パストラルな日々

今年もあとわずかになりました。

年の初めには、ああまた長い一年が始まる、今年は何が起きるんだろう、といったワクワク感があった一方で、見通せない先のことを思ってヤキモキした気分になったりもしていました。

年の終わりが近づく今、ともかくも大ごとはなく無事に一年を過ごすことができたという安堵の気持ちがある反面、何も成し遂げられなかったという後悔の念もあり、一方では悪いことはひとつもなかった、しかし大きな進歩もなかったなといった好悪入り混じった複雑な心境でいます。

面白いなと思うのは一年の終わりと年の初めの間にはほんの僅かな時間差しかないのに、そうしたふうに気分が変わるということです。まさに始まりと終わりは表裏一体で、人の一生とは、こうした同じことを繰り返しながらメビウスの輪のように永遠と続いていくものなのかもしれません。

かなりの齢を重ねてきた最近、それではあとどのくらいその輪の中をグルグルと回ることになるのだろう、と考えたりもします。しかし、人生に無限ということはなく、やがては死が訪れます。

哲学者の樫山欽四郎さんは、人間の本質的な特質とは「死を自覚する存在である」と述べており、「死を知ることがなければ、これほど楽なことはない」とも言っています。また人が他の生物と異なる特徴のひとつは、人は全て、そして自分自身もやがて死ぬということを知っていることだとも言っています。

自分が死ぬことを知っているがゆえに、人は人生の意味を考えます。それは一種の哲学です。人生の意味を自己に問いかけ、死の意味をどのように受け止めるか、受け入れるかを考え続けるのが人の一生といえるのかもしれません。

フランスの文学者、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613~ 1680)は「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ」と述べています。死が何であるかを知ることを一生の課題と捉える人は多いでしょうが、その答えを知る人は少ないようです。

まして突発的事故などで襲ってくる死の場合は死について考える余裕さえありません。一方で、回復の見込みのない病にかかり余命が数ヶ月と宣告されるような場合、時間的な余裕はあっても、結局死の意味というその答えを見つけられないということはありがちです。

突然の死を迎えない人、病気にならなない人もいつかは自分が死なねばならない、じきに死ぬ、という現実に向き合うことになりますが、死までの時間的余裕があるからといって、その意味が悟れるとは限りません。




では、人は死という定めをどう受け入れるのでしょう。死期を悟った人達は、一体どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受けとめるのでしょう?

最近はそうしたことを研究の対象として考える学者もいます。

アメリカの精神学者、キューブラー=ロスは、長年心療治療にあたった経験から「死に行く人」との会話の結果をとりまとめ、多くの人が辿る「死の受容への過程」を、次のような段階モデルで示しました。

第一段階:「否認と孤立」
病気などの理由で、自分の余命が短いと知りそれが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの誤りだという風に反論することで、死の事実を否定する。しかし、否定しきれない事実であることが解っているが故に、事実を拒否、否定することで事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。

第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかけるが、当然、その普遍的な原理は見つからない。それゆえ、誰か社会の役に立たない人が死ぬのは納得できるが、なぜ自分が死なねばならないのか、といった問いの答えの不在に、怒りを感じる。

第三段階:「取り引き」
死の事実性は拒否出来ず、根拠を尋ねても答えがないことに対し怒っても、結局、「死の定め」は変えらず、死の宿命を認識する。なお何かの救いがないかと模索する中、死を受容する代わりを考え、取引を試みる。例えば全財産を寄付するので死を解除してほしいとか、長年会っていない娘に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避する可能性を探る。

第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えないので深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。

第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻する中、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという考えは、もしかして誤っているのかもしれないと考える。あるいは死を拒否し回避しようと必死であったが、実は死とは何か別のことかも知れないという心境が訪れる。死んで行くことは自然なのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ死を受容するに至る。

ただし、これはロス博士が多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの「型」にすぎません。誰しもが同じような段階を経て、死の受容に至るわけではなく、色々な自己の死との向かい合いがあることは博士自信も認めています。

いずれにせよ、人が死を受け入れて尊厳を持って死に臨めるようにするためには、本人が死というものをしっかりと見つめる必要があり、また周囲の理解と協力が必要不可欠です。

