ハンゲショウの季節に

今年の夏至は6月21日でした。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が長い時期であり、これからは、年末の冬至に向かってどんどんと日が短くなっていきます。

この夏至から10日ほど過ぎた日を暦上、「半夏生」(はんげしょう)と呼ぶようです。例年、7月2日あたりで、この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、梅雨も中盤に入り、大雨になることも多くなります。このため、地域によっては「半夏水」(はんげみず)と呼ぶところもあるようです。

では「半夏」とは何を表しているかといえば、これは植物のカラスビシャク(烏柄杓)のことです。夏の半ばに花が咲くことから、「半夏が生まれるころ」という意味でこの季節を半夏生と呼ぶようになったのでしょう。

半夏ことカラスビシャクは、サトイモ科の植物で、その花は緑色の袋状に包まれており、ひものような突起物が上部に伸びているのが特徴です。ミズバショウの花を知っている人も多いと思いますが、こちらも同じサトイモ科の植物であり、似たような半袋状の付属物があります。ただ、袋は閉じておらず、開いていて色も白色です。

この袋状のものは「仏炎苞(ぶつえんんほう)」と呼ばれています。「仏炎」とは仏像の後背(こうはい)のことで、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現したものです。色々な形がありますが、炎を形どったものがあり、これを仏炎と呼ぶようになったと思われます。

また、苞(ほう)は、蕾を包むように葉が変形した部分の一般名称です。カラスビシャクなどのように花よりも大きくなるものもありますが、逆に目立たないものもあります。マムシグサやテンナンショウといった同じサトイモ科の草本もまた苞が発達しており、細長い柄杓のような苞があります。

カラスビシャクの根には、コルク状の皮があり、これを取って乾燥させたものは、生薬として使われます。その名も「半夏」といい、漢方薬として日本薬局方に収録されています。

商品名としては半夏厚朴湯(はんげこうぼくとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などがあります。痰(たん)きりやコレステロールの吸収抑制効果があり、かつては、つわりの生薬としても用いられていました。

一方、ハンゲショウと呼ばれるまったく別の植物があります。こちらはドクダミ科の多年草で、葉の片面だけが白くなることから、カタシログサ(片白草)とも呼ばれています。また半分だけ白いため「半化粧」とも書きます。様々な地方名があり、ハゲ、ハンデ、ハゲン、ハゲッショウなどとも呼ばれます。

上のカラスビシャクとは別物ですが、開花時期もほぼ同じであり、どちらも「ハンゲ」が付いていることから、混同されることも多いようです。

いずれにせよこの半夏、もしくはハンゲショウが咲く季節というのは、農家にとっては大事な節目になります。古くからこのころまでに畑仕事を終えたり、水稲の田植えを終える目安とされてきました。このころに休みを取る地方も多く、これはひと仕事を終えたあとの休息のためですが、一方では半夏生には天から毒気が降ると言われているからでもあります。

毒気を避けるため、七夕までの長期間農作業を休む地方もあるほか、このころに採った野菜は食べてはいけないとされていたり、井戸に蓋をして毒気を防いだりするといった風習が残っています。

天から毒が降ってくるくらいですから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も出やすい時期とされます。三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期には仕事をするなと戒められています。




一方では、こうした時期だからこそ、栄養のあるものを食べて滋養をつけて農作業に励もうというところもあります。奈良県の香芝市や大阪府南河内では田植えを無事に終えたことを田の神様に感謝し、小麦を混ぜた餅を作り黄粉をつけたものをお供えして、自分たちも食べるそうです。

また、讃岐(香川県)の農村ではうどんを食べる習慣があり、毎年7月2日が「うどんの日」になっています。1980年に香川県製麺事業協同組合が制定しました。

蛸(タコ)を食べる習慣があるところもあります。近畿地方の一部地域がそうで、各地の小売店ではこの時期になると、タコ入りのお好み焼や焼きそば、タコの唐揚、タコ天うどんなどが売られています。

さらに、福井県東部の大野市を中心とした地域では焼き鯖(サバ)を食べます。江戸時代に大野藩藩主がこの時期に農民に焼きサバを振舞ったといわれ、これを食べる習慣が残りました。

福井ではよくサバがとれます。水揚量の一位は茨木県ですが、福井はこれに次ぎ、古くはここで捕れたサバが京都などの畿内に運ばれました。福井県西部地方で捕れたものが有名で、「若狭のサバ」として京へと出荷されましたが、それがすぐ隣の大野にも流入し、さかんに食べられていたようです。

若狭国から京都へとサバを運んだ道は「鯖街道」とよばれています。ただ、遠距離を運ぶので、傷みやすいのが難点です。古来よりサバは、食あたりが発生しやすい食材と知られており、「サバの生き腐れ」と言われてきました。このため、運搬する前には、エラを切除したり首を折ったりして血抜きをした上で海水で洗い、塩をまぶします。

江戸時代、若狭湾で取れ、こうして加工されたサバは行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれました。京都まで輸送するのに丸1日を要しましたが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になります。特に冬に運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて美味であり、京都の庶民には大好評でした。

このサバの産地、若狭の国の東隣は「越前国」です。上で焼きサバを食べる習慣があると書いた大野藩はこの越前の中でも一番内陸に位置します。現在の大野市に相当し、福井県内の市町の中では最大の広さを持ち、県面積のおよそ5分の1を占めます。

南東部には両白山地(りょうはくさんち)という山塊があり、その最高峰は「越前三ノ峰」で標高は2,095mです。福井県の最高地点でもあり、このあたり一帯と岐阜・石川との3県境付近の尾根は平均的に2,000mを超えます。

この山地から北西部に流れ出ている真名川(まながわ)の下流に形成されたのが「大野盆地」です。海抜200mほどのこの地域が大野の中心部であり、真名川の東を流れる九頭竜川もまたこの盆地の形成を助けてきました。その深い渓谷は秋になると紅葉で色づき、真名川の真名峡もまた紅葉の名所として有名です。

大野市は、冬季は市全域が特別豪雪地帯に指定されているほどの降雪量があります。しかし、夏は盆地であるだけにそれなりに気温は高いようです。ただ、山麓にある町のため、至るところから澄んだ地下水が湧いており、暑さを和らげてくれます。「名水のまち」として知られており、清らかな水、豊かな土壌を生かした野菜作りもさかんです。

市内の通りは碁盤の目のように整然としており、その中のひとつ、七間通りには、毎年春分の日~大晦日までの朝7時~11時頃市が立ちます。「七間朝市」というこの市では、地べたに新鮮な農産物や加工品がずらりと並びます。400年以上の歴史を誇り、大野の観光名物でもあります。

大野の歴史は、天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に進攻したことに始まります。長近は、美濃源氏土岐氏の出で18歳で信長の父、織田信秀に仕官し、信長がその跡を継いだあともそのまま小田家に仕えました。信長の美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢され、その後の越前攻略でも活躍しました。

一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる亀山に大野城を造成することを許され、その東麓に城下町を造り始めました。信長が本能寺で没したあとは秀吉に仕え、さらに関ケ原では東軍に与してのちに家康の家臣になりました。その後飛騨の高山に移封されましたが、高山藩が1693(元禄6)年に天領になるまで、その子孫6代がここを治めました。

城づくりに定評のあったその長近が作った大野の城下町は、短冊状に整然と区切られ、以後中世から近世にかけて多数の寺院が築かれました。現在もこの城下町誕生のころの風情を残しており、「北陸の小京都」と呼ばれています。

長近が飛騨高山に移封された後、大野藩は秀吉の従妹の青木一矩(かずのり)の時代を経て越前松平家が3代続きでここを治めました。その後、ここも天領となり、土井氏で定着するまで、大野城の城主は目まぐるしくわりました。

土井氏というのは、徳川家と密接な関係にある氏族です。徳川家康の母、於大の方の実兄水野信元の庶子として天正元年(1573年)に浜松で生まれたのが土井利勝(としかつ)で、土井家の直接の始祖とされます。

土井利勝はその後大老に抜擢され、その四男であった土井利房(としふさ)が、下野国内から大野藩に封じられました。天和3年(1683年)に死去しましたが、以後この土井家から出た代々の藩主よって藩政の基礎は固められました。

ところが、天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫しました。第6代藩主、土井利器(としかた)は、倹約に務めましたが、財政はなかなか好転しませんでした。

利器は、5代藩主・土井利義(としのり)が隠居したあと、養子として迎えられた藩主です。利義には利忠(としただ)という長男がいましたが、まだ幼かったため、利器がつなぎとして藩主の座につきました。

利忠が生まれたのは大野ではなく、大野藩の江戸藩邸です。母は和泉岸和田藩の第8代藩主、岡部長備の娘で、名前は記録に残っていませんが、栄香院という法名らしい名が残っています。

幼名は錦橘といい、この読み方は「きんき」だったでしょうか。1818(文政元)年、8歳で元服し、名を利忠と改めた直後、先代の利器が病に伏したため急遽、養子となりました。ただ、まだ幼なかったため、18歳までそのまま江戸藩邸で育ち、利器の没後に家督を相続し、7代目大野藩主として大野に入封(にゅうほう)しました。




利忠が始めて大野へ入部したのは1829(文政12)年のことです。このころ義父・利器の手掛けた藩政改革はまだ功を奏しておらず、財政はいまだ火の車でした。

文化・文政時代から天保年間にかけてのこのころ、江戸幕府の実権は11代将軍徳川家斉が握っていました。家斉の治世はおよそ50年続きましたが、当初は質素倹約を奨励して好調でした。ところが「出目」と呼ばれる貨幣悪鋳によって収益を増やそうとしたことが裏目に出ました。

貨幣の質を落とし、それで出た差益で幕府財政は潤いましたが、このことによって幕政は放漫経営に陥り、大奥を中心に華美な生活をする者が増えました。一方、悪銭とはいえ、供給される金が増えたことで商人の経済活動は活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えました。

しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化していきました。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こるようになり、中でも1823(文政6)年に起きた強訴は最大規模のものでした。

綿や菜種の自由売りさばきを要求する摂津・河内・和泉1,307か村による国訴ともいうべきデモは空前の規模となり、それまでの江戸幕府による経済の有り様を変えるほどでした。

発展し続ける経済活動によって、表面的には「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も、このころになると暗雲がたちこめてきます。華美な生活に浸る幕府の中枢に対し、土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的なギャップは急速に大きくなり、やがて制度疲労による硬直化が目立ち始めました。

既に幕末といえるこのころ、いずれの藩も同じように財政赤字を抱えており、とくに大野藩のように大した産業のない国は莫大な財政赤字を抱えるようになっていました。藩財政は苦しく、利忠の義父、利器も倹約に務めましたが、財政は好転せず、減知減給を恒常的に行うようになり、しまいには家臣に給料を満足に支払うことさえできなくなっていきました。



こうした時期に藩主となった若き藩主利忠は、早急にこうした財政の立て直しを迫られました。そこで、大野に入部した翌年(1830(文政13)年)には早速、「寅年御国産之御仕法」と呼ばれる倹約命令を出しました。

これは上下を問わず倹約に務めることを強く要請するとともに、地産地消を進める中で地場産品の質を高め、これを他へ販売することで利益を得る、というもので、現在で言うところ保護貿易政策です。

続いて1832(天保3)年に利忠は、領内の面谷(おもだに)にあった民間の鉱山を藩直営に切り替えました。この鉱山の主産品は銅であり、室町時代前期に猟師が露出した銅を発見したのが起源とされています。

後年、これらの施策は功を奏し、大野藩の財政は再建されますが、すぐには効果は発揮されず、藩財政のみならず一般藩士の生活の窮迫も改善のめどが立たない状態がしばらく続きました。

そこで、30過ぎになっていた利忠は、自筆をもって「更始の令」を発布しました。大野に入部した直後に発した「寅年御国産之御仕法」から12年後の1842(天保13)年のことで、その内容は、次のようなものでした。

「藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない。」

城内の書院に集められ、藩主自らこの令の読み上げを聞いた家臣一同は、感涙に咽んだ(むせんだ)といいます。この令からもうかがわれるように、利忠は周囲の意見に熱心に耳を傾ける柔軟性を持った人物だったと思われ、また積極的に人材の登用を行いました。

中でも、抜擢を受けたのが、内山七郎右衛門良休(りょうきゅう)と内山隆佐良隆(りゅうすけよしたか)の兄弟でした。のちに、兄の良休は財政・民政を主に扱う勝手方奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなります。

この内山家というのを調べてみたのですが、どういう家系なのかはよくわかりません。ただ、大野の城下町を建設した金森長近は、美濃国土岐郡多治見郷(現在の岐阜県多治見市)に生まれで、のちに美濃を離れ、近江国野洲郡金森(現滋賀県野洲市)へと移住していることから、いずれかの土地から付き従ってきた家臣がその先祖かもしれません。

その後、この二人が行った改革の中心は財政に関するものであり、何やら商売臭い匂いがします。もしかしたら商家の出だったかもしれませんが、あるいは代々勝手方などをやっていた、いわゆる「そろばんザムライ」であったかもしれません。

良休は1807(文化4)年生まれ、隆佐は1813(文化10)年に生まれで6歳の年齢差があります。兄の良休は明治14年まで生き、74歳で亡くなりましたが、隆佐のほうは52歳でなくなっています(1864(元治元)年没)。

この二人が居住したと思われる屋敷跡が今も大野市に残っています。母屋や蔵などが復元されており、もともとあったものを解体・修復して保存されているものです。大半は幕末から明治に建てられたもので、彼らの死後も子孫が守ってきたものです。再建ですが往時の姿をかなりとどめており、幕末に藩を財政的危機から再起させた彼らの力を感じさせます。

この兄弟のうち、とくに財政再建の上で力を発揮したのが兄の良休です。主君の利忠の命を受け上でも述べた面谷鉱山の再開発を行ったのは良休であり、これを藩の直営としたことで、年間10万貫の銅を産出する銅山にすることに成功しました

