流刑地紀行

我が家のある町は、麓から車で5分ほど山道を登ったところにあり、標高200mほどであることから、いつも麓より涼しく、通常は2~3℃、時には4~5℃ほども気温が下がります。

このため、暑い夏でも快適に過ごすことができ、暑さが苦手な我々夫婦にとってはありがたい環境です。その麓の修善寺温泉街は観光地でもあります。伊豆で最も古い温泉と言われており、古刹もいくつかあることから、いつも観光客が絶えません。

最も人で賑わうのが曹洞宗の寺院、修禅寺です。源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後ここで殺害されたとされており、二人の墓があります。

源頼朝自身も罪人として囚われていた時期があり、その幽閉地は修善寺温泉から北西へ8kmほど離れた韮山の地にあったとされます。蛭ヶ小島という場所で、その昔は見渡す限り芦原が広がる沼地だったようです。

伊豆にはほかにもあちこちに罪人を配流した土地があり、これは平安時代に成立した「律令法」において、ここが遠流の対象地と定められたからです。重罪犯は、さらに伊豆諸島に流されましたが、伊豆半島はその入り口で比較的罪の軽い罪人がここへ追いやられました。

頼朝以前にも伊豆に流罪になった人は多数おり、能書家の橘逸勢(たちばなのはやなり)は、謀反を企てたとして流罪になりました。また、応天門への放火犯、伴善男(とものよしお)もここで亡くなっており、後白河天皇と対立した文覚上人も伊豆へ流されました。このほか、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)も伊豆を経て伊豆大島へ流されています。

このように罪人を辺境や島に送る追放刑のことを「流罪」といいます。流刑、配流ともいい、特に流刑地が島の場合には島流しとも呼ばれることもあります。都会に造られた獄舎に入れられるより、遠いところに取り残されるほうが生活は過酷です。生きていくための糧の少ない中一人だけで生きていかなければならず、苦痛がより大きい刑罰とされていました。

流罪は主として政治犯に適用されましたが、戦争・政争に敗れた貴人に対し、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合にも流罪が適用されました。

配流先で独り生涯を終えた流刑者は多数に上りますが、中にはそこで子孫を残したり、赦免されたりした例もあります。西郷隆盛は2度目に奄美大島に流されたとき、島の名家の娘・愛加那(あいがな)と結婚して一児を設け、その子菊次郎は後に京都市長になりました。

脱走を企てて成功した流刑者も多く、後醍醐天皇は元弘の乱で敵対勢力に捕らえられ隠岐の島に流されました。しかし脱出して建武の新政を打ち立て鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。その鎌倉幕府を創設した源頼朝もまた伊豆で再起して新政権を打ち立てています。

平安から鎌倉期にかけてのこの時代、流刑が宣告された受刑者には、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪(ずざい)が課されました。徒罪とは徒刑(ずけい)ともいい、律令法・五刑のうち、3番目に重い刑罰です。受刑者を一定期間獄に拘禁して、強制的に労役に服させる刑で今日の懲役と似た自由刑です。

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五刑のうち、最も重いのが死罪であり、次いで流罪、続いて徒罪、その次は杖罪(じょうざい)です。木製の杖をもって背中又は臀部を打つというもので、最も軽い刑が来て笞罪(ちざい)と呼ばれ、これはいわゆる鞭打ちです。

流刑対象者の中でも、特に悪質なものに対しては3年間の徒役も加えて課されました。妻妾は基本的には連座して強制的に同行させられましたが、他の家族は希望者のみが同道しました。配所への護送は季節毎に1回行われ、流刑地到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田(律令制において民衆へ一律に支給された農地)が与えられました。

現地の民として租税も課されましたが、現地民とみなされるようになったことから、原則的に恩赦等による帰国もありませんでした。もっとも、時には全ての罪人が赦免される「非常赦」が行われて帰国が許されることもありました。

同じ流罪でも、その境遇は受刑者を監視する監督官の匙加減で大きく変わります。源頼朝は縁者から仕送りを受けていたほか、本来禁じられている若干の側近まで置いてもらっており、ぎりぎり貴族の体面を保つ暮らしをしていました。

一方では、鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼、俊寛のように、かなり悲惨な生活を強いられることもありました。鹿ヶ谷の陰謀とは、平安時代の安元3(1177)年に京都で起こった、平家打倒のクーデター未遂事件です。

このころ、清盛を筆頭とする平家は全盛を誇っていましたが、これに対して後白河天皇は公家勢力を復権させて平家にとって代わろうと画策していました。これに加担する形で多くの反対勢力が京都、東山は鹿ヶ谷(現京都市左京区)に結集し、謀議が持たれました。

しかし、これをいち早く察知した清盛によって一味は捕らえられ、関係者全員およびその近親が処分されるところとなり、首謀者と目された後白河院の近臣、西光は斬罪、同側近の成親は備前国に流罪となり、後に謀殺されました。

清盛の弟の教盛の叔父、成経もこれに連座して備中国へ流されました。更に御白河院側近の俊寛が、同じく後白河院近習の平康頼とともに薩摩国にあったとされる「鬼界ヶ島」へ流されることになりました。そしてその後、平成経もまた同島への移送が決まりました。

「鬼界ヶ島」とはすなわち「鬼が棲む世界と人の住む世界の境界」という意味です。「平家物語」によると、島の様子は次の通りです。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所がある。山上からの景色は素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延び、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちる。

後段の記述をみると、その恐ろしげな名前とは裏腹に、まるでパラダイスのような場所にさえ思えます。古代以降、日本の南端の地とされていましたが、それがどこにあったのかははっきりしません。ただ、以下の薩南諸島のふたつのいずれかではないかとする説が有力です。

硫黄島 –俊寛の銅像と俊寛堂がある。俊寛の死を哀しんだ島民が俊寛の墓を移したと場所に建てられたとされ、毎年盆には送り火を焚いて悼む行事も行われてきた。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 – 俊寛の墓と銅像がある。骨が出土しており、これは面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。しかし、喜界島には硫黄が取れる火山はおろか、高い山もなく、高い滝ができるほどの川も見られず、「平家物語」の記述とは大きく異なる。

