バルセロナの記憶

最近、テレビのニュースで、毎日のようにスペイン、カタルーニャ自治州の独立の問題が報じられています。

その首都、バルセロナには実は一度行ったことがあり、そのせいか、妙にこのことが気になってしかたがありません。

というか、何かこのことが他人事でないように思え、いてもたってもいられないような気持になるのはなぜでしょうか。

バルセロナを訪れたのは、ちょうど20年ほど前のこと。そのころ出向していた国交省の外郭団体の仕事で、スペインに2週間ばかり滞在しました。彼の国の水資源の事情を調査する、という目的でのことでしたが、過去にいろいろ行った国の中では最も印象に残った場所でした。

その際、3日間ほどバルセロナにも滞在したのですが、仕事の中休みか週末かだったかで、丸一日市内を散策する時間がとれ、サグラダファミリア教会をはじめ、ガウディゆかりの観光地をなど、市内の名所を散策しました。

モンジュイック公園もそのひとつで、ここには1992年バルセロナ・オリンピックのメイン会場となったスタジアムがあります。

大会のフィナーレのひとつ、五輪女子マラソン本番では、日本の代表選手、有森裕子が、29Km付近で3位集団から抜け出してスパート。レース終盤の35Km過ぎ、先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に追いつき、その後エゴロワと二人で急な登り坂が続くモンジュイックの丘にて、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げました。

競技場へ入る直前でエゴロワに引き離され、8秒差で五輪優勝はなりませんでしたが、2位でゴールし、見事銀メダルを獲得しました。

このころは私もまだ若く、フルマラソンにも参加したこともあったので、この勝負には興味がありました。

二人の選手が激戦を繰り広げたという場所をぜひ見てみたいと思い、この場所を訪れたのですが、バルセロナの市街を抜け、外港に面したモンジュイックの丘に近づくにつれ、何やら懐かしいような複雑な思いが心をよぎりました。




モンジュイックは、バルセロナの南方のはずれにあります。すぐ東側にバルセロナ港があって、その昔はすぐ下の崖を障壁とする要害だったでしょう。海からやってくる外敵を見通せるような高台に位置します。

港から、そこへいく道の両側は街路樹に覆われており、坂を上りきった左手には、通称、エスタディ・デ・モンジュイック(Estadi de Montjuïc)と呼ばれるオリンピック当時のメインスタジアムが今もあります。

実はこの一帯は、それ以前の1929年に開催されたバルセロナ万国博覧会の際に整備されたものです。

最高点の標高、184.8mの丘の一部がオリンピック用に再開発されましたが、以前よりその中心地域はかなり整備されており、丘の斜面や、エスパーニャ広場から伸びる大通りの両側には、万博当時からの多様なパヴィリオンが建てられていて、現在に至るまで丘全体が公園として市民に親しまれています。

ただ、私がここを訪れた時は公園の中まで入って見学する十分な時間がなく、ミラマル通りと呼ばれる丘を東西に横断する通りを通過しただけでした。とはいえ、きれいに整備された通りの左右を垣間見ることができ、ぶらぶらと歩いて行っただけでも、オリンピックが開催されていた当時の雰囲気は感じることができました。

スポーツ公園だけに地元の人が数多く訪れてそれぞれの活動を楽しんでいましたが、歴史的な雰囲気のある風光明媚な場所でもあり、外国人の私にも心地良い空間でした。

東京でいえば、代々木公園、あるいは神宮前のような雰囲気の場所で、非常に明るく開放的な雰囲気のある場所なのですが、にもかかわらず、ここを訪れたときには、なぜか重い気持ちになりました。

もとより、バルセロナの市街にあったホテルを出入りすることからそうだったのですが、何かこの街には親近感があり、それは言うならば、かつてそこに住んでいたことがあるかのような不思議な感覚でした。

街を歩いていても違和感がなく、普通は、初めて行った外国の街には異国情緒のようなものが感じられるはずですが、それもあまりありませんでした。

バルセロナの市街から歩いてきて、モンジュイックの坂を上るところどころには展望台があり、そこからは港一帯を見渡せる場所もあります。防波堤に囲まれた内湾には、コンテナ船や貨物船が停泊し、倉庫が立ち並んでいます。その光景目にしたときにも、あぁここは見たことがある、と思ったのも意外でした。

このスペイン滞在時には、首都マドリードをはじめ、バレンシア、マラガといった他の街も訪れたのですが、同様に、どこへ行ってもどこか懐かしいという感覚があり、とくにグラナダを訪れたときには、なぜか心を揺さぶられるような強い思いがありました。

その当時にも、もしかしたら…という考えが頭にはありました。がしかし、そのことはあまり深く考えずに、というかあまり気にしないように今日まできたように思います。

ところが、最近カタルーニャ州独立の話がよく報道されるようになり、これを聞いてからは妙に心がざわついて仕方がありません。あのときの感情が一気によみがえり、いったいなんだったろうと、考えるにつけ、改めていろいろと調べてみる気になりました。

すると、モンジュイックの丘というのは、常に町を守るための戦略的要所とされてきた歴史があり、古来から頂上には要塞があったそうです。バルセロナ防衛のための重要な地点として、バルセロナ東部にあるシウタデリャ要塞とともに都市防衛の役割を担ってきたといい、20世紀後半まで続いたフランコ独裁時代までは政治犯の刑務所だったそうです。

刑務所で銃殺刑に処された者は山の南西部にあるムンジュイック墓地に埋葬されたといい、19世紀末から20世紀にかけ、山は多くの銃殺刑の舞台となりました。フランコ政権の打倒をめざし、カタルーニャ共和主義左翼(ERC)の指導者であったリュイス・クンパニィスもここで犠牲となっています。

戦前、フランコ政権は、ドイツのナチス党と連携しており、彼はナチス当局によって逮捕され、1940年9月にスペイン当局へ身柄を引き渡されたのでした。法的保証を欠いた軍事裁判の後、直ちにムンジュイック城に送られ、1940年10月15日にここで処刑されました。

彼は目隠しされるのを断り、「無実の人間を殺せ。カタルーニャのために!我々は苛まれても、再び打ち勝つのだ!」と、死ぬ前に言ったそうです。

遺体は、城近くの南西墓地に埋葬されましたが、その墓地はムンジュイックの丘の一角にあります。オリンピック会場となったメインスタジアムの正式名称は、エスタディ・オリンピック・リュイス・クンパニィスであり、これは、彼を記念して命名されたものです。

