて探してみてください。

ユリシスアオスジアゲハ

このほか、幸せを呼ぶ青といえば、「青い鳥」の物語があります。2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行きますが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語で、聞いたことがある人も多いでしょう。

こちらはベルギーの詩人、劇作家、随筆家のモーリス・メーテルリンク作の童話劇で、無声映画時代から何度も映画化されているほか、演劇やテレビドラマなどでも良く取り上げられるモチーフです。

その昔、ザ・タイガースのシングル曲に「青い鳥」というのがありましたが、講談社の児童書シリーズにも同様のものがあるほか、劇団名や学校などの教育機関で使っているところも多く、日本人は青い鳥が好きなようです。実際、日本にはオオルリやコルリ、ルリビタキやカワセミといった青い鳥が多く、幸せが棲む国なのかもしれません。

このように、「青」という色は昔から幸せの色とされることが多いようですが、「あお」と訓じられる漢字として蒼および碧もあり、伝統的には藍(あい)や縹(はなだ)もあります。縹は聞きなれないかもしれませんが、ツユクサを表すことばで、露草の花弁から搾り取った汁を染料として染めていた色をさします。

一口に青といっても、ほかにもいろいろなものがあり、たとえば、水色・空色と呼ばれるような明度が高く彩度の低いもの、淡い色合いのものもあれば、紺色や藍色、群青色などの明度が低く、濃い色合いのものなどもあります。

我々が一番良く目にするのが晴れた空の青色ですが、こちらも太陽や雲との兼ね合いでさまざまな色の変化を見せます。青く見えるのは、光の波長より小さな空気分子が短い波長をより多く散乱するためで、これを「レイリー散乱」といいます。

1904年の ノーベル物理学賞受賞者、レイリー卿は、イギリスの物理学者で光の散乱の研究から空が青くなる理由を見つけ出しました。日中は太陽の光のうち波長の短い青色が多く散乱されてわれわれの目に届くため青く見える、といった原理はその後光学計測にも用いられるようになり、光工学の上で大きな発展をもたらしました。

通常海は青いものと思われていますが、こうして目にする青さのほとんどは、青空が映っているからであり、他の状況では海はさまざまな色に変わります。晴れた日に屋上などから斜めに俯瞰して見た海の色は、真上からみた海などに比べてずっと青く見えたりしますが、これも光の散乱の程度による違いです。

一方、水中ではすべてのものが青に見えます。これは水は長波長の可視光をより多く吸収するためです。このため、ある程度の深さに生息するサンゴ礁のような白いものでも、反射光に青が多く含まれるため青みがかって見えます。



こうした空や海というのは、ある意味、地上とは全く別の世界です。そこで見える青色は、洋の東西を問わず、古代から日常とは異なった別世界の色とされる傾向があります。非日常的な世界であり、死後の世界を連想させるためか、忌避されることさえあり、ときに死体の色を連想させます。

また、人類は長いあいだ、この青色を自分たちで作り出すことができなかったため、謎の多い色、とされてきたむきもあります。石器時代を通じ、青は作り出すことも難しく、青く染色されるものはほとんどありませんでした。

火を燃やし後にできる炭の色である黒はどこにでもあり、また光を最も反射する白、鮮やかさな花の色である赤の3つの基本色は古代社会からありました。しかし、青はその他の色に甘んじ、色の分類的機能に加わることもほとんどありませんでした。

古代ギリシャでは色相を積極的に表す語彙そのものが少なく、青色を表すためには2つの言葉、キュアノス (kyanos)とグラウコス(glaukos)が用いられました。

また、この二つの意味の差は曖昧でした。前者のキュアノスは、実はシアン(cyan) の語源です。鉱物のラピスラズリの深い青色をさして用いられたもので、「青」というよりも明度の低い暗さを意味し、現代的な感覚では黒色、紫色、茶色をも表しました。

紀元前8世紀末、ギリシャの吟遊詩人、ホメロスはその深みを神秘的なものや、恐ろしげなもの、または珍しいものを形容するのに、このキュアノスを好んで使用しています。

一方、グラウコスは瞳や深い海の形容として用いられましたが、キュアノスも似たような暗い色のイメージです。が、こちらはどちらかとえいば、緑色、灰色、ときに黄色や茶色に近いイメージで、とはいえ、こちらも本来の青色というよりも、むしろ彩度の低い、濁った青色を意味していました。

緑内障を表す英語グローコーマ(glaucoma) の語源はこのグラウコスであり、どす黒い青く変色した目の色をイメージしたもののようです。多くの場合、失明の危機をもたらす緑内障などの疾患をわずらったくすんだ人の瞳の色を表すのに用いられていました。

