「サルバトール・ムンディ」は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画で、青いローブをまとった人物の肖像画です。
英語表記は、“Salvator Mundi” で、これは 「世界の救世主」という意味のラテン語です。つまりはイエス・キリストを書いた絵になります。
ダ・ヴィンチの油彩画は現存数が少なく、発見されているだけでも十数点といわれています。描かれたのは1490年から1500年前後の間と推定され、フランスのルイ12世のために描かれたとみられます。後に、イギリス国王、チャールズ1世の手に渡りました
フランスから嫁いだ妻ヘンリエッタ・マリアが英国に持ち込み、寝室に飾っていたのではないか、と考えられています。しかし、チャールズ1世はイングランド内戦(清教徒革命)に破れて公開処刑されてしまいました。
王位とともに絵を引き継いだのが嫡男チャールズ2世(1630~1685)でした。その後バッキンガム公の庶子であるチャールズ・ヒューバート・シェッツフィードの手に渡り、1763年にオークションにかけられたあと、所在がわからなくなっていました。
1900年に久々にその姿を現しますが、この時すでにこの絵にかつての面影はありませんでした。キリストの顔や髪は大きく描き変えられて、弟子のひとり、ベルナルイディノ・ルイニの作品として、英国の絵画コレクター、フランシス・クック卿に売却されました。しかし、翌年にクック卿は亡くなってしまいます。
それからおよそ半世紀経った1958年、クック卿の子孫により、「サルバトール・ムンディ」は、サザビーズのオークションにかけられます。落札価格は45ポンド(現在のレートで約6000円)でした。しかし、落札者は不明で、弟子の絵という評価のまま、絵は再び姿を消します。
更におよそ半世紀を経てダ・ヴィンチが現れたのは2005年。今度はアメリカ・ニューヨークの競売で、アレックス・パリシュら複数の美術専門家が1万ドル足らずで落札し、ようやく本格的な修復と鑑定が始まりました。
修復は2007年からニューヨーク大学の修復師、ダイアン・モデスティーン(Dianne Dwyer Modestini)が手掛け、完成までに6年かかったといわれています。絵画修復に関して優れた技術を持っていたモデスティーンは、何世紀にもわたって塗り重ねられてきたやワニスや加筆された絵具を徐々に剥がしていきました。
それは神経をすり減らす作業でしたが、修復を始めた当初、彼女はこれはきっと偽物に違いない、と思っていたそうです。「サルバトール・ムンディ」が描かれたルネッサンス時代とその後には同じような絵画が、他のアーティストによって何度もコピーされていたからです。
しかし、修復が進むにつれ、彼女は、この絵が「非常に激しい」ものを持っていると感じるようになったといいます。そして、描いた人物の芸術性と天性に気付き、そこに修復師としての彼女がそれまでに経験したことのないような世界を感じるようになりました。
さらに修復が進むにつれ、もしかしたらこれはダ・ヴィンチの絵かも知れないと思いはじめ、もしそうだとするとこの絵の価値は計り知れないと思うようになると、修復を進める手が震えたといいます。
こうして修復が終わった絵は、専門家の鑑定でダ・ヴィンチの作品だと結論づけられました。
それにしても、なぜこの絵が本物とわかったのか。
ダ・ヴィンチは仕事がゆっくりで作品をなかなか完成させなかったそうです。その理由を、ロンドンのナショナルギャラリーで、同じダ・ヴィンチ作の「岩窟の聖母」の修復作業を行った修復家はこう語っています。
「ダ・ヴィンチは常に表現の可能性を探っていたため、彼の絵にはあちこちに修正の跡が見て取れる」
パリのルーブル美術館にある「モナ・リザ」のミステリアスな微笑みは、ダ・ヴィンチの優れた技術が生み出したものであり、色を薄く塗り重ねていく手法により幻想的な光を表現しています。これらダ・ヴィンチ特有の筆遣いは、ニューヨークで発見された「サルバトール・ムンディ」にも共通するものでした。
さらに赤外線を使った鑑定で、下絵に試行錯誤の跡が見つかり、作品が本物である可能性は決定づけられました。こうしてダ・ヴィンチの幻の名画として再びこの世によみがえることとなりました。
改めて絵をみてみると、ダ・ヴィンチの肖像画作品によく見られる細部まで描き込まれた手の描写が確認できます。また、何度も塗り重ねられたと思われる顔の輪郭などから、描かれたキリストの存在感を感じさせる作品となっています。
右手はキリスト教で祝福を与えるポーズで左手にはキリスト教で生命を表す水晶を持っています。これはキリストの再誕と復活を意味するものです。
しかし、本物の水晶を見たことがある人は、この絵に違和感を覚えます。なぜなら、通常このような水晶玉を持った場合、玉の中の光が屈折し映し出されたものは反転するはずで、このようなスカスカした透明の状態になるはずがないからです。
何やら単なる水の玉を持っていると思えるほどに水晶玉感はなく、違和感が残ります。科学に精通していたダ・ヴィンチがこのような表現をするとは思えない、という学者もおり、何等かのメッセージではないかとも言われています。が、その謎解きは始まったばかりです。
2011年、これを含めたダ・ヴィンチの作品11点がロンドンのナショナル・ギャラリーに集められた際に公開され、大きな注目を集めました。ここからその価値が年を追うごとに上がっていきます。
2013年に競売大手サザビーズのオークションでスイス人美術商イブ・ブービエに8000万ドル(約90億円)で落札された後、ロシア人の富豪でサッカー・フランス・リーグASモナコの会長を務めるドミトリー・リボロフレフ氏が1億2750万ドル(約140億円)で買い取りました。
90億円のものをそれ以上の額で転売したことになり、この買い取り額について、後にリボロフレフは詐欺として売り手のイブ・ブービエを訴えています。
