軍神

明治2年(1869年)6月、大村益次郎は、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜りました。

また、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となるとともに、軍務官副知事に就任し、軍制改革の中心を担うことになりました。軍務官とは、新政府の軍事防衛を司った機関で、長である知事には小松宮彰仁親王が就任しました。

6月21日から25日にかけての軍務会議では、大久保ら、旧薩摩藩幹部とともに、旧征討軍の処理と新たな軍隊の建設方法について話し合われましたが、ここで両者の考え方を巡ってちょっとした論争が起こりました。

新しい軍の制定について、益次郎は、特定の藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図るべきだと述べましたが、大久保らは薩長土の藩兵を主体にし、旧来の藩兵を中心にした中央軍隊を編成すべきだと主張しました。

益次郎は、兵の招集にあたり、諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵、といった順番で実施し、最後には兵学校設置による職業軍人の育成を図りたいと考えており、次いで、大阪における軍基地や兵器工場の建設、鎮台の整備などハード面での整備を進めて強い軍隊の骨格を形成する、といった青写真を頭に描いていました

中でも特に、軍を構成する兵の招集が重要と考え、「徴兵令」の制定が必要と考えていましたが、これに対して、大久保は戊辰戦争における激しい士族の抵抗を例にあげ、徴兵を実施すれば、かえって士族の反発を招くと意見しました。また、岩倉具視らも、農民の武装はそのまま一揆につながるとして、彼が提唱する徴兵制には慎重な態度をとりました。

一方、この軍務会議のもうひとつの議論、旧征討軍の処理というのは、主として京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いのことで、これについては、三兵が「御召」 として東下して天皇直属の御親兵となることが決定され、これがのちの「近衛」となりました。

これにより、薩長土の藩兵を主体に中央軍隊を形成すべきとする大久保らの意見の一部が通った形になりました。続いて棚上げになっていた益次郎の提唱する徴兵制について再度話し合いがもたれましたが、大久保らは繰り返し「藩兵論」を主張し、益次郎ら主張する「徴兵制(農兵論)」と激しく衝突しました。

しかし会議の結果、この兵制問題は後日改めて議論することとされ、その他の益次郎の建軍プランも、当面凍結されることが決定されました。

益次郎と大久保のこの論争は、二人の間に深い溝を築きました。その後「参議」に就任した大久保は、文字通り権力の中枢に座り、版籍奉還、廃藩置県などの重要案件を実施に移して明治政府の中央集権体制確立を行いましたが、人事についても強い発言力を持ち、対立していた益次郎の更迭にも言及するようになります。

その噂を聞き、憤懣やるかたない益次郎はほどなく辞表を提出しましたが、軍事に関してはこの当時の政府内では益次郎を抜きんでる者はありませんでした。このため、このころ名を桂小五郎から木戸孝允と名を改めていた木戸は、益次郎を呼び出して慰留するとともに改めて支持を約束しました。

木戸は維新後、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われて重用され、ただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となっていました。

その権限を利用して、それまでの「軍務官」を改組して「兵部省」を設置することを決めており、このとき軍務官副知事だった益次郎に、引き続き、現在の「次官」に相当する兵部大輔(ひょうぶたいふ)への就任を要請しました。

兵部卿もまた、軍務官知事だった小松宮彰仁親王がエスカレートして就任することが決まっていましたが、名目上の存在であり、実務は次官である大輔が執り行いますから、これは事実上軍のトップへの就任要請でした。




大久保はその後の明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進します。その一環として学制や地租改正も推進しましたが、加えて、あれほど反対していた徴兵令を実施しています。

その翌年には、佐賀の乱、3年後には萩の乱、4年後には西南戦争が勃発しており、幕末に活躍したこれら雄藩における不平武士の鎮撫にあたっては、この徴兵令によって全国から集められた兵が活躍しました。

このとき、もし大久保が主張していた「藩兵論」に基いて組成された中央政府軍がこれらの各反乱に当たっていれば、「同郷」どうしが戦うことになり、その平定は困難を極めたと想像されます。彼自らがその誤りに気づいて徴兵制を導入したと考えれば、益次郎の先見性が正しかったことがこれで証明されたといえます。