古代ローマでも青はあまり注目されず、青とされるラテン語のカエルレウス(caeruleus) は現在で言うところの、蝋(ロウ)の色、あるいは緑色、黒色を表していました。初期のころの蝋は現在のような動物由来の黄色みがかったものではなく、植物由来の緑色がかったものが多かったためのようです。

このように、青色というとどちらかという暗いイメージがあった古代では、青色は忌避すべき色でした。ローマでは青は喪服の色ですらあり、仇敵であるケルト人やゲルマン人などの野蛮さを象徴する憎むべき、もしくは回避すべき色でした。

青い瞳を持つことは醜さのひとつのようにみなされ、帝政期ローマの政治家・タキトゥスは、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族、ブリトン人の軍隊を「幽霊の軍隊」と呼びました。彼らが青く体を染めていたためです。

また、古代ローマの博物学者、大プリニウスはこのブリトン人の女性が体を青く染める風習を持っていることを「忌まわしい儀式」と批判しています。

現在のみならず、古代ギリシャ、古代ローマにおいても雨後に虹はみられましたが、彼らも虹の色をさまざまに分類したにもかかわらず、そこに青が加えられることはなかったといいます。

こうしたヨーロッパだけでなく、中国でも青は人のものではないという意味合いがありました。中国中部、豊都(ほうと)にあったとされる「鬼城」の門は、道教であの世とこの世を結ぶ門であるとされる青色に塗られており、手を触れると死期が近づくといわれていたそうです。

もっとも、これ以外の国の民族では、藍で青く染めることが日常的に行われ、青ないし緑は神秘さや異世界の色を表すことも多かったようです。とくに中東やエジプトでは魔除けの色であり、また死者を守る葬儀や名誉の死と結びついた「尊厳色」でもありました。

現在の中近東、メソポタミア地方の古代都市バビロンにあった、イシュタル門は世界7不思議の一つとして数えられていました。青い彩釉煉瓦で彩られていたからです。また、インドで最も偉大な詩人とされるカーリダーサは、シヴァ神の肌の色を青と表しました。

このほか、旧約聖書では神の足元もしくは玉座には常に青いサファイアがあったとされており、青は高貴な人物の象徴として使われていたようです。




このように中東やエジプトでは青は貴重な色とされていたのに対し、ヨーロッパでは暗く陰気な色として扱われ、こうした傾向は12世紀ごろまで続きました。

あれほど文明が発達していたのに、青空の色の原因については究明されることすらありませんでしたが、それが急に説明されるべきものと考えられるようになったのは「12世紀ルネサンス」以降でのことです。

ルネサンスの勃興期である12世紀は、西欧世界がイスラム文明と接触・遭遇し多時代です。その成果を取り入れ、消化し、その後の知的離陸の基盤とした大変革期であり、それまでのキリスト教とゲルマン文化の結びついた中世文化が大きく変化し発展しました。

イスラム圏との接触からキリスト教的世界観にも変化がもたらされ、芸術、思想上の大転換が起こり、その後の14世紀の本格的ルネサンスの先駆となりました。

このため、ヨーロッパではそれまでの控えめな地位にあった「青」は、数十年のうちに最も美しい色だとされるまでになる大変化を遂げます。この時期、絵画の中の聖母マリアの服装は喪に服す暗い青や黒から明るい青へと変化し、マリア崇敬とともに青の地位も向上していくことになりました。

聖母マリアのシンボルカラーである青は、すなわち純潔をあらわすようになり、なにかひとつ青いもの(Something Blue)をつけていれば幸せになれる、とまで言われるようになりました。

このサムシング・ブルーは目立たない場所につけるのが良いとされており、白いガーターに青いリボン飾りをつけたものを用意するのが一般的であるとされました。また、「二人の誠実な誓い」という意味としても使われるようになり、結婚式の花嫁が身に着けるものとされるようになりました。

この風習は現在まで受け継がれています。結婚式の当日に「なにか新しいもの」「なにか借りたもの」「なにか古いもの」のほかに、「なにか青いもの」を加えた4つを取り入れることで、永遠の幸せが続く、といわれるようになったのがそれです。

結婚式における欧米の長年の慣習が日本にも輸入されたもので、最近ブライダル業者がさかんにこれを喧伝しています。

由来はよくわかっていませんが、元はマザーグースの次の詩ではなかったか、といわれているようです。

「なにかひとつ古いもの~なにかひとつ新しいもの~なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの~、そして靴の中には6ペンス銀貨を」

マザー・グース (Mother Goose) は、英米を中心に親しまれている英語の伝承童謡で600から1000以上の種類があり、17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まったものです。日本でも大正時代に北原白秋が紹介してことで、広まりました。

こうしたこともあり、最近は結婚式では、青いものを用意する、というのが流行っているようです。そのひとつとして、「幸福の青いチョコレート」を配ることも多くなり、とくに“ケルノン ダルドワーズ”は大人気で、「福のチョコレート」の販売は毎年、No.1の人気を誇っています。