また農家が作った特産品などを全国に売ることをはじめ、「刻みタバコ」の販路拡大を図り、大阪に藩直営の「大野屋」を開店し、その後2号店、3号店も開きました。

さらに、領内に本店「大坂屋」を構えたほか、越前各地や函館、横浜、神戸、岐阜、名古屋など多くの都市にも出店。大野の特産物を出荷するとともに、これらの地の産品も国内に流通販売し、商品取引のほかに金融業もこなすなどして大きな利益をあげていきました。

このころの他藩の経済対策としては、倹約や年貢の引き上げが普通でした。これは領民にとっては苦痛そのものであり、これによって財政が回復したところはさほど多くありません。これに対して大野藩の内山良休は商売に目を向けて外貨を得る施策をとりました。

武士というよりも商人そのものであり、しかも敏腕でした。大野屋の営業形態も現在のフランチャイズ形式を思わせるものであり、この当時としては斬新なものでした。また、主君の利忠もその力量を認め、多くの権限を与えました。

生産性の向上と有能な人材の登用・藩借金の整理なども良休に自由に行わせた結果、改革後8年後には早、借金のほとんどを返済することに成功しました。



利忠はまた、良休の弟の隆佐を使って、教育改革を積極的に進めました。1843(天保14)年には学問所創設を命じ、これは明倫館と名づけられて翌年の1844(弘化元)年に開校しました。講義の内容は朱子学が柱でしたが、他の学派の議論も認め、また医学の授業まで取り入れていました。

のちには蘭学も取り入れて洋学館を設立し、大坂から伊藤慎蔵を招きました。伊藤は、長州藩の萩浜崎で開業していた医者、伊藤宗寿の子で、大阪に出て緒方洪庵の適塾で学び、頭角を現して塾頭にまでなった人物です。高名な学者であり、彼から蘭学を学ぶことができるとうことから、その後全国から生徒が集まるようになりました。

利忠はまた隆佐に命じて藩の軍制改革にも臨みました。手始めに高島流砲術を導入し、1845(弘化2)年には大砲1門の鋳造にも成功しています。早打ち調練などを盛んにやらせ、大がかりな洋式訓練を行ったため評判となり、他藩からの入門希望が多数寄せられるようになりました。

1853(嘉永6)年のペリー来航後は、隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図り、また多数の大砲の鋳造を命じて完成させています。

このころ、鎖国をしていた日本に対して外国からの圧力が徐々に高まってきていました。安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行っていました。

このとき隆佐は利忠以下の藩論をまとめてこれに応募しました。そして自ら探検調査団を率いて、北海道南西部の渡島半島の調査を実施するとともに、蝦夷や樺太などの北方地域の情報収集に務めました。

そうした結果を受け1854(安政元)年には、北蝦夷地(樺太)の開拓を幕府に提案。これは2年後の1856(安政3)年に認められ、大野藩は許可を得て樺太の開拓計画を実行に移すことになりました。

こうして、1858(安政5)年には、樺太中部のウショロに、大野藩準領を設け、総督として隆佐が赴き藩士を派遣して実務にあたらせました。このころウショロは、日本の領有下において鵜城郡(ウショロぐん)の名を与えられていましたが、住民のほとんどはアイヌであり和人は幕府から派遣された番人が数名いる程度でした。

隆佐らがウショロに入った前年の1855(安政2)年には、日露和親条約が締結されています。伊豆下田の長楽寺において、日本とロシア帝国の間で交わされたこの条約では、択捉島と得撫島(ウルップとう)の間に国境線が引かれ、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められました。しかし、樺太方面の国境の確定は先送りされました。

一方、国内的には同年から樺太を含む蝦夷地全域が公議御料(直轄地)となりました。これにより、秋田藩がウショロの警固を行うこととなり、漁場の番屋に詰める番人を派遣しましたが、この番人は武装化した足軽でもありました。

ここに入った隆佐たちが開拓場所として許されたのは、ウショロとその北部の名好郡域でした。樺太中部にあるこの地域は、西の間宮海峡に面し、そこには良好な漁場が広がっています。とくに大量のニシンが上がり、箱館奉行は鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命し、漁場開発に当たらせた結果、予想を上回る豊漁を得ていました。

鳥井権之助は、越後の国出身の商人で、出雲崎に店を構える回船問屋、敦賀家の主です。幼少時代から利発で学問にも優れており、長じてこの地域の名主となってからは、幕府に対して両輪船建造の提言なども行っています。これによって幕府も開明的な思想を持つ実力者として認めるようになりました。

蝦夷の開拓にも関心を持ち、箱館港や五稜郭の土木工事を請負い、この工事を完成させました。これを機会として樺太開発にも乗り出した結果、ウショロで漁場開発を行うようになったのです。

内山隆佐らも鵜城に会所(運上屋)を開設して警固や漁場の開設をおこない、この鳥井の意見なども参考にしながら漁業経営を試みはじめました。しかし大野藩は大型船は保有していなかったため、当初は商人から雇った和船を使用したり、陸路を使ったりしていました。

ただ、本格的な漁場開拓を実行し、各地との交易を行うためには船足が速く堅牢な船舶が必要です。そこで、西洋式の大型船の建造が計画されることになりました。

1857(安政4)年、内山隆佐は洋式造船の調査のために江戸へ向かいました。そして箱館奉行所用で造船に関わっているという御用達の栖原長七という人物を紹介されます。御用達とは、幕府、大名、旗本、公家、寺社などに立入あるいは出入する特権的な御用商人のことで、今日でいう商社マンのような存在です。

栖原は、箱館の築嶋(函館港に面する現在の末広町および豊川町付近)で起工されたスクーナー「箱館丸」の建造に関わっていたようです。この栖原を通じて、大野藩による洋船の建造の伺いが幕府に立てられた結果、箱館藩所有の箱館丸と同型の船の建造が認められました。

ちなみに、このころ大野藩は海に面した、同じ越前国の丹生郡(にゅうぐん)は西方(西潟)という場所に陣屋を開いてしました。異国船の出没を知るための具体策として講じられたものであり、西潟駐留の番人が異国船を発見すると直ちに大野まで注進させていました。こうしたことからも、幕末の大野藩が開明的な藩であったことがうかがわれます。

この西潟には、操船に慣れた水主が多数在住しており、こののち建造されることになる洋船の水主もこの浦から調達しています。和船の建造に秀でた船大工も多数おり、新しい船の設計に当たってはその一人である、木村治三郎という船大工が抜擢されました。

こうして造船が始まりましたが、造られたのは大野ではなく、天領の川崎稲荷新田という場所でした。現在の羽田空港のすぐ西側にあり、大師町と呼ばれる一帯で、おそらくこの当時ここに漁村があったのでしょう。

その一角に建てた造船所に竜骨をすえつけ、起工したのが1857(安政4)年11月。その翌年の1858(安政5)年6月には、船体が完成し進水式が行われました。かかった経費は約1万両といわれ、これは現在の8千万円程度かと思われます。その後、品川沖に回航されて艤装工事を受けました。

完成した船は「大野丸」と命名されました。形式は箱館形ということでしたが、実際には君沢形に近いものだったと考えられています。君沢形とは、幕末に日本の戸田村などで建造された本邦初の西洋式帆船の型式で、原型は下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」です。

君沢形は、帆装形式は箱館型と同じくスクーナーに分類され、同型船10隻が量産されました。ただ、大野丸はこの君沢形とは厳密には異なった設計で、帆装形式は箱館形と同じ2本マストに縦帆だけでなく、横帆を併せ持つトップスル・スクーナーでした。

横帆があれば、追い風だけでなく、帆の向きを風の向きに交差する方向に変えることができます。つまり、進路変更に柔軟に対応できるのがトップスル・スクーナー特徴です。君沢型や箱館型の改良版ともいえ、このころの日本では最新鋭のものといえますが、逆にスクーナーとしては特殊な船であり、一般的なものとはいえません。

長さ18間(32.7m)、幅4間(7.3m)、深さ3間(5.5m)のこの船は、無論、大野藩としても初めて保有する洋式帆船です。

その運用にあたっては、従来の和船に慣れた船乗りでは十分ではなかったため、このころ幕府により創設されたばかりの築地の軍艦操練所に藩士を派遣し、教育を受けさせました。その一人、吉田拙蔵は、のちに大野丸の船長となり、藩の物資輸送や樺太開拓事業で活躍しています。

竣工した「大野丸」は、1858(安政5年)9月初旬に品川を出港し、浦賀に滞留後、関門海峡を通って10月末に敦賀港へ到着しました。敦賀に入港したこの最新鋭の洋式帆船を見学するため、多数の藩重役が港を訪れました。敦賀ではさっそく藩士や町民から船員が募集され、三国湊(現福井港)の船頭だった佐七郎が初代の船長に採用されました。

翌1859(安政6)年4月下旬、大野丸は蝦夷地への最初の航海に出発。敦賀から日本海を北上し、8日をかけて箱館に入港しました。その後も何度も蝦夷地と敦賀を往復し、交易物資などを運ぶことによって、着実に利益をあげていきました。この間、船長もより洋式帆船の操縦に慣れた吉田拙蔵に変わっています。

1859年(安政6)年9月中旬には、奥尻沖の室津島で遭難したアメリカ商船スプリング号を救助するというハプニングにも遭遇しており、幕府とアメリカ政府から謝礼を受けました。小藩に過ぎない大野藩が洋式船を建造したことや、アメリカ船を救助したことなどによって一躍「大野丸」の名は日本中に広まりました。

隆佐はまた、大野丸を用いて北蝦夷地開拓にも挑みました。しかし、寒さの厳しい北蝦夷での開拓は想像以上に苦しく、用意していた開拓の資金はすぐに底をつきました。隆佐らの報告を受けた利忠は、開拓の資金を援助してほしいと幕府に願い出ます。

これに対して幕府は、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩の江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助しました。北蝦夷地の警固を幕府はそれほど重視していたのです。

文久2年(1862年)、利忠は病気を理由に隠居し、15歳の三男・捨次郎が利恒(としつね)と改名して家督を相続しました。同年4月、利恒は父に伴われて江戸へ出発し、利忠は利恒を正式な家督を相続者として幕府に報告しています。また、この時新藩主就任を知らせる直筆の書を大野城に送っています。

こうした慶事において藩主自らが直筆の書を出す習慣は、利忠以来恒例となりました。この書の中で利忠は、天保元年(1830年)の大野初入部以来の家臣の忠勤に感謝した上で、利恒へ一層の忠勤を求めました。また、当分の間は利忠の政策を受け継ぎ、父に変わらぬ忠勤を利恒に対しても行うよう要請しています。

ところが、それから2年後、二つの事件が大野藩を揺るがしました。その一つは、蝦夷と大野間で運用されていた大野丸が、根室沖で座礁、沈没してしまったことです。択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中のことで、運用開始から6年経った1864(元治元)年9月のことでした。

乗員は搭載の伝馬船で脱出し、全員無事でしたが、「大野丸」の喪失により、大野藩による北蝦夷地開拓の試みは事実上とん挫することになりました。

しかもこの大野丸の喪失の2ヵ月前、内山隆佐がなくなりました。病死とされており、52歳の若さでしたが、死因は不明です。

隆佐は、若いころ江戸留学を認められ、佐久間象山にも学んでいます。兄とともに藩政改革に努め、蝦夷地総督となってからは大野丸を駆使して「商社」ともいえる大野屋を大きくし、藩の財政改革に貢献しました。もう少し長く生きていれば、さらに大きな業績を挙げたに違いありませんが、運命には逆らえませんでした。

大野藩による北蝦夷開発は、のちの治元年(1868年)に与えられた樺太領地を明治新政府に返上するまでは開拓が進められました。しかし、大野丸を失い、主導者の内山隆佐をも失ったことで、その開発はとん挫しました。

さらに隆佐の死は、幕末における大野藩の動向に少なからぬ影響を与えました。とくに、この年(1864(元治元)年の年末に起こった天狗党騒動においては、その対策を軍事に優れた隆佐を欠いたままで行うところとなりました。

天狗党というのは、水戸藩内の抗争に敗れた武田耕雲斎以下の尊王攘夷派のことで、幕府が諸外国に開こうとしていた港の即時鎖港や外国船を打ち払いなどを要求して立ち上がった反乱軍です。

筑波山で挙兵した際は、1400名を超える軍勢を誇りましたが、これを鎮撫しようとした幕府軍に那珂川などで敗れ、大幅に勢力をそがれました。その残党は京に駐在する一橋慶喜を頼ることに決し、下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道美濃路を通って京へ向かいました。

ところが、美濃国鵜沼において彦根藩と大垣藩に抵抗され、そこから北へ転じて越前国へ向かいはじめたことから、大野藩は大騒ぎになりました。福井藩からの急飛脚で天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩ですが、軍事総督の内山隆佐を亡くしたばかりの時期で、また藩主利恒は江戸にありました。

残る重臣たちは、藩兵をかき集めましたが200名ほどしか集まりません。天狗党には到底抵抗しきれないと判断し、なぜか天狗党の予想進路に当たる村落を全て焼き払う事を決定します。無意味な焦土作戦が実行に移された結果、藩内各村の民家200軒あまりが藩兵によって焼き払われる事態に発展しました。

この焼き討ちが行われたのは西谷村という場所が中心だったため「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、今日でも土井家関係の祭りには参加しないといいます。

翌1864(元治元)年の1月、天狗党の残党およそ800余名が大野藩に近づきました。大野藩は福井藩と勝山藩に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党と睨み合いになりましたが、後日大野の町年寄・布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させました。

その結果、2万6千両を軍資金として支払う代わりに、天狗党を他領へ去さらせることを認めさせることに成功します。

天狗党一行はその後、加賀藩(現石川県)に迫りますが、慶喜が自分たちの声を聞いてくれるものと期待していたのに対し、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断。前方を封鎖していた加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧されました。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち、武田耕雲斎ら幹部24名が、能登穴水の来迎寺境内において斬首されたのを最初に352名が処刑され、他は遠島・追放などの処分を科されました。

