風のはなし

まだ11月だというのに、外は真冬並みの寒さです。

この時期にこんなに寒いのはひさびさのように思います。暖かい伊豆では他地域より紅葉も遅いようですが、この寒さで一気に赤くなるかもしれません。

こうした寒さとは関係はなく、この時期になると、伊豆では風が強くなります。いや、伊豆だけのことではなく、全国的な傾向でもあります。冬季にはユーラシア大陸の上にある冷たいシベリア高気圧から、比較的暖かい太平洋に向かって空気が流れ込みやすくなるためです。

全国的に、北風や北西からの風が吹きやすくなりますが、山がある地域の反対側、つまり南側では、山を越えて吹きつける下降気流が発生しやすくなります。

山を越える際に温度、気圧ともに下がることで空気中の水蒸気が雨や雪となって山に降るため、山を越えてきた風は乾燥した状態となり、これがいわゆる「からっ風」を発生させます。

特に群馬県で冬に見られる北西風は「上州のからっ風」として有名で、「赤城おろし」とも呼ばれ、群馬県の名物の一つとも数えられています。また、ここ静岡でも、西部の浜松市などは冬に北西風が強まり、「遠州のからっ風」と呼ばれます。

浜松の風はおそらく、北アルプスや中央アルプス越えの下降気流に原因があると思われますが、静岡市あたりでもその北西にある南アルプス越えの風が吹きやすくなります。これが原因で、この時期には静岡市内でもよく突風が吹きますが、ここ伊豆でもその風が駿河湾を超えてやってくるためか、かなり風が強くなります。

この風はたいていお昼前頃から強くなります。これはおそらく日が昇って太平洋側がより温められ、北と温度差が激しくなるためでしょう。上空の冷たい空気はアルプスを越え、温かい海に向かって一気に吹き降ろしてきます。

このため、朝、洗濯物を干しているときにはほとんど風がなく、油断をして洗濯バサミする手間を省いたりします。ところが、午後になってから急に風が吹き出すことが多く、あわてて飛ばされないようにしたり、洗濯物を干す場所を変えることを余儀なくされたりもします。

ここへ引っ越してきたばかりのころは、このことをよく理解しておらず、午後になって吹き荒れる風によく翻弄されたものです。しかし、最近は慣れたもので、あらかじめ厳重に洗濯バサミで洗濯物を固定する手間を惜しまなくなっています。

ちなみに、同じように山を越え、吹き降ろしの風の温度が上昇・乾燥化する現象のことを「フェーン現象」といいます。風下側の気温が著しく上昇するので森林火災が発生したりして、大きな災害になる場合もあります。

ここで、冬に山越えで吹き降ろす風は「からっ風」と呼び、なぜ「フェーン現象」と呼ばないか、ですが、これは、吹き降ろしの風の温度がかなり上昇したとしても、冬季であるがゆえに麓の気温も十分に低いためです。

仮に1000mの山の上でマイナス10℃の風が吹き下ろしたとしても、麓では0℃にしかならず、体感温度では、これは暖かい風というよりも「冷たいからっ風」と感じるわけです。

このため、こうした冬に発生する現象をフェーン現象と呼ばず、「ボーラ現象」と呼ぶこともあります。

ボーラの場合は初めから非常に冷たい空気で構成されていることや、湿度もそれほど高くないことから、昇温の幅は小さく、むしろ風が吹き始めると気温が低下することが多くなります。加えて風下側の気温が比較的高いため、相対的に冷涼な風となります。

ボーラの名は、「北風」あるいは「むさぼりつくす者」を意味し、ギリシア神話に登場する風の神ボレアスに由来しています。ボレアスは、しばしばほら貝を持ち突風にうねる外套を纏い、もじゃもじゃ頭に顎鬚を生やした、翼のある老人として描写されます。粗暴な神として扱われることも多いようです。

この現象は、そもそもヨーロッパ中部から東部にかけて居座る大陸性の冷たい気団から、アルプス山脈東部やディナルアルプス山脈を越えて、南西方向に吹き降ろす寒冷風を指します。

一方のフェーン現象は、同じヨーロッパでも、アルプス山中で吹く局地風のことをドイツ語でこう呼んだために由来しており、ラテン語で西風の意のfavoniusに基づく、というのが通説です。

この「ボーラ現象」、すなわちからっ風のことを、日本では昔から一般的には「颪(おろし)」といいます。ただ、全国的な呼び名ではなく、主に太平洋側の地域での呼称で、冬季に山や丘から南の地方に向かって吹き下ろしてくる風のことをいいます。

一方、日本海側では冬場に山から吹き下ろす風のことを、「だし風」または「だし」と呼ぶことが多いようです。「だし」は低気圧が日本海に入りながら東進している時に、南方の太平洋上の高気圧からの風が強い南寄りの風になって吹き込んで日本列島の脊梁山脈を越えて日本海上の低気圧へ吹き降りることで発生します。

こちらは、冬場といっても春先に吹くことが多く、「フェーン現象」でもあるだけに高温かつ乾燥した南風となります。このため雪解け洪水が起きたり、稲の赤枯れや虫害、また強風から不漁を引き起こしたりするやっかいものです。

一方の太平洋側の冬に吹く、「颪(おろし)」のほうは、関東平野の「からっ風」、岡山県の広戸風、愛媛県のやまじ風など、随所に常襲地があって局地風としてその土地土地での固有の名で呼ばれることが多くなっています。

ただ、いずれも主風向は一定で山脈に直行して吹きます。谷間の急に開けた場所で強い傾向にありますが、北海道における局地風「日高しも風」のように岬を回った山蔭に生じる場合もあります。




「〜颪」と付く局地風の呼称は吹き下ろしてくる山の名が冠されていることが多く、以下のようなものがあります。

赤城颪 – 赤城山
浅間颪 – 浅間山
愛宕颪 – 愛宕山
吾妻颪 – 吾妻山
伊吹颪 – 伊吹山
北山颪 – 京都
蔵王颪 – 蔵王連峰
鈴鹿颪 – 鈴鹿山脈
丹沢颪 – 丹沢山地
筑波颪 – 筑波山
那須颪 – 那須岳
男体颪 – 男体山
鉢盛颪 – 鉢盛山
榛名颪 – 榛名山
比良颪 – 比良山地
比叡颪 – 比叡山
風伝颪 – 風伝峠
富士颪 – 富士山
八ヶ岳颪 – 八ヶ岳
摩耶颪 – 摩耶山
六甲颪 – 六甲山
霧島颪 – 霧島山

この中で有名なのは、六甲颪(ろっこうおろし)で、六甲山系より吹き降ろす山颪のことです。プロ野球球団阪神タイガースの応援歌のタイトルにもなっており、聞いたことがある人も多いでしょう。

六甲颪といえば、冬の寒風としてのイメージが強いようですが、その他の季節でも吹きます。春は本州南岸を進む低気圧が集める東風が大阪平野から六甲山地に収束され強い北寄りの東風が吹く日が多く、また、秋は発達した低気圧や台風による北風が吹きます。ただ、唯一夏には吹きません。

とはいえ、夏以外は、表六甲は常に比較的強い風に吹かれている状態といえ、古来から季節を選ばずに山頂より吹き降りる突風はこの地域の名物のようになっています。

このほか、上でもあげた「上州からっ風」、と呼ばれるのが、赤城颪(あかぎおろし)です。群馬県中央部(赤城山)から東南部において、冬季に北から吹く乾燥した冷たい強風をさします。

筑波颪(つくばおろし)というのもよく聞きます。茨城県南部から千葉県北部にかけての地域で冬期に吹く冷たく乾燥した北西風のことで、日本付近が西高東低の冬型の気圧配置になった場合に、日本海から日本に向かって北西の湿った季節風が吹き込みます。

これが千葉や茨城の西北にそびえる関東山地に雪を降らせ太平洋側に吹き降り、乾燥した冷たい北西風となって関東地方に強風をもたらします。茨城県南部から千葉県北部にかけては、ここから筑波山が良く見えることから、この風を「筑波おろし」と呼ぶようになりました。

ただ、筑波山というのは実はそれほど高い山ではなく(877m)、ほぼ単体の山であるため、実際にこれを吹き下りてくる風が直接当たる範囲は限られています。

ここまで話広がってきたので、もう少し風の話をしましょう。

この冬場におこる颪に限らず、特定の地域に限って吹く風のことを、「局地風」、あるいは「局所風」、また「地方風」などと呼びます。地方風は英語でも“ local wind”と呼ばれます。

地球上では、地域によってさまざまな性質を持った風が吹き、その地域の独特の気候や風土を形作っています。その地域の気候を温暖にしたり、恵みの雨をもたらす風もあれば、農業に重大な影響を及ぼすものや、人間の生活にとって脅威となるものもあります。

その地方独特の名称で呼ばれている風も多く、中には、神話や伝承に関連した名前もあり、文化的な側面を垣間見ることもできます。また、方角の名前が風の名前になったもの、その逆のものなど、方角と関連付けられた名前も多いようです。早春に吹くことが多く、春の季語にもなっている東風(こち)などがその代表的なものです。

ただ、穏和であまり被害をもたらさないようなこうした地方風よりも、生活に大きな影響を及ぼすような地方風に名前がつけられることのほうが多いようです。地方風の一般的なイメージも、穏和というよりは悪影響をもたらす風という印象が強くなっています。