フランス西部・ロワール地方の小さな街、アンジェの老舗ショコラトリー“ラ・プティ・マルキーズ”が生んだ名物チョコで、国際菓子展で最高のブルーリボン賞を獲得というお墨付きをとっています。

このほか、岩手県一関市の世嬉の一酒蔵が販売している“サムシングブルー”も最近有名になりつつあり、こちらは青い色のビールです。藻の色素を原料に用いたそうで、味もフルーティーで女性にも飲みやすく、2016年には、「おとりよせ大賞」に輝いたとか。

このほか、最近は遺伝子組み換えによって「青いイチゴ」というのもあるそうです。寒さに強いイチゴを作ろうとしたら、偶然にできてしまったといい、こちらは氷点下の過酷な気候を耐え抜くことが出来るため、冷凍庫に入れてもペーストっぽくならないようです。

これからの寒い季節に結婚式を迎えるあなた。青いビールで乾杯し、青いイチゴの載ったウェディングケーキでファーストバイト、引き出物には青いチョコを…というのはいかがでしょうか。

とまれ、青いビールを飲みすぎて青ざめないよう、くれぐれもご注意を。



赤ヘル

広島カープが優勝しました。

夫婦そろって広島育ちのわれわれは、手放しで喜んだわけですが、地理的な問題もさることながら、なにか遠くで起こった出来事のようなかんじがしないでもありません。

かつて広島市民球場と呼ばれた本拠地は今はなくなって新球場になり、垢抜けなかった地方チームが今やセリーグ随一の集客数を誇る人気球団になっていることを思うと、何やら置いてけぼりにされたような、不思議な気分です。




それにしても、1949年創立、チーム結成1950年のこの球団の出だしは、まことに貧乏球団でした。

カープは当初、「広島野球倶楽部」として発足。設立資金は、広島県と広島、福山・呉など県内の各市で出すことにし、本拠地も自前のものではなく、戦前からある県営球場である広島総合球場でした。市中心部からやや離れた西区にあり、現在の新球場のように駅そばといった好立地にはありません。

フィールドは全面土で、外野も芝は敷かれておらず、観客席はバックネット裏に土盛りしたスタンドが少々ある程度で、残りの1塁側と3塁側のファウルグラウンド及び外野にロープを張り、その後ろを観客席としました。ナイター用の照明設備もなく、カメラマンブースもグラウンド内にあり、水はけも悪く設備は余りにも不充分でした。

核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップも十分ではなく、1950年の12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式の時点では、契約選手が1人もいませんでした。

球団創設者の一人である石本監督が元所属していた、大陽ロビンスの二軍から選手を調達してくる予定でしたが、その直前にロビンスが二軍選手の放出をストップしたからです。このころロビンスは松竹の傘下に入り、改称して松竹ロビンスになっており、選手の流出を止めたからです。

新生球団の幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なく、やむを得ず石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、コーチにすると口説いて元ロビンスの38歳、灰山元治を無理矢理入団させました。

また、投手では34歳の内藤幸三、野手では白石勝巳(32歳)、岩本章ら(29歳)など少々盛りを超えた選手を中心に23人を入団選手として発表しました。

球団名は、ブラックベア、レインボー、ピジョン、アトムズ、グリーンズ、カープを有力候補としましたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、ということで「広島カープ」と名付けられました。

当初は「カープス」でしたが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改名。現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsで終わらない唯一のチームとなります。

ちなみに、他の候補名のうち、「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用されました。また「アトムズ」はその後1966年から1973年にサンケイ(現ヤクルト)が採用しました。

広島に球団を作ろうという構想は、正力松太郎の2リーグ構想の前から広島財界人の中にあり、その理由は、広島は戦前から広島商や広陵高、呉港高といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男(それぞれ、南海、巨人、阪神で活躍)など、広島出身の名選手が輩出した野球どころという下地があったからです。

郷土の有力者である、中国新聞社東京支社長・河口豪、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の4名は顔を合わせるごとにプロ野球の話に終始。当時は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が..という4人の意見が一致し、話が具現化しました。

選ばれた初代監督、石本秀一は明治30年広島市段原(現:南区的場町)の生まれで、このとき54歳。中等野球黎明期からプロ野球黎明期、戦前、戦後と長きにわたり指導を続け、カープを含む計プロ6球団の監督を務めるなど、プロアマを通じ日本野球史を代表する指導者の一人です。

