村田蔵六は、長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられていました。この名は周布政之助が付けたとも、高杉晋作が付けたとも言われています。
高杉晋作は言わずと知れた時代の風雲児。しかし、周布政之助は知らない人が多いと思うので、少し説明しておくと、長州藩「大組」という藩内門閥士族、つまり代々重役を担うエリート家の出です。24歳の若さで、藩の蔵元検使暫役、29歳で政務役に抜擢され、村田清風の後継とみなされました。
村田清風は、下関海峡を通行する西国諸大名の船に新たに税を課すなどの手腕で藩の財政改革を成し遂げた人物で、老齢のために幕末の動乱期前に死没(1855年、73歳没)しましたが、長州がこの時期、幕府に抗うだけの備えを蓄えることができていたのは、彼のおかげであるといっても過言ではないでしょう。
周布は、この村田を尊敬し、これを継いで藩財政の立て直しに力を注ぎましたが、若い頃から議論好きで、嚶鳴社という研究会を主唱し、尊王攘夷思想を持つ仲間をまとめて、「正義派」のリーダーと目されるようになりました。正義派とは尊王攘夷を旨とする輩の集まりで、これに対して幕府に恭順しようとする保守派は、俗論派と呼ばれました。
正義派・俗論派の呼称は、のちにこの周布に擁護される形で討幕を進めていった高杉晋作がつけたものですが、正義派は改革派である晋作らの立場を正論化するためのネーミングです。敵対する俗論派を保守佐幕と決めつけ、なかば彼らを煽る形で藩論を自分たちの都合のよいように形成しようとしました。
清風の改革の時代から、一貫して反対派であった同じく藩の重役「椋梨藤太」が、この俗論派のリーダーであり、保守佐幕の彼らは、ことごとく周布らと対立し、一時期強い権力を掌握して正義派の面々を弾圧しました。
椋梨家は、長州を組成した毛利・小早川家に早くから追従した武家で、代々重臣として登用されてきた家系ですが、この時期は方向性を誤りました。改革の急先鋒となった周布らの行動を理解できず、時代に埋もれていきます。
対する周布家もまた重役を担う家系であり、歴代の当主が家老職を務めてきました。政之助は、父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子(家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子)であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続しました。
若い頃から血気盛んな人物として知られ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けました。椋梨ら保守派とも幾度かの抗争を行い、その都度失脚しますが、持ち前のふんばりで何度も返り咲き、松陰門下の高杉晋作、久坂玄瑞ら、若い藩士たちのよき理解者として、長州藩を尊皇攘夷の雄藩へ押し上げていきました。
藩エリートに生まれたという点では高杉も周布とよく似ています。出自も家格は大組士で、長州では名門で知られる家系でした。父の小忠太は、直目付・学習館御用掛に任じられて長州藩と朝廷・幕府の交渉役を務めたことで知られる人物です。晋作はその跡を継ぎ、将来を嘱望されていましたが、父親にはむかうように討幕へと突き進みました。
この周布政之助は1823年生まれ、高杉晋作は1839年生まれです。境遇や性格が似ていたせいか、16歳も年が違うこの後輩を周布はかわいがりました。一方の村田蔵六は1824年生まれですから、周布と同年齢です。このことから、年少である高杉晋作が年上の蔵六を指して、「火吹き達磨」のあだ名をつけたとするのは少々無理があるかもしれません。
むしろ同年代で、豪放磊落な性格だった周布が遊び心でつけたのではないでしょうか。酒癖が悪かったともいわれますから、何かの酒の席で、村医者あがりの蔵六を多少蔑む意味もあって、こう呼んだのではないかと思われます。
ところで、この「火吹き達磨」とは、いったいなんなのでしょうか。
筆者が調べてみたところ、これは「火吹き玉」とも呼ばれ、昭和初期まで広く一般に使われていたものです。中が空洞の卵型をした金属球で、だいたい銅でつくられています。一か所に孔が明けられた不思議な道具です。
江戸時代のいつのころかわかりませんが、発明されて各家庭で広く普及しましたが、明治大正と各家々から囲炉裏が姿を消して行くに連れて、姿を消して行ってしまいました。使い方としてはまず、これを囲炉裏の炭(熾(おき)火)のそばへ置きます。しばらくすると、中の空気は約2倍に膨張して、一か所に明けられた孔から噴き出していきます。
空気の噴出が落ち着いたところで、火箸で玉をつまみ上げて、水を張った桶の中へ放り込みます。すると、玉の中の膨張していた空気は冷やされて、体積が半分くらいに減ります。その減った分だけ、火吹き達磨の中へ水が吸い込まれます。