これを見る限りでは鬼界ヶ島は硫黄島ではないか、と私には思えます。薩南諸島北部に位置する島で、人口は120人ほど、世帯数は60ほどです。薩摩硫黄島とも呼ばれますが、これは小笠原諸島に同名の島があり、日米両軍が激戦を交わしたこの島と区別するためです。

「吾妻鏡(正嘉2(1258)年)には、2人の武士がこの硫黄島に流刑にされたとする記述があり、その内の1人の祖父も硫黄島に流刑にされたと記録されています。このことから、平安時代末期から既にこの島が流刑地として使われていたことがわかります。

東西5.5km、南北4.0kmで、主峰の硫黄岳(703.7m)は常時噴煙を上げており、亜硫酸ガスによってしばしば農作物に被害が発生します。また、周辺の海は硫黄が沈殿して黄色く見えることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとされます。

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この島に流罪となった俊寛を題材にした「平家女護島」(へいけにょごしま)という浄瑠璃があります。俊寛を題材にして近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てたもので、享保4(1719)年に大坂竹本座で初演されてヒットしましたが、そのストーリーは以下のようなものです。

平家転覆を企んだ俊寛、平成経、平康頼の三人が鬼界ヶ島に流され、早三年が過ぎようとしていた。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならない。食べることもままならず、時たまやって来る船に硫黄売って食いつないだり、海草を食べ暮らしていた。

あるとき、三人の一人、成経がここに住む海女で千鳥という女と結婚することを他の二人に打ち明けた。絶望的な状況の中で起こった数少ない慶事であり、これを三人は歓びあった。そして形ばかりのこととはいえ、成経と千鳥は俊寛と康頼の前で祝言の杯を交わした。

するとそこへ、大きな船が島を目指してやってくるのが見えた。何事かと皆は驚くがそれは都からの船であった。船が浜辺に着くと中から使者の妹尾太郎兼康が降りてきた。妹尾は早くから平氏に仕え、鳥羽上皇とその官女との間に生まれた高級官僚である。

妹尾は、建礼門院(平清盛の娘)が懐妊したため、彼らの流罪を恩赦にする、という清盛の赦免状を持っていた。それを読んで夢かと喜びあう三人だったが、その中にはなぜか俊寛の名前だけない。何度も内容を確認するが、やはり俊寛の名だけが見当たらない。

清盛から目をかけられていた俊寛は陰で密に平家打倒を企てていた。そのことは許されることではない、それゆえ恩赦を受けられなかったのだ、と妹尾は憎々しげに言い放つ。青ざめる俊寛。一時の喜びも突然のこの暗転によって消え去り、打ちひしがれて泣き崩れる。

だがそこへもう一人の使者である丹左衛門尉基康(たんさえもんのじょうもとやす)が船から降りてきて、俊寛にも赦免状が降りた、と伝える。俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた清盛の嫡男、平重盛が別途、俊寛にも赦免状を書いていたのだ。

これで皆が帰れる。そう安堵して三人が船に乗り込み、千鳥がそれに続こうとすると、それを妹尾が止める。またも憎々しげに言うには、重盛の赦免状には「三人を船に乗せる」としか書いておらず、そう書いてある以上、四人目の千鳥は乗せることはできないというのだ。

嘆きあう三人と千鳥に、妹尾の言葉がさらに追い撃ちをかける。俊寛の妻の東屋が亡くなったというのだ。しかも清盛の命により東屋を斬り捨てたのは妹尾自身だという。いつかきっと都で妻と再び暮らす、そんな夢さえも打ち砕かれた俊寛は、再度絶望に打ちひしがれる。

妻のない都に何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから代わりに千鳥を船に乗せてくれと訴える。しかし妹尾は拒絶し俊寛を罵倒する。思い詰めた俊寛は、妹尾の刀を奪って彼を斬り殺す。そしてその罪により自分は残るから千鳥を船に乗せるよう、基康に頼んだ。

こうして千鳥は乗船を許され、俊寛のみを残して船が出発する。しかしいざ船が動き出すと、俊寛は言い知れぬ孤独感にさいなまれ、半狂乱になる。手綱をたぐりよせ船を止めようとするが、無情にも船は遠ざかる。孤独への不安と絶望に叫び、船を追うが波に阻まれてしまう。

船が見えなくなるまで呼び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へ登り船を追い続ける。ついに船がみえなくなり、俊寛の絶望的な叫びとともに日は暮れていく…

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この物語は本来なら船が出ていくところで終わるはずですが、そこで終わりではなく、船が出るや一転して俊寛が取り乱すという結末になっています。俊寛の人としての弱さと未練を締めとしたところが高く評価されており、数多くの浄瑠璃や歌舞伎を生み出し、東洋のシェークスピアと称された劇作家、近松門左衛門の面目躍如の作品といわれています。

史実としての俊寛は、その後自ら命を絶っています。成経や康頼が島を去ったあと、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、その折俊寛は娘からの手紙を受け取りました。上の話では妹尾が俊寛の妻の死を語ることになっていますが、実際にはこの手紙で妻の死を知った俊寛は絶望し、食を断ってひたすら阿弥陀の名号を唱えながら37歳の生涯を終えました。

平安時代の南方方面への流刑は鬼ヶ島以外にも行われていたようで、奄美群島に位置する沖永良部島でも遠島が行われたという記録があり、おそらくここが最南端だったでしょう。

では、北端はどこだったかといえば、「外が浜」がそれであったとされます。現在の 陸奥湾西方にある津軽半島の一部を指す古来の地名で、現代の自治体としては、青森市・蓬田村、外ヶ浜町、今別町、平内町などです。これらはいずれも津軽半島の北のはずれにあたります。
地名の由来は、国土の終端を意味する「率土の浜(そっとのひん)」と考えられています。

中世には、「穢れ」の思想が強まり、「外が浜」は穢れたモノの筆頭としての鬼が棲む地と目されていました。鬼はタブーとして遠ざけられる存在であり、そんな物の怪が棲む場所へ追放されるというのは究極の流刑です。和歌においては、こうした僻地に追いやられた人々に抒情を感じるとして多くの歌人がこの辺縁の地を歌に詠みました。