カープ発足当時は、大陽ロビンスの監督でしたが、チームが新説されることを中国新聞の河口から聞いて知り、「郷里の球団で最後の花を咲かせたい」と自らを売り込みました。

「金はいらない。野球人生の最後を故郷広島の復興のために。」と勇んで挑んだものの、上のとおり、開幕3か月前に選手が1人も決まっていない、と知らされます。球団結成のために集められたスタッフは全員、野球はズブの素人であり、このため、自らの人脈をフルに活用しての選手獲得を試みました。

しかし、このころはちょうど、正力松太郎の2リーグ構想が現実のものとなったこともあって選手不足の状態にあり、名前の通った選手は内藤、白石、岩本くらいでした。

このため、やむなく入団テストを行い選手を集めましたが、使えそうな若者がいると親に反対させぬよう監禁してハンコを押すまで帰さなかったといいます。しかし、この入団テストは無駄ではなく、中には、身長167cmという野球選手としては小柄な体格ながら、のちに「小さな大投手」の異名を取った、長谷川良平などが含まれていました。



しかし、たいした算段もなく始めた球団運営はすぐに頓挫し、公式戦が始まると試合はともかく財政が火の車となり、練習は白石助監督に任せてここでも金策に奔走することになります。このため、石本は市役所前で演説、後援会の結成、試合後、夜選手を連れて講演会をやって金を集めたり、企業に協賛金のお願いに回りました。

試合が始まると塀を乗り越えてタダ見するお客を見張ったといい、選手への給料の支払いについても遅配は毎月のことでした。選手たちの生活は当然苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい、生活費を稼ぐ者もいたといわれます。

1950年の初年度ではプロ経験者は1人、足りないメンバーは各地の鉄道局から寄せ集めましたが、ほぼノンプロの国鉄スワローズにも抜かれて最下位。なお、前年まで石本が指揮を執っていた松竹は大量補強により、記念すべきセ・リーグ初代チャンピオンに輝いています。ただし、このチームはその後大洋ホエールズと合併したため現存していません。

翌1951年、年明け早々、セリーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二(大東京軍(現巨人軍)元球団代表)が、日刊スポーツ紙上で、二年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープに対して、「広島は大洋の傘下に入ればいい」などと発言。

球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうとしていましたが、決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、ペナントレース前の3月に甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められていました。

助監督の白石は、「旅費がないなら甲子園まで歩いていこう。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない。」と意気盛んでしたが、公式戦開幕前に球団社長の檜山袖四郎(広島県議)以下がセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない、早急に身売りしろ」といった厳しい叱責を受けます。

その後連盟では、広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたチームがセ・リーグの評判を落としかねないことを理由にカープの解散案を提議します。

議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていました。これを受け、広島市の天城旅館で行われた球団の役員会では、当時下関市にチームがあった大洋との合併を決定。当日夜のNHKラジオ放送のニュースでは、「広島解散、大洋に吸収合併」と報じられるに至ります。

大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、それでも球団職員たちはあらゆる企業に出資の伺いを立てます。まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけますが断られ、続いて専売公社に話を持ち込みますがこれもダメ。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまいました。

そこで、石本監督は、3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ないだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい。」と訴えます。さらに3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表。



ちょうどこのころ、NHKが報じた「カープ解散」を聞き、熱烈なカープファン8人が自然発生的に集いました。この8人は白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込み、熱い口調でカープへの支援を訴えました。

「ニュースを聞かれましたか。貴方の熱意不足で、我々が愛するカープが危機に瀕しています。早急に支援の手を差し伸べて下さい。」この無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民がカープ存続に対して惜しみないエールを送るようになります。

広く資金援助を呼びかけるために球場前には、いつしか“樽“が置かれるようになり、名も知れぬカープファンたちが旗を振って、存続のために寄付金を入れてくれるよう町ゆく人々に呼びかけ始めました。

これがかの有名な「樽募金」です。こうしたファンによる支援で球団経営は多少の改善を見せはじめ、球団合併・解散危機は回避されます。自ら立ち上がった、この「8人の侍」の逸話は、後年NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」でも取り上げられましたが、いずれも、市内の商店主や勤め人であった、ということしか判っていません。

しかし、球団の危機はまだまだ続きました。翌1952年には、開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされました。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いでした。

こうして迎えた1952年シーズンですが、この年のシーズンも選手層が薄く、当初は好成績を残すことはできませんでした。

開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈みました。

しかし、そこから選手が奮起。残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れました。とくに長谷川良平と杉浦竜太郎の2人のエースピッチャーの活躍がすさまじく、チーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)をこの二人で稼ぎました。

杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入りましたが、これは球団として初のベスト10入りでした。チームとしても、前年の最下位(7位)から一つ繰り上がり、なんとか6位に食い込むことができました(最下位は松竹)。

