さくら さくら

ソメイヨシノや八重桜が終わり、代わって今はハナミズキがあちこちで満開です。

北アメリカ原産で、おもにアメリカ合衆国東岸の北部から南部諸州まで自生している樹木です。南部のジョージア州などで初春に開花し、徐々に北に移動して春の終わりには最北部のメイン州で開花します。このことから、日本の桜前線とおなじように現地では「ハナミズキ前線」として報道されています。

英語では「犬の木」を意味する“dogwood”と呼ばれています。その語源には諸説あるようですが、硬いこの木を使った串を意味する英古語の“dag”が長い間に“dog”に変じたと言われています。

また、17世紀頃にその樹皮の煮汁をイヌの皮膚病治療に使うことが流行ったためという説があります。ただし、イヌの皮膚病治療に使ったとされる“dogwood”は、同じミズキ科の植物でもセイヨウサンシュユという樹だと考えられていて、ハナミズキとは異なります。

日本における植栽は、1912(明治45)年に当時の東京市が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈り、その返礼として1915(大正4)年に入ってきたのが始まりです。白花の苗木が40本、ピンク花の苗木が20本で、日比谷公園、小石川植物園などに植えられました。

このアメリカから贈られたハナミズキの原木は、第二次世界大戦中にほとんどが伐採されました。「敵国」から贈られたというのが理由でしょう。しかし、東京都世田谷区深沢にある農業高校、都立園芸高等学校に贈られていたものが伐採を免れました。

二本贈られたもののうち一本が現存しており、それ記念して2015(平成27)年4月10日に100年祭が同校で実施されました。これに合わせ、日本郵便とアメリカ郵政庁から記念切手が同時発売されています。

そもそも日本からアメリカへソメイヨシノが送られたきっかけは、同国の地理学者、エリザ・ルアマー・シドモアが、ポトマック河畔に桜並木を作ることを提案したからです。

ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となったこの人物は、72歳で亡くなる1928(昭和3)年までに度々日本を訪れた親日家であり、日本に関する記事や著作をいくつか残しています。1884(明治17)年頃に在横浜米国総領事館に勤務していた兄を訪ねたのが初めての訪日とされ、このとき新渡戸稲造夫妻と知り合い終生交流がありました。

エリザは、この最初の訪日のときに見たサクラに大きな感銘を受けたようです。母国へ帰国する際、首都ワシントンD.C.に日本の桜を植える計画を着想しました。しかし当初は積極的には動かず、14年後の1909(明治42)年、大統領・ウィリアム・タフトの妻、ヘレン・タフトにそのことを打ち明けました。

このファースト・レディが興味を示したことで、エリザの桜並木計画はがぜん現実化に向けて動き出します。タフト婦人のつてで知り合った政府関係者を中心に精力的に働きかけるようになり、話は急速に進んでいきました。

やがてこの計画は、当時ワシントン在住だった日本人科学者、高峰譲吉と当時の駐ニューヨーク日本総領事・水野幸吉の知ることころになりました。さらにこの情報が、当時の東京市長であった衆議院議員、尾崎行雄にもたらされました。

尾崎は先の日露戦争の講和に助力してもらったアメリカへの謝礼を考えていたところへ、水野からこのような計画があることを知らされました。早速、桜を寄贈する意向があることをアメリカの高峰と水野に連絡し、大統領夫人に打診してもらいました。会見が許され、結果、アメリカはこの寄贈の提案を受け入れるに至ります。




こうして東京市から贈られた桜2000本が海を渡り、ポトマック川に植樹されることになりました。ところが港で検疫を実施した農務省の役人が、その苗木に昆虫や線形動物が寄生していることを発見しました。これを聞いたタフト大統領はやむなく焼却命令を出し、贈与の桜はすべて失われてしまいます。

この知らせを聞いた日本側関係者は落胆しましたが、尾崎東京市長は、再度サクラを寄贈することを決意します。高峰博士の助力も受けて、翌年、前回を上回る12種類、3020本の苗木の再度の贈与が決まりました。

こうしてふたたびサクラの苗木が、海を渡ることになりました。日本郵船の貨客船阿波丸乗せられ横浜港を出航後、海路アメリカのシアトルまで運ばれ鉄道を経由して3月26日にワシントンD.C.に到着しました。

ちなみに、この阿波丸は、のちの太平洋戦争中の1945(昭和20)年に、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュの雷撃によって撃沈された船と同じものです。このとき、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡しましたが、阿波丸は病院船に準じた保護(安導権、安導券、Safe-Conduct)がアメリカに約束されていました。

両国の懸け橋となった船が撃沈されるという痛ましい事件が起こったことは悲しいことですが、この船によってアメリカにもたらされたサクラは、軍拡競争でぎくしゃくしていたこの当時の日米関係をより良好なものとするきっかけとなりました。

こうして、1912(明治45年、大正元年は7月から)年の3月27日にポトマック川の岸辺で日本からのサクラの贈与の式典が行われました。それから20年以上を経て苗木は多くの花を咲かせる成木となり、1935(昭和10)年には、初の「桜祭り」が開催されました。多くの市民団体の共同支援で開かれたものであり、以後、毎年のイベントになりました。

やがて桜並木はポトマック川辺縁を構成する風景の一つとなりますが、1941(昭和16)年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争がはじまると、その3日後には4本の桜が切り倒されました。敵国のものと考える心ない人達の仕業でしたが、一方ではサクラに罪はないと考え、これを守ろうとする人たちもありました。

更に被害を受けないようにと、日本から贈られたものということは伏せ「東洋の桜」と称するなどの対策が取られた結果、それ以上の被害はありませんでした。しかし、第二次世界大戦の間、祭りは休止され、それが復活するのは戦後の1947年(昭和22年)のことになります。

ワシントンD.C.や商務省、D.C.委員会の支援によって再開されたこの久々の桜祭りには戦勝気分もあって多くのアメリカ人で賑わいました。

5年後の1954(昭和27)年には、日本から300年物の灯篭が寄贈されました。これは1854年にペリー提督と日米和親条約が調印されたことを記念したものでしたが、以後の桜祭りは、この灯篭の火入れをもって公式に始まることとなりました。

