バカボンド

最近、実家がある山口の防府天満宮の周辺がきれいに再整備された、という話を雑誌で知りました。

防府天満宮は、山口県の中南部、防府(ほうふ)市内にある神社です。菅原道真は大宰府に左遷される途中、防府の地に立ち寄ったとされ、道真の没後に「松崎天神」の名で創建されました。

道真が亡くなった翌年の904(延喜2)年がその創建年です。没地である福岡の大宰府で大宰府天満宮が創られたのが919(延喜19)年ですから、「日本最初に創建された天神様」ということになります。天神様といえば、京都の北野天満宮も有名ですが、太宰府天満宮と合わせ、この三社は日本三大天神と呼ばれています。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた門前町です。戦前は山口県下最大の都市である下関市と中国地方の拠点都市である広島市の中間点として銀行や企業の支店・営業所も多く設けられていました。

古くは「三田尻」と呼ばれ、天然の良港であったここは、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍の本拠地でした。幕末には、長州藩が幕府対策のためここに臨時の政庁を構えたこともあります。

瀬戸内海に面しているため、海岸に近い場所ではさかんに製塩が行なわれ、これを原資として町は栄えました。昭和に入り製塩業が廃れたあと、臨海部の塩田跡地には大規模工場の進出が相次ぎ、今度はこれで町が潤いました。

近年ではマツダ防府工場のほか、その他の輸送関連企業、ブリヂストン、協和発酵バイオ、東海カーボンなどの大手企業がここに工場を持っています。人口10万人ほどの町ですが、かなりの割合の人々がこれらの企業もしくは関連企業に勤めています。

山陽本線の防府駅周辺には毛利邸(毛利博物館)、国分寺(周防国分寺)などの観光スポットもあることから、年間を通じてそれなりの観光客がここを訪れます。天満宮への参拝者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。




神社の周辺は「松崎地区」と呼ばれており、その表参道の入り口がある道路は、少し前までは国道への抜け道として使われており、制限速度を超える通過車両が絶えませんでした。

これを懸念した防府市が、単なる自動車の通り抜け道路ではなく、歩行者が安全に街の回遊を楽しめる道路とすることを目指しました。また、イベントなどでにぎわいを創出できるような機能を付加することも検討されました。その結果新プランがまとまり工事に着手、2019年9月にこの街路は生まれ変わりました。

歩車道の境には段差がなく、全面がフラットな状態となり、縁石や柵もないこの道路は16mも幅があります。これまでは狭い歩道を行き交う車に注意しながら天満宮へ向かっていた歩行者が、こうした車の往来をまったく気にすることがなく、安心して参拝できるようになりました。

見違えるように蘇った街並みは「風致地区」としても整備され、その一角には「まちの駅 梅テラス」などの物産店なども誘致されています。

この道路の南側にはまた、並行して「山頭火の小道」という散策路が整備されています。防府の生んだ漂白の自由律俳人・種田山頭火が、生家から小学校まで通った路地裏の1キロ足らずの道です。たどりやすいように辻々には「足跡」の目印が新設され、小径沿いの民家の塀や壁には、故郷を詠んだ山頭火の句が多数掛けられています。

防府は新幹線こそ止まりませんが、3駅隣りの新山口駅で新幹線から乗換え、在来の山陽本線に乗れば15分ほどで着きます。山頭火の小道のある防府天満宮周辺へは、ここから歩いて20分ほどです。途中、上で紹介した、再整備されたばかりの松崎地区を通ります。山口における新観光スポットです。ぜひ一度訪れてみてください。

この山頭火ですが、防府駅前には銅像が立つほどこの町では有名です。無論、全国的にも有名な俳人であり、同じく自由律俳句を詠った尾崎放哉(ほうさい)とともに、新傾向派の俳人として一世を風靡しました。尾崎放哉と山頭火はともに荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)門下にあり、萩原が創刊した自由律の俳誌「層雲」で有名になりました。

師の荻原井泉水は山頭火や尾崎放哉の名に隠れてあまり知られていませんが、自由律俳句のパイオニアとして知られる人物です。二人のほかに正岡子規の高弟として知られる河東碧梧桐も、一時期その門下にありました。

山頭火というのは本名ではなく、1882(明治15)年12月3日に生を受けたときに父母からもらった名は「種田正一」といいます。山頭火の名は、29歳のときに俳人デビューしたときに初めて使った名で、これは中国に起源を発する「納音(なっちん)」という占いに発想を得たものです。

生まれ年や月・日などの組み合わせからなる30の納音の一つである「山頭火」は甲戌・乙亥(きのえいぬ・きのとい)の組み合わせになります。ただ、山頭火の生まれ年の納音は「楊柳木」であり、「山頭火」は、その字面を彼が気に入って選んだだけです。

ちなみに、納音によるある占いサイトによれば、楊柳木の人の性格は、「好奇心が旺盛で、新しい事柄を常に吸収しようとする。ただ、流れに身をまかせるため、その場の勢いに流されが。」だそうです。