「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行)
「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家)

定家の歌の「うとう」とは海鳥・ウトウのことですが、歌詠みの間では、外が浜と同じく、最果ての国の代名詞として使われていました。漢字では「善知鳥」と書き、別名「ウトウヤスカタ」とも呼ばれます。体長は40cmほどで、夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができます。アイヌ語でウトウといえば「突起」という意味があります。

長野県塩尻市にも善知鳥峠という標高889mの峠があります。北側(塩尻市側)が急で、南側(辰野市側)は緩くなっていて、その名称は以下の猟師にまつわる民話に基づいています。

ひとりの猟師が北の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴って都に売りに行った。このとき、親鳥が猟師の後を追ってきて、わが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けた。
親子はこれにかまわず険しい峠道に差しかかったが、このときから激しい吹雪に襲われた。

そんな中でも、親鳥はなおも「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けながら追いかけ、その声は麓の村まで響き渡った。吹雪の収まったあと、村人たちが峠に登ってみると、猟師は吹雪のなかで力尽き、わが子に覆いかぶさるように死んでおり、息子はその下で泣きじゃくっていた。

またそのすぐ脇には、死んだ親鳥の姿もあった。同じように下に雛鳥を抱えており、雛は生きて鳴き続けていた。命を賭してわが子を吹雪から守った姿を見た村人たちは、その鳥を猟師とともに手厚く弔い、のちにこの峠を「善知鳥峠」と呼ぶようになった。

室町時代にも能の演目で善知鳥にまつわるものが作られています。旅の僧侶が途中の山で亡霊に出会うという話で、亡霊はかつて猟師で善知鳥を捕獲して生計を立てていました。

ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用し、声真似をして雛鳥を捕まえていました。しかし死後、その悪どいやり方を咎められて地獄に落ち、そこで鬼と化したウトウに苦しめられるようになっていました。

猟師の亡霊は僧侶に地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆き、助けを求めながら消えていく…という話です。別バージョンもあり、その中では猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわります。猟師はその雨から逃れるため蓑笠が必要になったというオチがつきます。

実際のウトウという鳥は、その繁殖地で断崖の上の地面に穴を斜めに掘って巣にします。メスは一度に一個だけここに産卵して両親が交代で45日抱卵します。ヒナが孵化すると、今度は巣立ちまでの約50日間餌を運ぶという子煩悩な鳥です。

ウトウは水中を泳ぎまわって小魚やイカなどを捕食します。繁殖期になると親鳥はイワシやイカナゴを嘴に大量にぶらさげ、鳴き声をあげながら帰ってきます。雛はその声を聞いて出てきますが、「ヤスカタ」と鳴くかといえばそんなことはありません。親鳥は「ウウウウッブェッーッ」鳴き、雛の声はヒヨコの声をソプラノに振ったような声で鳴きます。

それにしてもなぜ、「ウトウヤスカタ」なのか調べてみたところ、これは青森市安方にある善知鳥神社の言い伝えに起因しているようです。その縁起によれば、その昔、烏頭大納言藤原安方朝臣という身分の高い人物が罪を犯し、都から流された後に、安方の浜で没しました。

すると、不思議な鳥が浜辺に降り立つようになり、雄は「ウトウ」、雌は「ヤスタカ」と鳴く事から、藤原安方にちなんでその鳥を「烏頭鳥=善知鳥」と呼ぶようになったといいます。

人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬いましたが、ある日猟師が誤って雄鳥を鉄砲で狙って殺してしまい、他の雄鳥達は急に凶暴化して田畑を荒らすようになりました。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた村人達は雄鳥を丁重にその霊を慰めるため、「うとう明神」として祀り、のちには雄鳥も祭るようになり、その後善知鳥神社と呼ばれるようになりました。

この善知鳥神社は、その昔青函連絡船の発着場があったところからほど近く青森市の中心部にあります。津軽藩の2代目藩主、津軽信枚がここに港を作り発展したため、青森の発祥の地ともいわれています。創建年ははっきりとわからないようですが、航海安全の神として知られる市杵島姫命・多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神を主祭神として祀っています。

版画家・棟方志功は、幼少期をこの神社の近くに住んでおり、よくその境内で遊んでいたそうで、この神社界隈のスケッチを好んで描いていたといいます。昭和13(1938)年に善知鳥版画巻という版画集を帝展に出品しており、これは特選となっています。

まとまったものをどこかで展示しているかどうか調べてみましたがよくわかりません。ただその一部はネットで流通しており、高い値段で取引されているようです。

皆さんもウトウとしていないで、探してみてはいかがでしょうか。

孤独なやつら

先日のブログで書いた山頭火の生涯をみると、どうしても「世捨て人」という言葉が頭に浮かんできます。

「世捨て人」は英語では、“anchorite”といい、同じく英語の類義語には“hermit” というものもあります。こちらは「隠者」と訳され、いずれも古き時代の知識人を表す言葉であって生活の在り方は似てはいますが、本来別のものです。

そもそも、こうした人々が現れたのは、中世ヨーロッパで広く普及したキリスト教のためです。この宗教は貧困に積極的な価値を与えており、とくに財貨や家郷も捨てて貧困を求めることを潔しとしました。生活苦による貧窮などではなく、自発的に質素な生活を送ることを是としたこの思想からは色々な生きざまが生み出されましたが、そのひとつが「隠者」です。

富を捨て、一般社会との関係を絶つことを「隠遁(いんとん)」といいます。本来は質素な生活の中で生の全てを神への賛美と愛に捧げるという意味の宗教用語であり、キリスト教ではその根拠を聖書に求めました。隠者達はこの中でもとくに旧約聖書に書かれた「砂漠の神学」というものを信奉し、それを学ぶために隠遁生活を送るようになりました。

その起源は、西暦250年ごろ、エジプトで生まれた大アントニオスと呼ばれる聖者だとされます。アントニオスは20歳になった頃両親と死別、その後財産を貧しい者に与えました。そして自らは砂漠に籠もり、105歳で亡くなるまで苦行生活に身を投じたといいます。