そういいつつも、ドミトリー・リボロフレフは今年11月15日にクリスティーズのオークションにこれを出品しました。その結果、手数料を含めて4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円)で落札されました。買値の3倍以上であり、イブ・ブービエに対する訴訟はなんだったのか、と突っ込みたくなります。
この金額はパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョンO(オー);ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワ作品のオマージュで、「A」から「O」までの合計15作品の連作となる)の1億7940万ドル(約200億円)の2倍以上となり、これまでの美術品の落札価格としては史上最高額でした。
買い取ったのは、UAE(アラブ首長国連邦(首都アブダビ)の新しい美術館、ルーブル・アブダ。フランスのルーブル美術館で初となる海外別館で、2007年、フランス両国の政府間協定によって誕生しました。
協定は「ルーブル」の名前を30年間使用できること、常設コレクションの増加に伴い徐々に減少させるのなら、フランス機関の芸術作品を10年間借用することができること、また仮設展示については15年間にわたって協力する、といった内容でした。
「ヤシの木からの木漏れ日」をモチーフにしたこの美術館のデザインは、世界的なフランスの建築家によるもので、幾何学模様で装飾されたドーム型の建物は6000平方メートルあり、ギャラリー、展示場、幼児向けの子ども美術館、調査センター、レストラン、ブティック、カフェを備えており、ピカソやゴッホなどおよそ900点の作品が展示されています。
一般公開されたついこのあいだの11月11日には、多くの観光客が訪れ、用意された5,000枚のチケットは完売したといいます。展示作品は世界中の文明に由来するもので、その一部は、フランスの主要美術機関13カ所から借り受けた作品300点とともに展示されました。
この開館から約1ヶ月後の2017年12月9日、アブダビの文化観光局は、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「サルバトール・ムンディ」を獲得したと発表しました。現在、ダ・ヴィンチのもう1つの傑作でルーブル美術館から借り受けている「ミラノの貴婦人の肖像」とともに、「過去100年で最高級の美術的再発見」と銘打ち、展示されているようです。
美術館は、2017年12月21日開幕するオープン特別展の準備も進めています。展示会では重要な絵画、彫刻、装飾美術、その他の作品約150点が展示される予定ですが、その大半はルーブル美術館のコレクションで、ベルサイユ宮殿からのものもあるといいます。
無論、この特別展の展示物よりも常設展示場にある「サルバトール・ムンディ」のほうが人気が集まるに違いありません。
それにしても、この絵がいつ描かれたか、なぜこうした絵になったのかについては、専門家も首をかしげているようです。それをひも解くためにも、少し、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を辿ってみましょう。
ダ・ヴィンチは1452年4月15日に、ヴィンチに生まれました。イタリア北西部、トスカーナ地方を流れ地中海に注ぐアルノ川下流に位置する村で、フィレンツェ共和国に属していました。
当時フィレンツェはメジチ家が実質的な支配者として君臨し、その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援していました。
ダ・ヴィンチの幼少期についてはほとんど伝わっていません。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、5才からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごしたことぐらいしかわかっていません。
1466年に、14歳だったダ・ヴィンチは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家「ヴェロッキオ」に弟子入りしました。そしてこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せはじめます。
彼の才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいました。そして、20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ています。
ダ・ヴィンチが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなくまた医学も対象としたギルドでした。その後、父親セル・ピエロが自宅にダ・ヴィンチに工房を与えてヴェロッキオから独立させましたが、彼はヴェロッキオとの協業関係を継続していきました。
しかし1478年、26歳になった彼は、ヴェロッキオとの共同制作を中止します。そしてフィレンツェの父親の家からも出て行ったと思われます。この年、最初の独立した絵画制作の依頼を受けました。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、さらにサン・ドナート・スコペート修道院からも、「東方三博士の礼拝」の制作依頼も受けます。
しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置されました。「東方三博士の礼拝」もダ・ヴィンチがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっています。
その後、1482年から1499年まで、ダ・ヴィンチは「ミラノ公国」で活動しました。フィレンツェのさらに北部に位置し、現在のスイスとの国境にあった国で、フィレンツェとは同盟関係にありました。