こうして崩壊寸前の球団を立て直したカープですが、その陰には球団存続のために奔走したファンの影があり、またファンに支えられた選手たちも奮起しました。

なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになりました。広島ではカープは圧倒的な人気を誇っていたため広島球場に足を運ぶファンは多く、球団収入の安定化に目途が立つことになりました。

しかし、その後もチームの低迷は続き、50年代~60年代にかけて3位以上のAクラスに入ったのは1968年だけ。翌年には再び最下位。巨人が9連覇をなしとげた1965年から1973年の間、広島は4度の最下位を経験しています。そして同じく最下位だった1974年から明けた1975年。球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任します。

ルーツ監督は「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」ということを身を持って示し「球界の革命児」と呼ばれました。そして「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色を、それまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変えました。

既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており、この年は変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になりましたが、このルーツ監督こそが今日まで続く広島カープの代名詞「赤ヘル」の生みの親ということになります。

なお、当初はアンダーシャツやストッキング、ユニフォームのロゴまでも赤に変更する予定でしたが、予算の関係で見送られそれが実現するのは1977年からとなりました。

ルーツ監督は、全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しませんでした。一方で選手を集めた最初のミーティングで「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説。

チーム編成においても一塁・衣笠を三塁手へコンバートし、日ハムから「闘将」大下剛史を獲得し主将を任せたほか、主力投手の大型トレードも断行。メジャーでは一般的だったスイッチヒッター転向を高橋慶彦に指令したほか、投手ローテーションの確立、スポーツドリンクのベンチ常備、進塁打のプラス査定は、彼が最初に導入したといわれます。

その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、藤井弘といった、後年カープ監督を務めた面々や各コーチ、選手らに大きな影響を与えました。

しかし日米の野球の違いなどで審判と事あるごとに衝突。開幕早々の対阪神戦において、掛布への投球がボールと判定されたことに激昂し審判に暴行、退場を命じられます。これを拒否しますが、重松良典球団代表が試合続行を支持。この球団の姿勢に不満を持ったルーツは3日後に監督辞任。翌月5月3日に古葉竹識がコーチから監督に昇格しました。

この年、広島は、大下や衣笠、山本浩二、水谷実雄、三村敏之、ホプキンス、シェーン、道原博幸、外木場義郎、佐伯和司、池谷公二郎、宮本幸信らの大活躍で、赤ヘル旋風」を巻き起こしました。そして、中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創設25年目にして悲願の初優勝を達成しました。

続く日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。しかし、この年に平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めました。また、この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破しました。経営面では創設以来の累積赤字をこの年にはじめて解消しています。

すでに帰国していたルーツは、この優勝の際に国際電話をかけ、教え子たちの優勝を祝福するとともに、直後、日本を再び訪れ、広島ナインをねぎらっています。チームに革命をもたらしたものの、志半ばで日本を去りましたが、その後、広島は1986年までに5度のリーグ優勝、3度の日本一を果たすなど、黄金時代を迎えました。

ルーツのその後ですが、晩年は少年野球の指導に携わるなどしていました。しかし脳卒中と糖尿病を発症させてその闘病生活が続いていた中の、2008年10月20日に死去。満83歳没。奇しくも広島が本拠地として広島市民球場を使う最後の年のことでした。

冒頭で述べたとおり、カープは当初、「広島野球倶楽部」として県や市のほか地元の大手企業の出資で発足しました。しかし、チーム成績は振るわず、1955年には負債額も莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため同倶楽部を倒産させました。

そして新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任しましたが、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれました。仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていましたが、広島財界の雄、東洋工業の社長、松田恒次がこれを拒みました。

そして、1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次自信が球団オーナーとなりました。




松田のオーナー就任の背後には熱烈なカープ愛があり、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれます。この当時、長期低迷するチーム成績に加え、新たに広島市民球場が落成したあとのフィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減しており、松田はこれを憂えたのでしょう。

松田自身は大阪生まれですが、大学卒業後26歳で帰郷。東洋工業創始者で広島生まれの父、松田重次郎が広島で経営する東洋コルク工業に32歳で入社して以来の「広島育ち」です。

こうしたこともあり、以後、広島カープと東洋工業は切っても切れない仲となります。しかし、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えました。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード傘下に入った1980年代以降も変わっていません。

松田は、球団オーナー就任当時、「しばらく面倒を見るが、決して私しない」「いずれは東洋の二文字は削って、真の野球会社として成功させる」と語っていました。

ここが東洋工業(現マツダ)のエラいところで、「市民球団」であるカープの経営に一出資者にすぎない企業が口出しすべきではない、というポリシーは今でも固く守られています。ただしオーナーには違いなく、チーム名にマツダの旧社名「東洋」を現在も残しています。

現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%を保有しており、球団運営会社はマツダグループに名を連ねています。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出されています。

さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど「株式会社広島カープ」との深い関係は現在も続いています。

