四境戦争

私がまだ小学生のころ、山口での遊び場と言えば、サビエル教会堂のある亀山公園か、近所にいくつかある神社の境内でした。

お寺さんも多くありましたが、神社と違って庫裏に住職や寺坊主がいることが多く、気兼ねなく遊ぶ場としては不適当でした。その点、神社は神職が出入りすることはまずほとんどなく、夕方遅くまで遊んでいても誰の目も気にすることはありません。

遊び先の神社としては候補がいくつもありましたが、県庁から500mほど西へ下がった場所にある木戸神社の境内はひと気も少なく、お気に入りでした。木戸孝允の居宅だった場所に建てられた神社で、主神は木戸候自身です。

背後にそびえる高嶺山への登山道の入り口にある神社で、周囲は緑に囲まれ、小川もありました。ここで日がな一日、虫を捕ったり、川遊びをしたりで、気が向けば背後にある高嶺山にも登れ、飽きることはありませんでした。

母の実家からこの木戸神社に向かう途中にひとつの寺があり、子供心に実にお寺らしいお寺だなぁと思っていました。こちらも高嶺山の裾野に建てられていましたが、周囲に木々はなく、明るい斜面に本堂と鐘突き堂ばかりがやたらに目立つ古刹です。

無論、ここで遊ぼうといった気はなく、むしろ近寄りがたいその雰囲気に気圧されるかんじがしていたものです。が、長じてから司馬遼太郎さんの小説を読んだことで、その実態を知りました。

臨済宗の寺で普門寺といい、古くこの地に大内正恒が創建した寺があったが荒廃していたものを延元元年(1336年)大内氏第8代当主、大内弘直が再建して菩提寺としました。

大内氏は、毛利がこの地で根を張る前に勢力を誇った豪族で、京文化をこの地に持ち込み、このため山口は、小京都と呼ばれるほどに古い町並みを数多く残すこととなりました。その大内氏の最後の当主、大内義隆の時に朝廷に働きかけたことにより、当寺は「勅願寺(国家鎮護・皇室繁栄に効力があると朝廷が認定)」となりました。

その後、31代義隆の時代に大内家は事実上滅亡しましたが、このときその原因となった家臣、陶氏の兵が放った火で普門寺は焼失。その後の毛利氏統治時代の天正(1573年)になって、惟松(しょうまつ)円融が再興しました。

円融は、同じ山口市内にあり、大内政弘が別邸として建てた常栄寺の元住持でした。この常栄寺は市内屈指の大寺で、その庭は雪舟に依頼して築庭させたものといわれています。大正時代に国の史跡・名勝に指定されましたが、皮肉なことに、指定されたその年に本堂が消失して、現在のものは昭和8年(1933年)の再建です。

その由緒ある常栄寺の住職だった円融を迎え入れたということ、また、かつては勅願寺でもあったということなど、普門寺もそれなりの格式の高い寺として地元住民の尊敬を集めていたと思われます。

村田蔵六が、この歴史ある普門寺境内にある観音堂を宿舎として起居するようになるのは、幕末の1865年(慶応元年)5月のことです。山口藩庁(現県庁)からは徒歩わずか10分ほどであり、藩の御用で登庁するためには、まことに都合の良い立地になります。

それまでは萩の博習堂で若い藩士たちに洋学を教えていた蔵六はまた、下関など藩内各地を飛び回って軍備を整える役を担っていましたが、高杉晋作の功山寺挙兵に端を発した俗論派と正義派の内乱がとりあえずの収束を見た3月、藩の軍政専務となりました。

藩軍制改革の責任者となったわけですが、これを機に、それまで居住していた萩から山口に拠点を移しました。長州藩はこのころから軍の中枢を山口に移しつつあり、ここで本格的に兵制改革に着手するためです。




蔵六が居を移すや否や登庁するよう知らせがあり、何事かと伺候すると、藩侯から直々の沙汰があるといいます。さっそく藩庁に出仕すると御殿に通されました。平伏していると、敬親候がお出ましになり、お側用人から、「大組御譜代並、馬廻士譜代班に列し、100石高取りにも取り立てる」との下達が読み上げられました。