しかし、その徴兵令が実施されたころにはもう益次郎はこの世にいません。とまれ、旧薩摩勢との軋轢があったとはいえ、こうして木戸の助力によって兵部大輔に就任した益次郎は、誰にも邪魔されることなく近代日本の軍制建設を牽引していきます。

その手始めには、戊辰戦争で参謀として活躍した「門弟」である山田顕義を兵部大丞(たいじょう;兵部大輔、兵部少輔に続くNo.3)に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任しました。山田は松下村塾における、最年少の14歳で入門で、かつ松陰の最後の門下生です。

顔の広い山田は旧長州藩を中心とし、各藩諸隊から約100名を選出しましたが、早くもこの年の9月からは京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練が開始されました。この操練所は京都市左京区にある聖護院(しょうごいん)付近にあったもので、京都御所の東側およそ1kmのところに位置しますが、現在は跡形もないようです。

ちなみに、No.2の兵部少輔はかつて長州藩において益次郎の上司だった前原一誠です。後年、益次郎の死後、その跡を継いで兵部大輔に就任しますが、その7年後の明治9年(1876年)、不平士族を集めて萩の乱を引き起こしました。しかし、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処されました(満42歳没)。

新軍の幹部を選定し、兵制の骨格を整えた益次郎が次に行ったのは、課題としていたハード面であり、彼はとくに大阪に軍の基地、兵学校や武器工場を置くことに執着していました。

大阪に着眼したのは、当時、東北の動向を心配する関係者に対して彼が「奥羽はいま十年や二十年頭を上げる気遣いはない。今後注意すべきは西である」と答えたように、西郷らを中心とする薩摩藩の動向が気になっていたためと言われています。

すでに西南戦争を予想していたわけであり、このため、軍務官の時代に既に大阪城近くに設置されていた大阪出張所に加え、9月にはここに兵部省の兵学寮を設け、フランス人教官を招いてフランス軍をモデルとする軍隊の構築を始めました。

このほか京都宇治に火薬製造所を、また大阪に造兵廠(大阪砲兵工廠)を建設することも決定しました。このように益次郎が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、上の通り、東北平定後の西南雄藩の動向を警戒してのことですが、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由もありました。

このように着々と畿内に軍施設が構築されていた明治2年(1869年)8月、益次郎はその進捗状況の視察と建設予定地の下見のため、京阪方面に出張しました。ところが、このころの京都では不穏な噂が流れていました。

薩摩藩の海江田信義がかつての遺恨を晴らすため、不平士族たちを使って益次郎を襲うよう煽動している、といった巷談です。事実、維新政府が矢継ぎ早に出す武士階級を否定するような令に反発するものは多く、とくに士族を含めた国民に公然とした帯刀を禁ずる「廃刀令」が出されるという噂が流れると、猛反発が起こりました。

この海江田信義というのは、若い頃から西郷や大久保と行動を共にし、長じてからは彼らのボディーガードのように常につき従っていた人物です。血の気が多く、島津久光に付き従って横浜に来たときに発生した生麦事件では、久光の行列を遮って斬られ瀕死となっていたイギリス人・チャールス・リチャードソンに止めを刺したことで知られます。



戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となり、江戸城明け渡しには新政府軍代表として西郷を補佐し、勝海舟らと交渉するなど活躍しており、新政府においても弾正台・支所長官という、いわば地方警察の長のような役職に任じられていました。

ただ、弾正台というのは、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に設立された省庁であり、いわば厄介者を集めた巣窟でした。

不平武士を多く採用したため、新政府の改革政策に反対することもしばしばで、他の官庁とも対立していましたが、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さいものでした。

このため、主流派から外されて集められた弾正台の尊攘派は、彼らの政敵たる府藩県・各省の幹部の非違を糾する程度で満足せざるを得ませんでした。しかし、やり玉にあげたからといって彼らを一掃できるわけではなく、多くは罰金で済ませられました。

