四境戦争が終息してほぼ2ヶ月後の年の暮れ(1866年(慶応2年)12月)、益次郎は軍政用掛に加えて海軍用掛を兼務することになりました。
それまでは軍の組織作りを担うポストを担っていたわけですが、大島口や芸州口での幕府との戦いにおいて、海軍の重要さを改めて思い知らされた長州藩は、今度は彼に海軍の拡充を任せようと考えたわけです。
表向きは海軍頭取・前原彦太郎の補佐をする、という立場になりました。のちに、不平士族を集めて「萩の乱」を引き起こすことになるこの男は、のちに、前原一誠という名で知られるようになります。
郡吏だった父、佐世彦七の長男として生まれました。しかし、佐世家は低級武士だったこともあり、父の希望もあって戦国武将・米原綱寛(尼子十勇士の一人)の流れを汲む前原家の養子となってこれを継ぎました。
功山寺の挙兵においては、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、奇兵隊支隊の干城隊の頭取、第二次長州征伐では小倉口の参謀心得なるなど、長州藩におけるそれまでのおよそほとんどの倒幕活動に参加した猛者であり、頭取に迎えられたのは、藩としてもその活躍に答えたからにほかなりません。
前原は、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門した経歴を持ちますが、松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに益次郎が軍学を教えていた萩の西洋学問所・博習堂でも学んでいます。ということはつまり、学問上は益次郎の弟子ということになります。
しかし、海軍頭取という役職は海軍用掛よりも上です。元は師である益次郎が弟子の「補佐」というあたり、このこころの彼の微妙な立場が伺われます。藩士になったばかりの益次郎の気苦労が目に見えるようです。
それは役職だけのことではありません。年齢をみても、益次郎が海事用掛に任命されたとき42歳、これに対して前原一誠は32歳で、ちょうど10歳年下です。同じく益次郎を見出した桂小五郎はこのとき33歳、高杉晋作にいたっては、このとき益次郎よりも17歳も年下の弱冠27歳でした。
維新後、益次郎は、兵部省兵部大輔として士族による軍制から徴兵制度による国民兵制への移行を実現し、日本帝国陸軍建設における重要人物とみなされるようになりますが、彼が暗殺されたとき、その後継者となった山縣有朋もまた、このときはわずか28歳でした。
山縣は短期間ではありますが松陰門下生であったため、後の長州派閥の領袖の一人となることができ、維新後は陸軍・官僚の大御所として崇められるようになり、総理大臣にまで上り詰めました。
また同じく松下村塾に最年少14歳で入門、最後の門下生となった山田顕義もこのころ22歳でした。山田は益次郎が襲われたあと、その病床で日本近代軍制の創設について指示を受け、山縣とともに継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力しました。ただ、山縣ほどは出世せず、晩年枢密顧問官に就任するも最盛期には司法大臣にとどまりました。
ちなみに毛利敬親候は1819年生まれで、1824年生まれの益次郎より、わずかに年上ですが、この藩主以外で益次郎よりも年上の人材というのはほとんど誰もいませんでした。正義派のリーダー、周布政之助が生きていいればこのとき43歳で益次郎とほぼ同年ですが、惜しいことに第一次長州征伐のときに自害しています。
さらに吉田松陰が生きていれば36歳、松陰の次妹の寿と結婚して関係の深かった楫取素彦もこのとき37歳と、いずれも年下であり、その他正義派のリーダーたちは、蛤御門の変ほかの争乱でほとんどが姿を消しています。つまり、総じて益次郎の周囲には同年齢の逸材というものがありませんでした。
そうした周囲の若い朋輩 たちの中でも率先して益次郎を「先生」と呼んで敬い、藩の中枢の重要人部に育てあげていったのが年下ながら藩の最高指揮者であった桂小五郎であり、彼なくしては彼のその後のキャリアは形成できなかったであろうと考えられます。
また、益次郎という人材を認めていたという点では、高杉晋作もそうでした。萩の博習堂で彼に出会った高杉は、一瞥しただけで大村益次郎がタダ者でないことをすぐに理解しました。そして、すぐに教えを請うと同時に、仲間の指導を頼みました。
しかし、高杉と益次郎が接したのはその後わずか5年ほどにすぎません。四境戦争後、高杉は肺結核を発症し、下関市で療養していましたが、この益次郎の海軍用掛任官後のおよそ4ヶ月後の慶応3年4月14日(1867年5月17日)に死去しています。満27歳という若さでした。
下関戦争にも参加した土佐の中岡慎太郎をして 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西(またらくさい)の一奇才」と言わしめたほど、兵略において才能のあったこの高杉の死によって、軍事面において益次郎を抜きんでる者は誰ももいなくなりました。
それにしても、士分に取り立てられたとはいえ、元は村医者にすぎず、制度上は自分たちよりも格下の身分の者が軍制を仕切ることについては、冷たい雰囲気があったでしょう。四境戦争でも功があった彼を称える向きもあったでしょうが、出自を理由に敬遠したい気分はこの当時の長州藩指導部には当然あったものと推定されます。
こうしたこともあり、四境戦争後に、長州と盟約を結んだ薩摩から正式に討幕の誘いがきたとき、これを反対する益次郎の意見を聞く者は少数派でした。
