明治元年

慶応4年の年明けに始まった戊辰戦争は、2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃したことによって始まった、とされます。

ここでいわずもがなですが、「戊辰(ぼしん・つちのえたつ)」の意味を簡単に説明しておくと、これは60通りある、干支のひとつです。干支は月や年を表すために中国で使われるようになったものです。

なぜこのような呼称が使われるようになったかについては諸説あるようですが、一番単純な理由としては、「あの年」といったときにどの年だかわからなくなるので、戊辰の年だよ、といえば、どの年だか特定しやすくなるためです。

10種類からなる十干と、12種類から干支の組み合わせ(積)は120となります。が、最小公倍数は60になります。戊辰と辰戊は同じのため、一つとみなすわけです。

十干は、甲・乙・丙・丁…と始まりますから、その後ろに子・丑・寅・卯・辰・巳…で始まる十二支をつけると、順番に甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰…となります。こうした周期性を昔の人は覚えていて、あの年だよあの年、どの年だよ、といった議論になったときに、○○の年、といえば意志疎通がしやすくなる、というわけです。

この干支の5番目にあたる戊辰の年は、年号で表わすと慶応4年(1868年)となりますが、維新によって元号が改められたため、同年9月8日(現10月23日)をもって「明治」に改元、同年1月1日(現1月25日)に遡って明治元年となりました。




徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した慶長8年(1603年)から265年間続いた江戸時代はこれで終わりをつげ、明治の時代が始まりました。

しかし、その新しい時代の幕開けには、日本人同士が戦い、多くの血を流した戊辰戦争という市民戦争がありました。このうち、最初の一週間ほど畿内で行われた戦闘を「鳥羽・伏見の戦い」といいますが、これが特別視されるのは、戦闘の間に数多くの政変がおこり、めまぐるしい駆け引きが旧幕府勢力と新政府の間に交わされたからにほかなりません。

京都南部を中心に各地で繰り広げられたこの戦いによる犠牲者数は、新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれており、短期間にしてはかなり多い数です。これは、両軍ともに最新式の銃や大砲などを保有していたためですが、旧幕府軍の犠牲者が新政府軍のそれの2倍にも及ぶのは、新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことを意味します。

こうした近代兵器をもって戦われた我が国初の戦争の始まりは、上述のとおり、海上で始まったとされますが、地上では、慶応4年1月3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触したことに始まります。

御所をめざし、街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過しました。しかし、業を煮やした旧幕府軍が午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告。

薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥りました。この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、奇襲を受けた形になった旧幕府軍の先鋒は潰走しますが、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始しました。

日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を仕掛けますが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却。

一方、伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていましたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれました。旧幕府軍は旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣しました。

奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えます。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返しますが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し、奉行所は激しい爆発を繰り返しながら炎上しました。

新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入。こらえきれずに旧幕府軍は現在の伏見区南部、淀駅付近まで逃げ落ちました。



この時の京都周辺の新政府軍の兵力は5,000名(主力は薩摩藩兵)。対して旧幕府軍は15,000名を擁していました。この緒戦では、旧幕府軍は総指揮官の逃亡などで混乱し、旧狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれました。

翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、新政府軍の反撃を受けて指揮官の相次ぐ戦死などで形勢不利となり、後退。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わったため、旧幕府軍は敗走しました。

この日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、いわゆる「錦の御旗」が与えられます。これにより、新政府軍は「官軍」となり、錦旗を見た幕府軍が戦意を喪失するなど、その後の戦況にも大きな影響を与えました。

5日、伏見方面の旧幕府軍は、現在の宇治市にもほど近い、淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃しますが敗退し、淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとします。しかし、淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒みました。

入城を拒絶された旧幕府軍は、さらに大阪方面の男山・橋本方面へ撤退を余儀なくされ、これを追う官軍に追撃されて多数の負傷者・戦死者を出しました。この戦闘には新選組が参加しており、その隊士の3分の1がここで戦死したといわれています。

6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣しました。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張りまし。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にありました。

ところが、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が、突然旧幕府軍へ砲撃を加えました。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れ、こうしておよそ4日に渡って行われた鳥羽伏見の戦いはあっけなく終わりました。

このとき、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説きましたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却しました。

総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還しました。このとき、会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれています。

長輝にしてみれば、よもや総大将が逃亡するとは思いもしなかったでしょう。しかし、残った旧幕府軍を見捨てるわけにはいかず、陣営に残ることとなりましたが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになります。

7日、朝廷において慶喜追討令が出され、ここに旧幕府は朝敵とされました。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となりました。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順。諸外国の列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失いました。

さて、この戊辰戦争における大村益次郎の動向ですが、長州藩では、鳥羽・伏見勃発後の1月14日、毛利元徳(敬親の養子、のちの最後の長州藩主)が京へ進撃し、17日に益次郎はこれに随行する形で軍制掛本役に復帰しました。先に主戦派から左遷されていた益次郎ですが、この戦いの勃発により、改めて時代の表に姿を現した格好です。

22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着。その際、益次郎は新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られます。22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢となり、いきなり朝臣となりました。

左遷により事務に追いやれていた四十男が、いきなりメジャーレビューを果たしたようなもので、このあたり、面白いというか時代に翻弄されているというか、この人物の運がここで大きく転回しました。

一方、このころ鳥羽伏見の戦いを放り出して江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示しました。

片や、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻りました。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示しますが、新政府の権威は認めませんでした。このため、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もせず、その一方で、庄内藩と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めました。

旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から、この会津藩等を頼り東北地方へ逃れました。一方の新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍しました。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしました。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めましたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗します。近藤勇は偽名を使って潜伏しましたが、のち新政府に捕縛され処刑されました。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に対して、朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけました。幕府軍は応戦し、熊谷一帯で市街戦が起こりましたが、最終的には幕府軍の敗北で決着がつきました。この戦いは、戊辰戦争の東日本における最初の戦いとされます。




このころ、明治新政府御用となった益次郎は、京・伏見の兵学寮におり、これらの戦いには関与していません。ここで各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを始めようとしていました。

3月に入ってからは、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、天保山(現大阪市港区にあった砲台)での海軍閲兵、さらに4月に入ってからは大阪城内で陸軍調練観閲式を指揮するなど、軍指揮官としてめまぐるしい毎日を過ごすようになりました。

4月4日には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなりましたが、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的でした。

このころ益次郎は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べています。その意見を受け入れる形で、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、4月下旬には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任することになりました。

この役職からもわかるように、このころの益次郎は既に長州藩の重役ではなく、明治新政府の軍事責任者であり、来る時代の軍務を司るリーダーとしての地位を確約されていたことがわかります。

このころ江戸では、旧幕府残党が各所に立て籠もり、不穏な動きを示しましたが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していました。これに対し、新政府はこの益次郎の手腕を活かして混乱を収めようとします。

そこで彼はまず、新政府の総裁に任命されていた有栖川宮熾仁親王が組織した大総督府の再編成に着手しました。大総督府には、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分の裁量権などが与えられていましたが、江戸市街の鎮撫を行う軍隊的な機能はほとんど整備されていませんでした。

このため、旧幕府が持っていた目黒の火薬庫製造所を大幅に拡充するとともに、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、江戸城から改名して東京城となった皇居の警護のために、のちの近衛師団の元となる「御親兵」を創設するなど、矢継ぎ早に手を打っていきました。

ちなみに薩長土から徴集された藩士を中心に組成されたこの御親兵がのちの帝国陸軍の原型といわれています。



5月1日には江戸市中の治安維持の権限を旧幕臣の勝海舟から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、江戸市中の全警察権を収めるに至ります。

しかし、このころ、旧幕府残党が上野寛永寺に立て籠もり、不穏な動きを示し始めました。いわゆる「上野戦争」と呼ばれるこの討伐戦は、徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎ら旧幕臣によって結成された彰義隊に対するものでした。

勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊をどうにか懐柔しようとし、解散も促しましたが、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がると、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返はじめました。

勝との江戸城会談で幕府恭順派である勝と仲良くなっていた西郷隆盛は、勝の手前、なかなか彰義隊の討伐を言い出せませんでした。このため、対応が手ぬるいとの批判を受けるに至り、大総督府は西郷を司令官から解任し、益次郎を新司令官に任命。彼は海江田信義ら慎重派を制して武力による殲滅を宣言しました。

1868年7月4日(慶応4年5月15日)未明、益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を敢行。午前中は屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退されますが、午後から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王台(西郷隆盛銅像付近)に着弾し始め、彰義隊を撃破、一日で争乱は終了しました。

この戦闘中、益次郎は江戸城内にいました。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配していましたが、アームストロング砲による砲撃が開始されたと聞くと、彼は柱に寄りかかり、懐中時計を見ながら平然と言い放ったといいます。

「ああもうこんな時間ですか。大丈夫です。別にそれほど心配するに及ばない。夕方には必ず戦の始末もつきましょう。もうすこしお待ちなさい。」

やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました」と告げたといい、ほどなく戦勝を告げる伝令が到着すると、一同皆が驚いたといいます。

また彰義隊残党の敗走路も彼の予測通りであったといい、先の四境戦争でも見せたような彼の優れた戦況分析能力がまたここでも実証されました。

その後上野では、渋沢成一郎が率いる振武軍が彰義隊の援護に赴きましたが、行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却しました。また、天野は市中に潜んで再起を図りましたが、密告で捕われ、のち獄中生活五か月余で病没。この争乱で寛永寺は壊滅的打撃を受けましたが、戦死者も多く、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。

この彰義隊殲滅作戦を実施するには50万両もの大金が必要だったといわれます。その調達のために、益次郎は米国より購入予定だった軍艦ストンウォールジャクソン号の準備資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、更に新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃えました。

この戦闘は、それまで長州外の世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものとなりました。新政府からの評価も高く、上奏から従四位下に昇叙され、このころ準備されていた「鎮台」の中央組織、「鎮台府」の会計掛にも任命されました。つまり新政府軍の財布をそっくり手渡され、自由にやれ、と言われたことになります。

まだ戦闘が継続中の10月2日には、軍功として益次郎は朝廷から300両を与えられました。同日の、妻・琴への益次郎の手紙には「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示しています。

その後益次郎はこの額をはるかに上回る禄を賜るようになり、名実ともに新日本軍の総指揮者へと上り詰めていくことになります。

上野戦争で逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦しました。以後、戊辰戦争の舞台は、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続くことになります。益次郎はこうした関東以北での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を執り続けました。

前線から矢のように来る応援部隊や武器補充の督促を、彼独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもありました。戦争は官軍優位のまま続き、これが終結したのは、明治2年(1869年5月18日(6月27日))、函館五稜郭で土方歳三が戦死し、榎本武揚らが新政府軍に降伏した時だったとされます。




なお、白河(現福島・栃木県境付近)方面の作戦を巡って益次郎は、西郷隆盛率いる薩摩勢と激しく対立しています。

白河周辺に大軍を駐屯させ、南下して官軍を襲撃しようとしていた旧幕府軍・奥羽越列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが官軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して、それぞれの国許へと退却しました。

一方、このころ仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していたため、官軍総司令官の益次郎は、この仙台藩の攻撃を優先することで戦闘をより有利に導けると主張していました。

ところが、薩摩藩の現地の司令官・伊地知正治や、土佐藩の板垣退助が強硬に会津進攻策を進言したため、こちらが通り、会津戦争が行われることになりました。会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城し、新政府軍と激しい戦いが繰り広げられましたが、この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生しました。

益次郎の策通りに、仙台藩攻撃を行っていれば、この戊辰戦争の中でも最も激烈だったといわれる戦闘は回避できたと思われますが、このときの薩摩藩のリーダー、西郷の周囲の取り巻きの益次郎に対する著しい反発が、その後の彼の暗殺に関係したのではないか、とする説もあります。

益次郎はその後、新政府軍の最高司令官として新しい日本軍を創設するために奔走することになりますが、その間途中でこの世を去ることになります。戊辰戦争が帰結したとされる函館戦争の終了から、わずか5ヶ月後のことでした。

戊辰前夜

四境戦争が終息してほぼ2ヶ月後の年の暮れ(1866年(慶応2年)12月)、益次郎は軍政用掛に加えて海軍用掛を兼務することになりました。

それまでは軍の組織作りを担うポストを担っていたわけですが、大島口や芸州口での幕府との戦いにおいて、海軍の重要さを改めて思い知らされた長州藩は、今度は彼に海軍の拡充を任せようと考えたわけです。

表向きは海軍頭取・前原彦太郎の補佐をする、という立場になりました。のちに、不平士族を集めて「萩の乱」を引き起こすことになるこの男は、のちに、前原一誠という名で知られるようになります。

郡吏だった父、佐世彦七の長男として生まれました。しかし、佐世家は低級武士だったこともあり、父の希望もあって戦国武将・米原綱寛(尼子十勇士の一人)の流れを汲む前原家の養子となってこれを継ぎました。