現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する「岩窟の聖母」は、1483年にこのミラノにおいて、「無原罪の御宿り信心会」からの依頼でダ・ヴィンチが描いたものです。また、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のかの有名な壁画「最後の晩餐(作画1495-1498年と推定)」も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品として知られています。
ダ・ヴィンチはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられていました。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などなどです。
1502年にダ・ヴィンチはイタリア北部の海岸沿いにある街、チェゼーナを訪れました。ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアが治めていた街で、ここで軍事技術者として働くようになり、チェーザレとともにイタリア中を行脚しました。
また、チェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作しました。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはダ・ヴィンチのまったく新しい概念が導入されていたといいます。しかしこの滞在は短く、その翌年ころには再びフィレンツェに戻り、1508年に芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入しています。
チェゼーナでの滞在は短かいものでしたが、この間、かの有名な「モナ・リザ」も描かれたと考えられています。おそらくその制作を開始したのは1503年か1504年と推定されており、しかし、この作品もまた未完成のまま終わったのではないか、とする説が根強くあります。
ダ・ヴィンチと同時代人のジョルジョ・ヴァザーリは「ダ・ヴィンチはモナ・リザ制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と記しているほか、後年の鑑定家なども晩年の彼はただの1作も完成させることができなかったのではないか、としています。
「サルバトール・ムンディ(救世主)」が描かれたのも、この時期か、あるいは、これより以前、フィレンツェを出たのちミラノへと向かい、またイタリア中を行脚していた間かと思われます。1490年から1500年前後ということになり、多くの鑑定家がそう考えているようですが、「モナ・リザ」のように作成年が絞り込まれているわけではありません。
それにしてもこの絵、不思議な絵です。言うまでもなく男性であるキリスト像を描いているわけですが、どこか中性的であり違和感がある。女性と言われればそんな気もしてくるようであり、どこかホモセクシュアルの臭いを感じるのは私だけでないでしょう。
実は、ダ・ヴィンチはそうだったのではないか、とする憶測もあり、そうした噂が出るのは、1476年のフィレンツェの裁判記録があり、そこに、彼が他3名の青年とともに同性愛の容疑をかけられたが放免された、と記されているからです。
この青年たちが誰だったのか、どういう人物だったのかは詳しくはわかりません。が、ダ・ヴィンチは若い頃から多くの若者に囲まれており、数人の内弟子を持っていたことが知られています。そしてその一人が「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティです。
サライがダ・ヴィンチの邸宅に住み込みの徒弟としてダ・ヴィンチに入門したのは10歳のときで、1490年のことでした。画家としてはアンドレア・サライ (Andrea Salai) いう名前で活動し、その後、ダ・ヴィンチが死去する直前まで生活を共にしました。
サライは1480年にピエトロ・ディ・ジョヴァンニの息子として生まれました。ピエトロは、ミランのポルタ・ヴェルチェッリーナ近郊に、ダ・ヴィンチが所有していたワイン畑で働いていた人物です。
その縁があってダ・ヴィンチに入門したと考えられていますがが、素行が悪く、その後1年足らずでダ・ヴィンチの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだといわれています。
サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充てるだけでなく、日ごろから素行が悪かったようで、ダ・ヴィンチは彼の不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」とののしっていたといいます。しかしながらダ・ヴィンチはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせています。
アンドレア・サライという名で多くの絵画を描くことができたのもそのおかげであり、実際、ダ・ヴィンチはサライに対し、自分が持っている多大なスキルを教えたようです。
ところが、その関係は単なる師弟のそれを超えていたのではないか、とする説があります。その一つの傍証として、ダ・ヴィンチと同じルネッサンス期のイタリア人芸術家、美術史家ジョルジョ・ヴァザーリが、その著書でサライについて「優雅で美しい若者で、ダ・ヴィンチは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記していることなどがあげられます。
また、ダ・ヴィンチは、ロンバルディアの貴族の子弟フランチェスコ・メルツィという若者も弟子にしています。メルツィはその後、ダ・ヴィンチの秘書兼主席助手のような存在となりますが、ヴァザーリはメルツィについても「当時のダ・ヴィンチがもっとも愛した美しい若者」と記しています。
