インフルエンザの候

今年ももうあとわずかです。

先日、広島であった姪の結婚式から舞い戻ったばかりの私は、燃え尽き症候群気味で、もう何もやる気がせず、いつもならとっくに済ませている年賀状書きも年明けに回そうか、などと考えている始末です。

そんなこんなで、昨日もぼんやりとしていたら、夕方になって、同じ挙式に出席していた姉から、インフルエンザにかかったという知らせが入ってきました。なんでも、同じく出席していた親戚の何人かや新郎の職場の人たちも罹患したとのことで、どうやら、くだんの結婚式場での感染が疑われているようです。

そちらは大丈夫?ということなのですが、幸い、私自身はケロッとしており、悪いのはいつものように頭だけです。が、この年末の忙しい時期に姉も含め、かかった人たちはどんな思いをしているだろう、と他人事ながら気遣っている次第です。

このインフルエンザ、いわゆる「急性感染症」と言われるヤツです。

感染症とは、寄生虫、細菌、真菌、ウィルスなどの感染により、人間を含む生物全般の「宿主」に生じる症状です。結果生じるのは、無論、「望まれざる反応」であり、この世に存在する病いのほとんどがこうした病原体によって発症するわけで、つまりは「病気」の総元締めといってもいいでしょう。

この中でも、ウィルスのひとつである「インフルエンザウィルス」によって引き起こされるのが、インフルエンザですが、略してインフルと言ったりもします。

「インフルエンザ」の語源は、16世紀のイタリアにあるそうです。当時は感染症が伝染性の病原体によって起きるという概念が確立しておらず、何らかの原因で汚れた空気によって発生するという考え方が主流だったようです。

冬になると毎年のように流行が発生しますが、春を迎える頃になると終息することから、当時の占星術師らは天体の運行や寒気などの影響によって発生するものと考え、この流行性感冒の病名を、「影響」を意味するイタリア語で“influenza”と名付けました。

これが18世紀にイギリスで流行した際に日常的語彙に持ち込まれ、世界的に使用されるようになりました。ただし、現在日本語となっている「インフルエンザ」はイタリア語での読みと違うようで、イタリア語での正しい読みは「インフルエンツァ」に近い語感のようです。




ウィルスによって引き起こされるので、原因は「細菌」とは違うわけです。細菌とウィルスは、実はまったく異なる生物なのですが、しばしば混同して理解されています。細菌によって引き起こされるものは、コレラ、ペスト、ジフテリア、赤痢、といったものです。

その原因となる細菌はウィルスよりも数10倍〜100倍くらいサイズが大きいのですが、違いはそれだけではなく、細菌は自分の力で増殖することができますが、ウィルスは人や動物の細胞の中に入らなければ増えることができません。例えば、水にぬれたスポンジの中で細菌は増えますが、ウィルスはしばらくすると消えてしまいます。

もうひとつの重要な違いは、ペニシリンなどの抗生物質は細菌を破壊することはできますが、ウィルスには全く効かないという点です。インフルエンザにかかると、よく、タミフルなどの薬を処方されますが、これはいわゆる「抗生物質」ではありません。

抗生物質とは、基本的には細菌を殺す薬であり、細菌ではないウィルスには効き目がありません。「抗ウィルス薬」と「抗生物質」が混同されることもありますが、これは誤りです。

インフルエンザの場合の抗ウィルス薬は完全にはウィルスを死滅させることはできません。ウィルスが人の身体の中で増えるのを抑制するだけで、症状を軽減することはできてもウィルスそのものを退治することはできません。従ってインフルにかかったら、基本的には自分の免疫(めんえき)力によって治すしかありません。

一方では、予防的措置として、インフルエンザワクチンというものがありますが、こちらも事前に摂取したからといって、ウィルスを破壊するものではありません。これも人間が元から持っている「免疫機構」を最大限に利用し、ウィルス自身から取り出した成分を体内に入れることで抗体を作らせ、重症化を防ぐ目的に使用されるものです。

なので、ワクチンを打ってもらっても、インフルにかかる場合はかかります。接種を行っても個人差や流行株とワクチン株との抗原性の違い等により、必ずしも十分な感染抑制効果が得られない場合があり、100%の防御効果はないのが実情です。なによりも摂取される側に十分な免疫があるか否かによってその効果は左右されます。

健康な成人でも、ワクチンにより免疫力を獲得できる割合は70%弱だそうです。ましてや体の弱い人はそれ以下の効果しかありません。なお、同時期に2度接種した場合、健康体であれば90%程度まで上昇するといわれているようです。

一方では、ワクチンの接種によって副作用が出る場合もあるようです。100万接種あたり1件程度は重篤な副作用の危険性があるそうで、とくに免疫が未発達な乳幼児では重い後遺症を残す場合があるといいます。そうしたことを認識した上で接種をうける必要があり、米家族医学会では「2歳以上で健康な小児」への接種を推奨しているといいます。

また、すでにインフルエンザに罹っている人に打ってもほとんど効果はないそうで、しかも明らかな発熱を呈しているような人に摂取するのも危険だといいます。このほか、循環器、肝臓、腎疾患などの基礎疾患を有するものや痙攣を起こしたことのある人、気管支喘息患者、免疫不全患者なども「要注意者」だとされます。

もっとも、かつてはこれらのような患者には予防接種を「してはならない」という考え方でしたが、最近では摂取すると「重症化するリスクが大きい」というふうに変わってきており、予防接種することによるメリットのほうがリスクよりも大きいと考えられているようです。



いかんせん、基礎疾患をもっていようがいなかろうが、ともかくその人の免疫力が落ちていたりする場合にはインフルにかかる可能性は高くなります。不幸にして感染した場合、ウィルスが体内に入ってから、通常の場合は2日〜3日後に発症することが多いようです。

ただし、潜伏期は10日間に及ぶことがあるそうなので、現在なんとも感じていない私も正月頃には発病する可能性がないとはいえません。子供は大人よりずっと感染を起こしやすいそうなので、同じ結婚式に出席していた親戚の子供たちの中には、そろそろ発症している子もいるかも。

感染者が他人へウィルスを伝播させる時期は、本人がウィルスにかかって発熱などの発症があった前日から、症状がおさまってのちのおよそ2日後までだそうです。つまり、インフルが治りきらない間は、誰にでも移す可能性があるということであり、十分にその可能性はあります。

では、インフルに感染後に治るまではどのくらいかというと、個人差もあるようですが、だいたい体の中からウィルスが排出されるのには2週間かかるそうで、プラス、症状が軽快してからも2日ほど経つまでは通勤や通学は控えた方がよいといいます。

ということは、くだんの結婚式に出席した人の場合、仮に今発症すれば、正月休みを終えるまでがだいたい2週間ですから、これにプラス2日間の余裕をみて、始業式・仕事はじめの日あたりをパスすればOKということになります。

既に発症している人はアンラッキーだったかもしれませんが、この年末年始をじっくり休みさえすればこの冬のインフルに対する免疫ができることになり、あとは安泰ということにもなるわけです。

もっとも、インフルエンザには主に3つの型があり、症状はそれぞれ違うそうで、回復までの時間にも差があるようです。3つの種類とは、A型、B型、C型の3種であり、今回の我々のものがどれかはわかりませんがん、日本などの温帯では、全ての年齢層に対して感染し、冬季に毎年のように流行します。

で、一番激しい症状を呈するのがA型といわれています。通常一度インフルエンザにかかると、回復の過程でそのウィルスに対する免疫が体内に作られますが、このA型はウィルスの形をどんどん変えて進化し続けるため、今までに獲得した免疫が機能しにくくなります。

ワクチンの予測も立てにくいインフルエンザウィルスであり、症状としては以下のようなものです。

・38℃を超える高熱
・肺炎などの深刻な呼吸器系の合併症
・食べ物や飲み物を飲み込むのが困難なほどの、のどの痛み
・関節痛、筋肉痛




一方、B型はA型よりも軽く、症状としては、「お腹の風邪」の症状に近く、下痢や腹部の痛みを訴える程度の事が多いようです。ただし、人によってはA型に近い激しいものになることもあるとか。かかってしまえばA型だろうがB型だろうが関係ないと思うかもしれませんが、症状の改善方法を探る上でもお医者さんの判断を得たほうがいいでしょう。

また、以前は数年単位で定期的に流行していたようですが、最近では毎年のように流行しており、注意が必要です。もっともA型のように日本全国で流行を起こすようなことはない、と考えられているようです。

最後のC型インフルエンザは、いったん免疫を獲得すると、終生その免疫が持続すると考えられているタイプです。従って、再びかかったとしてもインフルエンザだとは気づかず、ふつうの風邪と思ってしまうかもしれないといい、ほとんどの大人が免疫を持っているため感染しにくく、かかるのは4歳以下の幼児が多いそうです。

また、仮に感染してもインフルエンザとしてはかなり軽症で済むことが多く、症状は鼻水くらいでほかの症状はあらわれないことが多いといいます。

従って警戒すべきはやはりA型ということになりますが、今年はまだ始まったばかりであり、これから大流行になるかどうかは、なんともいえない、といった状況のようです。

通常、11月下旬から12月上旬頃に最初の発生、12月下旬に小ピークで、学校が冬休みの間は小康状態で、翌年の1-3月頃にその数が増加しピークを迎えて4-5月には流行は収まるパターンです。ただ、今年はニュースでも話題になったように、ワクチンの供与が遅れているようで、その影響が心配されます。

インフルの感染経路ですが、主に次の3つのルートで伝播するといわれています。

1.患者の粘液が、他人の目や鼻や口から直接に入る経路
2.患者の咳、くしゃみ、つば吐き出しなどにより発生した飛沫を吸い込む経路
3.ウィルスが付着した物や、握手のような直接的な接触により、手を通じ口からウィルスが侵入する経路

この中でも、2.の咳やくしゃみなどによる「飛沫感染」が一番多いといわれているようです。空気感染において、人が吸い込む飛沫の直径は0.5から5マイクロメートルです。1マイクロメートルは0.001 ミリメートルですから、その小ささがわかりますが、このたった1個の飛沫でも感染を引き起こし得るといいます。

1回のくしゃみにより、だいたい40,000個の飛沫が発生するそうですが、ただ、多くの飛沫は大きいので、空気中から速やかに取り除かれるそうです。とはいえ、その一個を運悪く吸い込むと発症する可能性が限りなく高くなるため、できるだけ人ごみで深呼吸をするのはやめたほうがよさそうです。

誰かが咳やくしゃみをすると、離れたところにいた別の人がこれを口や鼻などの呼吸器で吸い込み、感染するというケースが一番多いわけですが、先日テレビでやっていた実験をみると、だいたいくしゃみの場合の最大「飛翔距離」は3mくらいが限界のようです。

従って、できるだけ他人から3mほどは距離をとって生活する、というのが理想でしょうが、狭い日本においてそんなことができるわけはありません。第一、電車やバスなどの公共交通機関を使う上においてこの距離をとるというのは難しそうです。ただ、できるだけそうした混雑を避ける、という対処法はおおいにありです。

なお、飛沫中のウィルスが感染力を保つ期間は、湿度と紫外線強度により変化します。ウィルスは湿度が低く日光が弱いところが好きなので、こうした環境にあるところでは長く生き残ります。なので、できるだけ日の光を浴びて明るく、かつ湿度が多いところにいれば、飛沫によるウィルス感染を防げる可能性は高くなる、ということになります。

とくに室内においては、換気をこまめに行い、空気清浄機を動かすこともインフルエンザ対策として効果があるようです。インフルエンザウィルスは湿度50%以上に加湿された環境では急速に死滅するといい、このため部屋の湿度(50-60%)を保つことにより、ウィルスを追い出し飛沫感染の確率を大幅に減らすことが可能になります。




