冬至の前に

今年の冬至は12月22日だそうです。

これを聞くと、新年を迎えるまでもなく、これを機になにやら新しく年が改まるような気にもなってきます。なぜなら、この日を過ぎれば、ふたたび日は長くなり、これに合わせて一日一日と明るい気分が増えるような気がしてくるからです。

…と、個人的な感情はさておき、この日は、一年で一番太陽が出ている時間が短くなる日です。江戸時代(天明7年。1787年)に江戸で出版された「暦便覧」では、「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明しています。

太陽が一番南側の軌道を通るので、日がある時間も短くなるんだよ、と端的に説明したもので実にわかりやすい。

冬至以降、太陽はこれよりも北寄りの高い軌道を通ることになり、これにより天空を通る時間も長くなります。最も高い空を太陽が通る場合が「夏至」で、このときの日中の時間は15時間弱に対し、冬至では9時間20分ほどで、5時間半以上の開きがあります。

仮に日没後は何もできなくなるとすると、いかにこの5時間が貴重か、ということになります。無論、現代では電灯というものがあり、何もできなくなるということはありませんが、太古では現代に比べれば活動は大きく制限されたに間違いありません。

もともと人というのは日の出とともに起き、日没とともに寝るという、自然のリズムで生活してきました。

ただし、夜は全く活動しなかったわけでもありません。月が出ている夜は月明りのもと活動することができましたし、火を使うようになってからは、月が出ていない夜でも、何等かの活動ができたはずです。

しかし、それにしても、夜はやはり大半の人々にとっては自宅で静かに過ごす時間帯です。仕事や学校を終えた後が一日の始まりとばかりに、夜遊びにふける人もいるでしょうが、そうした人でも、たいていは夜も半ばを過ぎると睡眠をとる時間帯となります。

日本の場合、電灯など無い時代、夜はまさに闇の世界であり、人々の家のすぐそばまで異界の境は近づいている、とされました。夜はさまざまな魔物や妖怪が出没する時間帯であり、「日本書紀」には、夜は神がつくり、昼は人がつくった、とあります。夜は神の世界でしたから、祭りや神事の多くは、日没から暁にかけて行われたわけです。

この、「夜が怖い」は西洋も同じです。「ヨハネの黙示録」では、夜は、闇と同じく神の救済が届かない、悪の支配領域とされています。また、魔法や魔術は、夜間にその力が発揮されると考えられていることが多く、吸血鬼は夜に活動すると信じられています。また、狼男は満月の夜に狼に変身するという伝承があります。

ギリシア神話の世界では、夜は「ニュクス」という神に支配されていました。原初の時にカオスから生まれた偉大な女神であり、その力たるや神々の王ゼウスも恐れるほどだったといいます。

ニュクスは自分の兄弟にあたる地下の闇 「エレボス」と結婚し、昼の女神「ヘメラ」を産みました。母ニュクスと娘ヘメラは西の果てにある「夜の館」に住んでいますが、一方が帰ってくる時は他方は館から出てゆくので、二人はすれ違うたびに挨拶はかわすものの一緒にいることはけっしてありません。

ニュクスには、エレボスの種によらず、自分だけで子供を産むことができました。このため、数多くの子供たちがおり、そのうちのお気に入りのひとりは、どこにでもニュクスのお供としてついてくる眠りの神「ヒュプノス」でした。また、その双子の兄弟は死の神「タナトス」で、二人はニュクスの夜の館の隣に、ともに居を構えていました。

また、ニュクスの子には、女神「エリス」がおり、彼女から人間の死と苦しみの原因となるあらゆる災いが生まれることになりました。




と、このように夜を支配するものは西洋では「悪」ばかりです。こうした考え方は世界中にあります。日本でも「百鬼夜行」という言葉があるように、夜には、鬼や妖怪の群れ、および、彼らが徘徊し、闇の世界を支配すると考えられていました。

平安時代から室町時代にかけて成立したお伽噺の類ですが、多くの魑魅魍魎(ちみもうりょう)が音をたてながら火をともしてやってきます。さまざまな姿かたちの鬼が歩いている様子などは様々な物語で語られて恐れられ、百鬼夜行に出遭うと死んでしまうといわれていました。