彼が処刑されたモンジュイック城は、現在も当時の面影を残したまま保存されているようですが、私がバルセロナに滞在していたときには残念ながらそうした事実も知らず、そこへ行くこともありませんでした。

もし訪問できていたなら、何かもっと別なふうに感じることもあったのかな、と思ったりもするのですが、すぐ近くにあるオリンピックメイン会場の入り口に立ったときだけでも、何か心の底から湧きあがってくるものがあったことを覚えています。

その当時の私といえば、スピリチュアル的なことには多少の関心はあったものの、知識はまるでなく、そうした感情を深く掘り下げて考えるようなことはありませんでした。

しかし、20年の月日を経て今思うのは、はやり彼の地は、かつてゆかりのあった土地だったのではないか、ということ。すなわち、住んでいたか、何等かの縁があったのではないか、ということです。

つまりは「前世の記憶」、ということになります。




実はこのスペイン旅行では、ほかにアルハンブラ宮殿にも訪れ、そのお膝元のグラナダの街なども歩いたのですが、このときにはまた別の形の感情の起伏がありました。グラナダはスペインの南部にあり、バルセロナとは700km近く離れているのですが、その両方に縁があったとすればそれはどういうことなのでしょう。

自分自身でもまだよくわからないのですが、両者にそれぞれの記憶があるのであれば、その関連性から見えてくる過去生もあるのかもしれません。あるいは、それぞれの街でそれぞれ生まれ変わり、一回づつ別の人生を歩んだのかもしれません。

こうした、前世での記憶については懐疑的な人も多いでしょう。そもそも輪廻転生という考え方に否定的な人も多いわけですが、私自身は信じていて、このブログでも何度もそのことについて書いてきました。

そうした中で最近読んだ本に「前世発見法」という本があります。その著者、グロリア・チャドウィックさんはこう書いています。

「あなたの現生の経験や感情は、過去に原因があることが多い。現在に明らかな理由が見当たらず、特定の事柄になぜ強い感情を持つのだろうと不思議に思うことがあったら、何故かを探るため、過去性に目をむけるとよい。」

こうした不思議な経験は、過去生の出来事や感情の象徴であることがしばしばだといい、過去生の反映されたものは、我々の周りにたくさんあり、それを注意深く観察すれば、過去を見ることが可能になるといいます。

過去生を知ることは、現在経験していることの理由を知り、現生を生きている意味を理解するのに役立つともいわれています。そのすべてを知ることは容易ではありませんが、パズルの断片をつなぎ合わせていくと、過去から現在に至るまで、自分がどのように進化してきたか、どのように教訓を学んできたかが明らかになるともいわれているようです。

しかし、過去生を思い出そうとすると、たいていは感情の原因となっている出来事よりもむしろ、数ある記憶の中でもとくに感情のほうをまず思い出すことが多いようです。それは、過去生の記憶というものは、出来事よりもむしろ、感情によって分類されているためだそうです。

過去生を思い出そうとするとき、過去の経験に似た現世での状況が引き金となって、まずそのころの感情が呼び起されます。しかし、対応した事実関係の詳細は思いだされず、当時の感情にだけ感応するため不思議な感じを抱くようで、その現状にはそぐわない感情に戸惑いを覚えます。

過去生の記憶らしきものではあるように思えるものの、一瞬のイメージやひらめきの中に姿を現し始めた感情だけが表面にまず出てくるものらしく、心の中に、当時は認識していたであろう事実に関連する思いがいくつもいくつも現れて出てきます。

しかし、それを思い出したと思った瞬間に、消えてしまうことも多く、そうした状況を自分を自分でも理解できず、悩んでしまったりします。ときにむきになってそれを思い出そうとしますが、多くの場合は逃げて行ってしまいます。

このように、過去生のイメージがようやく出てきそう、と思ったとき、一瞬にしてそれが心に出たり入ったりする、といった経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。本当に過去生を思い出したいと思ったときなどには実にイライラさせられます。

しかし、このように、過去生の記憶が表面に出てくるか、忘却の中に吸い込まれてしまうかどちらかの間で揺れ動いているときには、焦るのは禁物だといいます。リラックスするしかなく、それが表面に浮き上がってくるのをじっと待つのがいいそうです。

これは言葉がのどまで出かかっているのに、それを口に出しては言えないときの状況に似ています。

こうしたときには、言葉を思い出そうとする努力をやめ、注意をよそへ向けます。すると、その言葉が思いがけなく出てきたりします。後で思い出すことにし、放っておくと表面に浮いてくることも多いようで、これは過去生を思い出すときにもあてはまるようです。

ただ、こうして過去生の記憶らしい断片を何とか思い出したとしても、逆にそれが現在の状況とは結びつかないように感じられることも多いでしょう。自分の理解にぴったりマッチし、現生に完璧にあてはまる、明確な過去生の記憶を見つけようとしているのに、潜在意識は本当の過去生を隠そうとしているのではないか、と思えるときさえあります。

しかし、これは間違いです。過去生を思い出すのに失敗したり、不完全な映像を見せられたりすると、それを疑ったりしがちですが、潜在意識とは実は過去生を思い出すためのガイドそのものであり、本来は自分自身の助けとなってくれる存在です。自身がそう望めばきっと助けてくれます。

ただ、潜在意識が介在しなくても、時に強烈な過去生のイメージが浮かんでくることがあります。

たいていの過去生の記憶は静かに遠慮がちに浮上してくるため、それと認識しづらいことが多いものですが、そのいくつかは時に激しく、認識の中になだれこむような衝撃を伴って浮上してきます。この場合、その衝撃はかなり激しいものである場合が多いようです。

普通の過去生の感情を思い出したときには、それが過去のものであると告げてくれるような特別な信号はありません。しかし、それに対して自分の感情が激しく反応するようなときには、それが過去生のものであると見分けることができ、明らかに現在の感情とは違うと、“感じられる”ものだといいます。

自分自身の深いところでそれと“分かり”、そうだったと“感じる”といい、それが真の過去生の記憶を表示しているしるしです。

そうした明らかな記憶が表面に浮かび上がるときというのは、過去生の出来事も思い出すか、再経験を伴うことも多いといい、そのイメージは明確に見える場合もあります。しかし、夢のように思える場合もあり、ときには感情ばかりが強くて“場面は感じない”こともあるようです。