この翌年の1865(慶応元)年(1865年)、利恒は京都嵯峨および太秦の警衛を命じられました。2年後の1867(慶応3)年には大政奉還が行われ、翌年には戊辰戦争が勃発しますが、この混乱の中、1868年10月23日(旧暦9月8日)には年号が慶応から明治に改元されました。

このとき大野藩では藩主利恒・家老の良休以下が集まって軍議を行いました。その結果、官軍に恭順することに決し、藩主利恒は新政府より箱館裁判所副総督に任命されました。

早速大野藩兵166名が箱館戦争参加のため出発しましたが、大野藩に箱館への出兵命令が下ったのは、幕末に蝦夷地開拓の先頭に立っていたこと、洋式軍制による強兵策に取り組んでいたことが評価されたものです。

ただ、大野藩ではすでに旗艦となるべく大野丸を失っていたため、箱館への移動にはイギリス船のモナ号があてがわれました。大野藩兵は、松前・津軽・長州・徳山などの諸藩とともに、松前口の上陸を命じられ、激しい弾雨のなかで、果敢な上陸作戦を決行しました。

次いで江差に向けて進撃し、大いに戦果をあげましたが、頑強に守備していた榎本武揚率いる旧幕府軍の抵抗に遭い、戦死6人、重軽傷18人の犠牲者を出しています。

箱館戦争の勝利後、大野藩兵はいったん東京に立ち寄り、神田橋筋違の藩邸で、藩主利恒の閲兵をうけたのち、大野に帰藩しました。出征兵のうち戦死した11人は、函館の招魂社に祭られ、また大野では城下の篠座神社境内に招魂社と慰霊碑が建てられ、栄誉の死が称えられました。

明治2年(1869年)に版籍奉還が行われると利恒は藩知事となりましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となりました。また、大野藩は廃藩となって大野県となりましたが、同年末には福井県が発足したため、これに編入されています。

利恒は、箱館戦争などにおける大野藩の功績が認められ、明治17年(1884年)7月8日に子爵に叙爵されています。亡くなったのは、明治26年(1893年)のことで、45歳の若さでした。

動乱の幕末にあって、利恒とその父利忠に率いられた大野藩のめざましい復興は他藩から高い評価を受けました。

借金まみれだった財政は黒字化を達成し、藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備されました。何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気が蘇ったことが最大の成果といえます。天保13年の「更始の令」以来、藩主利忠が藩政自体をゼロから立て直す、という気概で取り組んできた改革は見事に実を結んだといえます。

大野藩は特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心でした。たった石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋の学問を学びました。これらの洋書および翻訳の和書は、現在は福井県立大野高等学校に所蔵されています。

こうした改革を推進するため内山兄弟を抜擢した利忠は、このほかにも藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励などを行いました。積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君として、現在でも高く評価されています。

こうした功績を残す一方で、藩財政のやりくりや穀物の価格高騰に不満を抱える藩士や町人たちからやっかみを受けることもありました。利忠に見いだされた良休はこれらが原因で辞意を伝えたこともあったといいます。これに対して利忠は良休を家老職に任命することで慰撫しています(1860(安政6)年)。

このとき良休に出された任命書には、良休を気遣いつつも「これまで以上に熱く仕事に励んでほしい」との思いがつづられていました。これに対して家老就任を受けた良休も、忠義に励むことなどの七つの誓いを立てており、これは「誓紙前書」として保存されています。

こうした部下思いの君主は領民にも愛されたようです。明治15年(1882年)、旧藩士たちの手により、大野城ふもとに利忠を祭った神社が建立されており、これは「柳廼社(やなぎのやしろ)」と呼ばれています。

この社のある大野城は、城下の西にある標高249mの亀山という小高い丘の上にあります。本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が付属された豪壮な天守だったようですが、1775年(安永4年)に焼失しました。

1795年(寛政7年)には天守を除いて再建され、利忠・利恒親子もその周辺施設で居住していたようですが、明治維新後にすべての建物が破却されています。

現在、亀山の山頂に建つ天守は、当初に建てられたてものを模写したもので、1968年(昭和43年)に元士族の萩原貞(てい)なる人物の寄付金を元に再建されたものです。

この人物の来歴を調べてみましたがよくわかりません。が、越前の隣国である丹波国(現京都府中部)の氷上郡には摂家の萩原家の領地があります。このことから、ここから出た士族が大野藩に召し抱えられていたのかもしれません。

鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものですが、往時の絵図や創建当時の同時期の他の城の天守を元に再建されたもので、史実に基づいた復元再建ではありません。現在、この復興天守の内部には金森氏や土井氏など歴代の城主に関する資料が展示されており、資料館として利用されています。

四方を山々に囲まれた大野盆地は、4~9月ころに城下町全体が雲海に包まれることがあります。その中で亀山だけが浮かんで見え、「天空の城」が現われます。近年これが有名になり、2014年には有志による「ラピュタの会」が結成され、「天空の城 越前大野城」として観光に一躍買っています。

この光景は、大野城の西、約1kmにある犬山(戌山(いぬやま)城址(標高324m))から見ることができるそうです。一度訪れてみてはいかがでしょうか。

モズの鳴き始めるころに

東海地方が梅雨入りして一週間。本格的な雨の季節に入りました。

今のこの時期は、二十四節気では「芒種(ぼうしゅ)といい、その語源は稲や麦などの実にある「芒(のぎ)」に由来します。稲でいうと籾殻にあるとげのような突起のようなものが芒であり、イネ科の植物に多くみられます。芒のある穀物の種蒔きの時期であることから芒種といわれるようになったようです。

天文学的には、太陽が黄経75度の点を通過する時を意味し、これはだいたい6月6日ごろですが、期間としての意味もあり、次の節気の夏至(6月20日ころ)までが芒種です。

蟷螂(かまきり)や蛍が現れ始め、梅の実が黄ばみ始める頃でもあり、中国では「鵙始鳴」の候といわれます。すなわち、モズが鳴き始める季節です。

モズは、漢字で百舌または百舌鳥とも書き、大分類ではスズメの仲間です。しかし体長は20cm程度と雀よりもかなり大きく、眼の上に眉状の白い筋模様があるのが特徴で、喉や頬は淡褐色、尾羽の色彩は黒褐色、翼の色彩も黒褐色で、全体的に茶褐色のイメージがあります。

様々な鳥(百の鳥)の鳴き声を真似た、複雑な囀り(さえずり)をすることでよく知られており、「百舌」の呼称も百通りほどもの物まねができる、とされることろから来ています。

日本では開けた森林や林縁、河畔林、農耕地などに生息しています。年間を通して同じ場所に生息し、季節移動をしない留鳥ですが、日本列島の北部に分布する種や山地に生息する個体は秋になると南下したり標高の低い場所へ移動して越冬します。

食性は動物食で、昆虫  節足動物、甲殻類、両生類、小型爬虫類、小型の鳥類、小型哺乳類などそれこそなんでも食べます。根っからのハンターで、樹上などの高所から地表の獲物を探して襲いかかり、再び樹上に戻って捕えた獲物をついばみます。

モズはその捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む習性を持つことでよく知られています。秋になって初めて得た獲物を生け贄として奉げているのだという言い伝えがあり、このことからこの行為は「モズの早贄(はやにえ)」といわれます。

しかし、なぜモズが早贄を行うかについてはよくわかっておらず、諸説があります。ひとつには、モズは足の力は弱く、獲物を掴んで食べるのが下手なので、小枝や棘にフォークのようにして獲物を固定しているのだといわれています。

また餌の少ない冬季の保存食としているのではないか、という説もあります。ただ、はやにえにされた生物がそのまま残されているのが目撃されることも多く、このことから、これまではこの保存食説は否定されることも多かったようです。

しかし最近の研究では、はやにえのほとんどは消費されていることがわかっており、特に気温の低いときにその消費量が多いことなどがわかってきました。気温が低いということは餌が少ない寒い時期ということであり、はやにえにはやはり冬の保存食の役割を持っているのではないか、という昔ながらの説が定説になりつつあるようです。

さらに、はやにえに関する他の研究では、その消費量はモズの繁殖行動と関係があるのではないか、ということも言われるようになってきています。

2019(令和元)年に大阪市立大学と北海道大学が共同で行った研究では、はやにえの消費が多かったオスほど繁殖期の歌の質が高まり、つがい相手を獲得しやすくなる事が明らかになりました。これは、モズのオスのはやにえが「配偶者獲得で重要な歌の魅力を高める栄養食」として機能していることを示しているものと考えられます。

おいしいものをモリモリ食べて精力をつければ、声もよくなるし、子宝にも恵まれるというわけです。




そのモズの鳴き声ですが、秋から11月頃にかけて「ギョンギョン」「キチキチッ」といった大きく高い声で鳴くのをよく耳にします。モズの「高鳴き」と言われるもので、これは縄張り争いのためだと言われています。この高鳴き合戦で勝ち残った個体は、確保した縄張りを単独で冬を越すことができます。

動物にとってこうした縄張りを確保するということは、個体や集団の防衛や、食料の確保の上で重要です。なによりも種の保存の点でも大きな意味を持ち、競争相手のいない環境で配偶者とともに過ごすことができれば、より繁殖の成功率も高まる、というわけです。

ヒトの縄張り

考えてみれば人間も同じであり、ライバルを蹴散らして相手を独占できれば安心して愛の巣づくりができます。狩猟採集社会成立以来、よく働いてたくさんの獲物を得たり農作物を作る者にはより多くの縄張りが与えられるという風習が定着しています。

見返りバランスともいうべき社会システムであり、人が集団で暮らすようになった結果、自然に成立してきたしくみです。

縄張りの確保は、他の縄張りとの線引きを計り、混み合いをなくすことによってストレスを回避する、という意味もあります。花見で場所取りを行うとき、ブルーシートの上の鞄や靴を置いたりするのと同じであり、こうした目印を置くのはその縄張りへの暗黙の了解を得たいと考えるからです。

一方では、それが行き過ぎると自分の縄張りの存在を主張したがるようになり、これを縄張り根性あるいは縄張り意識、などといいます。しかし平和な社会では、傷つけあったり言い争いでその境界は決められないので、法的に線引きをし、所有者が明確になったものを不動産と呼びます。

ほかに狩猟権、漁労権といったものもあり、地域間だけでなく、組織間、分野間などでも制度化され定着してきたいろんな縄張りあります。個々の利益のためのものですが、それぞれがぶつかりあえば緊張が生じ、やはり色んな問題が起こります。戦争がその最大規模のものであり、国家間の縄張り争いは数々の悲劇生んできました。

一方、本来縄張りの意味は、やはり争いを避けるためのものであって、境界における他の縄張りとの軋轢は別として、縄張り内部の世界はいたって平和です。神社の神域、お寺の寺領といったものが良い例であり、その中で過ごすことによって争いをなくすことができ、また同一の文化が形成されます。

男子禁制、女人禁制といった異性の立ち入りを制限する独特の世界もまた作り出されてきましたが、ただ、一般的に男女は同じ世界に住んでいます。老若男女、不特定の人々が暮らしているのが普通の社会というものであり、その中において自然に形成される縄張りは、現在風にいえば「パーソナルスペース」です。

他人に近付かれると不快に感じる空間のことをいい、パーソナルエリア、個体距離、対人距離といった呼び方をする場合もあります。その距離は社会文化や民族、個人の性格やその相手によっても差がありますが、一般に女性よりも男性の方がこの空間は広いとされています。

また、親密な相手ほどパーソナルスペースは狭く、その人がある程度近づいてきても不快さを感じません。逆に敵視している相手に対しては広くなり、相手によっては距離に関わらず視認できるだけで不快に感じるケースもあります。

東京大学で人間の心理や行動に基づく環境デザインを研究している西出和彦教授によれば、対人距離はつぎのように分類されます。

1. 排他域:50 cm 以下。絶対的に他人を入れたくない範囲で、会話はこれほど近づいては行わない。

2. 会話域:0.5~1.5m。日常の会話が行われる距離。 このゾーンで会話をすると強制的であるかのような「距離圧力」を受け、会話なしではいられない。もし会話がないときは何らかの「居ること」の理由が必要になる。

3. 近接域:1.5 ~3m。普通に会話をするためのゾーン。会話をしないでここに居続けることも不可能ではない。距離圧力としては微妙なゾーンであり、しばらく会話なしでいると居心地が悪くなる距離である。

4. 相互認識域:3~20m。なんとか知り合いであるかどうかが分かり、相手の顔の表情も分かる。普通、挨拶が発生する距離であり、特に3~7 mの距離では、知り合いを無視することはできない。




最近のコロナ騒ぎでよくつかわれるようになったソーシャルディスタンス(social distance)もまた、人の心理や行動の研究から生まれた概念であり、日本語では「社会距離」と訳すことができます。

アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールによれば、相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間がソーシャルディスタンスで、だいたい1.2~3.5mであるとされます。うち、1.2~2mは知らない人同士が会話をしたり、商談をする場合に用いられる距離、2 ~ 3.5 mは、公式な商談などで用いられる距離です。

一方、相手との距離がこれよりもさらに近い密接的な距離はインティメートディスタンス(intimate distance)といい、これは0~45cmの範囲です。うち、0~15cmは、ごく親しい人に許される空間で抱きしめることができる距離、15~45cmは頭や腰、脚が簡単に触れ合うことはないものの手で相手に触れるくらいの距離です。

ただ、上記はあくまで目安であり、こうした人と人との境界線には当然個人差があります。それぞれの個人が持っているソーシャルディスタンスのことをパーソナル・バウンダリー(Personal boundaries)といい、自分に対して何等かの行動をとってくる他人に対して、合理的で安全、許容可能な距離を個人個人が設定しています。

それぞれが、自然とガイドラインやルールを作り、制約を設けてその距離を決めており、相手の好き嫌いをおおまかに判別し、他人の接近を許容している距離です。その判断の基準としては、身体的、精神的、心理的、精神的といったいろいろのものがあり、また信念、感情、直感、自尊心などに左右されます。

