冥途に行きたい

もうすぐ雛祭りです。そしてこの日は私の誕生日です。

官公庁関係の仕事をしている人はほとんどがそうだと思いますが、この時期は一年でも一番忙しい時期です。

私の認識では、誕生日といえば、無事に歳を重ねたことを祝い、飲んだり騒いだりしてくつろぐものです。が、これまでの人生では、そうしたことをやる元気もないままこの日を迎えることも多く、なんでこんな時期に生まれたんだろう、と時に恨めしく思ったりもしました。

おそらくそう感じるのは私だけでなく、他の多くの3月生まれの人も同じでしょう。もしかしたら2月生まれの人も同じようにプレッシャーを感じているかもしれません。

では、4月生まれの人にストレスはないのかといえば、そうではないでしょう。4月といえば何かと新しい行事が入ってきますし、学校や会社の新年度が始まります。社会全体もこの時期が一年のスタートとされることが多く、何かとせわしない気持ちにさせられます。

その後の5月はどうかといえば、この時期は年度明け以来の疲れが溜まってくる時期です。「五月病」という言葉があるように、精神的に何かと不安定になることが多いものです。

ほかの季節にもそれぞれ何かとストレスの要因はあります。6月以降はうっとうしい雨の季節ですし、夏は暑くて、私的には一番嫌いな季節です。涼しくなった秋口一番が落ち着くという人も多いでしょうが、季節の変わり目で体調を崩しやすく台風などの天変地異が多い時期です。年末にかけては「師走」の名の通り、何かと気ぜわしくなります。

一年の始まりは、といえばそれこそ一念発起が必要です。結局のところ、年間を通して全く気が休まる時期というのはないように思えます。春だろうが夏だろうが関係なく、我々は季節や時期を問わず、何等かのストレスと向かい合って生きていかなくてはなりません。




それにしても、フラストレーションのまったくない世界というものはないのでしょうか。心理学では、ストレスや不安が無く、限りなく落ち着いた精神状態でいられる場所のことをコンフォートゾーン(Comfort zone)というそうです。

「快適な空間」を意味します。ソーシャルワークの研究家ブレネー・ブラウンは、「不安、欠乏、及び心の傷つきが最小限に抑えられており、十分な愛、食料、能力、時間、賞賛を得ることができると信じられる場所、そうしたものが整えられている場所」と説明しています。

文学的にはこうした「心地よき場」のことを、「ロクス・アモエヌス」というそうです。安全で快適な理想的場所を指す概念で、例えば日陰の芝生、開けた林、のどかな島といった場所が考えられ、しばしばエデンの園がその代表として引き合いに出されます。

イギリスの思想家トマス・モアは、こうした楽園を「ユートピア」と表現しました。ギリシア語の ou(無い)と topos(場所) を組み合わせたもので「どこにもない場所」という意味です。

1516年に出版した同名の著作に登場する架空の国家名で、日本語では「理想郷」と訳されました。モアは絶対に存在しない理想社会としてこれを描きましたが、その意図とするところは現実の社会と対峙させることによって、現実への批判を行うことでした。

モアによればユートピアは約800×300kmほどの巨大な三日月型の島にあります。これはだいたい日本の半分ほどの大きさです。元は大陸につながっていましたが、建国者によって切断され、孤島となりました。島の外側を一周する川があり、その中にさらに島があります。

この海と川で二重に外界から守られた島がユートピア本土で、中には54の都市があり、各都市はそれぞれ1日で到達できる距離に建設されています。各都市にはおよそ6千戸が所属し、計画的に町と田舎の住民の入れ替えが行われます。

各家庭は30戸ごとにファイラークという組織によって管理され、さらに10グループごとに、ベンチーターという小組織の監督下に置かれ、町長はベンチーターから選ばれます。各家庭に10~16人が生活し、家庭や町の人口が均等になるよう人数調整されています。住む家は10年ごとの輪番制で決まります。

大陸本土には植民地が用意されていて、島の人口が過剰になったときには、ここに移されます。逆にユートピアが人口不足になった場合には入植地から呼び戻されます。




法律はあえてシンプルに制定されているために島民全員が理解しており、善悪の判断に迷う必然性がありません。したがって弁護士というものはいません。行政当局や聖職者には学者が採用され、子供たちの初期教育に当たらせています。他の市民も全員が余暇の時間に学習に勤しんでおり、勉学が奨励されています。

ユートピアでは個人資産の所有は認められていません。人々が必要とする品々は倉庫に保管されていて平等に分配されます。島で最も重要な仕事は農業で、男女共に農業を学び、最低でも2年間田園地帯に住んで農耕に従事する義務があります。また市民は、織物業、木工業、鍛冶、石工などの商工活動を少なくとも1つ学ぶ義務があります。