隠者を意味する“hermit”は、「人里離れた」、「そして砂漠に住むもの」という意味のラテン語が語源です。かつてのキリスト教徒の隠者は、この大アントニオスにあやかり、「隠者の庵」と呼ばれる人里から隔絶された場所に住むことに生きる意味を見出そうとしました。

その庵は文字通り砂漠の中にあり、あるいは森の中や自然の洞窟であったりしました。富を捨て、高い宗教的な信念を持つ彼らは人々の尊敬を集め、精神的な助言や答申を得るため、あるいは弟子になるため遠路はるばる訪ねてくる人も多数ありました。しかしあまりに多くの弟子をとったために、物質的な意味では孤独ではなくなってしまう隠者もいました。

物質的といえば、隠者といえども食がなければ生きてはいけません。このため初期の隠者達は蔓や小枝で籠を織り、これとパンと交換して生計を立てていたとされます。

もともとは砂漠の民でしたが、やがては町中に住まうようになる隠者も出てきました。生計を立てるためには籠編みだけでは苦しいため、やがては門番や渡し守といった仕事をするようになり、町に住みついて人目にも頻繁にふれるようになっていきました。そしてこうした隠者のことを人々は「世捨て人」と呼ぶようになっていきます。

世捨て人たちはたいてい教会の敷地の中に建てられた小さなあばら家か独居房に住んでいました。聖壇の裏に設けられており、そこに小さな窓が備えられていました。世捨て人を人目にさらすことなくミサ(典礼)に参加させ、聖餐に与らせることができるようにする仕組みです。世捨て人の助言を求める人はその窓を使って彼・彼女に相談することができました。

独居房には、もう一つの窓が通りか共同墓地に開かれており、慈悲深い街の人たちが食料その他の生活必需品を届けてくれました。彼らの生活はこれによって成り立っており、それは教会との約束、もしくは契約の上で成立する生活でした。そうした意味で、この時代の世捨て人というのは、ある種の「職業」といっていいかもしれません。




中世のヨーロッパでは、こうした隠者や世捨て人が普通に見られましたが、一方では隠遁者になるのは実は非常に難しいと考えられていました。それなりの学識が必要だからです。それだけに憧れを持つ人も多くいましたが、教養というものは一朝一夕で身に着きません。

そこで、「巡礼」というものがこのころ流行り始めました。日常的な生活空間を一時的に離れて、聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動です。より高尚な言い方をすると、「日常の俗空間から離脱し、非日常空間あるいは聖空間に入り、そこで聖なるものに接近・接触し、再びもとの日常空間・俗空間に復帰する行為」です。

一時的な世捨て人ともいえ、領主権力からも共同体からもその保護を離れ、いわば個人として社会に露出した状態です。ただ単に旅に出るだけなら高度な教養を身に着ける必要はなく、思い切って家を出れば、世捨て人と同じように他人にはばかられることなく神と対面できます。いわば世捨て人の大衆版であり、多くの人がそうした流浪の旅を夢見ました。

こうした巡礼は世界中の宗教にみられます。共通点は、宗教儀礼であるという点であり、多くの場合目的地を伴います。たとえばキリスト教やイスラム教のように一つの聖地を訪れる直線型のほか、インドや東洋で見られる複数の聖地を巡る回遊型があります。日本の四国のお遍路も巡礼のひとつであり、こちらも回遊型といえます。

ところがこうした宗教や目的地に縛られることなく旅に出て自らを開放したいという人々もおり、こうした人たちの旅は、巡礼とはいわず、「放浪」と呼びます。あてもなくさまよい歩くことであり、英語では“wandering”で 、「放浪者」は“wanderer”です。日本語では、さすらい、流浪、彷徨ということもあります。

本来、欧米では家畜を保有する遊牧民が生活のために行う行為でした。このため“nomad”(ノマド )という言葉もあり、これは牧歌的放浪を意味します。ほかに放浪を意味する言葉には“roam(ローム)”、や“vagabond(バガボンド)”、“stroll(ストロール)”、“drifter(ドリフター)”などがあり、それぞれニュアンスは異なり、微妙な使い分けをします。

例えばロームは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ストロールとは、散歩などの場合にぶらつくというような場合に使います。またドリフター、バガボンドなどはそれぞれ日本語では、漂泊者、異邦人といったふうに訳されます。

「放浪」はこれらの総称といってもいいでしょう。何のための放浪かといえば、巡礼のように何か目的があってのものではありません。目的があるとは限らず、人生の意味を求めて、といった漠然としたものもあり、特に何の意図を持たずに放浪を繰り返す場合もあります。

こうした放浪の旅をする人達の中には、そこでの体験やそこから得た印象を文学や絵画、その他の芸術に反映させて輝く人もいます。放浪を愛する文化人は古今東西後を絶ちません。
日本では西行法師がおり、俳人の松尾芭蕉や井上井月、現代では画家の下清や棋士の間宮純一などがいます。山頭火とその兄弟弟子の尾崎放哉も晩年放浪生活を送っています。




こうした放浪者に共通しているのは、周囲の人間との関わりを絶ち、できる限り「孤独」になりたがるという点です。この点、世捨て人や隠者も同じであり、修行の一環として自ら人間関係を断ち、孤独に籠もります。こうした行為は世界中でみられます。

インドでは、放浪の旅に出て瞑想の修行や苦行に励む人々がおり、僻地で一人でいる姿を現在でも目にすることができます。お釈迦様も孤独な苦行を体験し、最終的に辿り着いた境地、涅槃(ニルヴァーナ)も菩提樹の下に一人で居たときに得たとされています。日本でも山伏のような行者が修験道のため山に一人で籠って修行をします。

また「哲学」をするために孤独になる、ということもよく言われます。ドイツの哲学者マックス・シュティルナーは「孤独は、知恵の最善の乳母である」という格言を残しています。孤独状態において人間は自分の存在などについて深く考えることができるようです。

その結果、創造性、想像力などが身につくと多くの哲人は結論付けており、このような精神の働きは心理学的にみると「昇華」と呼ばれています。孤独であることから生み出され、花(華)開いた芸術作品は数多く存在します。

