七夕の候

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7月になりました。

今年ももう半分が終わった、という事実に唖然とした気分になっているのは私だけでしょうか。

7月といえば、最初にやってくる行事が七夕です。

日本では古来、旧暦7月7日に行われ、15日のお盆の前に入る前の前盆行事として扱われてきましたが、明治6年(1873年)の改暦後は、月遅れの8月7日頃が旧暦の七夕となりました。

このため、今でも七夕は8月というところもあるようですが、実際には、7月に七夕を行うというところのほうが多いようです。その気分は、やっぱ、「七」のつく行事は7月にやらなけりゃ、ということでしょうか。

かくして、梅雨の真っ最中だというのに、毎年のように七夕は行われます。

笹の葉に願いを書いた短冊を垂らす、という風習は幼小学機関を中心に全国に根付いており、梅雨の間の風物詩ということで、それはそれで、風情はあります。

それにしてもなぜ「たなばた」というのか、ですが、これは古来からあった行事、「棚機津女(たなばたつめ)」に由来する、という説が有力です。

七夕の時期は稲の開花期にあたり、時期的に水害や病害が心配な頃でもあります。そこで、稲の収穫が無事に済むことを祈り、お盆を何事もなく迎えられるようにという願いを込めて、「棚機女」が始まりました。

8世紀初頭の歴史書、「古事記」には早、その記述があるそうで、ここには、乙女が水神を迎えるために、清らかな水辺に張り出した棚の上の機屋(はたや)で棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機を使って“神衣(かむみそ)”と呼ばれる美しい衣を織ると書かれているそうです。一種の禊(みそぎ)の行事だったのでしょう。

一方、別の説もあります。日本では、古来、お盆の時に先祖や精霊を迎えるために「盆棚」という棚をしつらえます。そのための棚づくりのためには、一般的には、二~三段の本格的な祭壇を作るか、大中小の机を用意します。そしてその上に真菰(まこも)のゴザを敷いて仏壇から位牌と三具足を取り出して飾り、お供え物を置く棚とします。

お盆には、いろいろなお供えものをこの棚の上に載せますが、「幡(はた)」もそのひとつです。布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のことで、お寺に行くと、仏様の両端に掲げられているきらびやかな幡を見かけたことがある人も多いでしょう。仏や菩薩を荘厳・供養するために用いられ、また幡を立てることで福徳を得て長寿や極楽往生につながるとされるものです。

七夕は、この「棚」と「幡」から来ているといわれ、ふたつを組み合わせれば「棚幡」となります。7月7日の夕方から実施される行事なので、「七夕」と書き、これを「たなばた」と呼ばせるようになったというのがもうひとつの説です。

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現在の七夕では、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われていますが、この短冊こそが、お盆の際に使う幡に相当すると考えられます。「たなばたさま」の楽曲にある「五色の短冊」の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいい、五色である仏具の幡から来ています。

このお盆の際に使われる幡を笹に飾るようになったのは江戸時代のことです。夏越の大祓に設置される「茅の輪」の両脇の笹竹に因んだものといわれています。切ってきた笹に短冊をつけ、前の日の7月6日に飾り、翌7日未明に川や海に流すことが、その後現代にいたるまで一般的な風習として定着しました。

ただ、現在の「七夕まつり」は、商店街などのイベントとしての商用目的で行われることのほうが多くなってきています。昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような風習や神事などをあまり重視していないことが多いようです。

むしろ、学校や幼稚園で子供たちが、それぞれの思いを短冊に書き、願いとして叶えてくれるよう天に祈る姿のほうが、ずっと古来からの七夕行事の形に近いように思えます。

ところで、笹の葉と短冊の組み合わせとは別に、なぜ七夕の夜には織姫と彦星がランデブーする、ということになったのでしょうか。

こちらは、中国に古くから伝わる「織女と牽牛の伝説」に基づいており、これが日本に伝わったことによります。紀元前3世紀ころの漢の時代の書物には既に、みなさんもよく知るこの話が描かれており、7~10世紀の唐の時代には、乞巧奠(きこうでん)という行事として定着しました。