現在、全米桜祭りは、地元ワシントンの経済界の代表者や多くの市民、政府組織などから構成される傘下に多くの組織を持つ企業体(ナショナル・チェリーブロッサム・フェスティバルInc.)によって運営され、毎年内外から150万人以上の人々が訪れます。

今年も例年通り多くの観光客で賑わう予定でしたが、残念ながらコロナウイルス対策のため、予定通りにはいかなかったようです。催しの一部の中止や延期が発表されています。

政界の麒麟児・尾崎行雄

ところで、このポトマック河畔に桜を送った功労者のひとり、尾崎行雄は、その後日本の議会政治の重鎮となり、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれるようになった人物です。戦後長らく衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの数々において日本記録を持っています。

安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)の医家に長男として生まれました。

生家は代々医者を業としており、父、尾崎行正もそれを継いで漢方医をしていましたが、幕末の動乱時にはその渦中に自ら飛び込んでいます。戊辰戦争の際には、土佐藩の板垣退助を慕って官軍に入り、旧武田家臣の子孫たちで構成された「断金隊」に加わって会津戦争を戦い抜きました。隊長・美正貫一郎の討死後は部隊の2代目隊長にも任ぜられています。

維新後は、弾正台(監察・治安維持などを主任務とする官庁)の役人となり、東京で勤務するようになります。息子の行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父に従って上京し、番町(現在の麹町)の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾で学びました。さらにその後、父の仕事の関係で高崎に引越し、このとき地元の英学校で英語を学んでいます。

その後父が度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移したのに付き従い、ここでは豊宮崎文庫英学校に入学しました。古典籍を収蔵する豊宮崎文庫(書庫)に隣接して設置された学校で、同地の文教の中心地として子弟教育を行い、この当時としては珍しく英語教育にも力を入れていました。

このように父の行正は英語教育に熱心だったようで、英語を通じて、幅広い国際知識を行雄に得させようとしていたものと思われます。しかし、その後さらに熊本転任が決まったため、三重を離れなければならなくなりました。このため、行雄には東京遊学を許し、弟を同行させて慶應義塾へ入学させました。

当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾に16歳で入学した行雄は、入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となりました。しかし、基礎的な学問に力を入れていたここの教育方針が性に合わず、反駁した論文を書いて退学。世の中で役に立つ学問を納めたいと工学寮(のちの東京大学工学部)に再入学します。

しかしここでも学風の違いを感じて退学。明治12(1879)年には、福沢諭吉に紹介されて新潟新聞に入社し、21歳でここの主筆となりました。ちなみに退学した慶應義塾の塾長である福澤とは喧嘩別れしたわけではなく、その後終生にわたって親交があったようです。

その3年後にはさらに報知新聞の論説委員となり、このころから政治活動も行うようになり、立憲改進党の創立にも参加しました。




25歳のとき、東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出されると、反欧化主義の急先鋒となり、このころ自由党を離反していた後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めました。

大同団結運動とは、帝国議会開設に備え、自由民権運動各派による過激な若手が行った政治活動であり、メンバーと結託した尾崎は、クーデターを計画し始めました。

後藤を正装させて宮内省に向かわせ、直々に明治天皇と会って、自分たちの考えを伝えることを画策しますが官憲の妨害にあって失敗し、保安条例により東京からの退去処分を受けてしまいます。

このころ号を学堂から愕堂に変えており、これは「道理が引っ込む時勢を愕(おどろ)いた」ためだ、としています。のちに作った会派は、「咢堂会」であり、その後も本名ではなく、この号で呼ばれることが多くなりました。死後、神奈川県に作られた記念館も「尾崎咢堂記念館」になっています。

その後も星亨や林有造ら、旧土佐藩の自由民権運動家らと友好を結んで政治活動を続けますが、表舞台から遠ざかり、やがて三十路を迎えます。このころ、父の行正は伊勢で余生を楽しんでおり、その父を頼ってかつて住んでいた三重へ戻りました。

この父・行正は、維新後に熊本で起こった士族反乱、神風連の乱にも参加するなど、どうも血の気の多い人物だったようです。激しい戦いの中、九死に一生を得る、という経験をしていますが、その際、多くの同志と親交を結びました。

そうした同士がここ三重や畿内一帯に多く在住しており、尾崎はやがてそうした父の縁故を知己とするようになります。多くの支援を得るようになり、再び政界への復帰を目指した尾崎は、1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。その後も連続25回当選を続け、63年間にも及ぶ長い議員人生を送ることになります。

1898(明治31)年、第1次大隈内閣が成立。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣。第2次山縣内閣が発足すると、かねてよりの盟友星亨と共に院内総務を任じられました。さらに桂内閣が発足すると、党務執行の常務委員の5人に選ばれるなど飛ぶ鳥を落とす勢いであり、人はこのころから彼のことを「政界の麒麟児」と呼ぶようになりました。

しかし、その後に伊藤博文と対立して離党、同志研究会を組織し、その後も猶興会などを経て立憲政友会に復党するなど、めまぐるしく所属政党を変えました。この間、政府要職には就かず、在野で時の政府を批判し続けました。

1903(明治36)年、東京市長に就任。これは在野で吠えてばかりいては政治は動かないと考えたからでしょう。この当時の東京市の人口は200万に届こうとしており、日本の総人口4500万の中にあっては突出しています。その長になるとういうことは国政への大きな発言力を得るということにほかなりません。

以後、1912(明治45)年まで9年の間の二期、尾崎はその地位にとどまり続けました。しかし相変わらず中央政界での政治活動も続けており、この間、猶興会を改組して又新会を成立させたほか、自身は総裁・西園寺公望の下で再び立憲政友会に復帰するなど、政界の再編に深く関わりました。




このころ、欧米各国の軍備拡張競争の続く中、とくにヨーロッパではきな臭い空気が流れ始めており、これはやがて1914(大正3)年に勃発する第一次世界大戦につながっていくことになります。

日本も日露戦争の勝利後、軍拡を続けており、1910(明治43)年には韓国を併合するなど、軍国主義の道をひたすら歩み始めていました。

明治時代から大正時代にかけてのこの時代、日本の政治は山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文といった、「元老」と呼ばれる維新の立役者によって牛耳られていました。このうち、西園寺を除く8名は倒幕の中心となった薩摩藩・長州藩の出身者で、いわゆる藩閥政治を形成していました。