放浪を愛する人たちは、こうした寂寞とした心理を表現することに秀でています。孤独によって「増した愛」を濃密に描き出すことで芸術の極みを達成するのです。このため人によっては、人知を超えた高次の存在を表現することに成功する人もいます。

こうした「望んで孤独を楽しむ」という文化性は、日本や中国などの東洋よりも個人主義の傾向が強い欧米のほうが顕著なようです。例えば、イギリスでは、社交会場にて壁際で佇んでいる人にむやみに声を掛けることは、むしろマナー違反とみなされる場合があります。せっかく孤独を愛しているのに邪魔をしては悪いと判断して放っておくのです。

一方「同胞社会」の日本では、孤独は社会から孤立していることと同義に扱われる傾向が強いようです。日本と同じように孤独が「良くない状態」として見られる社会や文化は多く、孤独と見られる状態にある者には、積極的に他者が働き掛けることこそが美徳とされます。

孤独な人には悪霊が付くと信じている民族もおり、南太平洋のトロブリアンド諸島やアマゾンの先住民などがそれで、呪術的な意味合いから孤独な人に「声を掛ける」といいます。
ただ、孤独といっても、多くの状態や種類があります。孤独感には自分と他者・世界との関係で捉えたものや、自分ひとりの中で完結する孤独など様々な視点からのものがあります。

大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない、理解されていないと感じている場合、たとえ他人がその人物と交流があると思っていても、当人がそれを感じ得なければ、孤独です。その逆もありえなくはありません。自分は孤独ではないと思っていても、周囲から孤立している場合のそれは孤独といえます。

孤独な人を周囲はとかく助けてあげたくなり、すぐに声をかけがちです。しかし、暗く沈んだ気持ちの孤独者への励ましは、むしろストレスとなることもあります。特に鬱病の人に対してはついつい激励をしてしまいがちですが、医学的にはむしろ禁忌だそうです。

いわゆる「引きこもり」もそうしたうつ精神疾患の一つといえ、日本では深刻な社会問題になりつつあります。内閣府の調査では15歳~39歳の若年層では、推計で54万人強、40歳~64歳の中高年層でも推計で61万以上の引きこもりがいるといいわれています。

一般的には「長期間にわたり自宅や自室にこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと」ですが、厚生労働省は、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」とやや具体的に定義しています。

この「さまざまな要因」というところがまさにポイントです。うつ病は一般的には精神疾患と捉えられる向きが多いのに対し、「ひきこもり」は、単純な(あるいは単一な)疾患や障害ではなく、多岐多様な原因があると考える研究者が多いようです。



こうした問題を研究する国の機関、国立精神・神経センター精神保健研究所などもそうした見解を持っています。「ひきこもり」の原因や実体は多彩であり、明確な疾患や障害として割り切ることができないケースが多いと言っています。

また、「長期化」することを特徴としてあげています。この長期化は物的側面、心理的側面からだけでなく、社会的側面などから理解すべきであり、病気として扱うよりもむしろ「精神保健福祉の対象」と考えるべきだとし、医者が扱う類のものではなく福祉の対象として考え、例えば社会福祉士のような立場の人が扱うような問題であるとしています。

このため、面接や電話相談、家庭訪問、家族やグループによる心理的教育のほか、緊急時には保健所や精神保健福祉センターに助けを求めることを推奨しています。またこれらの機関が開催するケア会議によって介入、保護、分離などの選択をします。「治療」ではなく社会全体で個人を支える福祉的な対策の方向性が示されているのです。

ひきこもりは病気ではないんだよ、みんなで考えていけば元の世界に戻れるんだよ、と本人だけでなく、周囲も理解することがその解消につながっていくというわけです。

それにしても、引きこもりというのはどういう人たちがなりやすいのでしょうか。

上の病気ではないという主張と矛盾しますが、一般的には、児童青年期に発症する精神疾患に原因があるとされています。また、引きこもりとの明確な関連性は明らかになってはいないものの、発達障害や適応障害、パーソナリティ障害、統合失調症といったよく見られる精神疾患の他、ゲーム依存症、インターネット依存症などが引き金になると考えられています。

さらに、健全な親子関係の構築に失敗した家庭では引きこもりが発生しやすいといわれています。これは、親子という上下関係の不明確な家庭で育つことにより、人間関係の構築の基礎ができず、人間不信になった状態です。

いじめがきっかけで引きこもりが発生するケースも多く、学齢期に不登校だった状態がそのまま続いてひきこもりになる人が多くいます。一方、社会人になった後に引きこもりになる人も少なくはなく、職場の人間関係の悪化や、セクハラ、リストラなどの要因から心をすり減らし引きこもりになった人も多いようです。

加えて日本では「追い出し部屋」というのがあります。これは従業員を「自己都合退職」に追い込み、「会社都合」で退職させないための部署で、ここへ配属されたことで引きこもりになる人も多いようです。日本では終身雇用のレースから外れると不利な境遇に陥ることも多く、いったん社会の枠組みから離脱してしまうと、引きこもり予備軍になりがちです。

厚生労働省の調査によれば、引きこもりになる人には男性の方が多く、全体での割合は6〜8割だといます。また、高学歴の両親がいる家庭に多い傾向にあり、さらに従来は30歳以下の若年層が多かったのに対し、最近は高齢化が進んでいることが指摘されています。

これは、高齢になってから引きこもりになるのではなく、若いころに引きこもりになったまま年齢を重ねて高齢になる人が増えているということを示しています。事実、引きこもりの平均年齢は年々高齢化しており、また当事者を養っている親も高齢化しています。

養い親が老年期に入ると、経済的・体力的に行き詰まってしまう場合があります。このため、当事者である無職の子が親の死後に衰弱死・自殺したり、親の死を届け出ずに罪に問われるケースなども報告されています。親が死去した場合、死亡届以外にも多数の手続きがあり、社会的能力の低い人間にとっては自力で解決することは難しくなります。

さらに、引きこもりの子を持つ家庭では「家の恥」だという意識からこれを隠そうとする傾向があります。当事者も家族も「自分は問題になっていない」「引きこもっているわけではない」と思いこんで相談しないため、問題が表面化しないのです。