このころ、薩摩藩では、西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らが実権を握り、討幕と勤皇の更なる推進を目指しつつありました。彼らはそれまでの長州に対する態度を改め、手の裏を返したようにその名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制し、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようとしていました。
列侯会議とはこの時期の雄藩の藩主を集め、幕府とともに政治を動かしていこうとする策です。しかし、薩摩藩がその中でもとくに切り札と考えた「四侯会議」は、15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されてしまいます。
「四侯」とは、朝廷や幕府に大きな影響力を持つ大名経験者4名で、薩摩藩からは島津久光(藩主忠義の父)、その他は、越前藩主・松平春嶽、前土佐藩主・山内容堂、前宇和島藩主・伊達宗城、でした。
この会議は薩摩藩の主導のもとに実際成立しましたが、そもそも朝廷や幕府の正式な機関ではありません。それに準ずるものとして扱われました。が、薩摩藩はこの会議の成立を機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようとしました。無論、その中核に自藩が座ることを目論んでいたわけです。
慶応3年(1867年)5月、京都の越前藩邸において将軍慶喜が議長を務めるような形で会議が開催されましたが、冒頭にまず何を優先して議論するかで紛糾し、さらに途中で山内容堂が病気を理由に退席するなど、会議の体をなさず、ほとんど何の結論も得られないまま9日目の最終日を迎えました。
結局、最後の夜になって徹夜で議論した結果、慶喜が主張する通りの長州寛典論(藩主毛利敬親が世子広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定しました。長州におもねる結論ですが、慶喜はこれをもって、長州との共存を模索する方向に舵を取ろうとしていました。
薩摩藩としては、この結論が四候の協議の上に導かれた、という形を望んでいました。しかし、結果としては、慶喜が主導した朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議のおぜん立てをした薩摩側の敗北を意味しました。
こうして薩摩藩は、将軍慶喜の関与を前提とした諸侯会議路線では国政を牛耳ることができないことを悟り、その後長州藩とともに武力倒幕路線に急速に傾斜していくことになります。
武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は、慶応3年(1867年)8月14日に長州藩の直目付(藩主直属の側近・官房長官のような役割)だった柏村数馬に武力政変計画を打ち明けます。これを藩候が家老以下の幹部に下問した結果、長州藩内では討幕か否かの激しい議論が沸き起こりました。
このとき益次郎は、これまでの蛤御門の変や下関戦争の失敗から、急速に薩摩に接近するのは危険だという意見を持ち、四境戦争も終わって間もなくその痛手が癒えない現在は、今一度力を蓄え十分に戦略を立てた後、兵を動かすべきと慎重論を唱えました。
しかし、同年9月には、大久保が直接長州を来訪し、幹部らに討幕を説得したことで藩内の世論は急速に出兵論に傾きました。この結果、9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会して、出兵協定である「三藩盟約」を結ぶに至りました。
この結果、慎重論を唱えていた益次郎は左遷されます。10月27日、益次郎は軍政用掛の「助役」に据えられて軍制改革の中枢から外され、出兵の実務に専念する任務に就くよう命じられました。
後年、益次郎は「ああいう勢いになると、十露蕃(そろばん)も何も要るものじゃない。実に自分は俗論家であった」このときのことを述懐し、時局を見抜けなかった無知を反省する弁を残しています。結果的にこの出兵がその後の維新を天回させる大きなきっかけとなったからです。
のち、「その才知、鬼の如し」と言わしめたこの天才ですら、時代の大きな流れを読めなかったということでしょう。さらに、これからわずか2年後に、似たような用兵論争の末、自らの命を失うことになることも、この時の益次郎には予測できませんでした。
このような状況の中、さらに時の政局は激しく揺れ動きます。
坂本龍馬から「大政奉還論」を聞いて感銘を受けた土佐藩重役、後藤象二郎は、坂本の「船中八策」にも影響され結果、山内容堂(前土佐藩主)にこれを上奏し、その結果、藩論とすることの同意を得ました。
大政奉還とは、幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものです。つまり現在の議会国家の礎となる論です。
これに先立つ6月22日には、薩土盟約が締結されていましたが、この大政奉還論を土佐から打ち明けられた薩摩藩の小松帯刀らもこれに同意します。大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想でしたが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれます。
10月3日、土佐藩は、この大政奉還・建白書を藩主・山内豊範を通じて単独で将軍・徳川慶喜に提出。13日、慶喜は上洛中の40藩重臣を京都・二条城に招集し大政奉還を諮問。こうして慶応3年10月14日(1867年11月9日)ついに「大政奉還上表」を朝廷に提出するに至ります。
朝廷の上層部はこれに困惑しましたが、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立しました。