馬廻(うままわり)士とは、武芸に秀でた者が集められたエリートであり、代々藩候の親衛隊的な存在とされた要職です。また100石取りといえば、現在価値に換算すると1,000万円以上(一石約10万円の計算、但、諸説あり)の収入がある役職であり、藩の重役クラスです。これほどの高禄を得るようになったというのは大出世に違いありません。

同時に藩侯からは、それまでの村田蔵六を改め、「大村益次郎永敏」と改名するがよい、とのお言葉を賜ります。「大村」は故郷の字から(鋳銭司村大村)、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をとったものですが、諱の永敏は敬親が与えたものです。武家の正称はむしろ諱(いみな)であり、これにより名実ともに武士として認められた、ということになります。

鋳銭司村の村医者として、百姓の身分のまま一生を終えることを考えていた人物が、これほどの抜擢を受けたのは、下関戦争の後処理でその才が認められたことにほかなりません。が、かつて江戸で彼を見出し、長州に連れ帰った桂小五郎の推挙も大きかったようです。

高杉晋作による功山寺挙兵が成功して、俗論派政権による政治が終わり、正義派が主権を握るようになったあと、桂小五郎は長州藩の統率者として迎えられていました。後に伊藤博文は小五郎が長州に迎えられた時の様子を「山口をはじめ長州では大旱(ひどいひでり)に雲霓(雨の前触れである雲や虹)を望むごときありさまだった」と語っています。

長州政務座に入ってからの桂は、藩主敬親が掲げる武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進することになりますが、いまや長州藩という大軍事会社の副社長として、それまでは顧問とはいえ身分は課長程度にすぎなかった蔵六を専務取締に大抜擢したわけです。

こうして、蔵六改め益次郎永敏となった彼の「藩士」としての日々が始まりましたが、宿舎とする普門寺では、「兵法」を学びたいとする者の訪問がぽつぽつと増えてくるようになります。彼もこれに応え、諸生の希望により普門寺を臨時の校舎として、この当時の日本としては最先端の洋式軍学を教授するようになりました。

当時、これを普門寺塾と呼び、また、歩兵、騎兵、砲兵などを扱っていたため、「三兵塾」などとも呼ばれていました。大村先生と呼ばれるようになった彼は藩庁に通い、その傍らひたすらここで日々、市井の若者の教育にあたるようになります。

しかしこのころはまだ、大多数の藩士の彼に対する扱いは、出身を卑しんでひどく冷淡であったようです。ただ、時代の変化を見据えたのか、集まってくる百姓町人も多く、彼らすべてに分け隔てなく軍学を伝授しました。また、そのことを通じ、階級を超えた連携がこれからの世では必要になってくることを彼らに悟らせようとしました。

さらに益次郎は、オランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した「兵家須知戦闘術門」を刊行。さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成。それをもとに普門寺に集まる面々への指導を始めました。

もとより、大阪の適塾で塾頭をしていた益次郎の教え方には無駄がなく、また江戸・麹町の鳩居堂で蘭学・兵学・医学を教えていた経験は、ここでもいかんなく発揮されたため評判は高まるばかりで、集まる塾生も次第に増えていきました。

話は飛びますが、ちょうどこのころ薩摩藩では、開明派の島津斉彬が亡くなって伯父・斉彬の養嗣子なった島津忠義が藩主となりました。が、若年だったため、実質は斉彬の異母弟で、実父の久光が権力を握り、「公武合体派」として雄藩連合構想の実現に向かって活動していました。

しかし、久光の主張する幕政改革は徳川慶喜ら復古派保守の主張と真っ向から対立して展望を開くことができず、藩内では大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていました。



一方、薩摩藩は、先の八月十八日の政変では、会津藩と協力して長州藩勢力を京都政界から追放し、また引き続いて、蛤御門の変では、上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え敗走させるに至り、両者の敵対関係は決定的とものとなっていました。

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩には、彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する深い恨みが生じており、多くの藩士は「共には天を戴かず(共にこの世に生きてはいられようか、殺すか殺されるかだ)」と心中に誓い、「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き、踏みつけて鬱憤を晴らす者がいるほどでした。

