八幡宮

先日、東京の深川で事件がありました。

富岡八幡宮という神社での惨事でしたが、ここ修善寺にも八幡宮があるので、今日はそのことから書き始めましょう。

「横瀬八幡神社」といい、主神は八幡様ですが、鎌倉二代将軍頼家公も祀られています。修善寺温泉街の中心部には、頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した「指月殿」と呼ばれる経堂があるほか、頼家の墓所もありますが、この神社は温泉街の賑わいとはほど遠い、狩野川に近い場所にあります。

というのも、当社は旧修善寺村の氏神として古来より地元住民を中心に厚く尊崇されてきた経緯があり、むしろ外来の入浴客が集中する温泉街を避けて建てられたようなきらいがあります。

ひっそりと静かで、落ち着いた佇まいの神社です。以前はうっそうとした樹木に囲まれて社殿がほとんど見えなかったのですが、最近すぐそばの道路の整備事業に伴って大幅な再整備が行われ、樹木が伐採されて開放的になり、鳥居も新築されて見違えるようになりました。

おそらくは市の観光協会の肝いりで大規模なリニューアルが行われたのではないかと思われますが、鎌倉源氏由来の神様ということで今後人気が出てくるのではないでしょうか。みなさんも修善寺に来られたら一度訪れてみてください。

ところで、今回の深川の事件で、そもそもこの八幡宮とは何か、が気になったので調べてみる気になりました。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられ、農耕神あるいは海の神とされていたようです。

が、付近の豪族を平定することで拡大した邪馬台国があったとされる北九州の地にあり、武具を鍛えることも盛んであったと考えられることから、祖神は鍛冶の神ではなかったか、と考察する学者もいるようです。

欽明天皇(539-571年)の時代に大神比義(おおがのひき)という地元の有力者らしい人物によって祀られたと伝えられます。

宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、この地に鍛冶翁(かじおう)と名乗る神が降り立ち、これを見て驚いた大神比義が祈ると、その姿は突然三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂なり、護国霊験の大菩薩として敬え」と託宣されたといいます。

同社伝によれば、譽田天皇とは、「応神天皇」の諱であり、このとき初めて八幡神社の祖である神霊としてあらわれて、宇佐の地にその力を示顕するようになったと伝わっています。以後、宇佐八幡宮はこの応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神(ひめがみ)、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀るようになりました。

ここで、比売神とは、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものです。神社の祭神を示すときに、主祭神と並んでこの比売神を祀ることが多いようで、ファーストレディーのようなものです。別に比売大神、比咩神、姫大神などとも書かれます。

その後約2世紀を経た天平勝宝元年(749年)、時の天皇である「聖武天皇」が国教である仏教のシンボルとして、奈良の大仏を建設することになったとき、宇佐八幡神は一人の禰宜として「尼」を派遣しました。

彼女は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、大仏殿の建築を助けたといわれますが、このように神社でありながら尼を派遣したという記録が残っていることから、神道は早くから仏教と習合していたことがわかります。

この時代、仏教政策を巡り、朝廷内には民衆への仏教の布教を重視する路線と、神道を中心として国家の鎮護を優先する路線の対立がありました。

聖武天皇やその娘である孝謙天皇(称徳天皇)、そして宇佐八幡宮の宮司は、その両者をとりもち、仏教と神道の両方を尊ぶことを提唱しており、仏教の守護神として八幡宮の神を位置づけていこうとしていました。

ところが、その推進運動の中心人物、聖武天皇が亡くなり、子がなかったためその血統は絶えます。そしてこの聖武天皇の葬儀から29周年にあたる天応元年(781年)の命日に八幡神が「出家」する形で、「八幡大菩薩」の号が贈られます。

これは、当時の朝廷が聖武天皇が没後に八幡神と結合したと考えることでその祟りを防ごうとしたものと考えられます。と同時に八幡神に菩薩号を与えて聖武天皇が深く信仰していた仏教の守護神とすることで、神仏習合を推進しようとしたのでしょう。

従って宇佐八幡宮のオリジナルの主神は応神天皇ですが、のちにこれに聖武天皇が合わさり、仏教の守護神として合祀されたものが八幡神ということになります。そしてその称号にはそれまで神道では使われなかった「大菩薩」が使われるようになっていきました。