今思うと、あのバルセロナでの私の体験もそうだったのかもしれません。



ただ、いったん過去生の出来事を再経験できるような状況になったときには、うまくいけば自分の周りの光景や音、状況といったものを見、聞き、触れ、味わい、場合によっては嗅意を感じることすらできるといいます。それはあたかも過去ではなく、現在に起こっているかのように感じることができるようです。

こういうふうに記憶が姿を現し始めたら、自分自身のやり方で静かにそれを再現するようにするといいそうです。急き立てたり強いたり、一生懸命やりすぎると記憶は遠ざかってしまいます。

残念ながら、あの時私は立ち止まろうとせず、その場を立ち去りましたが、もう少しじっくりと時間をかけてあの場所にいたなら、もう少し思い出せることもあったのではないか、と悔やんで見たりもします。

しかし、自己認識を覆すような大きな出来事を思い出さなくても、また、始まりである小さなヒントさえ思い出さなくてもがっかりする必要はありません。望みさえすれば、過去生の記憶は自分自身にあったやり方で自然に表れてくるといい、そしてそのガイドをしてくれるのが潜在意識です。

実は、過去生の記憶のほとんどは、すでに認識していることが多いといいます。にもかかわらず、意識して過去生と関連づけていないだけのことであって、潜在意識に働きかければそれはやがて静かに表れてくるようです。

前述した「前世発見法」にはその方法論もいろいろ書かれており、いずれまた紹介したいと思います。私も色々なことを試しているところであり、なんとなく思い出したこともあります。スペインにまつわるこれらの記憶についても、まとまったビジョンが出来上がれば、折々に書いていきたいと思います。

著者のグロリアさんはこうも書いています。

「あなたが過去生の記憶を探求し、経験するとき、あなた自身の中にある知識の世界を切り開いているのである。過去生を発見し、それが現在性に与えている影響を理解することによって、あなたの生命の中の意味を発見し、自分の運命を操ることができるだろう。」

20年前のあの日、あのとき立ち止まってじっくりと感情の奥底を見通せばもう少し今の人生に役立つことを思い出したかもしれませんが、それはそれ。あのときはまだその機会が熟していなかったということなのでしょう。

その後の長い年月を経て、テレビのニュースを見て再びあのころの感情を思い出したというのは、今再びそのチャンスが巡ってきた、今こそそれを役立てるべきときだ、と告げているのかもしれません。

スペイン人だった?ころの記憶を思い出すのにはまだまだ時間がかかりそうですが、記憶のパズルの断片と歴史を照らし合わせていくことで、やがてはより明確な前世の記憶がよみがえってくるのでしょう。

そのためには、あるいは再びスペインを訪れるのが一番いいのかもしれません。今年はもう既に無理なようですが、来年以降に期待しましょう。

明日からもう11月です。まずは、彼の国の秋はどんなだっただろう、と思い出してみることにしましょう。




時を想う

富士山の初冠雪は先日のことだったようですが、ほんの少し降っただけで、ここ中伊豆からの富士はその後、ほとんど夏山のままでした。

しかし、昨夜降った雪で、今朝はそのてっぺんにようやく白い帽子がかぶさりました。

冠雪としてはまだまだ少ないのですが、毎年、この初雪を見るたびに、あゝ今年もあとわずかだな、とついつい思ってしまいます。

カレンダーを見てもあと2か月ちょっと。実に短い期間ではあるのですが、とはいえ、なぜかこの時期の時の流れはふだんと違うようで、いつもの倍近い時間が流れているように感じます。

しかし、そもそも時間というものは人が勝手に創りだした尺度だといいます。

人はもともと何かの変化を、「なんとなく過ぎ行くもの」といったふうに感じていたようですが、これを「時」という概念では理解していませんでした。現代のように、すべてのものが数学的に説明される以前の時代のことであり、“単位”という概念も確立されていなかった時代には、時間というものも当然、存在しませんでした。

そこへきて、アイザック・ニュートンが、「過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもの」ということで時間を定義しました。その時代から「絶対時間」と呼ばれるものが我々の周りに存在するようになり、その「枠」の中で人は生き死んでいく、といわれるようになりました。

産業革命の時代を経て、人々は時間に追われるようになり、科学技術こそ発達しましたが、日々が「なんとなく」過ぎて行っていた時代に比べ、動物が本来持っている本能のような部分は薄れていきました。現代では、時計やカレンダーがないと生活できなくなり、人々は、永遠に不変の「時」というものに縛られて生きるようになってしまっています。




ところが、アルベルト・アインシュタインが発表した相対性理論によって、時間とは常に等しく過ぎるものではない、ということがだんだんとわかってきました。どこでも同じステップで刻んでいるはずの時間が、ある空間においてはゆがむこともある、といわれるようになっています。

彼が提唱した一般相対性理論では、「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされます。

例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされ、これすなわち、宇宙の中では場所によって時間の経過が変化しうる、ということになります。

また、一般相対性理論では、重力ポテンシャルが異なる場所や移動速度が異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られています。わかりやすい例としては、現実に地球上の時間の進み方と人工衛星での時間の進み方は異なるため、GPSでは時刻の補正を行って位置を測定しているそうです。

先日中性子星同士の衝突で確認されたという、重力波理論でも、質量があることによって、時空のゆがみが生じ、この時間変動が波動として光速で伝播する現象が確認されたといいます。

???なのですが、ようするに時間の変化は宇宙の各所で一定ではなく、非常に大きな重さがある物体に異変(たとえば二つの超重量物がぶつかる)が起こるとその周辺では重力波という現象が生じ、その伝播によって、それが通る場所では、時空、時間と空間で形成される世界がゆがめられる、ということのようです。

つまり、重力波が通るようなところでは我々が普通に感じている時間の流れが一定ではないということになります。

と、いうことは、私のように、年末になると時間の流れがゆるく感じられる、というのは私の周辺のどこかで、何等かの重い物体に異変が起こり、そのあとにできた時間のゆがみの中に置かれている?ということになるのでしょうか。

重い物体?と考えてみるのですが、よくわかりません。ただ、思い当たるとすれば、いわゆる「重い空気」というヤツ。年末近くになると「師走」といわれるほどに忙しくなりますが、皆が皆忙しくなると、そのせいで回りの空気が圧縮され、あるいは空気が重くなるのかもしれません。

とくに今年は人生初の骨折やら入院やらいろいろあり、加えて自治体活動などであちこちに引っ張り出されるとともに私的にも仕事の立ち上げて忙しい。文字通り「肩が重い」雰囲気になっていますが、その肩にのしかかっているのが、そうした「重い空気」なのでしょう。