そしてこの水をたっぷり吸い込んだ玉を再び火鉢の中の熾火のそばに置きます。しばらくすると、熾火の熱で中の水が沸騰するため、今度は空いた穴の口から勢いよく水蒸気が噴き出ます。
この水蒸気が炭と衝突すると、「水性ガス反応」が起こります。化学式で書くと、水素(H2)と一酸化炭素(CO)が合わさる形です。そして熾火の火が引火すると、このガスは勢い良く燃えあがります。
火吹き玉からの水蒸気の噴出が少なくなってくると、ふたたび火箸でこれをつまみ水の中へ、そしてまた熾火のそばへ……とこれを繰り返します。通常、炭は固形物であるため、なかなか燃え上がりませんが、こうすることで、短時間に強い火力を得ます。これにより、急速に暖をとることができます。
炭は何もしなければ時間をかけてゆっくりと燃え尽きていきますが、こうして人為的に燃やしてやれば瞬間的な暖がとれるわけです。昔人の知恵といえるでしょう。
この金属製の玉には、職人の遊び心でいろいろな彫金が施されていたようです。そのひとつが「達磨」であり、長州ではこれが定番だったので「火吹き達磨」と言う呼び名が定着したようです。
別に金属製である必要はなく、陶器などでも作られていたようですが、耐久性や熱伝導率のために銅製のものが多かったようです。また達磨だけでなく、大黒様の形や鍵、薬缶といったいろいろなものがありました。コレクションにすると将来的に高値がつくお宝になるかもしれません。骨董店で探してみてください。
で、この火吹き達磨に蔵六が似ているということなのですが、生前、彼と面識があり、明治いなって歴史家になった元水戸藩士の鈴木大という人の表現では「人となり、短驅黎面(小柄で色黒)にして、大頭、広額、長眼、大耳、鼻梁高く、双眉濃く、髷を頭頂にいだき、常に粗服半袴をまとい」とあります。
額が広くて、ゲジゲジ眉、しかも身なりには構わない、というところが最大の特徴のようで、維新後に来日したお雇い外国人の一人、エドアルド・キヨッソーネによって描かれた肖像画でも、異様に大きな額の村田蔵六が描かれています。死後に関係者の証言や意見をもとに彼が描いたものですが、元となる写真は発見されていません。
一方、靖国神社に蔵六の銅像がありますが、これもキヨッソーネの肖像画を元に制作されたようです。ただ、こちらは額の大きさはそれほどではなく、眉毛が妙に強調されており、これまた別人のようです。
袴を身につけ、左手に双眼鏡を持っていますが、これは「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とされます。
蔵六には琴子という配偶者がいましたが、二人の間に子はなく、養子をとっています。このため実子から村田蔵六という人物の容貌を推し量ることもできないわけで、現時点ではキヨッソーネが書いた肖像画が唯一彼の顔を知る手立てということになります。
ちなみに、このエドアルド・キヨッソーネとはイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった人物です。
イタリアのアレンツァーノ(ジェノヴァ県)の美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業、特別賞を受賞し教授となったのち、紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造に関わっていました。
来日した理由は、大隈重信が提示した破格の条件(月約1千万)を提示したこともありましたが、当時写真製版技術の発達が進んでおり、彼が得意とする銅版画の技術を生かせる場を求めていたためでもありました。また明治政府にとっても偽造されない精巧な紙幣の製造が課題であり、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めていたためでした。
来日後、当時の大蔵省紙幣局を指導。印紙や政府証券の原版を作成し、日本の紙幣・切手印刷の基礎を築きました。また若い世代に絵画の手ほどきなどもしており、近代日本の美術教育にも尽力したことで知られます。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超えるといいます。
1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与されました。また村田蔵六以外にも、数多くの元勲や皇族の肖像画も残しています。ただ、面識がない人物を描いたことも少なくなく、西郷隆盛の肖像を描いたのも彼です。
良く知られているゲジゲジ眉で丸坊主、という例の西郷の顔は、彼が想像で描いたもので、実際の西郷はもっと細身だったのではないか、という説もあるようです。案外と、今年の大河ドラマの主人公役、鈴木亮平さんくらいの体格だったのでないでしょうか。