ちなみに、恒次の死後は息子の耕平が二代目オーナーとなり、1975年のカープをセ・リーグ初優勝へと導きました。現在もカープはマツダとその関連会社および松田家一族が株主となっており、孫の松田元(はじめ)が三代目オーナーに就任しています。

とはいえ、球団運営の独立性は今も貫かれています。経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっています。

特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録しました。それでいて、選手に対して支払う年俸は決して高いものではありません。年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下です。

93年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいても選手年俸総額は上昇しつつあるようであり、ファンとしても、もっと大型選手を、と望みたいところです。が、長年「市民球団」として地道に経営を安定させ、堅実に選手を育ててきたその姿勢は今後も続けてほしいものです。




仮面の男

先日通り過ぎた台風18号が、おそらく今年最後の台風だろう、とお昼のワイドショー出演の気象予報士さんが言っておられました。

そう聞くと、あぁ今年もようやく夏が終わったな、と感じます。

既に富士山の山開きは終了。屋外プールもおそらくはもう営業しているところはないのではないでしょうか。缶ビールを手にすることも、だんだんと少なくなってきました。

アキアカネが飛び交うようになり、ヒガンバナが咲き始めるともう秋近し、というよりも秋そのものです。まだまだ紅葉には早いようですが、早晩、山も里も彩りの世界に入っていくことでしょう。

私個人としてのこの夏は、手の骨折入院があったこともあり、かなり変則的なものとなりました。約半月を人生初の入院で過ごし、盛夏のころをクーラーが効いた病室で過ごす、といった特殊な日々は、このあとも長いあいだ記憶に残ることでしょう。

牢獄に入った、というわけではありませんが、私生活の大半を他人と過ごし、日々かなりの自由が制限される、といったことを経験したのも始めてのことです。




ところで、牢獄といえば、なぜかフランスのバスティーユ牢獄が思い起こされます。中学校や高校の歴史の教科書に掲載されていた、民衆による「バスティーユ襲撃」の挿絵が印象的だったためですが、同じく覚えている方も多いでしょう。

もともとは要塞で、シャルル5世の治世下に建てられ、フランス革命前には政治犯や精神病者を収容した牢獄として使われていた建物です。フランス語では「バスティーユ」だけで要塞の意味があるそうです。

1789年7月14日にパリの民衆が、ここを襲撃した事件で有名であり、この「バスティーユ襲撃」は、フランス革命のはじまりとされ、世界史上もっとも有名な市民革命のひとつです。

フランス国内に3箇所あった国立刑務所の一つで、パリの東側を守る要塞として1370年に建設されました。中世のパリ市は全周を城壁で囲まれた城郭都市であり、バスティーユはその内郭の一つにあたります。約30mの垂直の城壁と8基の塔を有し、周囲を堀で囲まれ、入口は2箇所の跳ね橋だけでした。

その後の中世以降、パリは人口が増加して城壁の外にも市街地が広がり、大砲の時代となったこともあって、古い石造りの構造物であるバスティーユそのものが軍事的価値を持たなくなりました。

しかし、この侵入が困難で出入口が制限される構造は刑務所に向いていると判断されました。ここを国事犯の収容所としたのはルイ13世の宰相リシュリューであり、中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、後年の絶対王政の基礎を築いたことで知られます。

国王の権力をさらに固めるために、リシュリューは封建貴族層の影響力を抑制しようとし、国防用を除く全ての城塞の破却を命じました。これによって、国王に対する反乱に用いられたフランス貴族の防御拠点を奪い去るとともに、造反者は容赦なく拘束しました。これ以降バスティーユには主に謀反を起こそうとした高官たちが収容されるようになりました。

バスティーユには国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」によって捕らえられた政治犯が多数入牢するようになりました。その後、ルイ13世が没する前にリシュリーも亡くなりましたが、臨終に際して聴罪司祭が「汝は汝の敵を愛しますか」と問うと、彼は「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたといいます。

ルイ13世の没後は、わずか4歳のルイ14世が即位(在位1643~1715年)し、後継者としてマザラン枢機卿が宰相となりましたが、マザランは政策的にはリシュリューを継承し、後のルイ14世の絶対王政の地均しをしました。この時代はさらに民間人の弾圧も続き、バスティーユには王政を批判した学者なども収容されるようになりました。

またこの頃から収容者の名前を公表しなくなったため、市民たちにいろいろと邪推されるようになりました。囚人がバスティーユに連行される際、馬車の窓にはカーテンがかけられ外から覗くことは不可能であり、さらに出所する際には監獄内でのことは一切しゃべらないと宣誓させられました。

