先だってのブログでは、私の過去生の一部と思われる記憶について書きました。
今日は、その記憶を呼び覚ます手助けをしてくれるという、潜在意識について、少し考えてみたいと思います。
そもそも意識とは何か。近代に成立した科学の研究対象としては、曖昧であり、かつ定量的把握も困難とされてきました。心理学においても、意識の定義はきちんとされておらず、心や魂の概念と同様、今日でもその存在を科学的に把握するのは難しいとされています。
しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識している」人にとっては、その存在は自明です。誰かにあなたは意識していますか?と聞かれれば、聞かれていること自体を意識しているのであり、心の概念と同じように意識の概念は確かに存在しているようです。少なくとも「意識が無い」とは考える人はいないはずです。
哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視されてきました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いました。
自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している「我」だけはまちがいなくそこに存在している、という意味です。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できません。“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明でもあります。
ひとくちに意識といっても、人間は様々なものを意識しますが、目前で、「意識している」というものは、実は広義の「記憶」でもあります。こうした記憶の再生は、通常、言葉や知識といった形で再現されますが、視覚や聴覚で彩られた「過去の情景」といったかたちで思い出されることもあります。
ところが、こうした記憶は「意識しない」でも日常的に再現されています。複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を意識しないで、機械的に遂行することが可能です。
例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではありません。つまり、「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことを我々はできているわけです。
一方、何かを思い出そうと強く意識していても、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在します。
このとき、記憶を再生しようとする努力が「意識に昇っている」状態といえるわけですが、この思い出そうと努力してなんとか得ることができた記憶、というものは、思い出そうと想起するまでは、どこにも存在しなかったはずです。では、いったいそのような記憶はどこにあったのでしょうか。
無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであり、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされます。
この前意識とは、フロイトの精神分析に由来する深層心理学の概念です。通常は意識に昇りませんが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる領域にあるものです。そこに存在すると考えられる記憶や感情、構造は、通常、意識に昇ることはありません。
何かを「意識している」、または、何かに「気づく」とは、対象が、「意識の領域」に入って来ること、意識に昇って来ることを意味するとも言えます。一方では通常は意識に昇らない記憶があり、これは別の領域にある、ということです。
つまりは、「意識の領域」とは別に「意識の外にある領域」が存在することになり、このような「心の領域」の特定部分を、「前意識の領域」と呼んでいます。
この前意識のことを別の呼び方では「無意識」とも呼びます。
日常的に流れて行く生活のなかで我々が意識する対象は、現前にある感覚・意味・感情といったものですが、その一方では、前述の漢字を書く場合の例の通り、「意識しない」で、機械的に遂行するような行為は「気づくことなく」想起されている記憶に基づくものであり、それはこの無意識から出てきています。
人間は一生のなかで、膨大な量の記憶を大脳の生理学的な機構に刻みます。そのなかで、再度、記憶として意識に再生されるものもありますがが、大部分の記憶は、再生されないで、大脳の記憶の貯蔵機構のなかで維持されています。
このような膨大な記憶は、個々ばらばらに孤島の集団のように存在しているのではありません。「連想」が記憶の想起を促進することから明らかなように、感覚的あるいは意味的・感情的に、連関構造やグループ構造を持っています。