上の颪(おろし)やからっ風も、冬場に吹く乾燥した冷たい空気であり、それイコール冬場の厳しい寒さそのものをイメージさせます。

また、山形県の庄内町付近を吹く局地風は、「清川だし」と呼ばれ、上述のように雪解け時に悪さをするため「日本三大悪風」の一つとも言われます。

奥羽山脈から吹く南東の風が、新庄盆地を経て、日本海側の庄内平野に吹き抜ける際に発生するもので、出羽山地に囲まれている地形から風が集まり、庄内平野側の出口にあたる清川で局所風となります。夏場を中心に強風が続くため、古くから、農作物の生育に大きな影響がありました。

ほかの二つは、広戸風(岡山県津山市~奈義町)、やまじ風(愛媛県四国中央市)です。
広戸風は、 岡山県の津山盆地の一部で吹く局地風で、日本海からの北よりの風が鳥取県・千代川流域のV字谷で収束され、那岐山山系を越えて南麓に吹き降ろすことで発生します。

2004年の台風23号では奈義町で最大瞬間風速51.8m/sを記録し、山林の大規模な倒木や家屋に大きな被害が出ました。

また、やまじ(山風)とは、愛媛県東部の四国中央市一帯や新居浜市、西条市でみられる南よりの強風のことで、春や秋に多いものです。低気圧の中心が日本海を通過する際に、四国山地に南から吹き付けた強風が、石鎚山系と剣山系の間の鞍部になっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に吹き降りることにより発生します。

やまじが吹くときは、必ずフェーン現象を伴うため、著しく気温が上がります。天気予報において、東予地方の気温予想の代表地点には新居浜市のものが用いられますが、やまじの際には、この気温にさらに5~8℃も上乗せされます。

例えば2007年3月24日の最高気温は、新居浜市・西条市・今治市が12℃台だったのに対し、やまじ風が吹いた伊予三島では20.5℃を記録しています。

このほか、やませ(山背)というのも有名です。北日本の(主に東北地方)太平洋側で春から夏(6月〜8月)に吹く冷たく湿った東よりの風のことです。寒流の親潮の上を吹き渡ってくるため冷たく、水稲を中心に農産物の生育と経済活動に大きな影響を与えます。

江戸時代は米が産業の中心であったこと、江戸時代を通じて寒冷な気候であったこと、また、現在ほど品種改良が進んでいなかったことなどのため、盛岡藩と仙台藩を中心に、やませの長期化が東北地方の太平洋側に凶作を引き起こしました。

凶作は東北地方での飢饉を発生させたのみならず、三都(江戸・大坂・京)での米価の上昇を引き起こし、打ちこわしが発生するなど経済が混乱しました。




以上の地方風があまり良い印象がないのに対し、愛媛県の肱川河口で吹く局地風「肱川あらし」は町の風物詩として全国的に知られるようになりました。

愛媛県大洲市で観察されるもので、初冬の朝、大洲盆地で発生した霧が肱川を下り、白い霧を伴った冷たい強風が河口を吹き抜ける現象です。

冬型の気圧配置が緩んだ日に、大洲盆地と瀬戸内海(伊予灘)の気温差が原因で陸地において地表が放射冷却によって冷え込み、霧が発生します。そしてこれが、山脚が河口付近まで川の両岸に迫っている特異な地形をしている肱川下流から、一気に海側に流れ出します。

大規模な時は霧は沖合い数キロに達し、風速は可動橋として知られる長浜大橋付近において15km以上が観測されるといいます。年配者を中心に「肱川おろし」と言われ、こちらが正式名称のようですが、近年は「肱川あらし」の呼称の方が一般的となり、大洲市広報紙でも「あらし」となっています。

実は私はこの大洲市の生まれです。

といっても、3歳になるかならないかの時に父の仕事の関係で広島に移転したため、ほとんどこの街の記憶はなく、無論肱川あらしの記憶など全くありません。

とはいえ、最近あまりにも頻繁にこの街の話題が出るので、できれば一度里帰りをしたいと考えており、場合によってはこの年末にも実現できるかもしれません。

年末に姪の結婚式が広島であり、実家のある山口ともども訪問したいと考えています。実現すれば実に半世紀ぶりということになります。

その際には、私が生まれたという大洲市街とそこを流れる肱川、そしてそれらを一望できるという大洲城をぜひ訪れたいと考えています。

ちなみに、この肱川という名前は、1331年、伊予の守護職となった宇都宮氏が比志城(大津城)を築いたときのエピソードに由来しているといいます。

このとき、下手の石垣が何回も崩れて石垣が築けなかったので「おひじ」という乙女を人柱にしたところ、それ以後は石垣の崩れることはなかったといいます。そこでこの乙女の霊を慰めるために比地川(ひじかわ)と名付けたとのことで、なんとも物悲しい話ではあります。

もしかしたら、前世ではそんな出来事にも関わっていたかもしれず、あるいはそのころの肱川あらしも見ていたかもしれません。今度の訪問が実現すれば、あるいは幼い頃のことを思い出すかも。

新たな記憶の手がかりが得られれば、またこのブログでも紹介することとしましょう。




カマラルザマーンとブドゥール

その昔、ペルシャと呼ばれるそのエリアに、ハーレダーンという国があった。

国王シャハラマーンには一人息子がおり、その名をカマラルザマーンといった。この王子は、神の子と噂されるほどの美形であり、街中を歩けば、国中の女どもすべてが振り返るほどの輝きを放っていた。

父の国王は国の行く末を思い、早くこの息子に妃を迎えたいと考えていた。しかし、当の本人は15歳になってもまったく女性に興味が無く、父がいくら結婚を勧めても、まだ早いと言ってはいつもこれを拒否していた。

一方、ハーレダーンの地から遥か遠く離れたところに、エル・ブフールとエル・クスールという二つの国があった。両国を束ねる国王、ガイウールには美しい一人娘、ブドゥールという王女がいたが、こちらも男性にはまるで興味が無く、近隣の国の王子の求婚を断り続けていた。

ある日のこと、ハーレダーンの国王・シャハラマーンはいつものようにカマラルザマーンに縁談をもちかけたが、このときも彼は断固としてこれを受け付けなかった。業を煮やした父は、それならと懲罰のため、彼らが住まう城の中でも一番奥にある古い塔の中に息子を閉じ込めた。




その塔は古代ローマ時代からある塔で、その昔は牢獄として使われていたものだった。中は広々としていたが、古めかしい石造りの内部はじめじめしており、気味悪がって普段は誰もがそこへ近づかなかった。塔の階下にはひとつの井戸があり、実はそこには魔王ドムリアットの娘、魔女のマイムーナが棲んでいた。

マイムーナは井戸の底の底にある邸宅で静かに眠っていたが、騒々しい物音を聞いて目を覚ました。すると誰かがひきずって来られ、入口のドアに錠をかけられる音が聞こえてきた。

それはちょうど、カマラルザマーンが家来によって押さえつけられていた両腕をふりほどいたところだった。振り返ると、分厚い樫の木でできた扉が閉められ、重い鍵がそこにかけられた。見上げると遥か上の方に小窓があったが、それ以外にあかり取りはなく、薄暗い塔に押し込められたカマラルザマーンはやれやれと思った。

しかし、少しも不安はなかった。一人息子の自分を王である父が見殺しにするわけはなく、しばらくすればまた外に出してもらえると確信していたからである。

ただ、それにしても牢の中というものは退屈なものである。加えてこの塔の中の空気は陰湿で、気を滅入らせた。カマラルザマーンはいた仕方なく、上の方に見える窓のからこぼれてくる月明かりをぼんやりと見ていたが、そのうちに眠くなり、横になると深い眠りに落ちていった。

井戸の中から様子をうかがっていたマイムーナは、外が静かになったころあいを見て、おそるおそる姿を現した。そして井戸の横の床の上で横になって眠っているカマラルザマーンを見て驚いた。その美しさは数百年生きてきた彼女にとっても初めてのものであり、感動のあまり、おもわず感嘆の声をあげた。

おりしもその時、静かだった外に雷鳴がとどろき、突風が吹きすさんで、塔の窓から木の葉が舞い込んできた。そして、それと同時に吹き込む一陣の風の中から、鬼神シャムフラシュの息子で魔神のダハナシュが現れた。

ダハナシュは美しい生き物が好きだった。世界中を旅し、ありとあらゆる珍獣や昆虫、妖精といわれるものをみてきたが、一方では美しい人間も探し求めていた。そしてかねがね、誰がいったいこの世界で一番美しいかをこの目で見極めたいと考えていた。このときもハーレダーンの国に美男がいると聞きつけ、遥かかなたの国からやってきたのだった。

塔の中に降り立ったダハナシュはそこに眠るカマラルザマーンを見た。そしてその神の子のような容貌を見て美しいと思ったが、ここへ来る前に出会ったエル・クスール国の王女、ブドゥール姫の方がより美しかったと思い、つい、それを口にした。

ところが、そこに居合わせた魔女マイムーナは、そんなことはない、数百年生きてきた私が言うのだから間違いない、美しさについてはカマラルザマーンが世界一だと言い張った。

二人はしばらく言い争ったが結論はつかず、ついには、それなら、くだんのブドゥール姫をここへ連れてきて、見比べてみようということになった。



こうして妖精ダナハシュは再び風に乗り、空を飛んでエル・クスール国まで戻り、眠っていたブドゥール姫を抱きかかえて連れ出し、再びハーレダーンに戻ってきた。

ダナハシュは王女をカマラルザマーンの隣に寝かせ、魔女と魔神は二人して、あらためてそれぞれの顔を見比べた。そしてあることに気が付いた。それはその美しさには優劣がつかないということであった。なぜなら、そこにある王子と王女の顔はまるで双子と思えるほどにそっくりだったからである。

