流刑地紀行

我が家のある町は、麓から車で5分ほど山道を登ったところにあり、標高200mほどであることから、いつも麓より涼しく、通常は2~3℃、時には4~5℃ほども気温が下がります。

このため、暑い夏でも快適に過ごすことができ、暑さが苦手な我々夫婦にとってはありがたい環境です。その麓の修善寺温泉街は観光地でもあります。伊豆で最も古い温泉と言われており、古刹もいくつかあることから、いつも観光客が絶えません。

最も人で賑わうのが曹洞宗の寺院、修禅寺です。源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後ここで殺害されたとされており、二人の墓があります。

源頼朝自身も罪人として囚われていた時期があり、その幽閉地は修善寺温泉から北西へ8kmほど離れた韮山の地にあったとされます。蛭ヶ小島という場所で、その昔は見渡す限り芦原が広がる沼地だったようです。

伊豆にはほかにもあちこちに罪人を配流した土地があり、これは平安時代に成立した「律令法」において、ここが遠流の対象地と定められたからです。重罪犯は、さらに伊豆諸島に流されましたが、伊豆半島はその入り口で比較的罪の軽い罪人がここへ追いやられました。

頼朝以前にも伊豆に流罪になった人は多数おり、能書家の橘逸勢(たちばなのはやなり)は、謀反を企てたとして流罪になりました。また、応天門への放火犯、伴善男(とものよしお)もここで亡くなっており、後白河天皇と対立した文覚上人も伊豆へ流されました。このほか、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)も伊豆を経て伊豆大島へ流されています。

このように罪人を辺境や島に送る追放刑のことを「流罪」といいます。流刑、配流ともいい、特に流刑地が島の場合には島流しとも呼ばれることもあります。都会に造られた獄舎に入れられるより、遠いところに取り残されるほうが生活は過酷です。生きていくための糧の少ない中一人だけで生きていかなければならず、苦痛がより大きい刑罰とされていました。

流罪は主として政治犯に適用されましたが、戦争・政争に敗れた貴人に対し、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合にも流罪が適用されました。

配流先で独り生涯を終えた流刑者は多数に上りますが、中にはそこで子孫を残したり、赦免されたりした例もあります。西郷隆盛は2度目に奄美大島に流されたとき、島の名家の娘・愛加那(あいがな)と結婚して一児を設け、その子菊次郎は後に京都市長になりました。

脱走を企てて成功した流刑者も多く、後醍醐天皇は元弘の乱で敵対勢力に捕らえられ隠岐の島に流されました。しかし脱出して建武の新政を打ち立て鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。その鎌倉幕府を創設した源頼朝もまた伊豆で再起して新政権を打ち立てています。

平安から鎌倉期にかけてのこの時代、流刑が宣告された受刑者には、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪(ずざい)が課されました。徒罪とは徒刑(ずけい)ともいい、律令法・五刑のうち、3番目に重い刑罰です。受刑者を一定期間獄に拘禁して、強制的に労役に服させる刑で今日の懲役と似た自由刑です。

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五刑のうち、最も重いのが死罪であり、次いで流罪、続いて徒罪、その次は杖罪(じょうざい)です。木製の杖をもって背中又は臀部を打つというもので、最も軽い刑が来て笞罪(ちざい)と呼ばれ、これはいわゆる鞭打ちです。

流刑対象者の中でも、特に悪質なものに対しては3年間の徒役も加えて課されました。妻妾は基本的には連座して強制的に同行させられましたが、他の家族は希望者のみが同道しました。配所への護送は季節毎に1回行われ、流刑地到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田(律令制において民衆へ一律に支給された農地)が与えられました。

現地の民として租税も課されましたが、現地民とみなされるようになったことから、原則的に恩赦等による帰国もありませんでした。もっとも、時には全ての罪人が赦免される「非常赦」が行われて帰国が許されることもありました。

同じ流罪でも、その境遇は受刑者を監視する監督官の匙加減で大きく変わります。源頼朝は縁者から仕送りを受けていたほか、本来禁じられている若干の側近まで置いてもらっており、ぎりぎり貴族の体面を保つ暮らしをしていました。

一方では、鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼、俊寛のように、かなり悲惨な生活を強いられることもありました。鹿ヶ谷の陰謀とは、平安時代の安元3(1177)年に京都で起こった、平家打倒のクーデター未遂事件です。