その後、武家が台頭してくると、彼らはこぞってこの「八幡大菩薩」を崇拝するようになります。源頼朝は奥州征伐の際、陸奥国胆沢郡胆沢(現在の岩手県奥州市)にある鎮守府八幡宮へ参詣しています(1186年頃)。その理由はこの八幡宮が、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に勧進され、弓箭や鞭などが納められて武道の神として祀られていたためです。

坂上田村麻呂は桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、夷賊(蝦夷・北海道の民)の討伏をしたことで知られます。戦功によって昇進し、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられており、武家としては初めて最高位の官位を得た人物です。

田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられ、他にも富士山本宮浅間大社を創建したことで知られています。

のちに平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望んでおり、このころの朝廷もまたこれに応え、坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍の称号を吉例として頼朝に与えました。

以降、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府の体制が固まり、これは江戸幕府まで675年間にわたって続きました。

頼朝がこの坂上田村麻呂にあやかり八幡神を崇拝したのは上の通りですが、これ以前にも同じ源家で頼朝の祖先にあたる源頼義が、「壺井八幡宮」を河内の地(大阪府羽曳野市壷井)に建立しており(1064年)、いわゆる河内源氏の氏神としていました。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗っています。

さらに遡ると、関東でその勢力を伸ばした平将門も、上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩の名のもとに「新皇」の地位を保証されています(939年)。

このように八幡神は、平家、源家などの武士から敬われてきましたが、武家が守護神として八幡神を奉ずるようになったその理由は、それまでの王朝的秩序から固定化しつつあった皇室神道から武家を解放させたいがためであり、八幡宮によって天照大神とは異なる世界を創りたい、という大きな目的があったためです。

とくに平安後期以降は、伊勢神宮をはじめとする歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い神社と八幡宮は一線を画すようになり、武家といえば八幡宮、ということになっていきました。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として進んで自分の領内に勧請するようになりました。

以降、武神として多くの武将が八幡宮を崇敬するようになっていきますが、さらに室町幕府が樹立されると、足利将軍家は三代で途絶えた鎌倉幕府による源氏復興の主旨から(足利氏の本姓は源氏)、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めました。

ちなみに、足利家は、鎌倉時代は源家の遠縁として浅からぬ縁があり、室町幕府を開いた足利尊氏の祖先の「源義家(1039-1106)」は、別名「八幡太郎」の通称でも知られます。山城国(現奈良県)の「石清水八幡宮」で元服したことから八幡太郎と称しました。

また、そのこととは直接関係ありませが、治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が、富士川の戦いを前に源義経と感激の対面を果たしたとき、二人が再開したのが、現在の静岡県駿東郡清水町に造営されていた「黄瀬川八幡宮」です。

こうしたことからも、とくに源家の八幡宮への篤い崇拝ぶりがうかがえますが、さらに頼朝の奥州討伐では「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗が用いられたといいます。

その後の時代の覇者、豊臣秀吉もまた八幡宮を崇拝しました。死後に国家鎮護のために自己を「新八幡」として祀ることを命じたほどで、京都東山方広寺の鎮守として八幡宮を建設することを遺言したといいます。

ただし、秀吉が死後に祭られたのは方広寺ではなく豊国神社であり、称号も「新八幡」ではなく、後陽成天皇の神号下賜により「豊国大明神」となりました。

こうして鎌倉時代以降、室町・安土桃山(戦国)・江戸とそれぞれの時代で八幡宮は武家の神様として奉られることが次第にさかんになっていきますが、そこでは主神を「八幡大菩薩」と呼び、これは前述のとおり、神仏が習合したものでした。

ところが、幕末に維新が起こったあと、明治政府は「神仏分離令」を出します(明治元年(1868年))。寺社を分離することによって、租税(税金)をより収集しやすくすることが主目的でしたが、これによって、全国の八幡宮は寺から完全分離され、神社へと改組されることになりました。

それまでは同じ境内にあった「神宮寺」は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去されるところとなり、また江戸時代まで長らく使われてきた仏教的神号の「八幡大菩薩」の呼称は明治政府によって禁止されるようになりました。

しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残りました。昭和に入ってからも、第二次世界大戦末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられたり、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を名乗った部隊もありました。また、航空機搭乗員、特に特攻隊員にとっては「武士の神様」としての八幡大菩薩は人気があり、信仰を集めていました。