功山寺の挙兵においては、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、奇兵隊支隊の干城隊の頭取、第二次長州征伐では小倉口の参謀心得なるなど、長州藩におけるそれまでのおよそほとんどの倒幕活動に参加した猛者であり、頭取に迎えられたのは、藩としてもその活躍に答えたからにほかなりません。

前原は、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門した経歴を持ちますが、松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに益次郎が軍学を教えていた萩の西洋学問所・博習堂でも学んでいます。ということはつまり、学問上は益次郎の弟子ということになります。

しかし、海軍頭取という役職は海軍用掛よりも上です。元は師である益次郎が弟子の「補佐」というあたり、このこころの彼の微妙な立場が伺われます。藩士になったばかりの益次郎の気苦労が目に見えるようです。




それは役職だけのことではありません。年齢をみても、益次郎が海事用掛に任命されたとき42歳、これに対して前原一誠は32歳で、ちょうど10歳年下です。同じく益次郎を見出した桂小五郎はこのとき33歳、高杉晋作にいたっては、このとき益次郎よりも17歳も年下の弱冠27歳でした。

維新後、益次郎は、兵部省兵部大輔として士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を実現し、日本帝国陸軍建設における重要人物とみなされるようになりますが、彼が暗殺されたとき、その後継者となった山縣有朋もまた、このときはわずか28歳でした。

山縣は短期間ではありますが松陰門下生であったため、後の長州派閥の領袖の一人となることができ、維新後は陸軍・官僚の大御所として崇められるようになり、総理大臣にまで上り詰めました。

また同じく松下村塾に最年少14歳で入門、最後の門下生となった山田顕義もこのころ22歳でした。山田は益次郎が襲われたあと、その病床で日本近代軍制の創設について指示を受け、山縣とともに継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力しました。ただ、山縣ほどは出世せず、晩年枢密顧問官に就任するも最盛期には司法大臣にとどまりました。

ちなみに毛利敬親候は1819年生まれで、1824年生まれの益次郎より、わずかに年上ですが、この藩主以外で益次郎よりも年上の人材というのはほとんど誰もいませんでした。正義派のリーダー、周布政之助が生きていいればこのとき43歳で益次郎とほぼ同年ですが、惜しいことに第一次長州征伐のときに自害しています。

さらに吉田松陰が生きていれば36歳、松陰の次妹の寿と結婚して関係の深かった楫取素彦もこのとき37歳と、いずれも年下であり、その他正義派のリーダーたちは、蛤御門の変ほかの争乱でほとんどが姿を消しています。つまり、総じて益次郎の周囲には同年齢の逸材というものがありませんでした。

そうした周囲の若い朋輩 たちの中でも率先して益次郎を「先生」と呼んで敬い、藩の中枢の重要人部に育てあげていったのが年下ながら藩の最高指揮者であった桂小五郎であり、彼なくしては彼のその後のキャリアは形成できなかったであろうと考えられます。

また、益次郎という人材を認めていたという点では、高杉晋作もそうでした。萩の博習堂で彼に出会った高杉は、一瞥しただけで大村益次郎がタダ者でないことをすぐに理解しました。そして、すぐに教えを請うと同時に、仲間の指導を頼みました。

しかし、高杉と益次郎が接したのはその後わずか5年ほどにすぎません。四境戦争後、高杉は肺結核を発症し、下関市で療養していましたが、この益次郎の海軍用掛任官後のおよそ4ヶ月後の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去しています。満27歳という若さでした。

下関戦争にも参加した土佐の中岡慎太郎をして 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西(またらくさい)の一奇才」と言わしめたほど、兵略において才能のあったこの高杉の死によって、軍事面において益次郎を抜きんでる者は誰ももいなくなりました。

それにしても、士分に取り立てられたとはいえ、元は村医者にすぎず、制度上は自分たちよりも格下の身分の者が軍制を仕切ることについては、冷たい雰囲気があったでしょう。四境戦争でも功があった彼を称える向きもあったでしょうが、出自を理由に敬遠したい気分はこの当時の長州藩指導部には当然あったものと推定されます。

こうしたこともあり、四境戦争後に、長州と盟約を結んだ薩摩から正式に討幕の誘いがきたとき、これを反対する益次郎の意見を聞く者は少数派でした。



このころ、薩摩藩では、西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らが実権を握り、討幕と勤皇の更なる推進を目指しつつありました。彼らはそれまでの長州に対する態度を改め、手の裏を返したようにその名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制し、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようとしていました。

列侯会議とはこの時期の雄藩の藩主を集め、幕府とともに政治を動かしていこうとする策です。しかし、薩摩藩がその中でもとくに切り札と考えた「四侯会議」は、15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されてしまいます。

「四侯」とは、朝廷や幕府に大きな影響力を持つ大名経験者4名で、薩摩藩からは島津久光(藩主忠義の父)、その他は、越前藩主・松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、でした。

この会議は薩摩藩の主導のもとに実際成立しましたが、そもそも朝廷や幕府の正式な機関ではありません。それに準ずるものとして扱われました。が、薩摩藩はこの会議の成立を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようとしました。無論、その中核に自藩が座ることを目論んでいたわけです。

慶応3年(1867年)5月、京都の越前藩邸において将軍慶喜が議長を務めるような形で会議が開催されましたが、冒頭にまず何を優先して議論するかで紛糾し、さらに途中で山内容堂が病気を理由に退席するなど、会議の体をなさず、ほとんど何の結論も得られないまま9日目の最終日を迎えました。

結局、最後の夜になって徹夜で議論した結果、慶喜が主張する通りの長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定しました。長州におもねる結論ですが、慶喜はこれをもって、長州との共存を模索する方向に舵を取ろうとしていました。

薩摩藩としては、この結論が四候の協議の上に導かれた、という形を望んでいました。しかし、結果としては、慶喜が主導した朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議のおぜん立てをした薩摩側の敗北を意味しました。

こうして薩摩藩は、将軍慶喜の関与を前提とした諸侯会議路線では国政を牛耳ることができないことを悟り、その後長州藩とともに武力倒幕路線に急速に傾斜していくことになります。

武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は、慶応3年(1867年)8月14日に長州藩の直目付(藩主直属の側近・官房長官のような役割)だった柏村数馬に武力政変計画を打ち明けます。これを藩候が家老以下の幹部に下問した結果、長州藩内では討幕か否かの激しい議論が沸き起こりました。

このとき益次郎は、これまでの蛤御門の変や下関戦争の失敗から、急速に薩摩に接近するのは危険だという意見を持ち、四境戦争も終わって間もなくその痛手が癒えない現在は、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えました。




しかし、同年9月には、大久保が直接長州を来訪し、幹部らに討幕を説得したことで藩内の世論は急速に出兵論に傾きました。この結果、9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会して、出兵協定である「三藩盟約」を結ぶに至りました。

この結果、慎重論を唱えていた益次郎は左遷されます。10月27日、益次郎は軍政用掛の「助役」に据えられて軍制改革の中枢から外され、出兵の実務に専念する任務に就くよう命じられました。

後年、益次郎は「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった」このときのことを述懐し、時局を見抜けなかった無知を反省する弁を残しています。結果的にこの出兵がその後の維新を天回させる大きなきっかけとなったからです。

のち、「その才知、鬼の如し」と言わしめたこの天才ですら、時代の大きな流れを読めなかったということでしょう。さらに、これからわずか2年後に、似たような用兵論争の末、自らの命を失うことになることも、この時の益次郎には予測できませんでした。

このような状況の中、さらに時の政局は激しく揺れ動きます。

坂本龍馬から「大政奉還論」を聞いて感銘を受けた土佐藩重役、後藤象二郎は、坂本の「船中八策」にも影響され結果、山内容堂(前土佐藩主)にこれを上奏し、その結果、藩論とすることの同意を得ました。

大政奉還とは、幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものです。つまり現在の議会国家の礎となる論です。

これに先立つ6月22日には、薩土盟約が締結されていましたが、この大政奉還論を土佐から打ち明けられた薩摩藩の小松帯刀らもこれに同意します。大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想でしたが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれます。

10月3日、土佐藩は、この大政奉還・建白書を藩主・山内豊範を通じて単独で将軍・徳川慶喜に提出。13日、慶喜は上洛中の40藩重臣を京都・二条城に招集し大政奉還を諮問。こうして慶応3年10月14日(1867年11月9日)ついに「大政奉還上表」を朝廷に提出するに至ります。

朝廷の上層部はこれに困惑しましたが、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立しました。

慶喜にすれば、逆にこの大政奉還は討幕派の機先を制するものであり、受けてしまえば、討幕の名目を奪うことができる、と考えました。このころの朝廷にはまだ政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家のほうが優勢でした。

徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば、実質的に政権を握り続けられると考えており、その見通しの通り、朝廷からは上表の勅許にあわせて、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任されました。

この委任は、国是決定のための諸侯会同召集まで、という条件付でしたが、将軍職も暫時従来通りとされました。つまり実質的には慶喜による政権掌握が続くことになったわけです。

しかしその裏では着々と討幕のたくらみが進行していました。大政奉還上表が提出された同日14日、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡されました。この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものでしたが、見た目には本物に見えました。

こうした偽装が行われた背景には、大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派公家の準備がまだできていなかったことがあります。岩倉本人も朝廷内の主導権を掌握していないばかりか、三条実美ら親長州の急進派公家は、文久3年八月十八日の政変以来、京から追放されたままでした。

一方、前年12月の孝明天皇崩御を受け、1月9日に践祚した明治天皇は満15歳と若年であったため、親幕府派である関白・二条斉敬(徳川慶喜の従兄)が摂政に就任するなど、幕府側は朝廷内に厳然たる勢力を持っていました(注:「摂政」は幼い天皇に代わって政務を執り行う、対して「関白」は天皇成人後のアドバイザー的なポジション)。

つまりこの時期の朝廷は親幕府派の上級公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)は慶喜主導になることが目に見えていました。

このため、薩長や岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止ししようと考えます。幕府の息のかかった人材は一人残らず排除し、その上で体制を刷新し、朝廷の実権を掌握しようとしたわけです。

先の討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、依然強い勢力を保つ慶喜に対抗する非常手段として画策したものであり、密勅の実行により、幕府は朝敵となり、自動的にそれらの人材は排除されることになる予定でした。

しかし、慶喜の速やかな行動により、大政奉還がすんなりと朝廷に受け入れられたことで、討幕派はその矛先をかわされた格好になりました。このため、密勅を受けた討幕の実行は、いったん延期となりました。

同盟を約していた薩摩・長州・芸州の3藩もひるんでしまい、再び出兵計画を練り直すことになります。しかし一方では、薩土密約が成立していたこともあり、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んでさらに政治的に幕府を追い込んでいこうとする新たな動きが加速します。転がり始めた石はとまらない、といったところです。

12月7日、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、江戸幕府を廃絶するたくらみへの協力を求め、ある提案をしました。これがいわゆる「王政復古」に関する謀議でしたが、これに各藩ともに賛同し、この結果、のちにこの5藩の軍事力を背景とした歴史に残る政変が成立することになります。

大久保らはこの政変の実施にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていましたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出ませんでした。

12月8日、夕方から翌朝にかけて、摂政・二条斉敬が主催して、諸侯が集まった朝議(諸侯会議)では、先の四侯会議で決定された唯一の事案、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可が決議されました。

諸侯の中には、先の5藩が加わっており、討幕派有利の議論の流れの中で、さらに岩倉ら罰則を受けていた公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められました。無論、幕府にとっては痛い決議であり、朝廷内に討幕派の太い楔が撃ち込まれることになりました。

さらにその翌日の9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が突如として御所の九門を封鎖します。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限され、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。




そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが足早に参内して「王政復古の大号令」を発令。新体制の樹立を決定し、新たに置かれる三職の人事を定めました。まるで一陣の嵐のように発せられたこの「王政復古の大号令」の内容は以下のとおりです。

将軍職辞職を勅許(先の10月24日に徳川慶喜が既に申し出)。
京都守護職・京都所司代の廃止。
幕府の廃止。
摂政・関白の廃止。
新たに総裁・議定・参与の三職をおく。

この宣言は、14日には諸大名に、また16日には全国の庶民に向かって布告されました。五摂家を頂点とした公家社会の門流支配を解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであり、従来からの摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力はこれにより完全に葬られることになりました。

またこの勅許は、徳川慶喜(一橋徳川家当主)の将軍辞職を促すものであり、京都守護職・京都所司代の廃止は、これを担っていた松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の失脚を意味しています。それまで時代を主導していた一会桑体制は崩壊の憂き目を見るところとなり、慶喜の新体制への参入はほぼ絶望的となりました。

しかし、慶喜は大号令が発せられた翌日の10日、自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言します。征夷大将軍が廃止されても、この「上様」が江戸幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する、と意欲を示したものです。

こうした急速な政局の変化と薩長らの強硬な動きに対し、在京の諸藩代表の間では動揺が広がると同時に反発が生まれました。中でも薩長と同盟を組んだはずの土佐藩ら公議政体派が逆に幕府を擁護するという、ちぐはぐな動きを見せるとともに、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せました。