上で定義したソーシャルディスタンスのように明確に線引きをするものではなく、ある程度幅を持たせた境界といえ、アメリカ・オールドドミニオン大学でナルシシズムなどを研究しているニーナ・ブラウン教授は、以下のように4つのタイプがある、としています。

1. 柔らかい境界を持つ人: 自分と他人との境界線が重なっている人。この境界を持つ人は、心理的操作術の犠牲者になりやすい。

2. スポンジ状の境界を持つ人:時には柔らかく時には硬い境界を持つ人。柔らかい境界線の人よりも感情的伝染を受けることは少ないが、硬い人よりは影響を受けやすい。スポンジ状境界の人は、何を受入れ、何を受入れないかははっきりとしていない。

3. 硬い境界を持つ人:閉鎖されるか壁で囲われている人で、誰も身体的・感情的に近づくことはできない。物理的、感情的、心理的、性的に虐待を受けている人によく見られる。時間、場所、状況に依存する「選択的な硬い境界線」を持つ場合もあり、それは過去の悪い経験と似た状況に遭遇した場合によく起こる。

4. フレキシブルな境界を持つ人:硬い境界よりも柔軟で「選択的な硬い境界線」ともいえ、より良くコントロールされたものである。こうした人は何を受け入れ、何を受け入れないかを決めているため、感情的な伝染や心理的な操作術に抵抗できる。その境界を破ることは困難なことが多い。

いかがでしょう。自分に似たタイプがあったでしょうか。

理想的には4の「フレキシブルな境界を持つ人」になることですが、1や2のようにある程度他人に流されてしまうという人のほうが多いのではないでしょうか。ただそれが悪いということではなく、こうした境界の概念を正しく理解し、自分が設定している他人との距離を把握することで、より良い人間関係を構築することができるようになります。



こうした個々人の境界という概念を理解すれば、いわゆる「仕切り屋」の制御もやりやすくなります。他人との距離を無視し、自分の周囲のあらゆる物事の処理を自分でコントロールしたがる人物です。

こういう人を英語ではコントロールフリーク(Control freak)といい、freakは「変人」という意味です。他人の個人的生活など「全て」をコントロールしなければならないという誤った信念を持ったひとたちで、完璧主義者に多いようです。

自身が抱える内面的な精神の脆弱性から身を守っているといわれており、こうした人々は、他人へ自身の認識を強制し、操作し圧力をかけ、内面の虚しさから逃れるために他人の力を利用します。

一種の病気ともいえ、「依存症」の一種であるともいわれます。他人を自分のコントロール下に置くことが、人生において成功と幸福を達成する方法だと信じており、大抵の場合、他人に依存することを幼少時からに生存スキルとして習得してきたひとたちです。

このほか依存症といえば、アルコール中毒、薬物中毒のように、中毒と呼ばれる物質依存や、ギャンブルや買い物に夢中になるプロセス依存がよく話題になりますが、人間関係への依存も時に問題になります。

「関係依存」と呼ばれ、上のコントロールフリークもそうですが、それほどひどくはないにせよ、一般にこうした人たちは、過剰に面倒をみてもらいたい(構ってもらいたい)欲求があり、まとわり付く行動を取り、分離することを恐れます。

また他者からの過剰のアドバイスがなければ、物事を決定できず、責任を負うために、他者を必要とします。さらに、他者からの賛同を失うことを恐れ、反対意見を述べることができなかったり、自ら物事を開始することが苦手です。

他人からの保護を得るために、不愉快なことまで行うということもあり、他者との密接な関係が終わると過剰に不安になり、保護を得られる新しい人を探しだしたりします。

はっきりとした症状が出ていなくても、これに近い人を時折みかけます。ようするに「甘え」の意識が強い人であり、小さな子供の中によく見受けられます。大人になってもそれが治らない人は「アダルトチルドレン」などとも呼ばれます。

依存症のひとたちは他者への心理的依存が強く、何事も一人ではできないという点が極まっており、病院で依存性パーソナリティ障害といった病気と認定される人もいます。度が過ぎると重大な精神疾患にいたることもあるため注意が必要です。




一方、依存症の中には「共依存症」というのもあります。こちらは自分のニーズよりも他人のニーズを優先し、他人事の問題解決に夢中な人々で、「ペア」である場合が多いようです。
ペアの一方または両方が、自身の充足のためにもう一方に依存しており、その多くは、自分の価値は他人に由来するという誤った考えを持っています。

無意識的に他人の人生を第一義に考えた生活を送っており、パートナーのニーズを満たすために極度の犠牲を払うという目的意識を持っているため、当人の自給性や自律性がありません。

もっとも一般的な例としては、アルコール依存の夫と妻というパターンがあります。飲酒によって夫は妻に多くの迷惑をかけますが、同時に妻は夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を見出しています。一見、献身的・自己犠牲的に見えますが、実際にはアルコール依存をやめさせ、当人が自立する機会を奪っていることになります。

こうした共依存は、家族や仕事上の仲間、その他のコミュニティなど、あらゆる種類の人間関係で起こりえます。健全な人間関係の間には、適切な境界があり、その上で成り立つ感情的空間のようなものがクッションのような形で存在しますが、 共依存者たちにはそのようなものがなく、限界線を設定することができません。

つまり自分で自分の自立を阻害しているわけで、自己中心的ともいえます。こうした共依存に陥りやすい二人は、自己愛が未熟であり、常に他者の価値に依存しています。

親がアルコール依存症の家庭で育って成人した人に多いともいわれており、こうした親がいる家族は一般に不仲で、虐待に走ったり、感情を抑圧する、といった傾向がみられ、家庭としては「機能不全」ともいうべき状況にあります。そうした中で育った結果、生きづらさを抱えたりするようになり、それが家族以外に向けられた結果、共依存を招きます。

共依存症のひとたちは、「自分が依存している対象について、常にコントロールを失う事の恐怖」を感じています。このため他人から共依存という関係を否定されたり、そうした関係を責められると極端に不安定になります。

強烈な自己否定感から精神的安堵を求めようとし、その結果更に強い共依存の関係を求めるようになったり、時としてその関係が苦しくなり、それを一気に解消するために自殺を選ぶ人もいるといいます。

依存症であれ、共依存症であれ、こうした状態から回復するには、やはりそうした症状を扱う医療機関の門をたたき、その道のプロのカウンセリングを受けることが必要になってきます。

こうした人たちは、他人との境界がわからなくなっている人が多いことから、他人に何をするか、何をされることを許可するかといった制限を設定することが推奨されています。また、依存の対象となっている相手との関係を逆説的に認識する必要があり、他の人の思考、感情、問題に支配されないように自己を確立しなければなりません。

職業的境界

さて、これまでは、個々人に引かれている境界線にまつわるいろいろな問題について述べてきましたが、そうした多くの個人が働きに出る世間の中においては、「職業的な境界線」というものもあり、そこにも問題が生じることがあります。

あらゆる職業において、そこでの仕事に従事する人とその顧客との関係において、この境界線は重要な事項となります。特定の職種に従事する者のガイドライン、ルール、制約でもあり、職業倫理の一環でもあります。

こした職業境界を越えた振る舞いは「境界侵害」と呼ばれ、多くの場合、その職または所属組織に対する信頼と評判を損ね、損害を与えるものとなります。特に、弱者と強者という関係性において境界を越えた場合、職業倫理に反する行為、または搾取となり不法な犯罪行為となるケースもあります。

たとえば自らの教え子である生徒との間に性的関係を持ってしまった、というケースがあります。欧米では昔から問題視されてきており、このため絶対的なタブーとされ、万一発生した場合は非常に厳しい制裁が課されています。

日本でも教師という立場を利用し、そうした行為に及ぶという事件が最近目立ってきた結果、厳罰に処されるケースが増えています。その多くは立場の弱い、未成年でもある生徒に対して行われ、こうした行為に及んだ教師の多くは懲戒免職となり、相手が年少の場合は児童買春・児童ポルノ禁止法違反として立件されることもあります。

また性行為だけでなく、自らの信条等にもとづき、私的な意見を、あたかも事実や真理であるかのように生徒に教える行為もまた職業倫理に反します。一種のパワハラとして摘発されることもあり、教育の現場だけでなく、一般企業などの職場でも起こるえるものです。最近の日本では社会現象として問題視されるようになっています。

このほか、医療関係者と患者との境界を超えるというケースもあります。たとえば看護師が患者と恋愛関係になる、といったことがそれであり、看護師と患者とが個人的な関係を持つことは、患者に対し害を及ぼし、看護職の信頼性を損ねるものとみなされています。法的にも定められた不法行為の一つであり、基本的な職業モラル違反です。

世俗的には、きれいな看護婦さんと若い男性患者、といったイメージが湧いてきたりして何が悪いのか、と思いがちですが、看護師と患者との間というものはそうしたものばかりではありません。

例えばかなり衰弱した老年の患者と若い看護師という関係が想定されます。こうした場合、年老いた患者は看護師に対し脆弱で言いなりにされるがままの弱い立場に置かれる、といったことが発生しがちです。看護師がその職業的立場を自覚せずにそうした関係性を軽視すると、患者は潜在的虐待と搾取の対象となりえます。

看護という仕事の特性上、患者に対して肉体的、精神的、感情的に密度の深い付き合いをすることになり、通常、そうした関係性は患者を快方に向かわせるためのものです。しかしこの関係を悪用すれば患者の脆弱性を増長させてしまうかもしれません。潜在的な権力の乱用につながる可能性があるわけです。

看護師としては、健全な者と衰弱している者という力関係の不均衡を認識することが重要です。患者を萎縮させてしまうように感じさせたり、依存させるようなこと、または弱い立場に付け入るようなことにならないように注意することが必要です。

医療従事者ということでは医師と患者の関係も同様です。日本だけでなく世界中の医療の現場には「医療倫理指針」的なものがあり、患者との性的接触について独立した項目が設けられています。多くの場合、患者と医師との間に起こる性的接触は、違法行為とされており、性的または恋愛的な交流によって医療免許を失い、訴追を受ける場合もあります。

日本の場合、明確に法律化されているわけではありませんが、上の看護師と患者の関係と同じく、患者の弱い立場が悪用される可能性があります。 医師の客観的な判断を鈍らせる可能性がある場合は、医療機関毎の倫理委員会などで訴追されることもあります。

医療という現場において定められているこうした倫理的な職業的境界線を破ることは、治療者の中立性に違反しています。患者を私的な願望や要求の対象にしないこと、患者も治療者も一定の禁欲を互いに守る、といった「禁欲規則」はこうした現場では鉄則として守られているようです。

このように教育や医療といった現場では、一般に職業倫理が厳しく、相対する生徒や患者との間にもきちんとした境界線が引かれています。それ以外の職場でもほとんどの場合、「就業規則」を設け、優越的立場の乱用からの搾取にならぬよう、自主的に自制することによって顧客を保護するように行動規範を内部的に設けています。

これは顧客の利益のためだけでなく、その職業に属する人々の利益のためでもあり、専門職として一般からの信頼と支持を得ていくために必要とされるものです。



ミリグラム実験

ところがそうしたはっきりした規則がない組織もないわけではありません。例えば戦時中の軍隊のような特殊環境下で、はたして同様の倫理規則が自発的に機能するかどうかについては疑問が残ります。また刑務所の中のようなそもそも懲罰を目的とした閉塞空間の中では一般的な倫理は構築されにくいように思えますが、どうなのでしょうか。

こうした疑問に答えたもののひとつに、ミルグラム実験というものがあります。閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものであり、アイヒマン実験・アイヒマンテストとも言われるものです。

1961(昭和36)年に行われたアイヒマン裁判(1961年)の翌年に行われたもので、以後50年近くに渡って何度も再現されてきた社会心理学を代表する模範実験でもあります。

アイヒマンというのは、アドルフ・アイヒマンという、ナチス政権下のドイツの親衛隊将校です。アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わり、数百万人におよぶ強制収容所への移送において指揮的役割を担いました。

ドイツ敗戦後、南米アルゼンチンに逃亡して「リカルド・クレメント」の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていましたが、彼を追跡するイスラエルの諜報機関モサドに発見され、イスラエルに移送されて裁判にかけられました。

クレメントが大物戦犯のアイヒマンであるとわかったのは、妻との結婚記念日として、花屋で彼女に贈る花束を購入したことでした。その日がアイヒマン夫婦の結婚記念日と一致したことが逮捕のきっかけになりました。

アイヒマンは、アルゼンチン政府との軋轢を避けるため極秘裏に連れ出されて、イスラエルに護送されました。その裁判は、1961年4月11日にエルサレムで始まり、アイヒマンは「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、275時間にわたって予備尋問が行われました。

その結果としては当然、当時のナチスドイツの残虐行為が明らかになり、それを率いていた一人であるこの人物の狂気が明らかにされると期待されていました。しかしその過程で描き出されたアイヒマンの人間像は、意外にも人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む一介の平凡で小心な公務員の姿でした。

このことから「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか、それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起されました。

同年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下されました。そして翌1962年6月1日未明にラムラの刑務所で絞首刑が行われました。
そしてこの処刑に先立つ、1961(昭和36)年7月、上記の疑問を検証しようと実施されたのが「アイヒマン実験」でした。

アメリカ、イェール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)主導して行ったもので、その結果は1963年にアメリカの社会心理学会誌“Journal of Abnormal and Social Psychology”に投稿されました。

この実験における実験協力者は新聞広告を通じて集められました。「記憶に関する実験」とアナウンスされ、20歳から50歳の男性を対象として募集された結果、40人ほどが採用され、一時間ほどの実験に対しての報酬が約束されました。イェール大学に集められたこれら実験協力者の教育背景は小学校中退者から博士号保持者までと変化に富んだものでした。

被験者にはまず、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行うものであり、学習における罰の効果を測定するものだと説明されました。そして、各実験協力者は「教師」と、ペアを組む別の実験協力者として「生徒」のふたつをくじ引きで選ぶよう指示されました。