人は「病気であることの意味」、「生かされていることの意味」、「死ぬことの意味」をめぐって様々な疑問を抱き、そして苦痛を感じますが、このような痛みは「スピリチュアルペイン(スピリチュアル的な痛み)」と呼ばれているようです。

欧米の医療では伝統的に、このような痛みを和らげるサービス、すなわち「スピリチュアル・ケア」を提供するしくみが整っています。日本の医療の場ではそうした試みは長い間行われてきませんでしたが、1990年代に入ってから注目され、実施される病院も増えてきました。




ここで「スピリチュアル」の意味ですが、WHOにおいては次のように定義しています。

「スピリチュアル」とは、人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚的な現象を超越して得た体験を表す言葉である。多くの人々にとって、「生きていること」が持つスピリチュアルな側面には宗教的な因子が含まれているが、「スピリチュアル」は「宗教的」とは同じ意味ではない。

スピリチュアルな因子は、身体的、心理的、社会的因子を包含した、人間の「生」の全体像を構成する一因子とみることができ、生きている意味や目的についての関心や懸念と関わっている場合が多い。(WHO「ガンの緩和ケアに関する専門委員会報告」1983年)」

「人間として生きることに関連した経験的一側面」「人間の生の全体像を構成する一因子」と位置付けていることからわかるように、WHOもスピリチュアルを生きる意味や目的に関する「重要な一要素」と考えているようです。また、「身体感覚的な現象を超越して得た体験」という言葉から、目に見えない「超常的な感覚」であることを示唆しています。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などの問いは、人間誰しも抱えています。

スピリチュアル・ケアとは、こうした問いに真正面から対面し、探究し、健全な解決へと向けて、絶え間なく働きかけるために、「超常的な感覚」を利用する一つの方法論と考えればよいかと思います。

人は、誰でも、元気なときでも、何かしらこうした「スピリチュアル・ケア」を必要としています。生きていく上においては人との関わりは不可欠ですが、職場や学校、その他の人生ステージにおける人間関係の中で抱える多くの悩みは、人を疲弊させ、「スピリチュアルペイン」を覚えさせます。

ましてや、病気になったとき、どうにもならない困難と対峙したときや死に直面しているときなどはなおさらです。

病はしばしば、何の前ぶれもなくやってくるものであり、因果関係がはっきりせずその説明がなされない疾病も多いものです。そうした場合、多くの人は「私だけなぜこんなに苦しまなければならないのか」といった疑問を持ち、現れた苦難への対処法がわからず苦しみます。

また、死を覚悟しなければならない病気になったり、人の世話にならなければ生きることができなくなる、といったより深刻な状況では「いったい私の人生は何なのだろうか?」と問いかけ、生きる意味を深く考えます。しかし当然すぐに答えは出ず、必要以上に苦しみます。

病気になると、孤独感という苦痛にさいなまれることも多く、また時には家族や周囲も人に迷惑をかけたくないという思いから罪責感さえ感じます。永遠に家族と別れなければならないと感じるので「別れの予測」に伴う苦痛もあり、また、見たことのない死後の世界に不安を感じそのことを思うだけで苦しくなったりします。

こうした様々な苦痛は、単なる精神的な痛みというよりも「魂の叫び」ともいうべきものです。自己存在の根本的な意味や価値に関わるより深いレベルの痛みであり、そうした心の痛みを感じたときこそ、適切なスピリチュアル・ケアの提供を受けることが救いとなります。



ところが、現代西洋医学はハイテクノロジー重視の医療へと変化しており、その従事者の多くは、病んでいる人のスピリチュアル・ニーズやその切実な叫びを理解できなくなってしまっています。かつての進化中の医学や各文化圏の伝統医療ではまだそうした心の叫びを受け止める向きもありましたが、現在では皆無の状態といえるかもしれません。

現代では社会全体が、若さやバイタリティー、美などばかりを高く評価しそれに言及することが多く、苦しむこと、病気の状態を生きることや死ぬこと、宗教的なこと、といったことがらについては、むしろタブー視する傾向すらあります。