実は、6月に締結された薩土盟約は、わずか3か月で解消されていました。解消の理由は色々取り沙汰されていますが、両者が共同で作成しようとしていた当初の大政奉還の建白書の草案の中に、薩摩藩が主張する慶喜の将軍職辞任(ないし将軍職の廃止)が欠落していたことなどがあげられています。

しかし、土佐藩の実力者、元藩主の山内容堂の優柔不断が、実はその原因ではなかったか、といわれています。容堂は幕府の存続に寛容であったといわれており、藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとしたその態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されていました。

そこで13日には岩倉や西郷は妥協案を出します。「辞官納地(官位の返上と領地の放棄)」に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を幕府に出しました。しかし、慶喜は当然のようにこれを拒否。

慶喜はさらに16日、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまで巻き返しました。

これを受けて、12月22日(1868年1月16日)に朝廷は、慶喜寄りの告諭を出します。その内容は事実上、徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令はさすがに取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他なりませんでした。

さらには先に出されていた討幕の密勅も取り消され、その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届きました。しかし、薩摩藩の息のかかった攘夷討幕派浪人の暴走は止めることはできず、既に動き出していた彼らは江戸市中で重なる騒乱行動を起こしはじめました。

この攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は公然と匿っていたため、ついに12月25日になって庄内藩(会津藩とともに、のちの奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つ)による江戸薩摩藩邸の焼討、といった事件も起きました。3日後の28日にこの報が大坂に届くと、慶喜の周囲ではさらに薩摩討伐を望む声が高まります。

慶応4年(1868年)元日、慶喜は「討薩」の意を発し、「慶喜公上京の御先供」という名目で、事実上京都封鎖を目的とした出兵を許可しました。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは、薩摩藩が進軍していた伏見市街へ進みます。

ここで、鳥羽を、三重県の鳥羽と勘違いしている人が多いと思いますが違います。鳥羽とは、現在の京都府京都市伏見区にある鳥羽町付近であり、また伏見は京都南に広がる伏見市一帯のことです。合わせて鳥羽・伏見と慣例で呼ばれることが多いようですが、伏見のほうが行政区としては大きく、どちらかといえば、「伏見の戦い」の方が正しいでしょう。

3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集されました。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張しますが、松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾しましたが、議長の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決しました。

こうして、いわゆる「戊辰戦争」の前哨戦となる「鳥羽・伏見の戦い」が勃発しました。この戦いで薩長側が掲げた錦の御旗に動揺した幕府軍は大敗したばかりでなく「朝敵」としての汚名を受ける事になり、窮地にあった新政府を巻き返させる結果となりますが、その経過についてはまた次回書きたいと思います。



四境戦争

私がまだ小学生のころ、山口での遊び場と言えば、サビエル教会堂のある亀山公園か、近所にいくつかある神社の境内でした。

お寺さんも多くありましたが、神社と違って庫裏に住職や寺坊主がいることが多く、気兼ねなく遊ぶ場としては不適当でした。その点、神社は神職が出入りすることはまずほとんどなく、夕方遅くまで遊んでいても誰の目も気にすることはありません。

遊び先の神社としては候補がいくつもありましたが、県庁から500mほど西へ下がった場所にある木戸神社の境内はひと気も少なく、お気に入りでした。木戸孝允の居宅だった場所に建てられた神社で、主神は木戸候自身です。

背後にそびえる高嶺山への登山道の入り口にある神社で、周囲は緑に囲まれ、小川もありました。ここで日がな一日、虫を捕ったり、川遊びをしたりで、気が向けば背後にある高嶺山にも登れ、飽きることはありませんでした。

母の実家からこの木戸神社に向かう途中にひとつの寺があり、子供心に実にお寺らしいお寺だなぁと思っていました。こちらも高嶺山の裾野に建てられていましたが、周囲に木々はなく、明るい斜面に本堂と鐘突き堂ばかりがやたらに目立つ古刹です。

無論、ここで遊ぼうといった気はなく、むしろ近寄りがたいその雰囲気に気圧されるかんじがしていたものです。が、長じてから司馬遼太郎さんの小説を読んだことで、その実態を知りました。

臨済宗の寺で普門寺といい、古くこの地に大内正恒が創建した寺があったが荒廃していたものを延元元年(1336年)大内氏第8代当主、大内弘直が再建して菩提寺としました。

大内氏は、毛利がこの地で根を張る前に勢力を誇った豪族で、京文化をこの地に持ち込み、このため山口は、小京都と呼ばれるほどに古い町並みを数多く残すこととなりました。その大内氏の最後の当主、大内義隆の時に朝廷に働きかけたことにより、当寺は「勅願寺(国家鎮護・皇室繁栄に効力があると朝廷が認定)」となりました。

その後、31代義隆の時代に大内家は事実上滅亡しましたが、このときその原因となった家臣、陶氏の兵が放った火で普門寺は焼失。その後の毛利氏統治時代の天正(1573年)になって、惟松(しょうまつ)円融が再興しました。

円融は、同じ山口市内にあり、大内政弘が別邸として建てた常栄寺の元住持でした。この常栄寺は市内屈指の大寺で、その庭は雪舟に依頼して築庭させたものといわれています。大正時代に国の史跡・名勝に指定されましたが、皮肉なことに、指定されたその年に本堂が消失して、現在のものは昭和8年(1933年)の再建です。

その由緒ある常栄寺の住職だった円融を迎え入れたということ、また、かつては勅願寺でもあったということなど、普門寺もそれなりの格式の高い寺として地元住民の尊敬を集めていたと思われます。

村田蔵六が、この歴史ある普門寺境内にある観音堂を宿舎として起居するようになるのは、幕末の1865年(慶応元年)5月のことです。山口藩庁(現県庁)からは徒歩わずか10分ほどであり、藩の御用で登庁するためには、まことに都合の良い立地になります。

それまでは萩の博習堂で若い藩士たちに洋学を教えていた蔵六はまた、下関など藩内各地を飛び回って軍備を整える役を担っていましたが、高杉晋作の功山寺挙兵に端を発した俗論派と正義派の内乱がとりあえずの収束を見た3月、藩の軍政専務となりました。

藩軍制改革の責任者となったわけですが、これを機に、それまで居住していた萩から山口に拠点を移しました。長州藩はこのころから軍の中枢を山口に移しつつあり、ここで本格的に兵制改革に着手するためです。




蔵六が居を移すや否や登庁するよう知らせがあり、何事かと伺候すると、藩侯から直々の沙汰があるといいます。さっそく藩庁に出仕すると御殿に通されました。平伏していると、敬親候がお出ましになり、お側用人から、「大組御譜代並、馬廻士譜代班に列し、100石高取りにも取り立てる」との下達が読み上げられました。

馬廻(うままわり)士とは、武芸に秀でた者が集められたエリートであり、代々藩候の親衛隊的な存在とされた要職です。また100石取りといえば、現在価値に換算すると1,000万円以上(一石約10万円の計算、但、諸説あり)の収入がある役職であり、藩の重役クラスです。これほどの高禄を得るようになったというのは大出世に違いありません。

同時に藩侯からは、それまでの村田蔵六を改め、「大村益次郎永敏」と改名するがよい、とのお言葉を賜ります。「大村」は故郷の字から(鋳銭司村大村)、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をとったものですが、諱の永敏は敬親が与えたものです。武家の正称はむしろ諱(いみな)であり、これにより名実ともに武士として認められた、ということになります。

鋳銭司村の村医者として、百姓の身分のまま一生を終えることを考えていた人物が、これほどの抜擢を受けたのは、下関戦争の後処理でその才が認められたことにほかなりません。が、かつて江戸で彼を見出し、長州に連れ帰った桂小五郎の推挙も大きかったようです。

高杉晋作による功山寺挙兵が成功して、俗論派政権による政治が終わり、正義派が主権を握るようになったあと、桂小五郎は長州藩の統率者として迎えられていました。後に伊藤博文は小五郎が長州に迎えられた時の様子を「山口をはじめ長州では大旱(ひどいひでり)に雲霓(雨の前触れである雲や虹)を望むごときありさまだった」と語っています。

長州政務座に入ってからの桂は、藩主敬親が掲げる武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進することになりますが、いまや長州藩という大軍事会社の副社長として、それまでは顧問とはいえ身分は課長程度にすぎなかった蔵六を専務取締に大抜擢したわけです。

こうして、蔵六改め益次郎永敏となった彼の「藩士」としての日々が始まりましたが、宿舎とする普門寺では、「兵法」を学びたいとする者の訪問がぽつぽつと増えてくるようになります。彼もこれに応え、諸生の希望により普門寺を臨時の校舎として、この当時の日本としては最先端の洋式軍学を教授するようになりました。

当時、これを普門寺塾と呼び、また、歩兵、騎兵、砲兵などを扱っていたため、「三兵塾」などとも呼ばれていました。大村先生と呼ばれるようになった彼は藩庁に通い、その傍らひたすらここで日々、市井の若者の教育にあたるようになります。

しかしこのころはまだ、大多数の藩士の彼に対する扱いは、出身を卑しんでひどく冷淡であったようです。ただ、時代の変化を見据えたのか、集まってくる百姓町人も多く、彼らすべてに分け隔てなく軍学を伝授しました。また、そのことを通じ、階級を超えた連携がこれからの世では必要になってくることを彼らに悟らせようとしました。

さらに益次郎は、オランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した「兵家須知戦闘術門」を刊行。さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成。それをもとに普門寺に集まる面々への指導を始めました。

もとより、大阪の適塾で塾頭をしていた益次郎の教え方には無駄がなく、また江戸・麹町の鳩居堂で蘭学・兵学・医学を教えていた経験は、ここでもいかんなく発揮されたため評判は高まるばかりで、集まる塾生も次第に増えていきました。

話は飛びますが、ちょうどこのころ薩摩藩では、開明派の島津斉彬が亡くなって伯父・斉彬の養嗣子なった島津忠義が藩主となりました。が、若年だったため、実質は斉彬の異母弟で、実父の久光が権力を握り、「公武合体派」として雄藩連合構想の実現に向かって活動していました。

しかし、久光の主張する幕政改革は徳川慶喜ら復古派保守の主張と真っ向から対立して展望を開くことができず、藩内では大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていました。



一方、薩摩藩は、先の八月十八日の政変では、会津藩と協力して長州藩勢力を京都政界から追放し、また引き続いて、蛤御門の変では、上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え敗走させるに至り、両者の敵対関係は決定的とものとなっていました。

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩には、彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する深い恨みが生じており、多くの藩士は「共には天を戴かず(共にこの世に生きてはいられようか、殺すか殺されるかだ)」と心中に誓い、「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き、踏みつけて鬱憤を晴らす者がいるほどでした。

ところが、この両者を結びつけようとする人物がいました。ご存知、土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中を率いていた坂本龍馬です。彼は薩摩、長州のような雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕をするのが世直しの一番の近道だと考えていました。このため、両藩を結びつける何等かのきっかけを見出そうと暗躍を始めていました。

前述のとおり、桂小五郎が藩の指導権を握った結果、その息のかかった益次郎は長州軍の近代化の責任者となりましたが、このポスト就任後の改革にあたり、益次郎はまず、高杉晋作が結成した奇兵隊ほかの諸隊の組織体系の見直しが急務であると考えました。

従来の武士だけでなく、農民、町人などの各階級により構成されていたこれらの部隊への参加は、それまではいわばボランティアでしたが、彼は藩がその給与を負担し、兵士として基本的訓練を決行しなければ、やがて押し寄せる幕府軍には太刀打ちないと上梓しました。

これは受け入れられ、まず、諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、満16~25歳までの農商階級の兵士を再編して約1600人の部隊を作り上げました。また、旧来の藩士らも石高に合わせた隊にまとめ上げ、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせました。さらに、各隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えました。

次いで取り組まなければならないのはやはり装備です。益次郎は、先に防禦掛に任命されて以降、アメリカやフランスと接触して大小の武器を調達しており、既に大田・絵堂における萩藩政府軍との戦闘ではそれらが有効であることを証明しました。しかし、こと大軍の幕府軍を相手にするとなると、質もさることながら、数の上で足りないのは自明でした。

このため、部下を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃や大砲を大量に購入させようとします。しかし、長州が密貿易で武器を輸入していることを薄々気づいていた幕府は、諸外国に働きかけて、長州との武器弾薬類の取り引きを行わないよう依頼するなどの先手を打っており、長州には武器が入って来にくい状態が続いていました。

このとき、長州の武器調達に一役買ったのが、坂本です。自らが率いる亀山社中(のちの海援隊)が口をきき、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の買い付けに成功、これを長州に斡旋しました。そしてこれを購入したのは薩摩藩だったことにし、長州への流用は、幕府にこれを秘匿しました。

坂本が仲介に入ったため間接的ではありましたが、これにより薩摩藩が長州藩に恩を売った形になり、この取引はその後の薩長和解の最初の契機となりました。

さらに坂本は、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦、ユニオン号の購入にも成功します。購入時の薩摩名「桜島丸」はその後長州の手に渡ると、「乙丑丸(いっちゅうまる)」と改名されました。ちなみに、同船の運航は亀山社中が請け負うことになりました。