すべての人がこうした商工活動でできた同じデザインのシンプルな服を着ており、凝った服を作ったり着たりする人はいません。勤労義務があり、ゆえに基本的には失業というものはなく、労働は一日6時間と決められています。が、多くの人が喜んで残業をしています。

全員に均等に徴兵義務がある一方、女性には社会的平等が与えられていません。妻は夫に服従し、家庭の仕事に従事するよう制限されています。女性は男性より下位に置かれており、月に一度、夫に自分の罪を懺悔します。

奴隷はユートピアでの生活に必須であり、全ての家庭に2人ずつ配置されています。彼らの出身は他国であることもあれば、ユートピア出身の元犯罪者のこともあります。素行が良い奴隷は、定期的に解放されます。

特筆すべき点は、この元犯罪者は金製の鎖に繋がれていることです。この国では金に価値を見出す者はいません。金はこの国の国有財産の1つですが、鎖や手錠のように犯人を拘束したり、便器のようなものに使われます。

市民は金銭を嫌悪し、「質素」を尊重しています。財産といったものにもほとんど価値がないと考えられており、金銭は諸外国から必需品を購入するときや、外国の土地を買収するためだけに使われます。

医療費はすべて無料で、安楽死が認められています。結婚が奨励されており、聖職者の結婚も認められています。ただ離婚や婚前性交渉は罪に問われます。姦通の場合は身分を奴隷に落とされます。生涯独身の場合も奴隷の身分に落とされます。

食事はそれぞれの町の食堂でとり、配膳や皿洗いの仕事は輪番制で各家庭が行います。原則、全員が同じメニューの食事をとりますが、老人と行政官にはより良い食べ物が回されます。島内は自由に旅行できます。ただし、許可証なしで旅行すると奴隷に落とされます。

ユートピアでは、ギャンブル、狩猟、化粧、占星術は全て禁止されていますが、宗教は自由です。多くの人が太陽・月・惑星を崇拝し、祖霊信仰、唯一神教なども信じられています。キリスト教も浸透し始めていてそれぞれは他の宗教に寛容です。無神論者もいますが、国家に対する脅威と見なされ、追放はされないまでも人々に軽蔑されています。

なぜなら神を信じないような人には、ユートピアの社会生活の意義を理解できるわけがないと信じられているからです。そういう人は自身の利益のためなら法も簡単に破るだろうと誰もが思っています。無神論者にはその誤った信条を正すため、聖職者と討論し、間違いに気付くようにすることが奨励されています・・・・・




いかがでしょうか。「理想郷」というわりには、何か息苦しさを感じさせる内容です。一見すると平和で秩序正しい理想的な社会にも見えますが、徹底的な管理により人間の自由が奪われていて、現在の共産主義国家を思わせます。実際、社会主義の提唱者のマルクスやエンゲルスは、ユートピアという言葉をその持論展開に使っていました。

モア自身は元々法律家で、イングランド王に仕えました。官僚で最高位の大法官に就任したあと、3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒で、国民にもその教えを強要しましたが、王に対してもそうで、ヘンリー8世が離婚問題を持ち出したとき、それを正当化するいかなる根拠も無いことを告げました。

それがあだとなり、反逆罪とされてロンドン塔に幽閉され、1535年7月6日に斬首刑に処されました。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われています。その首はロンドン橋に晒されました。

ユートピアは、カトリックの厳格な教えを人々に守らせたいと考えたモアが、寓話として書いたものにほかなりません。自分の理想をユートピアという形で示しましたが、そこに至るプロセスについては何ら触れていません。実際に現実社会で実現するのは不可能と考えていたからでしょう。

ところが、イタリアのフランシスコ会のバスコ・デ・キロガという修道士がモアのユートピアを真に受け、これを実現しようと考えました。

フランシスコ会はカトリック教会の修道会で、アメリカ西部やメキシコで布教活動を行っていました。キロガもそのひとりで1530年ごろにメキシコ市郊外に「サンタ・フェのオスピタル」と呼ばれる集合体を作りました。これがその実験施設だったと伝えられています。

さらに、16世紀にスペイン帝国が新大陸に入植した際にも、同じカトリックの布教組織、イエズス会がこれを実現しようとしました。原住民の文化や秩序を白紙状態から作り直すチャンスを得た彼らは、入植開始からすぐに南米中央のパラグアイでその実験を行い、グアラニー人という部族の部落でユートピアを実現しようとしました。

このユートピアはその後18世紀の後半まで続いたとされますが、その後イエズス会の衰退により消滅しました。ローマ教皇にだけに忠誠を誓う彼らを苦々しく思っていたスペイン王室は、1768年にイエズス会を追放することを決定。イエズス会は南米からも撤退することになり、パラグアイのユートピアは崩壊しました。

