功山寺

長州藩校であった明倫館は、現在の萩市のほぼ中央に位置し、道路を隔てて反対側には市役所があるという一等地にあります。

長州藩は当初、萩に藩庁を置いていたため、萩藩と呼ばれることも多く、明倫館も「萩藩校・明倫館」と呼称されていました。

国の史跡に指定される古い建物群が残っており、その一部は2014年まで小学校として使われていましたが、隣接地に新設移転され、明治維新150年記念事業の一つとして再整備されました。2017年からは「萩・明倫館学舎」の名称で博物館として公開されています。

博物館として公開される以前に私が前を通りがかったときには、まだ生徒たちが元気に校庭を走り回っていました。中がどういうふうになっているのか、見たいなーと思っていたところです。現在はカフェ・レストランなども併設されてずいぶんと見どころも多そうなので、次回帰郷したらぜひ訪問してみたいところです。みなさんもいかがでしょうか。

この明倫館ですが、元は別の場所にありました。享保3年(1718年)に5代藩主、毛利吉元が毛利家家巨の子弟教育のために、現在の場所から2kmほど西にある堀内という場所に建てられ、すぐ近くの萩城内から通うには便利な立地でした。

それから約130年後までには学ぶ生徒も増え、教える教科も倍増して手狭になったため、嘉永2年(1849年)に現在地(江向)に拡大移転しました。

約5万㎡もの敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、NHKの大河ドラマ、「花燃ゆ」で大沢たかおさんが演じた楫取素彦(小田村伊之助)や、吉田松陰もここで教鞭をとっていました。幕末までには、山口に「鴻城明倫館」が設立され、三田尻にあった「三田尻越氏塾」も支校の一つに加えて育英の拠点とするなど、長州藩は教育熱心な藩でした。

また、医学・洋学の面においては、早くから萩市街に医学所を設けて、医師の子弟に医学を、また家中藩士を選んで洋学教育を行なっていましたが、安政3年(1856年)に、これを明倫館内に移すと同時に、洋学所も設けて「博習堂」と名づけ、西洋の科学技術を講習しました。

蔵六は、1864年(元治元年)にこの博習堂の御用掛に任じられて教授職に従事し、西洋の兵制・文物の導入に努めるとともに、若い藩士に兵学を教えるようになっていました。教師の職は、大阪の適塾や江戸の鳩居堂時代にとった杵柄であり、綿密な準備に基づく詳細な教技は評判も高く、藩内における評価も上々でした。

ところが、時の情勢は、次第にこうしたのんびりとした空気を許すようなものではなくなってきました。先の下関戦争において無断で諸外国と戦争を始めた長州藩を罰するため、幕府は「長州討伐」を決定。尾張藩・徳川慶勝を総督とし、薩摩藩の西郷吉之助を大参謀とする征長軍を編成して、大阪から長州へ向けての進軍が開始されようとしていました。

一方、下関戦争や蛤御門の変(禁門の変)は、長州藩の軍備や財政面で大きなダメージを与えました。また、政治面でも大きな変動をもたらし、それまで藩侯に攘夷を推奨していた正義派の勢力が著しく衰え、幕府への恭順止むなしとする椋梨藤太ら俗論派が台頭してきました。

元治元年(1864年)9月、山口政事堂で藩主敬親臨席の元、君前会議が開かれ、正義派の代表格である井上聞多が武備恭順論(表向きは恭順しつつも戦うことも想定)を説きますが、親幕・武装解除を唱える俗論派の抵抗により会議は紛糾。

最終的には敬親が、武備恭順を長州の国是とする事を言明して終わりますが、会議からの帰途、井上は暴徒に襲われて瀕死の重傷を負います。

その翌日、今度は周布政之助が、突如切腹。蛤御門の変で藩士の暴発を抑えられなかったことの責任を取ってのことですが、正義派の面々のよき理解者であった周布の自殺は、彼らに大打撃を与えました。俗論派の椋梨らの独走を許し、彼らが藩の人事を掌握するようになっていきます。

勢いに乗る俗論派は10月、藩主敬親公父子を擁して萩城へ入り、以後、それまで山口政治堂で行っていた藩議がすべて萩で行われるようになります。この移動には俗論派の実戦部隊である撰鋒隊も帯同しており、プチクーデターともいえるでしょう。