このユニオン号が長州の手に渡った背景には、イギリスが薩摩・長州の両藩の共通の協力者になりつつあった、という背景があります。

薩摩藩では、先の下関戦争とほぼ同時期に勃発した薩英戦争(文久3年(1863年))での敗退を受け、それまでの攘夷論が揺らぐようになっていました。イギリスは、戦後の講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていました。

一方の長州藩もまた下関戦争の敗戦を受けて攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めようとしていました。

両藩に出入りしていた坂本はこの双方の事情を知り、イギリスを媒介者として両藩を結び付けようと考えていたようです。薩摩藩によるユニオン号の購入においても、これがいずれは長州の手に渡ることをイギリス側に承知させていたに違いありません。

一方、このころ薩摩藩は、薩英戦争や度重なる京への軍隊の派遣等により兵糧米が不足しており、今後の活動に支障が出ることが懸念されていました。そこで坂本は長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案し、先の武器の返礼とすることを長州に提案します。長州もこれを了承し、これによって両藩の焦眉の急が解決することになります。

以後、薩摩と長州は急速に接近します。紆余曲折はあったものの、両者重臣によって会談が進められ、ついに慶応2年1月21日(1866年3月7日)、京都の小松帯刀邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の桂小五郎が介し、6か条からなる同盟を締結しました。

この密約に基づいて薩摩藩は、その後の幕府による第二次長州征討参加の要請に対して出兵を拒否し、以後薩長の連携関係はさらに深まっていくこととなりました。




一方、そんなことはつゆ知らぬ幕府内では、第一次長州征伐後の長州の処分を巡って激論が繰り広げられていました。その処分にあたっては減封移転などの比較的軽い処分で穏便に済ますべきとする妥協案と、改易が妥当、これに抗うなら再長征を視野に入れるべきとする強硬論が拮抗していました。

この混乱の背後には、開国以降著しく低下する幕府の諸藩への指導力不足があります。今や朝廷、幕府、諸藩と三つのパワーバランスの上に成り立つ現在の体制下において、「強い幕府」を志向する「復古派」と朝廷と組んでの政権運営を目指す「公武合体派」は真っ向から対立しており、長州の処分はどちらがイニシアチブをとるかにかかっていました。

結局幕閣は、列強の中でもこのころ急速に幕府に取り入るようになっていたフランスの後押しを受け、勤皇諸藩に対して強硬な姿勢をとる道を選びます。長州処分においても諸藩を動員し長門周防を取り囲めば、おのずと滅すると考えた幕府は、慶応元年(1865年)11月7日、ついに31藩に、「第二次長州征伐」の出兵を命じました。

薩長同盟締結の約2ヶ月半ほど前ですが、このころ既に両藩では結託して幕府に当たることを水面下で合意していたと思われます。秘密裡に長州と通じていた薩摩は、慶応2年4月14日、大久保利通を通じて出兵拒否の旨を幕府に通達。幕府はこれを拒絶しますが、再三の交渉の結果、薩摩の不参加が確定しました。

ちなみに、時の将軍は13代将軍・徳川家定が死去したため、前将軍の最近親ということから14代将軍となった家茂です。就任当初、13歳という若年であったことから一橋慶喜が「将軍後見職」に就き、時を経てこのとき20歳になっていたとはいえ、その権力は抑制され、幕府の動向はほぼ慶喜の意向によりコントロールされていました。

この慶喜ですが、のちの大政奉還の実行や鳥羽伏見の戦いにおける江戸への逃げ帰りなどによって、弱腰の将軍、とみなされがちですが、案外と勇猛な武将でした。

蛤御門の変においては、御所守備軍を自ら指揮して鷹司邸を占領しているほか、長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結びました。この変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩ら譜代親藩との提携を本格化させています(一会桑体制)。

慶応2年(1866年)6月7日、幕府艦隊の周防大島口への砲撃により、ついに第二次長州征伐が始まりました。周防大島は、伊予松山藩(現愛媛県)からほど近く、いわば四国方面からの長州への入り口にあたります。また、長州東部の岩国領と西の周防長門など本藩との境にあり、まずは岩国を切り離して孤立させよう、と考えたにほかなりません。

続いて、13日には山陽道・芸州口(現広島山口境界)、16日には山陰道・石州口(島根山口境界)、そして17日には関門海峡・小倉口(福岡山口境界)でそれぞれ戦闘が開始され、四方向から幕府軍を迎えたことから、この戦争はのちに「四境戦争」とも呼ばれました。

幕府は第一次征討の時と同じく10万とも15万ともいわれる兵を招集しました。これに対し、長州の兵力は3,500だったというのが定説です。が、3,500では四方向からの幕府軍を迎撃するには十分ではなく、雑兵を入れて実数では4,000~5,000といったところだったではないでしょうか。

筆者が整理したところ、だいたい次のようになります。

大島口  長州藩:500  幕府軍+伊予松山藩:2,000~3,000 
芸州口  長州藩:2,000  幕府軍+彦根・越後高田・紀州・大垣・宮津等各藩:5~60,000
小倉口  長州藩:1,000  幕府軍+小倉、肥後・柳河・久留米など九州諸藩:2~30,000
石州口  長州藩:1,000 幕府軍+浜田、紀州、福山藩等各藩:3~40,000 

いずれにせよ、長州の勢力は幕府に比べると著しく小さく、大島口を除けば20倍、30倍という幕府軍に挑んだことが見えてきます。

幕府はこれ以外にも、洋式軍船と古い和船を動員した艦隊を構成していました。このうちの洋式船群は最新鋭の富士山丸(木造機帆軍艦1000t)を含み、旭日丸(木造帆走船500t)、翔鶴丸(木造外輪汽船350t)、八雲丸(汽船337t 松江藩所有)の計4隻でした。

富士山丸は米国に対して発注して手に入れたもので日本に到着したのは慶応元年12月ですから、この戦が始まるわずか半年前です。帆走が主ですが、機走もでき、砲12門を備えるこの当時、幕府諸藩を通じて最大最強の軍艦でした。

また旭日丸は、幕命で水戸藩が建造した西洋式帆船、翔鶴丸は、1857年にアメリカで建造された外輪式の蒸気商船「ヤンチー」を改造したもの、八雲丸は文久2年(1862年)に松江藩がイギリスから購入した船で原名はガーゼリといい、中古ながら鉄船でした。

6月9日、周防大島の北側、本土との間にある大島瀬戸(海峡)付近に進んだこれら幕艦は、島北部の久賀村へ砲撃を加え、ここから幕府陸軍が島へ上陸するとともに、島南部の安下庄からも松山藩軍が上陸し、大島を守っていた長州軍と交戦しました。

長州側もこの島の戦略的重要性を知っており、ここが落ちれば岩国が孤立することを理解していましたが、この幕軍による奇襲攻撃によって慌てた長州軍は、大島の西、本州側の遠崎(現柳井市付近)へ撤退します。




この大島への幕軍の進行の情報を受け、10日、山口藩庁は第二奇兵隊、浩武隊に大島へ向かうよう令を発すると同時に、高杉晋作が三田尻港から丙寅丸(へいいんまる)に乗り大島へ向かいました。

丙寅丸は四境戦争直前の1866年5月に高杉が長崎へ赴き、藩の了解を得ず独断で3万6千両の値でグラバーより購入したもので、購入時の名前はオテントサマ丸でした。四境戦争が始まると海軍総督である高杉晋作を乗せて運用されたため、旗艦として扱われました。

ただ、排水量わずか94tの木造船で、直接、幕府海軍に太刀打ちできるような船ではありません。このため、高杉は、12日の夜半、真っ暗闇の中をこの船を出し、瀬戸を抜けて島の北側に停泊していた幕府方の間をすり抜けるように走らせました。この時、各船とも蒸気を落として停泊しており、夜戦の用意もなく、搭載砲もしまい込んでいました。

間をすり抜けるように航走を続ける丙寅丸は小船であり、各艦の見張りも夜目がきかなかったため僚艦と勘違いしてしまいました。丙寅丸はそれをいいことに、そばを通るたびに、続けざまに大砲を打ち放したため、各艦とも大混乱に陥りました。

このとき、旭日丸は帆船であるため、全く動くことができず、他の機関船も火を落としているため、すぐには動けません。それを横目に丙寅丸は目の前まで接近して各艦の間をくるくると動き回り、大砲を撃ちまくりました。幕艦は狼狽しますが、砲をセッティングするには時間がかかり、また準備ができても敵を撃つつもりが味方の艦を撃ったりしました。

実はこのとき、長州側は別の陸戦部隊を夜陰に応じて小船で大島に上陸させており、島の山頂に陣を構えていました。幕軍は眼下の大島瀬戸に面する大島川の村に駐屯しており、丙寅丸は、ここへも数発の砲弾を撃ち込んだようです。

眼前の見方艦が砲撃を受けるとともに、自陣にも砲弾が撃ち込まれて、山麓の海岸に野営していた幕軍はさらに混乱します。そこへ今度は山頂からは長州からの陸軍部隊が攻め込んだため、幕兵をさんざんに駆逐され、残兵は大島の南部に退避しました。

一方、海上では薄明のころになってようやく翔鶴丸が蒸気を上げ、丙寅丸を追跡しますが、夜陰に乗じて逃げ去った丙寅丸を見つけることはできません。翌日15日、長州はさらに大島に兵を送り込んで南部の松山藩部隊も追い払い、17日には完全に大島を奪回しました。

大村益次郎は、この戦争において石州口・芸州口の二方面を指揮ました。しかし芸州口において幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が始まった際には石州口で指揮を執っていました。なお、このとき、西国の雄藩だった広島藩は幕府の出兵命令を拒み、戦闘に参加していません。

第一次長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた広島藩ですが、古くは長州毛利家の領地だっただけに、長州びいきの者も多く、今回の第二次長州征伐にも否定的でした。このため、不戦の代わりに長州藩の仲介を務める役割に徹することを申し出、幕府もしぶしぶこれを認めました。

6月初めに始まったこの芸州口での長州との戦闘に参加した諸藩は、主として彦根藩と高田藩(越後)です。が、藩境の小瀬川(現大竹市南部)で行われた緒戦では、長州軍の火力に押されあっけなく壊滅しました。

この勢いに乗じ、井上馨率いる長州軍は、幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく、中立を保っていた広島藩まで慌てさせました。このため、幕府歩兵隊とこのころ幕軍最強の一つと言われた紀州藩が戦闘に入ると、戦況は逆に幕府軍が優勢になり、岩国領まで押し返しました。

紀州藩は、第14代将軍家茂を出した藩で、徳川譜代藩だけに軍備にも力を入れていました。プロイセン(ドイツ)から専門家を招き、軍事教育を受けていたといわれ、明治後も軍制改革を進め、軍事顧問として高名なカール・ケッペンなどを招くなどして軍隊の養成を進めるなど、その後の大日本帝国陸軍の創成に大きく寄与した藩です。

西洋式軍装に身を包んだ紀州兵による果敢な攻撃に対し、最新鋭の軍装を整えていた長州も押し返して膠着状況に陥ります。結局この状態は3ヵ月ほども続きましたが、その後9月に入ってから両者で交渉が行われ、両軍とも追い打ちをしないことを確約し、停戦となりました(後述)。



6月16日、大村益次郎が実戦指揮していた山陰側の石州口でも戦闘が始まりました。このとき津和野藩は中立の立場をとっており、これを通過して最初に対面したのは、現在の島根県浜田市周辺を領有していた浜田藩を主とする幕府軍です。

この浜田藩領主、松平武聰(たけあきら)は徳川慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った人物です。倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに高津川の治水工事や石見半紙、養蚕業などの殖産興業化を推進して藩財政を再建し、名君と言われていました。

しかし、このとき武聰は病に臥していたために十分に指揮が執れず、益次郎率いる精強な軍勢の前に悪戦苦闘します。また、益次郎の戦術は巧妙な洋式用兵術に基づいており、最新の武器を持ちながらも無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なものであり、易々と浜田城下まで進撃しました。

対する浜田藩も松平武聰の命によってそれなりに洋式軍備を整えていたようですが、いかんせん、部隊を指揮する幹部が旧態依然とした戦術に捉われていたため、ことごとく益次郎の戦略に嵌り、自滅していきました。益次郎率いる長州軍は7月18日には浜田城を陥落させ、のち天領だった石見銀山をも制圧しました。

この浜田城攻撃の際、炎上する城を見て益次郎の部下が、浜田藩の盟友である松江藩が救援にやってくるのでは、と心配しました。しかし彼は赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いに出して、「雲州そのほかからの応援は絶対来ない」、と断言したといいます。

赤穂浪士の故事というのは、吉良上野介の実子で米沢藩主だった上杉綱憲らが、事件当日、討ち入りの事実を知りながら、諸般の事情により駆けつけなかったことを示していると思われます。同様に、浜田藩と松江藩は関係が深く、歴代の両藩の藩主の多くは松平家から出ていることもあって兄弟藩のような関係でした。