7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭であり、これが輸入され、既に日本にあった上の「棚機女」の行事と融合したものと思われます。日本の棚機女の行事も乙女が機を織って神に捧げるという点で酷似しており、おそらくは中国から伝わった風習がやや形を変えたものでしょう。

日本に伝わった乞巧奠の行事は、その後、宮中や貴族の家を中心に広まりました。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたものを、その針の孔に通しました。

一晩中香をたき灯明を捧げ、詩歌管弦の遊びをする祭りであり、天皇やその側近たちは庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈るとともに、裁縫・染織などの技芸上達が願ったといいます。

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「平家物語」によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書き、短冊の代わりにしたといいます。カジノキ(梶の木)というのはあまりピンとこないかもしれませんが、山野ではよく見る木です。その葉っぱは、5葉に分かれており、割と広い面積を持つのでなるほど文字は書けたかもしれません。

神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれており、樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされました。

室町時代頃になると、紙が普及し始めたため、天皇をはじめ臣下はカジノ木に歌を書いた紙を結びつけるとともに、硯・墨・筆を飾りました。また、歌・鞠・碁・花・貝覆(かいおおい)・楊弓(ようきゅう)・香の七遊の遊びが行われたそうです。

貝覆とは、ハマグリの貝殻を左右に離し、貝殻の片方を座に並べ、他方の貝殻 と一対にして合せ取る遊びで、トランプの神経衰弱のようなものです。また、楊弓とは、ヤナギで作られた小弓のことで、弓を用いて的を当てる遊戯です。

さらに時代が下り、江戸時代になると、天皇が芋の葉の露でカジノキの葉に和歌を七首書き、カジノキの皮とそうめんでくくって屋根に投げ上げるのがならわしとなりました。

この時代、幕府は、七夕を五節供(ごせっく)の一つに定め、正式な行事としました。五節供とは、季節ごとの食物を神に供えて,節日を祝う儀式です。年に10回ほどもある五節会(ごせちえ)が朝廷の儀式であるのに対し、五節供は、公家以下庶民の行事であり、1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽 (ちょうよう) の5回です。

ちなみに、宮中で行われる五節会は、上の5つに加え、正月7日の白馬節会、16日の踏歌節会ほかが加えられたものであり、一般人にはほとんどなじみのないものでした。

なお、9月9日の重陽は現在ではあまり節供として認識されていません。陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから重陽と呼ばれ、庶民にとってはたいへんめでたい日でした。その昔は菊の花を飾ったり酒を飲んだりして祝ったようです。

7月7日の七夕では、大奥では、四隅に葉竹を立て注連縄(しめなわ)を張った台を縁側に置き、中にスイカ、ウリ、菓子などを供えました。奥女中が歌を色紙に書き、葉竹に結びつけ、翌朝供物とともに品川の海に流すのが七月七日の行事となりました。

この行事が民間にも伝わり、上述のとおり「茅の輪」の笹竹に因んだ行事として定着したのでしょう。切ってきた笹に短冊つけて飾り、海だけでなく川に流すという風習は、大奥のそれから発展したもののようです。

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このように、初めは宮中の行事であり、裁縫・染織などの上達を願うものだった「「棚機」は、やがてこれに詩歌の上達の願いが加わり、江戸時代になると民間行事から取り入れられた要素が加わりました。とくに習字の上達を願うことが流行り、その後は手習い事一般の願掛け行事として一般庶民にも広がっていきました。

江戸や大坂では、前日の六日から笹竹売りが「竹や、竹や」と売り歩き、各家では五色の短冊に願い事を喜いて笹竹に結びつけ、軒や縁側に立てました。

この竹飾りは、翌日には海や川に流されるのがならわしでしたが、現在では環境汚染につながるということであまり行われていません。私が子供のころには、七夕の翌日になると近くの川や海の岸には短冊がついたたくさんの竹笹が流れ着いていたものですが。

本来、七夕にまつわる神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われます。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもあります。

しかし、現在の新暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころのように天の川を見ことができる、ということはまずありません。ただ、統計では、旧暦7月7日においても、晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではなかったようです。