一方、3.の「接触感染」ですが、インフルエンザウィルスは、紙幣、ドアの取っ手、電灯のスイッチなどのほか、家庭にあるその他の物品上、何にでも存在できるため、こうしたものを触ることによって感染がおこります。

ただ、インフルエンザウィルスは、いわゆる「細胞内寄生体」なので「細胞外」では「短時間」しか存在できません。細胞から栄養を取って増殖する生物なので、栄養がない場所では生きられないのです。

物の表面においてウィルスが生存可能な期間は、条件によってかなり異なります。

プラスチックや金属のように、多孔質でない硬い物の表面でかつ、人が絶対に触らない無菌室内にある多孔質でない硬い物の表面で行った実験では、だいたいウィルスは1〜2日間しか生存できなかったそうです。また、こうした無菌室ではなく、我々が生活するような通常の環境において、人が絶対に触らない乾燥した紙では、約15分間だったそうです。

これはつまり、通常の環境では、インフルエンザウィルスといえども、他の細菌や微生物に「食われる」のかどうかわかりませんが、競合して負けてしまうからでしょう。

さらに、手などの皮膚の表面では、ウィルスは速やかに「断片化される」のだそうで、皮膚での生存時間はわずか5分間未満だといいます。ヒトの体の表面にはリボヌクレアーゼ(RNase)と呼ばれる酵素が存在しており、これがウィルスを撃退してくれるようです。

もっとも5分というのは結構長い時間です。ウィルスが付着したトイレのドアの取っ手を握り、そのあと用を足している間に鼻をかんだら、その際にウィルスが鼻の粘膜から進入した、といったケースなどが考えられ、ほかにも「5分以内の悲劇」はいくらでもありそうです。

ただ入ってくるのが口と鼻ということは、その予防においてマスクの着用はかなり有効と考えられます。とくに、飛沫感染防止に特に効果的だとされ、最近多くの医療機関でも防塵性の高い使い捨て型のマスクが利用されています。




ただし、正しい方法で装着し顔にフィットさせなければ有効な防塵性を発揮できないといい、間違ったマスクの使用は感染を拡大させる危険性すらあるといいます。

そのひとつが、使用後のマスクの処分です。予防にマスクを用いた場合は速やかに処分したほうがよく、感染者が使用した鼻紙やマスクは水分を含ませ密封し、廃棄する必要があります。

なお、衣類に唾液・くしゃみなどが付着したものが、直接皮膚に入っていって感染する、といったことは科学的には考えられないそうです。しかし、一応こまめに洗濯した方がよいそうで、同様に、使ったマスクは洗濯をすれば使えるようですが、エチルアルコールや漂白剤などで消毒してから使ったほうが無難です。

もっとも、マスクの着用によってインフルエンザを予防することは、日本で推奨されているほどには欧米では評価されていないのだとか。WHO(世界保健機関)でも推奨されていないそうで、これは十分な予防効果の証拠がまだ確認されていないためだといいます。

マスクは湿気を保つためと、感染者が感染を大きく広げないための手段として考えられている程度だといい、理論的にはウィルスを含む飛沫がマスクの編み目に捉えられると考えられますが、これについても十分な臨床結果を必要とする、と欧米のお医者さんは考えているようです。

また、意外なのですが、インフルエンザの予防効果としての「うがい」もまた、あまり効果がない予防法とされているようです。厚生労働省が作成している予防啓発ポスターには「うがい」の文字がないそうで、また、首相官邸ホームページにも「明確な根拠や科学的に証明されていない」旨が記述されているといいます。

その論拠としては、インフルエンザウィルスは口や喉の粘膜に付着してから細胞内に侵入するまで20分位しかかからないので20分毎にうがいを続けること自体が非現実的であることをあげています。つまり、外出先で感染した場合、20分以上の外出ならもう既に感染しているので、帰ってきてからのうがいは手遅れでナンセンス、ということのようです。

しかし、通常の風邪予防としては効果があるようで、京都大学のお医者さんグループが行った各種実験であり、「うがいをしない群」と「水うがい群」「ヨード液うがい群」に割り付けて実験した結果、「水うがい群」には統計的にみても予防効果が認められたといいます。

通常の風邪とインフルエンザと何が違うんじゃい、ということなのですが、通常の風邪もウィルスの侵入によるものである場合が多いものの、感染までの時間がインフルエンザウィルスよりも長い、ということなのでしょう。

インフルエンザには無効かもしれませんが、通常の風邪予防に効果があるのなら、やはりうがいはしておくに越したことはありません。うがいをすることにより、水の乱流によって通常のウィルスや、埃の中にありウィルスにかかりやすくなる物質が洗い流されること、水道水に含まれる塩素などの効果も期待できるといった見解もあるようです

なお、「ヨード液うがい群」ではむしろ風邪の発症確率が高いという結果が出たそうで、これはヨード液がのどに常在する細菌叢(さいきんそう:細菌の集合体)を壊して風邪ウィルスの侵入を許したり、のどの正常細胞を傷害したりする可能性があるからだとか。うがい薬にも効果があるものとないものがあるようなので、見極めが必要なようです。

ただ、インフルの予防という意味では、うがいなどよりも、体の免疫力を作るほうがより有効のようです。免疫力の低下は感染しやすい状態を作ってしまいますから、ふだんから偏らない十分な栄養や睡眠休息を十分とることが大事です。

体の免疫力を高めるということは、風邪やほかのウィルス感染に関しても非常に効果が高いといい、アメリカ臨床栄養ジャーナルに発表された対照試験の結果では、冬季に毎日基準値以上のビタミンを摂取した生徒群は、摂取しない生徒群に比較して、40%以上も季節性インフルエンザに罹患する率が低かったそうです。

このほかの予防対策としては、感染の可能性が考えられる場所に長時間いることを避ける、ということがやはり重要です。人ごみや感染者のいる場所を避ける、というのは良く言われることではありますが、再認識したほうがよさそうです。

また、うがいに加え、石鹸による手洗いの励行や、手で目や口を触らない、といったことは、やはり物理的な方法でウィルスへの接触や体内への進入を減らすことになります。無論、手袋やマスクの着用といったことも効果があるようです。

と、長々と書いてきましたが、この冬、インフルにかかるのを心配している方には少し早くに立ったでしょうか。

ところで、我々ヒトがかかるインフルエンザはペットもかかるのでしょうか。我が家には猫のテンちゃんがおり、彼女への影響も気になるところです。

調べてみると、人がかかるインフルエンザウィルスに犬や猫がかかる、ということはこれまでに確認されていないようです。

ちなみに「猫インフルエンザ」と呼ばれるものがあるようですが、これはインフルエンザウィルスによるものではなく、呼称は「インフルエンザ」となっていますが、これはヘルペスの一種だそうです。ネコヘルペスウィルスが原因で、症状が風邪に似ているので、本来「猫ヘルペス」とでも呼ぶべきものをこう誤称するようになったものだそうです。

猫特有のヘルペスなので、ヒトに移る可能性もないそうですが、ほかのウィルスの中には、その変異によって動物→ヒト、ヒト→ヒトへ感染することも懸念されているようで、「ヒト→ヒト」への伝染が確認されたものが、「新型インフルエンザ」と呼ばれるようです。

この中でもとくに心配されているのが「鳥インフルエンザ」で、今のところ一般の人に感染する危険性は極めて低いようですが、将来的には、ヒトインフルエンザウィルスと混じり合い、ヒトヒト感染する能力を持つ変異ウィルスが生まれる可能性も懸念されているようです。

無論、ヒト・トリを始めネコにも感染する可能性がないとはいえず、将来、それが爆発的感染(パンデミック)を引き起こす可能性もあるといいます。

せめてこの冬には、そんなおそろしい流行がこないことを祈りつつ、今日のところは筆を治めたいと思います。あるいは今年最後の書き込みになるかもしれません。

残るは数日となりました。インフルの発症がないことを祈りましょう。




冬至の前に

今年の冬至は12月22日だそうです。

これを聞くと、新年を迎えるまでもなく、これを機になにやら新しく年が改まるような気にもなってきます。なぜなら、この日を過ぎれば、ふたたび日は長くなり、これに合わせて一日一日と明るい気分が増えるような気がしてくるからです。

…と、個人的な感情はさておき、この日は、一年で一番太陽が出ている時間が短くなる日です。江戸時代(天明7年。1787年)に江戸で出版された「暦便覧」では、「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明しています。

太陽が一番南側の軌道を通るので、日がある時間も短くなるんだよ、と端的に説明したもので実にわかりやすい。

冬至以降、太陽はこれよりも北寄りの高い軌道を通ることになり、これにより天空を通る時間も長くなります。最も高い空を太陽が通る場合が「夏至」で、このときの日中の時間は15時間弱に対し、冬至では9時間20分ほどで、5時間半以上の開きがあります。

仮に日没後は何もできなくなるとすると、いかにこの5時間が貴重か、ということになります。無論、現代では電灯というものがあり、何もできなくなるということはありませんが、太古では現代に比べれば活動は大きく制限されたに間違いありません。

もともと人というのは日の出とともに起き、日没とともに寝るという、自然のリズムで生活してきました。

ただし、夜は全く活動しなかったわけでもありません。月が出ている夜は月明りのもと活動することができましたし、火を使うようになってからは、月が出ていない夜でも、何等かの活動ができたはずです。

しかし、それにしても、夜はやはり大半の人々にとっては自宅で静かに過ごす時間帯です。仕事や学校を終えた後が一日の始まりとばかりに、夜遊びにふける人もいるでしょうが、そうした人でも、たいていは夜も半ばを過ぎると睡眠をとる時間帯となります。

日本の場合、電灯など無い時代、夜はまさに闇の世界であり、人々の家のすぐそばまで異界の境は近づいている、とされました。夜はさまざまな魔物や妖怪が出没する時間帯であり、「日本書紀」には、夜は神がつくり、昼は人がつくった、とあります。夜は神の世界でしたから、祭りや神事の多くは、日没から暁にかけて行われたわけです。

この、「夜が怖い」は西洋も同じです。「ヨハネの黙示録」では、夜は、闇と同じく神の救済が届かない、悪の支配領域とされています。また、魔法や魔術は、夜間にその力が発揮されると考えられていることが多く、吸血鬼は夜に活動すると信じられています。また、狼男は満月の夜に狼に変身するという伝承があります。

ギリシア神話の世界では、夜は「ニュクス」という神に支配されていました。原初の時にカオスから生まれた偉大な女神であり、その力たるや神々の王ゼウスも恐れるほどだったといいます。

ニュクスは自分の兄弟にあたる地下の闇 「エレボス」と結婚し、昼の女神「ヘメラ」を産みました。母ニュクスと娘ヘメラは西の果てにある「夜の館」に住んでいますが、一方が帰ってくる時は他方は館から出てゆくので、二人はすれ違うたびに挨拶はかわすものの一緒にいることはけっしてありません。

ニュクスには、エレボスの種によらず、自分だけで子供を産むことができました。このため、数多くの子供たちがおり、そのうちのお気に入りのひとりは、どこにでもニュクスのお供としてついてくる眠りの神「ヒュプノス」でした。また、その双子の兄弟は死の神「タナトス」で、二人はニュクスの夜の館の隣に、ともに居を構えていました。

また、ニュクスの子には、女神「エリス」がおり、彼女から人間の死と苦しみの原因となるあらゆる災いが生まれることになりました。




と、このように夜を支配するものは西洋では「悪」ばかりです。こうした考え方は世界中にあります。日本でも「百鬼夜行」という言葉があるように、夜には、鬼や妖怪の群れ、および、彼らが徘徊し、闇の世界を支配すると考えられていました。