か、あるいは私自身が、違う次元の世界に入りつつあるのかも。SF、あるいはオカルトの世界に入ってしまいそうですが、実は場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われていて、例えば仏教の世界観では「天上界の1日は人間界の50年に当たる」そうです。

天上界なるものの存在を信じるや否やによりますが、天上界= 霊界ということならば、死んだあとに行くその世界の時間はゆったりと流れている、ともいわれます。行ったことがないので、というか、行ったことがあるのでしょうが覚えておらず、なんともいえないのですが、そう言われれば、なるほどそうなのかな、と思ったりもします。

このように考えてくると、時間の長さに変化を感じる、ということは、世界観とも深くかかわってくる問題でもあります。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識する、ということになるからです。「世界」そのものの定義を我々が棲む場所だけでなく、天上界も含めて考えるならなら、なるほどその定義は変わってきそうです。

その世界と現世はつながっていると考えるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうのか、の違いは大きく、そのどちらを選択するかによって、時間という概念が根本的に変わるとともに、人生感は180度変わってくるでしょう。

つまり、スピリチュアルということを信じるか否かということは、その人の持つ時間の感覚すらも変えてしまう可能性があります。

わたしももうすぐ還暦のお声がかかりそうな年齢になってきました。最近齢を重ねることにあまり抵抗がなくなってきたのは、一生の時間は今生きている時間だけではない、死後の時間も永遠に続く、と思えるようになったからでもあります。時空を超えて永遠に生き続けるのなら、残る人生も少ない、といったことを憂う必要もないわけです。




もっとも、生きている間は、肉体というものをまとっているので、時間感覚はどうしてもそれに左右されます。

一般には、生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なるともいわれているようで、例えば生物種間の時間感覚・体感時間は異なり、ゾウの時間とネズミの時間は違うようです。

わが家のペット、ネコのテンちゃんは現在8歳ですが、彼女の生きてきた時間感覚では我々の40年ほどを生きてきたのと同じなのであり、人間ならば少女ですが、ネコ界ではれっきとしたオバサンであるわけです。

このことはたぶん、男と女においてもあるのでしょう。男女で時間を感じる感覚が違うということはありえるのではないでしょうか。どちらが長く感じているか、と問われれば、それはまちがいなく女性のほうでしょう。女性のほうが寿命が長いのはそれと関係があるに違いありません。

また、人種や住んでいる場所によって肉体は変化しますから、当然国による時間の流れの違いもあるでしょう。

日本人とアメリカ人の時間感覚にズレがある、といわれればたしかにそんな気もしてきます。私は過去に通算で5年ほどアメリカにいましたが、彼らの時間の流れは日本人のそれとはまた違っているようです。

「昔話」を例にあげましょう。住んでいる世界で時間の経過が違う、という話として日本では浦島太郎の話が有名ですが、アメリカでは、リップ・ヴァン・ウィンクルという昔話があります。それはこんな話です。

アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していました。

ある日、愛犬と共に猟へと出て行きましたが、深い森の奥の方に入り込んでしまいます。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきました。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であり、その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着きました。

そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じており、ウィンクルは彼らに誘われるままに、混じって愉快に酒盛りしますが、すぐに酔っ払ってしまってぐっすり眠り込んでしまいました。

ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していました。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知ります。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまっていたのでした…。

日本の浦島太郎と同じく時間をテーマにしたお伽噺ですが、日本の場合のそれは目覚めたあとには暗い未来しか残っていないのに対して、アメリカのはある意味明るい。あるひとときの時間変化によって、恐妻家が妻から解放され、しかも時代は開放的なものになっている、というのがオチであり、悲観的な日本人と楽観的なアメリカ人という構図が見えてきます。

そして、このあたりに日本とアメリカの時間感覚の違いが表れているような気がします。常に明るい未来がそこにある、と考えるのと、いつかは終わりその先はない、というのでは人生感や時間感覚が根本的に変わってくるのはあたりまえです。



こうした話は無論、夢物語です。ただ、最近では、実現可能な方法で主観的な時間を止めたり、生理的な反応を遅くするということも本気で研究されているようです。

医療現場における全身麻酔状態の発展形として、SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられますが、こちらはいずれ実現するのではないか、といわれています。

火星への探査機など遠い星への旅のために研究されている「人工冬眠」の技術はかなり進んでいて、あと10年も経てば、数十年、いや数百年の間眠ったあとに目覚める、といったこともできるようになるのでは、といわれているようです。

それが実現するような時代では、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、ということも可能になるのかも。

つまり、「時の矢」は未来に向かって解き放たれるだけのものではなく、過去へ向かっても進ませることができる、そんな時代です。

人は肉体に霊体が宿ったものだといいます。いずれ天上界と現生が合体するような時代がくれば、霊も人間も同じ感覚で時間を過ごすようなことになるのでしょう。そしてその世界では、肉体を持っていても過去へも未来へも自由に行けるに違いありません。もっとも、その場合、肉体とはタンパク質の塊ではなく、無色透明の素粒子を指すのかもしれませんが。

なにやら夢物語のようですが、広い宇宙のなか、それを実現している宇宙生命体もきっといることでしょう。

これから迎える年の瀬、はっと気が付いたら正月になっていた、というのはいやですが、仕事で忙しい時間のみをスルーできるのなら大歓迎です。同様に、私が大嫌いな夏の間だけは冬眠をし、秋になったら目覚める、というのもいいかもしれません。

夏なのに「冬眠」というのもヘンですが…。

さて、秋の夜長、皆さんも夢の中での時間旅行を楽しんでみてはいかがでしょう。




伊豆と日向と

秋雨前線が停滞しているようです。

その北側にある冷たい気団に列島のほとんどがどっぷりとつかっているらしく、暖かなここ伊豆でも晩秋を通り越して冬のようです。

とはいえ、夏の暑さが大嫌いで、ついこのまえまでの暑気に辟易していた私にとってこの状態はパラダイスそのもので、毎日仕事が良くはかどります。

涼しくなり始めた10日前ほどから、ちょうどホームページの大幅な刷新の作業に着手し始めており、それに呼応するかのようなこの天候。おかげでブログのほうへの書き込みも滞ってしまっており、また嫌気がさして書くのをやめたか、とご心配の向きもあろうかと思います。

あるいは、術後の右手が悪化したか、と思われた方もいるかもしれませんが、逆に先週末にようやくギブスが取れ、何の制約もなくキーボードが打てるようになりました。これからは少しずつまた元のペースを取り戻していきたいと考えています。