歴史的にみれば、この藩閥による寡頭体制が日本を軍国主義の道に進ませたと言っても過言ではありません。一方では、軍事体質を批判し、明治憲法による立憲主義思想に基づく民主的な政治を望む動きも台頭してきており、その急先鋒が尾崎ら若手政治家でした。

こうした中、1911(明治44)年8月に発足した第2次西園寺公望内閣では、陸軍大臣だった上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言。西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否しますが、上原はこれを不服として陸相を辞任してしまいました。

この当時、陸海軍大臣は大将・中将にしかなれない規定があり、数は限られています。その中から適任の陸相を再任できなかった西園寺内閣は、これによって内閣総辞職を余儀なくされてしまいます。

後継内閣は陸軍大将の桂太郎が引継ぎ、第3次桂内閣として発足することとなりますが、前西園寺内閣から引き続き海軍大臣を務めることになった斎藤実が「海軍拡張費用が通らないなら留任しない」と主張するなどあいかわらず右寄りの内閣でした。

これに対して、国民の間からも批判が相次ぎます。桂の就任は、軍備拡張を推し進めようとする黒幕、山縣有朋の意を受けたものだ、とする世論が巻き起こりました。

政界の中でもこうした軍国主義に反発する勢力は増えつつあり、こうした中、議会中心の政治を望んで「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする「憲政擁護運動」が起こりました。その中心人物が立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅であり、二人はお互いに協力しあって憲政擁護会を結成しました。

1913(大正2)年2月5日、議会で政友会と国民党が共同で桂内閣の不信任案を提案しましたが、その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えました。

「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

「玉座を胸壁とし詔勅を以て弾丸とする」は、天皇の権威をかさに着て自分勝手な政治をしている、という意味であり、この激しい言葉は、桂を怯えさせ、彼は不信任案を避けるため、苦し紛れに5日間の議会停止を命じました。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件が発生しました。

また、過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した群衆が国会議事堂に押し寄せました。こうした集会は全国で行われ、各地に「咢堂会」が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかったといいます。

この結果、衆議院議長大岡育造の説得を受けた桂は内閣総辞職を決断し、これはのちに大正政変と呼ばれました。直後に桂は病に倒れて死去。その死を早めたのは尾崎のこの弾劾演説だったといわれています。

これより少し時を遡りますが、尾崎行雄は新潟新聞の主筆になるのと前後して最初の結婚をしています。お相手は長崎の尊王家の娘だったそうですが、その後この妻を病気で亡くしており、このため再婚をしました。

東京市長になった1903(明治36)年のことであり、この演壇に先立つちょうど10年前のことです。尾崎が45歳で、相手の名は尾崎テオドラといい32歳でした。男爵、尾崎三良の娘ですが、両家は親戚関係にはなく、苗字が同じだったのは全くの偶然です。

テオドラは、日本名、英子といい、尾崎三良がロンドン留学中に、英国人日本語教師ウイリアム・ウィルソンの娘、バサイアと結婚し、その間に生まれました。

しかし、両親は5年間の結婚後に離婚し、三良は妻子を置いて帰国。セオドラは16歳までイギリスで母に育てられました。ロンドンでの母子の生活は楽ではなく、母子宅に下宿していた門野幾之進(のちの貴族院議員、千代田生命保険初代社長)から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介するという趣旨で1899(明治32)年に来日しました。

こうして父の母国で働き始めたテオドラでしたが、4年後には教師を辞め、このころ、児童文学者として人気を博していた巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺をもとに、文筆活動を始めました。そして日本の有名な昔話22編を収録した英文の物語集“Japanese Fairy Tales”を出版しました。

この作品は欧米でヒットし、国内でも高く評価されたため、別の執筆なども舞い込むようになり、日本の女性について書いたエッセーなども書くようになりました。この中で、西洋社会で誤解されがちな日本の女性について論じるなど、女性解放活動の一端も担うようになります。

こうした活動から、日本の社交界でも人気を集めるようになり、日露戦争の取材に来たタイムズ特派員とともに韓国を訪れるなど、さらにその活動の場を広げました。

尾崎と出会ったのはちょうどこのころです。そのきっかけは郵便配達の誤配だったようで、尾崎という同じ苗字のおかげで知り合った二人は急速に親しくなり、1905年(明治38年)に結婚しました。

日本の桜を米国の首府ワシントンへ贈ろうというプランが持ち上がったのは、これから4年後のことであり、想像ですが、その企画進行にはテオドラも関わったのではないでしょうか。

親日家でこのころ度々日本を訪れていたエリザ・シドモアが、尾崎夫妻と会合を重ねていたとの記録はみあたりませんが、そうした縁は当然あったかと思われます。



その後尾崎は東京市長を辞任。上の桂内閣弾劾演説を行なった翌年の1913年(大正2年)には、さらにシーメンス事件(日本海軍高官の収賄事件)で山本内閣弾劾演説を行なって山本権兵衛を辞職に追い込みました。そして、その後成立した大隈内閣では司法大臣に就任して、中央政界に復帰しました。

第1次世界大戦後はヨーロッパを視察し、帰国後、「戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす」として、その後は平和主義・国際主義による世界改造の必要性を説くようになります。また、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動を支援しました。

さらに、軍備制限論を掲げ、軍縮を説き全国を遊説するなど、軍縮推進運動、治安維持法反対運動を展開し、一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示しました。その一方で、議会制民主主義を擁護する姿勢を示しましたが、軍部にあからさまに反旗を翻すような議員が少ない中、その主張によって政界では次第に孤立していきます。

このころの所属は自らが立ち上げた憲政会でしたが、この中でも孤立し、離党するとついに無所属議員となり、その後30年あまりを無所属で通しました。無所属になったことは政界での出世の妨げとなり、閣僚経験は2度の大隈内閣で経験したのみに止まり、総理大臣はおろか衆議院議長や副議長、国会での常任委員長になることも終にありませんでした