山縣有朋ら奇兵隊幹部は、いまだ山口に滞在していた藩主の息子、毛利元徳に拝謁し、建議書を提出して藩侯らの萩行を止めるよう求めましたが受け入れられませんでした。萩に拠点を移した俗論党は、それまで藩の要務を務めていた正義派の面々を罷免し始め、政務役だった高杉晋作もこのとき役職を取り上げられました。

折もおり、ちょうどこのころ幕府が西国諸藩に動員をかけ、10万以上ともの軍勢が畿内に動員されたという情報がもたらされました。こうした中、萩に中枢を移した俗論派は蛤御門の変を積極的に指導した正義派三家老を切腹させ、幕府に降伏する事を主張。これに対し高杉晋作が創設した奇兵隊をはじめとする諸隊の幹部は反対の建議書を提出しました。




しかし、長州藩の支藩である岩国藩の当主、吉川経幹(つねまさ)が、首謀者を処罰して事態の収拾を図ることを毛利敬親に進言するなど、情勢は正義派にさらに不利になっていきます。

幕府の長州征伐が迫る中、奇兵隊ほかの諸隊は長州藩内各攻め口に兵を配置しますが、俗論派主導の萩藩政府は、敬親から三家老を切腹させて幕府へ恭順するという策の了承をほぼ得ていました。このため、各攻め口に使者を送り、征長軍と衝突しないよう周知するとともに、諸隊幹部を山口の政事堂に集合させ、諸隊の解散を命令しました。

藩の解散令に従わない場合は罪を問う旨を布告するとともに、さらに藩主父子は、諸隊総督に親しく諭す所があるため萩へ赴くよう命じますが、諸隊は俗論派を警戒して拒否。

このころ萩で藩侯父子を説得していた高杉晋作も、俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出しました。 その際、盟友のひとり、楢崎弥八郎も誘いましたが同意せず、残留した楢崎は捉えられ、後に処刑されました。

ちょうどこのころ、征長軍総督・徳川慶勝は大阪を出発し広島へ向かい始めるとともに、西郷ら別働隊は関門海峡側へ集結を始めていました。慶勝が大阪を出発する際、江戸幕府は蛤御門の変の際に捕えた長州人7人を斬首して征長軍の門出を祝しました。

萩から山口へ脱出した高杉は、三田尻港からさらに福岡藩へ逃れ、彼の庇護者であった女僧、野村望東尼の別荘、平尾山荘に匿われました。この時点では、藩内で高杉に同調して蜂起するような機運はまだ高まっておらず、彼は九州を巡って遊説し、各地で同志を募った上で長州に戻り、決起することを考えていました。

こうした中、かねてより取り沙汰されていた三家老の切腹が実施に移されます。その首は征長軍に届けられて首実検が行われるとともに、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ発する降伏文書の準備を始めました。俗論派はさらに正義派の粛清を続け、野山獄に投獄していた蛤御門の変の四参謀(宍戸左馬之助以下三名)までも処刑しました。

このころ、下関まで進軍してきていた征長軍参謀である西郷隆盛は、ひとつの決断をします。蛤御門の変では長州と相対した薩摩ですが、彼の国もまた、先年イギリスとの間で薩英戦争を繰り広げ、敗戦を喫しています。このことから西郷は、外国勢力が日本に迫るかかる時期に、こうした内戦は無益であるとの認識を持っていました。

また、薩摩藩主である島津久光からも藩命として長州内の内戦回避に尽力するよう、指示を受けていたと言われます。

このため西郷は、長州の恭順をみるやいなや、征討回避に動き、征長軍幹部に停戦を呼びかけ始めました。結果西郷は、慶勝の信任を得て戦争回避の交渉を取り仕切ることとなりますが、これはかつて薩摩藩が、蛤御門の変において長州を撃退した功績があり、征長軍内でも大きな発言力を持っていっためでもありました。

また、徳川慶勝は、元々尊王攘夷派であり、そもそもこの長州討伐には消極的だったといわれています。井伊直弼が安政5年(1858年)にアメリカと日米修好通商条約を調印した際にも江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議しましたが、これが災いし、井伊が反対派を弾圧する安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられています。