平安時代から室町時代にかけて成立したお伽噺の類ですが、多くの魑魅魍魎(ちみもうりょう)が音をたてながら火をともしてやってきます。さまざまな姿かたちの鬼が歩いている様子などは様々な物語で語られて恐れられ、百鬼夜行に出遭うと死んでしまうといわれていました。

暦のうえで百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」も決められていて、こうした日に貴族などは夜の外出を控えたといわれています。しかし、「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と呪文を唱えると、百鬼夜行の害を避けられるといわれていました。

平安時代後期の歌人、藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」などにも同様の歌は記されており、同様に「かたしはや えかせせくりに くめるさけ てえひあしえひ われえひにけり」と書かれています。

意味不明の暗号のように聞こえますが、これは「難しはや、行か瀬に庫裏に貯める酒、手酔い足酔い、我し来にけり」と漢字交じりで書かれた和歌です。

「百鬼夜行の会に集まれなかったのは、行こうとしたら寺の庫裏に酒が隠されていたのを見つけたからだ。坊主の癖に酒を呑むとはけしからん。それならこの俺様が呑んでやろうということで、手足が動かなくなるくらい飲んで酔っ払ってしまったが、それでもようやくここにやってきたのだ」

という、ある鬼が、宴会に遅れてきた言い訳を歌ったものです。これを呪文のように唱えれば、鬼が仲間だと間違えて、見逃してくれる、ということだったのでしょう。

「宇治拾遺物語昔話」では、様々な様相の鬼たち百人ばかりが火をともしてがやがやと出現する場面がいくつも描写されており、その度に夜の宴が繰り広げられています。鬼というものはよほど酒が好きなのでしょう。

この「宇治拾遺物語昔話」とは、13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集です。ここには、このほか、おとぎ話として我々もよく知る、「こぶとりじいさん」の話も入っています。

百鬼夜行の末、出てきた鬼たちが、正直者と嘘つきの爺さんと繰り広げられる騒動を描いたものですが、もう子供のころのことだから忘れた、という人のために、簡単にあらすじを書いておくと、次のような内容です。

あるところに、頬に大きな瘤の二人の翁が隣どうしで住んでいました。片方は正直で温厚、もう片方は瘤をからかった子供を殴る、蹴るなど乱暴で意地悪でした。ある日の晩、正直な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露すると鬼は、その踊りのうまさに感心して、やれ酒を飲め、ご馳走を食え、と勧めます。

あげくのはてには、翌晩も来て踊るように命じ、もし来なければ容赦はしない。明日絶対ここへ来ざるを得ないよう、預かっておいてやる、とばかりにと翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまいました。

翌日、その話を正直爺さんから聞いた隣の意地悪な翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと考えます。さっそく夜になって、その場所に出かけると、同じように鬼が宴会しています。意地悪翁は張り切って踊り始めますが、正直爺さんの踊りに比べて出鱈目で下手な踊りを披露したので、逆に鬼たちはかんかんに怒ってしまいます。

そして、「ええい、下手くそジジイ! こんな瘤は返してやる。もう二度と来るな」と言って昨日の翁から取り上げた瘤を、意地悪な翁のあいた頬にくっつけると「今日の宴会はもうやめだ」と興ざめして去ってしまいました。

こうして正直な翁は瘤がなくなって清々しますが、意地悪な翁は瘤が二つになり、その後歩くにもものを食べるのにも難儀しながら、一生を過ごしました…



という話ですが、思い出したでしょうか。

実はこの話、その後、日本だけでなく、世界的に広く分布したといいます。アジアでは中国やインドネシアその他で流布され、また、ヨーロッパや北アフリカなどでも広まりました。

しかし、日本に近い東洋では顔のこぶとして伝わりましたが、西洋や中東では背中のこぶとなって伝わりました。

たとえば、中東などのイスラム圏では、公衆浴場に悪魔が宴会をしていて、背中の瘤を取られる、というふうに変わっており、ここではさらに、鬼たちの二回目の宴会は葬式になっていて、そこでふざけた踊りに悪魔が怒り出す、といったふうに翻案されています。

このほか、ヨーロッパでは、有名なドイツのメルヘン集、グリム童話にも類話があります。「小人の贈り物」というタイトルで、これは、ふたりの職人が、旅の途中、丘の上で踊る小人の老人たちに出会うという話です。

ひとりの職人が誘われて一緒に踊っていると、小人の老人にいきなり髪の毛とひげをそられ、あげくのはてに背中の瘤をもぎ取られ、バランスが悪くなるだろう、代わりに石炭を持って行けといわれます。翌朝、老人の目が覚めると、髪もひげも元通りでしたが、瘤はなくなっていました。そして驚いたことに、貰った石炭は純金にかわっていました。

これを聞いたもうひとりの職人は欲を出します。そして、最初の職人に聞いた場所に出かけていき、最初の職人と同様な扱いを受け、用意していた袋にはどっさり石炭を詰めこんで帰ってきます。しかしそれは朝になっても石炭のままで、そられた頭もつるつるのまま、しかも背中にあったこぶがもうひとつふえていた、という話です

ヨーロッパに伝わるこぶとりじいさんの話にはこのほか、最初の者がせっかく取ってもらった瘤を返される、といった変種も存在するようで、鬼と弱者というストーリーはそのままに、微妙に内容がすり替わったものが多いようです。

ところが、こうした海外に伝わるこぶとりじいさんの話は、日本の昔話と違い、鬼や悪魔、あるいは小人が「瘤は大切な物に違いない」と誤解する設定はないといいます。

宇治拾遺物語の話では、翁が「たゞ目はなをばめすともこのこぶはゆるし給候はん」と言っています。つまりは、「目や鼻ならば取ってもいいが、瘤だけは自分にとって大切なものであって、それだけは取らないでほしい」と懇願しています。

それに対し、鬼たちは「かうをしみ申物なり。たゞそれを取べし」とささやきあいます。これは、「これほど惜しむものならば(よほど福をもらすものであろう)、それを取ってしまえ」という意味になります。

これをどう解釈するか、ですが、日本やアジアの諸国では、中国の儒教が伝わった国が多く、儒教において「孝」は最も重要視された徳目の1つであり、古代より顕彰の対象とされました。

孝(こう)とは、子供が自身の親に忠実に従うことを示す道徳概念であり、親から貰った体はどんなものであっても、大事にしなければならない、ということを基本理念としています。そして、孝を守る振舞いである「親孝行」が高く評価され、これを実践する人を「孝子(こうし)」と呼びました。




西洋にはこうした概念はなく、だからといって自分の体を大事にしない、ということはないのでしょうが、中国や日本などのアジア諸国のように、たとえ瘤であっても親から貰った大事なもの、宝物として一生持って暮らすことを徳とする、という考え方は理解しがたいものだったのでしょう。

たとえ瘤とはいえ、自分の体の一部なのだから、どんなものでも大切にしたい、とする考え方は、東洋的なものといえ、こぶとりじいさんの話のエッセンスの部分は世界中広まりましたが、こうした細かい機微までは伝わらなかったのかもしれません。

もっとも、医学的にみると、こぶとりじいさんで描かれている「瘤」は一種の「腫瘍」であり、できるものなら鬼にでも取ってもらったほうがよさそうです。

頬にできる腫瘍ということは、「耳下腺」という唾液が出るリンパ系にできる「多形性腺腫」と解釈できるということで、正常な腺上皮細胞に変異が生じて腫瘍化したものだそうです。

ただ、こうした腫瘍は、いわゆる「良性腫瘍」であることがほとんどなので、「瘤」といわれるほど大きくなっても平気だそうで、腺癌などの悪性腫瘍であったならばここまで大きくなる前に他の臓器に転移してしまうといいます。

気になるならば、病院に行けば取ってもらえるそうで、また、仮に他人の瘤を鬼につけられたとしても、拒絶反応により日時が経過すればそのうち取れる可能性が高いといいます。

しかし、他人にとっては邪魔なものに見えても、自分にとっては大事なものである場合も多いのは確か。顔にあるほくろもえくぼもそのひとつであり、むしろ「愛嬌」とみなされる場合も多いわけであって、無理して取ることはないわけです。なにごとにつけても、自然が一番です。

ほくろに関していえば、さらに、おでこの真ん中や眉毛の中にあるものは、むしろ幸運の印なのだそうで、お金持ちになれるといいます。さらに耳たぶや耳の裏にあるホクロも金運だったり、仕事運が向上する証だといいます。

私には大きな瘤もほくろもありませんが、だからお金持ちにならないのかな~と思ったりもしますが、それはそれでまた別の話。甲斐性がないにすぎません。

さて、年も押し迫ってきました。今年も悪性腫瘍ができたり、悪い病気にもかからなかったのがせめてもの救い。来年も健康であるように祈りましょう。




サルバトール・ムンディ

「サルバトール・ムンディ」は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画で、青いローブをまとった人物の肖像画です。

英語表記は、“Salvator Mundi” で、これは 「世界の救世主」という意味のラテン語です。つまりはイエス・キリストを書いた絵になります。

ダ・ヴィンチの油彩画は現存数が少なく、発見されているだけでも十数点といわれています。描かれたのは1490年から1500年前後の間と推定され、フランスのルイ12世のために描かれたとみられます。後に、イギリス国王、チャールズ1世の手に渡りました

フランスから嫁いだ妻ヘンリエッタ・マリアが英国に持ち込み、寝室に飾っていたのではないか、と考えられています。しかし、チャールズ1世はイングランド内戦(清教徒革命)に破れて公開処刑されてしまいました。

王位とともに絵を引き継いだのが嫡男チャールズ2世(1630~1685)でした。その後バッキンガム公の庶子であるチャールズ・ヒューバート・シェッツフィードの手に渡り、1763年にオークションにかけられたあと、所在がわからなくなっていました。

1900年に久々にその姿を現しますが、この時すでにこの絵にかつての面影はありませんでした。キリストの顔や髪は大きく描き変えられて、弟子のひとり、ベルナルイディノ・ルイニの作品として、英国の絵画コレクター、フランシス・クック卿に売却されました。しかし、翌年にクック卿は亡くなってしまいます。

それからおよそ半世紀経った1958年、クック卿の子孫により、「サルバトール・ムンディ」は、サザビーズのオークションにかけられます。落札価格は45ポンド(現在のレートで約6000円)でした。しかし、落札者は不明で、弟子の絵という評価のまま、絵は再び姿を消します。

更におよそ半世紀を経てダ・ヴィンチが現れたのは2005年。今度はアメリカ・ニューヨークの競売で、アレックス・パリシュら複数の美術専門家が1万ドル足らずで落札し、ようやく本格的な修復と鑑定が始まりました。

修復は2007年からニューヨーク大学の修復師、ダイアン・モデスティーン(Dianne Dwyer Modestini)が手掛け、完成までに6年かかったといわれています。絵画修復に関して優れた技術を持っていたモデスティーンは、何世紀にもわたって塗り重ねられてきたやワニスや加筆された絵具を徐々に剥がしていきました。

それは神経をすり減らす作業でしたが、修復を始めた当初、彼女はこれはきっと偽物に違いない、と思っていたそうです。「サルバトール・ムンディ」が描かれたルネッサンス時代とその後には同じような絵画が、他のアーティストによって何度もコピーされていたからです。

しかし、修復が進むにつれ、彼女は、この絵が「非常に激しい」ものを持っていると感じるようになったといいます。そして、描いた人物の芸術性と天性に気付き、そこに修復師としての彼女がそれまでに経験したことのないような世界を感じるようになりました。

さらに修復が進むにつれ、もしかしたらこれはダ・ヴィンチの絵かも知れないと思いはじめ、もしそうだとするとこの絵の価値は計り知れないと思うようになると、修復を進める手が震えたといいます。