老年退職後、友人にも会社の同僚にも誰にも問題を相談できないまま、次第に人脈を失い情報も途絶えていく人も多いようです。こうした場合、家族ごと引きこもり状態になって埋もれていき、最後には行き詰まって、心中や餓死といった悲劇が起きることさえあります。

めったに外出もせず外で見かけないので、近所からは一人暮らしだと思われていた家で、実際には引きこもりの子供がおり、親子が死んではじめてその存在が明らかになる、といったショッキングな事例もあります。

一方、こうした引きこもりについては、「甘えている」、「怠けている」、「親の育て方が悪い」、「自己責任がとれていない」、といったふうに受け取る人も多いようです。引きこもりは犯罪予備軍という誤解を持つ人すらいます。

実際、AKB48握手会傷害事件(2014)、東海道新幹線車内殺傷事件(2018)、川崎市登戸通り魔事件(2019)の犯人は引きこもりの生活状態や経験があったそうです。引きこもりが起こした事件が大々的に報道されるたびに彼らはさらに引きこもるようになっていきます。

深刻な社会問題として発展しつつある引きこもりに対しての対策を国も考えてはきているようですが、具体的な対策については、まだ試行が始まったばかりで先は見えません。



実はこうした引きこもり問題は日本だけではなく、世界的な問題にもなりつつあります。イギリスやイタリアなどでも目立ってきており、同様の現象は、韓国、台湾、香港、アメリカ合衆国、オーストラリアなど多くの国、特に先進国で普通にみられるようになってきました。

オックスフォード英語辞典には「hikikomori」の表記で収録されています。そこには“社会との接触を異常なまでに避けること”、“一般的には若い男性に多い”という説明がなされているそうです。こうした有名辞典への収録は、世界的な風潮である証拠です。

こうした世界的な引きこもり拡大を背景に、引きこもりに関する研究も進んできました。海外での最近の研究では、孤独感を感じるといった感受性は「他人を信頼できるか」といった相手の人格や感情への「期待」と関係があることが分かってきています。

有益な交友関係を築くことを「ソーシャルキャピタル」といいます。その量や質が引きこもりと関係がある、という説があり、ソーシャルキャピタルは、主観的な「幸福量」を決定する上で重要なファクターで、これが欠落した状態は幸福量が少ない状態といえます。その減少によって人によっては心身の健康を害し、やがては引きこもりになっていきます。

このほか、孤独感の感じやすさは、怒り、恐れ、喜び、悲しみといった情動系よりも、目などの社会信号を知覚する部位に関係があるようだ、とする研究成果もあります。このことは、人と目線を合わせる、といったことだけで、孤独感が和らげられる可能性を示しています。

年齢を重ねると、相方を失う人もおり、また何かと意欲が薄れて活動が鈍くなります。結果として交際範囲が縮小して人や社会とのつながりが減少し、孤独感を感じやすくなります。

残り少なくなった人生の時間的な展望の中では孤独に陥ってしまいがちですが、こうしたときこそ、積極的に外に出ていくべきです。いつもの普段着ではなく、たまにはおしゃれして外出し、すれ違う人たちと目線を合わせるだけで、孤独感は和らぐに違いありません。

秋も深まってきました。暖かくして外に出かけ、道行く人に微笑みかけてみてはいかがでしょうか。

バカボンド

最近、実家がある山口の防府天満宮の周辺がきれいに再整備された、という話を雑誌で知りました。

防府天満宮は、山口県の中南部、防府(ほうふ)市内にある神社です。菅原道真は大宰府に左遷される途中、防府の地に立ち寄ったとされ、道真の没後に「松崎天神」の名で創建されました。

道真が亡くなった翌年の904(延喜2)年がその創建年です。没地である福岡の大宰府で大宰府天満宮が創られたのが919(延喜19)年ですから、「日本最初に創建された天神様」ということになります。天神様といえば、京都の北野天満宮も有名ですが、太宰府天満宮と合わせ、この三社は日本三大天神と呼ばれています。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた門前町です。戦前は山口県下最大の都市である下関市と中国地方の拠点都市である広島市の中間点として銀行や企業の支店・営業所も多く設けられていました。

古くは「三田尻」と呼ばれ、天然の良港であったここは、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍の本拠地でした。幕末には、長州藩が幕府対策のためここに臨時の政庁を構えたこともあります。

瀬戸内海に面しているため、海岸に近い場所ではさかんに製塩が行なわれ、これを原資として町は栄えました。昭和に入り製塩業が廃れたあと、臨海部の塩田跡地には大規模工場の進出が相次ぎ、今度はこれで町が潤いました。

近年ではマツダ防府工場のほか、その他の輸送関連企業、ブリヂストン、協和発酵バイオ、東海カーボンなどの大手企業がここに工場を持っています。人口10万人ほどの町ですが、かなりの割合の人々がこれらの企業もしくは関連企業に勤めています。

山陽本線の防府駅周辺には毛利邸(毛利博物館)、国分寺(周防国分寺)などの観光スポットもあることから、年間を通じてそれなりの観光客がここを訪れます。天満宮への参拝者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。




神社の周辺は「松崎地区」と呼ばれており、その表参道の入り口がある道路は、少し前までは国道への抜け道として使われており、制限速度を超える通過車両が絶えませんでした。

これを懸念した防府市が、単なる自動車の通り抜け道路ではなく、歩行者が安全に街の回遊を楽しめる道路とすることを目指しました。また、イベントなどでにぎわいを創出できるような機能を付加することも検討されました。その結果新プランがまとまり工事に着手、2019年9月にこの街路は生まれ変わりました。

歩車道の境には段差がなく、全面がフラットな状態となり、縁石や柵もないこの道路は16mも幅があります。これまでは狭い歩道を行き交う車に注意しながら天満宮へ向かっていた歩行者が、こうした車の往来をまったく気にすることがなく、安心して参拝できるようになりました。