暦のうえで百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」も決められていて、こうした日に貴族などは夜の外出を控えたといわれています。しかし、「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と呪文を唱えると、百鬼夜行の害を避けられるといわれていました。

平安時代後期の歌人、藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」などにも同様の歌は記されており、同様に「かたしはや えかせせくりに くめるさけ てえひあしえひ われえひにけり」と書かれています。

意味不明の暗号のように聞こえますが、これは「難しはや、行か瀬に庫裏に貯める酒、手酔い足酔い、我し来にけり」と漢字交じりで書かれた和歌です。

「百鬼夜行の会に集まれなかったのは、行こうとしたら寺の庫裏に酒が隠されていたのを見つけたからだ。坊主の癖に酒を呑むとはけしからん。それならこの俺様が呑んでやろうということで、手足が動かなくなるくらい飲んで酔っ払ってしまったが、それでもようやくここにやってきたのだ」

という、ある鬼が、宴会に遅れてきた言い訳を歌ったものです。これを呪文のように唱えれば、鬼が仲間だと間違えて、見逃してくれる、ということだったのでしょう。

「宇治拾遺物語昔話」では、様々な様相の鬼たち百人ばかりが火をともしてがやがやと出現する場面がいくつも描写されており、その度に夜の宴が繰り広げられています。鬼というものはよほど酒が好きなのでしょう。

この「宇治拾遺物語昔話」とは、13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集です。ここには、このほか、おとぎ話として我々もよく知る、「こぶとりじいさん」の話も入っています。

百鬼夜行の末、出てきた鬼たちが、正直者と嘘つきの爺さんと繰り広げられる騒動を描いたものですが、もう子供のころのことだから忘れた、という人のために、簡単にあらすじを書いておくと、次のような内容です。

あるところに、頬に大きな瘤の二人の翁が隣どうしで住んでいました。片方は正直で温厚、もう片方は瘤をからかった子供を殴る、蹴るなど乱暴で意地悪でした。ある日の晩、正直な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露すると鬼は、その踊りのうまさに感心して、やれ酒を飲め、ご馳走を食え、と勧めます。

あげくのはてには、翌晩も来て踊るように命じ、もし来なければ容赦はしない。明日絶対ここへ来ざるを得ないよう、預かっておいてやる、とばかりにと翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまいました。

翌日、その話を正直爺さんから聞いた隣の意地悪な翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと考えます。さっそく夜になって、その場所に出かけると、同じように鬼が宴会しています。意地悪翁は張り切って踊り始めますが、正直爺さんの踊りに比べて出鱈目で下手な踊りを披露したので、逆に鬼たちはかんかんに怒ってしまいます。

そして、「ええい、下手くそジジイ! こんな瘤は返してやる。もう二度と来るな」と言って昨日の翁から取り上げた瘤を、意地悪な翁のあいた頬にくっつけると「今日の宴会はもうやめだ」と興ざめして去ってしまいました。

こうして正直な翁は瘤がなくなって清々しますが、意地悪な翁は瘤が二つになり、その後歩くにもものを食べるのにも難儀しながら、一生を過ごしました…



という話ですが、思い出したでしょうか。

実はこの話、その後、日本だけでなく、世界的に広く分布したといいます。アジアでは中国やインドネシアその他で流布され、また、ヨーロッパや北アフリカなどでも広まりました。

しかし、日本に近い東洋では顔のこぶとして伝わりましたが、西洋や中東では背中のこぶとなって伝わりました。

たとえば、中東などのイスラム圏では、公衆浴場に悪魔が宴会をしていて、背中の瘤を取られる、というふうに変わっており、ここではさらに、鬼たちの二回目の宴会は葬式になっていて、そこでふざけた踊りに悪魔が怒り出す、といったふうに翻案されています。

このほか、ヨーロッパでは、有名なドイツのメルヘン集、グリム童話にも類話があります。「小人の贈り物」というタイトルで、これは、ふたりの職人が、旅の途中、丘の上で踊る小人の老人たちに出会うという話です。

ひとりの職人が誘われて一緒に踊っていると、小人の老人にいきなり髪の毛とひげをそられ、あげくのはてに背中の瘤をもぎ取られ、バランスが悪くなるだろう、代わりに石炭を持って行けといわれます。翌朝、老人の目が覚めると、髪もひげも元通りでしたが、瘤はなくなっていました。そして驚いたことに、貰った石炭は純金にかわっていました。