満足しない彼等はこの時期、夜中に出回り、自分たちの主張を妨げる新政府の要人を殺傷することで憂さを晴らしていたといわれており、その裏幕の首領こそが海江田である、というのも巷の定説でした。

そんなヤクザ集団の親玉になっていた海江田はもともと大雑把で、緻密な益次郎とは性格もさることながら意見が合わず、宇都宮の政府軍の庄内転戦、江戸城内の宝物の処理、上野戦争における対彰義隊作戦などをめぐってことごとく対立し、周囲の人間に「殺してやりたい」などと漏らすなど、益次郎を憎悪していたといいます。

木戸孝允らは、こうした海江田などの不平分子によるテロの危険性を憂慮し、益次郎の京阪出張に反対しました。木戸と同郷の槙村正直(のち男爵)に送った書簡では「海江田のごとき、表裏の事申し来り候につき」、と名指しで危険人物として注意するよう益次郎に促していました。

が、彼はそうした制止を振り切るように中山道から京へ向かいました。8月13日に京に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ、20日に下阪。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分しました。

9月3日、京へ帰り、翌4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上の旅館の二階において、博習堂の門人でこのころ長州藩大隊指令になっていた静間彦太郎、益次郎の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと酒を酌み交わしながら会食中でした。このとき、もうひとり、益次郎の身の回りの世話をする若党の山田善次郎が、脇で控えていました。

夕方6時ごろ、といわれています。二人の男が訪ねてきて名刺を差し出し、「大村殿に面会したい」と旅館の取次の者に告げたため、これに応じて山田が階下に降りてきました。彼は「今晩は差支えがあるので、明日、兵部省へお越しください」と伝えましたが、相手は「いやぜひ今晩ご面談願いたい」と言い張るので、やむなく引き返しました。

山田が二階へ上がり、奥に入ろうとしたところ、後から二名の者がのぼってきてヅカヅカと奥に踏み入れ、いきなり彼に斬りつけ、さらに賊の一人が「国賊、大村を討ち果たす」と叫びながら益次郎に向かって斬りかりました。このとき、山田は負傷しながらも、身を挺して主人を守ろうと素手で防いだため、益次郎は致命傷を免れました。

その場に居合わせた安達は、刺客を大村から引き離そうとしたのか「賊だ!」と叫びながら、窓から加茂川の河原へとび降り、静間もこれに続きました。二人の襲撃者がそのあとを追って飛び降りたので、益次郎はそれ以上の難を逃れ、這って浴室まで行き、ここでしばらく風呂の中に隠れていました。

一方、鴨川の河原に飛び降りた二人は、前もって待ち構えていた刺客によってメッタ斬りにされ、命を落としました。安達幸之助は、顔立ちが益次郎によく似ていたと言われ、彼と面識のあった刺客の一人、神代直人は、倒れている安達の顔を見て「大村を討ち取った」と叫んだと伝えられます。




河原で待ち受けていたことからわかるように、のちの調べでは、このとき刺客は三手にわかれていたことがわかっており、この襲撃は計画的なものでした。事件後直ちに、各所に使者が走り、京都府大参事(現在の副知事)の二人、河田景与(かげとも・鳥取藩出身)、槙村正直(長州藩)も現場に駆けつけました。

騒ぎを知って駆けつけた人々の気配を察した益次郎は、風呂蓋をあけておそるおそる自力で出てきたといい、このとき、「皆さん、ご心配で有難うございました。しばらくサザエの真似をしておりました」と言ったといい、意外に沈着で元気そうなその様子に、一同、ほっと胸をなでおろしました。

このとき、「私は医者ですから」とも言ったといい、このあと「命に別状がないことは自分でもわかります」とでも続けたかったのでしょうが二の句はなく、そのまま意識を失いました。この時点では命の危険があるとは、おそらく医者でもあった大村自身も思ってもみなかったのではないでしょうか。

しかし、その傷は軽傷どころではなく、前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、右膝関節などが切り込まれ、とりわけ右膝の傷は、動脈から骨に達するほど深手でした。河原に飛び降りた、静間と安達は死亡。若党の山田善次郎はこのときまだ息がありましたが、翌日の明け方に息を引き取りました。