それでも尾崎は単身で反戦に挑みました。1931(昭和6)年、カーネギー財団に招かれ米国に滞在している時、満州事変勃発の報を聞いた尾崎は、「日本は間違っている」と主張。これを既に軍部に感化されてしまっている国民は受け入れず、逆に「国賊・尾崎を殺せ!」という声も出るようになり、日本はさらに軍国主義の道を進んでいきます。

そうした空気の中でも尾崎は主張を曲げることなく、6年後の1936(昭和12)年には、議会で辞世の句を懐に決死の軍部批判を行ないました。「(楠)正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上」と時世の句を詠み(正成は圧倒的な武力の差のある足利尊氏らに挑み敗れた)、2時間におよんだこの演説を新聞各紙は全面を埋めて掲げたといいます。

しかし、近衛内閣が誕生し日中戦争が泥沼化へ入り、さらに戦争下での軍部の方針を追認し支える大政翼賛会が結成され、日独伊の三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなくなりました。

これより少し前、最愛の妻、英子は肉腫病を患うところとなっていました。医療先進国のアメリカにやって手術を受けさせましたが、その甲斐もなく、1932(昭和7)年に行雄らと滞在していたロンドンで逝去。61歳でした。

行雄との間には、清香、品江、行輝、雪香の3女1男があり、雪香は旧陸奥中村藩主の相馬子爵家32代当主で、宮内庁事務官の相馬恵胤(やすたね)に嫁ぎました。

ちなみに三女の雪香は後年、67歳になって、この当時のインドシナ難民を支援するために「難民を助ける会」を設立(1979(昭和54)年)しており、この会は難民救済の国際組織の草分けとして有名です。1997(平成9)年には、同会が主要メンバーである地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞しています。

その後、日本は泥沼の太平洋戦争に突入していきますが、このころ84歳になっていた尾崎は、翼賛選挙にも反対し東条首相に公開質問状を送るなど、相変わらず反体制派の立場を貫きました(1942(昭和17)年)。同年、選挙中の応援演説が元で、不敬罪で起訴され巣鴨拘置所に入れられましたが、その2年後には、大審院で無罪判決受けています。

やがて1945(昭和20)年に終戦。多くの人が戦禍の後遺症に苦しむ中、尾崎は同年12月に、全世界の協調と世界平和の実現を願い、「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出。7年後の1952(昭和27)年にはそうした功績から、衆議院より憲政功労者として表彰されました。

このころより、体調を崩して入院していますが、病床より立候補して当選。これにより第1回より連続していた当選の25回目を果たしました。しかし翌53年4月の、第26回総選挙においては初めて落選。それでも、その名声は衰えることなく、同年7月には衆議院名誉議員に10月には東京都名誉都民(第1号)となりました。

1954(昭和29)年、直腸がんによる栄養障害と老衰のため慶應病院に入院。10月6日、逗子の自宅で永眠。95歳でした。尾崎が息を引き取った家は、1927(昭和2)年に彼が70歳のとき建てた家で、「風雲閣」と自らが名付けていました。終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れていたそうです。

今は解体され、その地にある披露山公園の駐車場には尾崎行雄記念碑が建てられており、そこには「人生の本舞台は将来にあり」と刻まれています。

あまり知られていませんが、尾崎はクリスチャンであり、1875(明治8)年、17歳のときに、英語の教師だったカナダ人宣教師から洗礼を受けています。妻のセオドアもイギリス育ちでありクリスチャンだったと思われます。

尾崎自身、子供のころから英語に慣れ親しんでおり、妻もハーフということで、かなり英語は堪能だったのではないでしょうか。1950(昭和25)年には、英語国語化論を提唱したこともあり、同年、92歳という高齢にもかかわらず2ヵ月に渡って訪米しています。

100歳になったらワシントンで余生を過ごしたいと語っていたといいますから、若いころに自分が橋渡しをしてアメリカに渡ったサクラに親しみを持っていたのかもしれません。ワシントンD.C.のポトマック川にある美しい桜並木は、尾崎が生きていればその美しい姿で彼を歓迎してくれたに違いありません。



化学起業家の先駆け 高峰譲吉

さて、尾崎行雄の話はこれくらいにして、その尾崎とともにサクラのアメリカへの寄贈に尽力し、日米友好の橋渡しを果たしたもうひとりの立役者、高峰譲吉のことにも触れておきましょう。

高峰は、幕末の1854(嘉永6)年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の御馬出町(おんまだしまち)の漢方医で加賀藩御典医の高峰精一の長男として生まれました。その生地は、山町筋(やまちょうすじ)と呼ばれ、今も伝統的建造物が数多く残る古い商人町で、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。

母、幸子は造り酒屋の娘ですが、父の塩屋弥右衛門は町算用聞並という役職を藩からもらっていました。当時の高岡の町では、町年寄、町算用聞に次ぐ重要な役職で、由緒ある町人から選任された町役人でもありました。従って、御典医である高峰家とは相応のつり合いがとれた家同士といえます。

高峰は、才気あふれる子供だったようで、幼いころから外国語と科学への才能を見せ、父からも西洋科学への探求を薦められていたようです。

1865(慶応元)年、12歳で加賀藩から選ばれて長崎の致遠館に留学して海外の科学に触れたのを最初に、15歳で京都の兵学塾に学び、続いて大阪の緒方塾(適塾)に入学。翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学び、工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業しています。

おそらく地元では神童と呼ばれていたことでしょう。その後もエリートコースを進み続け、1880(明治13)年からはイギリスのグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884(明治17)年にアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣されました。

そこで出会ったのが後の妻となるキャロライン・ヒッチで、父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなど職を転々としていました。

アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して開催されたこの博覧会では、ヒッチ家で若い博覧会スタッフの打ち上げパーティが開かれ、これに譲吉が出席したことが縁となりました。二人は瞬く間に恋に落ち、婚約。これから3年後の1887年(明治20年)に結婚しました。

帰国後の1886(明治19)年、高峰は専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力します。この年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立していますが、この会社は、かねてより高峰が米国で特許出願中であった、ウイスキーの醸造に日本の麹を使用するというアイデアを実現するための企業でした。

元々、酒好きだった高峰博は、スコッチ・ウイスキーの醸造に興味を持っていました。清酒が醸造過程で米に含まれるデンプンを麹で糖化させるように、ウイスキーも大麦に含まれるデンプンを麦芽(モルト)の酵素によって糖化させます。