村田蔵六もそうですが、西郷もまた生前の写真が残っていなかったため、西郷の縁者でもあった初代印刷局長・得能良介からアドバイスを受けて描いたとされています。ただ、西郷の場合は、実弟の西郷従道と従兄弟の大山巌がこの当時まだ存命であり、彼らをモデルにイメージを作り上げることが可能でした。
このほか、キヨッソーネは、新紙幣の藤原鎌足や和気清麻呂といった古人を描きましたが、前者を描く際には元総理の松方正義、後者の時は木戸孝允をモデルにしたとされます。なお、有名な明治天皇の肖像も彼の手によるものです。皆が良く知るこの肖像は、実際とはかなり異なっており、写真も残っていますが、実際はよりいかつい顔をされています。
キヨッソーネは、雇用期間が終了した1891年(明治24年)には、それまでの功績を認められ、現在価値にしておよそ6~7千万円の退職金(現在に換算)と、年額約3千万円近い終身年金をもらい、さらに勲三等瑞宝章を政府から与えられています。
これらの莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品を購入するのに当てたほか、寄付したといいます。また、彼が収集した美術品は、浮世絵版画3,269点、銅器1,529点、鍔1,442点をはじめとして15,000点余りに上りますが、これら収集品は死後イタリアに送られ、現在はジェノヴァ市立のキオッソーネ東洋美術館に収蔵されています。
キヨッソーネは最期まで日本に留まり、1898年に65歳のとき、東京・麹町の自宅で没、青山霊園に葬られました。独身を通したため、遺言で残された遺産は、すべて残された召使に分配されたそうです。
さて、火吹き達磨の話やらキヨッソーネの話で前段が長くなりました、村田蔵六の話に戻りましょう。
前項では、村田蔵六が江戸から長州藩に戻り、軍事や外交における顧問として重用されるようになるまでについて書いてきました。
ここから長州藩は、討幕に向かい、それこそ火達磨のようになっていくわけですが、対する幕府も長州征討の体制を整え、残る力を絞り出してその火を消そうと躍起になっていきます。
前項でも書きましたが、長州藩としては、激動する情勢に備えて、それまで日本海側の萩においていた藩の中枢を、より山陽筋に近い山口に移し、ここに軍事拠点を作ろうとしていました。これが明治維新からわずか5年前の、1863年(文久3年)のことです。
この年は、尊王攘夷運動が最大にして最後の盛り上がりをみせた年でした。京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返されました。朝廷内においても三条実美や姉小路公知ら尊攘派が朝議を左右するようになり、国事参政と国事寄人の二職が設けられると、二人がこれに登用され実権を握ります。
これに出仕する長州藩士、久坂玄瑞らも朝廷に影響力を持つようになり、諸藩に抜きんでて尊王攘夷を推し進めようとしました。そうした情勢のもと、何者かが足利三代の将軍像の首を切り取る、といった事件が起こり、時の天皇である孝明天皇も、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸する、といった反幕と攘夷への動きが加速します。
ついには、孝明天皇が将軍徳川家茂を宮中に呼び出し、参内した家茂に対し、この年の5月10日を攘夷決行の日とすることを約束させるに至ります。そして、当日になると長州藩はこの定約通り、下関海峡を通る外国船を次々と砲撃。列強もこれに反撃しました。
いわゆる「下関戦争」と呼ばれるこの戦争は、この年・文久3年(1863年)の5月と翌年、文久4年(1864年)の7月の二回にわたって起こり、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊と交戦しました。
長州藩は馬関海峡とも呼ばれる下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取り、列強艦隊が海峡を通過すると砲撃を加えました。
これに対して、列強艦隊は17隻で艦隊を形成して応戦し、その内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員は約5,000の兵力でした。
列強艦隊側は、緒戦でオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が大破するなどの被害を出しましたが、結果としてほとんどが無傷で、一方の長州側は帆船・庚申丸、蒸気艦壬戌丸が沈没、蒸気艦・癸亥丸が大破して壊滅し、アメリカ・フランス艦隊による砲撃によって、下関砲台のほとんどが破壊されました。
この長州藩の暴走に驚いた幕府は、7月8日、外国船への砲撃は慎むよう通告し、16日には詰問使を軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃について長州藩を詰問しました。ところが長州は悪びれるどころか、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として朝陽丸の提供を要求し、拒まれるとこれを強制的に拿捕。さらに詰問士らを殺害しました。
