粗にして野だが…

その昔、城山三郎さんが書いた「粗にして野だが卑ではない」という題名の小説を読みました。

石田礼助(1886~1978年(明治19年~昭和53年))という人の半生を綴ったもので、この人は三井物産の代表取締役社長を務めたあと、日本国有鉄道総裁に転身した実業家です。

「粗にして野だが卑ではない」とは、彼が国鉄総裁に就任したとき国会に初登院し、就任の挨拶を行った際に出た言葉です。

「生来、“粗にして野だが卑ではない”つもりだ。丁寧な言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキー(山猿)が裃を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお願いしたい。」という、どこかぶっきらぼうな挨拶ですが、妙に味があります。

このころ国鉄の経営状態は惨憺たるもので、この時も、「国鉄が今日の様な状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と、居並ぶ国会議員たちを痛烈かつ率直に批判。以後他の国会答弁でも「人命を預かる鉄道員と、たばこ巻きの専売が同じ給料なのはおかしい」などと発言。歯に衣を着せぬ言いようで何かと物議を醸すことの多い人物でした。

城山さんの小説でも、こうした石田の骨太の人物像を好意的に描いていますが、1963年(昭和38年)に鶴見事故(後述)が起きたときに遺族の葬儀に参列した際には、「白髪を振り乱し」「嗚咽で弔辞も読めなかった」といい、情に厚い人だったこともうかがえます。

石田礼助は、1886年(明治19年)2月20日、ここ伊豆の松崎町江奈に生まれました。父の房吉は当地の遠洋漁業の先駆者として知られた人で、網元でもあったため、比較的裕福な環境で育てられたようです。

松崎は伊豆半島南西部の海岸沿いに位置し、古くから伊豆西海岸の中心として栄えてきた港町です。漁業だけでなく、町中心部を流れる那賀川・岩科川流域には約500haもの広大な耕地があり、伊豆半島西側最大の農業生産地でもあります。

しかし江戸時代には農業よりもより漁業に重きが置かれており、カツオ、マグロ、イワシ、サバ等を主漁として、カツオは加工して江戸へ、マグロは清水、沼津へ船で出荷されていました。また、鰹節の製造も盛んで、こちらも江戸へ出荷され、重要な地域産業のひとつでした。

町内には史跡も多く、なまこ壁造りの建物が特に印象的です。また、中心部の松崎温泉、東部の大沢温泉、南西部にある三つの温泉、岩地温泉・石部温泉・雲見温泉などが連なる「湯けむりの庄」でもあり、夏には海水浴目的の観光客も多数訪れる観光地でもあります。

実はこの松崎町、出身者には偉人が多いことが知られています。

入江長八(1815-1889)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した左官職人で、名工といわれた工芸家です。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とし、傑作美術を多く残しました。

近藤平三郎(1877 -1963)は、塩野義商店(現シオノギ製薬)の発展に寄与するとともに、同社の援助によって乙卯研究所の設立、東京帝国大学教授にも就任しました。現在、向精神薬や農薬として多用されるアルカロイド関係の薬剤開発に専心して文化勲章を受章しています。

鈴木真一は、幕末・明治時代の写真家です。横浜に出て下岡蓮杖に師事。1874年(明治6年)横浜弁天通に鈴木真一写真館を開業しました。その後、本町1丁目にモダンな洋風建築の写真館を建て、10数年にわたる研究の末、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発しました。

依田勉三(1853-1925)は、明治の早期に北海道の開拓に携わった人物です。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率いて帯広市を開拓。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章しており、北海道神宮開拓神社の祭神にも祀られています。




そして、その兄の依田佐二平(よださじべい)。松崎の産業、農業、海運、教育に多大の貢献をした実業家としてこの地では著名です。当初、海運振興を目指して豆海汽船会社を作り、その社長となりました。

また、1923年の帝国議会開設と同時に初の衆議院議員となったほか、生糸製造同業組合長、全国実業団体中央会委員、大日本蚕糸会静岡支会副会長など多くの要職に就きました。とりわけ蚕糸業界における功績は大きく、1925年には国から緑綬褒章を受けています。1940年に福岡県で開催された大日本蚕糸会総会に出品した製糸でも金牌を受賞。

