異邦人

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ふもとの温泉場のはずれから、「いろは道」、と地元では呼ばれている、のどかな農道があります。

このあたり一帯は、湯舟集落と言い、つい先週までに終わった田植えによって、見渡す限りが水郷になっています。その瑞々しい風景の真ん中に続く緩い坂道を歩くこと約30分、「奥ノ院」と呼ばれる古刹に辿りつきます。

正覚院ともいい、延暦10年(791)に18才の空海が修業をした場所といわれています。石段を上がったところに駆篭の窟(くりゅうのくつ)という奥行2~3mほどの幅広の洞があり、その上の岩壁からは「阿吽のノ滝」という小さな滝が流れ落ちています。

滝の下には、その飛沫をかぶりながら修行をしたという、弘法大師像が正面にしつらえられており、またその右手には「降魔壇」と呼ばれる石があって、その左右におよそ20体ほどの石仏が置かれています。

窟や滝、石の名前といい、弘法大師の像を中心になにやら巧妙に配置されたように見えるこれらはまるで何かの舞台装置のよう。もともとは背後に流れ落ちる、滝があるだけの山深い場所にすぎなかったでしょうが、土地の人々は、その景勝にインスピレーションを働かせ、ここを弘法大師が修行した場所としてしつらえたのでしょう。

伊豆へ引っ越してきてからここを訪れるのは、5回目くらいになるでしょうか。久々にこの場所を訪れたのは、新緑のころを迎え、さぞかしすがすがしい空気が味わえるだろうと考えたからでもあります。

が、この場所の持つ何やら不思議な魅力に惹かれるから、というのも偽らざるところでもあります。霊感のある私にはわかるのですが、ここを訪れるたび「何か」を感じることも多く、ある種のパワースポットと考えていいでしょう。

連休明けのことでもあり、その雰囲気を独占できると考えたわけでもあるのですが、なるほどこの日は明るい陽光の中、ひとっ子ひとりいない澄んだ空気を存分に味わうことができました。残念ながらこの日は邪念が多かったせいか、上からの宣託らしいものは何ら受け取ることはできませんでしたが…

私だけではなく、多くの人はこの地に何等かの「気配」を感じるようです。この妖しい雰囲気にふさわしい逸話も残っており、その昔、この地に天魔地妖が多く出て住民をも煩わせた、という話もあります。この地で修行を始めた大師様も、あまりにもその妨げになるといいうので、あるとき、妖魔が出たころを見計らい、天空に向かってエイやっ!と大般若経の文字を書いたそうな。

すると、妖魔たちはギャーっと叫びながら、あれよあれよと、この岩谷に封じ込められてしまったとか…

その名残がこの殺伐とした岩屋の風景なのだ、と言われればなんとなくそぅであるような、とすれば、そこここにちらばっている岩々の中には、風魔が閉じ込められたままなのか……

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この弘法大師こと、空海の名を聞いたことがない、という日本人は少ないでしょう。774年に生まれ、835年4月22日に61歳で滅したとされる、平安時代初期の高僧です。真言宗の開祖でもあります。

その名の通り、「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージを持つこの人物、歴史上もっとも有名な僧と言われます。天皇から「大師号」を下賜された僧は全部で27名いるそうですが、一般的に大師といえば、たいていの場合は弘法大師を指すことが多いようです。空海や弘法大師を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いでしょう。

全国津々浦々に逸話が残されており、弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるそうです。無論、わずか60年余りのその生涯で日本中のそれだけ多くの土地に出没して逸話を残すというのは不可能なこと。歴史上の空海の足跡をはるかに越えています。

しかし、そういう伝説が各地に残るということは、それほど人気があったということでしょう。弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたります。が、この中でも特に多いのが「弘法水」に関する伝説であり、日本各地に残されています。

これすなわち、弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった類の伝説であり、この「弘法水」なる伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといいます。ここ修善寺温泉もその一つであって、大師が手に持つ「独鈷(とっこ)」で岩盤を、トンっと突くと、あれよあれよと豊富な湯が湧き出たのが始まりといわれます。

無論そんなわけはありません。いろいろ歴史を調べてみると、空海が創建したとされる修禅寺が建立されたころ、といえば、ちょうど彼は唐への留学から予定より早めの帰国。朝廷からはもっと長い間勉強しろ、と言われていたのを切り上げて、無理やり帰国した時期のようです。その理由の朝廷への申し開きを前に、福岡で謹慎待機をしていた時期であり、こんな伊豆半島の片田舎までわざわざやってきて、修行に励んでいたはずもありません。

とはいえ、それも真実と思えるほどに、中国留学から帰ってきたのち、空海が布教のために活発にあちこちを渡り歩いたのは事実のようです。彼の弟子たちの一人が空海の布教を助けるため、伊豆あたりまでやって来た、といったことももしかしたらあったかもしれません。