こうしたどちらかといえば消極的なリーダーを持った征長軍総督府は、とりあえず総攻撃を延期。「五卿の引き渡しと附属の脱藩浪士の始末、山口城破却、藩主父子からの謝罪文書の提出」を条件に停戦してもよい、と西郷を通じて長州側に伝達してきました。

ここで、蛤御門の変で長州に落ち延びた公家七卿がなぜ五卿になったかですが、これはこのうちのち錦小路頼徳が病没、澤宣嘉は他藩の攘夷運動参加のために転出したためです。

無論、総督府からの通達は最終的な降伏条件ではなく、この時点では総督府の誰もが一時的な戦争回避の為の条件と考えており、戦後落ち着いた時期に別途沙汰があり、長州藩は改易ないし減封されるだろうとみなしていました。 西郷隆盛ですら、長州毛利は東北あたりに数万石で減封され、この戦は終わるだろう、と考えていたようです。

また、最初から領土削減を戦争回避の条件として持ち出すと、短期間での妥結が不可能となります。このため、総督府側はこの時あえて減封に言及しなかったと見られます。



いずれにせよ、表だって提示された降伏条件はそれほど厳しいものではなく、このため長州はこれを飲み、戦闘は回避されるのではないか、とみられていました。が、あにはからんや、長州藩内では、この情勢を根本から覆す謀事が着々と進行していました。

三家老が切腹したという情報が山口にもたらされると、正義派の息のかかった各諸隊幹部は激怒しました。さらに諸隊は、萩藩政府が彼らを駆逐するため、軍兵の動員をかけた事を察知します。 諸隊は衆議し対策を練りますが、山口の地形は寡兵で守ることが出来ないと判断し、正義派に協力的な長府藩主毛利元周を頼り、長府へ赴くことを決めます。

長州藩は大きく分けて、長府藩、徳山藩、岩国藩の三つの支藩をもちます。このうち長府藩は最も西の関門海峡を含むエリアを統治しており、長府城下は関門海峡から直線距離でわずか5~6キロほど東、という位置関係です。

長府の地名は「長門国府」にちなみ、古代より山陽道の中継地として栄え、国府および国分寺が置かれていましたが、やがて長門国の中枢が萩や山口に移行してからは、国府としての機能が低下し、単なる宿場町として位置付くことになりました。

江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩として長府藩が設置され、これにより長府毛利家が陣屋(櫛崎城)を構え、その周辺に武家屋敷が広がるようになります。現在もこの時代の武家屋敷がいくつか残り、明治期に建てられた豪華な長府毛利邸、国宝の仏殿を持つ功山寺、乃木希典対象を祀る乃木神社などと合わせ、長府は見どころの多い町です。

この長府藩の幕末の動乱の中での藩主、毛利元周(もとちか)は、長州藩主・毛利敬親の補佐を務めており、正義派には好意的でした。

諸隊の戦略としては、五卿を帯同して長府に赴き、正義派に理解のある元周の長府藩と力を合わせ、馬関の長州本藩会所を抑えて金米を取り、役人を追い払い、俗論派退治のための義兵を起こすというものであり、この計画は後に高杉挙兵の下地となりました。そしてまずは五卿の長府への下向と、諸隊の移動が実施に移されました。

このころ、野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、藩内の正義派同志から、長州正義派の家老が切腹された旨の手紙を受け取ると、即座に長州へ帰還し俗論派を打倒する事を決意します。 しかし多数の間者や征討軍に囲まれる長州への帰還は困難を極め、町人に変装して帰国することとなりました。

高杉を匿っていた平尾山荘の家主、野村望東尼は、変装の衣服の用意を徹夜で行い、以下の歌を添えて送り出しました。

   まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ

高杉はこの心遣いに感激し、後に野村望東尼が、高杉ら脱藩浪士を匿った罪で離島に流刑になった際は、人を遣わして奪還しています。またその後に病に倒れた高杉を看病し、最期を看取ったのは望東尼でした。