病は突然やってくるものであり、そのような場合、人はスピリチュアルな痛みを感じつつ、「自分は何のために生きているのか」「死んだあとはどうなるのか」といったスピリチュアルな問いかけをします。

欧米の医療界におけるスピリチュアル・ケアは、こうした医療現場で生まれている切実な心の声に応えるためのしくみといえ、それなりに長い歴史があります。

「パストラル(pastoral)」といった名を冠した部門が設置されている医療施設も多く、これは本来、牧畜、つまり季節や水・食糧の入手可能性のために広大な陸地を家畜を移動することを表す言葉です。しかし医療的には、無限の宇宙を漂っているかのように苦しむ人々の精神的ケアを施す特別な手法を表します。

イギリスやアメリカ合衆国では”Pastoral Care Department(パストラルケア部)”といった部門が設置されている例が多く、またドイツの国公私立医療施設などでも“Seelsorge”といった名称の部門がありますが、こちらの邦訳はまさに「スピリチュアル・ケア」です。

このほかにも、欧米の病院にはスピリチュアル・ケア的な施設があることが多く、例えば、礼拝堂が併設されていたり、専門職のための宿泊所が用意されていたりします。これらは、欧米社会でスピリチュアル・ケアが制度としてしっかり根付いていることを示しています。

スピリチュアル・ケアの専門職は、チャプレン(chaplain)と呼ばれています。これは教会・寺院に属さずにスピリチュアル・ケア施設やその関連施設で働く人々で、牧師、神父、司祭、僧侶などの聖職者を指します。欧米の軍には常設のところが多く、例えばアメリカ軍にも、ラビ、イマーム、仏僧といった色んな宗教の聖職者がいます。

「従軍牧師」や「従軍神父」「従軍司祭」と呼ばれるキリスト教系の人たちがこうした軍のチャプレンの典型であって、ミリタリー・チャプレンというのがその公称です。ちなみに牧師はプロテスタント系の聖職者で、神父や司祭はカトリック系です。

ただ、チャプレンはキリスト教に限らず、どのような信仰を持つ人でもケアを提供することができるようになっており、その認定においては、神学の修士号相当の資格を持ち、信仰グループの運営経験、信仰グループからの認証、臨床パストラル教育などの4つのカテゴリーの資格、経験がなくてはなりません。

チャプレンは、軍隊だけでなく、多くの病院、養護施設、介護施設、ホスピスなどに配属され、患者、家族、スタッフに対して、精神的、宗教的、スピリチュアルなアドバイスをします。このほか、老人ホーム、介護付き住居などでチャプレンが採用される場合もあります。

かつて旧日本軍においても、従軍僧や従軍神職といった人達がいました。ただ、死者を弔うことに力点が置かれ、欧米のチャプレンのように精神的なケアを目的にしたものではなかったようです。現在の自衛隊にも似たようなものはありません。



日本の医療界においてもチャプレン的なものはありません。しかし、最近スピリチュアル・ケア職を置くようなところが増えてきました。「パストラルケア」の名でそうした専門職を受け入れているところがあり、国公立病院やキリスト教系病院などで散見されます。しかし、それ以外の私立病院などではほとんどみられません。

日本ではまだスピリチュアル・ケアが必要だとの認識が未だ十分に育っておらず、位置づけも不十分で伝統が確立していないからです。

そのための教育や訓練を受けた人が必要だという認識も不足しており、医療の片手間でできるような簡単なものではないということへの理解不足もその普及を妨げています。スピリチュアル・ケアの専門家がケアを行うことを拒むような病院すらあるといいます。

一方、終末医療(ターミナルケア)を行う場のことを「ホスピス」といいます。元々は中世ヨーロッパで、病や健康長上の不調を抱えた旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指しました。死ぬまでケアや看病をしたことから、こうした看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになったもので、その後欧米では広く普及しました。

日本で最初のホスピス・ケアは、大阪の淀川キリスト教病院で1973年に始められました。その後民間の医療機関を中心に広まりましたが、やがて公的な機関も開設に乗り出すようになりました。日本初の国立のホスピスは、1987年に開設された千葉県の国立療養所松戸病院で、その後も、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっています。

