時を想う

富士山の初冠雪は先日のことだったようですが、ほんの少し降っただけで、ここ中伊豆からの富士はその後、ほとんど夏山のままでした。

しかし、昨夜降った雪で、今朝はそのてっぺんにようやく白い帽子がかぶさりました。

冠雪としてはまだまだ少ないのですが、毎年、この初雪を見るたびに、あゝ今年もあとわずかだな、とついつい思ってしまいます。

カレンダーを見てもあと2か月ちょっと。実に短い期間ではあるのですが、とはいえ、なぜかこの時期の時の流れはふだんと違うようで、いつもの倍近い時間が流れているように感じます。

しかし、そもそも時間というものは人が勝手に創りだした尺度だといいます。

人はもともと何かの変化を、「なんとなく過ぎ行くもの」といったふうに感じていたようですが、これを「時」という概念では理解していませんでした。現代のように、すべてのものが数学的に説明される以前の時代のことであり、“単位”という概念も確立されていなかった時代には、時間というものも当然、存在しませんでした。

そこへきて、アイザック・ニュートンが、「過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもの」ということで時間を定義しました。その時代から「絶対時間」と呼ばれるものが我々の周りに存在するようになり、その「枠」の中で人は生き死んでいく、といわれるようになりました。

産業革命の時代を経て、人々は時間に追われるようになり、科学技術こそ発達しましたが、日々が「なんとなく」過ぎて行っていた時代に比べ、動物が本来持っている本能のような部分は薄れていきました。現代では、時計やカレンダーがないと生活できなくなり、人々は、永遠に不変の「時」というものに縛られて生きるようになってしまっています。




ところが、アルベルト・アインシュタインが発表した相対性理論によって、時間とは常に等しく過ぎるものではない、ということがだんだんとわかってきました。どこでも同じステップで刻んでいるはずの時間が、ある空間においてはゆがむこともある、といわれるようになっています。

彼が提唱した一般相対性理論では、「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされます。

例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされ、これすなわち、宇宙の中では場所によって時間の経過が変化しうる、ということになります。

また、一般相対性理論では、重力ポテンシャルが異なる場所や移動速度が異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られています。わかりやすい例としては、現実に地球上の時間の進み方と人工衛星での時間の進み方は異なるため、GPSでは時刻の補正を行って位置を測定しているそうです。

先日中性子星同士の衝突で確認されたという、重力波理論でも、質量があることによって、時空のゆがみが生じ、この時間変動が波動として光速で伝播する現象が確認されたといいます。

???なのですが、ようするに時間の変化は宇宙の各所で一定ではなく、非常に大きな重さがある物体に異変(たとえば二つの超重量物がぶつかる)が起こるとその周辺では重力波という現象が生じ、その伝播によって、それが通る場所では、時空、時間と空間で形成される世界がゆがめられる、ということのようです。

つまり、重力波が通るようなところでは我々が普通に感じている時間の流れが一定ではないということになります。

と、いうことは、私のように、年末になると時間の流れがゆるく感じられる、というのは私の周辺のどこかで、何等かの重い物体に異変が起こり、そのあとにできた時間のゆがみの中に置かれている?ということになるのでしょうか。

重い物体?と考えてみるのですが、よくわかりません。ただ、思い当たるとすれば、いわゆる「重い空気」というヤツ。年末近くになると「師走」といわれるほどに忙しくなりますが、皆が皆忙しくなると、そのせいで回りの空気が圧縮され、あるいは空気が重くなるのかもしれません。

とくに今年は人生初の骨折やら入院やらいろいろあり、加えて自治体活動などであちこちに引っ張り出されるとともに私的にも仕事の立ち上げて忙しい。文字通り「肩が重い」雰囲気になっていますが、その肩にのしかかっているのが、そうした「重い空気」なのでしょう。

か、あるいは私自身が、違う次元の世界に入りつつあるのかも。SF、あるいはオカルトの世界に入ってしまいそうですが、実は場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われていて、例えば仏教の世界観では「天上界の1日は人間界の50年に当たる」そうです。

天上界なるものの存在を信じるや否やによりますが、天上界= 霊界ということならば、死んだあとに行くその世界の時間はゆったりと流れている、ともいわれます。行ったことがないので、というか、行ったことがあるのでしょうが覚えておらず、なんともいえないのですが、そう言われれば、なるほどそうなのかな、と思ったりもします。

このように考えてくると、時間の長さに変化を感じる、ということは、世界観とも深くかかわってくる問題でもあります。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識する、ということになるからです。「世界」そのものの定義を我々が棲む場所だけでなく、天上界も含めて考えるならなら、なるほどその定義は変わってきそうです。