ところが、この両者を結びつけようとする人物がいました。ご存知、土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中を率いていた坂本龍馬です。彼は薩摩、長州のような雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕をするのが世直しの一番の近道だと考えていました。このため、両藩を結びつける何等かのきっかけを見出そうと暗躍を始めていました。

前述のとおり、桂小五郎が藩の指導権を握った結果、その息のかかった益次郎は長州軍の近代化の責任者となりましたが、このポスト就任後の改革にあたり、益次郎はまず、高杉晋作が結成した奇兵隊ほかの諸隊の組織体系の見直しが急務であると考えました。

従来の武士だけでなく、農民、町人などの各階級により構成されていたこれらの部隊への参加は、それまではいわばボランティアでしたが、彼は藩がその給与を負担し、兵士として基本的訓練を決行しなければ、やがて押し寄せる幕府軍には太刀打ちないと上梓しました。

これは受け入れられ、まず、諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、満16~25歳までの農商階級の兵士を再編して約1600人の部隊を作り上げました。また、旧来の藩士らも石高に合わせた隊にまとめ上げ、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせました。さらに、各隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えました。

次いで取り組まなければならないのはやはり装備です。益次郎は、先に防禦掛に任命されて以降、アメリカやフランスと接触して大小の武器を調達しており、既に大田・絵堂における萩藩政府軍との戦闘ではそれらが有効であることを証明しました。しかし、こと大軍の幕府軍を相手にするとなると、質もさることながら、数の上で足りないのは自明でした。

このため、部下を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃や大砲を大量に購入させようとします。しかし、長州が密貿易で武器を輸入していることを薄々気づいていた幕府は、諸外国に働きかけて、長州との武器弾薬類の取り引きを行わないよう依頼するなどの先手を打っており、長州には武器が入って来にくい状態が続いていました。

このとき、長州の武器調達に一役買ったのが、坂本です。自らが率いる亀山社中(のちの海援隊)が口をきき、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の買い付けに成功、これを長州に斡旋しました。そしてこれを購入したのは薩摩藩だったことにし、長州への流用は、幕府にこれを秘匿しました。

坂本が仲介に入ったため間接的ではありましたが、これにより薩摩藩が長州藩に恩を売った形になり、この取引はその後の薩長和解の最初の契機となりました。

さらに坂本は、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦、ユニオン号の購入にも成功します。購入時の薩摩名「桜島丸」はその後長州の手に渡ると、「乙丑丸(いっちゅうまる)」と改名されました。ちなみに、同船の運航は亀山社中が請け負うことになりました。

このユニオン号が長州の手に渡った背景には、イギリスが薩摩・長州の両藩の共通の協力者になりつつあった、という背景があります。

薩摩藩では、先の下関戦争とほぼ同時期に勃発した薩英戦争(文久3年(1863年))での敗退を受け、それまでの攘夷論が揺らぐようになっていました。イギリスは、戦後の講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていました。

一方の長州藩もまた下関戦争の敗戦を受けて攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めようとしていました。

両藩に出入りしていた坂本はこの双方の事情を知り、イギリスを媒介者として両藩を結び付けようと考えていたようです。薩摩藩によるユニオン号の購入においても、これがいずれは長州の手に渡ることをイギリス側に承知させていたに違いありません。

一方、このころ薩摩藩は、薩英戦争や度重なる京への軍隊の派遣等により兵糧米が不足しており、今後の活動に支障が出ることが懸念されていました。そこで坂本は長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案し、先の武器の返礼とすることを長州に提案します。長州もこれを了承し、これによって両藩の焦眉の急が解決することになります。

以後、薩摩と長州は急速に接近します。紆余曲折はあったものの、両者重臣によって会談が進められ、ついに慶応2年1月21日(1866年3月7日)、京都の小松帯刀邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の桂小五郎が介し、6か条からなる同盟を締結しました。