しかしそれでも二人はそれぞれが推する男女のほうが美しいといって譲らなかった。そこで、偉大なる魔王アブー・ハンファシュの子孫の鬼神、ハシュカシュ・ベン・ファフラシュ・ベン・アトラシュに判断してもらおうということにになった。

アトラシュはもう既に数千歳にもなる老人であり、数百歳にすぎない若いマイムーナとダハナシュにとっては良き仲裁相手だった。

さっそく、マイナームが水晶を取出し、祈りを唱えると、たちまちのうちにもくもくと雲のようなものが湧きあがり、その中からアトラシュが姿を現した。二人が老人にこれまでのいきさつを伝えると、彼は長く伸ばしたひげをしごきながらしばらく考え、最後にこういった。

「それぞれの目を覚まさせよ。そのあと、より相手に惚れた方を勝ちとすることにしよう。」

彼の言わんとするところは、ふたりを順番に起こし、それぞれ眠っている相手にどう反応するかを見てこの論議の結論を出そう、というものであった。

そこで、三人はまず、カマラルザマーンを起こしたところ、彼はそばに寝ているブドゥール姫をたちまち好きになった。これほど美しい女をみたのは生まれて初めてであり、その気持ちは説明できなかったが、これがもしかしたら人が言うところの恋というものか、と思った。

しかし彼は、これはきっと父王シャハラマーンの計略と思い、意のままになってはならない、とも考えた。そのまま受け入れてしまえば、わずらわしい国王の座を継がなければならなくなってしまう。とはいえ、断ればこの女とは二度と会えなくなるだろう。

そこで、一計を案じることにした。これなら父に気づかれずにのちに彼女を探し出すことができる、そう考えた彼は、自分の指輪と彼女の指輪を交換することにし、彼女と一線を越えることは我慢した。朝になれば二人でここから出れるだろうと思ったが、しかし朝まで待つことなく、三人の魔神によってふたたび深い眠りに落ちていった。

次に三人がブドゥール姫を起こしたところ、こちらも隣を見て驚いた。そこには彼女がこれまで見たこともないような美しい男が眠っており、その風貌と容姿はとてもこの世のものとは思えないほどのものだった。

姫はしばらく彼を見つめていたが、あまりのせつなさに我慢しきれなくなり、ついには彼に処女を捧げた。そしてカマラルザマーンに寄り添いながら再び眠りに落ちた。

こうして、姫のほうがより王子に積極的な行為に出る、という結果が出た。勝負は魔神ダハナシュの勝ちとなり、彼がこれまで世界中を回って作ってきた美男美女のリストの一番上にブドゥールの名が刻まれることになった。そして言うまでもなく、その二番目にはカマラルザマーンの名が記された。

ダハナシュは満足そうに、眠っているブドゥール姫を抱きかかえると、ふたたび風に乗ってガイウール王の宮殿に彼女を連れ帰った。




翌朝、カマラルザマーンが目を覚ますと、その指に指輪があるのを見つけた。また、ブドゥール姫は、処女血があったことを知り、それぞれが夕べのことは夢ではないと悟った。そして二人は、国中を回ってその夢の相手を探し始めたが、そんな夢の話を信じる者は誰もおらず、かえって狂人扱いされた。

それを見ていたガイウール王は、王女に「狂った女」のレッテルが貼られるのを恐れた。そこで「ブドゥール姫の狂気を治した者には、結婚を許し国王にする。」というお触れを出した。ただ、お触れには書かれなかったが、部下にはこう命じていた。「姫の狂気を見た以上生かしてはおけぬ、治せなかった者は、即座に首を刎ねろ。」

こうして城下には我こそは心得ありと思う若者が数多く集まってきた。皆、ブドゥール姫の美しさを知っており、ぜひともその狂気を直し、国王の座を得たいと考えていた。

エル・ブフール国とエル・クスール国だけでなく、近隣の国からも多くの者が集まってくるようになり、その治療を志願したが、誰も治せず、次々と国王によって首を刎ねられた。

そんなブドゥール姫には一人の乳母がいた。子供のころから実の子のように愛情を注いで姫を育ててきた彼女は、不憫に思い、実の息子マルザワーンに事情を話し、彼女の夢の恋人を探す旅に出るよう頼んだ。

マルザワーンは、それを聞き入れて旅に出、方々でブドゥール姫の恋人のことを聞きまわった。しかし、思うような結果を得られず、瞬く間に一ヶ月が経った。

ところがある日、タラーフという町に着いたとき、遠い国で高貴な男性が指輪を持つ女を探している、という不思議な噂を聞きつけた。タラーフから、ハーレダーンまではさらに陸路で6か月か、海路で1か月のところにあったが、マルザワーンは臆することなく、そこへ出かけようと旅立った。

途中、船が難破するなどの試練もあったが、マルザワーンは、なんとかハーレダーン国に着いた。町中で聞いた噂のことを聞きまわると、指輪を持つ女を探しているのは、どうやらこの国の王子だということが分かった。すぐに城に赴き、カマラルザマーン王子に、自分の国でも狂ったように王女が恋人を探していることを知らせた。

彼からその王女の風貌などを聞き出したカマラルザマーン王子は彼女こそ探している指輪の持ち主だと確信した。そして、マルザワーンの案内で旅立ち、海路で1ヶ月、陸路で6ヶ月をかけて、ガイウール王の国に着いた。

再開した二人は一目であの夜の相手であることを知り、再び深い恋に落ちた。愛し合う二人は王に結婚を申し出、王もまたカマラルザマーン王子の人品卑しからぬ容姿と教養を気に入り、その婚姻を許した。

結婚後、ガイウール王の庇護のもと、カマラルザマーンはしばらくのあいだ、ここでブドゥール姫と楽しく過ごした。しかし、ハーレダーンに残して来た父王のことが次第に気がかりになりはじめ、姫を連れて国へ帰りたい旨を王に申し出た。

王はゆくゆくはカマラルザマーンに王位を譲りたいと考えていたため、この申し出に戸惑ったが、最愛のブドゥール姫がどうしても夫の両親に挨拶したいというので、しぶしぶこれを許した。

こうして二人はハーレダーンを目指す旅に出た。その途中のある夜のこと、テントの中で寝ているブドゥール姫の体をまさぐっていると、紅瑪瑙(赤オニキス)でできた魔法のお守りがあるのを見つけた。テントの中は薄暗く、どんなものだろうと外へ出てながめていると、そこへ突然飛んできた巨大な白い鳥にお守りを取られてしまった。

この鳥は、ロック(rokh)といい、万物の種を生むという木から、熟した果実を振り落としたことで知られる不死鳥だった。

驚いたカマラルザマーンは、お守りを取り返すために一人鳥を何日もかけて追いかけたが捕まえることができず、11日目の日、ついにある港町で鳥を見失ってしまった。その町は異教徒のキリスト教徒に征服された町で、彼と同じイスラム教徒はといえば、年老いた庭師一人しかいなかった。

イスラム教徒だとわかれば敵対するキリスト教徒には殺されてしまう。帰る道も分からなくなっており、カマラルザマーンは港にイスラムの船が入港するまで、庭師の手伝いをしながらひっそりと待ち続けることにした。

一方、ブドゥール姫はカマラルザマーンが突然消えたことに驚き、悲しんだ。と同時に子供のころから自分を守ってくれた紅瑪瑙のお守りがなくなったことを知り悲嘆に暮れた。しかし、王子がいなくなったことで、従者たちの和が乱れ、反乱が起こることをそれ以上に恐れた。

そこで、思い立ったのは、自分の顔がカマラルザマーンと同じことを利用し、男装してカマラルザマーンを演じることであった。側近の女奴隷にベールをさせてブドゥール姫を演じさせ、従者たちにはまるで夫婦がそのままいるように思わせながら、愛する夫の故国、ハーレダーンへの旅を続けた。

その途中、黒檀の島に着いた。島の名前は銘木の黒檀(コクタン)にちなむもので、この時代には金よりも貴重と言われた。そしてこの島はこの木を豊富に産するため、ペルシャ中に豊かな国として知られていた。

黒檀の島の国王はアルマノスと言い、男装の姿のまま彼に会ったブドゥール姫は、いたく彼に気に入られた。そして、国王の美しい一人娘、ハイヤート・アルヌフース姫との結婚を持ちかけられた。ブドゥールは戸惑ったが、自分は男であるとも言い出せず、そのままアルマノス王の申し出を承諾した。

しかし、アルヌフース姫にだけは、実は自分が女であることを打ち明け、秘密を守ることを約束させた。そして初夜を迎えたが、翌朝、鳥の血を処女の血と偽り、アルマノス王には無事、契りの儀式が終わったことを報告した。王は喜び、王位をブドゥール姫に譲った。



一方のカマルザマーンは、いつまでも来ないイスラムの船を港街で待ち続けた。そんなある日、遥か向こうの砂漠の中で大きな鳥同士が争うのをみかけた。砂埃が収まるのを待って近づくと、そこには、一羽のハヤブサの死体があった。そしてそのそばには、ブドゥール姫が身に着けていたあの紅瑪瑙のお守りが落ちていた。

カマルザマーンはお守りを掴むと喜んで港町に取って返したが、いかんせん、イスラム船の入港がない限り、ここからは脱出できないことを改めて思い知らされた。しかたなく、再びイスラム教徒の老庭師との仕事に戻ったが、あるキリスト教徒の富豪宅の庭仕事をしていたとき、地中に埋もれた古い階段を見つけた。

その階段を降りると、砂に埋もれた20個の甕があり、掘り出して蓋をあけあると、中にはぎっしりと金貨が詰まっていた。カマルザマーンは裕福な生まれであり、必要以上の金は不要であったが、この先旅を続けるための費用もかかる。このため、半分を庭師にやり、残りを自分の取り分とすることにした。