で、ひさびさに何を書こうかと考えていたところ、宮崎の新燃岳が久々に噴火しました。

実はこのブログ、前回新燃岳が噴火したころに書き始めました。2011年(平成23年)のことですから、もう6年にもなります。

最初からお付き合いいただいている方がどのくらいいらっしゃるかはわかりませんが、長いあいだのご愛顧に感謝いたします。




ブログを始めた当時、そのころはまだ四谷にあった災害関連のNPO法人の仕事をしており、その関係で、噴火後の復興対策事業に携わり、およそ一ヵ月ほど宮崎市内に滞在していました。

県からの依頼で地元の方の生活をどう元に戻していくか、計画を練る、といった仕事内容でしたが、地元のことを何も知らないでは復興計画もクソもないということで、地元の地理や経済状況、観光や産業のことなどなど、つぶさに調べるために日々を過ごしました。

地元からの突き上げもあり、早急に対策案を提示する必要がある、といった社会背景もあって、かなり急がされました。市内の県庁のすぐ裏にあるホテルに缶詰めになり、何日も徹夜をして資料を集め、計画を練り上げていったことなどを思い出します。

宮崎県を訪れたのはこれが初めてではなく、中学生のときの修学旅行で来たのが最初です。次は、宮崎市郊外にあるフェニックス・シーガイア・リゾートで行われていた津波に関するシンポジウムで来たのが二度目、そして新燃岳の件のときが四度目になります。

三度目はというと、9年前にタエさんと結婚したのちのプチ新婚旅行で、北部にある高千穂峡を訪れたときのことです。そのほか鹿児島へ行く用事があったことも何度かあり、その度に県内各所や県境にあるえびの市や霧島、などといった場所を通過しています。

私は、一度でも行ったことがある、という条件でならば46都道府県すべてを訪れたことがあります。それでもほんの少し滞在しただけという県もいくつかあり、そんな中でも5回以上も訪れているというのは、それなりにご縁が深い場所ということがいえるのでしょう。

県木「フェニックス」に代表されるこの国は、南国情緒豊かな土地柄から、1960年代には日南地区を中心に新婚旅行のメッカでした。その温暖な気候ゆえ、プロ野球の各チームもシーズンオフのキャンプ地としてここを本拠地にしています。

古くは、「日向(ひゅうが)」と呼ばれ、古事記、に日本書紀では、「日向神話」と呼ばれる神話の舞台です。この中で、アマテラス大神の孫のニニギが高千穂に降臨した、とされており、これは初めて神様が日本という地に降り立ったということで「天孫降臨」として広く知られています。

ニニギ子のホオリと兄のホデリは、いわゆる山幸彦と海幸彦の伝説の兄弟であり、さらにホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父であるとされます。

その後、神武天皇は日向から東征に赴くこととなります。日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話は、「神武東征」と呼ばれます。そして、畿内で新たなキングダムを築き上げたそれが現在の天皇家の始まりとされています。

一方、残された日向の国はというと、その後この地が日本の先行きを左右するような重要な役割を担うようなこともなく、また大きな戦乱すら起こらず、近代に至っています。

室町時代以降、日向国の守護職は島津氏が世襲するようになり、島津一族の内紛による小競り合いがあったりはしたものの、おおむね戦国時代までは比較的静かな時代が続きました。

戦国時代以降は、豊後の大友氏の当地への進出などで多少の混乱がありました。大小の勢力争いが続き、その中で伊東義祐に率いられた伊東氏が台頭しますが、最終的には、薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してこれを駆逐しました。1578年の耳川の戦いにおいて島津氏が大友氏に大勝してからは、島津氏が日向国一円を再支配するに至ります。

しかし、1587年には秀吉が九州征伐に乗り出します。これに島津氏は屈服し、薩摩・大隅地区に押し込まれてしまいます。統治していた日向国も、功のあった大名に分知され、江戸時代には大名は置かれず、天領と小藩に分割されました。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩などの小藩がそれです。

ただ、九州南部に押しやられた薩摩藩も日向の南部の諸県郡を領有することを許されましたから、宮崎県南部ではいまもどこか薩摩藩の気風が残っているようです。

とはいえ、一時は九州全体に名を馳せた島津家もその勢力をかなり萎縮させてしまいました。しかし、徳川の目が届かないその地の利を得て海外貿易を発展させ、徳川250年間に発展させたのは経済のみならず強大な軍事力でした。

その後の幕末においては、それをふんだんに使い、それまで鬱屈していたエネルギーを爆発させて、長州藩とともにこの国に一大転機をもたらしたことも誰しもが知る史実です。

ところで、この薩摩藩ともゆかりの深い日向国というのは、ここ伊豆ともかなり縁の深い土地柄です。というのも、戦国時代から安土桃山時代にかけての一時期、この地で勢力ふるった「日向伊東氏」というのは、ここ伊豆の伊東から出た豪族の末裔であるからです。

その発祥の地は、伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)です。平安時代末期から鎌倉時代にかけてこの地を本貫地としていた豪族・伊東氏が下向してできたのが、「日向伊東家」であり、日向で最大の勢力を持った時代の11代当主「伊東義祐」は、伊豆伊東家の始祖である「伊東家次」から数えれば第16代にあたります。

この伊東家次は、伊東姓を名乗る前は「工藤祐隆(すけたか)といい、平安の時代の名家、藤原南家の流れをくむ人物です。

この時代、隆盛を誇った藤原氏は日本各国に領地を持っており、伊豆もそのひとつでした。祐隆は、あるとき、四男にその領地である狩野荘(狩野川上流)の地を譲り、自身は伊豆東部の久須美荘を拠点としました。

この久須美というのは、現在の伊東・宇佐美・大見・河津などから成る伊豆島南部の諸地域のことであり、現在もこれらは地名として残り、「伊東」は現在でも最大の都市です。

この地で伊東氏の祖となり、伊東家次と名を変えた工藤祐隆ですが、嫡子である伊東祐家が早世するなど後継者に恵まれなかったため、妾の子やら養子などに次々と別の領地を与えました。これが内紛を呼び、「曾我兄弟の仇討ち」といった事件を引き起こします。

曾我兄弟というのは、伊東家傍流の家の嫡男だった子らのことで、所領争いで殺された父親の仇を討ったことで有名になりました。討たれたのは家次の孫にあたる工藤祐経という人物で、この兄弟が有名になったのは、父が殺されたあとに貧しい武士だった曽我家に引き取られ、艱難辛苦を嘗めたあと、ようやく仇をとったことが美談とされたためです。