見違えるように蘇った街並みは「風致地区」としても整備され、その一角には「まちの駅 梅テラス」などの物産店なども誘致されています。

この道路の南側にはまた、並行して「山頭火の小道」という散策路が整備されています。防府の生んだ漂白の自由律俳人・種田山頭火が、生家から小学校まで通った路地裏の1キロ足らずの道です。たどりやすいように辻々には「足跡」の目印が新設され、小径沿いの民家の塀や壁には、故郷を詠んだ山頭火の句が多数掛けられています。

防府は新幹線こそ止まりませんが、3駅隣りの新山口駅で新幹線から乗換え、在来の山陽本線に乗れば15分ほどで着きます。山頭火の小道のある防府天満宮周辺へは、ここから歩いて20分ほどです。途中、上で紹介した、再整備されたばかりの松崎地区を通ります。山口における新観光スポットです。ぜひ一度訪れてみてください。

この山頭火ですが、防府駅前には銅像が立つほどこの町では有名です。無論、全国的にも有名な俳人であり、同じく自由律俳句を詠った尾崎放哉(ほうさい)とともに、新傾向派の俳人として一世を風靡しました。尾崎放哉と山頭火はともに荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)門下にあり、萩原が創刊した自由律の俳誌「層雲」で有名になりました。

師の荻原井泉水は山頭火や尾崎放哉の名に隠れてあまり知られていませんが、自由律俳句のパイオニアとして知られる人物です。二人のほかに正岡子規の高弟として知られる河東碧梧桐も、一時期その門下にありました。

山頭火というのは本名ではなく、1882(明治15)年12月3日に生を受けたときに父母からもらった名は「種田正一」といいます。山頭火の名は、29歳のときに俳人デビューしたときに初めて使った名で、これは中国に起源を発する「納音(なっちん)」という占いに発想を得たものです。

生まれ年や月・日などの組み合わせからなる30の納音の一つである「山頭火」は甲戌・乙亥(きのえいぬ・きのとい)の組み合わせになります。ただ、山頭火の生まれ年の納音は「楊柳木」であり、「山頭火」は、その字面を彼が気に入って選んだだけです。

ちなみに、納音によるある占いサイトによれば、楊柳木の人の性格は、「好奇心が旺盛で、新しい事柄を常に吸収しようとする。ただ、流れに身をまかせるため、その場の勢いに流されが。」だそうです。

また、山頭火は、「ひときわ目立つ、または異色な存在。理想が相当高く、内面はパワーに満ちていて相当な野心家。孤独を愛するナルシストで、人に支持されることで活躍の場が広がる」となっています。

どちらも当たっているような気がしますが、「孤独を愛するナルシスト」というのはとくにぴったりなかんじがします。また多くの人に支持されたことでその活躍の場を広げた、といったことも当たっています。名を変える、というのはそれなりに人生を変える効果があるのかもしれません。




この山頭火が生まれたのは、上の「山頭火の小道」の西の終点付近です。天満宮の参道入り口から西へ600mほど行ったところになります。父・竹治郎はこの地の大地主で、種田家は地域の人々からは「大種田」と尊敬され、幼いころの山頭火は多くの使用人に囲まれて成人しました。

父竹次郎は役場に勤めており、その関係から時の政友会とのつながりができました。やがて自らも政治にかかわるようになり、熱くのめりこむようになっていきました。女癖が悪く、政治と女道楽に放蕩の限りをつくしたあげく、嵩んでいった出費によってやがて屋台骨はぐらついていきました。

妻はフサといいました。こうした夫の放蕩に心を痛めるとともに義母からも「嫁のお前が悪いから」と責められ、やがてその責に耐えかねて屋敷内の古井戸に身を投げてしまいます。山頭火11才のときのことであり、のちに山頭火が放浪の生活を送るようになったのは、この母の自殺が遠因にあるといわれています。

14歳で、三年生中学の私立周陽学舎(現県立防府高校)へ入学。このころから本格的に俳句を始めました。ここを首席で卒業後、20キロ離れた山口市内にある県立山口尋常中学(現県立山口高校)の四年級へ編入。

防府から離れていたともあり、ここではあまり親しい学友もおらず、週末になると土曜日には防府と山口の間にあるトンネルを抜けて実家のある防府へ帰るのが常だったといいます。ちなみに、このトンネルは佐波山トンネルといい、山陽にある防府と県庁のある山口を結ぶために1887(明治20)年、に完成しました。

かつては佐波山洞道と呼ばれ、その長さ518mは、開通当時道路トンネルとしては日本第3の長さでした。2009年の平成21年7月中国・九州北部豪雨の際はこのトンネル周辺で鉄砲水が出て、死傷者を出したことで全国的に名を知られました。

山口尋常中学は長州藩の藩校である「山口明倫館」が前身であり、山口高校となった現在でも県下屈指の名門校として知られています。山頭火は19歳でここを卒業すると、東京へ出て私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科へ入学しました。

翌年同予科を卒業すると早稲田大学文学部文学科に入学しますが、神経衰弱のため退学。しばらく東京に留まりまっていましたが、やがて生活費も底をつき、山口へと帰郷しました。

この頃、その生家は相場取り引きに失敗して没落していました。父の竹次郎はその立て直しのために先祖代々の家屋敷を売り、これを元手に近くの大道村(防府市大道)にあった古い酒造場を買収し、「種田酒造場」として酒造業を始めました。山頭火にはほかに4人の兄妹がおり、一家でこの工場に移り住んで、父を手伝い始めました。

翌1909(明治42)年、27歳になった山頭火は、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚しました。このサキノとの間には翌年に子供ができ、健(たけし)と名付けられました。

結婚して一児を得るという慶事が続きましたが、このころ父の始めた酒造業はあまりかんばしい状態ではありませんでした。もともと勤勉な性格ではなく、所詮は親のすねかじりで育ったおぼっちゃんに地道な商売ができるわけはありません。酒造場を購入して余った金は運転資金としてストックしていましたが、それもすぐに尽きてしまいました。

一方このころ、山頭火は徐々に俳人としての才能を見せ始めていました。1911(明治44)年、29歳のとき、 防府の郷土文芸誌「青年」が創刊になると、これに定型句を寄稿しました。またこのころ初めて「山頭火」の名で外国文学の翻訳を発表しています。