こうして高杉は筑前より下関へ帰還します。この時、諸隊幹部は、各地に派遣された俗論派代官を暗殺する計画を建てていましたが、これを聞いた高杉は、兵力が分散することや全員一致しての決起にならないことを説き、また諸隊からの脱走が増加し自然解隊の恐れがあることを指摘して、諸隊が一致して即座に挙兵すべきであると主張しました。

一方、このころすでに広島に進駐していた総督府は、先の降伏条件への回答を得るため先遣使を山口に派遣し、不穏な動きのある長府の状況確認の巡回もさせようとしていました。

しかし、長府に反抗する諸隊があることを知っていた萩藩政府は、彼らを終始酒宴でもてなして山口に留めました。このため、先遣使らは山口城破却等の条件履行のアドバイスをしただけで広島に帰りました。

これと前後して、幕府から要請を受けた九州諸藩の使者が、長府にいた五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かりたい、という申し入れをしました。これを五卿も諸隊も断固拒否しますが、使者の代表が、筑前勤王党(尊皇攘夷派)に属する福岡藩士だったため、三条実美ら五卿は説得され、福岡・太宰府に移ることを決めます。

これにより、長州藩としては勤皇のよりどころの一つを失うことになりました。が、結果としてその後長州内で起こる動乱に五卿が巻き込まれることなく、維新後、三条実美は太政大臣や内大臣に、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就くことができました。

幕府にすれば、このとき福岡藩に五卿の始末を期待していたわけですが、それが実行されなかったため、同藩はのちに尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになりました。ただ、そのことで藩主である黒田長溥が幕府に責められるなどによって藩論が佐幕に傾き、勤王派が弾圧されるなどの動乱がありました。

これにより筑前勤王党は壊滅状態に陥りましたが、その後再び巻き返すなど、藩論が目まぐるしく変転するまま幕末を迎えました。

ちなみに、高杉を助けた野村望東尼はこの福岡藩の重職の娘で、勤皇派に属していたためこの動乱に巻き込まれ流刑されますが、前述のとおり、これを高杉が奪還しました。




この五卿退去により、諸隊の中にも恭順の空気が広まり始めましたが、こうした中でも強硬に俗論派と戦うことを主張する高杉は、少数の賛同者とともに決起し、諸隊全体をそれに続かせようと画策します。しかし、高杉の挙兵計画を聞いた諸隊幹部は全員一致して反対しました。

高杉は、この消極的な諸隊幹部の態度に怒り、自らと一緒に立ち上がるよう大演説をぶちましたが、彼らの心をつかむことは出来ません。説得が不調に終わった彼は下関に赴き、わずかな賛同者とともに決起の準備を進めざるをえませんでした。

そして、元治元年12月15日(1865年1月12日)深夜、下関・長府にある功山寺にて高杉晋作は挙兵しました。この夜、下関では珍しい大雪であったといいます。

この功山寺ですが、かなり長い歴史を持つ古刹で、嘉暦2年(1327年)に創建されました。正慶2年(1333年)には、後醍醐天皇の勅願寺(朝廷が国家鎮護・皇室繁栄に効力があるとして認めた寺)となり、時の権力者、足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えました。

室町時代には大内氏の庇護を得ますが、大内氏が滅亡後衰退していたものを、慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が再興。曹洞宗の笑山寺として再スタート。秀元の没後、功山寺に改名されました。仏殿は鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されているほか、多数の文化財をする、県内屈指の名寺です。

先に、福岡へ逃れた五卿が滞在していたのもこの寺で、今ものこる豪華な書院で起居していたと伝えられています。境内にはこのほか、高杉晋作が挙兵した折の姿を模した銅像が建てられており、騎馬姿のこの像は、「維新の町・長府」のシンボルともなっています。

この蜂起後に藩内で繰り広げられた内乱は、元治元年に起こったことから「元治の内戦」と呼ばれ、また、功山寺での決起は、「功山寺挙兵」、「回天義挙」とも呼称されます。

しかし、その最初の決起の参加者は、高杉を含めたごく限られた者たちだけでした。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであり、装備していた大砲はたった一つでした。