もっとも、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響をあまり受けません。一方、新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年があります。

月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなります。ちなみに、今年の7月7日の月齢は13だそうで、ほぼ満月に近いため、天の川が見える地域はごくごくわずかになるでしょう。

この天の川を挟んで輝く二つの星が、織姫星と彦星です。織姫星(織女星)として知られていること座の1等星ベガは天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。一方夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルです。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めました。

めでたく夫婦となりましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離しますが、お慈悲で年に1度、7月7日だけは会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができました。

カササギ(鵲)が架けたことから鵲橋(しゃくはし、かささぎばし)ともいい、この橋は織姫と彦星が出会うためにできることから、鵲橋とは男女が良縁で結ばれる事を意味します。

また星どうしの逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名があります。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。

かくして、新暦になってからの星合は、梅雨の間であることからほとんど実現しせず、悲しんだ二人の涙はまた天の川に流れ込み、さらに水嵩が増して二人は永遠に会えないままなのでした…

この七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。ちなみに七月六日に降る雨は「洗車雨」と呼ばれ、織姫に会うため彦星が自らの牛車を洗っている水だとされています。

なので、世のシングルの男性諸君。7月6日に降った雨で愛車を洗車すれば、翌日の7日には素敵な織姫に遭遇するかもしれません。もっとも翌日も雨だったら、会えない可能性は高いと思われますが…

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ところで、天の川に橋をかけたというカササギという鳥は、いったいどんな鳥でしょうか。調べてみると、世界的には北アメリカ西部、欧州全域、中央アジア、アラビア半島南西部、極東、オホーツク海北部沿岸など、広くに生息するようです。

日本では北海道、新潟県、長野県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本で「繁殖」が記録されています。一方、目撃だけの確認例としては、秋田県、山形県、神奈川県、福井県、兵庫県、鳥取県、島根県、宮崎県、鹿児島の各県などがあるようです。

カラスの仲間で、人里の大きな樹の樹上に球状の巣を作り繁殖します。ただハシブトガラスのように群れを作らず、主に番い(ツガイ)、もしくは巣立ち前の雛と少数単位で暮らします。また、ハシブトガラスよりも一回り小さく、黒地に白い羽を持ちます。

標高100m 以上の山地には生息せず人里を住みかとしています。鳥のくせに森林が覆う山地が苦手で、逆にこうした場所は分布障壁となっているようです。

全国的にみられるというわけでもないようで、しかも九州や中国地方に分布が偏っており、このため、見たことがある、という人は少ないのではないでしょうか。私も実はまだ見たことがありません。あるいは見たことはあってもカササギとして認識していなかったからかもしれませんが。

古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられ、「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述していいます。しかし、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、カササギの存在は日本中に知られることとなりました。

「カサ」は、朝鮮の古名「カシ」が転じた説や鵲の朝鮮の方言とする説などがあります。「サギ」は、肩羽と腹部が白いところがサギに似ていることから「鷺(サギ)」の意とする説や「鵲」の音「サク」が転じた説などがあります。

また、烏(カラス)に似て尾が長くて背が黒いことから「カラス・サギ」の略とする説もあります。鳴声が「カチカチ(勝ち勝ち)」と聞こえることから縁起が良いとされ、別名にカチガラスともいいます。現代中国語では「喜鵲」と呼ぶそうです。

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現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、肥前国の佐賀藩主鍋島直茂、筑後国(現福岡県)の柳川藩主立花宗茂など九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り繁殖したものだとされる説があります。その一方で、冬に朝鮮半島から渡ってくるミヤマガラスの大群にカササギが混じっていることがあるという観察結果から、渡ってきたカササギが局地的に定着したという意見もあります。

江戸時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」「とうがらす」の別称があり、江戸時代の生息範囲は柳河藩(現:福岡県柳川市)と佐嘉藩(佐賀藩、現在の佐賀県、長崎県の一部)の周辺の非常に狭い地域に限られていたといいます。

