明治元年

慶応4年の年明けに始まった戊辰戦争は、2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃したことによって始まった、とされます。

ここでいわずもがなですが、「戊辰(ぼしん・つちのえたつ)」の意味を簡単に説明しておくと、これは60通りある、干支のひとつです。干支は月や年を表すために中国で使われるようになったものです。

なぜこのような呼称が使われるようになったかについては諸説あるようですが、一番単純な理由としては、「あの年」といったときにどの年だかわからなくなるので、戊辰の年だよ、といえば、どの年だか特定しやすくなるためです。

10種類からなる十干と、12種類から干支の組み合わせ(積)は120となります。が、最小公倍数は60になります。戊辰と辰戊は同じのため、一つとみなすわけです。

十干は、甲・乙・丙・丁…と始まりますから、その後ろに子・丑・寅・卯・辰・巳…で始まる十二支をつけると、順番に甲子、乙丑、丙寅、丁卯、戊辰…となります。こうした周期性を昔の人は覚えていて、あの年だよあの年、どの年だよ、といった議論になったときに、○○の年、といえば意志疎通がしやすくなる、というわけです。

この干支の5番目にあたる戊辰の年は、年号で表わすと慶応4年(1868年)となりますが、維新によって元号が改められたため、同年9月8日(現10月23日)をもって「明治」に改元、同年1月1日(現1月25日)に遡って明治元年となりました。




徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した慶長8年(1603年)から265年間続いた江戸時代はこれで終わりをつげ、明治の時代が始まりました。

しかし、その新しい時代の幕開けには、日本人同士が戦い、多くの血を流した戊辰戦争という市民戦争がありました。このうち、最初の一週間ほど畿内で行われた戦闘を「鳥羽・伏見の戦い」といいますが、これが特別視されるのは、戦闘の間に数多くの政変がおこり、めまぐるしい駆け引きが旧幕府勢力と新政府の間に交わされたからにほかなりません。

京都南部を中心に各地で繰り広げられたこの戦いによる犠牲者数は、新政府軍約110名、旧幕府軍約280名といわれており、短期間にしてはかなり多い数です。これは、両軍ともに最新式の銃や大砲などを保有していたためですが、旧幕府軍の犠牲者が新政府軍のそれの2倍にも及ぶのは、新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことを意味します。

こうした近代兵器をもって戦われた我が国初の戦争の始まりは、上述のとおり、海上で始まったとされますが、地上では、慶応4年1月3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触したことに始まります。

御所をめざし、街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過しました。しかし、業を煮やした旧幕府軍が午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告。

薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥りました。この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、奇襲を受けた形になった旧幕府軍の先鋒は潰走しますが、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始しました。

日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を仕掛けますが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却。

一方、伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていましたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれました。旧幕府軍は旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣しました。

奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えます。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返しますが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し、奉行所は激しい爆発を繰り返しながら炎上しました。

新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入。こらえきれずに旧幕府軍は現在の伏見区南部、淀駅付近まで逃げ落ちました。



この時の京都周辺の新政府軍の兵力は5,000名(主力は薩摩藩兵)。対して旧幕府軍は15,000名を擁していました。この緒戦では、旧幕府軍は総指揮官の逃亡などで混乱し、旧狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれました。

翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、新政府軍の反撃を受けて指揮官の相次ぐ戦死などで形勢不利となり、後退。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わったため、旧幕府軍は敗走しました。

この日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、いわゆる「錦の御旗」が与えられます。これにより、新政府軍は「官軍」となり、錦旗を見た幕府軍が戦意を喪失するなど、その後の戦況にも大きな影響を与えました。

5日、伏見方面の旧幕府軍は、現在の宇治市にもほど近い、淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃しますが敗退し、淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとします。しかし、淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒みました。

入城を拒絶された旧幕府軍は、さらに大阪方面の男山・橋本方面へ撤退を余儀なくされ、これを追う官軍に追撃されて多数の負傷者・戦死者を出しました。この戦闘には新選組が参加しており、その隊士の3分の1がここで戦死したといわれています。

6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣しました。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張りまし。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にありました。

ところが、対岸の大山崎や高浜台場を守備していた津藩が、突然旧幕府軍へ砲撃を加えました。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れ、こうしておよそ4日に渡って行われた鳥羽伏見の戦いはあっけなく終わりました。

このとき、開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説きましたが、その夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却しました。

総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還しました。このとき、会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれています。

長輝にしてみれば、よもや総大将が逃亡するとは思いもしなかったでしょう。しかし、残った旧幕府軍を見捨てるわけにはいかず、陣営に残ることとなりましたが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになります。