そのこともあり、浜田城が陥落したとき松江藩が加勢するのではないか、と懸念されたわけですが、実際には武聰は松江城に逃れただけで、援軍は来ませんでした。幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、のちの大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買ったといい、このときも長州討伐には消極的でした。

ちなみに、松平武聰は、その後さらに美作国の飛び地(鶴田領・現岡山県東北部)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えています。

「無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない」と益次郎が、断言したのもそうした状況分析に基づいたものであり、こうした論理的に戦況を考究する能力はその後の戊辰戦争でもいかんなく発揮されました。後年、長州藩における蘭学の先駆者で洋学の重鎮、青木周弼はこうした益次郎を評して「その才知、鬼の如し」と語ったといいます。

一方、四境戦争の最後のひとつ、小倉口では、幕府老中でもある総督、小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉・山縣有朋ら率いる長州藩との激闘が関門海峡を挟んで始まりました。

「小倉戦争」とも呼ばれたこの6月中旬に始まった戦いにおいて、幕府軍は優勢な海軍力を有しており、圧倒的な軍事力の差異がありました。しかし、大軍であるため長州への渡海侵攻を躊躇している間、逆に17日には長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われました。田野浦は関門海峡の東端、大里は西端にあたります。

「拱手傍観(きょうしゅぼうかん)」とは、手をこまねいて何もせず、ただそばで見ていることですが、小笠原長行に率いられた諸藩軍・幕府歩兵隊ともまったくその体であり、九州に上陸した長州軍はそのままの勢いで幕軍総督府のある小倉城に迫る勢いであったのに対し、これに対峙したのは、九州側最先鋒といわれた小倉藩だけでした。

なお、このとき、小倉藩に劣らぬほどの兵力や軍備を持っていた佐賀藩は、幕府にこの戦闘への出兵を拒んでおり、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。

戦闘はその後7月下旬まで続き、27日には小倉城下防衛上の最重要拠点である赤坂・鳥越地区で激しい戦闘が起こりました。「赤坂の戦い」とも呼ばれるこの戦闘は、現在の小倉駅東側付近で起こったもので、長州軍側は海軍総督高杉晋作が指揮を執り、征長軍には軍備の近代化を急速に進めていた熊本藩が参戦しました。

熊本藩細川氏は、この征長軍への参加に際し、家老・長岡監物の指揮下にアームストロング砲(8門)や洋式銃などを装備した精鋭部隊を派遣しており、この赤坂口の戦いで長州軍に激しい銃砲撃を加えて大打撃を与えます。更に小倉藩軍が追撃して大里方面まで長州軍を撃退することに成功し、小倉戦争で初めて幕府側に優位をもたらしました。

しかし、この勝利に気をよくしたのか、小笠原総督は小倉藩家老・長岡監物が出した幕府への支援要請を拒否しました。このことから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国してしまいました。これにより、長州軍は一気に戦況を盛り返して優勢に戦闘を展開、幕府側の敗色は濃厚となります。

しかも折も折、7月20日に将軍家茂が薨去(こうきょ:天皇未満で位階が三位以上の者の死はこう呼ぶ)したとの報が入ると、小笠原は事態を収拾する事なく戦線を離脱してしまいました。孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わりました。この敗戦責任を問われた小笠原は10月に老中を罷免されました。

長州軍側では、奇兵隊第一小隊・隊長山田鵬輔らが戦死するなどの被害を受けましたが、死傷者の総数としては幕府軍よりかなり寡少だったようです。大島・芸州・石州合わせたこの戦役での死傷者合計はおよそ2~300人程度だったといわれます。対する幕軍の被害はこの倍以上だったと思われますが、諸藩毎にカウントされており、その総数は不明です。

家茂死去の際には、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜が「大討込」と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したと伝えられますが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらいました。

慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、戦闘が長引いていた芸州口と、大島口・石州口での戦闘が終息しました。

しかし、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しませんでした。この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開しました。

10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉城南部の企救(きく)など、防衛拠点の多くが位置する場所にまで入り込むに及んで、ようやく停戦交渉が始められ、慶応3年(1867年)1月になってようやく両藩の和約が成立しました。

この和約の条件により、小倉藩領のうち、関門海峡を含むその南部一帯の企救郡は長州藩の預りとされ、明治2年(1869年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなりました。

第二次征討の失敗によって、幕府の武力は張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩への干渉能力はほぼなくなりました。

さらに幕府はこの戦争へ薩摩藩を巻き込むことができず、その後この時すでに薩摩が長州と盟約を結んでいたことを知り、潮の変わり目を悟ります。

このため、この敗戦こそが江戸幕府滅亡をほぼ決定付けたとする向きもあります。

征討終了後、大村益次郎は山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務するよう沙汰が下り、海軍頭取・前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐するようになります。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることはありませんでした。

功山寺

長州藩校であった明倫館は、現在の萩市のほぼ中央に位置し、道路を隔てて反対側には市役所があるという一等地にあります。

長州藩は当初、萩に藩庁を置いていたため、萩藩と呼ばれることも多く、明倫館も「萩藩校・明倫館」と呼称されていました。

国の史跡に指定される古い建物群が残っており、その一部は2014年まで小学校として使われていましたが、隣接地に新設移転され、明治維新150年記念事業の一つとして再整備されました。2017年からは「萩・明倫館学舎」の名称で博物館として公開されています。

博物館として公開される以前に私が前を通りがかったときには、まだ生徒たちが元気に校庭を走り回っていました。中がどういうふうになっているのか、見たいなーと思っていたところです。現在はカフェ・レストランなども併設されてずいぶんと見どころも多そうなので、次回帰郷したらぜひ訪問してみたいところです。みなさんもいかがでしょうか。

この明倫館ですが、元は別の場所にありました。享保3年(1718年)に5代藩主、毛利吉元が毛利家家巨の子弟教育のために、現在の場所から2kmほど西にある堀内という場所に建てられ、すぐ近くの萩城内から通うには便利な立地でした。

それから約130年後までには学ぶ生徒も増え、教える教科も倍増して手狭になったため、嘉永2年(1849年)に現在地(江向)に拡大移転しました。

約5万㎡もの敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、NHKの大河ドラマ、「花燃ゆ」で大沢たかおさんが演じた楫取素彦(小田村伊之助)や、吉田松陰もここで教鞭をとっていました。幕末までには、山口に「鴻城明倫館」が設立され、三田尻にあった「三田尻越氏塾」も支校の一つに加えて育英の拠点とするなど、長州藩は教育熱心な藩でした。

また、医学・洋学の面においては、早くから萩市街に医学所を設けて、医師の子弟に医学を、また家中藩士を選んで洋学教育を行なっていましたが、安政3年(1856年)に、これを明倫館内に移すと同時に、洋学所も設けて「博習堂」と名づけ、西洋の科学技術を講習しました。

蔵六は、1864年(元治元年)にこの博習堂の御用掛に任じられて教授職に従事し、西洋の兵制・文物の導入に努めるとともに、若い藩士に兵学を教えるようになっていました。教師の職は、大阪の適塾や江戸の鳩居堂時代にとった杵柄であり、綿密な準備に基づく詳細な教技は評判も高く、藩内における評価も上々でした。

ところが、時の情勢は、次第にこうしたのんびりとした空気を許すようなものではなくなってきました。先の下関戦争において無断で諸外国と戦争を始めた長州藩を罰するため、幕府は「長州討伐」を決定。尾張藩・徳川慶勝を総督とし、薩摩藩の西郷吉之助を大参謀とする征長軍を編成して、大阪から長州へ向けての進軍が開始されようとしていました。

一方、下関戦争や蛤御門の変(禁門の変)は、長州藩の軍備や財政面で大きなダメージを与えました。また、政治面でも大きな変動をもたらし、それまで藩侯に攘夷を推奨していた正義派の勢力が著しく衰え、幕府への恭順止むなしとする椋梨藤太ら俗論派が台頭してきました。

元治元年(1864年)9月、山口政事堂で藩主敬親臨席の元、君前会議が開かれ、正義派の代表格である井上聞多が武備恭順論(表向きは恭順しつつも戦うことも想定)を説きますが、親幕・武装解除を唱える俗論派の抵抗により会議は紛糾。

最終的には敬親が、武備恭順を長州の国是とする事を言明して終わりますが、会議からの帰途、井上は暴徒に襲われて瀕死の重傷を負います。

その翌日、今度は周布政之助が、突如切腹。蛤御門の変で藩士の暴発を抑えられなかったことの責任を取ってのことですが、正義派の面々のよき理解者であった周布の自殺は、彼らに大打撃を与えました。俗論派の椋梨らの独走を許し、彼らが藩の人事を掌握するようになっていきます。

勢いに乗る俗論派は10月、藩主敬親公父子を擁して萩城へ入り、以後、それまで山口政治堂で行っていた藩議がすべて萩で行われるようになります。この移動には俗論派の実戦部隊である撰鋒隊も帯同しており、プチクーデターともいえるでしょう。

山縣有朋ら奇兵隊幹部は、いまだ山口に滞在していた藩主の息子、毛利元徳に拝謁し、建議書を提出して藩侯らの萩行を止めるよう求めましたが受け入れられませんでした。萩に拠点を移した俗論党は、それまで藩の要務を務めていた正義派の面々を罷免し始め、政務役だった高杉晋作もこのとき役職を取り上げられました。

折もおり、ちょうどこのころ幕府が西国諸藩に動員をかけ、10万以上ともの軍勢が畿内に動員されたという情報がもたらされました。こうした中、萩に中枢を移した俗論派は蛤御門の変を積極的に指導した正義派三家老を切腹させ、幕府に降伏する事を主張。これに対し高杉晋作が創設した奇兵隊をはじめとする諸隊の幹部は反対の建議書を提出しました。




しかし、長州藩の支藩である岩国藩の当主、吉川経幹(つねまさ)が、首謀者を処罰して事態の収拾を図ることを毛利敬親に進言するなど、情勢は正義派にさらに不利になっていきます。

幕府の長州征伐が迫る中、奇兵隊ほかの諸隊は長州藩内各攻め口に兵を配置しますが、俗論派主導の萩藩政府は、敬親から三家老を切腹させて幕府へ恭順するという策の了承をほぼ得ていました。このため、各攻め口に使者を送り、征長軍と衝突しないよう周知するとともに、諸隊幹部を山口の政事堂に集合させ、諸隊の解散を命令しました。

藩の解散令に従わない場合は罪を問う旨を布告するとともに、さらに藩主父子は、諸隊総督に親しく諭す所があるため萩へ赴くよう命じますが、諸隊は俗論派を警戒して拒否。

このころ萩で藩侯父子を説得していた高杉晋作も、俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出しました。 その際、盟友のひとり、楢崎弥八郎も誘いましたが同意せず、残留した楢崎は捉えられ、後に処刑されました。

ちょうどこのころ、征長軍総督・徳川慶勝は大阪を出発し広島へ向かい始めるとともに、西郷ら別働隊は関門海峡側へ集結を始めていました。慶勝が大阪を出発する際、江戸幕府は蛤御門の変の際に捕えた長州人7人を斬首して征長軍の門出を祝しました。

萩から山口へ脱出した高杉は、三田尻港からさらに福岡藩へ逃れ、彼の庇護者であった女僧、野村望東尼の別荘、平尾山荘に匿われました。この時点では、藩内で高杉に同調して蜂起するような機運はまだ高まっておらず、彼は九州を巡って遊説し、各地で同志を募った上で長州に戻り、決起することを考えていました。

こうした中、かねてより取り沙汰されていた三家老の切腹が実施に移されます。その首は征長軍に届けられて首実検が行われるとともに、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ発する降伏文書の準備を始めました。俗論派はさらに正義派の粛清を続け、野山獄に投獄していた蛤御門の変の四参謀(宍戸左馬之助以下三名)までも処刑しました。

このころ、下関まで進軍してきていた征長軍参謀である西郷隆盛は、ひとつの決断をします。蛤御門の変では長州と相対した薩摩ですが、彼の国もまた、先年イギリスとの間で薩英戦争を繰り広げ、敗戦を喫しています。このことから西郷は、外国勢力が日本に迫るかかる時期に、こうした内戦は無益であるとの認識を持っていました。

また、薩摩藩主である島津久光からも藩命として長州内の内戦回避に尽力するよう、指示を受けていたと言われます。

このため西郷は、長州の恭順をみるやいなや、征討回避に動き、征長軍幹部に停戦を呼びかけ始めました。結果西郷は、慶勝の信任を得て戦争回避の交渉を取り仕切ることとなりますが、これはかつて薩摩藩が、蛤御門の変において長州を撃退した功績があり、征長軍内でも大きな発言力を持っていっためでもありました。

また、徳川慶勝は、元々尊王攘夷派であり、そもそもこの長州討伐には消極的だったといわれています。井伊直弼が安政5年(1858年)にアメリカと日米修好通商条約を調印した際にも江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議しましたが、これが災いし、井伊が反対派を弾圧する安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられています。