ところが、ウイスキーを醸造する過程では、この麦芽をつくるのにたいへんな手間がかかります。そこで高峰は、これを麹で代用できないかと考え、研究を重ねた結果、従来より強力なデンプンの分解力を発揮する「高峰式元麹改良法」を完成させ、特許出願しました。

この画期的な発明は、当時のアメリカにおけるウイスキー醸造で90%ものシェアを持っていた「ウイスキートラスト」の社長の目に留まり、アメリカでビジネスをしないか、と誘われました。

高峰はこれをチャンスととらえ、東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に相談しました。ところが、渋沢は海のものとも山のものともわからないようなそんな話に乗るのは無謀だとして、渡米を止めるようにいいます。

この言葉により、高峰もいったん思いとどまりますが、このころ渋沢とともに商法講習所(のちの一橋大学)の設立のために働いていた益田孝(後の三井物産の設立メンバー)の強い勧めもあって、渡米を決意するに至ります。

1890(明治23)年、再びアメリカに渡った高峰はシカゴに向かい、ここで「高峰式元麹改良法」を利用したウイスキー醸造の開発に取り組みました。そして苦心の末その製法を確立。シカゴ南西部にあるピオリヤに完成した新工場で大規模な生産を始めました。

この頃ピオリアには22カ所の蒸留酒製造所と数多くの醸造所があり、アルコールに課される内国税収入は全米のどこよりも多く、禁酒法時代には主要な密造地域になったほどです。

ところが、麹を利用したこの醸造法を使用することで、従来のモルトを使った醸造法でウイスキーを製造する職人たちが失職するところとなり、地元から大きな反発を浴びます。高峰が建てた工場のまわりをデモ隊が取り囲み、夜間の外出もままならない危険な状況が続きました。

そこで高峰は、それまでのモルト職人を従来より高い賃金で雇うことを提案し、いったんは和解しました。ところが、今度は、従来のモルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた地元の他の醸造所の所有者達が妨害を始めました。

新しい醸造法での酒造りを止めさせようと、夜間に譲吉の家に武装して侵入し、一家に危害を加えようとする者まで現われました。しかし、高峰の家族は隠れていたので見つからず、侵入した賊たちは、隣接する研究所に火を放ってこれを全焼させました。

さらには、製麦業者によるロビー活動などもあり、結局、高峰の会社は、アメリカ政府から解散命令を受ける事態となってしまいます。

その後、高峰一家はニューヨークへ移り住み、セントラルパークの近くのビルの半地下に、事務所兼研究所を開き、新たなビジネスを模索し始めました。そしてある日、新たな発見をします。

ウイスキー製造で排除された麹を水に浸し、アルコールを加えたあとに出来上がったデンプンを粉末にしたところ、それまでだれもが経験したことのない強力な酵素作用を発見したのです。

1894(明治27)年に発見されたアミラーゼの一種であるこの酵素に、高峰は、自らの名である”タカ”をつけ、「タカジアスターゼ」と名付けました。今も胃腸薬や消化剤として世界で広く使われているこの薬品は、その後の酵素化学の発展に大きな影響を与え高く評価されています。



しかし高峰の発明はこれにとどまりませんでした。かつて彼が居住したピオリアは当時アメリカでも有数の豚肉の加工製品の産地で、ブタ以外のウシも含めて多数の食肉処理場が存在していました。そこで、高峰はこのとき廃棄される家畜の内臓物に着目し、これからアドレナリンを抽出する研究をはじめました。

アドレナリンは1895(明治28)年にナポレオン・ツィブルスキによって初めて発見された物質で、彼が動物の副腎から抽出したものには血圧を上げる効果が見られました。しかし、純粋のアドレナリンをどうやって抽出するかが問題とされ、医薬品として使用するためには安定した抽出法の確率が求められていました。

高峰はこの難題に臨み、1900(明治33)年、についにウシの副腎からアドレナリンの結晶を抽出することに成功します。これは世界で初めてホルモン(体内の特定の器官で合成・分泌され、生体中の機能を発現、正常な状態を維持する)を抽出した例であり、タカジアスターゼと同様にこちらもその後の医学の発展に大きく貢献しました。

現在、世界中で100年以上利用されている薬は3つしかないといわれています。

それは、タカジアスターゼ、アドレナリン、アスピリンの3つであり、このうちの2つ、タカジアスターゼとアドレナリンが高峰の功績ということになります。とくに、アドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられるなど、医療現場ではなくてはならないものです。

タカジアスターゼとアドレナリンの成功により、高峰は莫大な収入を得るところとなり、アメリカの政財界の著名人の知己も増え、交流も得るようになりました。

この頃、日本の極東での立場は危ういものでした。ロシアが極東へと進出し、日本との朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって、1904(明治37)年、ついに日本はロシアと戦争状態に突入します。日露戦争です。

当初より戦費が不足していた日本は、日本海海戦で勝利を得たものの、戦争が長引くことを恐れ、国民の間に「戦勝」の気分が続いているうちにできるだけ早い終戦を望んでいました。このため、仲裁をしてくれる国を探しており、その第一候補が米国でした。

ところが、当事のアメリカの知識人のほとんどは日本については何も知らず、どちらかといえばロシアびいきでした。このため、当事日銀総裁であった高橋是清と、ハーバード大学ロースクールで法律を学んだことのある貴族院議員であった金子堅太郎が渡米し、同大学のOBとして面識のあったルーズベルト大統領と直接交渉することになりました。

その彼らを陰で支えたのが、高峰でした。私財を投げ打ってアメリカ世論を日本の味方につけるべく奔走し、日本のことを知らないアメリカ人に日本の文化を伝えるべく、各地で講演を行い、新聞に記事を掲載しました。また、ニューヨーク郊外に「松楓殿」を開いて日米親善を図りました。

講演の際は常に羽織袴姿でキャロライン夫人を伴っていたといい、こうした努力の結果、米国世論は次第に日本有利となり、1905(明治38)年、ポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、日露戦争は終結しました。

その後も、ジャパン・ソサエティの設立(1907(明治39)年設立)に尽力し、1911(明治43)年には、国際親善の場とするためとして、ニューヨークのハドソン河畔にアパートメントを購入しています。