慶喜にすれば、逆にこの大政奉還は討幕派の機先を制するものであり、受けてしまえば、討幕の名目を奪うことができる、と考えました。このころの朝廷にはまだ政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家のほうが優勢でした。
徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば、実質的に政権を握り続けられると考えており、その見通しの通り、朝廷からは上表の勅許にあわせて、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任されました。
この委任は、国是決定のための諸侯会同召集まで、という条件付でしたが、将軍職も暫時従来通りとされました。つまり実質的には慶喜による政権掌握が続くことになったわけです。
しかしその裏では着々と討幕のたくらみが進行していました。大政奉還上表が提出された同日14日、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡されました。この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものでしたが、見た目には本物に見えました。
こうした偽装が行われた背景には、大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派公家の準備がまだできていなかったことがあります。岩倉本人も朝廷内の主導権を掌握していないばかりか、三条実美ら親長州の急進派公家は、文久3年八月十八日の政変以来、京から追放されたままでした。
一方、前年12月の孝明天皇崩御を受け、1月9日に践祚した明治天皇は満15歳と若年であったため、親幕府派である関白・二条斉敬(徳川慶喜の従兄)が摂政に就任するなど、幕府側は朝廷内に厳然たる勢力を持っていました(注:「摂政」は幼い天皇に代わって政務を執り行う、対して「関白」は天皇成人後のアドバイザー的なポジション)。
つまりこの時期の朝廷は親幕府派の上級公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)は慶喜主導になることが目に見えていました。
このため、薩長や岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止ししようと考えます。幕府の息のかかった人材は一人残らず排除し、その上で体制を刷新し、朝廷の実権を掌握しようとしたわけです。
先の討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、依然強い勢力を保つ慶喜に対抗する非常手段として画策したものであり、密勅の実行により、幕府は朝敵となり、自動的にそれらの人材は排除されることになる予定でした。
しかし、慶喜の速やかな行動により、大政奉還がすんなりと朝廷に受け入れられたことで、討幕派はその矛先をかわされた格好になりました。このため、密勅を受けた討幕の実行は、いったん延期となりました。
同盟を約していた薩摩・長州・芸州の3藩もひるんでしまい、再び出兵計画を練り直すことになります。しかし一方では、薩土密約が成立していたこともあり、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んでさらに政治的に幕府を追い込んでいこうとする新たな動きが加速します。転がり始めた石はとまらない、といったところです。
12月7日、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、江戸幕府を廃絶するたくらみへの協力を求め、ある提案をしました。これがいわゆる「王政復古」に関する謀議でしたが、これに各藩ともに賛同し、この結果、のちにこの5藩の軍事力を背景とした歴史に残る政変が成立することになります。
大久保らはこの政変の実施にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていましたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出ませんでした。
12月8日、夕方から翌朝にかけて、摂政・二条斉敬が主催して、諸侯が集まった朝議(諸侯会議)では、先の四侯会議で決定された唯一の事案、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可が決議されました。
諸侯の中には、先の5藩が加わっており、討幕派有利の議論の流れの中で、さらに岩倉ら罰則を受けていた公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められました。無論、幕府にとっては痛い決議であり、朝廷内に討幕派の太い楔が撃ち込まれることになりました。
さらにその翌日の9日(1868年1月3日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が突如として御所の九門を封鎖します。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限され、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止されました。
そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが足早に参内して「王政復古の大号令」を発令。新体制の樹立を決定し、新たに置かれる三職の人事を定めました。まるで一陣の嵐のように発せられたこの「王政復古の大号令」の内容は以下のとおりです。
将軍職辞職を勅許(先の10月24日に徳川慶喜が既に申し出)。
京都守護職・京都所司代の廃止。
幕府の廃止。
