孤独なやつら

先日のブログで書いた山頭火の生涯をみると、どうしても「世捨て人」という言葉が頭に浮かんできます。

「世捨て人」は英語では、“anchorite”といい、同じく英語の類義語には“hermit” というものもあります。こちらは「隠者」と訳され、いずれも古き時代の知識人を表す言葉であって生活の在り方は似てはいますが、本来別のものです。

そもそも、こうした人々が現れたのは、中世ヨーロッパで広く普及したキリスト教のためです。この宗教は貧困に積極的な価値を与えており、とくに財貨や家郷も捨てて貧困を求めることを潔しとしました。生活苦による貧窮などではなく、自発的に質素な生活を送ることを是としたこの思想からは色々な生きざまが生み出されましたが、そのひとつが「隠者」です。

富を捨て、一般社会との関係を絶つことを「隠遁(いんとん)」といいます。本来は質素な生活の中で生の全てを神への賛美と愛に捧げるという意味の宗教用語であり、キリスト教ではその根拠を聖書に求めました。隠者達はこの中でもとくに旧約聖書に書かれた「砂漠の神学」というものを信奉し、それを学ぶために隠遁生活を送るようになりました。

その起源は、西暦250年ごろ、エジプトで生まれた大アントニオスと呼ばれる聖者だとされます。アントニオスは20歳になった頃両親と死別、その後財産を貧しい者に与えました。そして自らは砂漠に籠もり、105歳で亡くなるまで苦行生活に身を投じたといいます。

隠者を意味する“hermit”は、「人里離れた」、「そして砂漠に住むもの」という意味のラテン語が語源です。かつてのキリスト教徒の隠者は、この大アントニオスにあやかり、「隠者の庵」と呼ばれる人里から隔絶された場所に住むことに生きる意味を見出そうとしました。

その庵は文字通り砂漠の中にあり、あるいは森の中や自然の洞窟であったりしました。富を捨て、高い宗教的な信念を持つ彼らは人々の尊敬を集め、精神的な助言や答申を得るため、あるいは弟子になるため遠路はるばる訪ねてくる人も多数ありました。しかしあまりに多くの弟子をとったために、物質的な意味では孤独ではなくなってしまう隠者もいました。

物質的といえば、隠者といえども食がなければ生きてはいけません。このため初期の隠者達は蔓や小枝で籠を織り、これとパンと交換して生計を立てていたとされます。

もともとは砂漠の民でしたが、やがては町中に住まうようになる隠者も出てきました。生計を立てるためには籠編みだけでは苦しいため、やがては門番や渡し守といった仕事をするようになり、町に住みついて人目にも頻繁にふれるようになっていきました。そしてこうした隠者のことを人々は「世捨て人」と呼ぶようになっていきます。

世捨て人たちはたいてい教会の敷地の中に建てられた小さなあばら家か独居房に住んでいました。聖壇の裏に設けられており、そこに小さな窓が備えられていました。世捨て人を人目にさらすことなくミサ(典礼)に参加させ、聖餐に与らせることができるようにする仕組みです。世捨て人の助言を求める人はその窓を使って彼・彼女に相談することができました。

独居房には、もう一つの窓が通りか共同墓地に開かれており、慈悲深い街の人たちが食料その他の生活必需品を届けてくれました。彼らの生活はこれによって成り立っており、それは教会との約束、もしくは契約の上で成立する生活でした。そうした意味で、この時代の世捨て人というのは、ある種の「職業」といっていいかもしれません。




中世のヨーロッパでは、こうした隠者や世捨て人が普通に見られましたが、一方では隠遁者になるのは実は非常に難しいと考えられていました。それなりの学識が必要だからです。それだけに憧れを持つ人も多くいましたが、教養というものは一朝一夕で身に着きません。

そこで、「巡礼」というものがこのころ流行り始めました。日常的な生活空間を一時的に離れて、聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動です。より高尚な言い方をすると、「日常の俗空間から離脱し、非日常空間あるいは聖空間に入り、そこで聖なるものに接近・接触し、再びもとの日常空間・俗空間に復帰する行為」です。

一時的な世捨て人ともいえ、領主権力からも共同体からもその保護を離れ、いわば個人として社会に露出した状態です。ただ単に旅に出るだけなら高度な教養を身に着ける必要はなく、思い切って家を出れば、世捨て人と同じように他人にはばかられることなく神と対面できます。いわば世捨て人の大衆版であり、多くの人がそうした流浪の旅を夢見ました。