このあたりの人間関係は複雑なので割愛しますが、伊東氏と日向国の関係は、この曽我兄弟に敵討ちされた工藤祐経の子の伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まります。

工藤祐経は頼朝に仕えて側近として重用され、伊東荘を安堵されていた人物で、曽我兄弟による敵討ちというセンセーショナルな事件があったあとも、その子孫は重用されました。

この祐時の日向下向もそのひとつであり、このほかにも伊豆伊東家の子孫の一派が尾張国に移り住んでおり、その子孫が織田信長や豊臣秀吉・秀頼に仕え、江戸時代には備中国で大名となっています。

日向国に移り住んだ伊東祐時の子孫は、やがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏としてこの土地に土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら、次第に東国武士の勢力を扶植していきました。

室町~戦国期を通じて、伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながらも次第に版図を広げていき、寛正2年(1461年)には5代当主伊東祐堯が将軍・足利義政から内紛激しい島津氏に代わり守護の職務の代行を命じられています。

その後、前述の11代当主、伊東義祐の時代にはその全盛時代を迎えます。義祐の父、伊東尹祐父子ともども、足利将軍家より、偏諱(いみな)を受けており、義祐の「義」の字は将軍足利義晴の一字をもらったものであり、また父の尹祐(ただすけ)の「尹」の字は、足利義尹から受けたものです。

日本では室町時代あたりから元服の際に烏帽子親から一字貰うなど、主従関係の証などとして主君から家臣に一文字与えることが盛んに行われており、これを「偏諱を与える」いいます。その意味はつまり「一字拝領」です。主君の偏諱を賜ること=名誉あることであり、その後の時代では頂いた字を名前の上につけるのが通例になりました。

将軍の名を頂くほど権勢を誇った、というわけですが、伊東義祐は続いて、飫肥の島津豊州家と抗争、これを圧倒して、佐土原城を本拠に四十八の支城(伊東四十八城)を国内に擁し、位階は歴代最高位たる従三位に昇るなど最盛期を築き上げました。

しかし、義祐は晩年から、奢侈と中央から取り入れた京風文化に溺れて次第に政務に関心を示さなくなり、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで島津義弘に敗北したことを契機に、伊東氏は衰退し始めます。

天正5年(1577年)、島津氏の反攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われて、その後は瀬戸内などを流浪した末に堺にて死去したといいます。




こうして伊東氏は一時的に没落しましたが、義祐の三男・伊東祐兵は中央に逃れて羽柴秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州平定で先導役を務め上げた功績を認められ、日向に大名として復活を成し遂げています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は病の身であったため、家臣を代理として東軍に送っています。その功績により所領を安堵され、以後、伊東氏は江戸時代を通じて廃藩置県まで「飫肥藩」として存続することとなりました。

この伊東氏の一族からは、「天正遣欧少年使節団」の主席正使としてローマに赴き、教皇(グレゴリウス13世)に拝謁した「伊東祐益」こと「伊東マンショ」といった有名人物も出ています。

伊東マンショは、伊東義祐の娘と伊東家の家臣の間に生まれた子です。伊東氏が島津氏の侵攻を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣に背負われ豊後国に落ち延びました。そしてこの地でキリスト教と出会い、その縁で、肥前日野江藩初代藩主でキリシタン大名だった有馬晴信のセミナリヨに入りました。

そのころ、巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えました。

そこでセミナリヨで学んでいたマンショを含む4人の少年たち(13~14歳)に白羽の矢が立てられ、中でも利発だったマンショは、豊後の国(現大分県)のキリシタン大名、大友宗麟の名代として選ばれました。そして足かけ6年の長い旅が始まりました。この時代、交通手段は当然船しかなく、行きは2年少々、帰りも1年半の時間を擁しています。

そしておよそ2年弱のこの使節団の滞在によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になります。また、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われており、こうした「日本初」の史実の積み重ねにより、「天正遣欧少年使節団」の名が後世に語り継がれているわけです。

日本に戻ってきたマンショは秀吉に気に入られ、仕官を勧めたといいますが、司祭になることを決めていたためそれを断り、その後マカオのコレジオに移り、ここで司祭に叙階されています(慶長13年(1608年))。

帰国後は小倉を拠点に活動していましたが、しかし時代は関ヶ原(1600年)を経て徳川の時代であり、領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移りました。長崎のコレジオでキリスト教を説いていましたが、慶長17年(1612年)11月13日に病死。43歳くらいだったと考えられています。

このほか、日向伊東家は、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務めた元帥海軍大将・伊東祐亨(すけゆき)を輩出しています。

日清戦争における清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で明治27年(1894年)9月17日に行われた黄海海戦では、戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破して日本を勝利に導いた立役者とされる人物です。

この当時の清国艦隊はアジア最大といわれ、たとえば日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220tと、倍近い差があり、その後日露戦争の日本海海戦で強国ロシアを撃破する「大日本帝国海軍」の整備もまだこのころは途中の段階でした。

黄海海戦の話は始めると長くなるので割愛するとして、このとき敗色濃厚な北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治28年(1895年)2月13日に威海衛で降伏。丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げました。

このとき、伊東祐亨は、没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、丁重に丁汝昌の遺体を本国に送還させており、このことが「武士道」としてタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめました。

戦後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めたあと、海軍大将にまで進みました。また日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に任じられています。

政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしたことで知られるこの人物もまた、飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身です。鹿児島城下清水馬場町に薩摩藩士の四男として生まれ、長じてからは江戸幕府の洋学教育研究機関、開成所でイギリスの学問を学びました。

当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われていますが、その後薩英戦争に遭遇。欧米の圧倒的な海軍力を目の当たりにし、日本の海軍もかくあるべきと悟ったといわれます。

戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍し、明治維新後海軍に入り、明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられたのを皮切りに「龍驤」、「扶桑」、「比叡」の艦長を歴任します。

イギリスで建造中であった「浪速」回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられたあとは、海軍少将、海軍中将と進み、明治27年(1894年)の日清戦争に際して連合艦隊司令長官を拝命しました。

幕末には、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学んでいます。

この時代、江川英龍のもとでは砲術を学んでいます。伊豆の一代官でありながら、洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱いたこの人物は、その後世界遺産、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させ、江戸幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、最後には幕閣入を果たしました。