しかし日本ではまだ癌やAIDS等により治癒が難しくなった患者などだけが対象であり、これに対して欧米では医学的に救命や延命が不可能なほとんどの病気の患者に適用されています。

人々が人生の最後の時を迎えようとする場をケアするホスピスにおいてスピリチュアル・ケアは重要であり、WHOもケアの柱は、身体的ケア、心理・精神的ケア、社会的ケアに加えてスピリチュアル・ケアであると表明しています。

日本でも施設としてのホスピスは次第に増えてきているものの、こうしたホスピスを運営する人的資源の充実はまだ不十分です。1997年の「日本全国ホスピス施設ガイド」で紹介された29のホスピス施設のうち、スタッフにチャプレン・宗教家・伝道部職員などがいるとしたのは、9施設(30%)にすぎません。

十分な知識を持ったスピリチュアル・ケアの専門家がいないところも多いと指摘されており、またホスピスチャペル、仏堂、礼拝堂、祈りのための部屋などの施設も備えているのは7施設(24%)にとどまっています。

しかし、こうしたスピリチュアル・ケア人材の充実を目指す動きも加速しています。2004年にはスピリチュアル・ケア研究会が愛知県(中部地方)で立ち上がり、2007年には関西を拠点として日本スピリチュアル・ケア学会が設立されました。

理事長は3年前に亡くなった日野原重明氏でした。日野原さんは、「ありのまま舎」という難病のケアを行うホスピス施設を開設するなど、スピリチュアル・ケアに熱心な人でした。また自らが院長だった聖路加国際病院には礼拝堂を設けるなどホスピス施設の充実にも力を入れていました。

東京大空襲の際に満足な医療ができなかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能できる病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた新病棟を1992年(平成4年)に建設しました。

この備えの効果はその3年後の1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難もされていたロビー・礼拝堂施設は、緊急応急処置場として機能しました。事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となりました。

また78歳の時から始めた「いのちの大切さ」や「いのちの器」を伝えるために全国の小学校に出向き実施する「いのちの授業」は、多くの人々の共感を呼び、2016年までに全国合計200以上の小学校で実施されました。

「いのちの器」について日野さんはこう説明しています。「命は私に与えられた時間です。それを何の為に使うのか、もし助けを求めている者の為に有効に使うのなら、自分達の生き方は、これからの時代を生きる子供たちの手本になる」。自らの命の意味を知らしめることがスピリチュアル・ケアの拡散に繋がると考えておられたのでしょう。

それを喧伝するかのように105歳という長寿で亡くなりましたが、日野原さんが設立した日本スピリチュアル・ケア学会は最近も活発に活動を続けています。東大や京大のほか聖トマス大学、高野山大学、龍谷大学などの宗教関連の大学が参加して学術大会が開かれ、また関連書籍が多数出版されるなど、日本のスピリチュアル・ケアの発展の源泉になっています。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「死んだあとどうなるのか」といった問いを人間誰しも抱えていますが、誰しもがその答えを持っているわけではありません。またこうした問いかけと探究の奥は深く、生半可な知識では対応できるものではありません。

1950年にドイツから来日し、長年臨床パストラルケア教育の指導に携わってきたウァルデマール・キッペス博士はこう述べています。

「スピリチュアル・ケアを行うためには、全人的な基盤、すなわち哲学的・宗教的基盤の上に立ったしっかりとした教育を受ける必要がある」

「老齢」という域に入ってきた昨今、私の死も遠い未来の話ではありません。残る人生、そうした向きの勉強もしっかりとやり、願わくば自らも人さまをケアできようになっていきたいと考えています。

自然に還る

伊豆での暮らしも、来年でもう9年になります。

しかし、ここよりもさらに長く住んでいたところもあり、これまで一番長く住んだのは、東京西部の町で、20年と少しそこで暮らしました。

そこに住もうと思ったきっかけは、そのころ勤めていた会社から近かったということもありますが、東京の西の端にあって山が近いというのがもう一つの理由でした。

昔から山登りが好きで、といってもアルプスといわれるような難所に行くでもなく、近場の比較的登りやすい、しかし眺めのよい山を選んでは、仕事が休みの週末ごとに踏破する、ということを若いころには繰り返していたものです。