こうした巡礼は世界中の宗教にみられます。共通点は、宗教儀礼であるという点であり、多くの場合目的地を伴います。たとえばキリスト教やイスラム教のように一つの聖地を訪れる直線型のほか、インドや東洋で見られる複数の聖地を巡る回遊型があります。日本の四国のお遍路も巡礼のひとつであり、こちらも回遊型といえます。

ところがこうした宗教や目的地に縛られることなく旅に出て自らを開放したいという人々もおり、こうした人たちの旅は、巡礼とはいわず、「放浪」と呼びます。あてもなくさまよい歩くことであり、英語では“wandering”で 、「放浪者」は“wanderer”です。日本語では、さすらい、流浪、彷徨ということもあります。

本来、欧米では家畜を保有する遊牧民が生活のために行う行為でした。このため“nomad”(ノマド )という言葉もあり、これは牧歌的放浪を意味します。ほかに放浪を意味する言葉には“roam(ローム)”、や“vagabond(バガボンド)”、“stroll(ストロール)”、“drifter(ドリフター)”などがあり、それぞれニュアンスは異なり、微妙な使い分けをします。

例えばロームは、なんのあてもないまま歩き回るという意味であり、ストロールとは、散歩などの場合にぶらつくというような場合に使います。またドリフター、バガボンドなどはそれぞれ日本語では、漂泊者、異邦人といったふうに訳されます。

「放浪」はこれらの総称といってもいいでしょう。何のための放浪かといえば、巡礼のように何か目的があってのものではありません。目的があるとは限らず、人生の意味を求めて、といった漠然としたものもあり、特に何の意図を持たずに放浪を繰り返す場合もあります。

こうした放浪の旅をする人達の中には、そこでの体験やそこから得た印象を文学や絵画、その他の芸術に反映させて輝く人もいます。放浪を愛する文化人は古今東西後を絶ちません。
日本では西行法師がおり、俳人の松尾芭蕉や井上井月、現代では画家の下清や棋士の間宮純一などがいます。山頭火とその兄弟弟子の尾崎放哉も晩年放浪生活を送っています。




こうした放浪者に共通しているのは、周囲の人間との関わりを絶ち、できる限り「孤独」になりたがるという点です。この点、世捨て人や隠者も同じであり、修行の一環として自ら人間関係を断ち、孤独に籠もります。こうした行為は世界中でみられます。

インドでは、放浪の旅に出て瞑想の修行や苦行に励む人々がおり、僻地で一人でいる姿を現在でも目にすることができます。お釈迦様も孤独な苦行を体験し、最終的に辿り着いた境地、涅槃(ニルヴァーナ)も菩提樹の下に一人で居たときに得たとされています。日本でも山伏のような行者が修験道のため山に一人で籠って修行をします。

また「哲学」をするために孤独になる、ということもよく言われます。ドイツの哲学者マックス・シュティルナーは「孤独は、知恵の最善の乳母である」という格言を残しています。孤独状態において人間は自分の存在などについて深く考えることができるようです。

その結果、創造性、想像力などが身につくと多くの哲人は結論付けており、このような精神の働きは心理学的にみると「昇華」と呼ばれています。孤独であることから生み出され、花(華)開いた芸術作品は数多く存在します。

放浪を愛する人たちは、こうした寂寞とした心理を表現することに秀でています。孤独によって「増した愛」を濃密に描き出すことで芸術の極みを達成するのです。このため人によっては、人知を超えた高次の存在を表現することに成功する人もいます。

こうした「望んで孤独を楽しむ」という文化性は、日本や中国などの東洋よりも個人主義の傾向が強い欧米のほうが顕著なようです。例えば、イギリスでは、社交会場にて壁際で佇んでいる人にむやみに声を掛けることは、むしろマナー違反とみなされる場合があります。せっかく孤独を愛しているのに邪魔をしては悪いと判断して放っておくのです。

一方「同胞社会」の日本では、孤独は社会から孤立していることと同義に扱われる傾向が強いようです。日本と同じように孤独が「良くない状態」として見られる社会や文化は多く、孤独と見られる状態にある者には、積極的に他者が働き掛けることこそが美徳とされます。