こうしたどちらかといえば消極的なリーダーを持った征長軍総督府は、とりあえず総攻撃を延期。「五卿の引き渡しと附属の脱藩浪士の始末、山口城破却、藩主父子からの謝罪文書の提出」を条件に停戦してもよい、と西郷を通じて長州側に伝達してきました。

ここで、蛤御門の変で長州に落ち延びた公家七卿がなぜ五卿になったかですが、これはこのうちのち錦小路頼徳が病没、澤宣嘉は他藩の攘夷運動参加のために転出したためです。

無論、総督府からの通達は最終的な降伏条件ではなく、この時点では総督府の誰もが一時的な戦争回避の為の条件と考えており、戦後落ち着いた時期に別途沙汰があり、長州藩は改易ないし減封されるだろうとみなしていました。 西郷隆盛ですら、長州毛利は東北あたりに数万石で減封され、この戦は終わるだろう、と考えていたようです。

また、最初から領土削減を戦争回避の条件として持ち出すと、短期間での妥結が不可能となります。このため、総督府側はこの時あえて減封に言及しなかったと見られます。



いずれにせよ、表だって提示された降伏条件はそれほど厳しいものではなく、このため長州はこれを飲み、戦闘は回避されるのではないか、とみられていました。が、あにはからんや、長州藩内では、この情勢を根本から覆す謀事が着々と進行していました。

三家老が切腹したという情報が山口にもたらされると、正義派の息のかかった各諸隊幹部は激怒しました。さらに諸隊は、萩藩政府が彼らを駆逐するため、軍兵の動員をかけた事を察知します。 諸隊は衆議し対策を練りますが、山口の地形は寡兵で守ることが出来ないと判断し、正義派に協力的な長府藩主毛利元周を頼り、長府へ赴くことを決めます。

長州藩は大きく分けて、長府藩、徳山藩、岩国藩の三つの支藩をもちます。このうち長府藩は最も西の関門海峡を含むエリアを統治しており、長府城下は関門海峡から直線距離でわずか5~6キロほど東、という位置関係です。

長府の地名は「長門国府」にちなみ、古代より山陽道の中継地として栄え、国府および国分寺が置かれていましたが、やがて長門国の中枢が萩や山口に移行してからは、国府としての機能が低下し、単なる宿場町として位置付くことになりました。

江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩として長府藩が設置され、これにより長府毛利家が陣屋(櫛崎城)を構え、その周辺に武家屋敷が広がるようになります。現在もこの時代の武家屋敷がいくつか残り、明治期に建てられた豪華な長府毛利邸、国宝の仏殿を持つ功山寺、乃木希典対象を祀る乃木神社などと合わせ、長府は見どころの多い町です。

この長府藩の幕末の動乱の中での藩主、毛利元周(もとちか)は、長州藩主・毛利敬親の補佐を務めており、正義派には好意的でした。

諸隊の戦略としては、五卿を帯同して長府に赴き、正義派に理解のある元周の長府藩と力を合わせ、馬関の長州本藩会所を抑えて金米を取り、役人を追い払い、俗論派退治のための義兵を起こすというものであり、この計画は後に高杉挙兵の下地となりました。そしてまずは五卿の長府への下向と、諸隊の移動が実施に移されました。

このころ、野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、藩内の正義派同志から、長州正義派の家老が切腹された旨の手紙を受け取ると、即座に長州へ帰還し俗論派を打倒する事を決意します。 しかし多数の間者や征討軍に囲まれる長州への帰還は困難を極め、町人に変装して帰国することとなりました。

高杉を匿っていた平尾山荘の家主、野村望東尼は、変装の衣服の用意を徹夜で行い、以下の歌を添えて送り出しました。

   まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ

高杉はこの心遣いに感激し、後に野村望東尼が、高杉ら脱藩浪士を匿った罪で離島に流刑になった際は、人を遣わして奪還しています。またその後に病に倒れた高杉を看病し、最期を看取ったのは望東尼でした。

こうして高杉は筑前より下関へ帰還します。この時、諸隊幹部は、各地に派遣された俗論派代官を暗殺する計画を建てていましたが、これを聞いた高杉は、兵力が分散することや全員一致しての決起にならないことを説き、また諸隊からの脱走が増加し自然解隊の恐れがあることを指摘して、諸隊が一致して即座に挙兵すべきであると主張しました。

一方、このころすでに広島に進駐していた総督府は、先の降伏条件への回答を得るため先遣使を山口に派遣し、不穏な動きのある長府の状況確認の巡回もさせようとしていました。

しかし、長府に反抗する諸隊があることを知っていた萩藩政府は、彼らを終始酒宴でもてなして山口に留めました。このため、先遣使らは山口城破却等の条件履行のアドバイスをしただけで広島に帰りました。

これと前後して、幕府から要請を受けた九州諸藩の使者が、長府にいた五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かりたい、という申し入れをしました。これを五卿も諸隊も断固拒否しますが、使者の代表が、筑前勤王党(尊皇攘夷派)に属する福岡藩士だったため、三条実美ら五卿は説得され、福岡・太宰府に移ることを決めます。

これにより、長州藩としては勤皇のよりどころの一つを失うことになりました。が、結果としてその後長州内で起こる動乱に五卿が巻き込まれることなく、維新後、三条実美は太政大臣や内大臣に、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就くことができました。

幕府にすれば、このとき福岡藩に五卿の始末を期待していたわけですが、それが実行されなかったため、同藩はのちに尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになりました。ただ、そのことで藩主である黒田長溥が幕府に責められるなどによって藩論が佐幕に傾き、勤王派が弾圧されるなどの動乱がありました。

これにより筑前勤王党は壊滅状態に陥りましたが、その後再び巻き返すなど、藩論が目まぐるしく変転するまま幕末を迎えました。

ちなみに、高杉を助けた野村望東尼はこの福岡藩の重職の娘で、勤皇派に属していたためこの動乱に巻き込まれ流刑されますが、前述のとおり、これを高杉が奪還しました。




この五卿退去により、諸隊の中にも恭順の空気が広まり始めましたが、こうした中でも強硬に俗論派と戦うことを主張する高杉は、少数の賛同者とともに決起し、諸隊全体をそれに続かせようと画策します。しかし、高杉の挙兵計画を聞いた諸隊幹部は全員一致して反対しました。

高杉は、この消極的な諸隊幹部の態度に怒り、自らと一緒に立ち上がるよう大演説をぶちましたが、彼らの心をつかむことは出来ません。説得が不調に終わった彼は下関に赴き、わずかな賛同者とともに決起の準備を進めざるをえませんでした。

そして、元治元年12月15日(1865年1月12日)深夜、下関・長府にある功山寺にて高杉晋作は挙兵しました。この夜、下関では珍しい大雪であったといいます。

この功山寺ですが、かなり長い歴史を持つ古刹で、嘉暦2年(1327年)に創建されました。正慶2年(1333年)には、後醍醐天皇の勅願寺(朝廷が国家鎮護・皇室繁栄に効力があるとして認めた寺)となり、時の権力者、足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えました。

室町時代には大内氏の庇護を得ますが、大内氏が滅亡後衰退していたものを、慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が再興。曹洞宗の笑山寺として再スタート。秀元の没後、功山寺に改名されました。仏殿は鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されているほか、多数の文化財をする、県内屈指の名寺です。

先に、福岡へ逃れた五卿が滞在していたのもこの寺で、今ものこる豪華な書院で起居していたと伝えられています。境内にはこのほか、高杉晋作が挙兵した折の姿を模した銅像が建てられており、騎馬姿のこの像は、「維新の町・長府」のシンボルともなっています。

この蜂起後に藩内で繰り広げられた内乱は、元治元年に起こったことから「元治の内戦」と呼ばれ、また、功山寺での決起は、「功山寺挙兵」、「回天義挙」とも呼称されます。

しかし、その最初の決起の参加者は、高杉を含めたごく限られた者たちだけでした。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであり、装備していた大砲はたった一つでした。

挙兵した高杉らがまず最初に目指したのは、関門海峡にもほど近い「新地」にあった「馬関会所」です。長州藩の町役人・村役人が詰める事務所で、両替所、取引所などを兼ねており、高杉はここを襲撃することで今後の戦で必要となる、金品をまず得ようとしました。

功山寺から下関へは長府藩領を通行する事となりますが、かねてより正義派に好意的だった長府藩はこれを妨害しませんでした。易々と会所を収得した高杉らですが、もとより食料と金銭を取れれば良く、人を殺すのは悪いと考え空砲を一発撃ったところ、ここに詰めていた総奉行の根来親祐らもすぐに降伏しました。

流血は避けられたものの、会所襲撃を察知した長府藩が事前に密告をした後であり、会所側は既に金穀を移動させていました。このため、こうした算段には聡い伊藤俊輔が、高杉と親しい下関の豪商入らの元を走り回り、二千両の大金を借りだしました。

周辺の住民は決起した高杉らに好意的で、このとき、120人ほどの志願兵が馬関会所に来たといい、その後も志願兵は増える一方であったといいます。会所を掌握した後、高杉は18名からなる決死隊を組織して三田尻の海軍局に向かい、「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取。これにより、「高杉蜂起」の知らせは、その日のうちに長州中に広まりました。



このころの村田蔵六は、俗論派にも正義派にも属さず、ただ黙々と萩で藩の兵装を整える事業を推進し、兵学教授に専念していたと思われます。知らせを聞いた蔵六は、下関戦争の後始末で行動を共にした高杉が挙兵したと聞いて内心驚いたでしょう。しかし、藩から高禄をもらって勤務をしていた手前、そのことは億尾にも顔に出しませんでした。

この高杉挙兵の報を受けた俗論派・萩藩庁政府では、すぐに動きがありました。その報復として、野山獄に投獄していた正義派の首脳たちを11名を斬首にします。野山獄で粛清された彼らはのちに萩市の東光寺に慰霊のための墓が建てられ、「福甲子殉難十一烈士」と呼ばれました。

ところが、萩藩政府は、このクーデターを軽く見ていたきらいがあります。十一烈士の処刑があった同日も、視察に来た幕府の3名を受けいれており、何事もなかったように山口城破却の状況を案内しました。山口城は城ではなく館と説明し、破却の仕方も屋根瓦十数枚を落としただけでしたが、巡見使はこれを問題なしとして了承して広島に帰りました。

さらに翌日、もう一人の巡見使が萩に向かい、毛利藩主父子の蟄居状況を視察し、長州が戦争回避条件を満たしていることを確認した上で長州を去りました。12月29日、征長軍総督府は萩へ正式に解兵令を伝え、総督府内の幕臣も広島を離れ江戸へ帰国しました。

幕府軍に内乱が発生していることを知られることなく事が進んだ、とみた俗論派政府は、12月25日になって、ようやく決起した高杉らの討伐を決め、高杉らを「追討」する議案を藩主へ提出しました。

この議案を見た藩主敬親は、一読の後に「追討」を「鎮静」に改めさせたといいます。「そうせい公」と呼ばれた敬親が、議案を自ら変更することは非常にまれであったといいますが、藩候もまた、高杉らのクーデターはたいしたことがない、と考えていたようです。

同日、家老・清水清太郎が切腹に処されました。 清水清太郎は最後に残った正義派家老であり、彼の死により、萩藩政府内の正義派高官はすべていなくなりました。

これを受けて、高杉らが率いる正義派諸隊はついに一戦を覚悟します。元治2年(1865)正月6日夜半、赤間関街道を粛々と進軍し、秋吉台東に位置する「絵堂」に達しました。

この赤間関街道というのは現在、地元山口の人でも、かつての街道とは認識していないようなルートです。瀬戸内海に面する長府付近を発し、北東方面に抜ける間道で、その終点は日本海側の萩になります。

途中、美祢(みね)、大田(おおだ)、絵堂(えどう)、明木(あきらぎ)と辿って、萩に到達しますが、この途中の大田と絵堂がこの紛争の主たる舞台となりました。風光明媚な景勝地として知られる秋吉台・秋芳洞の東にある「美東町」と呼ばれる付近です。ちなみに、奈良の大仏を形成した銅は、ここの長登銅山で産出されました。

萩藩政府は、毛利宣次郎(厚狭毛利家・家老)を諸隊鎮静軍の総奉行に任じ、26日先鋒隊1200名が萩城下を出立し、絵堂を本陣とし、反乱軍を包囲する形で駐屯。後軍1400名が絵堂の北部・明木に本営を構えたほか、1200名が北方の三隅に後詰めとして進軍しました。

対する正義派諸隊の総数は600名ほどだったといわれており、このうち絵堂に進んだのは150とも200とも言われているようですが、明確な記録がありません。が、いずれにせよ、数では圧倒的に藩政府軍が優位でした。このため、この絵堂で1月6日に始まったとされる戦闘では、諸隊が萩政府軍本陣を夜襲して開戦の火蓋が切られたと伝えられています。