また、佐嘉藩では狩猟禁止令により保護されていました。生息域が極めて狭く珍しい鳥であることから1923年(大正12年)3月7日、その生息地を定めて、カササギ生息地一帯の市町村は国の天然記念物に指定されていました。そして、佐賀県は、県民からの一般公募を行い、1965年(昭和40年)にカササギを正式に県鳥としました。

ところが、1960年代以降、カササギは電柱への営巣特性を獲得し、都市化のせいもあって分布障壁となっていた山地の森林が減少したことなどから、1970年代以降急速に生息域が拡大しました。上述のように九州以外の地域に急速に広まっていき、1980年代には、北海道の室蘭市や苫小牧市周辺でも観察され繁殖するようになりました。

九州では特に、電柱に巣を作る個体が増加しており、電柱への営巣は時として停電を招くこともあります。そのため、九州電力などでは、電柱上の変圧器付近に黄色い風杯型風車を取り付けるなどして、カササギなどの鳥に巣を作られないよう対策を講じています。

電柱巣は、ネコなどの地上の捕食者を完全に阻止出来るため、カササギにとっては都合がよく、巣立ちする雛の数が増えるという効果がありました。しかし人間様にとっては彼らと同居することはむしろ弊害となることも多く、街の中心部からの追い出しが図られる事態になっているところもあるようです。

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カササギは鳥類のなかでも大きな脳を持っており、非常に頭のいいことで知られています。哺乳類以外では初めて、ミラーテストをクリアしました。ミラーテストとは「自己鏡映像認知」ともいい、動物が鏡を見たとき「写っているのは自分」と認識できるかを確認するためのテストです。

ヒトは鏡を見たとき、そこに写っているのが自分自身であると認識することができます。鏡映認知とも呼ばれる能力ですが、これには比較的高度な認知能力が必要と考えられています。3歳前後までの小さな子供はこの能力を持ちませんし、大人でも脳の病気や障害で認知能力が低下すると、鏡の像が自分だと認識できなくなることがあります。

ヒト以外の動物でも自己鏡映像認知できるものがいるかどうかを確認する方法ですが、実はこれを判定するのは簡単ではありません。動物は言葉を話せませんから、テストの方法を工夫しなければならないのです。

そこで動物が自己鏡映像認知できるかどうかのテストとして、1970年ごろに考案されたがミラーテスト(またはマークテスト)です。これは、その動物に気づかれないよう、動物自身には見えづらい場所に「マーク」などを描く、というものです。

続いて鏡を見せて、そのマークが自分についていることを前提とした行動をとるかどうかを見ます。動物が鏡に映る像を自分だと認識できているなら、その動物は鏡像のほうのマークではなく、直接は見えない、自分自身につけられたマークを気にするでしょう。

こうしたマークテストを行ってみた結果、チンパンジーなどヒトに近い大型類人猿や、霊長類以外でもいくつかの動物については報告があり、大型類人猿のほかではイルカやシャチ、そしてゾウがテストをパスするということが分かっています。いずれも比較的知能が高いことに加えて、群れを作って社会的な行動様式をとる動物です。

カササギにもこのテストが試されました。首に赤や黄色のシールを貼ったところ、鏡に映った自分を見てシールに気づき足や嘴を使って剥がそうとしましたが、羽の色に紛れてしまう黒のシールを貼ったときはこのような反応は見られませんでした。哺乳類以外でこれを確認できたのはこれが始めてとのことでした。

自己認識能力には大脳新皮質が関わっているとされていますが、鳥類は大脳新皮質をもっていません。ただカササギは大きな脳を持っており、哺乳類とは異なる進化で高い認識能力を得た可能性があるということです。

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カササギは、もともとカラス科に分類されており、カラスの仲間です。カラスはご存知の通り頭の良い鳥であり、硬くて自分の嘴では砕けない食べ物を道路の上に置き、自動車にひかせて殻を割るという行動が各地で確認されているほか、公園の水道の蛇口をひねって水を飲む、簡単な道具を使ったり、巣作りに工業製品の廃物を利用する、といった行動が観察されています。