7日、朝廷において慶喜追討令が出され、ここに旧幕府は朝敵とされました。9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となりました。1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順。諸外国の列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失いました。

さて、この戊辰戦争における大村益次郎の動向ですが、長州藩では、鳥羽・伏見勃発後の1月14日、毛利元徳(敬親の養子、のちの最後の長州藩主)が京へ進撃し、17日に益次郎はこれに随行する形で軍制掛本役に復帰しました。先に主戦派から左遷されていた益次郎ですが、この戦いの勃発により、改めて時代の表に姿を現した格好です。

22日に山口を発ち、2月3日に大阪、7日に京都に到着。その際、益次郎は新政府軍(官軍)の江戸攻撃案を作成したと見られます。22日、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢となり、いきなり朝臣となりました。

左遷により事務に追いやれていた四十男が、いきなりメジャーレビューを果たしたようなもので、このあたり、面白いというか時代に翻弄されているというか、この人物の運がここで大きく転回しました。

一方、このころ鳥羽伏見の戦いを放り出して江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示しました。

片や、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻りました。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示しますが、新政府の権威は認めませんでした。このため、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もせず、その一方で、庄内藩と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めました。

旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から、この会津藩等を頼り東北地方へ逃れました。一方の新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍しました。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとしました。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収。

甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めましたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、新政府軍と戦い完敗します。近藤勇は偽名を使って潜伏しましたが、のち新政府に捕縛され処刑されました。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に対して、朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけました。幕府軍は応戦し、熊谷一帯で市街戦が起こりましたが、最終的には幕府軍の敗北で決着がつきました。この戦いは、戊辰戦争の東日本における最初の戦いとされます。




このころ、明治新政府御用となった益次郎は、京・伏見の兵学寮におり、これらの戦いには関与していません。ここで各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを始めようとしていました。

3月に入ってからは、明治天皇行幸に際して大阪へ行き、天保山(現大阪市港区にあった砲台)での海軍閲兵、さらに4月に入ってからは大阪城内で陸軍調練観閲式を指揮するなど、軍指揮官としてめまぐるしい毎日を過ごすようになりました。

4月4日には、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなりましたが、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的でした。

このころ益次郎は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べています。その意見を受け入れる形で、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、4月下旬には海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任することになりました。

この役職からもわかるように、このころの益次郎は既に長州藩の重役ではなく、明治新政府の軍事責任者であり、来る時代の軍務を司るリーダーとしての地位を確約されていたことがわかります。

このころ江戸では、旧幕府残党が各所に立て籠もり、不穏な動きを示しましたが、西郷や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化していました。これに対し、新政府はこの益次郎の手腕を活かして混乱を収めようとします。

そこで彼はまず、新政府の総裁に任命されていた有栖川宮熾仁親王が組織した大総督府の再編成に着手しました。大総督府には、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分の裁量権などが与えられていましたが、江戸市街の鎮撫を行う軍隊的な機能はほとんど整備されていませんでした。

このため、旧幕府が持っていた目黒の火薬庫製造所を大幅に拡充するとともに、兵器調達のために江戸城内の宝物を売却、江戸城から改名して東京城となった皇居の警護のために、のちの近衛師団の元となる「御親兵」を創設するなど、矢継ぎ早に手を打っていきました。

ちなみに薩長土から徴集された藩士を中心に組成されたこの御親兵がのちの帝国陸軍の原型といわれています。



5月1日には江戸市中の治安維持の権限を旧幕臣の勝海舟から委譲され、同日には江戸府知事兼任となり、江戸市中の全警察権を収めるに至ります。

しかし、このころ、旧幕府残党が上野寛永寺に立て籠もり、不穏な動きを示し始めました。いわゆる「上野戦争」と呼ばれるこの討伐戦は、徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎ら旧幕臣によって結成された彰義隊に対するものでした。

勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊をどうにか懐柔しようとし、解散も促しましたが、東征軍(明治新政府軍)と一戦交えようと各地から脱藩兵が参加し最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がると、新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返はじめました。

勝との江戸城会談で幕府恭順派である勝と仲良くなっていた西郷隆盛は、勝の手前、なかなか彰義隊の討伐を言い出せませんでした。このため、対応が手ぬるいとの批判を受けるに至り、大総督府は西郷を司令官から解任し、益次郎を新司令官に任命。彼は海江田信義ら慎重派を制して武力による殲滅を宣言しました。