しかし実際には「教師」が真の被験者で、すべてのくじには「教師」と書かれていました。生徒役としては別途、役者が演じる「サクラ」が用意されており、このサクラは引いたくじが「生徒」と書かれていたかのようにふるまうよう言われていました。こうして本来の被験者全員が「教師」となるよう仕組まれました。

そして本試験が始まりました。その実験の内容は、次のようなものです。

被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられます。次いで「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれました。

「教師」はまず2つの対になる単語リストを読み上げ、その後、単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問します。サクラの「生徒」の前には4つのボタンがあり、答えの番号のボタンを押して正解すると、「教師」は次の問題に移ります。

このとき、「生徒」が(わざと)間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示されました。また最初、電圧は45ボルトですが、「生徒」が間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げるよう指示されました。

電気ショックを与えるスイッチは、最初の45ボルトも含めて9種類あり、最大は450ボルトでした。450ボルトより三段階下の315ボルトのスイッチには「はなはだしく激しい衝撃」と書かれ、二段階下の375ボルトには、「危険で苛烈な衝撃」と書かれていました。

しかし、450ボルトとその一段階下の435ボルトには、但し書きはありませんでした。これは被験者の心理をぎりぎりまで追い込むための巧妙な仕掛けであり、人というものは何も書かれていないと、勝手に想像力を働かせてしまうものです。“危険”を超えた強さの電流が流された場合のさらにひどい状態を想像させることがねらいでした。

このように「教師」には「生徒」が間違えるごとに高い電圧が加えられると信じ込まされましたが、実際には電圧は加えられませんでした。ただし、各電圧の強さに応じ、あらかじめ録音された「うめき声」がインターフォンから流されるようになっていました。

しかも電圧が上がるごとに、苦痛のアクションが大きくなるよう工夫されており、たとえば、
75ボルトでは「不快感をつぶやく」程度ですが、150ボルトになると、「絶叫する」といった具合です。

さらに270ボルトになると、「苦悶の金切声」を上げ、300ボルトでは、壁を叩いて「実験中止を求める」、315ボルトでは、壁を叩きながら「実験を降りる」と叫び、そして330ボルトになると、無反応になる、という手のこんだものでした。

こうして多数の被験者を「教師」と「生徒」に見立てて実験が開始されましたが、「教師」が生徒の反応を耳にし、恐ろしくなって実験の続行を拒否しようとするたびに、その実験に立ち会っている男が、試験を続行するように促しました。

その男は白衣を着ており、まるで権威のある博士のようにふるまっていました。そして感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告しました。

「続行してください。この実験は、あなたに続行していただかなくてはいけません。あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。迷うことはありません、あなたは続けるべきです。」

「教師」は実験が続けられてボルテージが上がるごとに恐怖にかられ、スイッチを押すことを躊躇するようになりますが、その都度同じ通告を受け、思いきってスイッチを入れます。しかしやがては「生徒」の絶叫を聞いても躊躇は少なくなり、やがては通告を受けなくてもスイッチを押すようになっていきました。

ただし、通告が行われるのは3度目までで、4度目の通告がなされた場合、その時点で実験は中止されました。一方、そうでなければ、設定されていた最大ボルト数の450ボルトに達するまで実験は続けられることになっていました。

この実験に先立ち、ミルグラムは、イェール大学で心理学専攻の4年生14人を対象に、実験結果を予想する事前アンケートが実施していました。

その結果、回答者は全員、実際に最大の電圧を付加する者はごくわずかだろうと回答(平均1.2%)し、同様のアンケートを同僚たちにも行ったところ、やはり一定以上の強い電圧を付加する被験者は非常に少ないだろうという回答が得られていました。

ところが、実際の実験結果は、まったく違うものでした。被験者40人中、半分以上の26人が最大ボルトの450ボルトまでスイッチを入れており、その率は65%にも上りました。ただ、多くの被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいました。

何人かの被験者は実験の中止を希望し、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいたといいます。しかし、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいませんでした。中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいたといいます。

この実験では別のバリエーションも試され、「教師」と「生徒」を同じ部屋にさせるなど、「教師」の目の前で「生徒」が苦しむ姿を直接見せた実験も行われたといいます。無論、生徒の側に電圧はかけられず、苦しむ様子すべてが演技でした。

しかしそれでも「教師」がスイッチを押してしまう率は高く、結果は30~40%の被験者が用意されていた最大電圧である450ボルトまでスイッチを入れたといます。

この実験の結果は、一般の平凡な市民が一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明したもので、以後こうした現象は「ミルグラム効果」と言われるようになりました。国内外において高く評価されましたが、嘘とはいえ人の痛みを題材にした試験内容について、倫理性の問題はなかったかとする批判の声もあがりました。

この実験が行われてから9年後の1971(昭和46)年には、同じアメリカのスタンフォード大学で同様の実験が行われました。こちらは「スタンフォード監獄実験」と呼ばれ、心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に行われたものでした。

この実験は、刑務所を舞台にしたもので、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまうことを証明しようとしたものでした。監獄実験とはいうものの、実際の監獄を使ったのではなく、模型の刑務所(実験監獄)をスタンフォード大学地下に作ったもので、実験期間は2週間が予定されていました。

この実験では、新聞広告などで普通の大学生などの70人が集められました。そしてその中から心身ともに健康な21人が被験者として選ばれ、内11人を看守役に、10人を受刑者役に見立ててグループ分けし、上の模擬刑務所内に入れました。

実験の目的は、犯罪者でもなんでもない普通の人々が「監獄」という特殊な環境に置かれた場合、そこで管理する者と管理される者を演じた被験者がその「役」どおりにふるまうようになるかどうかを確認することでした。管理するのは看守の被験者で、管理される側は受刑者役の被験者です。

その結果、時間が経つにつれ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者もより受刑者らしい行動をとるようになっていきました。しかし、実験の途中から被験者同士で暴力行為がみられるようになり、被験者の一人が危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連れて中止を訴えたため、協議の末、実験は6日間で中止されました。

暴力行為が起こるようになっても試験を継続しようとしていたことなどもその後発覚し、かなり強引なやり方で実験を行ったことへの批判や実験の内容の厳密さに問題があるとされました。

いまだその結果については賛否両論の意見があるようであり、試験は失敗に終わりましたが、特殊な条件下に置かれた人間は、どうやらその環境に合わせて行動するようになるようだ、ということがある程度明らかになりました。同じく特殊な条件下ではいかに人間は非道になれるかを証明したミリグラム実験の実験結果とよく似ています。

アイヒマンの公判中、その人物に接したある人は、「実に多くの人が彼に似ていたし、彼はサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだった」と評しています。そうした人物が大量虐殺をなぜ行ったかを解明することがミリグラム実験の目的でしたが、その結果は、確かに普通の人が非道な行為を起こしうる可能性を示していました。

また、アイヒマン自身も自分が犯した罪を罪と思ってはいなかったようです。死刑の判決を下されてもなお自らを無罪であると抗議していたといい、その死刑執行の直前、ドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたそうです。

また自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張し、「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残したとされています。

アイヒマン最期の言葉もまた、次のようなごく普通の人間を思わせるような内容でした。

「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は覚悟はできています。全ての人の運命がそうであるように、我々はいずれまた会うでしょう。私は神を信じながら死にます。」

こんな話もあります。

刑務官に「最後に何か望みがないか」と言われたとき、アイヒマンは「ユダヤ教徒になる」と答えたといい、なぜかと尋ねられると「これでまた1人ユダヤ人を殺せる」と返答をしたというのです。こちらが最後の言葉だったとする説がありますが、実際にはこのような事実はなく、彼にナチ戦犯としてのネガティブな印象を与えるための創作と考えられています。

アイヒマンの死刑執行は、1962年6月1日未明にラムラの刑務所で行われました。絞首刑による死刑執行後、遺体は裁判医が確認するまで、1時間ほど絞首台にぶら下がったままだったといいます。あるいは見せしめの意図があったのかもしれません。その遺体は焼却され、遺灰は地中海に撒かれました。

なお、この死刑はイスラエル建国以来同国で執行された唯一の死刑となりました。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないためであり、死刑は戦時の反逆罪および敵性行為をした者か、ナチスおよびその協力者を処罰する場合においてのみ適用されます。

後年、元ソ連赤軍軍人で、ナチス・ドイツの強制収容所の看守であったウクライナ人、ジョン・デミャニュクが居住していたアメリカで拘束されました。アイヒマンと同様にイスラエルに移送されて死刑判決が下されましたが、こちらは実際に残虐行為をしていた人物ではないことが証明され、1993年に無罪が確定しています。

ミリグラム実験やスタンフォード監獄実験などにより人間の残虐性が浮き彫りになりましたが、アイヒマン自信が本当に善良な人間だったのかどうかという疑問は、結局明かされることはありませんでした。

しかし、たとえ模範市民といわれるような善人であっても、いざ権威を与えられると盲目的にその役にはまってしまう可能性がこれらの実験から明らかになりました。

そうした役を与えられことで非道といわれるような行動も安易に起こしてしまう可能性があるということであり、ごくごく普通の生活をしている私やこれを読んでいるあなたもそうした残虐性を内に秘めているのかもしれません。ちょっと考えさせられませんか?

ちなみに、ミリグラム実験は、「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」というタイトルで映画化されています。2015年にアメリカで製作されたドラマ映画で、本作は批評家から高く評価されています。

「人間の本性についての問いを提示している」とのことで、こちらも「観客を考え込ませている」とのことです。これから長く続く雨の季節、こうしたものを観て自分の本性について考えてみるのもよいかもしれませんね。

カエルと一酸化二水素

日本中のあちこちで田植えが行われ、蛙の鳴く声が良く響く季節になってきました。水田が多い地方などでは、夜にたくさんの蛙が一斉に鳴き出し、「蛙の大合唱」となります。初夏の風物詩といえます。

「ケロケロ」「ゲロゲロ」「クワックワッ」といったこのカエルの鳴き声ですが、意味にはいろいろあって、ひとつには「広告音」というのがあります。

繁殖期にオスが他の個体に対し、自分の存在をアピールして、メスを引き付けるための泣き声です。オスを排除するための鳴き声でもあり、田んぼでよく聞かれるカエルの合唱が、これにあたります。

同じ種類のカエルが同じように鳴いていても、その広告音は違っているといい、それぞれが、自分という存在をアピールしているわけです。こんな小さな生き物に自分という個性を主張する能力があるということは驚きです。

この広告音に似たものに「求愛音」というのもあります。これもまた繁殖期にオスがメスを呼ぶ声ですが、こちらは産卵を促すための鳴き声です。他のオスに対する縄張り宣言の意味が含まれている場合もあるようで、「縄張り音」とも呼ばれています。

カエルの声にはほかにも、解除音(他のオスにメスと間違われて抱接されたオスが、間違った抱接を解除させるための鳴き声)、警戒音(人や敵が近づいたときに発する鳴き声)、危険音(敵に捕まったときに発する鳴き声)などがあり、そのバリエーションの多さにも驚かされます。

「雨鳴き」というのもあって、こちらは低気圧が近づいたり、雨が降っているときに発する鳴き声で、アマガエルの雨鳴きが有名です。「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」といったかんじで、鳴くのはすべてオスです。オスの喉には鳴嚢(めいのう)という袋があり、声帯で出した声をこの袋で共鳴させて大きな声を生みだします。

水辺から聞こえてくるこうした蛙の鳴き声は独特の情緒があります。ゆえに、古くから多くの俳句や歌に詠まれてきました。ヤマト民族は古くから農耕民族であり、身近なところにカエルの棲息に好適な水辺や水田があったことから、春から夏にかけての景物とされてきました。「万葉集」の中でもその鳴き声を愛でた詩歌が多数あります。

例えば山上憶良は、万葉集の第5巻に次のような歌を詠んでいます。

この照らす 日月の下は 天雲(あまぐも)の 向伏す(むかぶす)極み 谷ぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ

この月日を照らす下は、天雲のたなびく果て、カエルの這い回る果てまで、大君(天皇)が治められている。それほど秀れた国なのだ、といった意味です。太古の昔、天皇が納める国はそこら中、カエルだらけだったのでしょうか。

「たにぐく」とはヒキガエルのことであって、「多爾具久」または「谷蟇」と書きます。語源は「谷潜り」(たにくぐり)ではないかといわれており、谷間から聞こえるカエルの声は上に拡散してよく聞こえるので、こう呼ばれるようになったのでしょう。ヒキガエルは日本ではごく一般的なカエルであり、古事記では神の一柱として多邇具久が登場するほどです。




ここで、ガマガエルとヒキガエルは何が違うのでしょうか。実は、これは同じものです。混同されることも多いようですが、生物学的には「ヒキガエル」のほうが正しいようです。ヒキガエル科のもとに、アジアヒキガエル、ニホンヒキガエル(本土で最も普通種)、ナガレヒキガエル(渓流産)、オオヒキガエル(亜熱帯域原産の外来種)などがいます。

それでは、なぜヒキガエルをガマガエルと呼ぶようになったのでしょうか。これは「ガマの油」の口上で有名な傷薬から来ているといわれています。

このガマの油は、もともとは馬油(バーユ、マーユ)と呼ばれていました。戦国時代の大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職、光誉上人(こうよしょうにん)が作った傷薬で、刀傷を治す効能があり、馬の切り傷にも効くということで、馬油と呼ばれるようになりました。

江戸時代になると庶民にまで広く浸透するほど人気の薬となりましたが、江戸中期頃になって第5代将軍徳川綱吉によって“生類憐みの令”が発せられたため、馬油とは公言できなくなりました。馬油は、馬の皮下脂肪を原料とする油脂だからです。

そこで誰が考えたのか知りませんが、自分の家の馬から取った油なら文句を言われないだろうと、これを「我が馬の油」と言い換え、「我馬の油」としました。カタカナ表記してガマの油、とすればお咎めなし、というわけで、それがそのまま定着しました。

やがては、このガマの油を香具師(やし)と呼ばれる興行師が売るようになりました。行者風の凝った衣装をまとった香具師たちは、客寄せのために、綱渡りなどの大道芸をやったあと、この油を造る方法を語り出します。