そして、このような構造のなかで記憶に刻まれ、いつ何時呼びさまされても準備ができている限りは、いかなる記憶であっても、再生、想起される可能性は完全なゼロではないことになります。
ところが、実際には、人の一生にあって二度と「意識の領域」に昇って来ない記憶というものは多数存在します。そして、その量は膨大です。再度、想起される可能性がゼロではないにしても、一生涯で、二度と想起されないこのようなこうした記憶は、「意識の外の領域」、「無意識の領域」の中に死ぬまで眠ったままです。
もっとも「意識の外」と言っても、科学的には大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、ここに、そうした膨大な記憶がストックされているものと考えられます。ただ、貯蔵されているだけで、一生使わないものも多数あるのは間違いありません。
さて、ここで「意識」の意味を再度考えてみるとしましょう。それが対象とするものは、目の前にある感覚・意味・感情などの記憶だけではありません。人の頭の中には、その人生で得た経験や学習によって得た記憶がありますが、それ以外にも、生得的または先天的に備えていたとしか考えられない「知識」や「構造」が存在すると考えられます。
その一つの例は、「言語」です。現在の知見では、人間以外の動物ではそれを自由に使うことができません。人間にしか完全には駆使できないものでもあります。世界的に有名なアメリカの哲学者であり、言語学者のノーム・チョムスキーは、人間の大脳には、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっている、と唱えました。
これを「生成文法」といいます。
子供は成長過程で、たくさんの単語を記憶します。この単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶されます。ここで着目すべきは、子供たちは、単語とともにそれまで聞いたことがなく、記憶には存在しないはずの「文章」を、いつのまにやら「言葉」として話すという点です。
「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか、という点にチョムスキーは着目しました。その結果、それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと彼は考えました。
そしてこれを「生成文法」と称しましたが、チョムスキーの考えたこの普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する「整序構造」であるとされます。
これはつまり、子供たちが言語を生成する過程、「言語の流れの生成」は、意識の外、すなわち意識の深層、無意識の領域で、順序立てて整理されている、ということです。
そしてチョムスキーは、人の脳には誰もがこうした言語に関する先天的な構造性があり、それが無意識とか深層意識の中に格納されたまま、世代から世代へと伝えられる、と唱えました。
これが生成文法です。意識の外の領域、すなわち無意識の領域にこうした生成文法を司る記憶や知識や構造が存在し、このような記憶や構造が、意識の内容やそれを意識する人の人生のありように影響を及ぼしているという事実は、今日では仮説ではなく、科学的に実証されている事実でもあります。
さらに、精神分裂病(統合失調症)などの研究より深層心理学の理論を構想したカール・グスタフ・ユングは、「無意識」の中には、個人の心を越えた、民族や文化や、あるいは人類全体の歴史に関係するような情報や構造が含まれているのではないか、と考えました。
ユングは、このような無意識の領域を「集合的無意識」と名づけ、その内容は、決して意識化されないものだ、としました。世代が変わっても伝えられる長期的記憶でもありますが、通常は使われることはありません。ただ、人間の大脳には、それを格納する先天的構造が存在する、と考えました。
ユングによれば、それはある種「神話」なようなものであり、それは人類の太古の歴史や種族の記憶に遡って形成されてきたものだ、といいます。
こうした集合的意識のことを、ユングが提唱した分析心理学(ユング心理学)では「元型 」と呼びます。元型は、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源であり、集合的無意識のなかで形成されます。無意識における力動の作用点でもあり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用する、ともいわれます。
力動(りきどう)とは、正しくは精神力動といい、「心の営み」を生み出す力と力が織りなし、より強固な心を形成していく動きのことをいいます。どのような人でも、葛藤や否認・矛盾など、いくつものネガッちな心の動きを何重にもかさねながら、毎日の生活を精神的に生きています。
たとえば、あなたが、あまりにも雑多なことを考えなければならない状態に置かれており、そのために頭がいっぱいになり、身動きが取れなくなっているとしましょう。まず一歩を踏み出そうと思っても、どこへ向かって歩き始めればわからない、できることならひきこもりになってしまいたい、そんな状態です。