その日、おりしも、港にはイスラム船が入港した。船主に聞くと行先は、ハーレダーンの途中にある黒檀の島だという。これぞ神の思し召しと喜び勇んだ彼は、その日得たばかりの金を船主に差出し、自分を故国まで送り届けてくれるよう頼んだ。

船主は山のような金貨を目にしてほくそえみ、ほかに荷物はないか、とカマラルザマーンに尋ねた。そこで彼は、その日掘り出した甕の上の方に、ありったけのオリーブを詰め、船に載せるよう船首に頼んだ。そして、そのうちの一つの甕の底に紅瑪瑙を隠し、表にはカマラルザマーンと自分の名前を彫った。

船主は彼がなぜオリーブにこだわるのかを訝ったが、その理由は告げなかった。しかし、これは彼が用意した万一の時の備えであり、のちに大きな意味を持つことなる。

こうしていよいよ船が出港する時間となったが、そのとき、ここで世話になったイスラム教の老庭師が急死した、という知らせを受けた。葬儀に出席すれば船に間に合わなくなってしまう。しかし、義理堅い彼には世話になった老人の弔いへの出席を取りやめることとはできなかった。

カマラルザマーンを乗せないまま船は港を発し、数週間のちに黒檀の島に入港した。船にはさまざまな異国の物資が積まれており、港に着くと、船主はそれを売りさばくため、さっそくそこに市を立てた。

黒檀島の国王となっていたブドゥール姫は、行方不明の夫の故国に行くこともできず、かといって義父のアルマノスにも彼を欺いていることを言い出せず、やるせない日々を送っていた。そんなとき、珍しく港にイスラム船が入ると聞き、もしかしたら夫の消息が得られるやもしれずと思い、その市にも出かけた。

男装のまま、市を見回りながら、それとなく夫の情報を聞きまわったが、良い話は得られず、帰ろうとしたとき、彼女の大好物のオリーブが入った甕が目に入った。そしてその全てを買占め、城に持ち帰り、料理番に、良いものと悪いものを仕分けするよう命じた。

料理人が甕の中のオリーブを順番にざるに空けていると、ひとつの甕の底から紅瑪瑙のお守りが出てきた。貴重なものと思われたが、正直者の料理人は、それを大臣に告げ、大臣がお守りを持ってそのことをブドゥール姫に伝えにやってきた。

驚いたブドゥール姫は、急いでお守りが入っていたという甕を持ってこさせた。すると、そこには愛する夫の名前が刻まれており、さらに驚いた。船長を問いただすと、甕を船に積むように命じたのは確かに若い男だったという。

これからハーレダーンに向かうので、と渋る船長に対し、ブドゥール姫は金を渡し、その男をここに連れて来るよう命じた。こうして、船長はカマラルザマーンがいた港に戻り、異教徒の町から無事、彼を救い出して帰ってきた。

船が港に着いたという報を聞いたブドゥール姫は、転がり落ちるように城から港までの坂道を走って下りて行った。港についたばかりの船からは、髭ぼうぼうとなった男が降りてきた。その姿を見て別人かと思ったが、その目を確かめると、すぐに愛する夫だと悟った。

二人が離れ離れになってから数年が過ぎていた。カマラルザマーンもまた、男装のブドゥール姫に気付かず、最初戸惑ったが、ついにはそれと気付き、二人は熱い抱擁を交わした。

こうして、カマラルザマーンは、故国ハーレダーンに無事に帰還し、父王シャハラマーンに長い長い旅の報告をした。そして、ブドゥール姫を第1の正妻とし、ハイヤート・アルヌフース姫を第2の正妻とすることを許され、国王の地位を父から継いで、その後も幸せに暮らした。

かつて妻のブドゥール姫が王位を継承した黒檀の島の国と彼女の故国エル・ブフール、エル・クスールもまたカマラルザマーンの統治するところとなり、その後も末永い繁栄を誇ったことは言うまでもない。




千夜一夜

11月も半ばを超えようとしています。

メディアからはあちこちの紅葉の進み具合が寄せられてきますが、ここ伊豆ではまだそれほど赤くなっていないようです。

先日、紅葉を撮影しようと天城峠下の滑沢渓谷へ出かけたところ、ほとんどのモミジがまだ濃い緑色をしていました。

色づき始めるまでには… そう、あとまだ10日以上はかかるのではないでしょうか。

秋に葉を赤や黄色に染めるのはだいたい広葉樹です。その色づきの具合は、冷え込みと太陽光に関係しており、朝晩の冷え込み、日中の日差しが強くなると紅葉が始まります。

夏の間、葉に溜め込まれた養分はこの時期、幹の方に移動し、次の春に向けて樹木本体の成長に備えます。そして、葉と枝の間には「離層」ができ、水や栄養分の行き来がなくなり、「落葉」の準備ができます。

このとき、カエデなど赤く色づく植物は、葉に取り残された栄養分が光に反応して赤い色素(アントシアニン)を作ります。これが紅葉の仕組みです。ところが、夏の間、晴天が続く年には鮮やかな赤に染まりますが、曇りや雨の日が続くと、色づきが悪くなります。栄養素のアントシアニンが蓄積されないためです。

今年の夏は長いあいだ不順が続いていました。関東では1ヶ月以上晴れ間が出ない時期もあったようですが、ここ伊豆はそれほどでもないにせよ、やはり晴天は少なかったようです。なので、今年はあまりきれいな紅葉は期待できないかな、と思ったりもしています。

とはいえ、今朝のように冷え込みが激しいと、あぁこれでまた天城や湯ヶ島の紅葉が一段と進むだろう、とついつい思いが馳せます。フォトジェニックな光景があそこにもここにもあるに違いない、と想像すると、家にいるのがもったいなく、落ち着きがなくなります。

私にとっては一年間で最も活動的な時期かもしれません。気温も適度で、それほど着込むこともなく、精力的に野外活動が楽しめます。紅葉だけでなく、朝晩の空模様や山生の様子も美しく、どうしてもカメラを持ち出す機会が増えます。結果として、シャッターを切る回数も増え、かくしてサーバーのストレージはどんどんと減っていきます…

このように日中の活動が活発なせいもあり、夜はこれがまたよく眠れます。布団に入るのが心地よく、夜中にトイレにいかなければ、いくつもいくつも夢を見ます。

今朝方も妙な夢をみました。昔の上司やら亡くなった父やらが登場し、何やら複雑な人間関係の中でありえないことが次々起こる、といった夢でした。もっとも、本人にはなにやら意味深な夢であったように思えても、人に話すとふーん、そうなの、で終わってしまいそうな類のものです。

こうした脈略のない夢は誰しもが見ると思います。それを取りまとめたようなものも古今東西ゴマンとありますが、たいていは陳腐なものになりがちです。しかし、その中でも群を抜いて完成度の高い印象があるもののひとつに「千夜一夜物語」があります。

イスラム世界における説話集で、「アラビアンナイト」の名称でも広く知られています。アラビア語の題名は「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」といい、alfが「千」、laylahが「夜」、waは接続詞「と」で、その直訳は「千夜と一夜」になります。

3~7世紀に勃興したサーサーン朝時代に、ペルシャ・インド・ギリシャなど各地の民話が集められたものが元になっています。サーサーン朝というのは、現在のインド西部、アフガニスタンからエジプトに至る、いわゆる中東といわれる地域であり、通称として「ササーン朝ペルシャ」とも呼ばれる王国です。

その後、8世紀後半に、新都バクダッドがイスラーム帝国の中心都市として整備され始めた以降、千夜一夜物語はアラビア語に翻訳され、9世紀にはその原型ができたとされます。

この写本を、ルイ14世に仕えていたフランスの東洋学者アントワーヌ・ガランが、アラビア語から仏語に翻訳しました。そして1704年に「千一夜」として出版したのがきっかけにヨーロッパ中にブームが起きました。

以降、世界中で翻訳されて広まることとなりますが、日本では、1875年(明治8年)に初翻訳され、「千夜一夜物語」「アラビアンナイト」の呼称が定着しました。以来英語・フランス語などのさまざまなバージョンからの重訳が行われました。




日本ではこのなかでも有名な説話が児童文学に翻案されて親しまれました。そして「千夜一夜物語」という呼称よりも、よろエキゾチックな「アラビアン・ナイト」の名のほうが親しまれるようになりました。

ペルシャの王に対して、その妻が毎夜物語を語る形式を採るこの話は、千夜一夜の名の通り、1001話あるかといえば、そうではありません。アントワーヌ・ガランが翻訳に使用した「千一夜」のアラビア語の写本は282話しかなく、また結末はなかったそうです。

しかし出版以降、「千一夜」を目標に、ガランを含む多くのヨーロッパ人によって次々と話が追加されました。その中には、アラジンと魔法のランプ、シンドバッドの冒険、アリババと40人の盗賊、空飛ぶ絨毯などなど、ディズニー映画の原題になったものが多数含まれています。しかしこれらは元のアラビア語の原本からかなり歪曲されています。

とくにその結末には、いくつもの創作の手が加えられたものが多く、出版社によってその脚色内容もかなり異なっているようです。

ただ、1984年に、「千一夜物語研究」で有名なムフシン・マフディーが発表した「初期アラビア語版による千一夜」は、本来の「千一夜」に一番近いものだとされているようです。イラク系アメリカ人だった彼は、先祖であるアラビア人の歴史、文学、哲学に精通し、それを正確に後世に伝えようとしました。