摂政・関白の廃止。
新たに総裁・議定・参与の三職をおく。
この宣言は、14日には諸大名に、また16日には全国の庶民に向かって布告されました。五摂家を頂点とした公家社会の門流支配を解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであり、従来からの摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力はこれにより完全に葬られることになりました。
またこの勅許は、徳川慶喜(一橋徳川家当主)の将軍辞職を促すものであり、京都守護職・京都所司代の廃止は、これを担っていた松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の失脚を意味しています。それまで時代を主導していた一会桑体制は崩壊の憂き目を見るところとなり、慶喜の新体制への参入はほぼ絶望的となりました。
しかし、慶喜は大号令が発せられた翌日の10日、自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言します。征夷大将軍が廃止されても、この「上様」が江戸幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する、と意欲を示したものです。
こうした急速な政局の変化と薩長らの強硬な動きに対し、在京の諸藩代表の間では動揺が広がると同時に反発が生まれました。中でも薩長と同盟を組んだはずの土佐藩ら公議政体派が逆に幕府を擁護するという、ちぐはぐな動きを見せるとともに、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せました。
実は、6月に締結された薩土盟約は、わずか3か月で解消されていました。解消の理由は色々取り沙汰されていますが、両者が共同で作成しようとしていた当初の大政奉還の建白書の草案の中に、薩摩藩が主張する慶喜の将軍職辞任(ないし将軍職の廃止)が欠落していたことなどがあげられています。
しかし、土佐藩の実力者、元藩主の山内容堂の優柔不断が、実はその原因ではなかったか、といわれています。容堂は幕府の存続に寛容であったといわれており、藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとしたその態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されていました。
そこで13日には岩倉や西郷は妥協案を出します。「辞官納地(官位の返上と領地の放棄)」に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を幕府に出しました。しかし、慶喜は当然のようにこれを拒否。
慶喜はさらに16日、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまで巻き返しました。
これを受けて、12月22日(1868年1月16日)に朝廷は、慶喜寄りの告諭を出します。その内容は事実上、徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令はさすがに取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他なりませんでした。
さらには先に出されていた討幕の密勅も取り消され、その討幕挙兵中止命令と工作中止の命は江戸の薩摩邸にも届きました。しかし、薩摩藩の息のかかった攘夷討幕派浪人の暴走は止めることはできず、既に動き出していた彼らは江戸市中で重なる騒乱行動を起こしはじめました。
この攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸は公然と匿っていたため、ついに12月25日になって庄内藩(会津藩とともに、のちの奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つ)による江戸薩摩藩邸の焼討、といった事件も起きました。3日後の28日にこの報が大坂に届くと、慶喜の周囲ではさらに薩摩討伐を望む声が高まります。
慶応4年(1868年)元日、慶喜は「討薩」の意を発し、「慶喜公上京の御先供」という名目で、事実上京都封鎖を目的とした出兵を許可しました。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは、薩摩藩が進軍していた伏見市街へ進みます。
ここで、鳥羽を、三重県の鳥羽と勘違いしている人が多いと思いますが違います。鳥羽とは、現在の京都府京都市伏見区にある鳥羽町付近であり、また伏見は京都南に広がる伏見市一帯のことです。合わせて鳥羽・伏見と慣例で呼ばれることが多いようですが、伏見のほうが行政区としては大きく、どちらかといえば、「伏見の戦い」の方が正しいでしょう。
3日(1月27日)、朝廷では緊急会議が召集されました。大久保は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張しますが、松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾しましたが、議長の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決しました。
こうして、いわゆる「戊辰戦争」の前哨戦となる「鳥羽・伏見の戦い」が勃発しました。この戦いで薩長側が掲げた錦の御旗に動揺した幕府軍は大敗したばかりでなく「朝敵」としての汚名を受ける事になり、窮地にあった新政府を巻き返させる結果となりますが、その経過についてはまた次回書きたいと思います。