また、山頭火は、「ひときわ目立つ、または異色な存在。理想が相当高く、内面はパワーに満ちていて相当な野心家。孤独を愛するナルシストで、人に支持されることで活躍の場が広がる」となっています。

どちらも当たっているような気がしますが、「孤独を愛するナルシスト」というのはとくにぴったりなかんじがします。また多くの人に支持されたことでその活躍の場を広げた、といったことも当たっています。名を変える、というのはそれなりに人生を変える効果があるのかもしれません。




この山頭火が生まれたのは、上の「山頭火の小道」の西の終点付近です。天満宮の参道入り口から西へ600mほど行ったところになります。父・竹治郎はこの地の大地主で、種田家は地域の人々からは「大種田」と尊敬され、幼いころの山頭火は多くの使用人に囲まれて成人しました。

父竹次郎は役場に勤めており、その関係から時の政友会とのつながりができました。やがて自らも政治にかかわるようになり、熱くのめりこむようになっていきました。女癖が悪く、政治と女道楽に放蕩の限りをつくしたあげく、嵩んでいった出費によってやがて屋台骨はぐらついていきました。

妻はフサといいました。こうした夫の放蕩に心を痛めるとともに義母からも「嫁のお前が悪いから」と責められ、やがてその責に耐えかねて屋敷内の古井戸に身を投げてしまいます。山頭火11才のときのことであり、のちに山頭火が放浪の生活を送るようになったのは、この母の自殺が遠因にあるといわれています。

14歳で、三年生中学の私立周陽学舎(現県立防府高校)へ入学。このころから本格的に俳句を始めました。ここを首席で卒業後、20キロ離れた山口市内にある県立山口尋常中学(現県立山口高校)の四年級へ編入。

防府から離れていたともあり、ここではあまり親しい学友もおらず、週末になると土曜日には防府と山口の間にあるトンネルを抜けて実家のある防府へ帰るのが常だったといいます。ちなみに、このトンネルは佐波山トンネルといい、山陽にある防府と県庁のある山口を結ぶために1887(明治20)年、に完成しました。

かつては佐波山洞道と呼ばれ、その長さ518mは、開通当時道路トンネルとしては日本第3の長さでした。2009年の平成21年7月中国・九州北部豪雨の際はこのトンネル周辺で鉄砲水が出て、死傷者を出したことで全国的に名を知られました。

山口尋常中学は長州藩の藩校である「山口明倫館」が前身であり、山口高校となった現在でも県下屈指の名門校として知られています。山頭火は19歳でここを卒業すると、東京へ出て私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科へ入学しました。

翌年同予科を卒業すると早稲田大学文学部文学科に入学しますが、神経衰弱のため退学。しばらく東京に留まりまっていましたが、やがて生活費も底をつき、山口へと帰郷しました。

この頃、その生家は相場取り引きに失敗して没落していました。父の竹次郎はその立て直しのために先祖代々の家屋敷を売り、これを元手に近くの大道村(防府市大道)にあった古い酒造場を買収し、「種田酒造場」として酒造業を始めました。山頭火にはほかに4人の兄妹がおり、一家でこの工場に移り住んで、父を手伝い始めました。

翌1909(明治42)年、27歳になった山頭火は、佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚しました。このサキノとの間には翌年に子供ができ、健(たけし)と名付けられました。

結婚して一児を得るという慶事が続きましたが、このころ父の始めた酒造業はあまりかんばしい状態ではありませんでした。もともと勤勉な性格ではなく、所詮は親のすねかじりで育ったおぼっちゃんに地道な商売ができるわけはありません。酒造場を購入して余った金は運転資金としてストックしていましたが、それもすぐに尽きてしまいました。

一方このころ、山頭火は徐々に俳人としての才能を見せ始めていました。1911(明治44)年、29歳のとき、 防府の郷土文芸誌「青年」が創刊になると、これに定型句を寄稿しました。またこのころ初めて「山頭火」の名で外国文学の翻訳を発表しています。

それから2年後には 荻原井泉水が主宰・発行する全国誌「層雲」に、初めて彼の投稿句が掲載されました。荻原に認められた山頭火は、このころから俳号にも「山頭火」を使い始め、編集兼発行人として個人で文芸誌「郷土」を創刊。「層雲」でも頭角を現し、俳句選者の一人にまでなりました。

ところがちょうどこのころ実家の「種田酒造場」が倒産。父は家出し、ほかにいた4人の兄妹も離散してしまします。山頭火は妻子を連れて夜逃げ同然で九州に渡り、友人を頼って古書店を熊本市内に開業しますがこれも失敗。後に額縁店を始めますがこれも失敗し、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京、薄給で図書館勤務をするようになりました。

山頭火38歳。やがてこのころ住んでいた下宿に熊本にいる妻から離婚状が届きます。八方塞がりとなった山頭火は神経症を患うようになり、勤めていた図書館も退職。さらに追い打ちをかけるように翌1923(大正12年)には関東大震災に遭って焼け出されてしまいます。

途方に暮れた彼は熊本に帰り、頭を下げて元妻フサの家の居候となりました。このころ山頭火は、熊本市内で泥酔し市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こします。