山が好きというよりも、自然と触れ合うのが好きだったといったほうがいいでしょう。齢を重ねた現在では、さすがに毎週山へ行くといったことはしませんが、それでも週末には近所の山野を歩き回ることが半ば習慣化しています。

「自然霊」というものがあるそうで、大地や空気、緑といった自然現象をつかさどる働きをもっているといいます。この世に一度も姿を持ったことのないので目には見えませんが、大なり小なり私たちの生活に影響を与えているようです。時折、無性に山の中や川近くを歩きたくなるのは、そうした霊たちが私に囁きかけているのかもしれません。

古代日本の人々は自然物には生物にも無生物にも精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んでその名前の語尾につけました。

古事記や風土記などの古代の文献にそれらがみられます。葉の精は「ハツチ(葉槌)」、岩の精は「イワツチ(磐土)」、野の精は「ノツチ(野椎)」、木の精は「ククノチ(久久能智)」です。また水の精を「ミツチ(水虬)」と呼び、火の精は「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいました。

古代人はまた、自然界の中でも「力」を持つものの発現はその精霊の働きと信じていました。雷は「イカツヂ」であり、毒によって他の生き物を死に至らしめることもある蛇は「オロチ」です。

こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも宿るとされ、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」と呼ばれ、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」です。

それにしても、なぜ「チ」なのかですが、人間の生命や力の源が「血」にあると信じられたところに起源していると言われています。父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができ、さらに人の生活に密接な道(ミチ)や家を建てる場所である土(ツチ)もまたそこからきているといわれています。

さらに、神話に出てくる国津神(くにつかみ、地上の神。対するのは天津神)系の神様には「チ」が名称の語尾につけているものがあります。「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」などがそれです。

また人間でも大きな勢力を持った一族には「チ」を付けた別名で呼ばれていました。物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」がそれらです。

こうした「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋るといった自然主義的な観念を人々が普通に持ち、信じていた時代を反映しているものと考えられています。




生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方を「アミニズム」といいます。ラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味です。

霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観であり、日本だけでなく世界中で宗教や習俗として定着しています。原始的な宗教観であることから、未開社会の未開人の宗教であるとする見方もあります。とくにキリスト教を先進的なものだと信じるヨーロッパの人々にとってはこうした古い考え方は時に蔑視の対象になっているようです。

しかし、自然物・自然現象に宿る霊魂をストレートに崇拝するというのは、きわめてシンプルな営みです。近代宗教の多くがそうであるように、改めて神をしつらえてそれを崇拝するというのは、神聖なものと何か直接向き合えていないような感じがしないでもありません。

朝日が昇ったら自然にそれに手を合わせたくなる、きれいな景色を見たら自然と涙が流れる、といった感覚は人間にとってごく自然なものであり、蔑むどころかより崇高なものであるという気がするのです。

人間が自然の中に神秘性を感じて自然崇拝の場としているところは世界中にあります。ユネスコの自然遺産に指定されているものの中にそれらは多く、例えば、アメリカのイエローストーン国立公園がそれであり、インディアン達はここを“Mitzi-a-dazi”(「黄色い石のある川」)として崇敬してきました。

オーストラリアのグレート・バリア・リーフもそうで、オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から、グレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきました。

日本の白神山地もまたユネスコの自然遺産に登録されており、古くから地元の人々の崇拝の対象になってきた場所です。青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がっている標高1,000m級の山岳地帯で、世界遺産登録以前には弘西山地(こうせいさんち)とも呼ばれていました。

世界遺産登録地域の外側にも広大な山林を持ち、通常は、登録地域外も含めて白神山地と呼ばれますが、その中でも特に林道などの整備がまったく行われていない中心地域だけが世界遺産登録の対象です。

山地全体が神聖なものとされていますが、中でも「白神岳」は地元大間越の人たちが祈りをささげてきた、信仰の山でもあります。白上山とも呼ばれることがあり、これは秋田県側から春に見える山頂の雪形が「上」の字に見えるためだといいます。