輸出していた絹の海外の評価も高く、アメリカのセントルイス博覧会で銀牌を受賞しているほか、同アラスカ・ユーコン太平洋万国博覧会で金牌、日英博覧会でも金牌、イタリー万国博覧会では名誉褒状を受賞しています。

そのほか北海道開拓のため晩成社を設立。弟の勉三の北海道開拓の道筋をつけたのは彼です。さらに善吾、文三郎ら弟たちをも十勝に移住させ、半世紀にわたって困難な開拓事業と取り組んだことから、勉三とともに、北海道ではよく知られた人物です。

この依田佐二平、勉三兄弟と、その恩師である漢学者「土屋三余」の3人は地元では〝三聖〟と称されています。松崎町の中心街から1kmほど山手に入ったところにある「道の駅 花の三聖苑伊豆松崎」は、幕末から明治期にかけて活躍したこの郷土の三聖人の業績を中心に、松崎の歴史、文化を紹介する複合施設です。

初オープンは平成3年で、平成7に県内3番目の道の駅に登録されました。敷地内には、3人のたぐい稀な業績をはじめ、松崎の歴史などを紹介する「三聖会堂」が設けられています。

同じ敷地内にある「大沢学舎」は明治6年に三聖人の一人である依田佐二平が私財を投じて開校した公立小学校です。平成5年にこの場所に移され、開校当初の姿に復元されました。 館内には郷土の資料も展示されています。

松崎は海以外の三方を山に囲まれ、閉鎖的な環境にありながら、このように多くの傑出した人物を生み出しました。その原動力は「教育」であり、外部から多くの指導者を招いたことが、こうした多くの偉人を生むきっかけとなりました。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」で西田敏行さんが演じて有名になった、元会津藩家老・西郷頼母もその一人であり、この地の教育活動に多大な足跡を残しました。そして彼をこの地に招いたのも、上の依田兄弟と思われます。

市内の高台には、伊豆最古の小学校、「旧岩科学校校舎」というのがあります。明治時代に総工費2630円66銭をかけて建築されましたが、この時代にほとんどの学校が官主導で建設されていたのに対し、ここではその4割余りが住民の寄付でまかなわれたといいます。このことからも、この町の住民の教育に対する並々ならぬ情熱が伺えます。

この岩科学校は、地元の大工棟梁の設計施工による擬洋風建築で重要文化財に指定されています。玄関上の唐破風など寺社建築の要素に加え、なまこ壁やアーチ窓、半円バルコニーが組み合わせられており、レトロなその建築様式から観光客にも人気があります。正面玄関に掲げられた「岩科学校」の扁額は、太政大臣・三条実美の書だといいます。

その他松崎町には長八記念館、長八美術館、中瀬邸、伊豆文邸、雲見浅間神社、雲見くじら館といった数々の観光スポットがあります。小京都と呼ぶには少々語弊がありますが、およそ史跡には縁がなさそうなところが多い西伊豆にあって、多くの歴史的な文物に触れ合うことができる土地柄です。ぜひ一度訪れてみてください。

さて、余談が過ぎました。

石田礼助のことです。彼もまた上の岩科学校に通い、与田兄弟などの先駆者の薫陶をうけつつ育ったと思われますが、やがて狭いこの地での立身に限界を感じるようになり、海の向こうを目指すようになりました。

父に懇願して東京の学校へ進学することになり、東京の麻布尋常中学校に進学します。この学校は、沼津兵学校の創設者である「江原素六」が創立したもので、おそらくは同じ伊豆ということでその進学にあたっては彼の口添えがあったことでしょう。ここを経て、さらに1907年(明治40年)には東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業しました。

22歳で三井物産に入社し、アトル、ボンベイ、大連、カルカッタ、ニューヨークの各支店長を歴任。大連支店長時代には大豆の取引で巨利を得るとともに、ニューヨーク支店長時代には、錫の取引で再び成功を収め、同社での出世街道を突き進みます。