それから2年後には 荻原井泉水が主宰・発行する全国誌「層雲」に、初めて彼の投稿句が掲載されました。荻原に認められた山頭火は、このころから俳号にも「山頭火」を使い始め、編集兼発行人として個人で文芸誌「郷土」を創刊。「層雲」でも頭角を現し、俳句選者の一人にまでなりました。

ところがちょうどこのころ実家の「種田酒造場」が倒産。父は家出し、ほかにいた4人の兄妹も離散してしまします。山頭火は妻子を連れて夜逃げ同然で九州に渡り、友人を頼って古書店を熊本市内に開業しますがこれも失敗。後に額縁店を始めますがこれも失敗し、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京、薄給で図書館勤務をするようになりました。

山頭火38歳。やがてこのころ住んでいた下宿に熊本にいる妻から離婚状が届きます。八方塞がりとなった山頭火は神経症を患うようになり、勤めていた図書館も退職。さらに追い打ちをかけるように翌1923(大正12年)には関東大震災に遭って焼け出されてしまいます。

途方に暮れた彼は熊本に帰り、頭を下げて元妻フサの家の居候となりました。このころ山頭火は、熊本市内で泥酔し市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こします。

一説によれば生活苦による自殺未遂だったのではないかといわれていますが、急停止により市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲みました。このときたまたまその市電に乗っていたのが顔見知りの新聞記者で、見かねた彼は山頭火を市内の知り合いの寺に連れていきました。

この寺は禅寺で、曹洞宗報恩寺といいました。ここの住職望月義庵師の得度を受け、翌年出家して耕畝(こうほ)と改名。同じ曹洞宗瑞の寺で熊本郊外にある泉寺内の味取(みとり)観音堂の堂守となりました。しかし堂守をやっているだけでは食べてはいけません。このため、山頭火は町へ出ては托鉢(たくはつ)を続けるようになりました。



それから1年余が経った1926(昭和元)年の春、尾崎放哉が41歳の若さで死去。山頭火はこの3歳年下の兄弟弟子の死に大きなショックを受けます。と同時に晩年放浪を続けていた放哉が作り上げた作品世界に改めて共感し、自らも旅に出ることを決心します。

法衣と笠をまとうと鉄鉢を持ち、寺を出て旅立ったのが1925(大正)15年のことで、山頭火は43歳になっていました。バガボンド(漂泊者)の誕生です。

このとき詠んだ句が、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」というものです。行乞(ぎょうこつ)とは、食べ物の施しを受ける行のことで、この貧乏旅はその後7年間も続くことになりますが、しかしその中で多くの名作が生まれていきます。

熊本を出て山頭火が最初に向かったのは宮崎、大分でした。九州山地を進む山頭火が、旅の始めの興奮を歌にしたのが次の句です。

「分け入っても分け入っても青い山」

その後、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から「層雲」に投稿を続けましたが、7年後の1932(昭和7)年、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)でようやく長い旅に終止符を打ち、草鞋の紐を解きます。

そして小郡の地に「其中庵」という粗末な庵を設けました。このころ体調はさらに不安定で、精神面でも不安定となり、あるとき睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂を計りました。しかし眠っている間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めました。

郷里にはその後4年ほど過ごしましたが、やがて体調も回復したことから、1936(昭和11年)、山頭火は雲水姿で再び旅に出ます。この時の旅は信州方面で、山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、やはり数々の作品を残しています。

その後も東北地方などを旅しますが、翌年には無銭飲食のうえに泥酔したことで、警察署に5日間も留置されています。

やがて再び山口に帰ったのが56歳のとき。このときかつて住んでいた其中庵は積年の風雪で朽ち果て、壁も崩れてボロボロになっていました。このため新しい庵を探し、ようやく見つけたのが、市内の湯田温泉にある竜泉寺という寺の一角でした。四畳の間にすぎないここの小さな部屋を借り、「風来居(ふうらいきょ)」と名付けて住み始めます。

しかし、やはりここにも落ち着かず、翌年の春先には今度は近畿から木曽路を旅しました。今度の旅には一つの目的があり、それは井上井月の墓への巡礼を果たすことでした。

井月は、信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた幕末の俳人です。その墓参を果たした山頭火は、「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」と詠んでいます。

やがて旅を終えた山頭火は、すぐには山口に帰らず、今度は四国に渡り、香川県の小豆島で放哉の墓参をしています。尾崎放哉は晩年、荻原井泉水の紹介で小豆島霊場第五十八番札所、西光寺奥の院の「南郷庵」に入庵し、ここで亡くなっていました。

この墓参のあとも結局は山口に帰らず、年の暮れに松山市に移住し終の棲家となる「一草庵」を結庵。秋も深まる10月10日の夜、ここで仲間を集めて句会を行います。

いつものように酔った彼は隣室でイビキをかいて寝ていました。このとき仲間は山頭火が酔っ払って眠りこけていると思っていましたが、このとき実は脳溢血を起こしていました。

会が終わると皆、山頭火を起こさないようにと帰りましたが、そのうちの一人が妙に胸騒ぎを感じました。しかし夜も更けていたので早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していました。推定死亡時刻は10月11日の推定4時。1940(昭和15)年)のことで、59歳になる2ヵ月前でした。

山頭火は生前から“コロリ往生”を望んでいたといいます。その通りとなり、満足であったかもしれません。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」というもので、長年旅を続け、奔放な人生を送った山頭火は、この句を残して盛り上がる入道雲の中へと消えていきました。

彼の墓は、生地の防府市内にある護国寺にあります。上の防府天満宮から西へ1.5kmほど離れたところで、その墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られています。

山頭火が亡くなったとき、一人息子の健が満州から駆け付けたといいます。彼はその後、満州に渡り満鉄(南満州鉄道)に勤務していました。父の死を知ったのは母のフサが知らせたからでしょう。

その元妻、フサの墓もまた山頭火の隣にあります。フサが住んでいた熊本市の安国禅寺にも山頭火の分骨墓があるといい、おそらくはいずれも息子の健が建てたものでしょう。山頭火の放浪によって家族はバラバラになりましたが、その死は再び家族をひとつに結びつけたといえるでしょう。