このころ、清盛を筆頭とする平家は全盛を誇っていましたが、これに対して後白河天皇は公家勢力を復権させて平家にとって代わろうと画策していました。これに加担する形で多くの反対勢力が京都、東山は鹿ヶ谷(現京都市左京区)に結集し、謀議が持たれました。

しかし、これをいち早く察知した清盛によって一味は捕らえられ、関係者全員およびその近親が処分されるところとなり、首謀者と目された後白河院の近臣、西光は斬罪、同側近の成親は備前国に流罪となり、後に謀殺されました。

清盛の弟の教盛の叔父、成経もこれに連座して備中国へ流されました。更に御白河院側近の俊寛が、同じく後白河院近習の平康頼とともに薩摩国にあったとされる「鬼界ヶ島」へ流されることになりました。そしてその後、平成経もまた同島への移送が決まりました。

「鬼界ヶ島」とはすなわち「鬼が棲む世界と人の住む世界の境界」という意味です。「平家物語」によると、島の様子は次の通りです。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所がある。山上からの景色は素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延び、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちる。

後段の記述をみると、その恐ろしげな名前とは裏腹に、まるでパラダイスのような場所にさえ思えます。古代以降、日本の南端の地とされていましたが、それがどこにあったのかははっきりしません。ただ、以下の薩南諸島のふたつのいずれかではないかとする説が有力です。

硫黄島 –俊寛の銅像と俊寛堂がある。俊寛の死を哀しんだ島民が俊寛の墓を移したと場所に建てられたとされ、毎年盆には送り火を焚いて悼む行事も行われてきた。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 – 俊寛の墓と銅像がある。骨が出土しており、これは面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。しかし、喜界島には硫黄が取れる火山はおろか、高い山もなく、高い滝ができるほどの川も見られず、「平家物語」の記述とは大きく異なる。

これを見る限りでは鬼界ヶ島は硫黄島ではないか、と私には思えます。薩南諸島北部に位置する島で、人口は120人ほど、世帯数は60ほどです。薩摩硫黄島とも呼ばれますが、これは小笠原諸島に同名の島があり、日米両軍が激戦を交わしたこの島と区別するためです。

「吾妻鏡(正嘉2(1258)年)には、2人の武士がこの硫黄島に流刑にされたとする記述があり、その内の1人の祖父も硫黄島に流刑にされたと記録されています。このことから、平安時代末期から既にこの島が流刑地として使われていたことがわかります。

東西5.5km、南北4.0kmで、主峰の硫黄岳(703.7m)は常時噴煙を上げており、亜硫酸ガスによってしばしば農作物に被害が発生します。また、周辺の海は硫黄が沈殿して黄色く見えることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとされます。

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この島に流罪となった俊寛を題材にした「平家女護島」(へいけにょごしま)という浄瑠璃があります。俊寛を題材にして近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てたもので、享保4(1719)年に大坂竹本座で初演されてヒットしましたが、そのストーリーは以下のようなものです。

平家転覆を企んだ俊寛、平成経、平康頼の三人が鬼界ヶ島に流され、早三年が過ぎようとしていた。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならない。食べることもままならず、時たまやって来る船に硫黄売って食いつないだり、海草を食べ暮らしていた。

あるとき、三人の一人、成経がここに住む海女で千鳥という女と結婚することを他の二人に打ち明けた。絶望的な状況の中で起こった数少ない慶事であり、これを三人は歓びあった。そして形ばかりのこととはいえ、成経と千鳥は俊寛と康頼の前で祝言の杯を交わした。

するとそこへ、大きな船が島を目指してやってくるのが見えた。何事かと皆は驚くがそれは都からの船であった。船が浜辺に着くと中から使者の妹尾太郎兼康が降りてきた。妹尾は早くから平氏に仕え、鳥羽上皇とその官女との間に生まれた高級官僚である。

妹尾は、建礼門院(平清盛の娘)が懐妊したため、彼らの流罪を恩赦にする、という清盛の赦免状を持っていた。それを読んで夢かと喜びあう三人だったが、その中にはなぜか俊寛の名前だけない。何度も内容を確認するが、やはり俊寛の名だけが見当たらない。