47歳で同社取締役に就任したのを皮切りに、50歳のとき常務取締役に就任。そして53歳で代表取締役社長に就任するなど三井物産一筋でトップにまで上り詰めます。しかし、55歳(1941年(昭和16年))のときに思うことがあり、同社を退社。

翌年に商工省所管の「産業設備営団」の顧問に就任。これは戦時下にあって国家総動員体制の下、住宅政策のために設立された機関です。その後近衛内閣においては、その発展形である「交易営団」が設立され、その総裁に就任しました。

ところが、太平洋戦争で日本は敗戦。石田は軍に協力的だったとして戦後に公職追放となります。このため引退を決意し、小田原の国府津へ移り住みますが、そこで運命の人、十河信二と出会います。

この十河信二とは、元南満州鉄道理事であり、戦後、鉄道弘済会会長に就任していた人物です。愛媛県新居浜出身で、東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、鉄道院に入庁。官僚時代に、時の鉄道院総裁であった後藤新平の薫陶を受けて国鉄畑を歩むことになり、のちに開発される新幹線構想に多大な影響を与えたことで知られます。

鉄道院では主に経理畑を歩み、36歳の若さで経理局会計課長に就任。関東大震災(1923年)では、後藤と共に復興事業に携わりましたが、土地売買に関わる贈収賄疑惑(復興局疑獄事件)に巻き込まれて逮捕されました。

無罪となった後、南満州鉄道株式会社(満鉄)に46歳で入社。理事を務める傍ら国策会社である「興中公司」の社長に就任して中国の経済発展に寄与します。しかし、関東軍による満州事変(1931年)が勃発すると、軍に反目して1938年に辞職。54歳で再び浪人となりました。

終戦直後の1945年には第二代愛媛県西条市長に就任しますが、翌年には市長を辞任。鉄道弘済会会長に就任したのはこのときです。さらに日本経済復興協会会長をも兼任するなど、戦前に贈収賄疑惑でふいにした人生を取り戻すかのように活発な活動を再開しました。

しかしちょうどこのころ、千人以上の死者を出した洞爺丸事故が勃発。また、168人が死亡した紫雲丸事故が起こります。このとき3代目の国鉄総裁であった長崎惣之助は、これが原因となって引責辞任。これを受けて、しぶしぶその後任となったのが十河信二でした。



この当時の国鉄は、赤字体質とこうした相次ぐ事故による世間の批判集中により、後任の成り手がいませんでした。弘済会の会長も務めていた十河は国鉄の行く末を心配し、国鉄の経営に対してもいろいろ口出しをしていましたが、長崎が辞任に追い込まれると、「そんなに言うんなら、あんたがやったらどうか」と、内外から白羽の矢が立ちました。

年齢と健康を理由にいったんは固辞しますが、そこへ現れたのが同じ四国出身国会議員で日本民主党総務会長の三木武吉です。三木は十河に対し、「君は赤紙を突き付けられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と説教をし、これに対して十河は、「俺は不忠者にはならん」と言い、総裁職を引き受けてしまいます。

当時は大事故が立て続けに起こったことで国鉄の信用は地に墜ちており、そこで登板した十河に対し、「鉄道博物館から引っ張りだされた古機関車」との酷評もありました。

それに対して十河は、最後のご奉公と思い、赤紙を受けて戦場に行く兵士のつもりで、鉄路を枕に討ち死にの覚悟で職務にあたる」という挨拶をし、信用の回復を自身の第一目標として総裁を引き受けました。

71歳という高齢で第4代日本国有鉄道総裁に就任した十河が、このとき右腕として目をつけたのが同じ国府津の住人であった石田です。1956年(昭和31年)、十河信二の依頼で日本国有鉄道監査委員長として実業界に復帰。

このとき、石田もまた70歳を迎えており、二人の古機関車が、ボロボロになった国鉄を牽引することになりました。当初は2期7年にわたって国鉄監査委員長をつとめ、その後、諮問委員を務めることになります。