もし、そのまま続いていれば、この国は早晩、キューバとともに共産主義国になっていたかもしれません。ちなみに、中南米にほかに共産国家はありません。エルサルバトルは過去に共産主義国でしたが現在は民主国家です。



このように、ユートピアを実現しようとする実際の試みがありましたが、こうした理想社会の実現は困難だとわかり、その後は文学の世界のみで普及が進みました。ユートピアという語は、その後理想郷を意味する一般名詞となり、類似の作品も多数創作されて「ユートピア文学」として後世に大きな影響を与えました。

イタリアのトンマーゾ・カンパネッラの「太陽の都」(1602年)などがその代表作とされており、近年ではウィリアム・モリスの「ユートピアだより」(1890年)も中世的で牧歌的な理想郷を描いた傑作とされています。

このほか、ジョナサン・スウィフトの「ガリヴァー旅行記」(1726年)は、さまざまな空想都市を描いており、そのいくつかもユートピアに影響受けて描かれたものとされています。たとえば、空中都市「ラピュータ」などがそれです。

漂流中だったガリヴァーが巨大な鳥に助けられて飛んで行った先は、日本のはるか東にある島国でした。この国には、上空にラピュータという「浮かぶ島」がありました。

ラピュータは底部のアダマント(ダイヤモンドやその他の宝石、他の金属など非常に堅固な物質の集合体)に連結されており、この巨大な天然磁石の磁力によって、眼下の島国、バルニバービの領空を自在に移動することができました。

この浮島の男たちは音楽、天文学、数学などに熱中し、現実離れした抽象の世界に遊んでいました。表向きは勤勉そうですが、その学問は学問のための学問に過ぎません。いつも沈思黙考していて上の空であるため、頭や目を叩いて正気に戻す「叩き役」を連れ歩いています。

一方、ラピュータの女たちは夫を馬鹿にして、眼下のバルニバービに逃亡して情交にふけることばかりを夢見ていました。バルニバービ国は本来豊かな国でしたが、天上の首都ラピュータに搾取される存在であり、その住民には生気がなく町や村も荒れ果てています。



バルニバービにはラピュータに留学し、ここの科学にかぶれて帰郷した者が多数いました。彼らは肥沃だった田園地帯を更地にし、伝統的な農法をやめさせました。そしてラピュータで開発された実験的農法をここで実現しようとしたため、国土は荒れ果てていきました。

このため各地で農民がたびたび反乱を起こしていましたが、その度に国王はラピュータを反乱地の上空に急行させて太陽や雨を遮り、罰としてその農業を破滅させ飢餓や病を与えました。時には反乱軍めがけて投石し、街ごと押し潰すなどして鎮圧しました・・・・・

その後ガリヴァーはバルニバービを離れて日本に行き、江戸で「日本の皇帝」に拝謁を許される、というふうに話は続いていくのですが、本稿の主旨からはずれるので、この話はここでやめておきましょう。

おわかりのようにこの話はかなり脚色されています。が、地上のバルビーニが現実社会であるのに対し、空中のラピュータは楽園都市である、といったところはモアのユートピアの内容を踏襲しているといえます。

このように過去のユートピア文学で表現されてきた「理想郷」には共通点があります。その特徴を挙げると、まず、周囲の大陸から隔絶した孤島である、ということがあげられます。

また科学よってその自然は無害かつ幾何学的に改造されています。物理的にも社会的にも衛生的な場所で、病原菌などは駆除されて極めてクリーンです。社会のあらゆるところに監視の目が行き渡っているため犯罪の起こる余地もありません。

そこに住まう人々の生活は理性により厳格に律せられています。質素で規則的で一糸乱れぬ画一的な社会であって、ふしだらで豪奢な要素は徹底的に排除されています。住民の一日のスケジュールも厳密に決められており、通常は農業に励んでいますが、長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のために使います。

住民はみな質素で清潔な衣装を着け、財産を私有せず、必要なものは平等に分配されます。人は機能・職能で分類され、個々人の立場は男女も含め平等(モアのユートピアは別)ですが、同時に個性はありません。一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難で危険な仕事をさせている場合もあります。

そして、ユートピアは「理想的な社会」であることから、変更すべきところはもはやどこにもありません。したがってその歴史は止まっており、ユートピアは時間のない国でもあります。ギリシャ語で時間を意味するクロノスとユートピアを合わせ、後年、こうした時間のない国を「ユークロニア」と呼ぶようにもなりました。



こうしたユートピアの原理は、モアより数世紀後の概念である共産主義にも影響を与えました。実際、現在の共産主義国には、時計のように正確で蜜蜂の巣のように規則的な社会のイメージがあります。そして大きな時間変化がありません。

かつてのソビエトがそうでしたし、現在のキューバも古き良き時代のままでその歴史は止まっています。中国は少し進歩したようですが、それでも地方へ行くと昔の姿のままです。