伊豆の江川英龍と日向伊東家出身の伊東祐亨。こんなところでも伊豆と日向の国との接点があったのだな、と改めて思う次第。

ひょんなことから伊豆に住まう私が宮崎県と妙に縁があるのもそんな関係性と似ているのかな、と思ったりしています…




タコ

10月になりました。

英語での月名、Octoberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の “octo” に由来しています。われわれの暦では10番目の月ですが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、3月が年始であり、3月から数えて8番目の月、ということになります。

同じく、11月のNovemberのnovemは「第9の」の意味で、12月Decemberのdecemは「第10の」の意味になります。

タコを意味するオクトパス octopus のocto もラテン語から来ています。無論、タコの足が8本であることから来たネーミングです。

このタコの足ですが、実は足ではなく、学術書などでは「腕(触腕)」と表現され英語でも arm です。

また、見た目で頭部に見える丸く大きな部位は実際には「胴部」であり、本当の頭は触腕の基部に位置して眼や口器が集まっている部分です。

従って、一般的なタコの挿絵では、この短い胴体の下に足が生えているように描かれますが、実際にはタコには足はなく、これを逆さにして「頭から手が生えている」、と見立てるのが正しい表現です。

しかし、人間と同じくこの手を足とみなす習慣が長く続いたこともあり、同じ構造を持つイカの仲間とともにこれは足だと言われることが多く、学術的な分類でも「頭足類」の名で呼ばれます。




その柔軟な体のほとんどは筋肉であり、全身がバネのような存在です。体の中で固い部分は眼球の間に存在する脳を包む軟骨とクチバシのみであり、このため極めて狭い空間を通り抜ける事ができます。間口の非常に狭いタコツボに納まることができるのはこのためです。

比較的高い知能を持っており、一説には最も賢い無脊椎動物であるとされています。形を認識することや、問題を学習し解決することができます。例として、密閉されたねじぶた式のガラスびんに入った餌を視覚で認識し、ビンの蓋をねじって開け、中の餌を取ることができるそうです。

また、身を守るためには、保護色に変色し、地形に合わせて体形を変えますが、その色や形を2年ほど記憶できることが知られています。1998年には、インドネシア近海に棲息するメジロダコが、人間が割って捨てたココナッツの殻を組み合わせて防御に使っていることが確認されたといいます。

頭がいいといえば、サッカードイツ代表の試合の結果を予言し、国際的な名声を得たタコを思い出します。

かつてドイツ・オーバーハウゼンの水族館シー・ライフで飼育されていたマダコで、「パウル君」の名で親しまれ、2008年1月から 2010年10月まで3年弱を生きました。

サッカードイツ代表の国際試合の結果を予言し、EURO2008では全6試合のうち4試合を的中、W杯南アフリカ大会ではドイツ代表の7試合に決勝戦を加えた計8試合の勝敗を全て的中させたことで有名になりました。

ワールドカップ終了後、パウルの「予言」にあやかって「スポーツ試合の勝者当てアトラクション」が各国で行われ、タコだけでなくほかの動物を使うなどして様々な形で行なわれました。

日本でも2010年11月、Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝戦・ジュビロ磐田対サンフレッチェ広島の「タコによる勝者当て」が行なわれました。このタコは東京湾の佐島沖で水揚げされたマダコ「築地の源さん」といい、Jリーグ関連会社に2000円で買い上げられました。

水槽に入った2つのチームのエンブレム入り蛸壺が水槽内に入れられると、源さんは広島側の蛸壺に入ってこのチームの勝利を予言しました。しかし結果は5-3(延長戦)で磐田が勝利したそうです。

関係者は「源さんは、その日のうちに海に帰った」と話していましたが、広島のファンによってゆでだこにされ、即その日に食されたことは想像に難くありません。

このタコ、日本だけでなく、世界中で美味な海産物として知られ、美味なタンパク質の供給源として、世界各地の沿岸地方で食用されています。

しかし、ヨーロッパ中北部では「悪魔の魚」とも呼ばれ、忌み嫌われてきました。ユダヤ教では食の規定カシュルートによって、タコは食べてはいけないとされる「鱗の無い魚」に該当します。イスラム教やキリスト教の一部の教派でも類似の規定によって、タコを食べることが禁忌に触れると考えられています。

また、タコは、年齢を測るすべがなく、いったい何歳なのかわかりません。上のパウル君は水槽で飼われていいたために年齢がわかりましたが、大海原に生息する野生のタコはいった何歳なのかわからないことが多く、年齢不詳の不気味さがあります。

なぜ年齢がわからないのか。これはタコでは耳石を用いた年齢推定が行えないためです。一部の種を除いて、どれくらい生きるのかはわかっていません。耳石(じせき)とは、脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織で、魚の場合はその断面は木の年輪のような同心円状の輪紋構造がみられ、1日に1本が形成されます。

日輪(にちりん)と呼び、年齢推定を日単位で行うことができますが、タコの場合にはこれに相当するものがありません。従って、漁獲されたタコがいったい何歳なのかはわかりにくく、とくに長く生きたものの年齢は不詳です。

また、海の中では意外に荒くれ者です。稀にではありますが、大型のタコが小型のサメを捕食することがあり、また水族館では、ミズダコが同じ水槽で飼われていたアブラツノザメを攻撃し、死亡させた例もあります。

人間を見たことがない大型のタコは、潜水中の人を威嚇したり、ダイバーのレギュレーターに触腕をからませ、結果としてダイバーの呼吸を阻害することもあるそうです。

さらに、ほぼ全てのタコは毒を持っています。人間には無害のものが多いのですが、ヒョウモンダコという種類のタコは例外で、分泌腺内に寄生するバクテリアに由来するテトロドトキシンという猛毒を持っており、人間でも噛まれると命を落とすことがあります。解毒剤は見つかっていません。

その形態、生態はきわめて特徴的で、ユーモラスととらえることもできますが、海の中で体を伸縮させて泳いでいる姿はかなりブッキーです。外敵に襲われたとき、捕らえられた触腕を切り離して逃げることができるというのも、普通の魚にはできない芸当です。

切り離した触腕は再生しますが、切り口によって2本に分かれて生えることもあり、8本以上の触腕を持つタコも存在するといい、その姿はほとんどエイリアンです。

このように、海を代表する不気味さゆえか、ヨーロッパ、とくに北欧ではその昔、クラーケンKrakenというタコの化け物が出現して、海難を起こすとされていました。

語源は、crank であり、これは、捻じ曲がったもの、曲がりくねったもの、変わり者、つむじ曲がり、奇想のもの、を意味します。タコの持つ恐ろしげな湾曲性の腕を想起しての名付けられたのでしょう。