「四六のガマ」と呼ばれる霊力を持ったガマガエルは、霊山・筑波山(伊吹山とも)でしか捕獲できません。自分の顔を在原業平(ありわらのなりひら・平安初期の歌人で男前といわれた)のような美形だと信じていますが、周囲に鏡を張った箱に入れられて、自らの醜悪さに驚き、タラタラと脂汗を流します。

この汗を集め、煮つめてできたものが「ガマの油」であり、香具師はこれを万能であると宣言します。そして、刀を手に持ち、その刀で半紙大の和紙を二つ折りにしたものを切り続け、「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚……」と口上しながら、小さくなった紙片を紙吹雪のように吹き飛ばします。

こうして刀の切れ味を示したあと、今度は自分の手を軽く切ると、そこからはうっすらと血が出てきます。その切り傷にガマの油をつけると、あら不思議、血はたちまち消えてしまいます。

そして、もう一度刀で腕を傷づけると、ガマの油を塗った腕は、刃物で切ろうとしても切れません。止血作用のほかに防護の効能もあることを見せつけられた観客からは「おーっ」という声があがります。

実は、刀には仕掛けがしてあり、切っ先だけがよく切れるようになっています。腕に刃を当てて血が出たのは、血糊を線状に塗って切り傷に見せただけです。また、切れない部分で腕を切っても血がでるわけはありません。しかし、何も知らない観客はこれを信じてしまい、ガマの油は飛ぶように売れていく、というわけです。

このガマの油売りの口上は、現在になっても続けられており、地方によっては伝統芸能にもなっています。筑波山には、「ガマ口上保存会」なるものがあり、2013(平成25)年には「筑波山ガマの油売り口上」としてつくば市認定地域無形民俗文化財第1号に認定されています。

ではこのガマの油の本当の正体は何か、ですが、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌された粘液だといわれています。実は強力な毒液であり、ヒキガエルの皮膚、特に背面にある多くのイボから出されるものです。牛乳のようなこの白い粘液によって外敵から身を守り、同時に、有害な細菌や寄生虫を防いでいます。

人間にとっても有毒であり、いわゆる神経系・ステロイド系の毒素です。皮膚に付いた場合は炎症を発し、間違って口にしようものなら、神経系・循環器系に重大な障害を生じます。さらに、幻覚・嘔吐・下痢・心臓発作などが引き起こされる可能性もあり、最悪の場合は死にいたります。

不用意に素手でふれることは避けるべきで、ふれた場合は後でよく手洗いする必要です。しかし一方では漢方としても使われ、乾燥したものは蟾酥(せんそ)と呼ばれています。強心作用や血圧降下作用があり、救心製薬の薬、「救心」の原点となった「六神丸」はこの蟾酥が主成分です。

カエルの仲間には、こうした毒をもつものが多く、南米の森林の奥深くには、捕食者から身を守るためにモルヒネの毒性の200倍も強力な毒を蓄える種も棲んでいます。「ヤドクガエル」といい、コバルト色の体に美しい水玉模様を持っていますが、鮮やかな体色は、自分を食べようとする捕食者への警告です。

そんなに猛毒をどうやって作り出すのかと不思議になりますが、最近の研究では、こうした毒ガエルたちは、自分の体内で毒を作り出しているわけではなく、毒をもつダニやアリを食べて、その毒を体内に蓄えていることなどがわかっています。体のどこかでそれを濃縮し、体液として分泌して武器にしているのでしょう。




ところで、カエルは、カワズ(かはず)とも呼ばれます。その成り立ちには諸説ありますが、以下はそのひとつです。

すなわち、カエルの「か」は「からだ」を示し、「躯体」、「構造体、物」を意味します。また、「へ」は「はう(這う)」という意味で、「はいつくばる」、あるいは「平たくなっている」様を示します。

最後の「る」は、「・・の状態にある」ことを意味します。例えば「とる」ということばがあります。「手(と)る」「採る」「捕る」も「盗る」といろいろな漢字が与えられますが、これらの「る」は、「あるものをその状態にする」ことを表現したものです。つまり、「かえる」は「「体を」「平たい」「状態にしている」ものという意味になります。

一方の「かはず」も同じような由来です。「か」は「体」で、「は」は「這う」であり、「ず」は「すむもの」を簡略化した表現です。すなわち「体を」「這うようにして」「住んでいるもの」ということになります。

このように言葉の成り立ちはほぼ同じですが、古来より、このふたつは、一方が日常語として、また一方が歌語として使い分けられてきました。無論、「かえる」のほうが日常的に使われる呼称です。

一方、和歌などの中でよく使われるのが「かはず」で、これはたいていの場合カジカガエルのことを示します。「河鹿」と表記することもあり、夏の季語であって、夏になると「ケケケケケケケケ・・ケケ・ケ」涼しげに鳴くカエルのことです。聞いたことある人も多いでしょう。

このカジカガエルは、山地にある渓流、湖、その周辺にある森林などに生息する種で、北海道を除く日本中に生息しています。美声で唄うことから、江戸時代には専用の籠(河鹿籠)に入れて、ペットとして飼うことが流行っていました。

このようにカエルといえば、その声を愛でるものという向きもありますが、一方では古くから「食」の対象でもありました。日本書紀によると、吉野の国栖(くにす・現奈良県に居住したといわれる住民)たちは蝦蟇蛙(ガマガエル)を煮たものを「毛瀰(もみ)」と呼んで食べていたといいます。

この「毛瀰」が非常に美味しかったことから、関西では、それ以外のものを「もみない(毛瀰でない)」と呼び、「不味い(まずい)・美味しくない」という意味で使うようになったといわれています。関西出身の方には馴染みのある表現かと思います。

もっとも、近年の日本では、ヒキガエルは食べません。「食用蛙」といえば、普通ウシガエルのことを指します。体長は大きなものでは18センチメートルほどもあって、体重5~600グラムは、通常のカエルの3倍以上です。その肉は鶏肉のささみに似ており、淡白で美味であって、地方の料亭などでは高級料理として出しているところもあります。

日本に入ってきたのは戦前のことで、1918(大正7)年に、東京帝国大学の教授であった動物学者の渡瀬庄三郎氏が食用としてアメリカのニューオリンズから十数匹を導入したのがきっかけとなりました。戦後は逆に輸出するほど増え、1950年から1970年にかけては年間数百トンのウシガエルが生産されたといわれています。

しかし、大型かつ貪欲で環境の変化に強い本種は、在来種に対する殲滅的捕食が懸念されるようになり、現在では侵略的外来種とみなされて、むしろ駆逐されるようになっています。ヨーロッパや韓国でも輸入が禁止されているなど、世界中で嫌われ者です。

というわけでウシガエルはあまり食卓にあがらなくなりましたが、日本以外の世界中でカエルを食べる文化はあり、中国をはじめ、欧州など世界的にもカエルを食べることはいまだ特別なことではありません。

中国からインドネシアにかけての地域では、トラフガエル、ヌマガエルなどが食用に利用されており、フランス料理などの食材に使われるカエルは、ヨーロッパ原産のヨーロッパトノサマガエルです。

とくにフランス人はこれが大好きらしく、高級食材として扱われています。フランス料理が世界中に浸透するようになってからはほかの国でも食べられるようになりましたが、古くからカエルを食べてきたフランス人のことを他のヨーロッパ人は揶揄を込めて「カエル喰い」と呼びます。

現在でも英語で frog eater (フロッグ・イーター)やJohnny Crapaud(ジョニー・クラポーといえば、フランス人に対する別称であり、クラポーは、フランス語でカエルのことです。frog だけでフランス人を指すこともあるようです。



茹でガエルの伝説

このようにカエルは食用としても扱われますが、研究用の実験動物として使われることもあります。とくに発生生物学や生理学の部門での研究では欠かせないものであり、アフリカツメガエルという種は実験目的で飼育されることで有名です。

スコットランド生まれのアレキサンダー・スチュアート(1673~1742)という生理学者が無頭ガエルを用いて行った実験が有名で、これは脳を切除したカエルの脊髄を刺激すると足が跳ね上がるというものでした。その後これは「脊髄ガエル」の実験と呼ばれるようになりました。

以後、多くの科学者がカエルを使って、数々の神経伝達のしくみを解明してきましたが、手に入りやすいカエルはその後、学校などでも教材として使われるようになりました。理科の授業でカエルを使った「解剖実習」を行ったという人も多いのではないでしょうか。私も小学校のころ、トノサマガエルを使った神経伝達の実験をした覚えがあります。

ところが、最近はこの解剖実習もかなり少なくなったようです。動物愛護の観点から、ということもあるようですが、田んぼの減少などで対象となるカエル減少したこともあり、またそれまでよく使われていたウシガエルが特定外来種に指定されたことなども関係しているようです。

とはいえ、実験や観察を重視する学校ではカエルを使った実験が今も行われることが多く、自然科学への興味関心を喚起するためには必須のものとされています。「百聞は一見にしかず」というわけで、教室で教科書と向き合って覚えた知識よりも、実際に自分の手で解剖し、自分の目で見て体験したことの方がずっと多くのことを学ぶことができるというわけです。

さて、カエルの実験と聞かされて、「茹でガエル」の話を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。これは、2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れるというもので、前者は直ちに飛び跳ねて脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できず、やがて茹でガエルとなって死んでしまう、とされています。

生理学的な見地から行われる実験のように受け取られがちですが、実はこの話が使われるのはビジネスの上においてのことのほうが多いようです。

ビジネス環境の変化に対応する事の重要性、困難性を指摘するためによく用いられます。例えば、業績悪化が危機的レベルに迫りつつあるにもかかわらず、従来型の経営を続けている企業の末路、といった具合に使われます。

一般に人間は環境適応能力に優れているといわれています。しかし、ゆるやかな環境変化には気づきにくく、その変化が致命的なものであっても受け入れてしまう傾向があり、気が付いてみれば大きな損害を受けていることがあります。ぬるま湯がいつのまにか熱湯になっていることに気づかずに死んでしまうカエルと同じというわけです。

心理学者や経済学者、経営コンサルタントなどがとくにこの茹でガエルの話を使いたがります。低すぎる営業目標達成を喜んでいる経営幹部や、敗色が濃厚であるにもかかわらず、なお好戦的な上層部の人々を批判する場合などに、この茹でガエルの話はうってつけです。

人間の生業では確かにそうしたことはありがちなのですが、では実際にカエルを茹でてみたら本当にそうなるのかどうか、というところは実は長い間誰も検証してきませんでした。本当かどうかを確認せずにこの話は広まったと思われ、いわば都市伝説の一つと今では考えられています。

そもそもこうした茹でガエルの実験というものを誰が行ったのかというところから紐解いていくと、話の発端は、1869(明治2)年にまでさかのぼるようです。この年、ドイツの生理学者フリードリッヒ・ゴルツ、という人が行った実験がそれらしい、という記録が残っています。

ゴルツは、脳を切除したカエルがどういう生体反応を見せるかという実験をいろいろやっており、その中のひとつとして行ったのがこの茹でガエルの実験でした。その結果、脳のあるカエルは摂氏25度から落ち着かない様子になり、温度が上がるごとに激しくもがき苦しみ、42度でそのまま水(お湯)の中で死んでしまったとされます。

一方、脳を切除したカエルはどうだったか、については記録がないようです。記録されなかったのか、脳があるカエルの実験しか行われなかったのかわかりません。が、もしかしたら死んだのは脳がないカエルだったのかもしれません。ともかくカエルは死んでしまった、という話だけがこのあたりから独り歩きするようになっていきます。

さらに、この実験から4年後の1873(明治6)年、今度はイギリスのジョージ・ヘンリー・ルイスという人物が、同じくこの茹でガエルの追試験を行い、やはり同様に茹でガエルは死んでしまったとされます。

しかし、このルイスという人物は、生理学者というよりも哲学者・文学者としてのほうが有名な人で、こうした実験はむしろ趣味として行っていたようです。エーテルとクロロホルムを使った実験をよく行っていたといいますから、こちらでも死んだとされるカエルには麻酔がかかるなど、何らかの操作が加わっていたのかもしれません。

こちらも本当のところはよくわかりません。いずれにせよ、ゴルツやルイスが行ったとされるかなり古い、しかもかなりあいまいな茹でガエルの実験結果については、それが正しいのかどうかという検証も行われないまま、長い年月が過ぎました。



その後この話は忘れさられていましたが、やがて第二次世界大戦後の東西冷戦の時代になって初めて科学以外の世界でこの話が取り上げられました。1960年代のアメリカなどで体制を批判する例えとして取り上げられたのです。敵対するソビエトも自国もにらみ合っているだけで、その状態に甘んじている茹でガエルだという批判がその内容でした。

さらに1980年代になり、終末論が流行るとここでも語られるようなりました。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむようなこの時代、その困窮の原因や帰趨が、それを見てみぬふりをしている指導者にあるとされ、彼らもまた茹でガエルだと揶揄されたのです。

さらには、1990年代には地球温暖化問題においても、茹でガエルは例えとしてよく使われるようになりました。何も環境対策をせずに放置した結果、地球はいまや瀕死の状態にある、というわけで、ここでの批判対象は世界中の指導者ということになります。

地球温暖化を阻止しようと国連が招集した国連気候行動サミットで、各国の対応を痛烈に批判した16歳の少女スウェーデン人のグレタ・トゥーンベリさんの演説の内容もまた、この茹でガエルの話を彷彿とさせるものでした。

このように、各時代ごとに茹でガエルの話は広まり、いまや「一般論」として定着するようになっています。ところが、1995(平成7)年になって、アメリカのビジネス誌「Fast Company」が、そもそも論を持出し、120年以上も前に行われたこの実験は果たして正しいものなのかを検証する目的で特集記事を組みました。

Fast Companyの編集者は、まずハーバード大学の細胞生物学者で、発生生物学の権威、ダグラス・メルトンにコメントを求め、これに対してメルトンは、「熱湯に入れれば飛び出す前に死んでしまうし、冷たい水に入れれば熱くなる前に飛び出してしまうはず」と答えました。