一見すると平和で秩序正しい理想的な社会ですが、徹底的な管理により人間の自由が奪われているという点では、民主主義国家とは一線を画しています。我々のように民主国家に住まう人間にとっては理想郷と呼ぶには少々抵抗があります。

ユートピアでは資本の効率的な利用や社会の安全・健康増進・効率化が基本テーマです。唯一の価値観、唯一の基準、唯一の思想による全体の知と富の共有を目指しており、これに反するものを徹底的に排除しているため、抗う者がいないという意味では確かに平和です。

しかし、その実現のためには人間的なものや自由を圧殺しなければなりません。そこに住まう住民は一見幸せそうに見えますが、理性以外のすべてをそぎ落とされてしまった結果、機械的で冷酷な面が強調されるようになっているように思えます。

こうした世界はきっと暮らしにくいに違いありません。これまでに多くの共産主義国家が消滅してきたのはそうしたことが原因なのでしょう。芸術の世界でも、過去に理性を中心としたユートピア的理想主義が蔓延するたびに、これに反発する思想的な動きが起こりました。マニエリスム、バロック、シュルレアリスムなどがそれです。

マニエリスムは16世紀前半、芸術的表現で極端な強調、歪曲が行われるようになったもので、ミケランジェロ等に代表されるルネサンス様式に対する反動的ムーブメントです。またバロックは、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語が語源です。16~17世紀にそれまでの秩序だった芸術を超越する大胆な試みとして登場し多くの人に受け入れられました。

シュルレアリスムは、戦間期(1919-1939)にフランスで起こった芸術運動で、それまで美的・道徳的といわれていた芸術から離れ、理性による先入観を捨てて無意識の探求・表出による芸術活動を目指したものです。「人間性の回復」を目指した前衛運動と言われています。

さらに近年では、「ブレードランナー」のような一見見悪夢のような混沌とした世界が、より人間的な世界と評価されています。例えば、「住みやすさ」をより重視した迷路的な市街地、曲線的な街路を持つ商業地・住宅地、といった「曖昧な街づくり」が人気です。

結局のところ、価値観や基準、思想の統一、知と富の共有といったことを目指す社会は、人間的なものや自由をある程度圧殺しなければ実現しえない、ということなのでしょう。まして、モアが目指したような理性のみを尊重するようなユートピアには曖昧さの巣くう余地はなく、息苦しさを覚えた人々は、どうしても生きにくいと感じてしまいます。

かつて、人間の遥かな祖先は理想郷に住んでいたといわれます。古代ギリシアの叙事詩人のシオドス(紀元前700年頃に活動したとされる)によると、かつて大地および農耕の神であるクロノスが神々を支配していた時代にそうした理想郷があったとされます。

「黄金時代」とよばれ、そこで人間は神々と共に住み生きており、世の中は調和と平和に満ち溢れて、争いも犯罪もありませんでした。あらゆる産物が自動的に生成され、労働の必要はなく、人間は不死ではないものの不老長寿で、安らかに死んでいくことができました。

ところが、クロノスは巨神族ティーターンを率いてオリュンポスの神々と全宇宙を揺るがす大戦争を始め、その結果息子のゼウスによって滅ぼされました。

ゼウスがクロノスに取って代わると、黄金時代は終わりを告げ、白銀時代が来ました。更に白銀時代の人間はゼウスに滅ぼされ、青銅時代が始まりました。以後、神話の英雄が活躍する英雄の時代、歴史時代である鉄の時代と続くにつれ人間は堕落し、世の中には争いが絶えなくなりました。現在我々が住む世界はその延長上にあります。

かつて人間が神々と一緒に暮らしていた時代の世界が真のユートピアだとすると、我々はそこに回帰する必要があります。そのためにはクロノスを呼び戻さなければなりません。ゼウスに敗れたクロノスは他のティーターン族とともに“タルタロス”に落とされました。「奈落」とも呼ばれるこの世界は、現在、地獄と呼ばれています。

クロノスが世界を統治していた黄金時代に、エーリュシオン(エリシオン)という国があったそうです。冥界の審判官を務めるアイアコス、ミーノース、ラダマンテュスが支配する世界で、神々に愛された英雄たちの魂が暮らしていたといいます。

生前正しい行ないをした者が死後に移り住む世界でもありました。気候温暖で芳香に満ち、白いポプラの木が茂っていたというこのエーリュシオンは世界の西の果て、オーケアノス(地の果て)の海流の近くにあったといいます。

「至福者の島」と呼ばれており、当時世界の最西端と考えられていました。中世ヨーロッパにおいても、「幸福諸島」と翻訳され、世界地図にも載っていました。大航海時代の探検家たちの探索の目的となり、近世までそれは行われていたといいます。