クラーケンは、タコ以外にも巨大なイカの姿で描かれることが多いようですが、ほかにも、シーサーペント(怪物としての大海蛇)やドラゴンの一種、エビ、ザリガニなどの甲殻類、クラゲやヒトデ等々、様々に描かれてきました。

姿がどのようであれ一貫して語られるのはその驚異的な大きさであり、「島と間違えて上陸した者がそのまま海に引きずり込まれるように消えてしまう」といった種類の伝承が数多く残っています。

古代から中世・近世を通じて海に生きる船乗りや漁師にとって海の怪は大きな脅威であり、怖れられる存在でした。

凪(なぎ)で船が進まず、やがて海面が泡立つなら、それはクラーケンの出現を覚悟すべき前触れである、とされました。姿を現したが最後、この怪物から逃れる事は叶いません。

船出したまま戻らなかった船の多くは、クラーケンの餌食になったものと信じられてきました。たとえマストによじ登ろうともデッキの底に隠れようとも、クラーケンは船を壊し転覆させ、海に落ちた人間を1人残らず喰らってしまうからです。



このクラーケン、日本にも似たような目撃談が多数あります。ただし、こちらは海坊主(うみぼうず)と呼ばれ、海に住む妖怪、海の怪異、とされてきました。

海に出没し、多くは夜間に現れ、それまでは穏やかだった海面が突然盛り上がり黒い坊主頭の巨人が現れて、船を破壊するとされます。大きさは多くは数メートルから数十メートルで、かなり巨大なものもあるとされますが、比較的小さなものもいるという伝承もあります。

1971年4月。宮城県牡鹿郡女川町の漁船・第28金比羅丸がニュージーランド方面でマグロ漁をしていたところ、巻き上げていた延縄が突然切れ、海から大きな生物状のものが現れ、船員たちは化け物といって大騒ぎになりました。

その「生物」は灰褐色で皺の多い体を持ち、目は直径15センチメートルほど、鼻はつぶれ、口は見えなかったといいます。半身が濁った海水の中に没していたために全身は確認できませんでしたが、尾をひいているようにも見えたといいます。漁師がモリで突く準備をしていたところ、その化物は海中へと消えてしまいました。

目撃談では水面から現れた半身は1.5メートルほどだったといい、全身はその倍以上の大きさと推測されます。本職の漁師たちが魚やクジラなどの生物を化物と誤認することはないと考えられることから、あれはいわゆる海坊主ではなかったか、と今でも言われているようです。

クラーケンとこの海坊主が同じである、といったことが証明されているわけではありませんし、そうした研究はないようです。ただ、最近その実在が確認されたダイオウイカの例もありますから、広い大海原にこうした未知の巨大生物が生息していないとは誰も否定できないでしょう。

とくに1000m以上の深海の生物では、未だ確認されていない種が多数おり、この深さまで人類が到達できる技術を持ったごく最近、ようやくその研究の端緒が開かれたといった段階のようです。

また、クラーケンや海坊主は、その伝承から“危険な存在”とされていますが、本当にそうなのかはまだわかりませんし、すべてがそうだというわけではないようです。

ニュージーランド近海で観察されたダイオウイカの調査からは、彼らが捕食する獲物は、オレンジラフィー(タイの一種)やホキといった魚や、アカイカ、深海棲のイカなどであることがわかっており、また人間を視認して襲うといった攻撃性は確認されていません。

この宮城沖に現れたという海坊主も特段危害を加えたというわけではないようであり、逆にあちらのほうが突然現れた人間にびっくりしたのかもしれません。

また、日本に大昔から伝わる伝承の中においては、海坊主はむしろ温和かつ無害に描かれることもあるようです。愛媛県宇和島市では海坊主を見ると長寿になるという伝承があり、幸福の使者とされています。

また北欧のクラーケンの排泄物は、この世のものとはいえないほど良い臭いを発するといい、これをもと餌となる魚をおびき寄せているともいわれています。

京都市中京区にある永福寺には蛸薬師(たこやくし)があります。そのいわれは、タコが人助けをしたというものです。

ある街中に棲む男が病の母を思って、母の好物のタコを戒律を破ってまで買ってきたところ、そのタコが池に飛び込んで光明を放ち、病がたちまち快癒したという言い伝えがあります。このお寺の前の通りの名前は「蛸薬師通」といい、この伝承由来のものです。

このほか、大阪府岸和田市には「蛸地蔵」と呼ばれるお地蔵さんがあり、こちらは岸和田城落城の危機に、大蛸に乗った地蔵の化身が城を救ったという伝説に基づいて祀られるようになったものです。

天正12年(1584年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が尾張へ向けて大坂城を出発しましたが、これはいわゆる「小牧・長久手の戦い」の前哨戦です。その隙を突いて、紀州征伐で敵対する根来衆・雑賀衆といった紀州の一向一揆の軍勢が、秀吉配下の中村一氏が寡兵で守る岸和田城へ攻め込み、大乱戦となりました。

数で圧倒する紀州勢の勢いが物凄く城が危うくなった時、蛸に乗った一人の法師が現れて、次々と紀州勢を薙ぎ倒したといいます。しかし、紀州勢が盛り返して、蛸法師を取り囲もうとした時、海辺より轟音をたてて幾千幾万の蛸の大群が現れ、紀州勢を殺害することなく退却させたそうです。

一氏は大いに喜び、この法師を探しましたが、結局分からなかったといいます。しかし、ある夜、法師が一氏の夢枕に立ちました。そして、自分は地蔵菩薩の化身であると告げたといいます。

実はこれより以前、岸和田城では、この地を戦乱から守るため、堀に地蔵菩薩を埋め、城の守りとして備えていたといいます。

このお告げのあったあと、これに気付いた一氏は、埋め隠し入れた地蔵菩薩像を出して祀ったといい、それゆえにこの地長く栄えました。その後、一般の人もその利益が受けられるようにと、日本一大きいといわれる地蔵堂に移され、現在に至っています。

現在もこの岸和田城は猪伏山と呼ばれた小高い丘の上にあります。本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城と呼ばれ、後に千亀利城と呼ばれるようになりました。

この城にはまた、岸城神社という神社がありますが、この千亀利と「契り」とをかけて、今では縁結びの神社として知られているそうです。

桜の季節は花見の名所となり、大阪みどりの百選に選定されています。岸和田城そのものは、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(161番)に選定されています。