襲ったのは、元長州藩士の団伸二郎と神代直人、久保田藩士の金輪五郎ら8人とも12~13人だったとも言われているようですが、員数には諸説あります。

兇徒が所持していた「斬奸状」には、益次郎が推進した兵制における急進的な変革に対する強い反感をほのめかす内容がありました。首領格の神代直人あたりが書いたらしく、彼は益次郎の出身の鋳銭司村にもほど近い周防国吉敷郡大道出身で、剣技は巧みだったようです。

神代は、高杉晋作らとともに積極的に尊王攘夷運動を推進していた、同郷の大楽源太郎という男に師事していました。結果、師匠以上に狂信的な攘夷論者となり、次第に開国派になっていった高杉の暗殺を計画するようになりますが、果たせませんでした。高杉が亡きあとは、その意志を継いだ者として益次郎に目をつけていたようです。

益次郎襲撃後はしばらく豊後姫島に潜伏していましたが、師である大楽源太郎が政府から嫌疑をかけられている事を知ると周防へ戻り、捕吏が来る前に自害したとも捕縛されて斬首されたと伝えられています。残る襲撃犯もほとんどが逮捕されたようですが、そのうちの主要メンバーである6名が、年内に処刑されました。

ちなみに、この益次郎の遭難時、若年だったころ彼に師事していた西園寺公望もこの宴席に呼ばれていたようです。しかし「どうせ行っても湯豆腐に決まっている」ので、たまたま出会した知人に祇園に誘われたのを幸いそちらへ流れ、遭難を免れたと、という話も残っています。

西園寺はその後、「最後の元老」として昭和まで生き続け、大正天皇、昭和天皇を輔弼(ほひつ)を務め、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えましたから、もしこの時遭難していれば、益次郎の死以上にその後の国政の運営に影響を与えたでしょう。

主犯格とされた神代直人は、ふだんから海江田信義と親しくしていたといい、彼が弾正台・支所長官に就任したのち、神代ら浪人達とつきあいがあった事は、後年の海江田自身の談話録にも記録されています。それにしても弾正台といえば今の京都府警のような存在であり、その長官が、政府要人の暗殺に寄与していたとすれば、現在なら大スキャンダルです。

海江田は、その後の神代直人以外の犯人の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣され、刑の執行直前でこれを差し止めています。さらには益次郎の政策を非難し、暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至ると、さすがに東京の新政府内部で問題視されるようになりました。

「粟田口止刑事件」として告発された海江田は、その後政府の取調べを受けた結果、謹慎処分となりましたが、巷ではこれらのことから、海江田が神代らを扇動してかねてから憎悪していた大村を殺した、というのが事実のように流布されました。

海江田自身は、嫌疑を心配する大久保への返事に、大村の来京の事実を知らず、その風聞は自身を罪に落すものであると否定したといいます。が、この事件が原因でその後長州出身者の反発を受けるようになり、華族制度施行の際にも伯爵になれず子爵にとどまったともいわれています。

とはいえ、晩年の明治24年には枢密顧問官にまで上り詰め、明治28年、勲一等瑞宝章。明治35年(1902年)、勲一等旭日大綬章のあと、明治39年(1906年)に75歳で死去。贈正二位。墓所は青山霊園。




この事件で、益次郎は一命をとりとめましたが、その後の経過は思わしくなく、3日後の7日までに京都の山口藩邸へ移送されて治療を受けますが、その後、傷口から菌が入り敗血症になったことが明らかになりました。

9月20日、オランダ人軍医ボードウィンや、緒方洪庵の次男で明治天皇の侍医となっていた緒方惟準らの治療を受け、ボードウィンらが設立の準備をしていた大阪陸軍病院(または大阪仮病院、後の大阪大学医学部付属病院)に転院することが決まりました。