しかし、交友関係以外のこうしたダ・ヴィンチの私生活に関しての資料は少なく、謎に包まれています。そのためもあり、ダ・ヴィンチの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっています。
最初にダ・ヴィンチの性的嗜好が話題になったのは彼の死後50年ほども経った、16世紀半ばのことでした。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でも有名なのは、心理学で有名なジークムント・フロイト(1856-1839)が唱えた説です。
それによれば、ダ・ヴィンチともっとも親密な関係を築いたのは、弟子のサライとメルツィのふたりです。フロイトによれば、とくにメルツィとは親密で、ダ・ヴィンチの死を知らせる書簡をダ・ヴィンチの兄弟に送ったのも彼です。その書簡にはダ・ヴィンチがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていたといいます。
上のとおり、1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったダ・ヴィンチ他3名の青年が、同性愛の容疑をかけられたという記録がありますが、実はこの3人の正体とは「男娼」ではなかったか、とする説も、こうした中から出てきました。支払か何かをめぐり、ダ・ヴィンチと彼らが揉め事を起こして記録に残ったのではないかとする説です。
この件でダ・ヴィンチは証拠不十分で放免されていますが、その後容疑者である青年の一人の素性が明らかになりました。フィレンツェの支配者でメディチ家の実力者、そしてダ・ヴィンチを庇護していたロレンツォ・デ・メディチの縁者であるということが判明し、このことから、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかといわれています。
こうしたことから、ダ・ヴィンチに同性愛者の傾向があったのではないか、とする説は根強く、「サルバトール・ムンディ」以外にも、「洗礼者ヨハネ」や「バッカス」といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいます。
とまれ憶測にすぎません。たとえそうだったとしても、ダ・ヴィンチの数々の功績を汚すものではありません。
その晩年の1513年9月から1516年にかけて、ダ・ヴィンチはイタリア中部、ヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿で多くのときを過ごしています。
さらにこののち、フランソワ1世によってフランスに招かれ、王の居城アンボワーズ城近くのクロ・リュセ城(通称クルーの館)を邸宅として与えられました。ダ・ヴィンチは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィら弟子や友人たちとともにここで過ごしました。
そして1519年5月2日にダ・ヴィンチはで死去しました。67歳没。フランソワ1世とは最後まで緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも彼がフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記しています。
ダ・ヴィンチは最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受け、敬虔深いクリスチャンとして最後を遂げたようです。ヴァザーリはまた、ダ・ヴィンチの遺言に従って、60名の貧者が彼の葬列に参加したと書いています。
ダ・ヴィンチの主たる相続人兼遺言執行者は一番弟子のフランチェスコ・メルツィでした。彼は金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続しました。ダ・ヴィンチはまた、自身の兄弟たちには土地を与え、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺したといいます。
彼の遺体は、ロワール川を見渡す岬に建アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬されました。アンボワーズ城は、シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らヴァロワ朝の国王が過ごした城です。フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せたクロ・リュセ城はすぐ近くにあります。
ダ・ヴィンチが亡くなったあと、メルツィはイタリアに戻って結婚し、8人の子供を設けましたが、1570年ころに70代後半で亡くなったとされています。彼はダ・ヴィンチが残した絵のうち、未完成のまま残っていたものを補修もしくは加筆し、完成させたともいわれています。
また、もう一人の愛弟子、サライはダ・ヴィンチの生前の1518年に彼のもとを去り、フランスを後にしました。ミラノに戻ったサライは、父ピエトロが働いていたダ・ヴィンチ所有のワイン畑で芸術活動を続けました。その翌年の1519年にダ・ヴィンチが死去したときに、このワイン畑の半分を遺言によってサライが相続しています。
また、サライは遺産としてワイン畑だけではなく「モナ・リザ」など複数の絵画作品も同時に相続したと考えられています。サライが相続したこれらの絵画作品の多くは、後に彼を看取ったとされるフランス王フランソワ1世の所有となりました。その中に「サルバトール・ムンディ」もあったに違いありません。
サライは1523年6月14日に、43歳でビアンカ・コロディローリ・ダンノと結婚しました。しかし、結婚した翌年に決闘で負った矢傷がもとで死去し、1524年3月10日にミラノで埋葬されています。