他方、戦闘で惨敗を喫した長州藩は、独自に講和使節を列強艦隊に送り、その使者に高杉晋作を任じます。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていましたが、火急のときということで許され、家老宍戸備前の養子「宍戸刑部」と偽って、列強艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んで談判に臨みました。
このとき、高杉と同行していたのが、ほかならぬ村田蔵六であり、これを機会に彼の名が頻繁に歴史書に出てくることになります。前項で書きましたが、蔵六は、4年前の1860年(万延元年)、長州藩士に取りたてられ、馬廻士に准ずる待遇を受けていました。また下関戦争当時は、手当防禦事務用掛という軍事面での事務掛の仕事をしていました。
8月14日には、その語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、列強との交渉のために下関に出張しており、18日には講和が成立しました。
結果として、長州藩は、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払い、などの5条件を受け入れましたが、ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになりました。
これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能だ、と高杉らが主張したこともありますが、そもそも将軍家茂が先に朝廷に攘夷を約束した、ということもあり、長州藩にしてみれば今回の外国船への攻撃は幕府が諸藩に通達した命令に従ったまでのこと、と押し通しました。
この調停の際にどのように蔵六が活躍したのかはよくわかりませんが、おらくは軍事通として、砲台の処理手続きや諸外国が必要とする軍艦運用のための必需品目のリストアップ、あるいは賠償金の国際レートの計算といった実務をこなしていたのではないでしょうか。
その功績が認められ、26日の外国艦隊退去後すぐの29日には、政務座役事務掛に任命されており、続いて12月9日には、藩校、明倫館から分離され、洋学校として設立された「博習堂」の教授に任命されています。
博習堂は事実上、兵学校であり、蔵六はその後、表だってはここの教授役をしながら、軍備関係の充実に取り組むようになります。しかし、うなぎのぼりに増えていく軍費を調達するのは容易ではなく、そこで彼が取り組んだのは「密貿易」でした。
このころはまだ幕府が治世をしていた時代であり、鎖国の中、諸外国と貿易をするのは当然、重罪です。が、蔵六は幕府には隠密に事を進め、とくにアメリカやフランスと接触して、大量の武器を輸入していたようです。輸入した武器は自藩で使うのは無論のこと、他藩へ流用してその利鞘を稼いでいた形跡も残っています。
先の下関戦争で唯一生き残ったのは、旧式の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸のみですが、この船のボイラーを打ち抜いて沈める、といった乱暴なこともやっています。幕府にはスクラップになったと報告して、フランス商人に引き取らせ、売金にさらに16万両上積みをして36丁もの大砲を装備した新型軍艦を購入したことなどが最近の研究でわかっています。
この壬戌丸はその後、航行可能にして上海に曳航されています。これら一連の裏工作を行ったのがアメリカだったといわれ、その後も、モニター号(Monitor)などの戦艦を何度も下関に派遣して長州に武器弾薬を供給しており、この事実は横浜に居る外国人の間で良く知られたことだったといわれています。
この壬戌丸売買の際には、蔵六自身が密かに上海に渡航していたとされる証拠も見つかっており、たとえばその売買記録の中に彼の記名と押印が残されているといいます。
とまれ、こうした列強艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされるとともに、逆に彼らの手を借りなければ討幕果たせない、いや、むしろうまく利用しよう、と考えるようになっていきます。
下関戦争は軍備の充実の重要さを藩士たちに思い知らせ、その装備に大転換をもたらす大きなきっかけにもなりましたが、戦闘任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する、といった戦術の重要性をも知らしめました。
例えば、下関海峡は両側とも険しい山になっていますが、この戦争では、その地の利を活かすことなく、長州は破れました。