仏教の浄土信仰では、冥途とされている国でもあります。私もいつかは行ってみたいものですが、もうすぐ誕生日を迎えることでもあります。ストレスはあるものの、もう少しこの不自由な世界にとどまっていたい、というこの気分をお許し願えるでしょうか。

バシャールになる日

梅の花が咲く季節になりました。我が家にほど近いところにある修善寺梅林でも、梅のほころびが5~6分ほどになっています。

富士山が見えるなど眺めがよいこともあり、ここにはよく散歩に出かけるのですが、それにしてもこの梅林はいつ頃がからここにあるのかな、とふと気になったので調べてみました。

すると、この梅園の隣にある「修善寺自然公園」が1924(大正13)年に開園したことがわかりました。当時の修善寺町の町制施行記念事業として、もみじや赤松が植樹されたようで、これはその後1967(昭和42)年に再整備され、そのとき「民間所有の梅林」を加えて管理するようになったということです。

この「民間所有の梅林」が修善寺梅林のことのようです。がそれにしても、これがいつ造成されたのか、については手がかりがありません。ただ、「修善寺自然公園」が最初に整備されたのと同時期に造成されたのかな、と推測されます、

仮にそれが大正13年だとすると、今年で97年となり、園内の最古の梅の木は100年ほどだということなので、年代的にはだいたい一致します。はっきりとした開設の時期は特定できませんでしたが、1世紀にも渡る歴史があるものだとわかり、妙に納得した気分です。

しかし、伊豆最古の温泉と言われる修善寺温泉はそれ以上の歴史があります。平安初期に開かれたといいますから、1000年以上の歴史があることになります。梅林も100年という長い年月を経ているとはいえ、それと比べればごくごく新しいものということになります。

そういうふうに考えてくると、時を測る尺度というものはまことに遠大なものだなと感じます。

人類の起源はさらに古く600~700万年前くらいだそうです。これに対して地球ができたのは、45億年前だといいますから人類の歴史はそのわずか数パーセントです。人生80年といいますが、それはさらに短く、地球の歴史の長さに比べれば朝露が消えるがごとくのはかなさです。




そんな短い人生を送って何になるんだろう、とついつい思ってしまいがちですが、問題は時間の長い短いではなく、いかにその時間を過ごしたか、というその中身ではないでしょうか。

「今は過去の積み重ね、未来は今の積み重ね」とよく言います。過去の行いや経験を何度も繰り返し、その結果として今があるわけで、今の積み重ねがまた未来を作っていきます。当たり前のことですが、今を積み重ねていさえすれば、未来はやってきます。

ただ、ぼーっと生きているだけの今の積み重ねと、一生懸命生きている中での積み重ねの先にある未来は形が違ってきます。善行を重ねた上での未来と、悪行を繰り返した末にある未来にも明らかな違いがあるはずです。因果応報、六道輪廻はこの世の道理です。

我々が住まう地球も、厳しい環境変化を経験してきたからこそ今の姿になったといえます。かつて巨大隕石の衝突で恐竜は絶滅しましたが、その結果哺乳類が台頭し、人類全盛の時代を迎えました。全く天変地異が起こらない星なら、現在のようにはならなかったでしょう。

少し話が飛躍するかもしれませんが、地球以外の星にもし地球外生命体がいるとして、その生命体が住まう星にももし大きな環境変化がなければ、大した進化はしていないのではないでしょうか。宇宙人もまた「艱難爾(かんなんなんじ)を玉にす」でなくてはなりません。

ただ、そうした著しい環境変化が逆にその生命体の根性をねじまげてしまうかもしれません。育った環境があまりにも悪かったため卑屈になり、「悪い宇宙人」になってしまうということもありそうです。

天変地異などによる災難が起こらなくても、他の星々の隣人たちから侵略される、ということもあり得ます。戦いに明け暮れた結果、自らも侵略的な思想を持つようになり、目には目をモットーとするような過激な思想を持つ宇宙人集団になっているかもしれません。

実際、地球外生命体を研究する人達の中には、そうした心配をする人もいて、いたずらに他の星に向かってメッセージを投げかけるのは危険だと主張している研究者もいます。宇宙物理学者として高名な故スティーヴン・ホーキング博士などもその一人で、地球人が宇宙に対して自らの存在を積極的に発信することには反対していました。




一方、逆に「いい宇宙人」もいるかもしれません。厳しい環境を克服して程よい進化を遂げた結果、慈愛の精神を持つ宇宙人像というのもまた想像できなくもありません。

ただ、あまりにも良い宇宙人なので、我々地球人とのあまりの文明のレベル差を気にし、地球に混乱を与えないよう接触をやめよう、あるいは地球の文明の自力での発展を妨げないようにしよう、と考えているかもしれません。そんな彼らは我々より何枚も上手です。