マフディーなどが編纂した、こうしたオリジナルに近い千夜一夜物語は、ペルシャ・インド・ギリシャなど様々な地域の物語を含み、当時の歴史家の書いた歴史書とは異なり、中世のイスラム世界の一般庶民の生活を知る一級の資料でもあります。

その理由は、冒険商人たちをモデルにした架空の人物らが主人公として登場する一方で、ササン朝ペルシャ以降で最も隆盛を誇ったアッバース朝(中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝・750年 – 1517年)の王、その妃などの実在の人物が登場するためです。

なかでも、アッバース朝・第5代カリフ(イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)、ハールーン・アッ=ラシード(763~809)は、全盛期のアッバース朝に君臨した偉大なる帝王として語り継がれている人物です。

彼は、796年には宮廷をユーフラテス川中流のラッカに移転させ、治世の残りをラッカに築いた宮殿で過ごしました。

ラッカといえば、イスラム国が占領した拠点として世界中に知られるようになりましたが、当時も農業の中心・交通の要所で、シリア・エジプトやペルシャ・中央アジア方面の軍の指揮に適した軍事上の要衝であり、東ローマ帝国の国境に近い戦闘の最前線でもありました。

ハールーンは797年、803年、806年と3度にわたって行われた東ローマ帝国に対する親征でいずれも勝利を収め、アッバース朝の勢力は最盛期を迎えました。文化の面では学芸を奨励し、イスラム文化の黄金時代の土台が築かれたことで知られています。

それほど隆盛を誇った時代の王であったこともあり、千夜一夜物語の第9話にも、ハールーンが実名出てきます。しかし、千夜一夜物語は、別のサーサーン朝の王、“シャフリヤール”と呼ばれる架空の王の逸話から始まります。

そんな千夜一夜物語はいわゆる「枠物語」の手法で描かれており、これは、大枠の話の中に、より小さな物語を埋め込んだ入れ子構造の物語のことです。

導入的な物語を「枠」として使うことによって、ばらばらの短編群を繋いだりそれらが物語られる場の状況を語ったりするような物語技法です。こうしたフォーマットはさまざまな語り手が自分の好きな話あるいは知っている話を語り、一方で語りたくないものは語らず、他の場所から聞いた話を付け加えることもできるという融通性を持っています。

作者が以前から温めていたストーリーを短編にして、長い物語の中に組み込むのにも都合のいい形式でもあり、サーサーン朝時代に、アラブの各地から集められた民話を編集するのにも都合のよい形式であったわけです。



さて、その「枠」にあたる冒頭の話はこんな風に始まります。

昔々、ササン朝ペルシャに“シャフリヤール”という王がいました。王は東にあるインドや中国も攻略し、ここを手中に治めるほどの勢力を誇っており、その弟の“シャハザマーン”は主にペルシャ北部の都市サマルカンドを治めていました。

この二人は仲の良いことで知られ、あるとき兄のシャフリヤールはむしょうに弟に会いたくなり、サマルカンドに使いをやって、自分の都に呼びよせました。

この呼びかけに答え、喜んで兄のもとに向け出発しようとしたシャハザマーンですが、その出がけに兄への贈り物を忘れた事に気付きます。急いで宮殿へ取って返し、贈り物が置いてある部屋に向かおうとしたところ、思いがけなく、彼の妃が一人の奴隷と浮気の最中であるところを目撃します。

激高した彼は、思わず腰に差していた刀で、行為の最中である妃と奴隷を刺し殺そうとしますが、思いとどまり、心を落ち着け直してから再び兄の国への訪問をつづけました。しかし、その道中、妃への憎しみとそれを殺めようとしたこと、あるいはそれを果たせなかったことなどなどの想いにさいなまされ、ひどく塞いでしまいます。

それでも兄の国に辿りつき、そこで兄一家から歓待を受ける間、ようやくその傷心が癒えようとしたころ、兄は所要あって、しばらく外出すると知らされます。兄の留守の間、なすこともなく漫然と過ごしていましたが、そんな中、シャハザマーンは今度は、兄の妃が二十人もの男奴隷と関係を持っていることを知ります。

さらには二十人の女奴隷も含めて淫靡な行為をしている現場を実際に目撃し、痴態の限りを尽くす彼らを見て呆然とします。

しかし逆に、自分に起きた出来事はこれに較べればまだましだ、と思い直し、しだいに元気を取り戻します。そんな折、兄のシャハリヤールが帰ってきますが、妙に元気になったように見える彼を見て、不審に思います。

折を見ては理由を聞き出そうとしますが、兄想いの弟はなかなか口を割りません。そこで酒を飲ませ、リラックスさせたところで、ようやく理由を聞き出すことができました。しかし、事実を知って驚きを隠せないシャハリヤール。それでもまさかと思い、妻の寝所に忍び込みますが、さらに自分の目でそれを見るところとなり、改めて妻の不貞を知ります。

状況を弟に話すと、弟も涙を流しながら、自分の身の上に起こったことを話し始めました。二人とも同じ境遇にあることを知り、共感した彼は、何もかもいやになり、流浪の旅に出よう、と弟に持ちかけ、彼もこれに同意します。

こうしてあてどもない旅に出た二人ですが、くる日もくる日も歩き続け、ある日海辺に出ました。そこにあった一本の木の下で休もうと、横になったとき、ターバンを頭に巻き、大きな刀を腰にさした大男が遠くからやってくるのが見えました。

その風体を見た二人は、これはきっと危ないヤツに違いない、と急いで木に登って見ていると、男はどんどんと近づいてきました。しかし、彼らには気が付かず、木の下の日陰に長々と絨毯をひくと、そこで彼らと同じように横になって眠る用意を始めたではありませんか。

実は彼、この地に棲む「魔神」でしたが、昼寝をするにあたって、頭の上のターバンの中から櫃(ひつ)をポンッと取り出しました。するとその中から非常に美しい乙女が飛び出てきて、慣れた様子で彼の前でひざまづきました。

魔神はうれしそうに、その膝枕のうえで魔神は眠り始め、すぐに大きないびきをかきはじめました。そのとき、乙女がふと目をあげると、そこに二人の男がいるのに気づきます。ニヤリと笑った彼女は、魔神の頭を敷いていた絨毯の上に移し、彼らに小さな声で呼びかけました。

「ねえそこにいるお兄さんたち、ちょっと私といいことしない?」と、見た目とは大違いのその呼びかけに二人は戸惑いますが、その次に彼女がしらっと言った言葉にさらに驚愕します。

それは、もし私と ”しなければ” 魔神を起こしておまえたちを殺させる、というもので、怯えた二人は彼女の言うとおりにせざるを得ませんでした。

しばらくして、コトが済んだ乙女は、満足したかのように今度は、自分の身の上話を始めました。それははじめ、自分は婚礼の夜に魔神にさらわれてきて今に至る、といったことでしたが、続けて彼女が言った内容は驚くべきものでした。

それは、これまで魔神が眠っている隙に彼女が570人の男たちと性交した、ということ、彼女が「それ」をしたいと思えばどんな者もそれにあらがえなくなること、なんとなれば何者であろうが、彼女の思い通りになってきたこと、といったことでした。

目の前にいる見目麗しい美女が、自分たちがこれまで経験してきた以上の淫乱な行為をしてきたことを聞かされたふたり。そして、こんな恐ろしい魔神でさえ自分達よりもさらに酷い不貞に遭っていることに驚嘆し、改めて自分たちはまだましだ、と思い直します。



こうして、いよいよ女性不信を募らせた二人はそれぞれの都へ帰っていきました。

そして、宮殿に戻った兄のシャハリヤールが最初にやったことはといえば… 妃、そして彼女と痴態を繰り広げていた男女の奴隷達をひっとらえ、彼らすべての首を刎ねさせることでした。

そして大臣に毎晩一人の処女を連れて来るよう命じ、その夜から処女と寝ては翌朝になると殺す、ということを繰り返すようになりました。こうして、バクダッド中のあちこちから処女が集められ、王の伽をするようになりましたが、3年もすると、もうこの都から若い娘は姿を消してしまいます。

しかし、それでも王は大臣に処女を連れて来いと命じ、さもなければお前の首を刎ねる、と言い出したので、大臣はすっかり頭を抱え込んでしまいした。

この大臣には娘が二人いましたが、恐怖にさいなまされ、悩み、やつれていく父を見て、姉娘のシェヘラザードは一計を思いつきます。

彼女は、自分を王に娶合わせるよう父に進言。驚く父でしたが、なんとかなる、と彼をなだめながら言うので、大臣もしぶしぶそれを認めます。

こうして、王のもとに参上したシェヘラザードですが、その伺候にあたっては、妹のドニアザードを呼び寄せておく、という下準備をしていました。

そしてその夜がやってきました。シェヘラザードは自ら王と一晩を共にするため、王の閨(ねや)に行きますが、床に入る前に、最愛の妹ドニアザードへ別れを告げたい、と王に頼み込みます。このため、ドニアザードもまた閨にやってくることになりましたが、実は、シェヘラザードは、妹にある依頼していました。




こうして、古今の物語に通じているシャハラザードは国中の娘達の命を救うため、自らの命を賭けて王と妹を相手に夜通し語り始めました。千夜一夜の始まりです。

実は、シェヘラザードが妹のドニアザードにしていた依頼とは、物語を語るのが得意なシェヘラザードが小話を終えるたびに、合いの手を入れてくれ、ということでした。行為のあと、王は横になってシェヘラザードの最初の話に聞き入りましたが、話が終わると、すぐにシェヘラザードの首を切ろうとします。