白神山地は、他の名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはありません。ここが世界遺産に登録されたのは、意外にもブナの原生林が広大に広がっていることが評価されたものです。

ここのブナは人為の影響をほとんど受けていません。ブナはあまり人間の生活には役にたたず、薪のほかでは椎茸の栽培以外にはあまり使い道はありません。そのために伐採を免れてきたのです。

小さな実をたくさん付けるために果樹と同様に寿命が短く、寿命は200年ほどであると言われています。自然に放置して倒れたブナは他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給しています。

白神山地のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られます。もちろんブナだけでなく、カツラ、ハリギリ、アサダなどの大木も見られ、そうした木(言い換えれば森)のみで形成された環境が評価された世界的にもめずらしい世界遺産だといえます。

世界遺産に登録されている地域は、中央部の核心地域とその周辺の緩衝地域であり、これらの地域の開発は原則禁じられています。このため、核心地域には道らしい道はなく、遺産登録以前からあった登山道があるだけで、新しいものは今後も恒久的に整備されない予定です。

秋田県側の核心地区は原則的に入山禁止です。また、青森県側の核心地域に入るには、事前、あるいは当日までに森林管理署長に報告をする必要があります。ただし林道がないので、仮にここを踏破する場合でも高度な技術が必要であり、世界遺産に登録されて以降、遭難事故もあって死亡者も出ています。

禁猟区にも指定されており、このため川で漁を行うには漁業協同組合と森林管理署長の許可が必要です。また動物の猟もできないわけで、このため自然の資源を利用してきたマタギによる狩猟も禁止されており、マタギ文化が消失するのではといいう懸念を持つ人もいます。

マタギの立ち入りを許可して文化を保つことが重要か、自然保護のために核心地域への立ち入りを全面的に禁止すべきかどうかについては現在も議論が続いています。しかし、ほとんどの場所が開発され尽くされている日本においては、少しくらい全く人が足を踏み入れることのない場所があってもいいのではないでしょうか。




この白神山地と同様に日本でユネスコの自然遺産に登録されている場所は、ほかに3つあります。屋久島、知床、小笠原諸島がそれらであり、登録年は白神山地と屋久島が1993年で元も古く、知床が2005年、小笠原諸島が2011年です。

いずれもその地理的自然、生物的自然が高く評価されたもので、私もいつかは行ってみたいと思うのですが、どれを選ぶにしても甲乙つけがたいものがあります。

もっとも、こんな有名な場所に行かなくても、美しい自然というものは日本中至る所にあります。これを書いている部屋の窓の外に見える富士山もその一つであり、晴れた日などには輝かんばかりの光彩を放つ最も身近な自然美です。

富士山の場合は自然遺産ではなく、「信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録されました。同じく山岳信仰が理由として世界遺産に登録されているのは、高野山や熊野三山があり、ほかにも、平泉の金鶏山(浄土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群)や、長崎の安満岳(天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)などがあります。

これらはいずれも、その山の持つ水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、あるいは雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から崇敬されてきたものです。神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、「神奈備(かんなび)」という神が鎮座するとされました。

神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域であり、これが「カンナビ」です。古くは、その山に付けられている一般名とは別にそう称されて敬われていました。語源は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説があります。

カンナビの崇拝は、自然への感謝や畏敬や畏怖の表れですが、ここは常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境とされています。常世とはつまりあの世のことで、神の住まう神域とみなされることもあります。常世と現世を分かつ「結界」や「禁足地」としての意味もあり、現世の端境として、現在でもここで祭祀が行われる地域も多く残っています。

富士山だけでなく石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している例は多く、麓の農村部においてはその山が水源でもあることから、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという言い伝えを残すところも多くなっています。

古くから手付かずで残すべき自然として重視されてきた経緯から開発を免れてきたものも多く、山そのものだけでなく里山やその周囲にも文化的にも貴重なものが残っており、世界中の自然環境学の研究者などが、研究に訪れる場所でもあります。過去にはその土地特有の土壌細菌の発見が新薬開発のきっかけとなったといったこともありました。