そのとき、外部からあなたを見ている人は、あなたは引っ込み思案でひきこもっているばかりいて、動かない暇な人だと考えるかもしれません。しかし、実はあなたは頭の中、すなわち心の中は忙しく回転しています。
これは、例えればパソコンのCPUが稼働率100%となり、画面がフリーズしているような状態です。このような状態は、たとえば「社会的には忙しくないかもしれないが、力動的には忙しい」と表現できます。
そして、「元型 」こそがその力動を推進しているのであって、意識と自我に対し心的エネルギーを作用させている大元です。
だんだんと難しい話になってきましたが、こうした高次の精神機能に関係する構造こそが、言語能力です。心の葛藤や矛盾を制し、人とのコミュニケーションをとるためには言葉が必要であり、「集合的意識」としてあなたの頭の中に太古の昔から継承されてきたものです。
現在我々が使っている言語はもともと本能数種類の元型から分化したと考えられており、互いに関連のある言語を歴史的に遡っていくとある時点でひとつの言語となります。そしてその言語のことを祖語 (Proto-language)といいます。
とはいえ、現時点では、祖語と呼ばれる言語がいつどのように生まれたのか、生まれたのが地球上の一ヶ所か複数ヶ所かはわかっておらず、生物学的な観点からその起源を探ろうという試みもあるものの、成功していません。
ただ、他の動物にはみられず、人間だけ獲得した能力であり、こうした言語もまた、「高度な無意識」の中で培養されてきたものと考えられています。
しかしそれにしても、こうした祖語にせよ元型にせよ、いったいどうやって我々の体に継承されてきたのでしょうか。
これについては、「遺伝」によるもの、という説もありますが、肉体的なそれならともかく、こうした精神的なものが遺伝によってはたして世代を超えて継承されるものなのかどうかということについては、今日でも科学的にもはっきりとした結論は出ていません。
しかし、スピリチュアル的な観点からは、それは「転生」の中で受け継がれてきたもの、という立場をとります。いわゆる「生まれ変わり」であり、これは「現世で生命体が死を迎え、直後ないしは他界での一時的な逗留を経て、再び新しい肉体を持って現世に再生すること」と定義されます。
そしてこのとき、肉体は新しく生まれ変わるものの、記憶や知識などについては、前の世代から受け継いだものがそのまま継承される、とされます。
このことはヒンドゥー教や仏教では「輪廻」といいます。この輪廻には、人間だけでなく、動物を含めた広い範囲で転生する、つまり人間から他の動物へ、またその逆もあり、と主張する説と、近代神智学が唱えるように人間は人間にしか転生しないという説があります。
が、いずれにせよ、人間は、その転生の過程において、太古からの知識を受け継ぎます。そしてこのように代々受け継がれてきた記憶や知識、そしてその中に含まれる無意識の構造のことを、スピリチュアリズムでは、「潜在意識」と呼ぶことが多いようです。
我々の誰もが持つ潜在意識は、完璧な記憶力を持っており、思考、感情、経験、そして蓄積された知識の倉庫である、といわれます。あらゆる生において、経験し知覚したものはすべて、心に刻まれます。
現在の行動や経験は、過去生の出来事とつながっており、それがなぜ引き起こされるのか、現在生にどのような影響を与えているかを理解するには、その過去生の記憶をひも解くことが重要だ、といわれるのはそのためです。
その昔、ある哲学者が「学習は、以前に獲得した知識を思い出すことから成る」と言ったそうです。
生きることの意味と目的を理解する方法を探るとき、人々はすべての真理は自分のうちにあるということを発見してきました。そして、世代が変わっても継承されるという、こうした自分たちが持っている特別な本質に気付き、やがてそれを「魂」と呼ぶようになりました。
その人生における経験を通して受け継がれる魂は不滅であり、我々の記憶や認識は時間を超えて続きます。こうした考え方に基づけば、死は終わりではなく、魂は何度も生まれ変わり、その都度、別のレベルの認識が生まれる、ということになります。
そして自分が人生の中で行ったことが、別の人生の中に反映され、そのたびに魂は成長していきます。
言い換えれば、魂はその成長のために知識や経験を増やし、その中で以前の人生の中でこうむった否定的な感情や行動を理解し、解決を得るために、何回も生まれ変わる、といえます。
そうした知識を得、魂を完成させてゆくにつれ、より高い意識と精神性の融合が得られる、というのがスピリチュアリズムの概念でもあります。
そして、生まれ変わるたびに継承され、その魂が成長するうえにおいて、常にその手助けをしてくれるのが、潜在意識といえます。
ではどうやったらその潜在意識に働きかけ、過去生を思い出すことができるのでしょうか。
一般的には退行睡眠など心理療法などによってでなければ難しいといわれますが、やりようによっては、日常の生活をしていてもいろいろ思い出せることも多いようです。
その方法論と意味については、また次回以降に書いてみたいと思います。