伊豆と日向と

秋雨前線が停滞しているようです。

その北側にある冷たい気団に列島のほとんどがどっぷりとつかっているらしく、暖かなここ伊豆でも晩秋を通り越して冬のようです。

とはいえ、夏の暑さが大嫌いで、ついこのまえまでの暑気に辟易していた私にとってこの状態はパラダイスそのもので、毎日仕事が良くはかどります。

涼しくなり始めた10日前ほどから、ちょうどホームページの大幅な刷新の作業に着手し始めており、それに呼応するかのようなこの天候。おかげでブログのほうへの書き込みも滞ってしまっており、また嫌気がさして書くのをやめたか、とご心配の向きもあろうかと思います。

あるいは、術後の右手が悪化したか、と思われた方もいるかもしれませんが、逆に先週末にようやくギブスが取れ、何の制約もなくキーボードが打てるようになりました。これからは少しずつまた元のペースを取り戻していきたいと考えています。

で、ひさびさに何を書こうかと考えていたところ、宮崎の新燃岳が久々に噴火しました。

実はこのブログ、前回新燃岳が噴火したころに書き始めました。2011年(平成23年)のことですから、もう6年にもなります。

最初からお付き合いいただいている方がどのくらいいらっしゃるかはわかりませんが、長いあいだのご愛顧に感謝いたします。




ブログを始めた当時、そのころはまだ四谷にあった災害関連のNPO法人の仕事をしており、その関係で、噴火後の復興対策事業に携わり、およそ一ヵ月ほど宮崎市内に滞在していました。

県からの依頼で地元の方の生活をどう元に戻していくか、計画を練る、といった仕事内容でしたが、地元のことを何も知らないでは復興計画もクソもないということで、地元の地理や経済状況、観光や産業のことなどなど、つぶさに調べるために日々を過ごしました。

地元からの突き上げもあり、早急に対策案を提示する必要がある、といった社会背景もあって、かなり急がされました。市内の県庁のすぐ裏にあるホテルに缶詰めになり、何日も徹夜をして資料を集め、計画を練り上げていったことなどを思い出します。

宮崎県を訪れたのはこれが初めてではなく、中学生のときの修学旅行で来たのが最初です。次は、宮崎市郊外にあるフェニックス・シーガイア・リゾートで行われていた津波に関するシンポジウムで来たのが二度目、そして新燃岳の件のときが四度目になります。

三度目はというと、9年前にタエさんと結婚したのちのプチ新婚旅行で、北部にある高千穂峡を訪れたときのことです。そのほか鹿児島へ行く用事があったことも何度かあり、その度に県内各所や県境にあるえびの市や霧島、などといった場所を通過しています。

私は、一度でも行ったことがある、という条件でならば46都道府県すべてを訪れたことがあります。それでもほんの少し滞在しただけという県もいくつかあり、そんな中でも5回以上も訪れているというのは、それなりにご縁が深い場所ということがいえるのでしょう。

県木「フェニックス」に代表されるこの国は、南国情緒豊かな土地柄から、1960年代には日南地区を中心に新婚旅行のメッカでした。その温暖な気候ゆえ、プロ野球の各チームもシーズンオフのキャンプ地としてここを本拠地にしています。

古くは、「日向(ひゅうが)」と呼ばれ、古事記、に日本書紀では、「日向神話」と呼ばれる神話の舞台です。この中で、アマテラス大神の孫のニニギが高千穂に降臨した、とされており、これは初めて神様が日本という地に降り立ったということで「天孫降臨」として広く知られています。

ニニギ子のホオリと兄のホデリは、いわゆる山幸彦と海幸彦の伝説の兄弟であり、さらにホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父であるとされます。

その後、神武天皇は日向から東征に赴くこととなります。日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話は、「神武東征」と呼ばれます。そして、畿内で新たなキングダムを築き上げたそれが現在の天皇家の始まりとされています。

一方、残された日向の国はというと、その後この地が日本の先行きを左右するような重要な役割を担うようなこともなく、また大きな戦乱すら起こらず、近代に至っています。

室町時代以降、日向国の守護職は島津氏が世襲するようになり、島津一族の内紛による小競り合いがあったりはしたものの、おおむね戦国時代までは比較的静かな時代が続きました。

戦国時代以降は、豊後の大友氏の当地への進出などで多少の混乱がありました。大小の勢力争いが続き、その中で伊東義祐に率いられた伊東氏が台頭しますが、最終的には、薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してこれを駆逐しました。1578年の耳川の戦いにおいて島津氏が大友氏に大勝してからは、島津氏が日向国一円を再支配するに至ります。