一説によれば生活苦による自殺未遂だったのではないかといわれていますが、急停止により市電の中で転倒した乗客たちは怒って彼を取り囲みました。このときたまたまその市電に乗っていたのが顔見知りの新聞記者で、見かねた彼は山頭火を市内の知り合いの寺に連れていきました。

この寺は禅寺で、曹洞宗報恩寺といいました。ここの住職望月義庵師の得度を受け、翌年出家して耕畝(こうほ)と改名。同じ曹洞宗瑞の寺で熊本郊外にある泉寺内の味取(みとり)観音堂の堂守となりました。しかし堂守をやっているだけでは食べてはいけません。このため、山頭火は町へ出ては托鉢(たくはつ)を続けるようになりました。



それから1年余が経った1926(昭和元)年の春、尾崎放哉が41歳の若さで死去。山頭火はこの3歳年下の兄弟弟子の死に大きなショックを受けます。と同時に晩年放浪を続けていた放哉が作り上げた作品世界に改めて共感し、自らも旅に出ることを決心します。

法衣と笠をまとうと鉄鉢を持ち、寺を出て旅立ったのが1925(大正)15年のことで、山頭火は43歳になっていました。バガボンド(漂泊者)の誕生です。

このとき詠んだ句が、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」というものです。行乞(ぎょうこつ)とは、食べ物の施しを受ける行のことで、この貧乏旅はその後7年間も続くことになりますが、しかしその中で多くの名作が生まれていきます。

熊本を出て山頭火が最初に向かったのは宮崎、大分でした。九州山地を進む山頭火が、旅の始めの興奮を歌にしたのが次の句です。

「分け入っても分け入っても青い山」

その後、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から「層雲」に投稿を続けましたが、7年後の1932(昭和7)年、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)でようやく長い旅に終止符を打ち、草鞋の紐を解きます。

そして小郡の地に「其中庵」という粗末な庵を設けました。このころ体調はさらに不安定で、精神面でも不安定となり、あるとき睡眠薬を多量に飲んで自殺未遂を計りました。しかし眠っている間に体が拒絶反応して薬を吐き出し、一命を取り留めました。

郷里にはその後4年ほど過ごしましたが、やがて体調も回復したことから、1936(昭和11年)、山頭火は雲水姿で再び旅に出ます。この時の旅は信州方面で、山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、やはり数々の作品を残しています。

その後も東北地方などを旅しますが、翌年には無銭飲食のうえに泥酔したことで、警察署に5日間も留置されています。

やがて再び山口に帰ったのが56歳のとき。このときかつて住んでいた其中庵は積年の風雪で朽ち果て、壁も崩れてボロボロになっていました。このため新しい庵を探し、ようやく見つけたのが、市内の湯田温泉にある竜泉寺という寺の一角でした。四畳の間にすぎないここの小さな部屋を借り、「風来居(ふうらいきょ)」と名付けて住み始めます。

しかし、やはりここにも落ち着かず、翌年の春先には今度は近畿から木曽路を旅しました。今度の旅には一つの目的があり、それは井上井月の墓への巡礼を果たすことでした。

井月は、信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた幕末の俳人です。その墓参を果たした山頭火は、「お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました」と詠んでいます。

やがて旅を終えた山頭火は、すぐには山口に帰らず、今度は四国に渡り、香川県の小豆島で放哉の墓参をしています。尾崎放哉は晩年、荻原井泉水の紹介で小豆島霊場第五十八番札所、西光寺奥の院の「南郷庵」に入庵し、ここで亡くなっていました。

この墓参のあとも結局は山口に帰らず、年の暮れに松山市に移住し終の棲家となる「一草庵」を結庵。秋も深まる10月10日の夜、ここで仲間を集めて句会を行います。

いつものように酔った彼は隣室でイビキをかいて寝ていました。このとき仲間は山頭火が酔っ払って眠りこけていると思っていましたが、このとき実は脳溢血を起こしていました。

会が終わると皆、山頭火を起こさないようにと帰りましたが、そのうちの一人が妙に胸騒ぎを感じました。しかし夜も更けていたので早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していました。推定死亡時刻は10月11日の推定4時。1940(昭和15)年)のことで、59歳になる2ヵ月前でした。

山頭火は生前から“コロリ往生”を望んでいたといいます。その通りとなり、満足であったかもしれません。辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」というもので、長年旅を続け、奔放な人生を送った山頭火は、この句を残して盛り上がる入道雲の中へと消えていきました。

彼の墓は、生地の防府市内にある護国寺にあります。上の防府天満宮から西へ1.5kmほど離れたところで、その墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られています。

山頭火が亡くなったとき、一人息子の健が満州から駆け付けたといいます。彼はその後、満州に渡り満鉄(南満州鉄道)に勤務していました。父の死を知ったのは母のフサが知らせたからでしょう。

その元妻、フサの墓もまた山頭火の隣にあります。フサが住んでいた熊本市の安国禅寺にも山頭火の分骨墓があるといい、おそらくはいずれも息子の健が建てたものでしょう。山頭火の放浪によって家族はバラバラになりましたが、その死は再び家族をひとつに結びつけたといえるでしょう。