同じくニューヨークにあるポトマック河畔にサクラの並木を作りたいという、エリザ・シドモアからの打診があったのがこのころのことです。それから5年後の1912年(明治45)年にポトマック川の岸辺で日本からのサクラの贈与が実現し、記念式典が行われました。

高峰はそれから10年後の1922(大正11)年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去しました。67歳没。この当時、日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られませんでした。しかしその亡骸はワシントンDCのウッドローン墓地に葬られました。ちなみにこの墓地には野口英世の墓もあります。

高峰の没後、妻のキャロラインは高峰が保有していたシカゴの地所を処分し、4年後にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若い男性と再婚しました。その後、農場を次々と購入し大牧場主となり、地元のメキシコ人労働者のための福利厚生事業を行うなどの慈善活動を行いました。

88歳まで生き、1954(昭和29)年に死去。生前、農場で働くメキシコ人労働者のために建設したカトリック教会に夫のチャールズともに葬られています。

高峰とキャロラインの間には二人の男子があり、長男・譲吉II(ジューキチ・ジュニア)は、名門イエール大学卒業後、ドイツに化学留学。パリのパスツール研究所でも学び、帰国後、亡くなった父親が設立した会社の代表となりましたが、41歳でニューヨークのホテルの14階から転落死しました。

以前にも放火されて研究所が全焼しているという事件があり、母のキャロラインは、高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と主張しましたが、警察は飲酒による事故死と断定しました。

もう一人の子、次男のエーベン・孝も学業に秀で、イエール大学卒業にニューヨークで結婚しましたが、35歳のとき離婚。兄の没後は、父の事業を引き継ぎ、さらに発展させました。

日本生まれだったため、父と同じく米市民権が得られず、第二次大戦勃発では財産を没収される可能性がありましたが特例で許され、ペニシリン製造などで軍を支援しました。

1943(昭和18)年にイギリス女性と再婚、10年後の1953(昭和28)年に63歳で亡くなりました。没後、妻が事業を売却し、財産の大半は散逸しましたが、一部がサンフランシスコ市に寄付され、この資金を使って、ゴールデン・ゲート・パークに「高峰庭園」が造られました。これはゴールデンゲート・ブリッジの近くに今もある公園です。

高峰が発明したアドレナリンは、世界中で高く評価されましたが、日本でも高い評価を受け、1912年(大正元年)には帝国学士院賞を受賞しており、これに先立つ1899年(明治32年)にもタカジアスターゼ抽出成功が評価されて、東京帝国大学から名誉工学博士号を授与されています。



高峰が残したもうひとつの遺産 ~ 宇奈月温泉

実は、高峰はキャロラインと不仲だったといわれており、このため、晩年はアメリカよりも日本にいることが多かったようです。この名誉博士号を授与された年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ会社の初代社長に就任しており、この会社と高峰は販売許諾契約を結び、日本・中国・朝鮮での独占販売を目指していました。

この会社こそ、「三共」であり、その後第一製薬と合併し、現在は「第一三共」となっています。武田薬品工業に次ぐ業界二位の大会社であり、世界的にも有数の製薬会社です。

また、高峰はアメリカで開発されたアルミニウム製造技術を用い、日本初のアルミニウム製造事業を推進することを目論んでいました。このあたりが普通の科学者と違うところで、学問一筋の研究バカではなく、起業家であることが彼の本質であったようです。

1919(大正8)年に設立された東洋アルミナムは、それを具現化したもののひとつで、アルミ精錬に必要な電源確保のため、地元の富山県にある黒部川に発電所を建設することを目的としていました。

同社は1920(大正9)年に黒部川の水利権を獲得し、1921(大正10)年に子会社・黒部鉄道を設立。開発の足がかりとして国鉄北陸本線・三日市駅(現・あいの風とやま鉄道黒部駅)から黒部川に沿って鉄道路線を敷設していき、1922(大正11)年には下立駅まで延伸されました。

この鉄道は現在も「富山地方鉄道」として運営されており、富山市内の電鉄富山駅を発し、宇奈月温泉駅に至る53.3kmの路線です。下立駅は終点の宇奈月温泉駅から4つ手前の駅で現在は無人駅となっています。

同年、東洋アルミナムは五大電力の一角・日本電力の傘下に収められ、それ以降黒部川の開発は日本電力の主体のもと行われていきます。

その第一弾として柳河原発電所の建設工事が1924(大正13)年に着手され、1927(昭和2)年に完成。柳河原発電所は現在の宇奈月温泉の4kmほど下流にある発電所で、ダムでできた水位落差により発電を行うものではなく、主に黒部川の急流を利用した発電所だったようです。

これと並行して下立駅から桃原駅(のちの宇奈月駅、現:宇奈月温泉駅)およびそれ以南の工事専用鉄道路線(現:黒部峡谷鉄道の本線)が敷設されました。

日本電力は柳河原発電所完成後、さらに開発の手を上流へと伸ばし、小屋平ダムおよび黒部川第二発電所の建設を目指して1929(昭和4)年に鉄道路線をさらに小屋平駅まで延伸しました。

ちなみに、この第二発電所に続いて、その後第三、第四発電所などが建設されますが、黒部川第一発電所というものはありません。「第二」の意味は、上の柳河原発電所を最初のものとし、黒部川に二番目にできた発電所、というほどの意味だったようです。

こうして小屋平ダムの建設の建設が始まりましたが、この当時は不況下にあって、同年11月には工事の一時中断を余儀なくされてしまいます。

ところが、1932(昭和7)年になると一転して景気が回復し、電力が不足する傾向となったことから、1933(昭和8)年6月にダムの建設工事が再開されました。

工事を請け負ったのは大林組(ダム・取水口・沈砂池を担当)、間組(導水路トンネル上流側を担当)、鉄道工業(導水路トンネル下流側を担当)、大倉土木(現:大成建設、水槽・発電所を担当)の4社です。

既に鉄道路線が小屋平駅まで至っていたこともあって工事は順調に進み、1936(昭和11)年には小屋平ダムが完成。黒部川第二発電所は同年10月30日から運転を開始し、1937(昭和12)年6月からフル稼働に入りました。