「動物園仮説」というものがあります。これは宇宙人は地球人の存在を知っているけれども、干渉しないよう自分たちの存在を隠している、というものです。干渉しない理由としては、地球を含む宇宙域が保護区に指定されており、宇宙人が自由に立ち入ることをできなくしているといったことが考えられます。つまり我々は動物園の檻の中にいるというわけです。

そもそもこうした仮説は「もし恒星間航行を可能とする宇宙人がいるなら、なぜこの地球にやって来ないのか?」という疑問に対する答えとして立てられたものです。

こういう仮説を、フェルミのパラドックス(Fermi paradox)といいます。物理学者エンリコ・フェルミが最初に指摘したもので、地球外文明はありそうなのに、そうした文明との接触の証拠が皆無なのはなぜか?という矛盾を指します。

このほかにも、宇宙人は存在し、すでに地球に到達しているけれども地球人の技術が未熟なのでいまだ検出されない、という説があります。いずれも我々が宇宙人を認識できない理由として立てられた仮説です。

一方では、恒星間空間に進出するための進化・技術発展における難関を突破できないので地球にまでたどりつけないという説もあります。我々の祖先がそうだったように、そもそも宇宙に旅立つような科学技術を持った文明がなければ、地球に辿り着けるはずはありません。

こうした仮説はいずれももっともらしく聞こえます。しかしよくよく考えてみれば、そもそも宇宙人というものが我々と同じような形態をしているのかどうかすらわかっていません。その思考内容が地球人に理解できるものであるかどうかも不明です。

仮説はいくらでも立てられますが、それに対する反証の可能性も全くないわけであり、仮説ではあっても理論とはいえません。宝くじを買わずにそのあたりはずれを予想しているようなものであって、事実関係に基づいた議論もできません。

そう考えると、結局この宇宙には地球以外に生命体が存在しないのではないか、と考えたくもなります。「存在しないものは来ない」という仮説を立ててもかまわないわけです。



一方、地球以外に生命がいる確率はゼロではないけれど、今のところ地球の生命が全宇宙で一番目に発生した生命で、二番目は登場していない考えることもできます。或いは二番目以下が存在しても、我々の文明のレベルよりも低い水準に留まっているのかもしれません。

こういうのをレアアース仮説といいます。希少鉱物を指すレアアースではなく、英語では”rare earth hypothesis” と書き、直訳では「稀な地球」ということになります。宇宙は文明を持つ高い知能がある生命で満ちあふれているといった考え方とは対極的な考え方です。

ただ、レアアース仮説は、地球人のように高い知能がある生命体の存在が稀といっているのであって、地球外生命そのものの存在を否定しているわけではありません。

地球の生命は、かつて何度も苛烈な地球環境の激変に直面し大量絶滅を経験してきたために、現在のように進化しました。しかし、そもそも地球のように生命を育むことに適した環境にある星は稀だと言われます。また何度も絶滅を繰り返すような過酷な条件にある確率も低いといったことから、レアアース説は立てられました。

とはいえ、レアアース説が唱えられてからすでに20年以上が経っています。現在は当時とは比べようもないほど太陽系外惑星の探査技術が進んでおり、NASAのデータに基づけば、地球外生命体が存在する可能性がある太陽系外惑星は60以上もあり、まだまだ増えそうです。

そう考えてくると、やはり高度な知能を持った宇宙人はいるのではないか、と思えてきます。最近、アメリカ空軍などの公的な機関がお墨付きのUFO映像を公開するようになり、これらがその証拠だと主張する人たちを勢いづかせています。

「宇宙人は存在するのだが、検出されにくい。それでも理由はわからないが時々姿を見せる。地球に来ている証拠だ」というわけですが、さらに飛躍した主張には、到達した宇宙人は発見されているが、各国政府によって公表が差し控えられている、というものもあります。

アメリカ軍は宇宙人の存在を否定していますが、実はその存在を知っていて、理由は不明だけれども最近その方針を変え、かねてより把握していたその存在を公開しようとしているのではないか、というわけでまさに「メン・イン・ブラック」です。

これらの主張は、到達した宇宙人は全て、潜伏、又は地球の生命に擬態して正体を隠しているといった仮設の上に立っています。

しかし地球にやってきている宇宙人が目に見えるものとは限らず、我々が認識できない形態の生命である、と考えられなくもありません。ケイ素生物・意識生命体といったものがそれです。ケイ素生物というのは、ケイ素(シリコン)でできている生物のことです。自由に形を変えられるので、石などに擬態して我々には見つけられなくなります。

あるいは別次元(五次元等)に存在するため地球人が認識出来ない、といった説もあり、これらはタイムリープ(タイムトラベル)と合わせてSFの世界でよく語られる宇宙人像です。