10日後の10月1日、益次郎は、のち総理大臣の寺内正毅、同じくのちの陸軍大将・児玉源太郎ら、郷里の弟子らの手によって担架で運ばれ、京都から大阪へ到着すると、現吹田市内の鈴木町代官屋敷跡付近でまだ建設中だった大阪陸軍病院に入院します。

ここで、かねてより親交のあったシーボルトの娘で産科医の楠本イネやその娘の高子らの看護を受けますが、病状は好転せず、ついにはボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることになります。しかし、凶行を受けてからかなりの時間が経っているのに加え、手術のための勅許を得ることで東京との調整に手間取り、さらに処置が大幅に遅れました。

当時の兵部省宛の報告文に「切断の義は暫時も機会遅れ候」とあるように既に手遅れとなっており、10月27日手術を受けましたが、4日後の11月1日は敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去しました。襲撃後ほぼ2ヶ月を持ちこたえたことになります。享年46。

このとき、益次郎は自己の死を予感していたようで、手帳には次のような詩歌が残されていました。

今さらに何をかいはん 代々を経て 君のめぐみに報ふ身なれば
君のためすつる生命は 惜しからで ただおもはるる国の行く末

自歌ではなく、文久3年に切腹して果てた、同郷の重役、長井雅楽の辞世の詩です。

保守派であった長井は、坂下門外の変のあと、長州内でも松陰ら尊王攘夷派が勢力を増したために求心力を失い、暴走する攘夷派の責任を取らされるような形で切腹させられて果てましたが、彼が立案した「航海遠略策」は内外に高く評価されていました。積極的に広く世界に通商航海して国力を養成した上で諸外国と対抗していこうとする策です。

実直な現実主義者であった長井の思想行動は、あくまで幕藩体制を維持するという縛りからは逃れることはできませんでしたが、当時の状況を冷静に認識し、航海遠略策のような現実的な方針政策を打ち出せたことなどを益次郎は評価していたのかもしれません。またその潔い死は、何か彼の心の琴線にかかるものがあったのでしょう。

益次郎はまた、その臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」とその後帝国陸軍創設に寄与した元広島藩士、船越衛に後事を託していた、という話は有名です。

また、「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ」と遺言していたといい、師の洪庵を死すまで尊敬していたことがうかがわれます。



益次郎死去の報を受けた木戸は、11月12日の日記で「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と書いており、また12月3日付の槙村正直宛の書簡でも「実に実に痛嘆すべきは大村翁の不幸、兵部省もこの先いかんと煩念いたし候」と、その無念さを述べています。

11月13日、従三位を贈位し、益次郎に金300両を賜る宣旨が下されました。遺骸は妻・琴子によって郷里にもたらされ、11月20日に葬儀が営まれました。墓所は山口市鋳銭司に設けられましたが、その後、遺骨の一部が靖国神社に持ち込まれ、合祀されています。

益次郎が、死の直前に周囲に語った軍制構想はその後山田顕義ら彼の弟子と目されていた人物によってまとめられ、11月18日に「兵部省軍務ノ大綱」として太政官に提出されています。

また、益次郎の「農兵論」は、同じく山田らによって、その後に「徴兵規則」として実行に移されました。さらに兵部省が設立された後、明治6年(1873年)1月10日に「国民皆兵」を謳った「徴兵令」が政敵だった大久保利通によって制定されるに至ります。以後、この日が毎年徴兵による新兵の入営日となりました。

陸軍は初年度、各県から計3272人の徴員を要請しましたが、地方県で400名、東京で100名程度が応募したにすぎなかったといわれています。

しかし、兵部省はさらにその後全国を6個の軍管区(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に分け、それぞれに置かれた鎮台で募集をかけた結果、合わせて平時兵力約3万人を擁するに至ります。

このころ国民の大多数が農民であり、農作業よりも楽であり、毎日白米六合が食べられ、毎晩風呂にも入れて、布団で寝られる(当時の農民はまだ藁で寝るのが一般的だった)、といった軍隊は楽園でした。さらに、休日もあり、給料も安定して支払われることから、明治時代には「軍隊に行くとなまけ者になる」という評判すらあったといいます