日本電力は建設工事と並行して営業活動にも力を入れており、富山平野にいくつもの大工場を誘致し、電力の需要確保に努めました。

その後も開発の手を上流へと伸ばし、黒部川第三発電所と仙人谷ダムを完成させましたが、発電所及び仙人谷ダムの建設に伴って行なわれたトンネル工事は難航しました。1940(昭和15)年に出版された吉村昭の小説「高熱隧道」でもその難工事ぶりが伝えられています。

摂氏160度に達する高熱の岩盤を掘り進むという過酷なもので、劣悪な労働環境、地熱によるダイナマイトの自然発火事故、物資輸送中の峡谷での転落事故、泡雪崩による宿舎の全壊事故などの被害が重なり、全工区で朝鮮人労働者を含む300人以上が犠牲となっています。

この難工事が行われている間、日本政府は電気事業の国家管理下を目指して「日本発送電」を1939(昭和14)年に設立。日本電力は同社への電力設備の出資によって電力会社としての歴史に幕を下ろしました。

戦後になってこの日本発送電はさらに分割・民営化され、日本電力が手がけた黒部川の発電所群は、これを関西電力が継承しました。この関西電力が1963(昭和38)年に完成させたダムこそが、「黒部ダム」です。

併設された発電所が黒部川第四発電所であることから、黒四ダム(くろよんダム)の愛称でも親しまれています。その竣工により、黒部川の豊富な水資源はよりいっそう有効活用できるようになりました。

黒部ダムが建設された地点は、これより下流地点よりもはるかに水量が多く、水力発電所設置に適した場所であることは、大正時代から知られていました。ただ、第二次世界大戦などもあり、その開発はその直下流の仙人谷ダムおよび黒部川第三発電所までにとどまっていました。

戦後、日本の電力需要のほとんどは水力発電所により賄われていましたが、渇水になると各地で計画停電が相次ぎました。関西地方では、1951(昭和26)年の秋に深刻な電力不足に陥り、一般家庭で週3日も休電日が設けられたりしていましたが、休電日でない日でも連日のように停電していました。

この状況は、高度経済成長期を迎えた昭和30年代に入っても同じであり、工場などでは週2日、一般家庭では週3日ほどの使用制限が行なわれていました。

こうした事態を受けて立ち上がったのが関西電力社長の太田垣士郎で、太田は1956(昭和31)年、黒部ダム建設事業の復活を宣言します。戦前に調査を行い、基本的な設計まで終了してはいたものの、太平洋戦争への突入によってお蔵入りとなっていた計画でした。

しかし黒部ダム建設工事現場はあまりにも奥地にありました。初期の工事は建設材料を徒歩や馬やヘリコプターで輸送するというもので、作業ははかどらず困難を極めました。このためダム予定地まで大町トンネルを掘ることを決めたものの、トンネル内の破砕帯から大量の冷水が噴出し、これもまた大変な難工事となりました。

このため別に水抜きトンネルを掘り、薬剤とコンクリートで固めながら掘り進めるという当時では最新鋭の技術(これをグラウチングという)が導入され、その結果9ヶ月で破砕帯を突破してトンネルが貫通、工期を短縮することに成功しました。

こうして、貯水量2億立方m(東京ドーム160杯分)、高さ(堤高)186 m、幅(堤頂長)492 mという巨大ダムが完成しました。現在でも日本で最も堤高の高いダムで、富山県で最も高い構築物でもあります。また、この黒部ダム完成により、ダム湖百選にも選定される北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成されました。

黒部ダムは世界的に見ても大規模なダムとなり、周辺は中部山岳国立公園でもあることから、立山黒部アルペンルートのハイライトのひとつとして、今も多くの観光客が訪れています。

こうした観光資源と、電源開発の歴史を背景として1923(大正12)年に開湯されたのが「宇奈月温泉」です。

高峰譲吉が設立した東洋アルミナムは、資材運搬と湯治客も利用できる一般営業を目的とする黒部鉄道株式会社が設立された(1921(大正10)年)ことは先にも述べたとおりです。

この会社は、元々は原始林に囲まれ一部の人にしか知られていなかった未開の地、桃原(ももはら)を温泉地として開発して利益をあげる、温泉客の鉄道利用で収入を得る、さらに電源開発工事作業員の福利厚生施設ともする、という一石三鳥を狙ったものでした。

「宇奈月」の地名は、当時の日本電力社長・山岡順太郎が名付け親とされています。この地の上流に不動滝という滝があり、ある猟師が山中に入ったところ、滝壺で黄金色に輝く聖徳太子像を発見し、「ほほう!」と大きく「うなづいた」という伝説をもとにしたようです。

そもそも日本電力は第一次世界大戦による好景気による関西地方の工業化都市化に伴う電力不足を補うために設立された会社です。開発の進んでいない北陸地方の河川に水力発電所を設置し高圧電線によって関東・中部・関西方面の大規模需要家へ電力を供給することを目的としており、その後、高峰が設立した東洋アルミナムを併合するに至ります。

上述のとおり高峰は、日本最初のアルミ精錬所を計画し、黒部川で電源開発を進めようとしていましたが、このとき、その中心となって計画を推進してくれる若い人材を探していました。

あちこちを当った結果、このころ逓信省に勤めていた東大土木工学科出身の電気局技師・山田胖(やまだ ゆたか)を探し当て、逓信省から引き抜いて自分たちの会社の事業に当たらせることにしました。福岡県出身の山田は31歳でした。

時は1917(大正6)年。こうして人員体制を整えたその5年後の1922(大正11)年には東洋アルミナムの関連会社として黒部温泉会社を設立しました。その名義で桃源より下流の旧愛本温泉の権利と建物を買い取り、また、黒部川支流の黒薙川沿いの黒薙温泉の財産と権利を買収するなどして地域一帯の土地買収を始めました。

しかし同年7月に 社主の高峰譲吉が死去したことから、これ以降、東洋アルミナムによる黒部川での温泉事業は縮小を余儀なくされます。結局、黒部温泉会社による桃原の土地買収は計画の半分の2万5000坪で終結し、以後、黒部温泉会社と東洋アルミナムは、県内の旅館や料亭などに自社が購入した土地を斡旋し始めました。