この密約に基づいて薩摩藩は、その後の幕府による第二次長州征討参加の要請に対して出兵を拒否し、以後薩長の連携関係はさらに深まっていくこととなりました。




一方、そんなことはつゆ知らぬ幕府内では、第一次長州征伐後の長州の処分を巡って激論が繰り広げられていました。その処分にあたっては減封移転などの比較的軽い処分で穏便に済ますべきとする妥協案と、改易が妥当、これに抗うなら再長征を視野に入れるべきとする強硬論が拮抗していました。

この混乱の背後には、開国以降著しく低下する幕府の諸藩への指導力不足があります。今や朝廷、幕府、諸藩と三つのパワーバランスの上に成り立つ現在の体制下において、「強い幕府」を志向する「復古派」と朝廷と組んでの政権運営を目指す「公武合体派」は真っ向から対立しており、長州の処分はどちらがイニシアチブをとるかにかかっていました。

結局幕閣は、列強の中でもこのころ急速に幕府に取り入るようになっていたフランスの後押しを受け、勤皇諸藩に対して強硬な姿勢をとる道を選びます。長州処分においても諸藩を動員し長門周防を取り囲めば、おのずと滅すると考えた幕府は、慶応元年(1865年)11月7日、ついに31藩に、「第二次長州征伐」の出兵を命じました。

薩長同盟締結の約2ヶ月半ほど前ですが、このころ既に両藩では結託して幕府に当たることを水面下で合意していたと思われます。秘密裡に長州と通じていた薩摩は、慶応2年4月14日、大久保利通を通じて出兵拒否の旨を幕府に通達。幕府はこれを拒絶しますが、再三の交渉の結果、薩摩の不参加が確定しました。

ちなみに、時の将軍は13代将軍・徳川家定が死去したため、前将軍の最近親ということから14代将軍となった家茂です。就任当初、13歳という若年であったことから一橋慶喜が「将軍後見職」に就き、時を経てこのとき20歳になっていたとはいえ、その権力は抑制され、幕府の動向はほぼ慶喜の意向によりコントロールされていました。

この慶喜ですが、のちの大政奉還の実行や鳥羽伏見の戦いにおける江戸への逃げ帰りなどによって、弱腰の将軍、とみなされがちですが、案外と勇猛な武将でした。

蛤御門の変においては、御所守備軍を自ら指揮して鷹司邸を占領しているほか、長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結びました。この変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩ら譜代親藩との提携を本格化させています(一会桑体制)。

慶応2年(1866年)6月7日、幕府艦隊の周防大島口への砲撃により、ついに第二次長州征伐が始まりました。周防大島は、伊予松山藩(現愛媛県)からほど近く、いわば四国方面からの長州への入り口にあたります。また、長州東部の岩国領と西の周防長門など本藩との境にあり、まずは岩国を切り離して孤立させよう、と考えたにほかなりません。

続いて、13日には山陽道・芸州口(現広島山口境界)、16日には山陰道・石州口(島根山口境界)、そして17日には関門海峡・小倉口(福岡山口境界)でそれぞれ戦闘が開始され、四方向から幕府軍を迎えたことから、この戦争はのちに「四境戦争」とも呼ばれました。

幕府は第一次征討の時と同じく10万とも15万ともいわれる兵を招集しました。これに対し、長州の兵力は3,500だったというのが定説です。が、3,500では四方向からの幕府軍を迎撃するには十分ではなく、雑兵を入れて実数では4,000~5,000といったところだったではないでしょうか。

筆者が整理したところ、だいたい次のようになります。

大島口  長州藩:500  幕府軍+伊予松山藩:2,000~3,000 
芸州口  長州藩:2,000  幕府軍+彦根・越後高田・紀州・大垣・宮津等各藩:5~60,000
小倉口  長州藩:1,000  幕府軍+小倉、肥後・柳河・久留米など九州諸藩:2~30,000
石州口  長州藩:1,000 幕府軍+浜田、紀州、福山藩等各藩:3~40,000 

いずれにせよ、長州の勢力は幕府に比べると著しく小さく、大島口を除けば20倍、30倍という幕府軍に挑んだことが見えてきます。

幕府はこれ以外にも、洋式軍船と古い和船を動員した艦隊を構成していました。このうちの洋式船群は最新鋭の富士山丸(木造機帆軍艦1000t)を含み、旭日丸(木造帆走船500t)、翔鶴丸(木造外輪汽船350t)、八雲丸(汽船337t 松江藩所有)の計4隻でした。