こうして修復が終わった絵は、専門家の鑑定でダ・ヴィンチの作品だと結論づけられました。

それにしても、なぜこの絵が本物とわかったのか。

ダ・ヴィンチは仕事がゆっくりで作品をなかなか完成させなかったそうです。その理由を、ロンドンのナショナルギャラリーで、同じダ・ヴィンチ作の「岩窟の聖母」の修復作業を行った修復家はこう語っています。

「ダ・ヴィンチは常に表現の可能性を探っていたため、彼の絵にはあちこちに修正の跡が見て取れる」

パリのルーブル美術館にある「モナ・リザ」のミステリアスな微笑みは、ダ・ヴィンチの優れた技術が生み出したものであり、色を薄く塗り重ねていく手法により幻想的な光を表現しています。これらダ・ヴィンチ特有の筆遣いは、ニューヨークで発見された「サルバトール・ムンディ」にも共通するものでした。

さらに赤外線を使った鑑定で、下絵に試行錯誤の跡が見つかり、作品が本物である可能性は決定づけられました。こうしてダ・ヴィンチの幻の名画として再びこの世によみがえることとなりました。

改めて絵をみてみると、ダ・ヴィンチの肖像画作品によく見られる細部まで描き込まれた手の描写が確認できます。また、何度も塗り重ねられたと思われる顔の輪郭などから、描かれたキリストの存在感を感じさせる作品となっています。

右手はキリスト教で祝福を与えるポーズで左手にはキリスト教で生命を表す水晶を持っています。これはキリストの再誕と復活を意味するものです。

しかし、本物の水晶を見たことがある人は、この絵に違和感を覚えます。なぜなら、通常このような水晶玉を持った場合、玉の中の光が屈折し映し出されたものは反転するはずで、このようなスカスカした透明の状態になるはずがないからです。

何やら単なる水の玉を持っていると思えるほどに水晶玉感はなく、違和感が残ります。科学に精通していたダ・ヴィンチがこのような表現をするとは思えない、という学者もおり、何等かのメッセージではないかとも言われています。が、その謎解きは始まったばかりです。

2011年、これを含めたダ・ヴィンチの作品11点がロンドンのナショナル・ギャラリーに集められた際に公開され、大きな注目を集めました。ここからその価値が年を追うごとに上がっていきます。

2013年に競売大手サザビーズのオークションでスイス人美術商イブ・ブービエに8000万ドル(約90億円)で落札された後、ロシア人の富豪でサッカー・フランス・リーグASモナコの会長を務めるドミトリー・リボロフレフ氏が1億2750万ドル(約140億円)で買い取りました。

90億円のものをそれ以上の額で転売したことになり、この買い取り額について、後にリボロフレフは詐欺として売り手のイブ・ブービエを訴えています。

そういいつつも、ドミトリー・リボロフレフは今年11月15日にクリスティーズのオークションにこれを出品しました。その結果、手数料を含めて4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円)で落札されました。買値の3倍以上であり、イブ・ブービエに対する訴訟はなんだったのか、と突っ込みたくなります。

この金額はパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョンO(オー);ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワ作品のオマージュで、「A」から「O」までの合計15作品の連作となる)の1億7940万ドル(約200億円)の2倍以上となり、これまでの美術品の落札価格としては史上最高額でした。



買い取ったのは、UAE(アラブ首長国連邦(首都アブダビ)の新しい美術館、ルーブル・アブダ。フランスのルーブル美術館で初となる海外別館で、2007年、フランス両国の政府間協定によって誕生しました。

協定は「ルーブル」の名前を30年間使用できること、常設コレクションの増加に伴い徐々に減少させるのなら、フランス機関の芸術作品を10年間借用することができること、また仮設展示については15年間にわたって協力する、といった内容でした。

「ヤシの木からの木漏れ日」をモチーフにしたこの美術館のデザインは、世界的なフランスの建築家によるもので、幾何学模様で装飾されたドーム型の建物は6000平方メートルあり、ギャラリー、展示場、幼児向けの子ども美術館、調査センター、レストラン、ブティック、カフェを備えており、ピカソやゴッホなどおよそ900点の作品が展示されています。

一般公開されたついこのあいだの11月11日には、多くの観光客が訪れ、用意された5,000枚のチケットは完売したといいます。展示作品は世界中の文明に由来するもので、その一部は、フランスの主要美術機関13カ所から借り受けた作品300点とともに展示されました。

この開館から約1ヶ月後の2017年12月9日、アブダビの文化観光局は、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「サルバトール・ムンディ」を獲得したと発表しました。現在、ダ・ヴィンチのもう1つの傑作でルーブル美術館から借り受けている「ミラノの貴婦人の肖像」とともに、「過去100年で最高級の美術的再発見」と銘打ち、展示されているようです。

美術館は、2017年12月21日開幕するオープン特別展の準備も進めています。展示会では重要な絵画、彫刻、装飾美術、その他の作品約150点が展示される予定ですが、その大半はルーブル美術館のコレクションで、ベルサイユ宮殿からのものもあるといいます。

無論、この特別展の展示物よりも常設展示場にある「サルバトール・ムンディ」のほうが人気が集まるに違いありません。

それにしても、この絵がいつ描かれたか、なぜこうした絵になったのかについては、専門家も首をかしげているようです。それをひも解くためにも、少し、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を辿ってみましょう。

ダ・ヴィンチは1452年4月15日に、ヴィンチに生まれました。イタリア北西部、トスカーナ地方を流れ地中海に注ぐアルノ川下流に位置する村で、フィレンツェ共和国に属していました。

当時フィレンツェはメジチ家が実質的な支配者として君臨し、その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援していました。

ダ・ヴィンチの幼少期についてはほとんど伝わっていません。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、5才からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごしたことぐらいしかわかっていません。

1466年に、14歳だったダ・ヴィンチは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家「ヴェロッキオ」に弟子入りしました。そしてこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せはじめます。

彼の才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいました。そして、20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ています。

ダ・ヴィンチが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなくまた医学も対象としたギルドでした。その後、父親セル・ピエロが自宅にダ・ヴィンチに工房を与えてヴェロッキオから独立させましたが、彼はヴェロッキオとの協業関係を継続していきました。

しかし1478年、26歳になった彼は、ヴェロッキオとの共同制作を中止します。そしてフィレンツェの父親の家からも出て行ったと思われます。この年、最初の独立した絵画制作の依頼を受けました。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、さらにサン・ドナート・スコペート修道院からも、「東方三博士の礼拝」の制作依頼も受けます。

しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置されました。「東方三博士の礼拝」もダ・ヴィンチがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっています。

その後、1482年から1499年まで、ダ・ヴィンチは「ミラノ公国」で活動しました。フィレンツェのさらに北部に位置し、現在のスイスとの国境にあった国で、フィレンツェとは同盟関係にありました。

現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する「岩窟の聖母」は、1483年にこのミラノにおいて、「無原罪の御宿り信心会」からの依頼でダ・ヴィンチが描いたものです。また、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のかの有名な壁画「最後の晩餐(作画1495-1498年と推定)」も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品として知られています。

ダ・ヴィンチはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられていました。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などなどです。

1502年にダ・ヴィンチはイタリア北部の海岸沿いにある街、チェゼーナを訪れました。ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアが治めていた街で、ここで軍事技術者として働くようになり、チェーザレとともにイタリア中を行脚しました。

また、チェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作しました。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはダ・ヴィンチのまったく新しい概念が導入されていたといいます。しかしこの滞在は短く、その翌年ころには再びフィレンツェに戻り、1508年に芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入しています。

チェゼーナでの滞在は短かいものでしたが、この間、かの有名な「モナ・リザ」も描かれたと考えられています。おそらくその制作を開始したのは1503年か1504年と推定されており、しかし、この作品もまた未完成のまま終わったのではないか、とする説が根強くあります。

ダ・ヴィンチと同時代人のジョルジョ・ヴァザーリは「ダ・ヴィンチはモナ・リザ制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と記しているほか、後年の鑑定家なども晩年の彼はただの1作も完成させることができなかったのではないか、としています。




「サルバトール・ムンディ(救世主)」が描かれたのも、この時期か、あるいは、これより以前、フィレンツェを出たのちミラノへと向かい、またイタリア中を行脚していた間かと思われます。1490年から1500年前後ということになり、多くの鑑定家がそう考えているようですが、「モナ・リザ」のように作成年が絞り込まれているわけではありません。

それにしてもこの絵、不思議な絵です。言うまでもなく男性であるキリスト像を描いているわけですが、どこか中性的であり違和感がある。女性と言われればそんな気もしてくるようであり、どこかホモセクシュアルの臭いを感じるのは私だけでないでしょう。

実は、ダ・ヴィンチはそうだったのではないか、とする憶測もあり、そうした噂が出るのは、1476年のフィレンツェの裁判記録があり、そこに、彼が他3名の青年とともに同性愛の容疑をかけられたが放免された、と記されているからです。

この青年たちが誰だったのか、どういう人物だったのかは詳しくはわかりません。が、ダ・ヴィンチは若い頃から多くの若者に囲まれており、数人の内弟子を持っていたことが知られています。そしてその一人が「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティです。

サライがダ・ヴィンチの邸宅に住み込みの徒弟としてダ・ヴィンチに入門したのは10歳のときで、1490年のことでした。画家としてはアンドレア・サライ (Andrea Salai) いう名前で活動し、その後、ダ・ヴィンチが死去する直前まで生活を共にしました。

サライは1480年にピエトロ・ディ・ジョヴァンニの息子として生まれました。ピエトロは、ミランのポルタ・ヴェルチェッリーナ近郊に、ダ・ヴィンチが所有していたワイン畑で働いていた人物です。

その縁があってダ・ヴィンチに入門したと考えられていますがが、素行が悪く、その後1年足らずでダ・ヴィンチの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだといわれています。

サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充てるだけでなく、日ごろから素行が悪かったようで、ダ・ヴィンチは彼の不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」とののしっていたといいます。しかしながらダ・ヴィンチはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせています。

アンドレア・サライという名で多くの絵画を描くことができたのもそのおかげであり、実際、ダ・ヴィンチはサライに対し、自分が持っている多大なスキルを教えたようです。

ところが、その関係は単なる師弟のそれを超えていたのではないか、とする説があります。その一つの傍証として、ダ・ヴィンチと同じルネッサンス期のイタリア人芸術家、美術史家ジョルジョ・ヴァザーリが、その著書でサライについて「優雅で美しい若者で、ダ・ヴィンチは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記していることなどがあげられます。

また、ダ・ヴィンチは、ロンバルディアの貴族の子弟フランチェスコ・メルツィという若者も弟子にしています。メルツィはその後、ダ・ヴィンチの秘書兼主席助手のような存在となりますが、ヴァザーリはメルツィについても「当時のダ・ヴィンチがもっとも愛した美しい若者」と記しています。



しかし、交友関係以外のこうしたダ・ヴィンチの私生活に関しての資料は少なく、謎に包まれています。そのためもあり、ダ・ヴィンチの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっています。

最初にダ・ヴィンチの性的嗜好が話題になったのは彼の死後50年ほども経った、16世紀半ばのことでした。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でも有名なのは、心理学で有名なジークムント・フロイト(1856-1839)が唱えた説です。

それによれば、ダ・ヴィンチともっとも親密な関係を築いたのは、弟子のサライとメルツィのふたりです。フロイトによれば、とくにメルツィとは親密で、ダ・ヴィンチの死を知らせる書簡をダ・ヴィンチの兄弟に送ったのも彼です。その書簡にはダ・ヴィンチがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていたといいます。

上のとおり、1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったダ・ヴィンチ他3名の青年が、同性愛の容疑をかけられたという記録がありますが、実はこの3人の正体とは「男娼」ではなかったか、とする説も、こうした中から出てきました。支払か何かをめぐり、ダ・ヴィンチと彼らが揉め事を起こして記録に残ったのではないかとする説です。