とはいえ、これらの兵員は、西南戦争をはじめ、その後立て続けに起こった反乱士族の鎮圧の際、益次郎が期待したとおりの働きをしました。

その後も新政府は富国強兵を国策に掲げ、日本軍の「国民軍」としての体裁を整えていきました。とくに陸軍は鎮台を廃止し師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行するに至ります。

陸海軍共に初期の仮想敵国はロシアでしたが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソビエト連邦を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なして軍備をすすめました。日露戦争前後からは小火器を筆頭に次第に国産化がすすみ、明治期末から大正期にはアジアの軍事大国として列強の一員となりました。

しかしながら、他の列強各国より劣る基礎工業力や、陸海軍ともに拙劣な運用やドクトリンにより、大東亜戦争(太平洋戦争)期には緒戦の一時期を除き欧米を凌駕することはできませんでした。

ミッドウェー海戦・ガダルカナル島の戦い以降反攻に転じたアメリカ軍に対して、キスカ島撤退作戦など撤退が成功した例を除き、劣勢な各地の陸海軍部隊は壊滅していき、結果、敗戦となり、益次郎が創設した日本軍は解体されました。

その益次郎がまだ生きていたころの明治2年(1869年)6月、彼は戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、「東京招魂社」の建立を献策しています。この案は、明治天皇の勅許を受けて実施に移され、明治2年7月29日(8月6日)に、戊辰の戦没者3,588柱の合祀鎮祭が行われ、ここに「東京招魂社」が創建されました。

その後、軍当局は、これを正規な神社へ改めよう朝廷へ圧力をかけ、社名の変更とともに「別格官幣社」として従来の神社とは異なる列格の新たな設置を要請します。明治天皇はこれを了承し、1879年(明治12年)にそれまでの東京招魂社の名を「靖國神社」へと改めました。




2018年現在、その「御神体」して祀られている者は、幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(所謂「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者です。少し前のデータですが、2004年(平成16年)10月17日現在でその柱数は計246万6532柱にも及びます。

これらの中には、大村益次郎をはじめ、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、などの新政府軍側の戦没者が維新殉難者として合祀されています。

禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らもまた、朝廷(天皇)を守護したとして祀られているほか、長州藩はこの禁門の変では賊軍とされていますが、戦死(実際は自害)した久坂玄瑞などは合祀されています。この他に、当時の段階でも国際法違反である外国領事館・外国人襲撃者も祀られています。

しかしこれに対して、戊辰戦争での旧幕府軍の兵士や、奥羽越列藩同盟の兵士、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀られていません。また、明治維新の功労者であっても、その後に叛乱を起こし、あるいは叛乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていません。

このように、靖国神社には、太平洋戦争以前の戦役で没した人々については祀られていたり、祀られなかったりと、つじつまのあわない不合理な状態を抱えたまま、現在に至っています。また、「戦犯」とされるかつての指導者たちも合祀されていることから、「侵略の象徴」として諸外国から批判を浴びています。

戦後、戦前の陸海軍から名を変えた自衛隊の隊員が公務で殉職した場合には靖国神社へは合祀されなくなりました。本来は、「戦没者」を祀る神社として作られたこの神社に祀ることは、自衛隊が「軍隊」とみなされるからです。

れっきとした軍人である彼らが、益次郎が望んだ戦没者の追悼場である靖国神社に祀られていないことについて、当の本人はあの世でどう思っていることでしょう。旧幕府軍の戦没者についてもしかり。自分が献策して戦争で没した者のために建てられたこの神社が、はたしてその目的を果たしている、と考えているでしょうか。

かつて東京招魂社と呼ばれた靖国神社の参道のど真ん中には、建立場所決定直後に暗殺された大村益次郎の銅像が今も立っています。1893年(明治26年)に造られた日本初の西洋式銅像であり、戦時中の金属供出によって多くの銅像が失われた中でも、この像だけは残りました。

戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したものといわれます。「軍神」といわれた彼が追っている目線の先には、戦いのあとに死した者たちすべての人々の姿があるように思えます(この項終わり)。