孤独な人には悪霊が付くと信じている民族もおり、南太平洋のトロブリアンド諸島やアマゾンの先住民などがそれで、呪術的な意味合いから孤独な人に「声を掛ける」といいます。
ただ、孤独といっても、多くの状態や種類があります。孤独感には自分と他者・世界との関係で捉えたものや、自分ひとりの中で完結する孤独など様々な視点からのものがあります。

大勢の人々の中にいてなお、自分がたった一人であり、誰からも受け容れられない、理解されていないと感じている場合、たとえ他人がその人物と交流があると思っていても、当人がそれを感じ得なければ、孤独です。その逆もありえなくはありません。自分は孤独ではないと思っていても、周囲から孤立している場合のそれは孤独といえます。

孤独な人を周囲はとかく助けてあげたくなり、すぐに声をかけがちです。しかし、暗く沈んだ気持ちの孤独者への励ましは、むしろストレスとなることもあります。特に鬱病の人に対してはついつい激励をしてしまいがちですが、医学的にはむしろ禁忌だそうです。

いわゆる「引きこもり」もそうしたうつ精神疾患の一つといえ、日本では深刻な社会問題になりつつあります。内閣府の調査では15歳~39歳の若年層では、推計で54万人強、40歳~64歳の中高年層でも推計で61万以上の引きこもりがいるといいわれています。

一般的には「長期間にわたり自宅や自室にこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと」ですが、厚生労働省は、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」とやや具体的に定義しています。

この「さまざまな要因」というところがまさにポイントです。うつ病は一般的には精神疾患と捉えられる向きが多いのに対し、「ひきこもり」は、単純な(あるいは単一な)疾患や障害ではなく、多岐多様な原因があると考える研究者が多いようです。



こうした問題を研究する国の機関、国立精神・神経センター精神保健研究所などもそうした見解を持っています。「ひきこもり」の原因や実体は多彩であり、明確な疾患や障害として割り切ることができないケースが多いと言っています。

また、「長期化」することを特徴としてあげています。この長期化は物的側面、心理的側面からだけでなく、社会的側面などから理解すべきであり、病気として扱うよりもむしろ「精神保健福祉の対象」と考えるべきだとし、医者が扱う類のものではなく福祉の対象として考え、例えば社会福祉士のような立場の人が扱うような問題であるとしています。

このため、面接や電話相談、家庭訪問、家族やグループによる心理的教育のほか、緊急時には保健所や精神保健福祉センターに助けを求めることを推奨しています。またこれらの機関が開催するケア会議によって介入、保護、分離などの選択をします。「治療」ではなく社会全体で個人を支える福祉的な対策の方向性が示されているのです。

ひきこもりは病気ではないんだよ、みんなで考えていけば元の世界に戻れるんだよ、と本人だけでなく、周囲も理解することがその解消につながっていくというわけです。

それにしても、引きこもりというのはどういう人たちがなりやすいのでしょうか。

上の病気ではないという主張と矛盾しますが、一般的には、児童青年期に発症する精神疾患に原因があるとされています。また、引きこもりとの明確な関連性は明らかになってはいないものの、発達障害や適応障害、パーソナリティ障害、統合失調症といったよく見られる精神疾患の他、ゲーム依存症、インターネット依存症などが引き金になると考えられています。

さらに、健全な親子関係の構築に失敗した家庭では引きこもりが発生しやすいといわれています。これは、親子という上下関係の不明確な家庭で育つことにより、人間関係の構築の基礎ができず、人間不信になった状態です。

いじめがきっかけで引きこもりが発生するケースも多く、学齢期に不登校だった状態がそのまま続いてひきこもりになる人が多くいます。一方、社会人になった後に引きこもりになる人も少なくはなく、職場の人間関係の悪化や、セクハラ、リストラなどの要因から心をすり減らし引きこもりになった人も多いようです。

加えて日本では「追い出し部屋」というのがあります。これは従業員を「自己都合退職」に追い込み、「会社都合」で退職させないための部署で、ここへ配属されたことで引きこもりになる人も多いようです。日本では終身雇用のレースから外れると不利な境遇に陥ることも多く、いったん社会の枠組みから離脱してしまうと、引きこもり予備軍になりがちです。