この件でダ・ヴィンチは証拠不十分で放免されていますが、その後容疑者である青年の一人の素性が明らかになりました。フィレンツェの支配者でメディチ家の実力者、そしてダ・ヴィンチを庇護していたロレンツォ・デ・メディチの縁者であるということが判明し、このことから、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかといわれています。

こうしたことから、ダ・ヴィンチに同性愛者の傾向があったのではないか、とする説は根強く、「サルバトール・ムンディ」以外にも、「洗礼者ヨハネ」や「バッカス」といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいます。

とまれ憶測にすぎません。たとえそうだったとしても、ダ・ヴィンチの数々の功績を汚すものではありません。

その晩年の1513年9月から1516年にかけて、ダ・ヴィンチはイタリア中部、ヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿で多くのときを過ごしています。

さらにこののち、フランソワ1世によってフランスに招かれ、王の居城アンボワーズ城近くのクロ・リュセ城(通称クルーの館)を邸宅として与えられました。ダ・ヴィンチは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィら弟子や友人たちとともにここで過ごしました。

そして1519年5月2日にダ・ヴィンチはで死去しました。67歳没。フランソワ1世とは最後まで緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも彼がフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記しています。

ダ・ヴィンチは最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受け、敬虔深いクリスチャンとして最後を遂げたようです。ヴァザーリはまた、ダ・ヴィンチの遺言に従って、60名の貧者が彼の葬列に参加したと書いています。

ダ・ヴィンチの主たる相続人兼遺言執行者は一番弟子のフランチェスコ・メルツィでした。彼は金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続しました。ダ・ヴィンチはまた、自身の兄弟たちには土地を与え、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺したといいます。

彼の遺体は、ロワール川を見渡す岬に建アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬されました。アンボワーズ城は、シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らヴァロワ朝の国王が過ごした城です。フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せたクロ・リュセ城はすぐ近くにあります。

ダ・ヴィンチが亡くなったあと、メルツィはイタリアに戻って結婚し、8人の子供を設けましたが、1570年ころに70代後半で亡くなったとされています。彼はダ・ヴィンチが残した絵のうち、未完成のまま残っていたものを補修もしくは加筆し、完成させたともいわれています。

また、もう一人の愛弟子、サライはダ・ヴィンチの生前の1518年に彼のもとを去り、フランスを後にしました。ミラノに戻ったサライは、父ピエトロが働いていたダ・ヴィンチ所有のワイン畑で芸術活動を続けました。その翌年の1519年にダ・ヴィンチが死去したときに、このワイン畑の半分を遺言によってサライが相続しています。

また、サライは遺産としてワイン畑だけではなく「モナ・リザ」など複数の絵画作品も同時に相続したと考えられています。サライが相続したこれらの絵画作品の多くは、後に彼を看取ったとされるフランス王フランソワ1世の所有となりました。その中に「サルバトール・ムンディ」もあったに違いありません。

サライは1523年6月14日に、43歳でビアンカ・コロディローリ・ダンノと結婚しました。しかし、結婚した翌年に決闘で負った矢傷がもとで死去し、1524年3月10日にミラノで埋葬されています。




八幡宮

先日、東京の深川で事件がありました。

富岡八幡宮という神社での惨事でしたが、ここ修善寺にも八幡宮があるので、今日はそのことから書き始めましょう。

「横瀬八幡神社」といい、主神は八幡様ですが、鎌倉二代将軍頼家公も祀られています。修善寺温泉街の中心部には、頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した「指月殿」と呼ばれる経堂があるほか、頼家の墓所もありますが、この神社は温泉街の賑わいとはほど遠い、狩野川に近い場所にあります。

というのも、当社は旧修善寺村の氏神として古来より地元住民を中心に厚く尊崇されてきた経緯があり、むしろ外来の入浴客が集中する温泉街を避けて建てられたようなきらいがあります。

ひっそりと静かで、落ち着いた佇まいの神社です。以前はうっそうとした樹木に囲まれて社殿がほとんど見えなかったのですが、最近すぐそばの道路の整備事業に伴って大幅な再整備が行われ、樹木が伐採されて開放的になり、鳥居も新築されて見違えるようになりました。

おそらくは市の観光協会の肝いりで大規模なリニューアルが行われたのではないかと思われますが、鎌倉源氏由来の神様ということで今後人気が出てくるのではないでしょうか。みなさんも修善寺に来られたら一度訪れてみてください。

ところで、今回の深川の事件で、そもそもこの八幡宮とは何か、が気になったので調べてみる気になりました。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられ、農耕神あるいは海の神とされていたようです。

が、付近の豪族を平定することで拡大した邪馬台国があったとされる北九州の地にあり、武具を鍛えることも盛んであったと考えられることから、祖神は鍛冶の神ではなかったか、と考察する学者もいるようです。

欽明天皇(539-571年)の時代に大神比義(おおがのひき)という地元の有力者らしい人物によって祀られたと伝えられます。

宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、この地に鍛冶翁(かじおう)と名乗る神が降り立ち、これを見て驚いた大神比義が祈ると、その姿は突然三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂なり、護国霊験の大菩薩として敬え」と託宣されたといいます。

同社伝によれば、譽田天皇とは、「応神天皇」の諱であり、このとき初めて八幡神社の祖である神霊としてあらわれて、宇佐の地にその力を示顕するようになったと伝わっています。以後、宇佐八幡宮はこの応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神(ひめがみ)、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀るようになりました。

ここで、比売神とは、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものです。神社の祭神を示すときに、主祭神と並んでこの比売神を祀ることが多いようで、ファーストレディーのようなものです。別に比売大神、比咩神、姫大神などとも書かれます。

その後約2世紀を経た天平勝宝元年(749年)、時の天皇である「聖武天皇」が国教である仏教のシンボルとして、奈良の大仏を建設することになったとき、宇佐八幡神は一人の禰宜として「尼」を派遣しました。

彼女は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、大仏殿の建築を助けたといわれますが、このように神社でありながら尼を派遣したという記録が残っていることから、神道は早くから仏教と習合していたことがわかります。

この時代、仏教政策を巡り、朝廷内には民衆への仏教の布教を重視する路線と、神道を中心として国家の鎮護を優先する路線の対立がありました。

聖武天皇やその娘である孝謙天皇(称徳天皇)、そして宇佐八幡宮の宮司は、その両者をとりもち、仏教と神道の両方を尊ぶことを提唱しており、仏教の守護神として八幡宮の神を位置づけていこうとしていました。

ところが、その推進運動の中心人物、聖武天皇が亡くなり、子がなかったためその血統は絶えます。そしてこの聖武天皇の葬儀から29周年にあたる天応元年(781年)の命日に八幡神が「出家」する形で、「八幡大菩薩」の号が贈られます。

これは、当時の朝廷が聖武天皇が没後に八幡神と結合したと考えることでその祟りを防ごうとしたものと考えられます。と同時に八幡神に菩薩号を与えて聖武天皇が深く信仰していた仏教の守護神とすることで、神仏習合を推進しようとしたのでしょう。

従って宇佐八幡宮のオリジナルの主神は応神天皇ですが、のちにこれに聖武天皇が合わさり、仏教の守護神として合祀されたものが八幡神ということになります。そしてその称号にはそれまで神道では使われなかった「大菩薩」が使われるようになっていきました。




その後、武家が台頭してくると、彼らはこぞってこの「八幡大菩薩」を崇拝するようになります。源頼朝は奥州征伐の際、陸奥国胆沢郡胆沢(現在の岩手県奥州市)にある鎮守府八幡宮へ参詣しています(1186年頃)。その理由はこの八幡宮が、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に勧進され、弓箭や鞭などが納められて武道の神として祀られていたためです。

坂上田村麻呂は桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、夷賊(蝦夷・北海道の民)の討伏をしたことで知られます。戦功によって昇進し、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられており、武家としては初めて最高位の官位を得た人物です。

田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられ、他にも富士山本宮浅間大社を創建したことで知られています。

のちに平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望んでおり、このころの朝廷もまたこれに応え、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍の称号を吉例として頼朝に与えました。

以降、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府の体制が固まり、これは江戸幕府まで675年間にわたって続きました。

頼朝がこの坂上田村麻呂にあやかり八幡神を崇拝したのは上の通りですが、これ以前にも同じ源家で頼朝の祖先にあたる源頼義が、「壺井八幡宮」を河内の地(大阪府羽曳野市壷井)に建立しており(1064年)、いわゆる河内源氏の氏神としていました。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗っています。

さらに遡ると、関東でその勢力を伸ばした平将門も、上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩の名のもとに「新皇」の地位を保証されています(939年)。

このように八幡神は、平家、源家などの武士から敬われてきましたが、武家が守護神として八幡神を奉ずるようになったその理由は、それまでの王朝的秩序から固定化しつつあった皇室神道から武家を解放させたいがためであり、八幡宮によって天照大神とは異なる世界を創りたい、という大きな目的があったためです。

とくに平安後期以降は、伊勢神宮をはじめとする歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い神社と八幡宮は一線を画すようになり、武家といえば八幡宮、ということになっていきました。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として進んで自分の領内に勧請するようになりました。

以降、武神として多くの武将が八幡宮を崇敬するようになっていきますが、さらに室町幕府が樹立されると、足利将軍家は三代で途絶えた鎌倉幕府による源氏復興の主旨から(足利氏の本姓は源氏)、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めました。

ちなみに、足利家は、鎌倉時代は源家の遠縁として浅からぬ縁があり、室町幕府を開いた足利尊氏の祖先の「源義家(1039-1106)」は、別名「八幡太郎」の通称でも知られます。山城国(現奈良県)の「石清水八幡宮」で元服したことから八幡太郎と称しました。

また、そのこととは直接関係ありませが、治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が、富士川の戦いを前に源義経と感激の対面を果たしたとき、二人が再開したのが、現在の静岡県駿東郡清水町に造営されていた「黄瀬川八幡宮」です。

こうしたことからも、とくに源家の八幡宮への篤い崇拝ぶりがうかがえますが、さらに頼朝の奥州討伐では「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗が用いられたといいます。

その後の時代の覇者、豊臣秀吉もまた八幡宮を崇拝しました。死後に国家鎮護のために自己を「新八幡」として祀ることを命じたほどで、京都東山方広寺の鎮守として八幡宮を建設することを遺言したといいます。

ただし、秀吉が死後に祭られたのは方広寺ではなく豊国神社であり、称号も「新八幡」ではなく、後陽成天皇の神号下賜により「豊国大明神」となりました。

こうして鎌倉時代以降、室町・安土桃山(戦国)・江戸とそれぞれの時代で八幡宮は武家の神様として奉られることが次第にさかんになっていきますが、そこでは主神を「八幡大菩薩」と呼び、これは前述のとおり、神仏が習合したものでした。

ところが、幕末に維新が起こったあと、明治政府は「神仏分離令」を出します(明治元年(1868年))。寺社を分離することによって、租税(税金)をより収集しやすくすることが主目的でしたが、これによって、全国の八幡宮は寺から完全分離され、神社へと改組されることになりました。

それまでは同じ境内にあった「神宮寺」は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去されるところとなり、また江戸時代まで長らく使われてきた仏教的神号の「八幡大菩薩」の呼称は明治政府によって禁止されるようになりました。

しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残りました。昭和に入ってからも、第二次世界大戦末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられたり、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を名乗った部隊もありました。また、航空機搭乗員、特に特攻隊員にとっては「武士の神様」としての八幡大菩薩は人気があり、信仰を集めていました。

1944年に製作された、航空機搭乗員を描いた映画「雷撃隊出動」の中でも、出撃の際に八幡大菩薩の旗を振るシーンが見られるほどで、こうした八幡大菩薩信仰は今日まで続いています。このため、現在、全国にあるいくつかの八幡宮では、希望する参拝者に「八幡大菩薩」の墨書きのご朱印を授与しています。