また牢獄内では名を名乗ることは禁じられ「○○号室の囚人」と呼ばれていました。こうしたことから、バスティーユは残虐非道な監獄と目されるようになりましたが、実際には囚人はかなり快適な環境で生活を送っていたようです。部屋は5m四方あり、天井までは8m、窓は7mの高さにあり、鉄格子がはまっているものの外の光は十分に入り込みました。

また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だったといいます。食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができたそうです。

さらに、牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服をオーダーできました。図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察しました。こうしたことから、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することさえあったそうです。

このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともあったといいます。そうした環境のよさもあってか、ここに収容された囚人の数はそれほど多いわけではありません。

1774年のルイ16世即位からバスティーユ襲撃の1789年まで、収容された人数の合計はわずか288人にすぎず、このうち12人が自ら望んで入所した囚人です。

江戸、小伝馬町の牢では、東京ドームの約5分の1の広さの敷地に、常時大体300~400人程度、天明の打ちこわしや、天保の改革の時には最大900名も収容されていたといいますから、人数比からいってもバスティーユの快適さが伺われます。

1776年から始まったバスティーユ牢獄の要塞司令官としての役割を担ったのは、ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー侯爵でしたが、1789年のバスティーユ襲撃の際、殺害されました。

激怒している群衆はバスティーユに押し入ると彼を襲い、生きながらナイフ、剣などでなますにしたといい、ローネーは「もう十分だ!殺してくれ!」と叫んだといいます。殺害後、彼の頭は肉屋によって切られ、矛先に差し込まれて見せしめにされた後、次の日セーヌ川に投げ込まれたといいます。

襲撃後、要塞は解体処分されましたが、解体作業中はその石材で作ったバスティーユ牢獄のミニチュアを土産物として売る業者が横行したといいます。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したあと、そこから出た資材を観光土産にして売る業者が出、いまだに続いているといいますから、民衆がたくましいのはいつの時代も同じです。

現在はバスティーユ広場となっており、広場中央には1830年7月革命の記念柱が立っていますが、ほかに近くの駅にこの要塞の壁の遺構の一部を見ることができます。また、バスティーユ広場より少し離れたセーヌ川沿いのスクウェア・アンリ=ガリに、丸型の基盤の遺構の一部が移され保存されています。

なお、バスティーユ広場に面しては、かつて郊外線のバスティーユ駅が設けられましたが、その後同線が廃止されたあとに解体され、1989年よりオペラ・バスティーユが建てられています。フランス革命200年を記念して建てられたもので、パリ国立オペラの公演会場の一つであり、オペラおよびバレエ、管弦楽の公演が行われています。

座席数は2703。舞台装置はコンピューター制御と外観、設備とも現代建築の粋を集めたものとなっており、外観はガラス張りのモダニズム様式の建物で内部は地上7階地下6階建てで、この新しいバスティーユはパリの新しい顔になりつつあるようです。

ところで、バスティーユ牢獄には数々の身元不明者が収容されていたことは前述のとおりですが、この中の有名人のひとりに、「鉄仮面」と呼ばれた人物がいました。

1703年までバスティーユ牢獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」で、現在に至るまでその正体については諸説紛々で、これをモチーフに作られた伝説や作品も多数流布しています。

この囚人は1669年に、現在はイタリア北部に位置する“ピネローロ”にあった、ピネローロ監獄から移されてきました。ルイ14世の大臣から直々にここの監獄長、サン・マールに預けられ、自らが世話をしていたといい、彼の転任と共にその囚人も移送され、サント=マルグリット島を経て、1698年にバスティーユ牢獄に移送されてきました。

中世のピネローロは交通の要衝の一つであり、イタリアとフランスの国境付近に位置するという軍事的な重要性ゆえに、軍学校の起源となる学校などが置かれていました。フランス王国領であった17世紀後半、ここにこの謎の多い囚人「鉄仮面」は収容されました。

当時のバスティーユ牢獄の看守の記録によれば、「囚人は常にマスクで顔を覆われ、副監獄長直々に丁重に扱われていた」と記録しています。「鉄仮面」の名で呼ばれるようになったため、現在に至るまで鉄製の仮面を常に着用していると言うイメージになってしまっていますが、実際には布製のマスクだったといわれます。

また、日常の生活で常にマスク着用が義務付けられていたわけではなく、人と面会する時にだけ着用させられていただけでした。しかし、もし人前でマスクを取ろうとすれば、その場で殺害せよとの指示が出されていたといい、そのため、牢獄で世話をしていた者も囚人の素顔を知りませんでした。

囚人は1703年11月19日に死亡。「マルショワリー」という偽名で葬られ、衣類や身の回りの品などは全て破棄されたといいます。

この人物が誰であったかについては、当時からいろいろな憶測が飛び交いました。が、軍事要塞であるピネローロに幽閉されていたことから、この当時のフランス軍の元帥で、ルイ14世の腹違いの弟(または従兄弟とも)であった、フランソワ・ド・ヴァンドームではないか、といわれていたようです。