十河は就任後、新幹線建設計画を主導・推進するとともに主要幹線の電化・ディーゼル化(無煙化)や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システム「マルス」を導入して座席券販売の効率化を図るなど、当時高度経済成長で大きく伸びていた輸送需要への対応に努めました。

新幹線工事にあたっては、世界銀行から8千万ドルの借款を受けることに成功しましたが、
1962年に死者160人、負傷者296人を出す三河島事故が発生すると、東海道新幹線の建設予算超過の責任を負うという名目で総裁職を退任しました。ただ在任8年は歴代国鉄総裁の中で最長でした。

こうして1963年(昭和38年)、新国鉄総裁が選出されることになります。その起用にあたり、当時の池田勇人首相は官からの選出ではなく、財界人の抜擢に執念を燃やしました。十河のような官僚出身者ではまた同じ過ちを繰り返すと考えたからです。そして池田の強い希望により、十河の後任として第5代国鉄総裁に就任したのが石田礼助です。

池田が財界人の起用にこだわったのは、当時池田の政敵になっていた佐藤栄作の国鉄への影響力を絶ちたいためでもありました。また、公共企業体としての明朗な国鉄カラーを取り戻し、国鉄経営に民営色を強め、思い切った経営合理化を実施しようと考えたからでもあり、民間商社出身の石田はその適任でした。

石田にこの総裁就任の話があったのは国鉄の諮問委員会があった日でした。国鉄本社に所要があって立ち寄り、文書課へ顔を出したとき、このころ日本工業倶楽部理事長であった石坂泰三(のちの経団連会長)から「急な用件で」と電話があったことを知らされます。

急いで車を呼び、飛ぶようにして総理官邸へ向かうと、総理から切り出されたのは思いもかけない総裁就任の話でした。躊躇せず、数え78歳でこの総裁職の申し出を引き受けた後、開かれた記者会見で彼は、「乃公(だいこう)出でずんば」の心境である、と語りました。

これは「乃公(だいこう)出でずんば蒼生を如何(いかん)せん」ということわざに由来します。「蒼生」は人民の意。乃公とは、自分のことを指す一人称(書き言葉)です。「乃(=汝、お前)」の「公(=主君)」ということで、「俺様」とか「我が輩」といったニュアンスがあります

つまり「乃公出(いで)ずんば」は、「俺様が出ないで、他の者に何ができるものか」といった意味となります。並々ならぬ自信を示す発言でしたが、この石田の総裁就任の報せに、石田を知る人々の間では、「よくまあ引き受けたものだ」という声が圧倒的であったといいます。

若いころに三井物産社員であり、ニューヨークでは石田支店長に仕えたことのあった弘世現(元日本生命社長・会長)は、この時こう語りました。

「石田さんが引き受けられたと聞いて、とにかくびっくりしました。普通なら、悠々と余生をたのしむところでしよう。総裁になったところで、いいのは汽車に乗るのがタダになるぐらい。それなのに、総裁の仕事は容易なことじゃない。石田さんはそれを読んでたはずなのに。」




しかしそうした心配とは裏腹に石田は、自らを「ヤング・ソルジャー」と称して活発に活動を開始します。官僚としての経験は未知でしたが、「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬は返上する」と宣言して、その通り総裁報酬は受け取らずに勤務し、国民からは喝采を得ました。

さらに鶴見事故の発生後は、給料さえも1円も受け取らなかったといい、ただしその代りに1年あたり洋酒1本を受け取ることにしていたといいます。

ちなみに、本項でたびたび出てくる鶴見事故とは、国鉄時代に生じた事故の中でも最も犠牲者の多かった事故の一つです。1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に東海道本線鶴見駅~新子安駅間の踏切で発生した列車脱線多重衝突事故で、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となりました。