上の悪魔退治の話もそのあたりから出てきたことと思われ、まったく弘法大師と関係がない、というのも言い過ぎでしょう。

弘法大師が、いろいろな不思議な術を使ったという話も弟子たちが広めたものでしょう。10人以上もいたといわれる高弟たちが、全国で真言宗を広め歩いている間、伊豆にも足を延ばし、村人に接待されているうちに、出たホラ話に尾ひれがついていった、というのが本当のところでしょう。

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とはいえ、法大師だけでなく、その弟子たちにも不思議な術を使う人がいたといい、こういう魔術を使う人のことを実は、「異邦人」と言ったりもするようです。

「異邦人」といえば、そのむかし、久保田早紀が唄ったエキゾチックな名曲を思い浮かべる人も多いでしょう。が、「邦人」とは日本人という意味ではなく、「邦」とは「くに」と読みます。すなわち「国」のことであり、つまりは日本には住んでいない、異国の人、「異人」という意味になります。

社会集団の成員とは異質なものとして認識された人物であり、異界の住人、異国の人、西洋人、普通でない性質を持つ人であり、また別の意味では、「優れた人」、そして不思議な術を使う人を意味し、共同体の外部から内部へ接触・交渉する形象、とも目されていました。

ちなみに、久保田早紀のこの歌は、中近東のどこかをイメージして作られたと思っている人が多いと思いますが、実は、この曲は西東京の国立駅前の大学通りの景色をイメージして書かれたものだそうです。

「子供たちが空に向かい 両手を広げ …」という歌い出しは、歌詞作りに苦しんでいた久保田さんが、美しい並木通りのある国立駅近くの空き地で遊ぶ子供たちの姿を電車から見、とっさにイメージとして写しとったものだそうです。本人もそんな不思議なイメージの曲が売れるとは思っていなかったのでしょう。のちに「そんな、ふとした瞬間に出来た曲が、ここまでヒットするとは思わなかった。」と語っています。

それはさておき、「異人」とはそもそもは、「まつろわぬもの」、つまり朝敵として排斥された人々のことです。世の中からのけ者にされた人々であり、やがては、乞食、難民、犯罪者、被差別民・障害者なども異人だと決めつけられるようになりました。

さらに時代が下るにつけ、その後は「もののけ」と呼ばれるような霊的な存在こそが異人であると考えられるようになり、これはすなわち、鬼や怨霊のことです。これらの「もののけに」ついて語る、語り部の多くが、「耳なし芳一」で知られるような盲目の障害者であったようです。一般的には「琵琶法師」と呼ばれ、彼らもまた異人と目されていました。

この当時、異人のことを「モノ」と呼び、ここから「物の怪(もののけ)」ということばができました。語り部であるモノが、モノ(まつろわぬもの・もののけ)を語ることが「物語」であり、すなわち、「物語」とは元来、語り部である琵琶法師たち、異人が異人の話を語ることにほかなりません。

この琵琶法師たちが語った異人は、やがては神・来訪神と同一、と考えられるようになっていきます。古い時代の共同体の人々は外との境界を区切り、秩序ある世界像を作ろうとしました。

伝承において異人は、福を運んでくる存在として、異人である神を歓迎する一方で、禍をもたらす存在として排除したり、犠牲に供するようになっていきます。今我々の周囲に数多くある神社は、そうした神に生贄を屠る場所でもあり、通常の生活から隔離する場所でもありました。

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日本だけでなく、こうした「異人」を忌とするイメージは全世界にあり、英語では“Outsider”(アウトサイダー)、“Stranger”(ストレンジャー)などと呼び慣わされています。極端な例では“Alien”(エイリアン)という表現もあり、こちらは宇宙からやってきた異人というわけです。

オーストラリア北方のメラネシアでは、年に一度季節を定めて他界から来訪する、こうした異人、神を祀る祭りを催すそうです。彼らはこのときの仮面仮装の神を「異人」と呼びますが、日本にも似たような風習があり、地方によっては呼び方がかなり異なります。

例として、秋田のナマハゲや沖縄八重山のアカマタ・クロマタなどがそれであり、村落あるいは社会の外部から来訪し幸福をもたらすとされます。日本の場合、山伏をはじめとする遍歴の宗教者などが形を変えたものといわれています。

古代の日本では、このように、特定の時代・地域に限定されない、外部からやってくる人を、「異人」として扱うという概念が生まれました。昔の人々は海の彼方にあると信じられている他界からこれらの人が定期的に来訪すると考え、こうした霊的存在を「まれびと」と呼びました。

「まれびと」とは「客人」を訓読みで読んだもの、という説もあり、本来、神と同義語であり、その神はあちらの世界から来訪するとされます。

時たまにしか来ないため、マレビト(稀人)と書く、という説もあります。時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神であり、民俗学者たちは、こうした呼びならわしの変遷を今日の日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりと考えているようです。

実際、今日でも、外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられます。その理由は経済的、優生学的なものが含まれます。