上述のとおり、1643年にルイ13世の死に伴い、ルイ14世がわずか4歳で即位、ジュール・マザランが宰相となりました。彼はリシュリーの時代から続く三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆の反発を買いました。

三十年戦争とは、ヨーロッパ中心部で1618年から1648年に戦われた国際戦争で、当初はプロテスタントとカトリックとの対立のなか展開された宗教戦争でした。が、次第に宗教とは関係のない争いに突き進み、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いとなりました。

この戦争の中、フランス国内には徐々に革命の機運が高まるとともに王政も腐敗し始めていました。売官制が認められると、富裕層が法服貴族として増加し、彼らを中心に民衆とが蜂起。反乱軍はパリを包囲しました。このとき群衆は、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入し、ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたといいます。

反乱はその後鎮圧されましたが、ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれており、王政を揺るがす大事件でした。この乱では、パリの民衆がフロンド(fronde)と呼ばれる当時流行していた投石器を使ったことから「フロンドの乱」と呼ばれます。

この乱で群衆の先頭に立ち、活躍したのがヴァンドーム元帥でした。ヴァンドーム公と呼ばれた彼の父は反ルイ13世派であり、彼もまた反リシュリュー派に属し、フロンドの乱では最先端に立ちました。ただ、これから約20年後の1669年、クレタ島を防衛するため、フランス艦隊を率いてオスマン帝国と戦い、夜の戦闘中に討死したといわれています。

ただ、その死体は敵の手から取り返されることはなく、誰も確認できなかったため、それ以前にバスティーユに入牢していたのではないか、ということがいわれているようです。




このほか、フランスの哲学者で歴史家のヴォルテール(1694~1778)は、鉄仮面は、宰相マザランとルイ13世の妃、アンヌ・ドートリッシュの間にできた息子で、ルイ14世の庶兄であるとしました。この説によればマザランは不義を働いていたということになります。

後世、「モンテ・クリスト伯(巌窟王)」、「三銃士」の著者で知られる小説家、アレクサンドル・デュマは、この説を翻案し、鉄仮面をルイ14世の双子の兄にして小説を書いており、これが現在に至る「鉄仮面」の初出になります。

1998年・ランダル・ウォレス監督がメガホンをとった映画「仮面の男」では、レオナルド・ディカプリオ主演し、ここでもルイ14世の双子の弟が「仮面の男」として物語が進みます。

このほか囚人はルイ14世本人で、フランスを統治したこの王は宰相マザランによって扱いやすい替え玉と取り替えられたという話もあり、この話には、囚人が獄中で子供を作り、その子が後にコルシカ島へ行き、ナポレオンの先祖になるという尾ひれも付いています。

最近の説の中で一番信憑性が高いといわれているのが、仮面の男の正体は、宰相マザランの会計係であった、ユスターシュ・ドージェ、という人物だったという説です。

上で述べたとおり、マザランはアンヌ王妃の愛人だったという噂もあり、その立場を利用して権力と強大な富を築きしました。そのマザランの側用人だったとされるのがユスターシュであり、主人の不義や権力を得るまでのすべての裏を知っていた彼が「鉄仮面」として幽閉された、というのはある程度説得力のある話ではあります。

が、ルイ14世の兄弟や従兄弟であったという説も根強いのは確かです。高貴な血が流れていたのではないかという憶測とともに、囚人が被っていたという仮面のグロテスクなイメージから、様々な文学作品、映画に取り上げられており、本来の伝説からかけ離れて「鉄仮面の囚人」だけが一人歩きした三次派生とも言うべき作品も多く作られてきました。

日本でも、黒岩涙香による翻案小説「鉄仮面」が、1892年(明治25年)12月25日から1893年(明治26年)6月22日まで「萬朝報」に連載され、この涙香版は何度も単行本化されました。また江戸川乱歩も涙香版を小中学生向けにリライトしたものを出版(講談社版・1938年)して好評を博し、戦前戦後を通じて愛読されました。

その他、雑誌に掲載されたダイジェスト版や映画、漫画、紙芝居、ラジオドラマで、日本中に「鉄仮面」の名を知らしめました。ご興味のある方は、いろいろなバージョンがあるようですから、秋の夜長に一読して楽しまれるのもよいのではないでしょうか。

もっとも、映画や芝居などにおいて、最近はあまり新しいバージョンはなく、リバイバルばかりのようです。

ただ、太平洋を挟んだ日米の政治の舞台では新時代の鉄仮面が暗躍しているようです。「鉄面皮の男」の異名がつけられたこの両国のリーダーは、それぞれの国の民を欺き、混乱を助長しているといいます。はたしてその厚顔は長続きするでしょうか。