この事故では、車両や軌道に決定的な欠陥は見られず、原因は現在も不明で、一応の結論としては、様々な要因が重なり(競合して)脱線に至る「競合脱線」とされました。

石田はまた国会質疑でも「ご意見番」であり続けました。国労と直接交渉したり、「黒い霧事件」が発覚した際は国鉄幹部に「接待ゴルフはやめなさい」とたしなめるなど、財界出身ながらも官僚社会である国鉄内部に対して堂々と意見を発しました。

この事件は、自民党の荒舩清十郎運輸大臣が、自選挙区の深谷駅に急行列車が停まるよう国鉄にダイヤ改定をするように圧力をかけた事件です。それだけでなく、自民党を中心に相次いで不祥事が発覚し、これにより著しく国民に政治不信を与え、国政に対する信頼が失われました。

総裁在任中の1964年(昭和39年)10月1日には、前任の十河が果たせなかった東海道新幹線が開通し、石田はその代りに開通式でテープカットを行っています。

また「赤字83線」廃止提言や名神ハイウェイバス参入など国鉄の経営合理化に取り組み、国鉄経営に民間企業の経営方針の導入を試行しました。さらには“パブリックサービス”の概念を徹底させ、「持たせ切り」を禁止しました。

当時の鉄道は改札口で切符に駅員がいちいちパンチを入れていました。このパンチの形でいつどの駅から入ったかも認識できるようになっていました。パンチを入れるときに乗客に切符を持たせたままでそこにパチンと入れるのが「持たせ切り」です。

この当時、タクシー業界では乗車拒否が問題になっており、「乗車拒否禁止令」が出されました。どちらも「接客業」としてはいかがなものか、ということで「態度を改めろ」と問題になっており、これを機に国鉄の方では客から切符を受け取ってパンチを入れて切符を返すようになりました。

また、運賃制度にモノクラス制を導入し一等車・二等車の呼称をグリーン車・普通車に変更させました。1965年には国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の経営権を産経新聞社・フジテレビへ譲渡しています。鶴見事故後の安全対策や連絡船の近代化、通勤五方面作戦(首都圏の5通勤路線の輸送量増強計画)を目指し、その推進にも着手…。

一部で「このような大規模投資は利益に直結しない」と批判されましたが「降り掛かる火の粉は払わにゃならぬ」と反論。さらには東海道新幹線に続いて山陽新幹線の建設にも着手しました。

結局、4年の国鉄総裁任期をフルに使ってもまだ改革は止まらず、ついには二期目に突入します。その途中の昭和43年(1968年)10月に行われた大規模ダイヤ改正(ヨンサントオ)では、これまでの国鉄でもあまり例のない大規模な改革を実施します。

ヨンサントオ(4・3・10)とは、国鉄が実施した「白紙ダイヤ改正」とも言うべき大規模改革で、このように命名して大々的に広報活動を展開したのは当時としては極めて異例の出来事でした。無煙化(動力近代化計画)の促進や、全国的な高速列車網の整備など、その後の国鉄の全国輸送体系、ひいては現在のJR列車群の基礎を作った画期的な内容でした。

日本は50年代後半から戦後復興を終えて経済成長期に入り、国鉄の旅客・貨物輸送量も大幅に増加しましたが、鉄道の基盤整備が遅れていることは否めず、長らく慢性的な輸送力不足が続き、また鶴見事故のような重大事故もしばしば発生しました。

60年代の高度経済成長への対応能力が危ぶまれる状況にあり、さらには、航空機や自動車など交通手段の多様化により、輸送量は増えているものの、次第にシェアは低下してきていたため、国鉄は1965年(昭和40年)から7か年に渡る第3次長期計画を策定し、既に輸送体制の抜本的な強化を開始していました。

ヨンサントオはこの7か年計画の前半部分の成果を取り入れて実施された抜本改革であり、採算性の悪化が問題となっていたローカル線115線区において、合計18,500 km / 日に及ぶ列車の運行本数が削減されました。のちの鉄道関係者・鉄道ファンの間でもヨンサントオと聞けば大規模改革、と即座に答えがかえってくるほどの改正です。