メルトン博士は、全米科学アカデミーおよびアメリカ芸術科学アカデミーのメンバーであることから、その発言は重いものでした。またFast Companyは、国立自然史博物館の爬虫類と両生類の学芸員であるジョージR.ツークの意見も掲載し、彼もまた、「カエルが逃げる手段を持っていれば、確実に逃げるだろう」と述べ、茹でガエル説を否定しました。

さらに、2002(平成14)年、オクラホマ大学の動物学者で、両生類の熱に関する脆弱性を研究していた、ビクター・H.ハッチソンもまた、この説を否定しました。否定するだけでなく、ハッチソンは、実際の検証実験を行いました。

この実験では、多くの種類のカエルについての試験が行われ、その手順は1分間に水の温度を華氏2度ずつ上げて様子をみる、というものでした。その結果、温度が上がるごとにカエルはますます活発になりましたが、どのカエルも一定の温度になると水から逃れようとしたといいます。

正常性バイアスの危険

こうして一世紀以上にもわたって独り歩きしてきた茹でガエルの仮設は、真実ではないということが証明されました。よくよく考えてみればカエルも動物である以上、茹でられて体温が上がれば熱くなって本能的に逃げるがあたりまえでしょう。

しかし、不思議なもので、ヒト以外の生物、ましてやカエルのような下等生物ならば、徐々に温められればそういうこともあるかもしれない、とどこかで思う気持ちが湧いてくるのは確かです。なぜかそういう「本当らしい話」を信じてしまうというのは人間の特性ともいえ、人の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできているようです。

日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、いつも心が過剰に反応してしまっては疲弊してしまいます。そうならないように、人間の心にはある程度の限界までは、正常の範囲として処理するメカニズムが備わっており、こうした機能を「正常性バイアス」といいます。

バイアスとは、英語で“bias”と書き、「偏り」のことです。ここでは「偏見」と訳すのが適当でしょう。これに正常性をつけて正常性バイアスといいますが、これは自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう、といった偏った見方をする人の特性を意味します。

茹でガエルのような信ぴょう性も定かでないような話を信じてしまう、といったケース以外にも、自分にとって何らかの被害が予想される、といった状況下でも正常性バイアスは起こりえます。

例えば自然災害や火事、事故、事件といった場合などがそれです。そうした非日常的な出来事すらも、日常の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価してしまいます。その結果として「逃げ遅れ」が生じ、最悪の場合は人を死に至らしめます。

正常性バイアスは、「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言い、災害に直面した人々がただちに避難行動を取ろうとしない心の作用として、とくに先の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以降、注目されるようになりました。

この東日本大震災では、津波避難をめぐる課題として「警報が出ているのを知りながら避難しない」人たちが少なからずいたことが明らかになっています。地震発生直後のビッグデータによる解析でも、ある地域では地震直後にはほとんど動きがなく、多くの人々が実際に津波を目撃してから初めて避難行動に移り、結果、避難に遅れが生じたことがわかっています。

宮城県の石巻市では、海岸から5キロメートル離れた大川小学校で、校庭にいた児童74名と、教職員10名、合わせて85名の学校関係者が亡くなりました。その避難先の決定を誤らせたのも正常性バイアスによる根拠のない楽観的思考ではなかったかといわれています。

大津波に先駆けで地震が生じた当初、教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認していました。そして、来るかもしれない津波に対しての避難先について議論を始めていたといいます。このとき、学校南側の裏山に既に逃げようとしていた児童たちもいましたが、この教師らは彼らに戻るよう呼びかけ、連れ戻した、とされます。

この裏山というのは、校庭のすぐそばにある緩やかな傾斜の小山で、児童らにとってシイタケ栽培の学習でなじみ深い場所でした。有力な避難場所でしたが、降雪により足場が悪く、未曾有の大地震の直後のため土砂崩れや落石などの可能性もありました。従って、危険な場所である、と判断したのもあながち間違っていたとはいえません。

一方、教職員の間では、いややはり裏山へ逃げたほうが安全という意見もあり、校庭にとどまり続けたほうがいいという意見と対立しました。

このとどまり続けたほうがいいという意見の背景には、もうひとつ理由がありました。この小学校は、一般児童の学び家であると同時に、地域の避難所でもあり、このため学校外から避難してきていた老人もいました。このため、老人たちが避難するためにも、平地ではない裏山は適当ではないと考えられたのです。

さらに、学校に避難してきていた一般人の中には、学校から約200m西側には、周囲の堤防より小高くなっている場所(新北上大橋のたもと)があり、ここへの避難のほうが安全だという人もいました。

こうして、裏山へ逃げた方が良いという意見と、学校にとどまり続けた方が良いという意見、さらに学校の外に出て別の高台に逃げた方がいいという意見も出るなど、意見が錯綜する中、時間はどんどんと過ぎていきました。

このとき、教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったといいますが、「ここまで(津波は)来るはずがないから、三角地帯に行こう」という意見も根強く、「喧嘩みたいに揉めていた」という話も残っています。

この議論の間、20人ほどの保護者が児童を迎えに来て帰宅して行きましたが、このとき既に大津波警報が出ていることを報告した親がいたことも確認されています。しかし、やがて教師たちの意見は「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」に傾いていき、逆に帰宅しようとしていた保護者達を引き留めるほどだったといいます。

このとき、山に逃げたものの連れ戻された児童らの中には、「津波が来るから山へ逃げよう」「地割れが起きる」「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴える者もいたことが、これらの保護者達により目撃されています。

こうして、東北地方太平洋沖地震に伴う津波が本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を津波が遡上してきました。その結果、河口から約5kmの距離にある大川小学校を直撃し、教師と学童合わせて85名のほか、学校に避難してきた地域住民や保護者、スクールバスの運転手が死亡しました。

学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事となり、この事件から3年後、犠牲となった児童23人の遺族は、宮城県と石巻市に対して総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こしました。

この裁判では、一審の地方裁判所、二審の仙台高裁ともに学校側の防災体制の不備を認定し、二審では、1審判決よりも約1000万円多い総額14億3617万円の支払いを命じました。学校側は最高裁への上告を求めましたが、2019年10月11日までに上告が退けられ、2審仙台高等裁判所判決が確定しています。

学校側の誘導ミスが認められた結果ですが、未曾有の大地震があった直後の現場は、集団パニック状態かそれに近い状態であったと推定されます。この裁判でも、様々な情報や意見が行き交う中で、正しい判断を行うことが困難な状況であったことなどが取沙汰されました。

誰が良いとか悪いとかいう問題ではなく、こうした例は異常な環境下では誰もが正常性バイアスに陥る可能性がある、という教訓と捉えることができます。

この東日本大震災から3年後に起きた2014(平成26)年9月27日の御嶽山噴火でも、似たようなことがありました。御嶽山の噴火で登山者58人が噴石や噴煙に巻き込まれて死亡したこの事件では、死亡者の多くが噴火後も火口付近にとどまり噴火の様子を写真撮影していたことがわかっています。

携帯電話を手に持ったままの死体や、噴火から4分後に撮影した記録が残るカメラもあり、彼らが正常性バイアスの影響下にあり、「自分は大丈夫」と思っていた可能性が指摘されています。

この年(2014年)には、隣国の韓国でも大きな事故がありました。乗員・乗客の死者299人、行方不明者5人、捜索作業員の死者8人を出した「セウォル(世越)号事件」です。この事件においても、正常性バイアスと思われる現象があり、これは乗っていた修学旅行中の高校生を誘導する側の船舶関係者に起こりました。

のちにこの船は不適切な船体改造により高重心となり、過積載とバラスト水の操作ミスによって転覆したことがわかっています。転覆後、徐々に沈んでいく船の中では、「救命胴衣を着用して待機してください」という自動船内放送が流れました。これを受け、乗客の避難誘導を行う乗員も乗客に対して「動かないでください」と繰り返していたといいます。

おそらく、誘導員も船内放送を信じて大丈夫だと思ったのでしょう。このため、船内にいた多くの高校生たちのほとんどはその指示に従って待機したままでした。船員の不適切な誘導もさることながら、船内に残された乗客の多くもギリギリの段階まで、どこか大丈夫だ、と思う気持ちがあったのではないかと考えられます。

韓国では、これより11年前の2003年2月18日にも、大邱(テグ)地下鉄放火事件という事件があり、大きな社会問題になりました。

この事件は、大邱広域市地下鉄公社(当時)1号線の中央路駅構内地下3階のホームに到着した列車の車内で、自殺志願者の男が飲料用ペットボトルの中に入れていたガソリンを振り撒き放火したというものです。

停車中の車内が大火災となったこの事件では、多くの乗客が逃げずに車内に留まりました。煙が充満する車内の中で口や鼻を押さえながらも逃げずに座っている様子が乗客によって撮影されており、ここでも正常性バイアスが乗客たちの行動に影響したとのではないかといわれています。

「被害はたいしたことがないのでその場に留まるように」という旨の車内放送が流れたという証言もあり、この事件は、「セウォル号事件」とよく似ています。車上員のこうした間違った判断によって被害が拡大されたと思われるこの火災では、当時において世界の地下鉄火災史上で2番目となる198人以上の死者を出しました。

韓国人はより正常性バイアスに陥りやすいのではないか、とつい思ってしまいますが、そんなことはないでしょう。我々日本人も同じような状況に巻き込まれれば同様の行動をとってしまう可能性はあるのです。

きさらぎ駅

茹でガエルの話とこうした正常性バイアスの結果と思われる事件の共通点としては、多くの人が嘘やデマを信じてしまう、という点です。そうした意味では「都市伝説」と似ていなくもありません。

都市伝説とは、本当にあったとして語られてはいるものの、「実際には起きていない話」であり、あるいは、実存しない可能性が高い人間が体験した虚偽について作られた物語のことを指します。

正常性バイアスのように、「実際に起きている」異常な環境下で判断を誤るというところが異なりますが、間違った情報に基づいて人が惑わされるという点では同じです。

一般に、都市伝説といわれるものには起源や根拠がまったく不明なものも多いようですが、何かしらの根拠を有するものもあります。特定の、とはいえ、たいていは何でもない事実に尾ひれがついて、伝説化することもあり、たとえば「東京ディズニーランドの下には巨大地下室があり、そこで賭博等の行為が行われている」といった類の話です。

この例では、ディズニーランドには、実際に従業員用の地下通路がほんの少しあることが起源の一つになっていますが、人が集まってゲームをしたりできるような地下施設はありません。敷地内の多くは、埋め立て地であり、そうした大きな施設を作るのは不可能です。

ほかにも、こうした都市伝説はそれこそゴマンとありますが、ここではそのうちの有名なものをひとつ取り上げてみましょう。とくに、都市伝説として長い間語り継がれてきたもので、もしかしたら本当にあったのかも、と思えてしまうようなものです。

それは「きさらぎ駅」といいます。2004(平成16)年にインターネット掲示板の「2ちゃんねる」に投稿された「体験的」な記事の中で登場した謎の駅です。

この記事で、きさらぎ駅とは、人里離れた沿線に忽然と現れた謎の無人駅とされました。体験談の内容からは、ある程度の場所が特定でき、それは静岡県のどこか山奥にあるものではないかと推定されましたが、はっきりとした場所はわかりません。そしてそこに降り立った一人の若い女性のまわりに次々と奇怪な現象が起こっていきます。

そもそも、この話は、「2ちゃんねる」のオカルト板に、「はすみ(葉純)」と名乗る人物が書き込みをしたのが始まりです。「板」とは、掲示板で話し合われる話題のおおむねの方向性のことで、この板では「オカルト」がテーマでした。

オカルトといえば、心霊現象・怪談から、超常現象、未確認飛行物体(UFO)、ネッシーなど未確認動物(UMA)と言ったお馴染みの物から、魔術、超科学、神秘学、超古代文明、果ては呪詛や秘密結社など幅広い話題を含みます。

オカルト板は、毎年季節的に怪談シーズンの夏になると賑わう板で、正式には「オカルト超常現象@2ch掲示板」で通称「オカ板」と呼ばれていました。しかし、「事件」が起こったとされるのは、夏ではなく真冬のころでした。

2004(平成16)年1月の深夜、このオカルト板の中に問題のスレッドが立ちました。スレッドとは、ひとつの板の中でもさらに特定の話題を話しあうための投稿の集まりのことで、ある話題について初めに投稿をすることを「スレッドを立てる」といいます。またスレッドは、「スレ」と略されます。

ややこしいですが、スレに対する返信のことをレスといい、これはレスポンス(返信)の略です。ひとつのスレに対するレスに対して、また別の人のレスが加わり、やがてたくさんの人がそのスレにレス書き込んで、ああでもない、こうでもないと話し合われればそのスレッドは賑わいます。

その賑わいこそが掲示板の醍醐味であり、自分の興味のある話題ならば、誰しもが参加をしてみたくなるものです。

また、スレには「実況スレッド」というものがあります。通常のスレはある程度時間をおいて書き込みが進みますが、このスレは「実況行為」を目的としたものであり、時々刻々と書き込みが進んでいきます。最近はスマホでこうした書き込みは簡単にできてしまいます。

ネットで放映されある野球中継の中でこうしたスレッドを見たことがある人も多いと思います。生放送の番組に対する感想をリアルタイムで書き込んでいくもので、ホームランが出ると、「おオおオおー!」といった短い書き込みがなされ、それに対しても敵チームの別の人からは「チッ、やりやがったな」といったレスがなされます。

ただ、この場合の実況スレッドの舞台は野球場などの街中ではなく、静岡県浜松市のどこか山奥とされました。「はすみ」と名乗る女性が最初に書き込んだそのスレッドには当初、静岡県の新浜松駅から発車した遠州鉄道の電車の中にいる、と書かれていました。