そこへ、居合わせた妹のドニアザードが、すかさず「お姉さまのお話はなんて味わい深いのでしょう!」と口を挟みました。そして次の話をするよう姉に促したので、王もしぶしぶ刀から手を放し、じゃあ次のを聞いてからにしようか、と思い直しました。

こうして、朝がくるまで何度も何度も話が終わるたびにドニアザードの手助けが続き、そうこうするうちには、窓の外はすっかりと明るくなりました。そこでようやくシェヘラザードは口をつぐみ、そして、慎み深く王に対して言いました。「明日お話しするお話は今宵のものより、もっと心躍りましょう。」

これを聞いた王もまた満足し、新しい話を望んでシェヘラザードを次の夜まで生かしておくこととしました。こうして、何夜も何夜も同じような心躍る夜が過ぎていきました。

そして、千とひとつの夜が明けるころまでには、王とシェヘラザードの間には三人の子ができていました。

王妃となったシェヘラザードによって、王は説話を楽しむことができ、後継者まで得ました。しかし、それだけではなく、慎み深く思慮深いシェエラザードから、仁徳と寛容さとは何であるかを教えられ、王としてふさわしい風格を身に付けていたのでした… 続く(かも)




星の瞬くころに

11月になり、気温もかなり下がってきました。

ついこの間まで、やかましく鳴いていた虫の声もしなくなり、夜更けに外へ出ると、そのかわりのように賑やかにきらめく星々がみえます。

星のまたたきのことを“シンチレーション”と呼びます。子供の頃に読んだ科学読本か何かで知りました。

「星像のゆらぎ」を意味する天文用語で、天体観測記録をつける際に、5段階や10段階評価でこれを併記します。客観的評価点で記し、たとえば、3/5や2/10といった風に書きます。

評価が高いほど数字は大きくなり、これすなわち、揺らぎが少ない、という意味です。天体観測をする場合は、当然数字が低く、揺らぎが少ない方が良いとされます。

シンチレーションが少ないことを、別の言い方でシーイング(seeing)が良いと言い、その逆はシーイングが悪い、といったふうに表現します。

意外なのですが、どんよりとした空のほうが、シーイングが良く、これは大気が安定しており、気流が穏やかなので揺らぎは少なくなるためです。従って、春霞や梅雨の時期は晴れさえすればよいシーイングが得られます。

逆に、冬空のように透明度が高いとシーイングが悪くなります。前項と逆のパターンで、「雲がない」=「上空で強い風が吹いている」ということになり、大気が安定しないためです。冬のよく晴れた日はきれいな空ではあるのですが、シーイングは軒並み悪く天体観測には厳しい条件です。また、冬によく星が瞬くのはこのためでもあります。

シンチレーションの主な原因は、大気の揺らぎなどによる空気の屈折率の微小な変化によるものです。近いものは望遠鏡内部の対流や人の体温による対流から、遠いものはジェット気流に至るまで、至る所に発生原因が潜んでおり、予測しにくいことから、望遠鏡の地上からの観測精度の限界のボトルネックになっています。




現在ではこれを克服するために、大きな望遠鏡などには「補償光学系」と呼ばれる技術が開発され、導入されています。これは、大気の揺らぎ等によって生じる星像の乱れ、シンチレーションをセンサーで捉え、電子制御回路を使って、揺らぎを抑えるべく望遠鏡の鏡を直接変形させる技術です。

我々アマチュアが使うような天体望遠鏡の鏡は固定されていますが、国立天文台の「すばる望遠鏡」のようなクラスになると、最新のエレクトロニクス技術に基づく、32ものセンサーが取り付けられており、屈撓(くっとう)性のある可変形鏡を用いたリアルタイム・補償光を行うことができます。

国立天文台などの研究チームが2012年に初めてすばる望遠鏡でこの高性能補償光学装置による可視光線での観測に成功し、従来よりさらに高い観測精度を得ることに成功しました。

国立天文台はさらにその後、人工星(レーザーガイド星)を使った更に高精度な補償光学系を開発しました。

従来の補償光学装置では、観測対象となる天体の近くに明るい星がある場合、それを基準(ガイド星)として大気の揺らぎを計測し、これをシステムにフィードバックすることによって鏡を変形させて観測精度を向上させます。

しかし、観測対象としたい天体のほど近くにそうした明るいガイド星があることはむしろ少なく、そこで、レーザーを用いて人工的にガイド星の代用にできる光点を生成します。これがレーザーガイド星です。具体的には夜空に向けて、強力なレーザーを照射して人工星を創出します。

人工星を創りだす???と疑問の向きも多いでしょうが、そのしくみはこうです。

地球の表面から高度90~100kmには「ナトリウム層」と呼ばれる層があります。この層は5 km ほどの厚みを持ち、主に地球に降り注いだ隕石が蒸発したことによって生成されています。

細かい化学的説明は省くとして、いわば大気圏内に隕石が蒸発してできた霞のような層です。ここに、強力なレーザー光を当てると、この層が約12等星相当の光を放ちます。こうしてできた人工星を補償光学のために使う、というわけです。



こうした最新の技術による新型補償光学装置を使ったすばる望遠鏡による観測は、2006年10月にファーストライト(初観測)に成功し、以来、素晴らしい成果をあげ続けています。

2014年11月には、我が国の観測史上、最も遠い宇宙をこれまでにない感度で探査し、ビッグバンからわずか7億年後 (131億光年先) の宇宙にある銀河を7個も発見するという快挙を成し遂げました。

このすばる望遠鏡は、アメリカ・ハワイ島のマウナ・ケア山山頂(標高4,205m)にあります。1999年1月がファーストライトで、建設が始まった1991年に望遠鏡の愛称の公募が行われ「すばる」の名が選ばれました。

主鏡に直径8.2m、有効直径(実際に使われる部分の直径)は8.2mもあり、当時世界最大の一枚鏡をもつ反射望遠鏡でした。残念ながら、その後大きさではその後、アメリカリゾナ州南東部のグラハム山の標高10,700フィート(3260メートル)に抜かれています。

この望遠鏡は、「双眼望遠鏡」であり、すばる望遠鏡と同じ大きさの8.4m鏡を2枚使ったもので、合成した有効直径は11.8mとされます。またスペイン領ラ・パルマ島のロケ・デ・ロス・ムチャーチョス天文台にあるカナリア大望遠鏡も分割鏡で、合わせた有効直径10.4mとなり、すばるより大きいとされます。

しかし、すばる望遠鏡は、単眼鏡の天体望遠鏡としては現在でも世界最大です。またハワイ以西のアジアでもこれより大きな望遠鏡はなく、「世界最大級」であることには間違いありません。

日本の国立天文台がマウナケア山頂にすばる望遠鏡を設置したのは、ここが天候が安定し、空気が澄んでいるためです。現在、日本だけでなく、世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台(マウナケア天文台群)を設置しています。しかし、ハワイ原住民との取り決めから、13基以上の天文台を建設しないことになっています。

数多くの天文台を創ることで、希少な自然が破壊されることを恐れてのことです。近年マウナ・ケアへの望遠鏡の建設は法的および政治的な論争の種となっており、地元の先住民と環境活動グループはさらなる望遠鏡の建設に反対しています。環境ダメージを引き起こし偉大な文化的重要性を持つこの地を汚すことになる可能性があることが理由です。

このため、現状では、各国との取り決めにより、今後新たに天文台を建設する場合は、既存のものを取り壊すか新たな了承を取り付ける必要があります。地元ハワイの住民はその自然環境や歴史性の維持を求めているわけですが、各国もそれに答えています。

神話によると、マウナ・ケアの山頂は雪の女神ポリアフと多くの他の神々の住まう地であるといいます。ここは祈り、埋葬、子供の清め、および伝統的天(宗教的)体観測にも重要な場所です。

それに加えて、山頂地域は固有種の昆虫、ウェキウ・バグ の棲息地であり、開発による影響が議論されています。この虫は、カメムシの一種らしく、上昇気流によって山頂へと飛ばされてきた昆虫を食べるという、かなり特殊な生物のようです。

このマウナ・ケア山はハワイ島を形成する5つの火山のうちの1つです。ハワイ語でマウナ・ケアとは「白い山」の意であり、冬になると山頂が雪に覆われることから名づけられました。

マウナ・ケアの山頂は更新世(約258万年前から約1万年前までの期間)の氷期のあいだ巨大な氷帽によって完全に覆われていました。

山頂には過去30万年間に少なくとも4回の氷河エピソードがあったことを示す証拠が残されていますが、更新世というのは、アフリカなどでようやくヒト属が原人として進化した時代であり、無論この時代にハワイ島に人類はまだいません。




その後ハワイの住民となった人々は、19世紀にアメリカの宣教師がアルファベットを伝えるまで、文字を持たない文化を形成していました。このため、「いつ彼らがハワイ人になったか?」という問いに応える歴史文書は存在していません。

しかし、言語学的な推測、ハワイ島をはじめとする島々の熔岩に描かれたペトログリフ(岩面彫刻、岩石線画)などの研究から、最初にハワイへやってきたのは南太平洋に住んでいたポリネシア人であると考えられており、同じ地域に住む、マオリやタヒチ人と同じ起源にさかのぼることができそうです。

その年代については諸説があり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前500年前後から8~9世紀頃までと、時間的にはかなり幅広い説があります。

ハワイ島南東部のカウ地区には、長さ13 km、幅18 m、深さ18 mの深い裂け目があり、グレート・クラックと呼ばれています。噴火によって形成された割れ目ですが、ここには、道、岩壁、および、考古学遺跡が見つかっています。おそらくは、この割れ目を利用した居住区があったのでしょう。