1944年に製作された、航空機搭乗員を描いた映画「雷撃隊出動」の中でも、出撃の際に八幡大菩薩の旗を振るシーンが見られるほどで、こうした八幡大菩薩信仰は今日まで続いています。このため、現在、全国にあるいくつかの八幡宮では、希望する参拝者に「八幡大菩薩」の墨書きのご朱印を授与しています。

とはいえ、江戸時代までとは異なり、現代では表だって八幡大菩薩が祀られることはずいぶんと少なくなりました。八幡様といえばその主神は、太古の昔に戻って応神天皇(誉田別命)であり、多くの神社の由来書きにもそう書かれている場合が多いようです。

この「八幡神」を祀る八幡宮の呼称は色々で、八幡神社、八幡社、八幡さま、若宮神社、などと呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われます(若宮は「八幡宮の若宮(嗣子)」の意)。その数は稲荷神社に次いで全国2位ですが、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位であって、その数は7817社もあるそうです。

しかし、現在でもこれらの八幡神社の総本社は大分県宇佐市にある、宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。このほかにもある大きな八幡宮を併せて俗に「三大八幡」と呼ばれることが多いようですが、これは「宇佐・石清水」「筥崎・鶴岡」に加え、以下の4社のうちのいずれかを合わせた3社とされることが多いようです。

宇佐神宮(大分県宇佐市) – 官幣大社
石清水八幡宮(京都府八幡市) – 官幣大社
筥崎宮(はこざきぐう・福岡県福岡市東区) – 官幣大社
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) – 国幣中社

ただ、幕末の1868年(慶応4年)に太政官通達に示されていた八幡宮3社は「宇佐・石清水・筥崎」だったそうで、上の通り、官社格でもこの3社が「幣大社(朝廷、国から指定される)」で並んでいます。

これに対して鶴岡八幡宮は「国幣中社」となっており、一ランク下です。ところが、近年発行された書籍中では「宇佐・石清水・鶴岡」が八幡神社の代表例とされることが多いようで、鶴岡八幡宮の知名度が上がっており、筥崎宮の最大のライバルになっています。

これは鶴岡は鎌倉にあり、人口の多い関東に位置するため、参拝者も多いことと関係があるでしょう。筥崎宮は九州で知名度が高いものの、やはり関東地方の人には馴染みが薄く、知っている八幡宮は?と聞かれれば鶴岡八幡の名をあげる人の方が多いようです。




ところで、先日事件のあった富岡八幡宮は、無論これらの中には入っていません。ましてや近代社格制度では国幣中社、その下の官幣小社、国幣小社にも入っていません。

ただ、明治維新直後の社格は、「准勅祭社」とされています。勅祭社(ちょくさいしゃ)は、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる神社のことで、「准勅祭社」とは、維新後に明治天皇が、東京近郊の主だった神社をこれと定めて東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としたものです。

当初は12社(日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所宮・鷲宮神社)でした。

しかし、1870年(明治3年)には廃止され、准勅祭社の制度は一時的なもので終わり、同制度の廃止後は記載がない府社とされました。

ただ、皇室の尊崇は受け続け、そのまま約100年が経ちました。1975年(昭和50年)、昭和天皇が即位50年となったため、その奉祝事業を関係神社が協議して行うことになりました。このとき、かつての准勅祭社から遠隔の府中市の六所宮と埼玉県久喜市の鷲宮神社を外し、観光的な要素を濃くした「東京十社」として指名し、現在に至っています。

何か大きな行事があると皇室がここを訪問するのは、これらの准勅祭社がもともと明治天皇により指定されたためです。この十社を決めたのも、昭和天皇即位50年を奉祝して関係神社が協議を行った結果、という経緯があります。

現在でも、この昭和天皇即位50周年に行われた「東京十社巡り」が各種観光団体などで継続されており、23区内にある「東京十社」を巡るとともに、これらの神社にある七福神巡りなども合わせて行われています。

その一つである富岡八幡宮は、江戸時代には最大の八幡宮であり、これは、八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受けていたためです。とくに、三代将軍家光の命により、 長男家綱の世継ぎ祝賀を行うことになり、その時に指定されたのがこの神社で、その祭礼が現在の「 深川八幡祭り 」として継承されています。

そもそもは1627年(寛永4年)、「長盛法印」という僧侶が、かつて江東区に存在した「砂町(現在の北砂、南砂、新砂、東砂にあたる)にあった「砂村八幡」を移す形で、創建しました。当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより6万坪以上の社有地があったといい、広く美麗な庭園は江戸庶民の人気の名所であったそうです。