その世界と現世はつながっていると考えるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうのか、の違いは大きく、そのどちらを選択するかによって、時間という概念が根本的に変わるとともに、人生感は180度変わってくるでしょう。

つまり、スピリチュアルということを信じるか否かということは、その人の持つ時間の感覚すらも変えてしまう可能性があります。

わたしももうすぐ還暦のお声がかかりそうな年齢になってきました。最近齢を重ねることにあまり抵抗がなくなってきたのは、一生の時間は今生きている時間だけではない、死後の時間も永遠に続く、と思えるようになったからでもあります。時空を超えて永遠に生き続けるのなら、残る人生も少ない、といったことを憂う必要もないわけです。




もっとも、生きている間は、肉体というものをまとっているので、時間感覚はどうしてもそれに左右されます。

一般には、生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なるともいわれているようで、例えば生物種間の時間感覚・体感時間は異なり、ゾウの時間とネズミの時間は違うようです。

わが家のペット、ネコのテンちゃんは現在8歳ですが、彼女の生きてきた時間感覚では我々の40年ほどを生きてきたのと同じなのであり、人間ならば少女ですが、ネコ界ではれっきとしたオバサンであるわけです。

このことはたぶん、男と女においてもあるのでしょう。男女で時間を感じる感覚が違うということはありえるのではないでしょうか。どちらが長く感じているか、と問われれば、それはまちがいなく女性のほうでしょう。女性のほうが寿命が長いのはそれと関係があるに違いありません。

また、人種や住んでいる場所によって肉体は変化しますから、当然国による時間の流れの違いもあるでしょう。

日本人とアメリカ人の時間感覚にズレがある、といわれればたしかにそんな気もしてきます。私は過去に通算で5年ほどアメリカにいましたが、彼らの時間の流れは日本人のそれとはまた違っているようです。

「昔話」を例にあげましょう。住んでいる世界で時間の経過が違う、という話として日本では浦島太郎の話が有名ですが、アメリカでは、リップ・ヴァン・ウィンクルという昔話があります。それはこんな話です。

アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していました。

ある日、愛犬と共に猟へと出て行きましたが、深い森の奥の方に入り込んでしまいます。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきました。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であり、その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着きました。

そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じており、ウィンクルは彼らに誘われるままに、混じって愉快に酒盛りしますが、すぐに酔っ払ってしまってぐっすり眠り込んでしまいました。

ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していました。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知ります。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまっていたのでした…。

日本の浦島太郎と同じく時間をテーマにしたお伽噺ですが、日本の場合のそれは目覚めたあとには暗い未来しか残っていないのに対して、アメリカのはある意味明るい。あるひとときの時間変化によって、恐妻家が妻から解放され、しかも時代は開放的なものになっている、というのがオチであり、悲観的な日本人と楽観的なアメリカ人という構図が見えてきます。

そして、このあたりに日本とアメリカの時間感覚の違いが表れているような気がします。常に明るい未来がそこにある、と考えるのと、いつかは終わりその先はない、というのでは人生感や時間感覚が根本的に変わってくるのはあたりまえです。



こうした話は無論、夢物語です。ただ、最近では、実現可能な方法で主観的な時間を止めたり、生理的な反応を遅くするということも本気で研究されているようです。

医療現場における全身麻酔状態の発展形として、SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられますが、こちらはいずれ実現するのではないか、といわれています。

火星への探査機など遠い星への旅のために研究されている「人工冬眠」の技術はかなり進んでいて、あと10年も経てば、数十年、いや数百年の間眠ったあとに目覚める、といったこともできるようになるのでは、といわれているようです。

それが実現するような時代では、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、ということも可能になるのかも。

つまり、「時の矢」は未来に向かって解き放たれるだけのものではなく、過去へ向かっても進ませることができる、そんな時代です。

人は肉体に霊体が宿ったものだといいます。いずれ天上界と現生が合体するような時代がくれば、霊も人間も同じ感覚で時間を過ごすようなことになるのでしょう。そしてその世界では、肉体を持っていても過去へも未来へも自由に行けるに違いありません。もっとも、その場合、肉体とはタンパク質の塊ではなく、無色透明の素粒子を指すのかもしれませんが。

なにやら夢物語のようですが、広い宇宙のなか、それを実現している宇宙生命体もきっといることでしょう。

これから迎える年の瀬、はっと気が付いたら正月になっていた、というのはいやですが、仕事で忙しい時間のみをスルーできるのなら大歓迎です。同様に、私が大嫌いな夏の間だけは冬眠をし、秋になったら目覚める、というのもいいかもしれません。

夏なのに「冬眠」というのもヘンですが…。

さて、秋の夜長、皆さんも夢の中での時間旅行を楽しんでみてはいかがでしょう。