いつもは5~8分間隔で停車するはずの電車が20分以上も走り続けている、と続き、やがて到着した駅が「きさらぎ駅」でした。当人曰く、聞いたこともない無人駅で、以後、0時を過ぎて翌日未明にかけてのあいだ、延々と「はすみ」とスレ参加者との応答がリアルタイムで進行していきます。

「はすみ」によれば、そこは周囲には人家などが何もない山間の草原で特に特徴はないということでした。自分がどこにいるかわからないため、自宅に電話して親に迎えに来てもらうように頼みますが、場所がわからないと言われ、110番するようにと言われてしまいます。

言われたとおり警察に電話し、一生懸命現在の状況を説明しますが、いたずらだろうと怒られてしまい困惑。近くに交番やタクシーもないため、仕方なく彼女は線路沿いを歩き始めます。すると遠くの方で太鼓を鳴らすような音とそれに混じって鈴のような音も聞こえてくるではありませんか。

さらに「おーい危ないから線路の上歩いちゃ駄目だよ」という声が後ろのほうからするので、駅員かと思って振り向くと、10メートルほど先に片足だけの老翁が立っており、しばらくすると消えてしまいました。

怖くて動くことができなくなった「はすみ」。どうしたらいいかわからなくなってしまいますが、勇気を振り絞って歩き続けていくと、今度はトンネルに出くわしました。そこには「伊佐貫」と書かれていましたが、トンネルの中は真っ暗です。

しかしスレ参加者に励まされて、なんとかトンネルを走り抜けると、そこに誰か立っています。やがて、「助言して頂いた通りにして正解だったようです。ありがとうごうございます」という投稿が続き、さらに「親切な方で近くの駅まで車で送ってくれる事になりました」と書き込まれました。

ところが、やがて車は山のほうへと向かいはじめ、「はすみ」はどうやら男性らしいその人物の様子がおかしいことに気づきます。

「先程よりどんどん山の方に向かってます~(中略)~全然話してくれなくなってしまいました。」そんな投稿の後、携帯電話の電池が残りわずかになったのか、「もうバッテリーがピンチです。様子が変なので隙を見て逃げようと思っています。」と「はすみ」。

さらに「先程から訳のわからない独り言を呟きはじめました。いざという時の為に、一応これで最後の書き込みにします。」

この投稿を最後に彼女からの投稿は二度とありませんでした。投稿時間は1月9日の深夜3時44分を指していました。

きさらぎ駅を舞台にした一夜限りの奇妙なこの体験談は、その後ネットコミュニティの注目を集めました。やがて、この最初のスレに便乗するかのように、きさらぎ駅や類似の架空の駅の体験談が相次ぐなど、事態はエスカレートしていきます。

東海道本線の愛知県域にあるとされる「月の宮駅」という駅や、きさらぎ駅の隣接駅とされる「やみ駅」と「かたす駅」などにいる、といったスレが相次ぎました。しかし最初に公表された「はすみ」の一夜限りの奇妙な出来事の方が人気が高く、やがてネットコミュニティ参加者だけでなく、一般の人も噂する都市伝説になっていきました。

その後長らくオカ板に「はすみ」からのスレはありませんでした。しかしその後7年も経った2011年になって、今度は、都市伝説をテーマにした別のサイトのコメント欄に、オリジナル投稿者「はすみ」を名乗る人物から書き込みがありました。

それは、「あの、信じてくれないと思いますが」で始まり、7年経ってようやく普通の世界に戻れたという、「はすみの声」でした。

それによれば、その後くだんの運転手は暗い森の中で車を止めました。すると闇の向こうから光が見えはじめ、そのとき、右の方から別の男が歩いてきたと思った瞬間、運転手は消えていました。その男性は、「ここにいてはダメだ!今のうちに逃げろ」と彼女にうながし、さらに「光の方へ歩け」と言ったといいます。

泣きながら走った「はすみ」が、まぶしくなったとたん目をあけると、普段から見慣れた駅の前で彼女の両親が車から私を呼んでいました。そして、そのときそこは2011年の4月だった、といいます。

「きさらぎ駅」から無事に戻った、というこの「生還報告」の真偽のほどは明らかではありません。7年という過ぎ去った時間をうまく使った別人物による創作と考えることもできますが、もしかしたら…、と考えてしまう人も多いのではないでしょうか。

このまことしやかな後日談もまたその後話題を呼び、さらにTwitterやYouTubeといったメディアでできさらぎ駅に関する投稿が相次ぐようになりました。元祖の2ちゃんねるでもこれに関連する目撃談や実況体験談を寄せる投稿がしばらく続いたといいます。

2014(平成26)年には、Googleマップの中で、筑波大学構内に「きさらぎ駅」というスポットが何者かによって登録されるという「珍事」も起きました。ルート検索をしたことがある人はおわかりでしょうが、これによって「きさらぎ駅」への架空のルート検索ができるようになります。

しかし、オリジナルの体験談にあったきさらぎ駅やはすみの正体が明かされることは、けっしてありませんでしたが、以後現在に至るまでネット上にはその真相を巡って様々な空想的考察が語られ、話題は膨らみ続けています。

きさらぎ駅を題材としたフィクションまで作られるようになり、「はじまりの夜行列車」「きさらぎ駅並行」といった題名の作品も作られました。

2018年には舞台となった遠州鉄道が、きさらぎ駅のエピソードを描いた水野英多の漫画「裏世界ピクニック」をテーマとしたPR列車を運行させました。きさらぎ駅の都市伝説が広く知られるものとなり、遠州鉄道本社にも問い合わせが寄せられるようになったためで、そのブームにあやかった形です。

きさらぎ駅はさらに海外でも知られるようになり、特に台湾や香港で「如月車站」として紹介され、日本と同様にフィクション作品が書かれています。当地を舞台にした架空の駅の都市伝説が台湾でも語られているといい、いまでも日本の「元祖きさらぎ駅」のコンテンツがしばしば引き合いに出されているそうです。

きさらぎ駅の都市伝説が、このように長きに渡って語り継がれる理由のひとつは、実在する列車に加え、いかにもありそうな地名や登場人物を使うなど巧妙な物語設定がなされているということがあります。

また、「世にも不思議な物語」「本当にあった怖い話」といったかなりひねったストーリーがもてはやされる風潮のある中、こうした昔ながらのシンプルに怖い「神隠し」的な話にロマンを見出す向きが増えているということなのかもしれません。

DHMO

このように人気のある都市伝説というものは、やはり真実味があるものが多いようです。ここでもうひとつ紹介したいのは、多くの人が本当だと信じてしまったことが、実はまったくの虚構であった、というものです。都市伝説ともいえますが、ある種のジョークといったほうが良いかもしれません。

それは、1983年のこと、ミシガン州の週刊新聞、デュラン・エクスプレスにDHMOが水道管内で見つかった、とする記事が発表されました。その記事には、それは致命的な物質であり、「蒸気化することで水ぶくれを引き起こす可能性がある」といった警告が書かれていました。

さらにDHMOは、dihydrogen monoxide=ジヒドロゲンモノオキシドと説明され、これは和訳すれば一酸化二水素です。

化学式 で書くと、H2O で表される水素と酸素の化合物ですが、この説明を読んで、ん?と気づかれた方は賢明です。H2Oとはこれすなわち水そのものであり、実はこの放送は、4月1日のエープリルフールに放送されたものでした。

水をわざと難しい表現に変え、水ぶくれを引き起こすから危険、としたものですが、確かに水を加熱して蒸気になったものがかかれば火傷して水ぶくれができます。巧みな言い換えによって、見事なジョークに仕立てたものですが、これをさらに発展させ、さらに細かい表現を加えてより発展させたのが、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の学生たちでした。

DHMOについて語るサイト“DHMO.org”までも作ってしまい、その後これは秀逸なジョークとして知る人ぞ知るものとなりました。1990年に立ち上げられたそのサイトにおいて、DHMOには次の性質があるとされました。

水酸と呼ばれ、酸性雨の主成分である。
温室効果を引き起こす。
重篤なやけどの原因となりうる。
地形の侵食を引き起こす。
多くの材料の腐食を進行させ、さび付かせる。
電気事故の原因となり、自動車のブレーキの効果を低下させる。
末期がん患者の悪性腫瘍から検出される。
その危険性に反して、DHMOは頻繁に用いられている。

工業用の溶媒、冷媒として用いられる。
原子力発電所で用いられる。
発泡スチロールの製造に用いられる。
防火剤として用いられる。
各種の残酷な動物実験に用いられる。
防虫剤の散布に用いられる。洗浄した後も産物はDHMOによる汚染状態のままである。
各種のジャンクフードや、その他の食品に添加されている。

どうでしょう。ここまで詳細に書かれるとまるで劇物のようです。これほど詳しくその悪性が書かれると、誰もがそれを水とは思わなくなります。

後年、このHPを見た者の中からこれをネタにして誰かをだましてやろうという数々の輩が出てきますが、その後しばらくはこれを使った悪ふざけは特に起こりませんでした。

ところがそれから10年ほども経った2002年、このジョークが復活します。アトランタのあるラジオトーク番組で、アナウンサーがアトランタの水道局が給水システムをチェックした結果、そえが汚染されていることが判明したと発表しました。

その汚染物質は一酸化二水素と表現され、次いでその危険性についての例の学生たちがHPで捏造した説明も加えられ、これを地元のテレビ局もこの「スキャンダル」を取り上げるなど、事態は次第にエスカレートしていきます。

あまりにも話題になり、ついには市の水道局がインタビューに応じることになりましたが、その中で水道局の役人は「法律で許可されている以上の一酸化二水素は入っていない」と答えてしまいました。

さらにその翌年の2003年には、今度は同じアメリカのカリフォルニア州はアリソ・ビエホ市の議会で別の事件が起こりました。ここでも“DHMO.org”に書かれたジョークを真に受けた職員がおり、市議の間でその危険性が取沙汰された結果、ついにはDHMO規制の決議を試みようという事態にまで発展しました。

結局この決議は、直前になってその用語の中に怪しいものがあると気付いた職員がおり、調べた結果、ジョークであることが判明し、大ごとにはならずに済みました。

その後しばらくこのDHMOは話題になりませんでしたが、さらに10年後の2013年に再燃します。このとき事件が起こったのはフロリダ州でした。フロリダ半島の南西部のガルフコースト(リー郡)にあるラジオ局が、水道からDHMOが出ており、水道局は数日水道を止める予定だ、と放送したのです。

実はこれもDHMOのことを知るDJがぶちあげたエイプリルフールのジョーク企画でしたが、この放送によって水道局に問合せが殺到し、町中がパニックになりました。やがて慌てたラジオ局が謝罪し、事態は収束していきましたが、これに関わったとしてDJ二人がその後謹慎処分となりました。

その後DHMOをネタにした大きな事件は起こっていません。しかしそれにしてもこれほどまでに長い間同じジョークが使われ続けるのはその出来があまりにもよいからでしょう。多くの人が惑わされる創作物というものはやはりよく練られており、それを元として実際に事件が起きるほどリアリティがあります。

また、普段我々の生活の周りにあるごく普通のものが少し表現を変えるだけで、まったく別のものにすり替わってしまうということに驚かされたりもします。現実と仮想の間には紙一重の部分もあり、そのツボを押さえれば誰でもこうしたジョークが作れてしまいます。

その違いを見破れずに信じてしまうというのは人の悲しい性(さが)といえるのかもしれませんが、むしろその違いを見破ろうとはせず、信じようと思う心が誰しもにもあるのかもしれません。人間というものの善良性を示すものであって、それは、むしろ高く評価すべきものなのかもしれません。

こうしたジョークがどれほど人をだます効果があるかについては科学者も興味を持つようで、各種の調査も行われています。実はDHMOでもそうした調査が行われており、その結果出された論文名は「人間はいかにだまされやすいか?」でした。

1997年に実施されたこの調査では、被験者に対して冒頭、DHMOについて「水酸の一種であり、常温で液体の物質である」「DHMOは、溶媒や冷媒などによく用いられる」との説明がありました。被験者にとって非日常的な科学技術用語を用いた解説がなされ、次いでその毒性や性質について否定的かつ感情的な言葉で説明が加えられました。

その後、「この物質は法で規制すべきか」と50人に質問をしたところ、43人が賛成してしまったといい、ほかには6人が回答を留保、DHMOが水であることを見抜いたのはたった1人だけだったといいます。

DHMOの説明にはほかに「吸引すると死亡する」というのもあります。実はこれは水死のことであって、水を大量に飲ませると溺死してしまうということを示していますが、「吸引する」と書かれると何か違う事態のように勘違いしてしまいます。

表現を一つ買えるだけで命の危機さえ感じさせることもできる、ということがこの例からもわかります。人はいかに騙されやすい動物かであり、言葉ひとつで人を恐怖に陥れることはそれほど難しいことではないように思えます。

もっとも大量に水を服用すると死ぬ、というのは嘘ではありません。水中毒というものがあり、過剰の水分摂取によって生じる中毒症状です。水を飲み過ぎることによって、血液中のナトリウム濃度が低下し、これによって血症や痙攣を生じ、重症では死亡に至ります。

下痢などで激しい脱水症状を起こしたとき、スポーツドリンクを大量に飲むと水中毒になることがあるほか、特に乳幼児がなりがちだといいます。こうしたときの水補給には、ナトリウム濃度が低すぎこうしたドリンクではなく、経口補水液のほうが良いそうです。覚えておいてください。

さて、カエルの話題に始まり長々と書いてきましたが、最後にDHMOと似たようなジョークをもうひとつ。それは「○○は危険な食べ物」というものです。

以下の説明をお読みください。

犯罪者の98%は○○を食べている。
○○を日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
暴力的犯罪の多くは、○○を食べてから24時間以内に起きている。
○○は中毒症状を引き起こす。被験者に最初は○○と水を与え、後に水だけを与える実験をすると、2日もしないうちに○○を異常にほしがる。
新生児に○○を与えると、のどをつまらせて苦しがる。
2020年、どの家でも○○を食べるようになり、死亡原因の第1位は癌となった。

私の場合、○○にラーメンを入れてみたいと思います。みなさんは何を入れるでしょうか。