ただ、当初は外に出ると江戸時代のこの地はほとんどが葦が茂る沼地でした。いわゆる「深川」と呼ばれるこの地域は、皇居の東を流れる隅田川左岸側(東側)一帯を指し、摂津国(現・大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が一帯の開拓を行ったことに由来します。江戸初期には漁師町だったことからもわかるように、すぐそばまで海が迫っていました。

明暦の大火(1657)以降に開発され、万治2年(1659)に両国橋が架けられたことで急速に都市化し、永代寺(現・江東区富岡)の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて岡場所(遊郭)ができ、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れる地域となり、「門前町」として発展していきました。

現在では、通称「門仲(もんなか)」と呼ばれるこの地域は、地名改正以前、「深川永代寺門前仲町」とも呼ばれていましたが、1969年住居表示を実施し、深川門前仲町から現在の正式名称「門前仲町」に町名変更を行っています。

江戸時代には多くの著名人が多く住んでいたことで知られます。材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構えていたほか、曲亭馬琴もここで生まれ、松尾芭蕉が住み、勝海舟もここで青年期までを過ごしました。海舟の妻、民子は元深川の芸者だったといわれています。

大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行が富岡八幡宮の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会議を開いたと伝えられます。

また、測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため、この富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたといいます。このことから、2001年(平成13年)に当社の境内に銅像が建立されました。

毎年8月15日に富岡八幡宮を中心に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つに数えられ、「わっしょい、わっしょい」の伝統的な掛け声とともに沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられます。このため別名「水かけ祭り」と称されて親しまれています。

三年に一度、当八幡宮の御鳳輦(ごほうれん・金銅の鳳凰を飾りつけた輿)が渡御を行う年は「本祭り」と呼ばれ、各町の大人神輿50数基が勢ぞろいして連合渡御(れんごうとぎょ)が行われます。上述のとおり、三代将軍家光の長男、家綱が誕生したことを祝う祝賀行事の名残で、江戸城まで神輿を担いでいったのが始まりといわれています。




また富岡八幡宮の名物といえば、江戸勧進相撲があります。

勧進相撲(かんじんすもう)とは、現在の大相撲の源流となる相撲の形態の一つで、富岡八幡宮はその発祥の神社であるとされています。

その起源ですが、戦国時代の日本において、貴族の都落ちに従って京都の文化が全国に広がり、「土地相撲」もそのひとつでした。やがて、この土地相撲を本職として巡業などで生計を立てる相撲人が現れるようになるほど流行しましたが、その一方で、神社の祭礼にはこの土地相撲を真似た「神事相撲」も多く行われるようになりました。

神社仏閣の建築修復の資金調達のための興行のことを「勧進」といいますが、これにあやかり、「「神事相撲」も、やがて「勧進相撲」と名前を変え、資金集めのために行われるようになっていきます。もともとは「寄付」という形をとるボランティア活動でしたが、長い年月の間には営利目的の興行として行われることが常態化していきました。

文禄・慶長の頃(1600年前後)までには主として上方で、盛んにこの勧進相撲の巡業が行われるようになりましたが、その後浪人、侠客が出入りして始終喧嘩が絶えない事態になり、各地で勧進相撲は禁止されるようになりました。江戸幕府は慶安元年(1648年)に「風紀を乱す」という理由で勧進相撲禁止令を出しています。

しかし、のど元過ぎれば…で、その後数十年を経てふたたびおおっぴらに行われるようになり、とくに京都などで「京都相撲」と銘打ち、実質は勧進相撲である興業が堂々と行なわれるようになりました。これに対し、江戸ではお上の取り締まりも厳しく、街中での興行(辻相撲)はまだ禁じられていました。

ところが、寺社の境内などの興業は幕府の目も届きにくく、ここでこそこそと勧進相撲が再開されるようになります。これに気付いた江戸幕府は、慶応年間以前のトラブルの再現を危惧し、その対策としてこのころから「寺社奉行」を置くようになります。以降、江戸相撲の興行の届け出先もそれまでの町奉行から寺社奉行に移動しました。

この寺社奉行により、勧進相撲の開催はかなりコントロールされるようになりましたが、その後、徳川吉宗の時代に入り、寛保2年(1742年)には江戸で勧進興行のすべてにわたって解禁されました。