しかし、1587年には秀吉が九州征伐に乗り出します。これに島津氏は屈服し、薩摩・大隅地区に押し込まれてしまいます。統治していた日向国も、功のあった大名に分知され、江戸時代には大名は置かれず、天領と小藩に分割されました。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩などの小藩がそれです。

ただ、九州南部に押しやられた薩摩藩も日向の南部の諸県郡を領有することを許されましたから、宮崎県南部ではいまもどこか薩摩藩の気風が残っているようです。

とはいえ、一時は九州全体に名を馳せた島津家もその勢力をかなり萎縮させてしまいました。しかし、徳川の目が届かないその地の利を得て海外貿易を発展させ、徳川250年間に発展させたのは経済のみならず強大な軍事力でした。

その後の幕末においては、それをふんだんに使い、それまで鬱屈していたエネルギーを爆発させて、長州藩とともにこの国に一大転機をもたらしたことも誰しもが知る史実です。

ところで、この薩摩藩ともゆかりの深い日向国というのは、ここ伊豆ともかなり縁の深い土地柄です。というのも、戦国時代から安土桃山時代にかけての一時期、この地で勢力ふるった「日向伊東氏」というのは、ここ伊豆の伊東から出た豪族の末裔であるからです。

その発祥の地は、伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)です。平安時代末期から鎌倉時代にかけてこの地を本貫地としていた豪族・伊東氏が下向してできたのが、「日向伊東家」であり、日向で最大の勢力を持った時代の11代当主「伊東義祐」は、伊豆伊東家の始祖である「伊東家次」から数えれば第16代にあたります。

この伊東家次は、伊東姓を名乗る前は「工藤祐隆(すけたか)といい、平安の時代の名家、藤原南家の流れをくむ人物です。

この時代、隆盛を誇った藤原氏は日本各国に領地を持っており、伊豆もそのひとつでした。祐隆は、あるとき、四男にその領地である狩野荘(狩野川上流)の地を譲り、自身は伊豆東部の久須美荘を拠点としました。

この久須美というのは、現在の伊東・宇佐美・大見・河津などから成る伊豆島南部の諸地域のことであり、現在もこれらは地名として残り、「伊東」は現在でも最大の都市です。

この地で伊東氏の祖となり、伊東家次と名を変えた工藤祐隆ですが、嫡子である伊東祐家が早世するなど後継者に恵まれなかったため、妾の子やら養子などに次々と別の領地を与えました。これが内紛を呼び、「曾我兄弟の仇討ち」といった事件を引き起こします。

曾我兄弟というのは、伊東家傍流の家の嫡男だった子らのことで、所領争いで殺された父親の仇を討ったことで有名になりました。討たれたのは家次の孫にあたる工藤祐経という人物で、この兄弟が有名になったのは、父が殺されたあとに貧しい武士だった曽我家に引き取られ、艱難辛苦を嘗めたあと、ようやく仇をとったことが美談とされたためです。

このあたりの人間関係は複雑なので割愛しますが、伊東氏と日向国の関係は、この曽我兄弟に敵討ちされた工藤祐経の子の伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まります。

工藤祐経は頼朝に仕えて側近として重用され、伊東荘を安堵されていた人物で、曽我兄弟による敵討ちというセンセーショナルな事件があったあとも、その子孫は重用されました。

この祐時の日向下向もそのひとつであり、このほかにも伊豆伊東家の子孫の一派が尾張国に移り住んでおり、その子孫が織田信長や豊臣秀吉・秀頼に仕え、江戸時代には備中国で大名となっています。

日向国に移り住んだ伊東祐時の子孫は、やがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏としてこの土地に土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら、次第に東国武士の勢力を扶植していきました。

室町~戦国期を通じて、伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながらも次第に版図を広げていき、寛正2年(1461年)には5代当主伊東祐堯が将軍・足利義政から内紛激しい島津氏に代わり守護の職務の代行を命じられています。

その後、前述の11代当主、伊東義祐の時代にはその全盛時代を迎えます。義祐の父、伊東尹祐父子ともども、足利将軍家より、偏諱(いみな)を受けており、義祐の「義」の字は将軍足利義晴の一字をもらったものであり、また父の尹祐(ただすけ)の「尹」の字は、足利義尹から受けたものです。

日本では室町時代あたりから元服の際に烏帽子親から一字貰うなど、主従関係の証などとして主君から家臣に一文字与えることが盛んに行われており、これを「偏諱を与える」いいます。その意味はつまり「一字拝領」です。主君の偏諱を賜ること=名誉あることであり、その後の時代では頂いた字を名前の上につけるのが通例になりました。

将軍の名を頂くほど権勢を誇った、というわけですが、伊東義祐は続いて、飫肥の島津豊州家と抗争、これを圧倒して、佐土原城を本拠に四十八の支城(伊東四十八城)を国内に擁し、位階は歴代最高位たる従三位に昇るなど最盛期を築き上げました。