カラスはまた、自分を直接攻撃する人などの顔で認識し人に直接危害を加えたり、そのような人物を仲間に伝達し集団で攻撃することもあるそうで、認識、伝達を的確に行える高度な知能を持ちます。

カササギも、老人や子供は警戒しない一方で、若い男性など危害を与えようとするものには警戒して近寄らないという観察結果が出ており、ミラーテストに合格したことといい、非常に頭のいい鳥であることがうかがえます。人の顔を覚えていて、呼んだら飛んで来たり、眼が開く前の雛から育てるとよく懐くそうです。

また、カササギは嘘をつけるといいます。

それぞれ別の種の鳥達が群がって作った集団には、見張りの役割を果たすカササギの種があるといい、タカのような捕食者が現れると、大きな鳴き声で警報を鳴らします。

ところが、タカなどがいない場合でも警報を送る場合が観察されており、これはカササギ流したウソの情報です。これを聞いた他の鳥達が大急ぎで身を隠す間に、カササギ自身はのんびりと飛び回り、目に付く虫を食べてしまうといい、ある研究によればカササギの発した警報のうち、約15%ほどはこうした偽りの信号であったといいます。

カササギの食性をみてみると、基本的には、動物質を好み、主として昆虫などの無脊椎動物を食べますが、他に腐肉なども食べます。また、熟した木の実やフルーツ、穀類など、なんでも食べる雑食性です。昆虫としては、ケラやハサミムシ、コオロギなど地面に生息する虫を捕食しているようですが、秋にはイナゴなどの害虫を食べることから、益鳥とされます。

英語では、カササギ、オナガ、サンジャク、ヘキサンなどをまとめて magpie(マグパイ)と呼び、伝統的に「おしゃべり好きのキャラクター」という表象を与えられています。

また、何でも口に入れることから。ラテン語ではpicaといい、これは「異食症」を意味します。

異食症とは、栄養価の無いものを無性に食べたくなる人の病気で、食する対象は土・紙・粘土・毛・氷・木炭・チョークなどが挙げられます。小児と大人の妊婦に多いようですが、まさか鳥であるカササギが異食症のわけはありません。単に食いしん坊なだけなのか、いろんなものを食べても丈夫な胃を持っているのかよくわかりませんが、ともかなんでも口に入れてしまうようです。

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ちなみに、人間の異食症には、氷を異常な量食べてしまう氷食症や、土を食べてしまう土食症、体毛をむしりとって食べたりする食毛症などがあります。精神的ストレスと関連が深いようですが、土食症については、必ずしも病気とはいえないようです。土壌を摂食する文化は世界各地に分布しており、消化作用の促進、滋養強壮、解毒などの効果があるとされています。

妊娠した女性が土壁をかじったり、地面の土を食んだ事例は日本でも古くから知られており、亜鉛や鉄分が不足して味覚異常になった際に発症しやすい行動であることが科学的に明らかになっています。タンザニアのペンバ島では、若い女性が土を食べ始めることは妊娠の兆候として喜ばれるそうです。ただ、普段土を食さない人が上記のような症状に陥る場合は土食症と呼ばれます。

鳥類や哺乳類にも、土壌を食するものがあり、おそらくはカササギも食べていると思われます。ほかにも、オウム、ウシ、ネズミ、ゾウなどは、習性として土を摂食することが知られており、その機能としてミネラル補給説や、土壌の物理組成による毒物吸着説、胃腸障害の改善、アシドーシス改善作用説などがあります(アシドーシスとは、血液が酸性になることで、これによりさまざまな体調不良が起こります。人間にもある症状です)。

また、カササギは、昔から金属など光るものを集める習性がある、とされてきました。ヨーロッパでは「泥棒」の暗喩に用いられることすらあります。イギリスでは「不幸」や「死」「悪魔」を現すとされ、光る物を好んで集める「宝石泥棒」として欧米では何かと嫌われ者の役を演じることが多いようです。

カササギの「盗癖」とされているこの習性は、イタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニのオペラにも登場します。このオペラ「泥棒かささぎ」では銀食器を盗んだ真犯人という扱いになっています。