吉宗はいわゆる享保の改革を行った名君として知られる将軍ですが、目安箱の設置による庶民の意見の政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書(蘭学)輸入の一部解禁といった庶民に目を向けた政策も多く実施しており、またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励しました。

相撲もまた、この武芸のひとつと考えられていた時代であり、この開放政策により、春は江戸、夏は京、秋は大坂、冬は江戸で「四季勧進相撲」を実施することが慣行化されるようになります。

「勧進相撲」の呼称も完全復活しましたが、一方ではこの興業の管轄権は寺社奉行が持ち、きつく取り締まる、というしきたりは残されました。

寺社奉行はいわゆる三奉行の1つですが、主に旗本であり老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行とは別格であり、三奉行の中でも筆頭格といわれます。寺社奉行に任ぜられた者は、その後、大阪城代や京都所司代といった重役に就くこともあり、最終的に老中まで昇り詰めるなどエリートの証でもありました。

従って、寺社奉行の管理のもとに行われる勧進相撲もまた格式の高いものであり、相撲が行われる寺社もまた通常の寺社よりも格上とみなされる傾向がありました。

幕府瓦解後も勧進相撲は格式の高い興業としてそのまま明治・大正時代まで受け継がれていきました。ただ、相撲集団は江戸と大坂の二つに収斂されてゆき、大正14年(1925年)、東京相撲が大阪相撲を吸収合併することにより勧進相撲の組織は日本相撲協会に一元化され、現在の大相撲が誕生しました。

この組織化にあたっては、江戸時代以降、寺社奉行が取り締まり、勧進相撲と言っていた時代の方式がほとんどそのまま受け継がれました。現在でも形式的にではありますが使われている、「勧進元」という言葉はその名残であり、地方巡業の主催者のことをそう呼ぶのはこのためです。



余談が過ぎたので、富岡八幡宮の話に戻します。

寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と年寄による管理体制の確立を条件として勧進相撲の興行が許可されたのは吉宗以前の1684年、綱吉の時代です。そのしくみはほとんどそのまま歴代の将軍の下で継承されるととともに、大相撲と呼ばれるようになった現代にまで受け継がれています。

この現在の大相撲にまで伝わるルールが最初に決められたとき、その仕組みのもとに最初に興行が行われたのが、ほかでもない「富岡八幡宮」でした。

前々年に焼失し、復興を急いでいた江戸深川にあった、ということも理由ですが、最初に興業が認められたということは、それ以上に徳川将軍家の目にかけられていたということでもあります。将軍の継嗣が誕生したことを祝う祝賀がここで行われた一事をみてもわかるように、富岡八幡宮は関東にある八幡宮の中でもとくに一目置かれる存在でした。

現在でも新横綱誕生の折りの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるのは、相撲の歴史上、もっとも由緒ある興業先、という認識が関係者にあるためです。

実際、「横綱力士碑」をはじめ相撲にまつわる数々の石碑が建つのもこの神社だけです。これは、そもそも大大関、」「雷電爲右エ門」を顕彰して建立されたものでしたが、のちに歴代の横綱力士の名が刻まれるようになりました。

12代横綱陣幕久五郎が発起人となって、明治33年(1900年)に完成。縦横約3.5×2.5m、厚さ1メートル、重さ20トンの白御影石で、正面に宮小路康文の揮毫で碑銘、裏面に初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並びます。

綾川五郎次(初代)を2代目、丸山権太左衛門を3代目とする現在一般的な歴代横綱表も、この碑の記銘に基きます。2017年(平成29年)6月には、稀勢の里が横綱力士碑の刻名式に参加して、自らの四股名を刻んでいます。

当然、くだんのモンゴル出身の横綱の名も刻まれているはずです。例の暴行事件に加え、今回の殺傷事件と相まって、また何やら大相撲にケチがついたような気がします。

現代日本において最も人気のあるこのスポーツがらみで、こうたびたび不祥事が起こるのは、あるいは、見えないあちらの世界にいる相撲関係者からの何か警鐘のような気もしてきました。

この先大相撲がどうなっていくのか、時代の代わり目に我々はいるのかもしれません。

暗いニュースばかり頻発する相撲界ですが、年内の大相撲興業も、12月17日(日)で行われる沖縄県宜野湾市での地方巡業で終わるようです。

以後、年末にかけては少しは明るいニュースは出てこないものか、期待したいところです。