清盛から目をかけられていた俊寛は陰で密に平家打倒を企てていた。そのことは許されることではない、それゆえ恩赦を受けられなかったのだ、と妹尾は憎々しげに言い放つ。青ざめる俊寛。一時の喜びも突然のこの暗転によって消え去り、打ちひしがれて泣き崩れる。

だがそこへもう一人の使者である丹左衛門尉基康(たんさえもんのじょうもとやす)が船から降りてきて、俊寛にも赦免状が降りた、と伝える。俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた清盛の嫡男、平重盛が別途、俊寛にも赦免状を書いていたのだ。

これで皆が帰れる。そう安堵して三人が船に乗り込み、千鳥がそれに続こうとすると、それを妹尾が止める。またも憎々しげに言うには、重盛の赦免状には「三人を船に乗せる」としか書いておらず、そう書いてある以上、四人目の千鳥は乗せることはできないというのだ。

嘆きあう三人と千鳥に、妹尾の言葉がさらに追い撃ちをかける。俊寛の妻の東屋が亡くなったというのだ。しかも清盛の命により東屋を斬り捨てたのは妹尾自身だという。いつかきっと都で妻と再び暮らす、そんな夢さえも打ち砕かれた俊寛は、再度絶望に打ちひしがれる。

妻のない都に何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから代わりに千鳥を船に乗せてくれと訴える。しかし妹尾は拒絶し俊寛を罵倒する。思い詰めた俊寛は、妹尾の刀を奪って彼を斬り殺す。そしてその罪により自分は残るから千鳥を船に乗せるよう、基康に頼んだ。

こうして千鳥は乗船を許され、俊寛のみを残して船が出発する。しかしいざ船が動き出すと、俊寛は言い知れぬ孤独感にさいなまれ、半狂乱になる。手綱をたぐりよせ船を止めようとするが、無情にも船は遠ざかる。孤独への不安と絶望に叫び、船を追うが波に阻まれてしまう。

船が見えなくなるまで呼び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へ登り船を追い続ける。ついに船がみえなくなり、俊寛の絶望的な叫びとともに日は暮れていく…

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この物語は本来なら船が出ていくところで終わるはずですが、そこで終わりではなく、船が出るや一転して俊寛が取り乱すという結末になっています。俊寛の人としての弱さと未練を締めとしたところが高く評価されており、数多くの浄瑠璃や歌舞伎を生み出し、東洋のシェークスピアと称された劇作家、近松門左衛門の面目躍如の作品といわれています。

史実としての俊寛は、その後自ら命を絶っています。成経や康頼が島を去ったあと、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、その折俊寛は娘からの手紙を受け取りました。上の話では妹尾が俊寛の妻の死を語ることになっていますが、実際にはこの手紙で妻の死を知った俊寛は絶望し、食を断ってひたすら阿弥陀の名号を唱えながら37歳の生涯を終えました。

平安時代の南方方面への流刑は鬼ヶ島以外にも行われていたようで、奄美群島に位置する沖永良部島でも遠島が行われたという記録があり、おそらくここが最南端だったでしょう。

では、北端はどこだったかといえば、「外が浜」がそれであったとされます。現在の 陸奥湾西方にある津軽半島の一部を指す古来の地名で、現代の自治体としては、青森市・蓬田村、外ヶ浜町、今別町、平内町などです。これらはいずれも津軽半島の北のはずれにあたります。
地名の由来は、国土の終端を意味する「率土の浜(そっとのひん)」と考えられています。

中世には、「穢れ」の思想が強まり、「外が浜」は穢れたモノの筆頭としての鬼が棲む地と目されていました。鬼はタブーとして遠ざけられる存在であり、そんな物の怪が棲む場所へ追放されるというのは究極の流刑です。和歌においては、こうした僻地に追いやられた人々に抒情を感じるとして多くの歌人がこの辺縁の地を歌に詠みました。

「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行)
「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家)

定家の歌の「うとう」とは海鳥・ウトウのことですが、歌詠みの間では、外が浜と同じく、最果ての国の代名詞として使われていました。漢字では「善知鳥」と書き、別名「ウトウヤスカタ」とも呼ばれます。体長は40cmほどで、夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができます。アイヌ語でウトウといえば「突起」という意味があります。