これを聞いたもうひとりの職人は欲を出します。そして、最初の職人に聞いた場所に出かけていき、最初の職人と同様な扱いを受け、用意していた袋にはどっさり石炭を詰めこんで帰ってきます。しかしそれは朝になっても石炭のままで、そられた頭もつるつるのまま、しかも背中にあったこぶがもうひとつふえていた、という話です

ヨーロッパに伝わるこぶとりじいさんの話にはこのほか、最初の者がせっかく取ってもらった瘤を返される、といった変種も存在するようで、鬼と弱者というストーリーはそのままに、微妙に内容がすり替わったものが多いようです。

ところが、こうした海外に伝わるこぶとりじいさんの話は、日本の昔話と違い、鬼や悪魔、あるいは小人が「瘤は大切な物に違いない」と誤解する設定はないといいます。

宇治拾遺物語の話では、翁が「たゞ目はなをばめすともこのこぶはゆるし給候はん」と言っています。つまりは、「目や鼻ならば取ってもいいが、瘤だけは自分にとって大切なものであって、それだけは取らないでほしい」と懇願しています。

それに対し、鬼たちは「かうをしみ申物なり。たゞそれを取べし」とささやきあいます。これは、「これほど惜しむものならば(よほど福をもらすものであろう)、それを取ってしまえ」という意味になります。

これをどう解釈するか、ですが、日本やアジアの諸国では、中国の儒教が伝わった国が多く、儒教において「孝」は最も重要視された徳目の1つであり、古代より顕彰の対象とされました。

孝(こう)とは、子供が自身の親に忠実に従うことを示す道徳概念であり、親から貰った体はどんなものであっても、大事にしなければならない、ということを基本理念としています。そして、孝を守る振舞いである「親孝行」が高く評価され、これを実践する人を「孝子(こうし)」と呼びました。




西洋にはこうした概念はなく、だからといって自分の体を大事にしない、ということはないのでしょうが、中国や日本などのアジア諸国のように、たとえ瘤であっても親から貰った大事なもの、宝物として一生持って暮らすことを徳とする、という考え方は理解しがたいものだったのでしょう。

たとえ瘤とはいえ、自分の体の一部なのだから、どんなものでも大切にしたい、とする考え方は、東洋的なものといえ、こぶとりじいさんの話のエッセンスの部分は世界中広まりましたが、こうした細かい機微までは伝わらなかったのかもしれません。

もっとも、医学的にみると、こぶとりじいさんで描かれている「瘤」は一種の「腫瘍」であり、できるものなら鬼にでも取ってもらったほうがよさそうです。

頬にできる腫瘍ということは、「耳下腺」という唾液が出るリンパ系にできる「多形性腺腫」と解釈できるということで、正常な腺上皮細胞に変異が生じて腫瘍化したものだそうです。

ただ、こうした腫瘍は、いわゆる「良性腫瘍」であることがほとんどなので、「瘤」といわれるほど大きくなっても平気だそうで、腺癌などの悪性腫瘍であったならばここまで大きくなる前に他の臓器に転移してしまうといいます。

気になるならば、病院に行けば取ってもらえるそうで、また、仮に他人の瘤を鬼につけられたとしても、拒絶反応により日時が経過すればそのうち取れる可能性が高いといいます。

しかし、他人にとっては邪魔なものに見えても、自分にとっては大事なものである場合も多いのは確か。顔にあるほくろもえくぼもそのひとつであり、むしろ「愛嬌」とみなされる場合も多いわけであって、無理して取ることはないわけです。なにごとにつけても、自然が一番です。

ほくろに関していえば、さらに、おでこの真ん中や眉毛の中にあるものは、むしろ幸運の印なのだそうで、お金持ちになれるといいます。さらに耳たぶや耳の裏にあるホクロも金運だったり、仕事運が向上する証だといいます。

私には大きな瘤もほくろもありませんが、だからお金持ちにならないのかな~と思ったりもしますが、それはそれでまた別の話。甲斐性がないにすぎません。

さて、年も押し迫ってきました。今年も悪性腫瘍ができたり、悪い病気にもかからなかったのがせめてもの救い。来年も健康であるように祈りましょう。