とはいえ、江戸時代までとは異なり、現代では表だって八幡大菩薩が祀られることはずいぶんと少なくなりました。八幡様といえばその主神は、太古の昔に戻って応神天皇(誉田別命)であり、多くの神社の由来書きにもそう書かれている場合が多いようです。

この「八幡神」を祀る八幡宮の呼称は色々で、八幡神社、八幡社、八幡さま、若宮神社、などと呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われます(若宮は「八幡宮の若宮(嗣子)」の意)。その数は稲荷神社に次いで全国2位ですが、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位であって、その数は7817社もあるそうです。

しかし、現在でもこれらの八幡神社の総本社は大分県宇佐市にある、宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。このほかにもある大きな八幡宮を併せて俗に「三大八幡」と呼ばれることが多いようですが、これは「宇佐・石清水」「筥崎・鶴岡」に加え、以下の4社のうちのいずれかを合わせた3社とされることが多いようです。

宇佐神宮(大分県宇佐市) – 官幣大社
石清水八幡宮(京都府八幡市) – 官幣大社
筥崎宮(はこざきぐう・福岡県福岡市東区) – 官幣大社
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) – 国幣中社

ただ、幕末の1868年(慶応4年)に太政官通達に示されていた八幡宮3社は「宇佐・石清水・筥崎」だったそうで、上の通り、官社格でもこの3社が「幣大社(朝廷、国から指定される)」で並んでいます。

これに対して鶴岡八幡宮は「国幣中社」となっており、一ランク下です。ところが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」が八幡神社の代表例とされることが多いようで、鶴岡八幡宮の知名度が上がっており、筥崎宮の最大のライバルになっています。

これは鶴岡は鎌倉にあり、人口の多い関東に位置するため、参拝者も多いことと関係があるでしょう。筥崎宮は九州で知名度が高いものの、やはり関東地方の人には馴染みが薄く、知っている八幡宮は?と聞かれれば鶴岡八幡の名をあげる人の方が多いようです。




ところで、先日事件のあった富岡八幡宮は、無論これらの中には入っていません。ましてや近代社格制度では国幣中社、その下の官幣小社、国幣小社にも入っていません。

ただ、明治維新直後の社格は、「准勅祭社」とされています。勅祭社(ちょくさいしゃ)は、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社のことで、「准勅祭社」とは、維新後に明治天皇が、東京近郊の主だった神社をこれと定めて東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としたものです。

当初は12社(日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所宮・鷲宮神社)でした。

しかし、1870年(明治3年)には廃止され、准勅祭社の制度は一時的なもので終わり、同制度の廃止後は記載がない府社とされました。

ただ、皇室の尊崇は受け続け、そのまま約100年が経ちました。1975年(昭和50年)、昭和天皇が即位50年となったため、その奉祝事業を関係神社が協議して行うことになりました。このとき、かつての准勅祭社から遠隔の府中市の六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、観光的な要素を濃くした「東京十社」として指名し、現在に至っています。

何か大きな行事があると皇室がここを訪問するのは、これらの准勅祭社がもともと明治天皇により指定されたためです。この十社を決めたのも、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行った結果、という経緯があります。

現在でも、この昭和天皇即位50周年に行われた「東京十社巡り」が各種観光団体などで継続されており、23区内にある「東京十社」を巡るとともに、これらの神社にある七福神巡りなども合わせて行われています。

その一つである富岡八幡宮は、江戸時代には最大の八幡宮であり、これは、八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受けていたためです。とくに、三代将軍家光の命により、 長男家綱の世継ぎ祝賀を行うことになり、その時に指定されたのがこの神社で、その祭礼が現在の「 深川八幡祭り 」として継承されています。

そもそもは1627年(寛永4年)、「長盛法印」という僧侶が、かつて江東区に存在した「砂町(現在の北砂、南砂、新砂、東砂にあたる)にあった「砂村八幡」を移す形で、創建しました。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより6万坪以上の社有地があったといい、広く美麗な庭園は江戸庶民の人気の名所であったそうです。

ただ、当初は外に出ると江戸時代のこの地はほとんどが葦が茂る沼地でした。いわゆる「深川」と呼ばれるこの地域は、皇居の東を流れる隅田川左岸側(東側)一帯を指し、摂津国(現・大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が一帯の開拓を行ったことに由来します。江戸初期には漁師町だったことからもわかるように、すぐそばまで海が迫っていました。

明暦の大火(1657)以降に開発され、万治2年(1659)に両国橋が架けられたことで急速に都市化し、永代寺(現・江東区富岡)の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて岡場所(遊郭)ができ、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れる地域となり、「門前町」として発展していきました。

現在では、通称「門仲(もんなか)」と呼ばれるこの地域は、地名改正以前、「深川永代寺門前仲町」とも呼ばれていましたが、1969年住居表示を実施し、深川門前仲町から現在の正式名称「門前仲町」に町名変更を行っています。

江戸時代には多くの著名人が多く住んでいたことで知られます。材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構えていたほか、曲亭馬琴もここで生まれ、松尾芭蕉が住み、勝海舟もここで青年期までを過ごしました。海舟の妻、民子は元深川の芸者だったといわれています。

大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行が富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会議を開いたと伝えられます。

また、測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため、この富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたといいます。このことから、2001年(平成13年)に当社の境内に銅像が建立されました。

毎年8月15日に富岡八幡宮を中心に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つに数えられ、「わっしょい、わっしょい」の伝統的な掛け声とともに沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられます。このため別名「水かけ祭り」と称されて親しまれています。

三年に一度、当八幡宮の御鳳輦(ごほうれん・金銅の鳳凰を飾りつけた輿)が渡御を行う年は「本祭り」と呼ばれ、各町の大人神輿50数基が勢ぞろいして連合渡御(れんごうとぎょ)が行われます。上述のとおり、三代将軍家光の長男、家綱が誕生したことを祝う祝賀行事の名残で、江戸城まで神輿を担いでいったのが始まりといわれています。




また富岡八幡宮の名物といえば、江戸勧進相撲があります。

勧進相撲(かんじんすもう)とは、現在の大相撲の源流となる相撲の形態の一つで、富岡八幡宮はその発祥の神社であるとされています。

その起源ですが、戦国時代の日本において、貴族の都落ちに従って京都の文化が全国に広がり、「土地相撲」もそのひとつでした。やがて、この土地相撲を本職として巡業などで生計を立てる相撲人が現れるようになるほど流行しましたが、その一方で、神社の祭礼にはこの土地相撲を真似た「神事相撲」も多く行われるようになりました。

神社仏閣の建築修復の資金調達のための興行のことを「勧進」といいますが、これにあやかり、「「神事相撲」も、やがて「勧進相撲」と名前を変え、資金集めのために行われるようになっていきます。もともとは「寄付」という形をとるボランティア活動でしたが、長い年月の間には営利目的の興行として行われることが常態化していきました。

文禄・慶長の頃(1600年前後)までには主として上方で、盛んにこの勧進相撲の巡業が行われるようになりましたが、その後浪人、侠客が出入りして始終喧嘩が絶えない事態になり、各地で勧進相撲は禁止されるようになりました。江戸幕府は慶安元年(1648年)に「風紀を乱す」という理由で勧進相撲禁止令を出しています。

しかし、のど元過ぎれば…で、その後数十年を経てふたたびおおっぴらに行われるようになり、とくに京都などで「京都相撲」と銘打ち、実質は勧進相撲である興業が堂々と行なわれるようになりました。これに対し、江戸ではお上の取り締まりも厳しく、街中での興行(辻相撲)はまだ禁じられていました。

ところが、寺社の境内などの興業は幕府の目も届きにくく、ここでこそこそと勧進相撲が再開されるようになります。これに気付いた江戸幕府は、慶応年間以前のトラブルの再現を危惧し、その対策としてこのころから「寺社奉行」を置くようになります。以降、江戸相撲の興行の届け出先もそれまでの町奉行から寺社奉行に移動しました。

この寺社奉行により、勧進相撲の開催はかなりコントロールされるようになりましたが、その後、徳川吉宗の時代に入り、寛保2年(1742年)には江戸で勧進興行のすべてにわたって解禁されました。

吉宗はいわゆる享保の改革を行った名君として知られる将軍ですが、目安箱の設置による庶民の意見の政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書(蘭学)輸入の一部解禁といった庶民に目を向けた政策も多く実施しており、またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励しました。

相撲もまた、この武芸のひとつと考えられていた時代であり、この開放政策により、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を実施することが慣行化されるようになります。

「勧進相撲」の呼称も完全復活しましたが、一方ではこの興業の管轄権は寺社奉行が持ち、きつく取り締まる、というしきたりは残されました。

寺社奉行はいわゆる三奉行の1つですが、主に旗本であり老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行とは別格であり、三奉行の中でも筆頭格といわれます。寺社奉行に任ぜられた者は、その後、大阪城代や京都所司代といった重役に就くこともあり、最終的に老中まで昇り詰めるなどエリートの証でもありました。

従って、寺社奉行の管理のもとに行われる勧進相撲もまた格式の高いものであり、相撲が行われる寺社もまた通常の寺社よりも格上とみなされる傾向がありました。

幕府瓦解後も勧進相撲は格式の高い興業としてそのまま明治・大正時代まで受け継がれていきました。ただ、相撲集団は江戸と大坂の二つに収斂されてゆき、大正14年(1925年)、東京相撲が大阪相撲を吸収合併することにより勧進相撲の組織は日本相撲協会に一元化され、現在の大相撲が誕生しました。

この組織化にあたっては、江戸時代以降、寺社奉行が取り締まり、勧進相撲と言っていた時代の方式がほとんどそのまま受け継がれました。現在でも形式的にではありますが使われている、「勧進元」という言葉はその名残であり、地方巡業の主催者のことをそう呼ぶのはこのためです。



余談が過ぎたので、富岡八幡宮の話に戻します。

寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可されたのは吉宗以前の1684年、綱吉の時代です。そのしくみはほとんどそのまま歴代の将軍の下で継承されるととともに、大相撲と呼ばれるようになった現代にまで受け継がれています。

この現在の大相撲にまで伝わるルールが最初に決められたとき、その仕組みのもとに最初に興行が行われたのが、ほかでもない「富岡八幡宮」でした。

前々年に焼失し、復興を急いでいた江戸深川にあった、ということも理由ですが、最初に興業が認められたということは、それ以上に徳川将軍家の目にかけられていたということでもあります。将軍の継嗣が誕生したことを祝う祝賀がここで行われた一事をみてもわかるように、富岡八幡宮は関東にある八幡宮の中でもとくに一目置かれる存在でした。

現在でも新横綱誕生の折りの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるのは、相撲の歴史上、もっとも由緒ある興業先、という認識が関係者にあるためです。

実際、「横綱力士碑」をはじめ相撲にまつわる数々の石碑が建つのもこの神社だけです。これは、そもそも大大関、」「雷電爲右エ門」を顕彰して建立されたものでしたが、のちに歴代の横綱力士の名が刻まれるようになりました。

12代横綱陣幕久五郎が発起人となって、明治33年(1900年)に完成。縦横約3.5×2.5m、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石で、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並びます。

綾川五郎次(初代)を2代目、丸山権太左衛門を3代目とする現在一般的な歴代横綱表も、この碑の記銘に基きます。2017年(平成29年)6月には、稀勢の里が横綱力士碑の刻名式に参加して、自らの四股名を刻んでいます。

当然、くだんのモンゴル出身の横綱の名も刻まれているはずです。例の暴行事件に加え、今回の殺傷事件と相まって、また何やら大相撲にケチがついたような気がします。

現代日本において最も人気のあるこのスポーツがらみで、こうたびたび不祥事が起こるのは、あるいは、見えないあちらの世界にいる相撲関係者からの何か警鐘のような気もしてきました。