ところが、最近の研究では、このカササギの泥棒癖の習性は間違いであることがわかっています。あるイギリスの大学の研究チームが、キャンパス内のさまざまな場所に光る物体や光沢のない物体を並べ、野生および飼育されたカササギの反応を観察しました。

使用した物体は金属のねじやアルミホイルで作った指輪、そして細かく切ったアルミホイルなどで、半分はつや消し塗料で青く塗り、残りは光沢のある状態のままで配置ました。これら物体の間には餌となる多くの木の実が置かれましたが、カササギは光る物に引き寄せられるどころか、見慣れない物を嫌い、警戒する傾向を示しました。

光る物であれ光沢のない物であれ、木の実の近くに置かれている物体に対しては常に警戒する様子を見せた、といい、これから「カササギは宝石泥棒」は俗説であり、誤りである、ということが確認されました。

カササギにとっては長年の汚名を返上できたわけで、おおいに喜んでいる…かどうかはわかりませんが、ヨーロッパではこうした研究をきっかけとしてそのイメージが変わっていくかもしれません。

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その子育ては10月下旬頃から始まります。このころから営巣地を探しはじめ、3月中旬頃までには、電柱以外では、カキノキ、エノキ、クスノキ、ポプラなどの樹高8m以上の樹木に、木の枝や藁などを用いて直径60cm~1m程度の球状の巣を作ります。

産卵は、営巣後すぐに行なわれ、楕円形の薄い緑色をした卵を6〜7個産みます。雌が抱卵し、最終卵産卵後17~18日で孵化します。各卵は日を置いて逐次孵化するため、雛の成長度には差が生じ、遅れて孵化した雛鳥の多くは死亡するといいます。

夫婦で子育てに励み、孵化後約4週間で1〜4羽が巣立ちし、巣も放棄されます。巣立ち後の若鳥の生存率は30%程度で12月頃まで集団でねぐらにつきますが、その後ツガイを形成して分散し、個別の縄張りを持つようになります。

子育てを終えたツガイは、再び翌年の子育てに励みます。そしてこの夫婦の関係は一生続くといいます。

「オシドリ夫婦」と言われ、仲のいい夫婦の例えに良く使われるオシドリは、実は冬ごとに毎年パートナーを替えるそうです。その抱卵もメスのみが行い、育雛も夫婦で協力することはないそうで、とんでもない偽装夫婦です。

これに対して、カササギの夫婦は本当に仲がいいそうです。秋になり、庭木に柿が実る頃にはツガイで飛来し、仲良く柿を食べる姿がよくみかけられるといいます。一方では、秋になると巣立った若夫婦と古い夫婦が縄張りをめぐって騒ぎが起こり、激しく鳴き合といいます。が、これもどこかお愛嬌で、その姿もユーモラスで、カササギの生息の多い佐賀では今や風物詩となっているといいます。

さて、我々夫婦も先日の20日に9年目の結婚記念日を迎えました。これから10年目に突入していくわけですが、カササギの夫婦と同じく仲の良いツガイとして暮らしていきたいと考えています。

先日お亡くなりになった小林麻央さんと旦那さんの市川海老蔵さんも仲の良いご夫婦だったようです。芸能人であるだけに何かとセンセーショナルに取り上げられたこの話題ですが、本当につらいのはご本人と息子さんたちでしょう。同じ経験をしている私にとっては、心の内がよくわかります。

がしかし、心の痛みは長い年月うちに変わっていきます。どう変わっていくかについては、うまく書き表せませんが、ひとつはっきりと言えるのはその痛みが限りなく薄まるころには自らの一生も終わる、ということでしょうか。

せめて、たとえ夢の中でも、天の川を渡ってのお二人の星合が実現することを祈りたいと思います。一年に一度だけでなく、毎日でも会わせてあげたいと思いますが、それでは雨の降る日がなくなってしまいます。

残る梅雨の日々、しばし雨音も楽しみながら、晴れた夏の夜空に流れる美しい天の川を渡り、楽しそうに出会う二人の姿を皆さんも想像してあげてください。

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