現世と常世の境界であることから、死者の魂(祖霊)が山に帰る場所であるという言い伝えもあり、これは「山上他界」といいます。古くには、亡くなった人の魂は山の上の遥か彼方に行ってしまうと信じている人が多く、葬儀の際の野辺送りは「山送り」とも呼ばれていました。

山上他界をよく表しているのが「修験道」であり、これを体現する人たちは修験道者といいます。他界あるいは死の世界で修行を積み、現世に帰還することで常人の持てない力を身に付けることを目指す人々です。山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得る日本古来の山岳信仰であり、のちには仏教に取り入れられて発展した日本独特の宗教といえます。

海上他界というのもあり、これは人は亡くなったら海の彼方に行ってしまうと信じられていたものです。九州や南方の島々、或いは瀬戸内地方に多く、竜宮伝説はこの海洋信仰の延長線上にあるとも言われています。

沖縄や奄美群島に伝わる他界概念のひとつ、「ニカライナ」も海上他界の思想です。生者の魂はニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられています。沖縄では海へ帰った死者の魂は死後7代して親族の守護神になるという考えが信仰されていました。

ほかに「地中他界」というのもあり、こちらは地の下はるかに死者の霊魂の眠る国があるという考え方です。いわゆる「黄泉(よみ)」と言われる世界がそれであり、日本神話のイザナギとイザナミの話が有名です。

死者の魂を他界へと運ぶとされるものとしては、馬や鳥といったものがあります。馬は、ケルト神話の死の女神エポナなどが有名であり、ヨーロッパで信仰が衰えた後も、ケルピーといった命を奪う妖精伝承の形で残っています。また、鳥は、葬儀に鳥葬といった形式があり、また霊魂の表象とされる地域が世界中にあります。

船もまた、あの世へ導いてくれる象徴として昔話によく出ていきます。北欧のヴァイキングの風習には「船葬墓」というものがあり、副葬品として船を死者に添える風習もヨーロッパ各地で見られるものです。

以下のアイヌの物語にもあの世への乗り物として船が出てきます。今宵、皆さんが眠る前のおとぎ話として、それを紹介してこの稿を終わりにしたいと思います。

ある酋長の夫婦が和人の国へ交易へ出かけた。その帰りに嵐に遭遇した二人は、小舟でつたいづたいで海岸を移動して、寝泊りを続け、故郷の村に帰ろうとしていた。その日は夜になってしまったので、崖山の下の浜に舟を置いて一休みしていると、大津波が寄せて来た。夫はとっさに妻の手をとり、崖を上って避難すると、そこにひとつの洞窟をみつけた。

中に入ってみると意外にも奥は深く、さらに歩き進むと暗くなるどころか逆にどんどんと明るくなっていった。歩き続けた二人がその先で見つけたのは、綺麗な村で、そこでは何人かの村人が畑仕事をしていた。

夫がそのうちのひとりに自分たちが津波に遭って逃げてきたことを話すと、その男はここは死者の国であり、けっしてここの食物を口にしてはいけない、と教えてくれた。

ここの物を食べると人間界に戻れなくなるとも言われたが、またここは死者の国ではあるものの、人間以外にもクマもシカもいる。このため、狩りで食べていける上、生前に使っていた道具も持って来れる場所だとも言われた。

いかんせん、ここはあの世である。何も食べず、急いで帰るようにとこの男の忠告を受けた二人は引き返そうとすると、男はさらに、お前たちが見つけた浜は悪魔が住んでいるところで、津波もその悪魔が見せた幻であるから、舟も無事であるはずだと教えてくれた。

二人が洞窟を引き返す途中、見知った老人と見知らぬ老人とすれ違ったが、2人ともこちらの姿は見えない様子だった。夫婦が元いた浜に帰ると朝になっていた。悪魔がいると言われた二人はあわてて小舟に乗り、さらに何日もかけてようやく生まれた村に帰ることができた。

夫婦はその後末永く幸せに暮らしたが、時折思い出すのがあの洞窟の奥にあった美しい村だった。いつか自分たちも死んだらまたあそこへ行こう、そのときは今この家にある道具を持って行き、クマやシカを狩って静かに暮らそう、そう話す二人なのであった。