これとは別に、宇宙人は過去に地球にやってきたものの、最近は来ていない、というものがあります。古代と言われる時代に地球に到達して遺跡などを残し、人類はその子孫である、といった説です。最近の訪問がないのなら認識できないのはあたりまえです。

古代人の技術ではとうてい造れないような創造物があり、それが宇宙人の存在を指し示す証拠だと主張する人はたくさんいます。ナスカの地上絵やピラミッドのような巨大な考古学遺跡やオーパーツは、宇宙人の技術で作られたとか、類人猿から人類を創った、世界各地に残る神話の神々は、宇宙人を神格化したものであるといった数々の説が出されています。



しかし、過去にいたものが現在は存在しない理由な何なのでしょうか。人類の進化を妨げないためだ、といった説もありますが、どこか無理があるように思えます。もし宇宙人がいるとしたら、現在でも何等かの形で存在し、我々を助けてくれてもよさそうなものです。

ただ、彼らは現在もすぐそばに居て、意識体のような目に見えない形をとっているというのなら納得できます。あるいは地球人とまったく同じ姿形をしているためにそうだと認識できないようになっている、ということも考えられます。

そうだとして、何のために正体を見せないようにしているのでしょうか。可能性として、地球人の中に紛れ込んで科学的に我々を調査研究している、といったことなどが考えられますが、あるいは彼らはすでに自分たちの故郷を失ってしまっているのかもしれません。

自分たちが住んでいた星が何等かの理由で消滅し、移住してきた先が地球である、という可能性は否定できません。地球で生き延びるため、地球人そっくりに姿を変え、トラブルを避けることを優先して生きているとしたら、認識できない理由もわかります。

我々が住まう地球もまた永遠のものではありません。地球そのものが天変地異で消滅してしまう確率は低いでしょうが、巨大な隕石による人類の滅亡はありえます。あるいは、太陽が死滅してしまえば、地球の生命はすべて失われるでしょう。

最近の研究では、63億年後に太陽は中心核で燃料となる水素が使い果たし、膨張を開始して赤色巨星になるといわれています。外層は現在の11~170倍程度にまで膨張し、この時点で水星と金星は太陽に飲み込まれ、高温のため融解して蒸発すると予想されています。

その後太陽は現在の11 – 19倍程度にまで一旦小さくなりますが、再び膨張を開始し、最終的に太陽は現在の200倍から800倍にまで巨大化し、膨張した外層は現在の地球軌道近くにまで達すると考えられています。

その後太陽は10~50万年にわたってガスを放出し、その結果白色矮星となり、何十億年にもわたってゆっくりと冷えていき、123億年後には収縮も止まります。もはや核融合反応を起こすエネルギー源も無いため、次第に表面温度が下がり、最後は黒色矮星になります。

黒色矮星になった太陽は徐々に光を放出しなくなります。肉眼で見ることは出来ず、重力的な影響が明白であっても光学的に確認することはできません。ただ、太陽が黒色矮星の状態にまで十分冷えるには、10の15乗年(1000兆年)程度の時間がかかるそうです。

仮に地球が膨張した太陽に飲み込まれなかったとしても、その後太陽はどんどんと冷えていきますから、地球に住まう生命体がその光や熱の恩恵を受けることはなくなります。つまり地球上には住めなくなる、ということです。

だとしたら脱出するしかありません。おそらくその段階では我々地球人も超がつくほど高度な科学技術を持っており、地球以外で住むことのできる星を見つけていることでしょう。しかし、そうした星には先住民がいる可能性があるわけで、だとしたら、彼らを征服するよりは中に紛れ込んで生き残るという平和裏の選択肢を選ぶのではないでしょうか。



かくして、その星に住まう先住民にとって我々は宇宙人になりえるわけです。我々はその星の住民になりすまして生きはじめ、その文明に影響を与えていくのかもしれません。

地球とまったく異なる異星の環境に住むことができるようになった我々は、想像を絶する異質な形態になっている、と考えることができます。それどころか、「生命」に当てはまらない存在である可能性すらあります。

映画「コクーン」では、分子や原子構造を持たないエネルギー体としての宇宙人を登場させており、まるで電波の様に物質を通り抜ける宇宙人像でした。「意識生命体」といえる形態であり、それはいわゆる「幽霊」のような存在です。

あるいはこれらの生命体は別次元に存在し、今の我々ならまったく認識出来ないようなものかもしれません。世界の根源をなす要素が異なる世界は、異次元世界と呼ばれます。

我々が過ごしている3次元空間の世界では、空間内を動くことによって移動が行われますが、それ以上の次元の世界では、我々の世界と根源となる要素が大きく異なっていると考えられます。四次元、五次元といわれるような世界を住まいとする宇宙人なら、我々が認識できなくても当たり前です。