ちなみに、このダイヤ改正によりSL牽引列車が激減したことにより、それまで「どこにでもあった」SLは希少価値を高め、静かに広まりつつあったSLブームがさらに過熱しました。以来、写真撮影に適した場所を取り合ったり、禁止された場所や他人の所有地に侵入して三脚を立てる業者やファンが目立つようになりました。



こうした大改革をやり遂げた翌年1969年5月には運賃値上げ法が成立。その直後、石田は高齢を理由に総裁辞任。多くの職員に見送られて国鉄本社を去りましたが、このとき、なんと83歳でした。

辞任後は再び晴耕雨読の日々に戻り、昭和53年(1978年)7月27日92歳にて死去。
生前、総裁になったときに発した「粗にして野だが卑でもない」の言葉は、その武骨で清廉な人柄とともに人々の記憶に長く残るところとなりました。

後に国鉄分割民営化を推進し、国鉄内部の三羽烏と目され、東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役名誉会長になった葛西敬之は、その著書で石田を「名総裁であると思う」と評し、彼の手腕により国鉄設備の近代化が促進されたことを高く評価しています。

ところで、前述の黒い霧事件で世間から批判を浴びた元運輸大臣、荒舩清十郎もこの2年後の1980年(昭和55年)11月25日に亡くなっています。その生前、荒舩は国会の場という公前で池田と直接的な接点を持っています。

荒舩はこの事件のあとも政界で活躍し、1976年(昭和51年)には衆議院予算委員長としてロッキード事件の証人喚問を取り仕切ったことで有名になりました。

また、同年三木内閣改造内閣、翌年福田内閣改造内閣でそれぞれ行政管理庁長官も務め、ニセ電話事件(ロッキード事件がらみで現職裁判官が起こした政治謀略事件)においては弾劾裁判の裁判長も務めています。

決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれていたところは、石田とどこか似ています。

黒い霧事件が発生する以前の1966年(昭和41年)8月、第1次佐藤内閣第2次改造内閣の運輸相に抜擢されましたが、上述のとおり、ヨンサントオに先立つこの年の10月1日からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅を急行停車駅に指定させたため、世論の批判を受けます。

問題が表面化した9月3日の夜、荒舩は自宅で新聞記者に「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」と発言しました。

9月12日の参議院運輸委員会でこの問題が取り上げられますが、このとき答弁に立ったのが、石田礼助国鉄総裁です。このとき彼は「いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」と答弁したといいます。

この発言をどうとらえるかは、いまだに議論があるようですが、ひとつにはこの当時の国鉄と運輸省は反目しつつも、ダイヤ改正などの抜本改革を巡って馴れ合い関係にあり、急行駅停車事件も黙認したという見方です。

が、池田は荒舩に対して似たようなテイストを感じており、案外とかねてより好意を持っていた、というのがもう一つの見方であり、類は友を呼ぶ、というべきだったのかもしれません。

しかし、この問題を皮切りに、荒舩の疑惑が次々と国会で追及されるところとなります。一連の疑惑が積み重なり、荒舩はついに10月11日に辞表を提出しました。辞任時の記者会見で荒舩は「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」と語っています。

さらに翌1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で、埼玉3区から立候補した荒舩は、まず秩父神社で選挙演説を始め、「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」と演説し喝采を浴びると共に、そのあまりにもストレートな地元至上主義的な内容でマスコミ関係者の度肝を抜きました。

「粗にして野だが卑ではない。」彼もまた、この言葉にふさわしい人生を送った人物といえるでしょう。

徳があり、清廉でウソがない人物だからこそ、多少の失言はあっても世間も文句は言わないわけです。最近、こうした徳やら気骨のある政治家や実業家が少なくなっているような気がします。

さて、自分を振り返ってみるにどうか…といえばこうした偉人達には程遠い…。

「粗にして野だし、卑でもある」 そんなところでしょう。

そんな自分でも、今年もまた年末がやってきます。凡人である私は、今年もそこそこの数の年賀状を準備し、他にへつらわなければなりません。

しかし、今年は開き直り、粗にして野、しかも卑なものを作ってみようかと思いますが、はたしてどんな仕上がりになるでしょうか。