15箇所あった長州藩の砲台は何れも海岸に近い低地に構築され、正面の敵にのみ対応するようになっており、このため複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできず、加えて列強の砲弾がその上の崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注ぎ、慌てふためく、といったこともありました。
また、この戦争で列強艦隊が用いた大砲は砲身内に螺旋を施した、いわゆるライフル砲であり、極めて高い命中精度があったのに対し、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する旧式のものであり、射程も威力も大きな差がありました。
そして、そもそもが力で圧倒的な差異のある列強と戦争を行うための国際的な根回しや、戦後の処理といったことも含めた戦略についても、その未熟さが露呈しました。戦術面でも戦略面でも長州軍のそれは古いばかりではなく、行き当たりばったりのものであることがわかり、幕府と戦うためには、これを近代化する必要性を痛感させられました。
さらには、上陸した諸外国の陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースも殆ど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれます。
戦前、長州藩領内では頻繁に一揆が発生するような状況にあり、下関戦争が勃発したとき、一部の百姓たちは自発的に外国軍隊に協力し、活躍したといわれます。そして、これを見ていた高杉晋作は、彼らは案外と戦争に使える、と考えるようになります。
そして、士分以外の農民、町人から広く募兵することを藩に上申するとともに、下級武士と農民、町人からなる部隊を結成することを思いつき、これを「奇兵隊」と称しました。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの同様に身分が低いものから形成される諸隊も結成されました。
この身分を超えた戦闘部隊の結成を高杉に進言したのが蔵六である、という証拠は何もありません。が、もともとは士分になく、百姓に近い身分で医業を営んでいた蔵六のアイデアを高杉が採用したと考えたとしてもおかしくはありません。
その証拠に、村田蔵六はこの奇兵隊を中心とした混成部隊を軸に、長州藩軍の体制を整えていきます。それはまた、維新後の日本陸軍や海軍へと受け継がれていきました。
こうして、下関戦争を契機に、村田蔵六を軍事顧問に据え、軍備増強を進めていった長州藩ですが、蔵六が列強との交渉のために下関に出張し、列強との講和が成立した8月18日には、会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を京都から追い出す、という、いわゆる「八月十八日の政変」が勃発します。
時の天皇、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、下関戦争を引き起こした長州のような急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や幕府の息のかかかった諸藩が行うべきものと考えていました。
ところが、宮中では、三条実美らの急進派が権力を握っており、「公武合体派」でもあった孝明天皇は、彼らを排除する勢力として島津藩に期待していました。公武合体とは、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする政策ですが、その幕府側の中心は会津藩でした。
会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派はかねてより中川宮朝彦親王を領袖とし、彼の下に朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策しており、8月15日に中川宮が参内して天皇を説得、17日に天皇から密命が下ります。
この令により、京都守護職、松平容保(会津藩主)は自藩の兵1500名を動員し、これに薩摩藩兵150名を加えた部隊は、18日未明に、御所九門の前に分散して警備に立ちました。勅令の主旨は尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等であり、これにより、長州藩はそれまでの担当だった堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなります。
こうして翌19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、京から長州へと下りました。世に言う「七卿落ち」です。