1868年7月4日(慶応4年5月15日)未明、益次郎が指揮する政府軍は、寛永寺一帯に立てこもる彰義隊を包囲し、雨中総攻撃を敢行。午前中は屈強な彰義隊の抵抗に会い撃退されますが、午後から肥前佐賀藩が保持する射程距離が長いアームストロング砲の砲撃が山王台(西郷隆盛銅像付近)に着弾し始め、彰義隊を撃破、一日で争乱は終了しました。

この戦闘中、益次郎は江戸城内にいました。戦闘が午後を過ぎても終わらず、官軍の指揮官たちは夜戦になるのを心配していましたが、アームストロング砲による砲撃が開始されたと聞くと、彼は柱に寄りかかり、懐中時計を見ながら平然と言い放ったといいます。

「ああもうこんな時間ですか。大丈夫です。別にそれほど心配するに及ばない。夕方には必ず戦の始末もつきましょう。もうすこしお待ちなさい。」

やがて江戸城の櫓から上野の山に火の手が上がるのを見て「皆さん、片が付きました」と告げたといい、ほどなく戦勝を告げる伝令が到着すると、一同皆が驚いたといいます。

また彰義隊残党の敗走路も彼の予測通りであったといい、先の四境戦争でも見せたような彼の優れた戦況分析能力がまたここでも実証されました。

その後上野では、渋沢成一郎が率いる振武軍が彰義隊の援護に赴きましたが、行軍中に彰義隊の敗北を知り、敗兵の一部と合流して退却しました。また、天野は市中に潜んで再起を図りましたが、密告で捕われ、のち獄中生活五か月余で病没。この争乱で寛永寺は壊滅的打撃を受けましたが、戦死者も多く、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。

この彰義隊殲滅作戦を実施するには50万両もの大金が必要だったといわれます。その調達のために、益次郎は米国より購入予定だった軍艦ストンウォールジャクソン号の準備資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、更に新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃えました。

この戦闘は、それまで長州外の世間には無名であった大村益次郎の名を広く世間に知らしめるものとなりました。新政府からの評価も高く、上奏から従四位下に昇叙され、このころ準備されていた「鎮台」の中央組織、「鎮台府」の会計掛にも任命されました。つまり新政府軍の財布をそっくり手渡され、自由にやれ、と言われたことになります。

まだ戦闘が継続中の10月2日には、軍功として益次郎は朝廷から300両を与えられました。同日の、妻・琴への益次郎の手紙には「天朝より御太刀料として金三百両下し賜り候。そのまま父上へ御あげなさるべく候。年寄りは何時死するもはかりがたく候間、命ある間に早々御遣わしなさるべく候」と記し、父らへの配慮を示しています。

その後益次郎はこの額をはるかに上回る禄を賜るようになり、名実ともに新日本軍の総指揮者へと上り詰めていくことになります。

上野戦争で逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦しました。以後、戊辰戦争の舞台は、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続くことになります。益次郎はこうした関東以北での旧幕府残党勢力を鎮圧する一方で、江戸から事実上の新政府軍総司令官として指揮を執り続けました。

前線から矢のように来る応援部隊や武器補充の督促を、彼独自の合理的な計算から判断し、場合によっては却下することもありました。戦争は官軍優位のまま続き、これが終結したのは、明治2年(1869年5月18日(6月27日))、函館五稜郭で土方歳三が戦死し、榎本武揚らが新政府軍に降伏した時だったとされます。




なお、白河(現福島・栃木県境付近)方面の作戦を巡って益次郎は、西郷隆盛率いる薩摩勢と激しく対立しています。

白河周辺に大軍を駐屯させ、南下して官軍を襲撃しようとしていた旧幕府軍・奥羽越列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが官軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して、それぞれの国許へと退却しました。

一方、このころ仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していたため、官軍総司令官の益次郎は、この仙台藩の攻撃を優先することで戦闘をより有利に導けると主張していました。

ところが、薩摩藩の現地の司令官・伊地知正治や、土佐藩の板垣退助が強硬に会津進攻策を進言したため、こちらが通り、会津戦争が行われることになりました。会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城し、新政府軍と激しい戦いが繰り広げられましたが、この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生しました。

益次郎の策通りに、仙台藩攻撃を行っていれば、この戊辰戦争の中でも最も激烈だったといわれる戦闘は回避できたと思われますが、このときの薩摩藩のリーダー、西郷の周囲の取り巻きの益次郎に対する著しい反発が、その後の彼の暗殺に関係したのではないか、とする説もあります。

益次郎はその後、新政府軍の最高司令官として新しい日本軍を創設するために奔走することになりますが、その間途中でこの世を去ることになります。戊辰戦争が帰結したとされる函館戦争の終了から、わずか5ヶ月後のことでした。