この夜襲は成功し、諸隊は絵堂を占領しましたが、ここは防御に向かない地形であり、また数でも劣勢のため放棄して南進し、翌7日には、大田川流域の大田(秋吉台の南東)に出ました。このころまでにはその総数は400ほどまでに増えていたといい、近代兵器を装備した諸隊が、民衆の支援を得て藩政府軍を圧倒します。

結局、大田・絵堂戦役は、正月16日までの10日間も続くことになりますが、高杉が組織した反乱軍諸隊はほとんどの戦闘に勝利しました。またこれに呼応するように、山口南部の小郡(現新山口市駅周辺)でも諸隊が蜂起し、ここを占領するとともに、藩議事堂のある山口をも掌握しました。

さらに三田尻他の各地代官はことごとく俗論派に与した者でしたが、彼らもすぐに恭順し、防長二州においては、萩を除くすべてが正義派である反乱軍諸隊によって掌握されるようになりました。このクーデターにおける、大田・絵堂の戦いを含むすべての争乱で死傷した兵士数は必ずしも明確ではありませんが、彼我ともにかなり過少であったようです。

2月9日、長府藩主の毛利元周らが萩城に登り、藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行いました。元周らは敬親に対し、諸隊の建白書を受け入れて国内の統一を図るべきことを提案。敬親父子がこれを了承したのを受け14日、奇兵隊・八幡隊は萩城周辺を制圧しました。

さらに諸隊が萩南部の明木に侵攻し、海上からは癸亥丸が空砲を撃って示威活動をする中、諸隊が萩城へ入城すると、俗論派の幹部らは逃亡しました。城内と萩市内は非常に混乱したため、敬親候は癸亥丸へ使者を遣わして発砲を止めさたといいます。のち、高杉らは野山獄に囚われた正義派諸氏を釈放しました。

逃亡した俗論派の首魁、椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州(現島根県)等で捉えられ、その後の5月、萩の野山獄において処刑されました。このとき椋梨は、正義派の取り調べに対し「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したといいます。

その他の俗論派の重鎮も順次捕縛・処刑され、ここに俗論派は完全に潰えました。ただ、老若男女を問わない虐殺のような事態は起こりませんでした。高杉ら幹部の戒めも厳しく、略奪・暴行といったことも皆無でした。かつて俗論派が正義派を弾圧したときも同様であり、長州藩が幕末の動乱以降、多くの人材を残すことができたのはこのためです。

2月22日、敬親父子は先祖を祀る霊社に参拝して臨時祭を納め、騒乱の責任を毛利家祖先に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓います。さらに3月17日、敬親は諸隊の総督と長州各支藩の家老を召し、改めて、武備恭順の対幕方針を確定しました。

これにより、長州藩は一丸となって幕府による第二次長州征討へ備えることとなりますが、武備恭順のうちの「恭順」の文字は、その後「反幕」へと変化していきます。

この第二次長州征伐は、幕府軍と長州軍が本格的に砲火を交える熾烈なものとなっていきますが、このとき、長州軍を勝利に導いた立役者は、高杉晋作と村田蔵六でした。

長州を囲む四方の海山から幕府が攻撃を加えたこの戦いでは、第一次長州征伐とは比べ物にならないほどの死傷者を数えることとなります。後年、「四境戦争」とも呼ばれるこの争乱に寄与した蔵六の活躍については、また次項、書きたいと思います。




火吹き達磨

村田蔵六は、長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられていました。この名は周布政之助が付けたとも、高杉晋作が付けたとも言われています。 

高杉晋作は言わずと知れた時代の風雲児。しかし、周布政之助は知らない人が多いと思うので、少し説明しておくと、長州藩「大組」という藩内門閥士族、つまり代々重役を担うエリート家の出です。24歳の若さで、藩の蔵元検使暫役、29歳で政務役に抜擢され、村田清風の後継とみなされました。

村田清風は、下関海峡を通行する西国諸大名の船に新たに税を課すなどの手腕で藩の財政改革を成し遂げた人物で、老齢のために幕末の動乱期前に死没(1855年、73歳没)しましたが、長州がこの時期、幕府に抗うだけの備えを蓄えることができていたのは、彼のおかげであるといっても過言ではないでしょう。

周布は、この村田を尊敬し、これを継いで藩財政の立て直しに力を注ぎましたが、若い頃から議論好きで、嚶鳴社という研究会を主唱し、尊王攘夷思想を持つ仲間をまとめて、「正義派」のリーダーと目されるようになりました。正義派とは尊王攘夷を旨とする輩の集まりで、これに対して幕府に恭順しようとする保守派は、俗論派と呼ばれました。

正義派・俗論派の呼称は、のちにこの周布に擁護される形で討幕を進めていった高杉晋作がつけたものですが、正義派は改革派である晋作らの立場を正論化するためのネーミングです。敵対する俗論派を保守佐幕と決めつけ、なかば彼らを煽る形で藩論を自分たちの都合のよいように形成しようとしました。

清風の改革の時代から、一貫して反対派であった同じく藩の重役「椋梨藤太」が、この俗論派のリーダーであり、保守佐幕の彼らは、ことごとく周布らと対立し、一時期強い権力を掌握して正義派の面々を弾圧しました。

椋梨家は、長州を組成した毛利・小早川家に早くから追従した武家で、代々重臣として登用されてきた家系ですが、この時期は方向性を誤りました。改革の急先鋒となった周布らの行動を理解できず、時代に埋もれていきます。

対する周布家もまた重役を担う家系であり、歴代の当主が家老職を務めてきました。政之助は、父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子(家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子)であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続しました。

若い頃から血気盛んな人物として知られ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けました。椋梨ら保守派とも幾度かの抗争を行い、その都度失脚しますが、持ち前のふんばりで何度も返り咲き、松陰門下の高杉晋作、久坂玄瑞ら、若い藩士たちのよき理解者として、長州藩を尊皇攘夷の雄藩へ押し上げていきました。

藩エリートに生まれたという点では高杉も周布とよく似ています。出自も家格は大組士で、長州では名門で知られる家系でした。父の小忠太は、直目付・学習館御用掛に任じられて長州藩と朝廷・幕府の交渉役を務めたことで知られる人物です。晋作はその跡を継ぎ、将来を嘱望されていましたが、父親にはむかうように討幕へと突き進みました。

この周布政之助は1823年生まれ、高杉晋作は1839年生まれです。境遇や性格が似ていたせいか、16歳も年が違うこの後輩を周布はかわいがりました。一方の村田蔵六は1824年生まれですから、周布と同年齢です。このことから、年少である高杉晋作が年上の蔵六を指して、「火吹き達磨」のあだ名をつけたとするのは少々無理があるかもしれません。

むしろ同年代で、豪放磊落な性格だった周布が遊び心でつけたのではないでしょうか。酒癖が悪かったともいわれますから、何かの酒の席で、村医者あがりの蔵六を多少蔑む意味もあって、こう呼んだのではないかと思われます。




ところで、この「火吹き達磨」とは、いったいなんなのでしょうか。

筆者が調べてみたところ、これは「火吹き玉」とも呼ばれ、昭和初期まで広く一般に使われていたものです。中が空洞の卵型をした金属球で、だいたい銅でつくられています。一か所に孔が明けられた不思議な道具です。

江戸時代のいつのころかわかりませんが、発明されて各家庭で広く普及しましたが、明治大正と各家々から囲炉裏が姿を消して行くに連れて、姿を消して行ってしまいました。使い方としてはまず、これを囲炉裏の炭(熾(おき)火)のそばへ置きます。しばらくすると、中の空気は約2倍に膨張して、一か所に明けられた孔から噴き出していきます。

空気の噴出が落ち着いたところで、火箸で玉をつまみ上げて、水を張った桶の中へ放り込みます。すると、玉の中の膨張していた空気は冷やされて、体積が半分くらいに減ります。その減った分だけ、火吹き達磨の中へ水が吸い込まれます。

そしてこの水をたっぷり吸い込んだ玉を再び火鉢の中の熾火のそばに置きます。しばらくすると、熾火の熱で中の水が沸騰するため、今度は空いた穴の口から勢いよく水蒸気が噴き出ます。

この水蒸気が炭と衝突すると、「水性ガス反応」が起こります。化学式で書くと、水素(H2)と一酸化炭素(CO)が合わさる形です。そして熾火の火が引火すると、このガスは勢い良く燃えあがります。

火吹き玉からの水蒸気の噴出が少なくなってくると、ふたたび火箸でこれをつまみ水の中へ、そしてまた熾火のそばへ……とこれを繰り返します。通常、炭は固形物であるため、なかなか燃え上がりませんが、こうすることで、短時間に強い火力を得ます。これにより、急速に暖をとることができます。

炭は何もしなければ時間をかけてゆっくりと燃え尽きていきますが、こうして人為的に燃やしてやれば瞬間的な暖がとれるわけです。昔人の知恵といえるでしょう。

この金属製の玉には、職人の遊び心でいろいろな彫金が施されていたようです。そのひとつが「達磨」であり、長州ではこれが定番だったので「火吹き達磨」と言う呼び名が定着したようです。

別に金属製である必要はなく、陶器などでも作られていたようですが、耐久性や熱伝導率のために銅製のものが多かったようです。また達磨だけでなく、大黒様の形や鍵、薬缶といったいろいろなものがありました。コレクションにすると将来的に高値がつくお宝になるかもしれません。骨董店で探してみてください。

で、この火吹き達磨に蔵六が似ているということなのですが、生前、彼と面識があり、明治いなって歴史家になった元水戸藩士の鈴木大という人の表現では「人となり、短驅黎面(小柄で色黒)にして、大頭、広額、長眼、大耳、鼻梁高く、双眉濃く、髷を頭頂にいだき、常に粗服半袴をまとい」とあります。

額が広くて、ゲジゲジ眉、しかも身なりには構わない、というところが最大の特徴のようで、維新後に来日したお雇い外国人の一人、エドアルド・キヨッソーネによって描かれた肖像画でも、異様に大きな額の村田蔵六が描かれています。死後に関係者の証言や意見をもとに彼が描いたものですが、元となる写真は発見されていません。

一方、靖国神社に蔵六の銅像がありますが、これもキヨッソーネの肖像画を元に制作されたようです。ただ、こちらは額の大きさはそれほどではなく、眉毛が妙に強調されており、これまた別人のようです。

袴を身につけ、左手に双眼鏡を持っていますが、これは「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とされます。

蔵六には琴子という配偶者がいましたが、二人の間に子はなく、養子をとっています。このため実子から村田蔵六という人物の容貌を推し量ることもできないわけで、現時点ではキヨッソーネが書いた肖像画が唯一彼の顔を知る手立てということになります。



ちなみに、このエドアルド・キヨッソーネとはイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった人物です。

イタリアのアレンツァーノ(ジェノヴァ県)の美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業、特別賞を受賞し教授となったのち、紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造に関わっていました。

来日した理由は、大隈重信が提示した破格の条件(月約1千万)を提示したこともありましたが、当時写真製版技術の発達が進んでおり、彼が得意とする銅版画の技術を生かせる場を求めていたためでもありました。また明治政府にとっても偽造されない精巧な紙幣の製造が課題であり、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めていたためでした。

来日後、当時の大蔵省紙幣局を指導。印紙や政府証券の原版を作成し、日本の紙幣・切手印刷の基礎を築きました。また若い世代に絵画の手ほどきなどもしており、近代日本の美術教育にも尽力したことで知られます。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超えるといいます。

1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与されました。また村田蔵六以外にも、数多くの元勲や皇族の肖像画も残しています。ただ、面識がない人物を描いたことも少なくなく、西郷隆盛の肖像を描いたのも彼です。

良く知られているゲジゲジ眉で丸坊主、という例の西郷の顔は、彼が想像で描いたもので、実際の西郷はもっと細身だったのではないか、という説もあるようです。案外と、今年の大河ドラマの主人公役、鈴木亮平さんくらいの体格だったのでないでしょうか。

村田蔵六もそうですが、西郷もまた生前の写真が残っていなかったため、西郷の縁者でもあった初代印刷局長・得能良介からアドバイスを受けて描いたとされています。ただ、西郷の場合は、実弟の西郷従道と従兄弟の大山巌がこの当時まだ存命であり、彼らをモデルにイメージを作り上げることが可能でした。

このほか、キヨッソーネは、新紙幣の藤原鎌足や和気清麻呂といった古人を描きましたが、前者を描く際には元総理の松方正義、後者の時は木戸孝允をモデルにしたとされます。なお、有名な明治天皇の肖像も彼の手によるものです。皆が良く知るこの肖像は、実際とはかなり異なっており、写真も残っていますが、実際はよりいかつい顔をされています。

キヨッソーネは、雇用期間が終了した1891年(明治24年)には、それまでの功績を認められ、現在価値にしておよそ6~7千万円の退職金(現在に換算)と、年額約3千万円近い終身年金をもらい、さらに勲三等瑞宝章を政府から与えられています。

これらの莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品を購入するのに当てたほか、寄付したといいます。また、彼が収集した美術品は、浮世絵版画3,269点、銅器1,529点、鍔1,442点をはじめとして15,000点余りに上りますが、これら収集品は死後イタリアに送られ、現在はジェノヴァ市立のキオッソーネ東洋美術館に収蔵されています。