富士山丸は米国に対して発注して手に入れたもので日本に到着したのは慶応元年12月ですから、この戦が始まるわずか半年前です。帆走が主ですが、機走もでき、砲12門を備えるこの当時、幕府諸藩を通じて最大最強の軍艦でした。

また旭日丸は、幕命で水戸藩が建造した西洋式帆船、翔鶴丸は、1857年にアメリカで建造された外輪式の蒸気商船「ヤンチー」を改造したもの、八雲丸は文久2年(1862年)に松江藩がイギリスから購入した船で原名はガーゼリといい、中古ながら鉄船でした。

6月9日、周防大島の北側、本土との間にある大島瀬戸(海峡)付近に進んだこれら幕艦は、島北部の久賀村へ砲撃を加え、ここから幕府陸軍が島へ上陸するとともに、島南部の安下庄からも松山藩軍が上陸し、大島を守っていた長州軍と交戦しました。

長州側もこの島の戦略的重要性を知っており、ここが落ちれば岩国が孤立することを理解していましたが、この幕軍による奇襲攻撃によって慌てた長州軍は、大島の西、本州側の遠崎(現柳井市付近)へ撤退します。




この大島への幕軍の進行の情報を受け、10日、山口藩庁は第二奇兵隊、浩武隊に大島へ向かうよう令を発すると同時に、高杉晋作が三田尻港から丙寅丸(へいいんまる)に乗り大島へ向かいました。

丙寅丸は四境戦争直前の1866年5月に高杉が長崎へ赴き、藩の了解を得ず独断で3万6千両の値でグラバーより購入したもので、購入時の名前はオテントサマ丸でした。四境戦争が始まると海軍総督である高杉晋作を乗せて運用されたため、旗艦として扱われました。

ただ、排水量わずか94tの木造船で、直接、幕府海軍に太刀打ちできるような船ではありません。このため、高杉は、12日の夜半、真っ暗闇の中をこの船を出し、瀬戸を抜けて島の北側に停泊していた幕府方の間をすり抜けるように走らせました。この時、各船とも蒸気を落として停泊しており、夜戦の用意もなく、搭載砲もしまい込んでいました。

間をすり抜けるように航走を続ける丙寅丸は小船であり、各艦の見張りも夜目がきかなかったため僚艦と勘違いしてしまいました。丙寅丸はそれをいいことに、そばを通るたびに、続けざまに大砲を打ち放したため、各艦とも大混乱に陥りました。

このとき、旭日丸は帆船であるため、全く動くことができず、他の機関船も火を落としているため、すぐには動けません。それを横目に丙寅丸は目の前まで接近して各艦の間をくるくると動き回り、大砲を撃ちまくりました。幕艦は狼狽しますが、砲をセッティングするには時間がかかり、また準備ができても敵を撃つつもりが味方の艦を撃ったりしました。

実はこのとき、長州側は別の陸戦部隊を夜陰に応じて小船で大島に上陸させており、島の山頂に陣を構えていました。幕軍は眼下の大島瀬戸に面する大島川の村に駐屯しており、丙寅丸は、ここへも数発の砲弾を撃ち込んだようです。

眼前の見方艦が砲撃を受けるとともに、自陣にも砲弾が撃ち込まれて、山麓の海岸に野営していた幕軍はさらに混乱します。そこへ今度は山頂からは長州からの陸軍部隊が攻め込んだため、幕兵をさんざんに駆逐され、残兵は大島の南部に退避しました。

一方、海上では薄明のころになってようやく翔鶴丸が蒸気を上げ、丙寅丸を追跡しますが、夜陰に乗じて逃げ去った丙寅丸を見つけることはできません。翌日15日、長州はさらに大島に兵を送り込んで南部の松山藩部隊も追い払い、17日には完全に大島を奪回しました。

大村益次郎は、この戦争において石州口・芸州口の二方面を指揮ました。しかし芸州口において幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が始まった際には石州口で指揮を執っていました。なお、このとき、西国の雄藩だった広島藩は幕府の出兵命令を拒み、戦闘に参加していません。