挙兵した高杉らがまず最初に目指したのは、関門海峡にもほど近い「新地」にあった「馬関会所」です。長州藩の町役人・村役人が詰める事務所で、両替所、取引所などを兼ねており、高杉はここを襲撃することで今後の戦で必要となる、金品をまず得ようとしました。

功山寺から下関へは長府藩領を通行する事となりますが、かねてより正義派に好意的だった長府藩はこれを妨害しませんでした。易々と会所を収得した高杉らですが、もとより食料と金銭を取れれば良く、人を殺すのは悪いと考え空砲を一発撃ったところ、ここに詰めていた総奉行の根来親祐らもすぐに降伏しました。

流血は避けられたものの、会所襲撃を察知した長府藩が事前に密告をした後であり、会所側は既に金穀を移動させていました。このため、こうした算段には聡い伊藤俊輔が、高杉と親しい下関の豪商入らの元を走り回り、二千両の大金を借りだしました。

周辺の住民は決起した高杉らに好意的で、このとき、120人ほどの志願兵が馬関会所に来たといい、その後も志願兵は増える一方であったといいます。会所を掌握した後、高杉は18名からなる決死隊を組織して三田尻の海軍局に向かい、「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取。これにより、「高杉蜂起」の知らせは、その日のうちに長州中に広まりました。



このころの村田蔵六は、俗論派にも正義派にも属さず、ただ黙々と萩で藩の兵装を整える事業を推進し、兵学教授に専念していたと思われます。知らせを聞いた蔵六は、下関戦争の後始末で行動を共にした高杉が挙兵したと聞いて内心驚いたでしょう。しかし、藩から高禄をもらって勤務をしていた手前、そのことは億尾にも顔に出しませんでした。

この高杉挙兵の報を受けた俗論派・萩藩庁政府では、すぐに動きがありました。その報復として、野山獄に投獄していた正義派の首脳たちを11名を斬首にします。野山獄で粛清された彼らはのちに萩市の東光寺に慰霊のための墓が建てられ、「福甲子殉難十一烈士」と呼ばれました。

ところが、萩藩政府は、このクーデターを軽く見ていたきらいがあります。十一烈士の処刑があった同日も、視察に来た幕府の3名を受けいれており、何事もなかったように山口城破却の状況を案内しました。山口城は城ではなく館と説明し、破却の仕方も屋根瓦十数枚を落としただけでしたが、巡見使はこれを問題なしとして了承して広島に帰りました。

さらに翌日、もう一人の巡見使が萩に向かい、毛利藩主父子の蟄居状況を視察し、長州が戦争回避条件を満たしていることを確認した上で長州を去りました。12月29日、征長軍総督府は萩へ正式に解兵令を伝え、総督府内の幕臣も広島を離れ江戸へ帰国しました。

幕府軍に内乱が発生していることを知られることなく事が進んだ、とみた俗論派政府は、12月25日になって、ようやく決起した高杉らの討伐を決め、高杉らを「追討」する議案を藩主へ提出しました。

この議案を見た藩主敬親は、一読の後に「追討」を「鎮静」に改めさせたといいます。「そうせい公」と呼ばれた敬親が、議案を自ら変更することは非常にまれであったといいますが、藩候もまた、高杉らのクーデターはたいしたことがない、と考えていたようです。

同日、家老・清水清太郎が切腹に処されました。 清水清太郎は最後に残った正義派家老であり、彼の死により、萩藩政府内の正義派高官はすべていなくなりました。

これを受けて、高杉らが率いる正義派諸隊はついに一戦を覚悟します。元治2年(1865)正月6日夜半、赤間関街道を粛々と進軍し、秋吉台東に位置する「絵堂」に達しました。

この赤間関街道というのは現在、地元山口の人でも、かつての街道とは認識していないようなルートです。瀬戸内海に面する長府付近を発し、北東方面に抜ける間道で、その終点は日本海側の萩になります。

途中、美祢(みね)、大田(おおだ)、絵堂(えどう)、明木(あきらぎ)と辿って、萩に到達しますが、この途中の大田と絵堂がこの紛争の主たる舞台となりました。風光明媚な景勝地として知られる秋吉台・秋芳洞の東にある「美東町」と呼ばれる付近です。ちなみに、奈良の大仏を形成した銅は、ここの長登銅山で産出されました。