住んでいた住民は、南太平洋にあるマルケサス諸島、あるいはタヒチといったところから航海カヌーでハワイ島に移り住み、こうしたところを住居として選んだと考えられます。

ハワイには、「クムリポ」と呼ばれる神話が残されています。ハワイ王国の王家に代々伝えられてきた創世神話で、クムリポとは「起源」を意味するハワイ語です。18世紀の初頭に時の王子の誕生を祝って編纂されたとされ、日本における古事記にも相当する壮大な叙事詩だそうです。

宇宙の起源から歴代の王の業績に至るまでが16パート2102行にわたる散文で語り継がれており、文字を持たなかったハワイではこれら全てが口承によって秘密裡に伝えられてきました。ハワイ王国第7代カラカウア王が崩御前年の1889年に公表され、妹のリリウオカラニ女王が退位後の1897年に英訳することにより、世界的に有名となりました。

この神話クムリポからも考古学的な考察と検討が行われており、こうした伝承神話や言語学的見地、歴史遺構やなどからの類推により、ハワイにやってきたポリネシア人はカタマランやアウトリガーカヌーを操り、900年ごろに定着したのではないか、といわれています。

900年というと、日本ではこの時代の天皇は醍醐天皇であり、901年(昌泰4年)に、菅原道真が大宰府に左遷されています(昌泰の変)。余談ですが、遣唐使は寛平6年(894年)にこの菅原道真の建議により停止されました。それまで遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の伝播に大いに貢献していました。

日本では国際化に歯止めがかかった時代に、海の向こうのハワイでは、海外との交流がより促進されていた、という真逆の流れがあったところに歴史の面白さを感じます。

このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われました。「ホクレア号」といい、17人の男女が乗り込んだ丸木舟は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明しました。

しかし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフを紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示するものはあっても、その明確な記述はありません。それまで居住していたポリネシアの島々が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放された、などなどいろんな仮説が打ち立てられていますが根拠はありません。

ただ、彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物をハワイ諸島へ運び込んだことはわかっており、この「大航海」は14世紀頃まで続きました。

フラをはじめとする古きハワイの文化も、この交流の過程でもたらされたと考えられています。フラ(hula)とはフラダンスに代表されるハワイの伝統的な歌舞音曲のことで、厳密にはダンスだけでなく、演奏、詠唱、歌唱の全てが含まれます。フラは総合芸術であると同時に宗教的な行為でもあり、日本の能楽と似ています。

ハワイでは、12世紀頃に族長(アリイ)による土地の支配と統制がはじまりました。その後成立する「ハワイ王国」の前の段階の階級社会です。アリイを頂点とし、そのサポートを神官(カフナ)が行いました。そして、その下に職人や庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)がといった階級の人々で構成される社会が誕生しました

アリイはヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされ、絶対的な権力を持っていました。

また、最下級の奴隷、カウバは共同生活の規律を乱す犯罪者がそれとされますが、主には他の土地の捕虜によって構成される階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていました。時にはカフナの行うまじないごとの生贄とされることもあったといいます。

そうした中、1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワイメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たしました。

クックは、上官の海軍本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名します。しかし、クックがサンドウィッチ諸島と名づける以前より、現地ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していました。

この頃のハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われており、ハワイ島ではカラニオプウという大族長が、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していました。

大族長は世襲制であったため、ハワイ島では、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承しました。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるのが、かの有名なカメハメハです。彼はこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けました。

これに立腹した大族長カヘキリの息子、キワラオはカメハメハに戦争をしかけましたが、ハワイ島、西海岸のケアラケクア湾付近で行われた「モクオハイの戦闘」で負傷し、逆にカメハメハによるハワイ島統一が成されました。1790年のことです。



クックたちが、ハワイを訪れたのは、ちょうどこうした部族紛争が勃発していた最中でした。

突然の見たこともない大きな船の到来と、そこに佇む異様な衣を纏う乗組員に先住民は驚きおののきました。ハワイ島の王であったカラニオプウはクックをロノ(ハワイ人の宗教に出てくる4大神のひとりで、農耕と平和の神)の化身と錯誤し、ヘイアウの奥に鎮座する祭壇へ案内し、神と崇めました。

クックは、それまでにも他の探検先で先住民に神と間違えられる、といったことを何度も経験しており、わざわざ先住民らが望みそうな振る舞いを演じてみせたといいます。

ちょうどこのときは、ハワイ住民にとっての新年で、それから4か月間の収穫を祝い、休息の期間とされる「マカヒキ」の期間でした。このため、先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるその祭が執り行われ、クックらにも酒池肉林のもてなしが行われました。

長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、約3週間宴に興じたといいます。その後クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へと出航しましたが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとしました。

このときもクックたちは彼らに手厚いもてなしを要求します。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始めます。こうして、先住民らの中でもこうして懐疑的で過激な者たちは結託し、険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしました。

こうした動きに恐れをなしたクックは、大族長のカラニオプウを人質として拘束するという暴挙に出ます。この諍い(いさかい)はついに、乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックはついに4名の水兵と共に殺害されるに至ります。ディスカバリー号を率いていた腹心チャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取りました。

ところが、このクラークもその航海中、結核で死亡したため(8月)、その後は英国海軍の将校、ジョン・ゴアが指揮を取り、イギリスに帰還。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめました。

その後もハワイ王国は、カメハメハ大王の元に隆盛を極めますが、カメハメハが1819年に他界すると、長男のリホリホが王位を継承しました。しかし、生前、彼の執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設しており、その地位についた神官とリホリホの間で対立が続き、ハワイ王国は波乱の時代を迎えます。

そんな中、1820年アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドより、ハワイ島北西部のコハラに到着。そこで彼らが見とがめたのは、ハワイ先住民たちのモラルの低さでした。

男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、欧米の聖職者からみれば無知で野蛮、非人道的なものであると理解するに十分でした。

こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みました。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第にハワイ諸島全体の教育、政治、経済の各分野へ広がっていきました。

その後、こうしたアメリカ文化は徐々にハワイ王国に浸透していくと同時に、アメリカ人の支配的な体制が強まっていきます。1893年にはついにハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言されますが、その5年後の1898年にはついにハワイ併合が実現。それまでの暫定政府だったハワイ共和国はアメリカ合衆国へ併合されました。

一方、このアメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多数居着いていた日本人労働者はその過酷な労働契約から解放されました。彼らは洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめ、1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住したとされています。

のちに、こうした日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へと繋がっていきます。1907年には転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされました。

ハワイをアメリカの領土の一部から、明確な州として確立させようという動きは、ハワイ王国、カメハメハ3世時代から何度も持ち上がった案件でしたが、それが実現するのは、第二次大戦後の1959年のことです。
それまでに至る間に発生した日本軍による真珠湾攻撃や、その前後の日系ハワイ人の動向についても興味深い事実がたくさんあるのですが、今日はもうこのくらいで。

実はハワイ諸島は、太平洋プレートが北西方向へ、100万年間に51kmという速度で移動しあおり、今も少しずつ日本に近づいています。

なかなかハワイを訪れる機会がありませんが、彼の国のほうから近づいてきてくれているのはありがたいこと。生きているうちの再会を果たしたいものです。

もっともあと何百万年生きられるかはわかりませんが…

潜在意識とは何か

先だってのブログでは、私の過去生の一部と思われる記憶について書きました。

今日は、その記憶を呼び覚ます手助けをしてくれるという、潜在意識について、少し考えてみたいと思います。

そもそも意識とは何か。近代に成立した科学の研究対象としては、曖昧であり、かつ定量的把握も困難とされてきました。心理学においても、意識の定義はきちんとされておらず、心や魂の概念と同様、今日でもその存在を科学的に把握するのは難しいとされています。

しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識している」人にとっては、その存在は自明です。誰かにあなたは意識していますか?と聞かれれば、聞かれていること自体を意識しているのであり、心の概念と同じように意識の概念は確かに存在しているようです。少なくとも「意識が無い」とは考える人はいないはずです。

哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視されてきました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いました。

自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している「我」だけはまちがいなくそこに存在している、という意味です。

「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できません。“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明でもあります。

ひとくちに意識といっても、人間は様々なものを意識しますが、目前で、「意識している」というものは、実は広義の「記憶」でもあります。こうした記憶の再生は、通常、言葉や知識といった形で再現されますが、視覚や聴覚で彩られた「過去の情景」といったかたちで思い出されることもあります。




ところが、こうした記憶は「意識しない」でも日常的に再現されています。複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を意識しないで、機械的に遂行することが可能です。

例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではありません。つまり、「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことを我々はできているわけです。

一方、何かを思い出そうと強く意識していても、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在します。

このとき、記憶を再生しようとする努力が「意識に昇っている」状態といえるわけですが、この思い出そうと努力してなんとか得ることができた記憶、というものは、思い出そうと想起するまでは、どこにも存在しなかったはずです。では、いったいそのような記憶はどこにあったのでしょうか。

無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであり、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされます。

この前意識とは、フロイトの精神分析に由来する深層心理学の概念です。通常は意識に昇りませんが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる領域にあるものです。そこに存在すると考えられる記憶や感情、構造は、通常、意識に昇ることはありません。

何かを「意識している」、または、何かに「気づく」とは、対象が、「意識の領域」に入って来ること、意識に昇って来ることを意味するとも言えます。一方では通常は意識に昇らない記憶があり、これは別の領域にある、ということです。

つまりは、「意識の領域」とは別に「意識の外にある領域」が存在することになり、このような「心の領域」の特定部分を、「前意識の領域」と呼んでいます。

この前意識のことを別の呼び方では「無意識」とも呼びます。

日常的に流れて行く生活のなかで我々が意識する対象は、現前にある感覚・意味・感情といったものですが、その一方では、前述の漢字を書く場合の例の通り、「意識しない」で、機械的に遂行するような行為は「気づくことなく」想起されている記憶に基づくものであり、それはこの無意識から出てきています。