第一次長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた広島藩ですが、古くは長州毛利家の領地だっただけに、長州びいきの者も多く、今回の第二次長州征伐にも否定的でした。このため、不戦の代わりに長州藩の仲介を務める役割に徹することを申し出、幕府もしぶしぶこれを認めました。

6月初めに始まったこの芸州口での長州との戦闘に参加した諸藩は、主として彦根藩と高田藩(越後)です。が、藩境の小瀬川(現大竹市南部)で行われた緒戦では、長州軍の火力に押されあっけなく壊滅しました。

この勢いに乗じ、井上馨率いる長州軍は、幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく、中立を保っていた広島藩まで慌てさせました。このため、幕府歩兵隊とこのころ幕軍最強の一つと言われた紀州藩が戦闘に入ると、戦況は逆に幕府軍が優勢になり、岩国領まで押し返しました。

紀州藩は、第14代将軍家茂を出した藩で、徳川譜代藩だけに軍備にも力を入れていました。プロイセン(ドイツ)から専門家を招き、軍事教育を受けていたといわれ、明治後も軍制改革を進め、軍事顧問として高名なカール・ケッペンなどを招くなどして軍隊の養成を進めるなど、その後の大日本帝国陸軍の創成に大きく寄与した藩です。

西洋式軍装に身を包んだ紀州兵による果敢な攻撃に対し、最新鋭の軍装を整えていた長州も押し返して膠着状況に陥ります。結局この状態は3ヵ月ほども続きましたが、その後9月に入ってから両者で交渉が行われ、両軍とも追い打ちをしないことを確約し、停戦となりました(後述)。



6月16日、大村益次郎が実戦指揮していた山陰側の石州口でも戦闘が始まりました。このとき津和野藩は中立の立場をとっており、これを通過して最初に対面したのは、現在の島根県浜田市周辺を領有していた浜田藩を主とする幕府軍です。

この浜田藩領主、松平武聰(たけあきら)は徳川慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った人物です。倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに高津川の治水工事や石見半紙、養蚕業などの殖産興業化を推進して藩財政を再建し、名君と言われていました。

しかし、このとき武聰は病に臥していたために十分に指揮が執れず、益次郎率いる精強な軍勢の前に悪戦苦闘します。また、益次郎の戦術は巧妙な洋式用兵術に基づいており、最新の武器を持ちながらも無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なものであり、易々と浜田城下まで進撃しました。

対する浜田藩も松平武聰の命によってそれなりに洋式軍備を整えていたようですが、いかんせん、部隊を指揮する幹部が旧態依然とした戦術に捉われていたため、ことごとく益次郎の戦略に嵌り、自滅していきました。益次郎率いる長州軍は7月18日には浜田城を陥落させ、のち天領だった石見銀山をも制圧しました。

この浜田城攻撃の際、炎上する城を見て益次郎の部下が、浜田藩の盟友である松江藩が救援にやってくるのでは、と心配しました。しかし彼は赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いに出して、「雲州そのほかからの応援は絶対来ない」、と断言したといいます。

赤穂浪士の故事というのは、吉良上野介の実子で米沢藩主だった上杉綱憲らが、事件当日、討ち入りの事実を知りながら、諸般の事情により駆けつけなかったことを示していると思われます。同様に、浜田藩と松江藩は関係が深く、歴代の両藩の藩主の多くは松平家から出ていることもあって兄弟藩のような関係でした。

そのこともあり、浜田城が陥落したとき松江藩が加勢するのではないか、と懸念されたわけですが、実際には武聰は松江城に逃れただけで、援軍は来ませんでした。幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、のちの大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買ったといい、このときも長州討伐には消極的でした。

ちなみに、松平武聰は、その後さらに美作国の飛び地(鶴田領・現岡山県東北部)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えています。

「無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない」と益次郎が、断言したのもそうした状況分析に基づいたものであり、こうした論理的に戦況を考究する能力はその後の戊辰戦争でもいかんなく発揮されました。後年、長州藩における蘭学の先駆者で洋学の重鎮、青木周弼はこうした益次郎を評して「その才知、鬼の如し」と語ったといいます。