長野県塩尻市にも善知鳥峠という標高889mの峠があります。北側(塩尻市側)が急で、南側(辰野市側)は緩くなっていて、その名称は以下の猟師にまつわる民話に基づいています。

ひとりの猟師が北の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴って都に売りに行った。このとき、親鳥が猟師の後を追ってきて、わが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けた。
親子はこれにかまわず険しい峠道に差しかかったが、このときから激しい吹雪に襲われた。

そんな中でも、親鳥はなおも「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けながら追いかけ、その声は麓の村まで響き渡った。吹雪の収まったあと、村人たちが峠に登ってみると、猟師は吹雪のなかで力尽き、わが子に覆いかぶさるように死んでおり、息子はその下で泣きじゃくっていた。

またそのすぐ脇には、死んだ親鳥の姿もあった。同じように下に雛鳥を抱えており、雛は生きて鳴き続けていた。命を賭してわが子を吹雪から守った姿を見た村人たちは、その鳥を猟師とともに手厚く弔い、のちにこの峠を「善知鳥峠」と呼ぶようになった。

室町時代にも能の演目で善知鳥にまつわるものが作られています。旅の僧侶が途中の山で亡霊に出会うという話で、亡霊はかつて猟師で善知鳥を捕獲して生計を立てていました。

ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用し、声真似をして雛鳥を捕まえていました。しかし死後、その悪どいやり方を咎められて地獄に落ち、そこで鬼と化したウトウに苦しめられるようになっていました。

猟師の亡霊は僧侶に地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆き、助けを求めながら消えていく…という話です。別バージョンもあり、その中では猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわります。猟師はその雨から逃れるため蓑笠が必要になったというオチがつきます。

実際のウトウという鳥は、その繁殖地で断崖の上の地面に穴を斜めに掘って巣にします。メスは一度に一個だけここに産卵して両親が交代で45日抱卵します。ヒナが孵化すると、今度は巣立ちまでの約50日間餌を運ぶという子煩悩な鳥です。

ウトウは水中を泳ぎまわって小魚やイカなどを捕食します。繁殖期になると親鳥はイワシやイカナゴを嘴に大量にぶらさげ、鳴き声をあげながら帰ってきます。雛はその声を聞いて出てきますが、「ヤスカタ」と鳴くかといえばそんなことはありません。親鳥は「ウウウウッブェッーッ」鳴き、雛の声はヒヨコの声をソプラノに振ったような声で鳴きます。

それにしてもなぜ、「ウトウヤスカタ」なのか調べてみたところ、これは青森市安方にある善知鳥神社の言い伝えに起因しているようです。その縁起によれば、その昔、烏頭大納言藤原安方朝臣という身分の高い人物が罪を犯し、都から流された後に、安方の浜で没しました。

すると、不思議な鳥が浜辺に降り立つようになり、雄は「ウトウ」、雌は「ヤスタカ」と鳴く事から、藤原安方にちなんでその鳥を「烏頭鳥=善知鳥」と呼ぶようになったといいます。

人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬いましたが、ある日猟師が誤って雄鳥を鉄砲で狙って殺してしまい、他の雄鳥達は急に凶暴化して田畑を荒らすようになりました。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた村人達は雄鳥を丁重にその霊を慰めるため、「うとう明神」として祀り、のちには雄鳥も祭るようになり、その後善知鳥神社と呼ばれるようになりました。

この善知鳥神社は、その昔青函連絡船の発着場があったところからほど近く青森市の中心部にあります。津軽藩の2代目藩主、津軽信枚がここに港を作り発展したため、青森の発祥の地ともいわれています。創建年ははっきりとわからないようですが、航海安全の神として知られる市杵島姫命・多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神を主祭神として祀っています。

版画家・棟方志功は、幼少期をこの神社の近くに住んでおり、よくその境内で遊んでいたそうで、この神社界隈のスケッチを好んで描いていたといいます。昭和13(1938)年に善知鳥版画巻という版画集を帝展に出品しており、これは特選となっています。

まとまったものをどこかで展示しているかどうか調べてみましたがよくわかりません。ただその一部はネットで流通しており、高い値段で取引されているようです。

皆さんもウトウとしていないで、探してみてはいかがでしょうか。