しかし、義祐は晩年から、奢侈と中央から取り入れた京風文化に溺れて次第に政務に関心を示さなくなり、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで島津義弘に敗北したことを契機に、伊東氏は衰退し始めます。

天正5年(1577年)、島津氏の反攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われて、その後は瀬戸内などを流浪した末に堺にて死去したといいます。




こうして伊東氏は一時的に没落しましたが、義祐の三男・伊東祐兵は中央に逃れて羽柴秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州平定で先導役を務め上げた功績を認められ、日向に大名として復活を成し遂げています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は病の身であったため、家臣を代理として東軍に送っています。その功績により所領を安堵され、以後、伊東氏は江戸時代を通じて廃藩置県まで「飫肥藩」として存続することとなりました。

この伊東氏の一族からは、「天正遣欧少年使節団」の主席正使としてローマに赴き、教皇(グレゴリウス13世)に拝謁した「伊東祐益」こと「伊東マンショ」といった有名人物も出ています。

伊東マンショは、伊東義祐の娘と伊東家の家臣の間に生まれた子です。伊東氏が島津氏の侵攻を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣に背負われ豊後国に落ち延びました。そしてこの地でキリスト教と出会い、その縁で、肥前日野江藩初代藩主でキリシタン大名だった有馬晴信のセミナリヨに入りました。

そのころ、巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えました。

そこでセミナリヨで学んでいたマンショを含む4人の少年たち(13~14歳)に白羽の矢が立てられ、中でも利発だったマンショは、豊後の国(現大分県)のキリシタン大名、大友宗麟の名代として選ばれました。そして足かけ6年の長い旅が始まりました。この時代、交通手段は当然船しかなく、行きは2年少々、帰りも1年半の時間を擁しています。

そしておよそ2年弱のこの使節団の滞在によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になります。また、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われており、こうした「日本初」の史実の積み重ねにより、「天正遣欧少年使節団」の名が後世に語り継がれているわけです。

日本に戻ってきたマンショは秀吉に気に入られ、仕官を勧めたといいますが、司祭になることを決めていたためそれを断り、その後マカオのコレジオに移り、ここで司祭に叙階されています(慶長13年(1608年))。

帰国後は小倉を拠点に活動していましたが、しかし時代は関ヶ原(1600年)を経て徳川の時代であり、領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移りました。長崎のコレジオでキリスト教を説いていましたが、慶長17年(1612年)11月13日に病死。43歳くらいだったと考えられています。

このほか、日向伊東家は、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務めた元帥海軍大将・伊東祐亨(すけゆき)を輩出しています。

日清戦争における清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で明治27年(1894年)9月17日に行われた黄海海戦では、戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破して日本を勝利に導いた立役者とされる人物です。

この当時の清国艦隊はアジア最大といわれ、たとえば日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220tと、倍近い差があり、その後日露戦争の日本海海戦で強国ロシアを撃破する「大日本帝国海軍」の整備もまだこのころは途中の段階でした。

黄海海戦の話は始めると長くなるので割愛するとして、このとき敗色濃厚な北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治28年(1895年)2月13日に威海衛で降伏。丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げました。

このとき、伊東祐亨は、没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、丁重に丁汝昌の遺体を本国に送還させており、このことが「武士道」としてタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめました。

戦後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めたあと、海軍大将にまで進みました。また日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に任じられています。

政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしたことで知られるこの人物もまた、飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身です。鹿児島城下清水馬場町に薩摩藩士の四男として生まれ、長じてからは江戸幕府の洋学教育研究機関、開成所でイギリスの学問を学びました。

当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われていますが、その後薩英戦争に遭遇。欧米の圧倒的な海軍力を目の当たりにし、日本の海軍もかくあるべきと悟ったといわれます。

戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍し、明治維新後海軍に入り、明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられたのを皮切りに「龍驤」、「扶桑」、「比叡」の艦長を歴任します。

イギリスで建造中であった「浪速」回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられたあとは、海軍少将、海軍中将と進み、明治27年(1894年)の日清戦争に際して連合艦隊司令長官を拝命しました。

幕末には、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学んでいます。

この時代、江川英龍のもとでは砲術を学んでいます。伊豆の一代官でありながら、洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱いたこの人物は、その後世界遺産、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させ、江戸幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、最後には幕閣入を果たしました。

伊豆の江川英龍と日向伊東家出身の伊東祐亨。こんなところでも伊豆と日向の国との接点があったのだな、と改めて思う次第。

ひょんなことから伊豆に住まう私が宮崎県と妙に縁があるのもそんな関係性と似ているのかな、と思ったりしています…