この先大相撲がどうなっていくのか、時代の代わり目に我々はいるのかもしれません。

暗いニュースばかり頻発する相撲界ですが、年内の大相撲興業も、12月17日(日)で行われる沖縄県宜野湾市での地方巡業で終わるようです。

以後、年末にかけては少しは明るいニュースは出てこないものか、期待したいところです。



粗にして野だが…

その昔、城山三郎さんが書いた「粗にして野だが卑ではない」という題名の小説を読みました。

石田礼助(1886~1978年(明治19年~昭和53年))という人の半生を綴ったもので、この人は三井物産の代表取締役社長を務めたあと、日本国有鉄道総裁に転身した実業家です。

「粗にして野だが卑ではない」とは、彼が国鉄総裁に就任したとき国会に初登院し、就任の挨拶を行った際に出た言葉です。

「生来、“粗にして野だが卑ではない”つもりだ。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキー(山猿)が裃を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお願いしたい。」という、どこかぶっきらぼうな挨拶ですが、妙に味があります。

このころ国鉄の経営状態は惨憺たるもので、この時も、「国鉄が今日の様な状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と、居並ぶ国会議員たちを痛烈かつ率直に批判。以後他の国会答弁でも「人命を預かる鉄道員と、たばこ巻きの専売が同じ給料なのはおかしい」などと発言。歯に衣を着せぬ言いようで何かと物議を醸すことの多い人物でした。

城山さんの小説でも、こうした石田の骨太の人物像を好意的に描いていますが、1963年(昭和38年)に鶴見事故(後述)が起きたときに遺族の葬儀に参列した際には、「白髪を振り乱し」「嗚咽で弔辞も読めなかった」といい、情に厚い人だったこともうかがえます。

石田礼助は、1886年(明治19年)2月20日、ここ伊豆の松崎町江奈に生まれました。父の房吉は当地の遠洋漁業の先駆者として知られた人で、網元でもあったため、比較的裕福な環境で育てられたようです。

松崎は伊豆半島南西部の海岸沿いに位置し、古くから伊豆西海岸の中心として栄えてきた港町です。漁業だけでなく、町中心部を流れる那賀川・岩科川流域には約500haもの広大な耕地があり、伊豆半島西側最大の農業生産地でもあります。

しかし江戸時代には農業よりもより漁業に重きが置かれており、カツオ、マグロ、イワシ、サバ等を主漁として、カツオは加工して江戸へ、マグロは清水、沼津へ船で出荷されていました。また、鰹節の製造も盛んで、こちらも江戸へ出荷され、重要な地域産業のひとつでした。

町内には史跡も多く、なまこ壁造りの建物が特に印象的です。また、中心部の松崎温泉、東部の大沢温泉、南西部にある三つの温泉、岩地温泉・石部温泉・雲見温泉などが連なる「湯けむりの庄」でもあり、夏には海水浴目的の観光客も多数訪れる観光地でもあります。

実はこの松崎町、出身者には偉人が多いことが知られています。

入江長八(1815-1889)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した左官職人で、名工といわれた工芸家です。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とし、傑作美術を多く残しました。

近藤平三郎(1877 -1963)は、塩野義商店(現シオノギ製薬)の発展に寄与するとともに、同社の援助によって乙卯研究所の設立、東京帝国大学教授にも就任しました。現在、向精神薬や農薬として多用されるアルカロイド関係の薬剤開発に専心して文化勲章を受章しています。

鈴木真一は、幕末・明治時代の写真家です。横浜に出て下岡蓮杖に師事。1874年(明治6年)横浜弁天通に鈴木真一写真館を開業しました。その後、本町1丁目にモダンな洋風建築の写真館を建て、10数年にわたる研究の末、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発しました。

依田勉三(1853-1925)は、明治の早期に北海道の開拓に携わった人物です。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率いて帯広市を開拓。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章しており、北海道神宮開拓神社の祭神にも祀られています。




そして、その兄の依田佐二平(よださじべい)。松崎の産業、農業、海運、教育に多大の貢献をした実業家としてこの地では著名です。当初、海運振興を目指して豆海汽船会社を作り、その社長となりました。

また、1923年の帝国議会開設と同時に初の衆議院議員となったほか、生糸製造同業組合長、全国実業団体中央会委員、大日本蚕糸会静岡支会副会長など多くの要職に就きました。とりわけ蚕糸業界における功績は大きく、1925年には国から緑綬褒章を受けています。1940年に福岡県で開催された大日本蚕糸会総会に出品した製糸でも金牌を受賞。

輸出していた絹の海外の評価も高く、アメリカのセントルイス博覧会で銀牌を受賞しているほか、同アラスカ・ユーコン太平洋万国博覧会で金牌、日英博覧会でも金牌、イタリー万国博覧会では名誉褒状を受賞しています。

そのほか北海道開拓のため晩成社を設立。弟の勉三の北海道開拓の道筋をつけたのは彼です。さらに善吾、文三郎ら弟たちをも十勝に移住させ、半世紀にわたって困難な開拓事業と取り組んだことから、勉三とともに、北海道ではよく知られた人物です。

この依田佐二平、勉三兄弟と、その恩師である漢学者「土屋三余」の3人は地元では〝三聖〟と称されています。松崎町の中心街から1kmほど山手に入ったところにある「道の駅 花の三聖苑伊豆松崎」は、幕末から明治期にかけて活躍したこの郷土の三聖人の業績を中心に、松崎の歴史、文化を紹介する複合施設です。

初オープンは平成3年で、平成7に県内3番目の道の駅に登録されました。敷地内には、3人のたぐい稀な業績をはじめ、松崎の歴史などを紹介する「三聖会堂」が設けられています。

同じ敷地内にある「大沢学舎」は明治6年に三聖人の一人である依田佐二平が私財を投じて開校した公立小学校です。平成5年にこの場所に移され、開校当初の姿に復元されました。 館内には郷土の資料も展示されています。

松崎は海以外の三方を山に囲まれ、閉鎖的な環境にありながら、このように多くの傑出した人物を生み出しました。その原動力は「教育」であり、外部から多くの指導者を招いたことが、こうした多くの偉人を生むきっかけとなりました。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」で西田敏行さんが演じて有名になった、元会津藩家老・西郷頼母もその一人であり、この地の教育活動に多大な足跡を残しました。そして彼をこの地に招いたのも、上の依田兄弟と思われます。

市内の高台には、伊豆最古の小学校、「旧岩科学校校舎」というのがあります。明治時代に総工費2630円66銭をかけて建築されましたが、この時代にほとんどの学校が官主導で建設されていたのに対し、ここではその4割余りが住民の寄付でまかなわれたといいます。このことからも、この町の住民の教育に対する並々ならぬ情熱が伺えます。

この岩科学校は、地元の大工棟梁の設計施工による擬洋風建築で重要文化財に指定されています。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられており、レトロなその建築様式から観光客にも人気があります。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書だといいます。

その他松崎町には長八記念館、長八美術館、中瀬邸、伊豆文邸、雲見浅間神社、雲見くじら館といった数々の観光スポットがあります。小京都と呼ぶには少々語弊がありますが、およそ史跡には縁がなさそうなところが多い西伊豆にあって、多くの歴史的な文物に触れ合うことができる土地柄です。ぜひ一度訪れてみてください。

さて、余談が過ぎました。

石田礼助のことです。彼もまた上の岩科学校に通い、与田兄弟などの先駆者の薫陶をうけつつ育ったと思われますが、やがて狭いこの地での立身に限界を感じるようになり、海の向こうを目指すようになりました。

父に懇願して東京の学校へ進学することになり、東京の麻布尋常中学校に進学します。この学校は、沼津兵学校の創設者である「江原素六」が創立したもので、おそらくは同じ伊豆ということでその進学にあたっては彼の口添えがあったことでしょう。ここを経て、さらに1907年(明治40年)には東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業しました。

22歳で三井物産に入社し、アトル、ボンベイ、大連、カルカッタ、ニューヨークの各支店長を歴任。大連支店長時代には大豆の取引で巨利を得るとともに、ニューヨーク支店長時代には、錫の取引で再び成功を収め、同社での出世街道を突き進みます。

47歳で同社取締役に就任したのを皮切りに、50歳のとき常務取締役に就任。そして53歳で代表取締役社長に就任するなど三井物産一筋でトップにまで上り詰めます。しかし、55歳(1941年(昭和16年))のときに思うことがあり、同社を退社。

翌年に商工省所管の「産業設備営団」の顧問に就任。これは戦時下にあって国家総動員体制の下、住宅政策のために設立された機関です。その後近衛内閣においては、その発展形である「交易営団」が設立され、その総裁に就任しました。

ところが、太平洋戦争で日本は敗戦。石田は軍に協力的だったとして戦後に公職追放となります。このため引退を決意し、小田原の国府津へ移り住みますが、そこで運命の人、十河信二と出会います。

この十河信二とは、元南満州鉄道理事であり、戦後、鉄道弘済会会長に就任していた人物です。愛媛県新居浜出身で、東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、鉄道院に入庁。官僚時代に、時の鉄道院総裁であった後藤新平の薫陶を受けて国鉄畑を歩むことになり、のちに開発される新幹線構想に多大な影響を与えたことで知られます。

鉄道院では主に経理畑を歩み、36歳の若さで経理局会計課長に就任。関東大震災(1923年)では、後藤と共に復興事業に携わりましたが、土地売買に関わる贈収賄疑惑(復興局疑獄事件)に巻き込まれて逮捕されました。

無罪となった後、南満州鉄道株式会社(満鉄)に46歳で入社。理事を務める傍ら国策会社である「興中公司」の社長に就任して中国の経済発展に寄与します。しかし、関東軍による満州事変(1931年)が勃発すると、軍に反目して1938年に辞職。54歳で再び浪人となりました。

終戦直後の1945年には第二代愛媛県西条市長に就任しますが、翌年には市長を辞任。鉄道弘済会会長に就任したのはこのときです。さらに日本経済復興協会会長をも兼任するなど、戦前に贈収賄疑惑でふいにした人生を取り戻すかのように活発な活動を再開しました。

しかしちょうどこのころ、千人以上の死者を出した洞爺丸事故が勃発。また、168人が死亡した紫雲丸事故が起こります。このとき3代目の国鉄総裁であった長崎惣之助は、これが原因となって引責辞任。これを受けて、しぶしぶその後任となったのが十河信二でした。



この当時の国鉄は、赤字体質とこうした相次ぐ事故による世間の批判集中により、後任の成り手がいませんでした。弘済会の会長も務めていた十河は国鉄の行く末を心配し、国鉄の経営に対してもいろいろ口出しをしていましたが、長崎が辞任に追い込まれると、「そんなに言うんなら、あんたがやったらどうか」と、内外から白羽の矢が立ちました。

年齢と健康を理由にいったんは固辞しますが、そこへ現れたのが同じ四国出身国会議員で日本民主党総務会長の三木武吉です。三木は十河に対し、「君は赤紙を突き付けられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と説教をし、これに対して十河は、「俺は不忠者にはならん」と言い、総裁職を引き受けてしまいます。

当時は大事故が立て続けに起こったことで国鉄の信用は地に墜ちており、そこで登板した十河に対し、「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との酷評もありました。

それに対して十河は、最後のご奉公と思い、赤紙を受けて戦場に行く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をし、信用の回復を自身の第一目標として総裁を引き受けました。

71歳という高齢で第4代日本国有鉄道総裁に就任した十河が、このとき右腕として目をつけたのが同じ国府津の住人であった石田です。1956年(昭和31年)、十河信二の依頼で日本国有鉄道監査委員長として実業界に復帰。