萩藩政府は、毛利宣次郎(厚狭毛利家・家老)を諸隊鎮静軍の総奉行に任じ、26日先鋒隊1200名が萩城下を出立し、絵堂を本陣とし、反乱軍を包囲する形で駐屯。後軍1400名が絵堂の北部・明木に本営を構えたほか、1200名が北方の三隅に後詰めとして進軍しました。

対する正義派諸隊の総数は600名ほどだったといわれており、このうち絵堂に進んだのは150とも200とも言われているようですが、明確な記録がありません。が、いずれにせよ、数では圧倒的に藩政府軍が優位でした。このため、この絵堂で1月6日に始まったとされる戦闘では、諸隊が萩政府軍本陣を夜襲して開戦の火蓋が切られたと伝えられています。

この夜襲は成功し、諸隊は絵堂を占領しましたが、ここは防御に向かない地形であり、また数でも劣勢のため放棄して南進し、翌7日には、大田川流域の大田(秋吉台の南東)に出ました。このころまでにはその総数は400ほどまでに増えていたといい、近代兵器を装備した諸隊が、民衆の支援を得て藩政府軍を圧倒します。

結局、大田・絵堂戦役は、正月16日までの10日間も続くことになりますが、高杉が組織した反乱軍諸隊はほとんどの戦闘に勝利しました。またこれに呼応するように、山口南部の小郡(現新山口市駅周辺)でも諸隊が蜂起し、ここを占領するとともに、藩議事堂のある山口をも掌握しました。

さらに三田尻他の各地代官はことごとく俗論派に与した者でしたが、彼らもすぐに恭順し、防長二州においては、萩を除くすべてが正義派である反乱軍諸隊によって掌握されるようになりました。このクーデターにおける、大田・絵堂の戦いを含むすべての争乱で死傷した兵士数は必ずしも明確ではありませんが、彼我ともにかなり過少であったようです。

2月9日、長府藩主の毛利元周らが萩城に登り、藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行いました。元周らは敬親に対し、諸隊の建白書を受け入れて国内の統一を図るべきことを提案。敬親父子がこれを了承したのを受け14日、奇兵隊・八幡隊は萩城周辺を制圧しました。

さらに諸隊が萩南部の明木に侵攻し、海上からは癸亥丸が空砲を撃って示威活動をする中、諸隊が萩城へ入城すると、俗論派の幹部らは逃亡しました。城内と萩市内は非常に混乱したため、敬親候は癸亥丸へ使者を遣わして発砲を止めさたといいます。のち、高杉らは野山獄に囚われた正義派諸氏を釈放しました。

逃亡した俗論派の首魁、椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州(現島根県)等で捉えられ、その後の5月、萩の野山獄において処刑されました。このとき椋梨は、正義派の取り調べに対し「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したといいます。

その他の俗論派の重鎮も順次捕縛・処刑され、ここに俗論派は完全に潰えました。ただ、老若男女を問わない虐殺のような事態は起こりませんでした。高杉ら幹部の戒めも厳しく、略奪・暴行といったことも皆無でした。かつて俗論派が正義派を弾圧したときも同様であり、長州藩が幕末の動乱以降、多くの人材を残すことができたのはこのためです。

2月22日、敬親父子は先祖を祀る霊社に参拝して臨時祭を納め、騒乱の責任を毛利家祖先に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓います。さらに3月17日、敬親は諸隊の総督と長州各支藩の家老を召し、改めて、武備恭順の対幕方針を確定しました。

これにより、長州藩は一丸となって幕府による第二次長州征討へ備えることとなりますが、武備恭順のうちの「恭順」の文字は、その後「反幕」へと変化していきます。

この第二次長州征伐は、幕府軍と長州軍が本格的に砲火を交える熾烈なものとなっていきますが、このとき、長州軍を勝利に導いた立役者は、高杉晋作と村田蔵六でした。

長州を囲む四方の海山から幕府が攻撃を加えたこの戦いでは、第一次長州征伐とは比べ物にならないほどの死傷者を数えることとなります。後年、「四境戦争」とも呼ばれるこの争乱に寄与した蔵六の活躍については、また次項、書きたいと思います。