「優生学」というのは聞きなれないことばでしょうが、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義され、20世紀初頭に大きな支持を集めました。

難しそうですが、難しく考える必要がなく、その最たるものがナチス政権による人種政策です。要は、自分たちの人種だけが優れていると考え、他を排除するための方法論を確立するための学問というわけです。ただ、ここでいう優生学的とは、その逆で、排斥するのではなく、それを自分たちの共同体に取り込もうとするわけです。

他からやってくる異人たちこそ優れた人種と考え、食事だけでなく金品を与え、できるだけ長居をしてもらい、挙句の果ては嫁を持たせて、自分たちの子孫の能力を向上させていこうという試みであり、それこそが自分たちが生き残る術と考えたわけです。で、あるからこそ、来訪者、まれびとを大事にしたわけです。

この風習の根底には、異人を「常世」からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれます。「常世」とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていました。今も集落の中心や神社などに数多く残る、「常夜灯」はこの世とあの世の境の「結界」の証しであり、信仰の対象として設置されたものです。

常夜は、古くは、かくりよ(隠世、幽世)ともいい、永久に変わらない神域です。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされます「永久」を意味し、時代の変遷とともに「常夜」と表記するようになりました。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙したものに、「現世(うつしよ)」があります。

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やがて、農村の住民達は、毎年定期的に、この常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至ります。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになり、現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるといいます。

時代が下がるにつけ、「まれびと」とい言う言葉もその意味も失われていきましたが、異邦人である神が祭場で歓待を受ける、という風習は残りました。やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることとなり、神格化すらされるようになります。

上のメラネシアと同じような風習は秋田や沖縄以外の各地でも残っています。「万葉集」や「常陸国風土記」といった古い書物には、祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されているそうです。

さらに時代が下ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、彼らに対しても神様並の歓待がなされるようになりました。こうしたことから、「遊行者」と呼ばれる存在が社会的に認められるようになっていきますが、やがてそれは宗教的な意味合いを強めていきました。

仏教の世界では「遊行」とは、仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くことです。つまり、日本中を旅して説法を行った空海もまた、異人、異邦人であったわけです。ほかにも、行基、空也、一遍などがその典型的な例であり、彼らは「少欲知足」を主旨とし「解脱」を求め、全国を遊行して歩きました。

空海のみならず、こうした過去の有名な僧侶の遊行先には数多くの伝説などが存在します。また僧侶自身が知識人であるため、寺の建立、食文化の普及、農作物の普及など地域文化に数多くの影響を与えたようです。

修善寺という土地柄が成立した背景にもそうした影響がうかがえます。空海本人の行幸はなかったとはいえ、その弟子たちがその理想を伝え、師匠から学んだ土木技術や農業技術を地元に落としていったと考えるのもまた、不自然ではなく、ごくごく自然のことと考えられます。

このように、日本各地には、伝説の人物がそこに訪れたかどうかは定かではないものの、その恩恵を受け、地域の発展に大いに果たした、といった話が数多くあります。

一方では、「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という言葉があります。尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つといった説話のことです。「物語」の類型の一種であり、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるというたぐいの話です。

「源氏物語」では、光源氏が都から遠ざけられ須磨に配流となりますが、その後栄誉を得た復帰、伊勢物語では、藤原の業平が都を去り東国に下るものの、その後復権して、朝廷の重鎮になる、といったのがそれで、ほかにも平家の落人伝説や、源義経を主題とした復活話などが有名なところです。

実はあの人は死んでいなかった、という類の話でもあります。全国各地に残る弘法大師伝説もまたそうであり、日本中のあちこちで大師様は今でも生きていて、あそこで修行を続けておられる…といった話をよく聞きます。これももまた、貴種流離譚の一種なわけです。

昨今、本屋に行けば数多く居並ぶ「小説」もまた、そうした貴種流離譚にルーツを持ち、そこから派生した「物語」であり、そうした物語文学こそが、日本文学の原型だとする説もあるようです。

日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼるとされ、同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは世界的に類例が少ないといいます。

古くはあの世からやってきた異邦人、すなわちご先祖様や神様がもたらし、その結果形成された日本文化の上に根付いたのが日本文学、と考えると、今こうしてその日本語を使ってこのブログを書いていること自体、なにやら不思議な気分になってきます。

いわんや、私のブログなど文学といえるようなシロモノではありませんが、この先訪れる長雨の季節、ひとつやふたつ、きちんとしたものを読破してみたいと、考えたりもします。

どんなものがいいでしょう。空海は当代一流の文人としても知られていたようなので、そうしたもののひとつでも読んでみたいと思ったりもしますが、敷居が高すぎるでしょうか。

その昔、司馬遼太郎さんが「空海の風景」という小説を書いておられました。私は既に一度読んでいますが、もう一度読み返すのもよろしいかと。みなさんも遠い平安の時代の昔を、この本を通じて味わってみてはいかがでしょう。

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