この政変によって、長州藩は朝廷における政治的な主導権を失い、御所内での急進的な攘夷路線は後退しました。しかし、朝廷はなおも攘夷を主張し続け、翌年の1864年(元治元年)には、時代に逆行する横浜港の鎖港の方針を幕府の合意のもと決定しました。
しかし幕府内の対立もあって港の封鎖は実行されず、3月にはその履行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)などの騒動が頻発します。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間では、長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなりました。
長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が論じられましたが、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。
ところが、この年の6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていきました。慎重派の周布政之助、高杉晋作らは藩論の沈静化に努めますが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。
この進発論を支持し、実践部隊を動かしたのが来島又兵衛、真木保臣(和泉)らの重臣であり、これに長州藩に賛同する諸藩の浪士を含めた約1400名の長州藩兵が、19日、御所の西辺である蛤御門(京都市上京区)付近で蜂起します。そして会津・桑名藩兵と衝突、ここに、いわゆる「蛤御門の変」の戦闘が勃発しました。
一時、長州藩兵は、京都御所内に侵入しますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退し、狙撃を受けた来島又兵衛は自決。このとき、松下村塾で高杉晋作とともに松陰に将来を嘱望されていた、久坂玄瑞も朝廷への嘆願を要請するためこの戦闘に参加していましたが、侵入した関白・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の邸宅で自害しました。
帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走。一方の会津勢も長州藩士の隠れ家一帯を攻撃。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。
生き残った兵らはめいめいに落ち延び、負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退。主戦派であった真木和泉も敗残兵と共に天王山に辿り着き、ここに立て籠もりますが、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って爆死しました。
こうして、長州藩はおよそ自爆ともいえる行為によって、より中央から遠ざかっていきましたが、これだけでは終わらず、やがては幕府軍による「長州征伐」によって、藩存続の最大の危機に陥ることになります。
この時期、既に長州藩の軍備の責任者になっていた蔵六がこうした攘夷について、どう考えていたのか、についてはほとんど資料がありません。が、親交のあった福沢諭吉が自伝の中で、師である緒方洪庵について書いているものの中にヒントがあるようです。
洪庵は、文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として大阪を出て、江戸に出仕していますが、その翌年の1863年に享年54で死去しています。福沢は、洪庵が運営していた大阪の適塾に入門しており、先輩塾生だった蔵六とは面識がありました(蔵六より11歳年少で、入門も蔵六より9年あと)。
福沢の自伝によれば、その洪庵の通夜が東京であったとき蔵六と再会し、このとき彼が先の下関戦争について触れ、「あんな奴原にわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのが当然だ。どこまでもやるのだ。」云々の発言をしたと書いており、蔵六がこれほどの過激な攘夷論を吐いたことに驚いています。
これについて福沢は、「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」とも記しています。蔵六自身も後年、この当時は攘夷論者であったことを知人にほのめかしています。
鋳銭司村の藪医者から、藩の軍事顧問的な存在に成りあがったばかりのこの頃の蔵六もまた、沸騰する藩内の攘夷論に飲み込まれ、あるいは酔ったような状態になっていたのかもしれません。
とまれ、この時期の蔵六はまだ時代の表にはほとんど出ず、藩初の洋学校である、博習堂で若い藩士へ黙々と軍学を教授していました。このころの蔵六は40歳前後。東京で暗殺されるのは、このときからあとわずか5年余りのことです(…続く)。