このとき、石田もまた70歳を迎えており、二人の古機関車が、ボロボロになった国鉄を牽引することになりました。当初は2期7年にわたって国鉄監査委員長をつとめ、その後、諮問委員を務めることになります。

十河は就任後、新幹線建設計画を主導・推進するとともに主要幹線の電化・ディーゼル化(無煙化)や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システム「マルス」を導入して座席券販売の効率化を図るなど、当時高度経済成長で大きく伸びていた輸送需要への対応に努めました。

新幹線工事にあたっては、世界銀行から8千万ドルの借款を受けることに成功しましたが、
1962年に死者160人、負傷者296人を出す三河島事故が発生すると、東海道新幹線の建設予算超過の責任を負うという名目で総裁職を退任しました。ただ在任8年は歴代国鉄総裁の中で最長でした。

こうして1963年(昭和38年)、新国鉄総裁が選出されることになります。その起用にあたり、当時の池田勇人首相は官からの選出ではなく、財界人の抜擢に執念を燃やしました。十河のような官僚出身者ではまた同じ過ちを繰り返すと考えたからです。そして池田の強い希望により、十河の後任として第5代国鉄総裁に就任したのが石田礼助です。

池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の政敵になっていた佐藤栄作の国鉄への影響力を絶ちたいためでもありました。また、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからでもあり、民間商社出身の石田はその適任でした。

石田にこの総裁就任の話があったのは国鉄の諮問委員会があった日でした。国鉄本社に所要があって立ち寄り、文書課へ顔を出したとき、このころ日本工業倶楽部理事長であった石坂泰三(のちの経団連会長)から「急な用件で」と電話があったことを知らされます。

急いで車を呼び、飛ぶようにして総理官邸へ向かうと、総理から切り出されたのは思いもかけない総裁就任の話でした。躊躇せず、数え78歳でこの総裁職の申し出を引き受けた後、開かれた記者会見で彼は、「乃公(だいこう)出でずんば」の心境である、と語りました。

これは「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何(いかん)せん」ということわざに由来します。「蒼生」は人民の意。乃公とは、自分のことを指す一人称(書き言葉)です。「乃(=汝、お前)」の「公(=主君)」ということで、「俺様」とか「我が輩」といったニュアンスがあります

つまり「乃公出(いで)ずんば」は、「俺様が出ないで、他の者に何ができるものか」といった意味となります。並々ならぬ自信を示す発言でしたが、この石田の総裁就任の報せに、石田を知る人々の間では、「よくまあ引き受けたものだ」という声が圧倒的であったといいます。

若いころに三井物産社員であり、ニューヨークでは石田支店長に仕えたことのあった弘世現(元日本生命社長・会長)は、この時こう語りました。

「石田さんが引き受けられたと聞いて、とにかくびっくりしました。普通なら、悠々と余生をたのしむところでしよう。総裁になったところで、いいのは汽車に乗るのがタダになるぐらい。それなのに、総裁の仕事は容易なことじゃない。石田さんはそれを読んでたはずなのに。」




しかしそうした心配とは裏腹に石田は、自らを「ヤング・ソルジャー」と称して活発に活動を開始します。官僚としての経験は未知でしたが、「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬は返上する」と宣言して、その通り総裁報酬は受け取らずに勤務し、国民からは喝采を得ました。

さらに鶴見事故の発生後は、給料さえも1円も受け取らなかったといい、ただしその代りに1年あたり洋酒1本を受け取ることにしていたといいます。

ちなみに、本項でたびたび出てくる鶴見事故とは、国鉄時代に生じた事故の中でも最も犠牲者の多かった事故の一つです。1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に東海道本線鶴見駅~新子安駅間の踏切で発生した列車脱線多重衝突事故で、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となりました。

この事故では、車両や軌道に決定的な欠陥は見られず、原因は現在も不明で、一応の結論としては、様々な要因が重なり(競合して)脱線に至る「競合脱線」とされました。

石田はまた国会質疑でも「ご意見番」であり続けました。国労と直接交渉したり、「黒い霧事件」が発覚した際は国鉄幹部に「接待ゴルフはやめなさい」とたしなめるなど、財界出身ながらも官僚社会である国鉄内部に対して堂々と意見を発しました。

この事件は、自民党の荒舩清十郎運輸大臣が、自選挙区の深谷駅に急行列車が停まるよう国鉄にダイヤ改定をするように圧力をかけた事件です。それだけでなく、自民党を中心に相次いで不祥事が発覚し、これにより著しく国民に政治不信を与え、国政に対する信頼が失われました。

総裁在任中の1964年(昭和39年)10月1日には、前任の十河が果たせなかった東海道新幹線が開通し、石田はその代りに開通式でテープカットを行っています。

また「赤字83線」廃止提言や名神ハイウェイバス参入など国鉄の経営合理化に取り組み、国鉄経営に民間企業の経営方針の導入を試行しました。さらには“パブリックサービス”の概念を徹底させ、「持たせ切り」を禁止しました。

当時の鉄道は改札口で切符に駅員がいちいちパンチを入れていました。このパンチの形でいつどの駅から入ったかも認識できるようになっていました。パンチを入れるときに乗客に切符を持たせたままでそこにパチンと入れるのが「持たせ切り」です。

この当時、タクシー業界では乗車拒否が問題になっており、「乗車拒否禁止令」が出されました。どちらも「接客業」としてはいかがなものか、ということで「態度を改めろ」と問題になっており、これを機に国鉄の方では客から切符を受け取ってパンチを入れて切符を返すようになりました。

また、運賃制度にモノクラス制を導入し一等車・二等車の呼称をグリーン車・普通車に変更させました。1965年には国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の経営権を産経新聞社・フジテレビへ譲渡しています。鶴見事故後の安全対策や連絡船の近代化、通勤五方面作戦(首都圏の5通勤路線の輸送量増強計画)を目指し、その推進にも着手…。

一部で「このような大規模投資は利益に直結しない」と批判されましたが「降り掛かる火の粉は払わにゃならぬ」と反論。さらには東海道新幹線に続いて山陽新幹線の建設にも着手しました。

結局、4年の国鉄総裁任期をフルに使ってもまだ改革は止まらず、ついには二期目に突入します。その途中の昭和43年(1968年)10月に行われた大規模ダイヤ改正(ヨンサントオ)では、これまでの国鉄でもあまり例のない大規模な改革を実施します。

ヨンサントオ(4・3・10)とは、国鉄が実施した「白紙ダイヤ改正」とも言うべき大規模改革で、このように命名して大々的に広報活動を展開したのは当時としては極めて異例の出来事でした。無煙化(動力近代化計画)の促進や、全国的な高速列車網の整備など、その後の国鉄の全国輸送体系、ひいては現在のJR列車群の基礎を作った画期的な内容でした。

日本は50年代後半から戦後復興を終えて経済成長期に入り、国鉄の旅客・貨物輸送量も大幅に増加しましたが、鉄道の基盤整備が遅れていることは否めず、長らく慢性的な輸送力不足が続き、また鶴見事故のような重大事故もしばしば発生しました。

60年代の高度経済成長への対応能力が危ぶまれる状況にあり、さらには、航空機や自動車など交通手段の多様化により、輸送量は増えているものの、次第にシェアは低下してきていたため、国鉄は1965年(昭和40年)から7か年に渡る第3次長期計画を策定し、既に輸送体制の抜本的な強化を開始していました。

ヨンサントオはこの7か年計画の前半部分の成果を取り入れて実施された抜本改革であり、採算性の悪化が問題となっていたローカル線115線区において、合計18,500 km / 日に及ぶ列車の運行本数が削減されました。のちの鉄道関係者・鉄道ファンの間でもヨンサントオと聞けば大規模改革、と即座に答えがかえってくるほどの改正です。

ちなみに、このダイヤ改正によりSL牽引列車が激減したことにより、それまで「どこにでもあった」SLは希少価値を高め、静かに広まりつつあったSLブームがさらに過熱しました。以来、写真撮影に適した場所を取り合ったり、禁止された場所や他人の所有地に侵入して三脚を立てる業者やファンが目立つようになりました。



こうした大改革をやり遂げた翌年1969年5月には運賃値上げ法が成立。その直後、石田は高齢を理由に総裁辞任。多くの職員に見送られて国鉄本社を去りましたが、このとき、なんと83歳でした。

辞任後は再び晴耕雨読の日々に戻り、昭和53年(1978年)7月27日92歳にて死去。
生前、総裁になったときに発した「粗にして野だが卑でもない」の言葉は、その武骨で清廉な人柄とともに人々の記憶に長く残るところとなりました。

後に国鉄分割民営化を推進し、国鉄内部の三羽烏と目され、東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役名誉会長になった葛西敬之は、その著書で石田を「名総裁であると思う」と評し、彼の手腕により国鉄設備の近代化が促進されたことを高く評価しています。

ところで、前述の黒い霧事件で世間から批判を浴びた元運輸大臣、荒舩清十郎もこの2年後の1980年(昭和55年)11月25日に亡くなっています。その生前、荒舩は国会の場という公前で池田と直接的な接点を持っています。

荒舩はこの事件のあとも政界で活躍し、1976年(昭和51年)には衆議院予算委員長としてロッキード事件の証人喚問を取り仕切ったことで有名になりました。

また、同年三木内閣改造内閣、翌年福田内閣改造内閣でそれぞれ行政管理庁長官も務め、ニセ電話事件(ロッキード事件がらみで現職裁判官が起こした政治謀略事件)においては弾劾裁判の裁判長も務めています。

決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれていたところは、石田とどこか似ています。

黒い霧事件が発生する以前の1966年(昭和41年)8月、第1次佐藤内閣第2次改造内閣の運輸相に抜擢されましたが、上述のとおり、ヨンサントオに先立つこの年の10月1日からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅を急行停車駅に指定させたため、世論の批判を受けます。

問題が表面化した9月3日の夜、荒舩は自宅で新聞記者に「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」と発言しました。

9月12日の参議院運輸委員会でこの問題が取り上げられますが、このとき答弁に立ったのが、石田礼助国鉄総裁です。このとき彼は「いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」と答弁したといいます。

この発言をどうとらえるかは、いまだに議論があるようですが、ひとつにはこの当時の国鉄と運輸省は反目しつつも、ダイヤ改正などの抜本改革を巡って馴れ合い関係にあり、急行駅停車事件も黙認したという見方です。

が、池田は荒舩に対して似たようなテイストを感じており、案外とかねてより好意を持っていた、というのがもう一つの見方であり、類は友を呼ぶ、というべきだったのかもしれません。

しかし、この問題を皮切りに、荒舩の疑惑が次々と国会で追及されるところとなります。一連の疑惑が積み重なり、荒舩はついに10月11日に辞表を提出しました。辞任時の記者会見で荒舩は「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」と語っています。

さらに翌1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で、埼玉3区から立候補した荒舩は、まず秩父神社で選挙演説を始め、「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」と演説し喝采を浴びると共に、そのあまりにもストレートな地元至上主義的な内容でマスコミ関係者の度肝を抜きました。

「粗にして野だが卑ではない。」彼もまた、この言葉にふさわしい人生を送った人物といえるでしょう。

徳があり、清廉でウソがない人物だからこそ、多少の失言はあっても世間も文句は言わないわけです。最近、こうした徳やら気骨のある政治家や実業家が少なくなっているような気がします。

さて、自分を振り返ってみるにどうか…といえばこうした偉人達には程遠い…。

「粗にして野だし、卑でもある」 そんなところでしょう。

そんな自分でも、今年もまた年末がやってきます。凡人である私は、今年もそこそこの数の年賀状を準備し、他にへつらわなければなりません。

しかし、今年は開き直り、粗にして野、しかも卑なものを作ってみようかと思いますが、はたしてどんな仕上がりになるでしょうか。