人間は一生のなかで、膨大な量の記憶を大脳の生理学的な機構に刻みます。そのなかで、再度、記憶として意識に再生されるものもありますがが、大部分の記憶は、再生されないで、大脳の記憶の貯蔵機構のなかで維持されています。

このような膨大な記憶は、個々ばらばらに孤島の集団のように存在しているのではありません。「連想」が記憶の想起を促進することから明らかなように、感覚的あるいは意味的・感情的に、連関構造やグループ構造を持っています。

そして、このような構造のなかで記憶に刻まれ、いつ何時呼びさまされても準備ができている限りは、いかなる記憶であっても、再生、想起される可能性は完全なゼロではないことになります。

ところが、実際には、人の一生にあって二度と「意識の領域」に昇って来ない記憶というものは多数存在します。そして、その量は膨大です。再度、想起される可能性がゼロではないにしても、一生涯で、二度と想起されないこのようなこうした記憶は、「意識の外の領域」、「無意識の領域」の中に死ぬまで眠ったままです。

もっとも「意識の外」と言っても、科学的には大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、ここに、そうした膨大な記憶がストックされているものと考えられます。ただ、貯蔵されているだけで、一生使わないものも多数あるのは間違いありません。



さて、ここで「意識」の意味を再度考えてみるとしましょう。それが対象とするものは、目の前にある感覚・意味・感情などの記憶だけではありません。人の頭の中には、その人生で得た経験や学習によって得た記憶がありますが、それ以外にも、生得的または先天的に備えていたとしか考えられない「知識」や「構造」が存在すると考えられます。

その一つの例は、「言語」です。現在の知見では、人間以外の動物ではそれを自由に使うことができません。人間にしか完全には駆使できないものでもあります。世界的に有名なアメリカの哲学者であり、言語学者のノーム・チョムスキーは、人間の大脳には、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっている、と唱えました。

これを「生成文法」といいます。

子供は成長過程で、たくさんの単語を記憶します。この単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶されます。ここで着目すべきは、子供たちは、単語とともにそれまで聞いたことがなく、記憶には存在しないはずの「文章」を、いつのまにやら「言葉」として話すという点です。

「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか、という点にチョムスキーは着目しました。その結果、それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと彼は考えました。

そしてこれを「生成文法」と称しましたが、チョムスキーの考えたこの普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する「整序構造」であるとされます。

これはつまり、子供たちが言語を生成する過程、「言語の流れの生成」は、意識の外、すなわち意識の深層、無意識の領域で、順序立てて整理されている、ということです。

そしてチョムスキーは、人の脳には誰もがこうした言語に関する先天的な構造性があり、それが無意識とか深層意識の中に格納されたまま、世代から世代へと伝えられる、と唱えました。

これが生成文法です。意識の外の領域、すなわち無意識の領域にこうした生成文法を司る記憶や知識や構造が存在し、このような記憶や構造が、意識の内容やそれを意識する人の人生のありように影響を及ぼしているという事実は、今日では仮説ではなく、科学的に実証されている事実でもあります。

さらに、精神分裂病(統合失調症)などの研究より深層心理学の理論を構想したカール・グスタフ・ユングは、「無意識」の中には、個人の心を越えた、民族や文化や、あるいは人類全体の歴史に関係するような情報や構造が含まれているのではないか、と考えました。

ユングは、このような無意識の領域を「集合的無意識」と名づけ、その内容は、決して意識化されないものだ、としました。世代が変わっても伝えられる長期的記憶でもありますが、通常は使われることはありません。ただ、人間の大脳には、それを格納する先天的構造が存在する、と考えました。

ユングによれば、それはある種「神話」なようなものであり、それは人類の太古の歴史や種族の記憶に遡って形成されてきたものだ、といいます。

こうした集合的意識のことを、ユングが提唱した分析心理学(ユング心理学)では「元型 」と呼びます。元型は、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源であり、集合的無意識のなかで形成されます。無意識における力動の作用点でもあり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用する、ともいわれます。

力動(りきどう)とは、正しくは精神力動といい、「心の営み」を生み出す力と力が織りなし、より強固な心を形成していく動きのことをいいます。どのような人でも、葛藤や否認・矛盾など、いくつものネガッちな心の動きを何重にもかさねながら、毎日の生活を精神的に生きています。

たとえば、あなたが、あまりにも雑多なことを考えなければならない状態に置かれており、そのために頭がいっぱいになり、身動きが取れなくなっているとしましょう。まず一歩を踏み出そうと思っても、どこへ向かって歩き始めればわからない、できることならひきこもりになってしまいたい、そんな状態です。

そのとき、外部からあなたを見ている人は、あなたは引っ込み思案でひきこもっているばかりいて、動かない暇な人だと考えるかもしれません。しかし、実はあなたは頭の中、すなわち心の中は忙しく回転しています。

これは、例えればパソコンのCPUが稼働率100%となり、画面がフリーズしているような状態です。このような状態は、たとえば「社会的には忙しくないかもしれないが、力動的には忙しい」と表現できます。

そして、「元型 」こそがその力動を推進しているのであって、意識と自我に対し心的エネルギーを作用させている大元です。




だんだんと難しい話になってきましたが、こうした高次の精神機能に関係する構造こそが、言語能力です。心の葛藤や矛盾を制し、人とのコミュニケーションをとるためには言葉が必要であり、「集合的意識」としてあなたの頭の中に太古の昔から継承されてきたものです。

現在我々が使っている言語はもともと本能数種類の元型から分化したと考えられており、互いに関連のある言語を歴史的に遡っていくとある時点でひとつの言語となります。そしてその言語のことを祖語 (Proto-language)といいます。

とはいえ、現時点では、祖語と呼ばれる言語がいつどのように生まれたのか、生まれたのが地球上の一ヶ所か複数ヶ所かはわかっておらず、生物学的な観点からその起源を探ろうという試みもあるものの、成功していません。

ただ、他の動物にはみられず、人間だけ獲得した能力であり、こうした言語もまた、「高度な無意識」の中で培養されてきたものと考えられています。

しかしそれにしても、こうした祖語にせよ元型にせよ、いったいどうやって我々の体に継承されてきたのでしょうか。

これについては、「遺伝」によるもの、という説もありますが、肉体的なそれならともかく、こうした精神的なものが遺伝によってはたして世代を超えて継承されるものなのかどうかということについては、今日でも科学的にもはっきりとした結論は出ていません。

しかし、スピリチュアル的な観点からは、それは「転生」の中で受け継がれてきたもの、という立場をとります。いわゆる「生まれ変わり」であり、これは「現世で生命体が死を迎え、直後ないしは他界での一時的な逗留を経て、再び新しい肉体を持って現世に再生すること」と定義されます。

そしてこのとき、肉体は新しく生まれ変わるものの、記憶や知識などについては、前の世代から受け継いだものがそのまま継承される、とされます。

このことはヒンドゥー教や仏教では「輪廻」といいます。この輪廻には、人間だけでなく、動物を含めた広い範囲で転生する、つまり人間から他の動物へ、またその逆もあり、と主張する説と、近代神智学が唱えるように人間は人間にしか転生しないという説があります。

が、いずれにせよ、人間は、その転生の過程において、太古からの知識を受け継ぎます。そしてこのように代々受け継がれてきた記憶や知識、そしてその中に含まれる無意識の構造のことを、スピリチュアリズムでは、「潜在意識」と呼ぶことが多いようです。

我々の誰もが持つ潜在意識は、完璧な記憶力を持っており、思考、感情、経験、そして蓄積された知識の倉庫である、といわれます。あらゆる生において、経験し知覚したものはすべて、心に刻まれます。

現在の行動や経験は、過去生の出来事とつながっており、それがなぜ引き起こされるのか、現在生にどのような影響を与えているかを理解するには、その過去生の記憶をひも解くことが重要だ、といわれるのはそのためです。

その昔、ある哲学者が「学習は、以前に獲得した知識を思い出すことから成る」と言ったそうです。

生きることの意味と目的を理解する方法を探るとき、人々はすべての真理は自分のうちにあるということを発見してきました。そして、世代が変わっても継承されるという、こうした自分たちが持っている特別な本質に気付き、やがてそれを「魂」と呼ぶようになりました。

その人生における経験を通して受け継がれる魂は不滅であり、我々の記憶や認識は時間を超えて続きます。こうした考え方に基づけば、死は終わりではなく、魂は何度も生まれ変わり、その都度、別のレベルの認識が生まれる、ということになります。

そして自分が人生の中で行ったことが、別の人生の中に反映され、そのたびに魂は成長していきます。

言い換えれば、魂はその成長のために知識や経験を増やし、その中で以前の人生の中でこうむった否定的な感情や行動を理解し、解決を得るために、何回も生まれ変わる、といえます。

そうした知識を得、魂を完成させてゆくにつれ、より高い意識と精神性の融合が得られる、というのがスピリチュアリズムの概念でもあります。

そして、生まれ変わるたびに継承され、その魂が成長するうえにおいて、常にその手助けをしてくれるのが、潜在意識といえます。

ではどうやったらその潜在意識に働きかけ、過去生を思い出すことができるのでしょうか。

一般的には退行睡眠など心理療法などによってでなければ難しいといわれますが、やりようによっては、日常の生活をしていてもいろいろ思い出せることも多いようです。

その方法論と意味については、また次回以降に書いてみたいと思います。