1923(大正12)年には、山田の発案により、黒部川の水利開発を行うための資材運搬を主な目的とした黒部鉄道(現・富山地方鉄道)の敷設が始まり、この鉄道はその後旅客も乗せるようになりました。

また、黒部市中心部にあった三日市駅(1969(昭和44)年廃止)と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通すると、これにより奥地の宇奈月で温泉宿を営もうとする者が出始めます。

逓信省の土木技術者であった山田胖は、ここでその手腕を発揮するようになります。もともとは電源開発やそのための鉄道敷設を担当する技師として招かれたわけですが、温泉開発にも関わるようになり、上流の黒薙温泉から新たに引湯管の設置を企画しました。これは旧愛本温泉の古い引湯樋に替わるもので松材をくりぬいたパイプを使ったものでした。

従来の引湯樋はU字型の形状でここを温泉が自然に流下するだけのものでしたが、新しい引湯管は密閉されており、温泉が自噴する圧力を保ったまま引湯することができます。このため流れが速く、黒薙の泉源から2時間ほどで湯が届くとともに、パイプの中を通るため外気に触れることがなく、冬でも55℃の温度が確保されることとなりました。

現在も宇奈月温泉の源泉は同様の引湯管を使って黒薙温泉から7kmにも及ぶ距離を運んでいます(但し、パイプは合成化)。源泉段階で摂氏92〜98度と非常に高温であり、宇奈月温泉街に到達した時点でも摂氏63度もあるため、浴用として多少水を混ぜて運用されているようです。とはいえ元の泉質を損なうものではなく、湯量も豊富であるため人気があります。

1924(大正13)年、黒部温泉会社は旧愛本温泉の建物を移築し、宇奈月館(現宇奈月グランドホテルの前身)として新たに運用を開始しました。それとともに、宇奈月で新たに旅館を経営しようとする者には、自社が購入した土地と温泉を斡旋し、その際に3万円(現在の価値で600万円ほど)を融資しました。

この結果、宇奈月館以外にも、延対寺別館、宇奈月富山館、も原館、河内屋、などの温泉宿が開かれ、これらを含めた十数件の旅館のほかにみやげ物店などもできて、温泉街としての体裁が整っていきました。

黒部峡谷の入り口にあたるこの宇奈月温泉には、現在、これ以上の数のホテルや旅館、商店や土産物店が多数立ち並んでいます。宇奈月温泉駅から東南に進めば、そこには黒部峡谷鉄道宇奈月駅があり、黒部峡谷を訪ねる多くの観光客がここを利用します。

1925(大正14)年、 日本電力が黒部水力株式会社を併合しました。その3年後の1928(昭和3)年には上の柳河原発電所が完成し、これをもって自分の役割を終えたと感じた山田胖は黒部を去りました。電源開発の調査を始めてから11年目のことでした。

山田はのちに東京都西部の奥多摩地区を中心に石灰の採掘、販売を行う太平洋セメント系列の企業、企奥多摩工業株式会社の社主などを務めました。

その後も宇奈月温泉は発展を続け、富山県内の温泉地としては最大規模のものに成長し続けましたが、戦後の1946(昭和21)年5月21日 には、 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだため大火となって、温泉街のほとんどを焼失しました。

しかし、当時の日本発送電や下流の内山村の援助により復興し、1953(昭和28)年には、 関西電力の黒部専用軌道を使った「トロッコ電車」の運行が実現しました。一般観光客に向けての利用が行われるようになった結果客足が伸び、温泉街は戦前にも増して活気を呈するようになりました。

1956(昭和31)年には宇奈月温泉駅南側に宇奈月温泉スキー場(現・宇奈月スノーパーク)がオープンするなど冬でも集客できる施設ができ、また、1958(昭和33)年10月には昭和天皇が富山県国体開催に合わせて行幸したことなどから、知名度もあがりました。

それから7年後の1963(昭和38)年、山田胖は久々に宇奈月温泉を再訪しています。このとき「40年ぶりに来た。宇奈月の発展はめざましい。私の働いていたころがしのばれる」と語りましたが、この翌年の1964(昭和39)年に78歳でこの世を去っています。

山田胖は、電源開発に尽力したほか、当時無人の地だった現在の宇奈月温泉に鉄道を敷設、黒薙からの引湯に成功し、温泉地として発展する基礎を築いた人物として地元では今も語り継がれています。

現在、黒部峡谷鉄道宇奈月駅の南側には、黒部の電源開発の歴史についての展示のある、関西電力黒部川電気記念館が建てられています。2019年には、この山田を偲ぶ集いが黒部川電気記念館で開かれ、関係者が「黒部開発の恩人」として彼を顕彰しています。

また、その敷地横の独楽園には山田の銅像があり、発展する宇奈月温泉と黒部峡谷を見つめています。宇奈月町長らが中心となり、1958(昭和33)年11月「黒部開発の恩人・山田胖翁之像」として建てたものです。

ただ、黒部の開発の端緒を開いた高峰譲吉の銅像はここにはありません。それは、彼の故郷である金沢の「高峰公園」内にあります。高峰の成家の跡地に整備されたもので、高峰譲吉の顕彰碑と銅像が建っています。

また、1950(昭和25)年には、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成されており、個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、平成30年度(第68回)までの受賞者は874名に上り各界で活躍しています。顕彰会の事業費は第一三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄われています。

それでは、尾崎行雄の像はどうかといえば、こちらは霞が関の国会前庭の敷地内にある憲政記念館横に建立されています。憲政記念館は1960(昭和35)年に建てられた「尾崎記念会館」を母体に1970(昭和45)年の日本における議会政治80周年を記念して設立され、2年後の1972(昭和47)年に開館しました。

敷地内にある時計塔は、尾崎記念会館建設時に建てられたもので、その三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものです。塔の高さは、ことわざの「百尺竿頭一歩を進む」にちなんで、百尺(30.3m)よりも高くした31.5mに設定されているそうです。努力の上にさらに努力して向上する、という意味を持たせたとか。

今日のこの話を読み、よし、私もより一層の努力をして生きていこう!と決意された方、一度はここを訪れてみてはいかがでしょうか。