厚生労働省の調査によれば、引きこもりになる人には男性の方が多く、全体での割合は6〜8割だといます。また、高学歴の両親がいる家庭に多い傾向にあり、さらに従来は30歳以下の若年層が多かったのに対し、最近は高齢化が進んでいることが指摘されています。

これは、高齢になってから引きこもりになるのではなく、若いころに引きこもりになったまま年齢を重ねて高齢になる人が増えているということを示しています。事実、引きこもりの平均年齢は年々高齢化しており、また当事者を養っている親も高齢化しています。

養い親が老年期に入ると、経済的・体力的に行き詰まってしまう場合があります。このため、当事者である無職の子が親の死後に衰弱死・自殺したり、親の死を届け出ずに罪に問われるケースなども報告されています。親が死去した場合、死亡届以外にも多数の手続きがあり、社会的能力の低い人間にとっては自力で解決することは難しくなります。

さらに、引きこもりの子を持つ家庭では「家の恥」だという意識からこれを隠そうとする傾向があります。当事者も家族も「自分は問題になっていない」「引きこもっているわけではない」と思いこんで相談しないため、問題が表面化しないのです。

老年退職後、友人にも会社の同僚にも誰にも問題を相談できないまま、次第に人脈を失い情報も途絶えていく人も多いようです。こうした場合、家族ごと引きこもり状態になって埋もれていき、最後には行き詰まって、心中や餓死といった悲劇が起きることさえあります。

めったに外出もせず外で見かけないので、近所からは一人暮らしだと思われていた家で、実際には引きこもりの子供がおり、親子が死んではじめてその存在が明らかになる、といったショッキングな事例もあります。

一方、こうした引きこもりについては、「甘えている」、「怠けている」、「親の育て方が悪い」、「自己責任がとれていない」、といったふうに受け取る人も多いようです。引きこもりは犯罪予備軍という誤解を持つ人すらいます。

実際、AKB48握手会傷害事件(2014)、東海道新幹線車内殺傷事件(2018)、川崎市登戸通り魔事件(2019)の犯人は引きこもりの生活状態や経験があったそうです。引きこもりが起こした事件が大々的に報道されるたびに彼らはさらに引きこもるようになっていきます。

深刻な社会問題として発展しつつある引きこもりに対しての対策を国も考えてはきているようですが、具体的な対策については、まだ試行が始まったばかりで先は見えません。



実はこうした引きこもり問題は日本だけではなく、世界的な問題にもなりつつあります。イギリスやイタリアなどでも目立ってきており、同様の現象は、韓国、台湾、香港、アメリカ合衆国、オーストラリアなど多くの国、特に先進国で普通にみられるようになってきました。

オックスフォード英語辞典には「hikikomori」の表記で収録されています。そこには“社会との接触を異常なまでに避けること”、“一般的には若い男性に多い”という説明がなされているそうです。こうした有名辞典への収録は、世界的な風潮である証拠です。

こうした世界的な引きこもり拡大を背景に、引きこもりに関する研究も進んできました。海外での最近の研究では、孤独感を感じるといった感受性は「他人を信頼できるか」といった相手の人格や感情への「期待」と関係があることが分かってきています。

有益な交友関係を築くことを「ソーシャルキャピタル」といいます。その量や質が引きこもりと関係がある、という説があり、ソーシャルキャピタルは、主観的な「幸福量」を決定する上で重要なファクターで、これが欠落した状態は幸福量が少ない状態といえます。その減少によって人によっては心身の健康を害し、やがては引きこもりになっていきます。

このほか、孤独感の感じやすさは、怒り、恐れ、喜び、悲しみといった情動系よりも、目などの社会信号を知覚する部位に関係があるようだ、とする研究成果もあります。このことは、人と目線を合わせる、といったことだけで、孤独感が和らげられる可能性を示しています。

年齢を重ねると、相方を失う人もおり、また何かと意欲が薄れて活動が鈍くなります。結果として交際範囲が縮小して人や社会とのつながりが減少し、孤独感を感じやすくなります。

残り少なくなった人生の時間的な展望の中では孤独に陥ってしまいがちですが、こうしたときこそ、積極的に外に出ていくべきです。いつもの普段着ではなく、たまにはおしゃれして外出し、すれ違う人たちと目線を合わせるだけで、孤独感は和らぐに違いありません。

秋も深まってきました。暖かくして外に出かけ、道行く人に微笑みかけてみてはいかがでしょうか。