仮設といわれればそれまでですが、我々も将来、そうした次元に住まう精神的宇宙生命体になっているという可能性は否定できないのです。

アメリカの特殊効果デザイナーのダリル・アンカが、交信できるようになったとされる宇宙生命体がそうしたものだと言われています。その名をバシャールといいます。

バシャールという名前は本名ではなく、ダリルがアラブのバックグラウンドを持つことに由来して、その生命体自らが名付けました。アラビア語で指揮官、存在、メッセンジャーといった意味を持ち、また、ダリル自身はバシャールの過去世であると発言しています。

ダリルは1973年、当時住んでいたLAでUFOと2回遭遇したことをきっかけに、その生命体とチャネリングができるようになったそうです。その結果、物事に対する見方が変わり、事象そのものの本質を直感でとらえる” 現象学 ”に興味をもつようになりました。

人間の理解の範疇を超えた世界について色々研究したり勉強する中、ある日瞑想をしていると、誰かが大量の情報を頭の中に入れてくるような感覚が彼の身に起こったといいます。それがバシャールからの最初のコンタクトで、その後、ダリルはバシャールと頻繁にチャネリングをするようになり、彼らの住む世界について様々なことを知るようなりました。

ダリルによれば、バシャールはオリオン座近くにある緑色がかった惑星「エササニ」に住んでいるそうです。地球より少しだけ小さいため、地球ほどの重力はありません。しかし大気は地球よりも濃く、地軸が傾いていないため、1年中心地良い温暖な気候 だといいます。

四季は存在せず、台風などの天候の荒れはありません。1日は25時間ほどと地球とほぼ同じですが、1年は454日と地球よりも3ヶ月ほど長くなっています。

エササニ星人の特徴としては、個人ではなく複数の意識が合わさったような存在とのことで地球人には物理的に不可視だといいます。

また、言葉や名前を持たず、身長は150センチくらいの人間の子供のような体つきで白っぽい灰色の皮膚を持っています。目は大きくて白目のない淡いグレーの瞳で、男性は髪の毛がなく、女性は大体が白い髪だそうです。我々には見えませんが、彼らにはそう「認識」できるようです。

食事はとらず、よって排泄もしません。様々な個性を持ちますが、互いに共通意識を持つ大きな集合意識体で、テレパシーで意思疎通を行います。エササニ星人の100年は私たちの1000年に相当するそうです。

私たちからエササニ星やバシャールの存在を視覚でとらえることができないのは、互いの次元・密度が違うからだといいます。宇宙は多次元構造でできており、異なる次元・密度では周波数も異なり、その空間は見えないし相互作用もしません。

私たち人類がいる世界は「第3密度」で、これに対してより高い波動を持つエササニ星の世界は「第4密度」です。バシャールによれば、時間や時間の連続性といったものは人間が作り出した概念であって思い込みだそうです。過去や未来などあらゆる時間は、実は「いま、ここ」に同時に存在しているといいます。

宇宙のすべての物質はエネルギーです。エネルギーは振動であり波動です。そして「密度」とは、振動数の高さを表す言葉です。宇宙のあらゆるものは7つの密度に分類され、密度が高いほど振動数が高くエネルギーも大きくなり、高レベルの波動と同調します。逆に密度が低いほど振動数やエネルギーが低くなります。

バシャールは常にワクワクし、情熱に従って生きることによって、高い振動数を持ち、高いエネルギーに満ち溢れているそうです。そうなることによって、「やりたいことを、やりたいときに、やれる能力」が磨かれるといいます。

「ワクワクする」というのは「人生の中で真の自分を表現することの出来る波動を高める」ことを表し、その波動は同じような波動を引き寄せます。自分のワクワクする気持ちに従って生きることが人生の目的であり、エササニ人はそれを率先して行っているようです。

周波数が上昇するにつれ、時空間の概念が緩んで柔軟性が生まれるので、自分の意識次第で時間が変化します。そして、時間とは「過去→現在→未来」という直線的な流れではないことに気づくそうです。

そうなると、肉体や実体はあまり意味を持たなくなり、他のバイブレーション、他次元、他の現実(パラレルワールド)、高次のエネルギー周波数をとらえる感覚が鋭くなるといい、そうなればテレパシーで意思疎通ができ、異次元の存在とも交信が可能になります。

ワクワクしたことをたくさんやり、振動数が上がるように毎日を一生懸命過ごしていれば人生は望み通りになるようです。我々もそうした毎日を積み重ね、その上に立った未来を獲得すれば、遠からずバシャールのような意識生命体に近づけるのかもしれません。

太陽系滅亡前までにササエニ人以上に進化し、新たな星で暮らすようになった我々もまた、そこに住む住民から宇宙人と呼ばれているに違いありません。