キヨッソーネは最期まで日本に留まり、1898年に65歳のとき、東京・麹町の自宅で没、青山霊園に葬られました。独身を通したため、遺言で残された遺産は、すべて残された召使に分配されたそうです。

さて、火吹き達磨の話やらキヨッソーネの話で前段が長くなりました、村田蔵六の話に戻りましょう。

前項では、村田蔵六が江戸から長州藩に戻り、軍事や外交における顧問として重用されるようになるまでについて書いてきました。

ここから長州藩は、討幕に向かい、それこそ火達磨のようになっていくわけですが、対する幕府も長州征討の体制を整え、残る力を絞り出してその火を消そうと躍起になっていきます。

前項でも書きましたが、長州藩としては、激動する情勢に備えて、それまで日本海側の萩においていた藩の中枢を、より山陽筋に近い山口に移し、ここに軍事拠点を作ろうとしていました。これが明治維新からわずか5年前の、1863年(文久3年)のことです。

この年は、尊王攘夷運動が最大にして最後の盛り上がりをみせた年でした。京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返されました。朝廷内においても三条実美や姉小路公知ら尊攘派が朝議を左右するようになり、国事参政と国事寄人の二職が設けられると、二人がこれに登用され実権を握ります。

これに出仕する長州藩士、久坂玄瑞らも朝廷に影響力を持つようになり、諸藩に抜きんでて尊王攘夷を推し進めようとしました。そうした情勢のもと、何者かが足利三代の将軍像の首を切り取る、といった事件が起こり、時の天皇である孝明天皇も、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸する、といった反幕と攘夷への動きが加速します。

ついには、孝明天皇が将軍徳川家茂を宮中に呼び出し、参内した家茂に対し、この年の5月10日を攘夷決行の日とすることを約束させるに至ります。そして、当日になると長州藩はこの定約通り、下関海峡を通る外国船を次々と砲撃。列強もこれに反撃しました。




いわゆる「下関戦争」と呼ばれるこの戦争は、この年・文久3年(1863年)の5月と翌年、文久4年(1864年)の7月の二回にわたって起こり、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊と交戦しました。

長州藩は馬関海峡とも呼ばれる下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取り、列強艦隊が海峡を通過すると砲撃を加えました。

これに対して、列強艦隊は17隻で艦隊を形成して応戦し、その内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員は約5,000の兵力でした。

列強艦隊側は、緒戦でオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が大破するなどの被害を出しましたが、結果としてほとんどが無傷で、一方の長州側は帆船・庚申丸、蒸気艦壬戌丸が沈没、蒸気艦・癸亥丸が大破して壊滅し、アメリカ・フランス艦隊による砲撃によって、下関砲台のほとんどが破壊されました。

この長州藩の暴走に驚いた幕府は、7月8日、外国船への砲撃は慎むよう通告し、16日には詰問使を軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃について長州藩を詰問しました。ところが長州は悪びれるどころか、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として朝陽丸の提供を要求し、拒まれるとこれを強制的に拿捕。さらに詰問士らを殺害しました。

他方、戦闘で惨敗を喫した長州藩は、独自に講和使節を列強艦隊に送り、その使者に高杉晋作を任じます。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていましたが、火急のときということで許され、家老宍戸備前の養子「宍戸刑部」と偽って、列強艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んで談判に臨みました。

このとき、高杉と同行していたのが、ほかならぬ村田蔵六であり、これを機会に彼の名が頻繁に歴史書に出てくることになります。前項で書きましたが、蔵六は、4年前の1860年(万延元年)、長州藩士に取りたてられ、馬廻士に准ずる待遇を受けていました。また下関戦争当時は、手当防禦事務用掛という軍事面での事務掛の仕事をしていました。

8月14日には、その語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、列強との交渉のために下関に出張しており、18日には講和が成立しました。

結果として、長州藩は、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払い、などの5条件を受け入れましたが、ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになりました。

これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能だ、と高杉らが主張したこともありますが、そもそも将軍家茂が先に朝廷に攘夷を約束した、ということもあり、長州藩にしてみれば今回の外国船への攻撃は幕府が諸藩に通達した命令に従ったまでのこと、と押し通しました。

この調停の際にどのように蔵六が活躍したのかはよくわかりませんが、おらくは軍事通として、砲台の処理手続きや諸外国が必要とする軍艦運用のための必需品目のリストアップ、あるいは賠償金の国際レートの計算といった実務をこなしていたのではないでしょうか。

その功績が認められ、26日の外国艦隊退去後すぐの29日には、政務座役事務掛に任命されており、続いて12月9日には、藩校、明倫館から分離され、洋学校として設立された「博習堂」の教授に任命されています。

博習堂は事実上、兵学校であり、蔵六はその後、表だってはここの教授役をしながら、軍備関係の充実に取り組むようになります。しかし、うなぎのぼりに増えていく軍費を調達するのは容易ではなく、そこで彼が取り組んだのは「密貿易」でした。

このころはまだ幕府が治世をしていた時代であり、鎖国の中、諸外国と貿易をするのは当然、重罪です。が、蔵六は幕府には隠密に事を進め、とくにアメリカやフランスと接触して、大量の武器を輸入していたようです。輸入した武器は自藩で使うのは無論のこと、他藩へ流用してその利鞘を稼いでいた形跡も残っています。

先の下関戦争で唯一生き残ったのは、旧式の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸のみですが、この船のボイラーを打ち抜いて沈める、といった乱暴なこともやっています。幕府にはスクラップになったと報告して、フランス商人に引き取らせ、売金にさらに16万両上積みをして36丁もの大砲を装備した新型軍艦を購入したことなどが最近の研究でわかっています。

この壬戌丸はその後、航行可能にして上海に曳航されています。これら一連の裏工作を行ったのがアメリカだったといわれ、その後も、モニター号(Monitor)などの戦艦を何度も下関に派遣して長州に武器弾薬を供給しており、この事実は横浜に居る外国人の間で良く知られたことだったといわれています。

この壬戌丸売買の際には、蔵六自身が密かに上海に渡航していたとされる証拠も見つかっており、たとえばその売買記録の中に彼の記名と押印が残されているといいます。




とまれ、こうした列強艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされるとともに、逆に彼らの手を借りなければ討幕果たせない、いや、むしろうまく利用しよう、と考えるようになっていきます。

下関戦争は軍備の充実の重要さを藩士たちに思い知らせ、その装備に大転換をもたらす大きなきっかけにもなりましたが、戦闘任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する、といった戦術の重要性をも知らしめました。

例えば、下関海峡は両側とも険しい山になっていますが、この戦争では、その地の利を活かすことなく、長州は破れました。

15箇所あった長州藩の砲台は何れも海岸に近い低地に構築され、正面の敵にのみ対応するようになっており、このため複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできず、加えて列強の砲弾がその上の崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注ぎ、慌てふためく、といったこともありました。

また、この戦争で列強艦隊が用いた大砲は砲身内に螺旋を施した、いわゆるライフル砲であり、極めて高い命中精度があったのに対し、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する旧式のものであり、射程も威力も大きな差がありました。

そして、そもそもが力で圧倒的な差異のある列強と戦争を行うための国際的な根回しや、戦後の処理といったことも含めた戦略についても、その未熟さが露呈しました。戦術面でも戦略面でも長州軍のそれは古いばかりではなく、行き当たりばったりのものであることがわかり、幕府と戦うためには、これを近代化する必要性を痛感させられました。

さらには、上陸した諸外国の陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースも殆ど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれます。

戦前、長州藩領内では頻繁に一揆が発生するような状況にあり、下関戦争が勃発したとき、一部の百姓たちは自発的に外国軍隊に協力し、活躍したといわれます。そして、これを見ていた高杉晋作は、彼らは案外と戦争に使える、と考えるようになります。

そして、士分以外の農民、町人から広く募兵することを藩に上申するとともに、下級武士と農民、町人からなる部隊を結成することを思いつき、これを「奇兵隊」と称しました。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの同様に身分が低いものから形成される諸隊も結成されました。

この身分を超えた戦闘部隊の結成を高杉に進言したのが蔵六である、という証拠は何もありません。が、もともとは士分になく、百姓に近い身分で医業を営んでいた蔵六のアイデアを高杉が採用したと考えたとしてもおかしくはありません。

その証拠に、村田蔵六はこの奇兵隊を中心とした混成部隊を軸に、長州藩軍の体制を整えていきます。それはまた、維新後の日本陸軍や海軍へと受け継がれていきました。

こうして、下関戦争を契機に、村田蔵六を軍事顧問に据え、軍備増強を進めていった長州藩ですが、蔵六が列強との交渉のために下関に出張し、列強との講和が成立した8月18日には、会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を京都から追い出す、という、いわゆる「八月十八日の政変」が勃発します。

時の天皇、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、下関戦争を引き起こした長州のような急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や幕府の息のかかかった諸藩が行うべきものと考えていました。

ところが、宮中では、三条実美らの急進派が権力を握っており、「公武合体派」でもあった孝明天皇は、彼らを排除する勢力として島津藩に期待していました。公武合体とは、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする政策ですが、その幕府側の中心は会津藩でした。

会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派はかねてより中川宮朝彦親王を領袖とし、彼の下に朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策しており、8月15日に中川宮が参内して天皇を説得、17日に天皇から密命が下ります。

この令により、京都守護職、松平容保(会津藩主)は自藩の兵1500名を動員し、これに薩摩藩兵150名を加えた部隊は、18日未明に、御所九門の前に分散して警備に立ちました。勅令の主旨は尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等であり、これにより、長州藩はそれまでの担当だった堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなります。

こうして翌19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、京から長州へと下りました。世に言う「七卿落ち」です。

この政変によって、長州藩は朝廷における政治的な主導権を失い、御所内での急進的な攘夷路線は後退しました。しかし、朝廷はなおも攘夷を主張し続け、翌年の1864年(元治元年)には、時代に逆行する横浜港の鎖港の方針を幕府の合意のもと決定しました。

しかし幕府内の対立もあって港の封鎖は実行されず、3月にはその履行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)などの騒動が頻発します。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間では、長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなりました。

長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が論じられましたが、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。

ところが、この年の6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていきました。慎重派の周布政之助、高杉晋作らは藩論の沈静化に努めますが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。

この進発論を支持し、実践部隊を動かしたのが来島又兵衛、真木保臣(和泉)らの重臣であり、これに長州藩に賛同する諸藩の浪士を含めた約1400名の長州藩兵が、19日、御所の西辺である蛤御門(京都市上京区)付近で蜂起します。そして会津・桑名藩兵と衝突、ここに、いわゆる「蛤御門の変」の戦闘が勃発しました。

一時、長州藩兵は、京都御所内に侵入しますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退し、狙撃を受けた来島又兵衛は自決。このとき、松下村塾で高杉晋作とともに松陰に将来を嘱望されていた、久坂玄瑞も朝廷への嘆願を要請するためこの戦闘に参加していましたが、侵入した関白・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の邸宅で自害しました。

帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走。一方の会津勢も長州藩士の隠れ家一帯を攻撃。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。

生き残った兵らはめいめいに落ち延び、負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退。主戦派であった真木和泉も敗残兵と共に天王山に辿り着き、ここに立て籠もりますが、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って爆死しました。

こうして、長州藩はおよそ自爆ともいえる行為によって、より中央から遠ざかっていきましたが、これだけでは終わらず、やがては幕府軍による「長州征伐」によって、藩存続の最大の危機に陥ることになります。



この時期、既に長州藩の軍備の責任者になっていた蔵六がこうした攘夷について、どう考えていたのか、についてはほとんど資料がありません。が、親交のあった福沢諭吉が自伝の中で、師である緒方洪庵について書いているものの中にヒントがあるようです。

洪庵は、文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として大阪を出て、江戸に出仕していますが、その翌年の1863年に享年54で死去しています。福沢は、洪庵が運営していた大阪の適塾に入門しており、先輩塾生だった蔵六とは面識がありました(蔵六より11歳年少で、入門も蔵六より9年あと)。

福沢の自伝によれば、その洪庵の通夜が東京であったとき蔵六と再会し、このとき彼が先の下関戦争について触れ、「あんな奴原にわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのが当然だ。どこまでもやるのだ。」云々の発言をしたと書いており、蔵六がこれほどの過激な攘夷論を吐いたことに驚いています。

これについて福沢は、「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」とも記しています。蔵六自身も後年、この当時は攘夷論者であったことを知人にほのめかしています。

鋳銭司村の藪医者から、藩の軍事顧問的な存在に成りあがったばかりのこの頃の蔵六もまた、沸騰する藩内の攘夷論に飲み込まれ、あるいは酔ったような状態になっていたのかもしれません。

とまれ、この時期の蔵六はまだ時代の表にはほとんど出ず、藩初の洋学校である、博習堂で若い藩士へ黙々と軍学を教授していました。このころの蔵六は40歳前後。東京で暗殺されるのは、このときからあとわずか5年余りのことです(…続く)。