一方、四境戦争の最後のひとつ、小倉口では、幕府老中でもある総督、小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉・山縣有朋ら率いる長州藩との激闘が関門海峡を挟んで始まりました。

「小倉戦争」とも呼ばれたこの6月中旬に始まった戦いにおいて、幕府軍は優勢な海軍力を有しており、圧倒的な軍事力の差異がありました。しかし、大軍であるため長州への渡海侵攻を躊躇している間、逆に17日には長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われました。田野浦は関門海峡の東端、大里は西端にあたります。

「拱手傍観(きょうしゅぼうかん)」とは、手をこまねいて何もせず、ただそばで見ていることですが、小笠原長行に率いられた諸藩軍・幕府歩兵隊ともまったくその体であり、九州に上陸した長州軍はそのままの勢いで幕軍総督府のある小倉城に迫る勢いであったのに対し、これに対峙したのは、九州側最先鋒といわれた小倉藩だけでした。

なお、このとき、小倉藩に劣らぬほどの兵力や軍備を持っていた佐賀藩は、幕府にこの戦闘への出兵を拒んでおり、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。

戦闘はその後7月下旬まで続き、27日には小倉城下防衛上の最重要拠点である赤坂・鳥越地区で激しい戦闘が起こりました。「赤坂の戦い」とも呼ばれるこの戦闘は、現在の小倉駅東側付近で起こったもので、長州軍側は海軍総督高杉晋作が指揮を執り、征長軍には軍備の近代化を急速に進めていた熊本藩が参戦しました。

熊本藩細川氏は、この征長軍への参加に際し、家老・長岡監物の指揮下にアームストロング砲(8門)や洋式銃などを装備した精鋭部隊を派遣しており、この赤坂口の戦いで長州軍に激しい銃砲撃を加えて大打撃を与えます。更に小倉藩軍が追撃して大里方面まで長州軍を撃退することに成功し、小倉戦争で初めて幕府側に優位をもたらしました。

しかし、この勝利に気をよくしたのか、小笠原総督は小倉藩家老・長岡監物が出した幕府への支援要請を拒否しました。このことから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国してしまいました。これにより、長州軍は一気に戦況を盛り返して優勢に戦闘を展開、幕府側の敗色は濃厚となります。

しかも折も折、7月20日に将軍家茂が薨去(こうきょ:天皇未満で位階が三位以上の者の死はこう呼ぶ)したとの報が入ると、小笠原は事態を収拾する事なく戦線を離脱してしまいました。孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わりました。この敗戦責任を問われた小笠原は10月に老中を罷免されました。

長州軍側では、奇兵隊第一小隊・隊長山田鵬輔らが戦死するなどの被害を受けましたが、死傷者の総数としては幕府軍よりかなり寡少だったようです。大島・芸州・石州合わせたこの戦役での死傷者合計はおよそ2~300人程度だったといわれます。対する幕軍の被害はこの倍以上だったと思われますが、諸藩毎にカウントされており、その総数は不明です。

家茂死去の際には、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜が「大討込」と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したと伝えられますが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらいました。

慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、戦闘が長引いていた芸州口と、大島口・石州口での戦闘が終息しました。

しかし、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しませんでした。この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開しました。

10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉城南部の企救(きく)など、防衛拠点の多くが位置する場所にまで入り込むに及んで、ようやく停戦交渉が始められ、慶応3年(1867年)1月になってようやく両藩の和約が成立しました。

この和約の条件により、小倉藩領のうち、関門海峡を含むその南部一帯の企救郡は長州藩の預りとされ、明治2年(1869年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなりました。

第二次征討の失敗によって、幕府の武力は張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩への干渉能力はほぼなくなりました。

さらに幕府はこの戦争へ薩摩藩を巻き込むことができず、その後この時すでに薩摩が長州と盟約を結んでいたことを知り、潮の変わり目を悟ります。

このため、この敗戦こそが江戸幕府滅亡をほぼ決定付けたとする向きもあります。

征討終了後、大村益次郎は山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務するよう沙汰が下り、海軍頭取・前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐するようになります。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることはありませんでした。