蜘蛛の糸

気がつくと、そろそろ秋の気配を感じる今日このごろです。

アキアカネが飛び交ったり、栗のイガイガが落ちていたり、稲穂がたわわに実ったりしているのをみると、ああ今年の夏も終わりだな、と感じます。

気が早いな、といわれるかもしれません。しかし夏が嫌いな私としては、気分だけでも早く秋が来てほしいわけです。

一般に初秋とは、立秋から白露の前日までの期間をいい、白露とは9月8日ごろです。七十二候(気象の動きや動植物の変化を知らせる短文)では「草露白」となっており、これは「そうろしろし」と読みます。草に降りた露が白く光る、と言う意味です。

露は、空気中に含まれている水蒸気が冷えて水滴となったものです。

放射冷却などの影響で地面やその近くのものが冷え一定の温度以下になると空気中に含まれている水蒸気が水滴となります。このときの温度を露点といいます。また植物の葉など地表付近の物体の表面に露が着くことを結露といいます。

特に夏の終わりから秋の早朝には急激に冷え込むことも多くなることから露が降りやすくなります。このころでもっとも気温が下がるのは夜明け前です。なので、我々が露を見つけるのもほとんどが朝です。このため、朝露といわれることが多いようですが、実際には、夜間に冷え込むこともあり、このとき下りる露は夜露といいます。

地上に降りた露のうち、草木の葉につくもの水滴になって良く目立ちます。多くの葉が水をはじく性質を持っており、特に葉の先端や、鋸歯のある葉ではその突出部に大粒の水滴が見られます。

また、水を弾きやすいクモの巣にも水滴が着いているのもよく見かけます。クモの巣には「粘球」と呼ばれるものがあり、これは餌となる昆虫などの小動物をとらえるためのものです。この粘球上に露がつくとだんだんと雪だるま式に大きくなることがあります。朝日を浴びて光るとなかなか美しいものです。




クモの巣は、古くはまた「くもの網(くものい)」と呼んでいたようです。中心から放射状に張られた糸を縦糸、縦糸に対して直角かつ同心円状に張られた糸を横糸といいます。

クモの巣をよくみると、この横糸は実際には同心円ではなく、螺旋状に張られていることがわかります。また網の中心付近には横糸がなく、縦糸が集まったところには縦横に糸のからんだ部分があり、これを「こしき」といいます。クモの巣の主は通常ここを居場所にしています。

網の中で粘り気があるのは横糸だけです。そこに数珠のような玉のようなものが並んでいるのが粘球です。また横糸は螺旋状に規則ただしく張られているように見えますが、実際は網の下側の方が密になっています。網の下側の一部は螺旋ではなく、往復で張られているためです。これは重力で獲物が下に落ちなくするための工夫でしょう。

さらにクモの巣をよく観察すると、網の一番外側には縦糸を張るための枠があるのがわかります。これはその名の通り枠糸と呼ばれています。網を張るには、まずこの枠糸を張らなければいけません。

通常、クモは腹にある「出糸突起」とよばれる部分から糸を出します。この出糸突起の先端近くには、多数の小さな突起があって、それぞれの先端から糸が出る仕組みです。この突起を「出糸管」といいますが、クモによって色々な種類があり、それぞれからでる糸にも差があります。クモは用途に応じてこれを使い分けています。

クモの巣を作るにあたっては、まず出糸突起から糸を出し、これを風に乗せて飛ばします。そして木の枝などの向こう側に引っ掛かると、その糸の上を往復して、最初の糸を強化していきます。

最初に飛ばす糸の距離はクモの種類や大きさによって様々ですが、中には川などを越えて網を張ることができるものもいます。 次に、巣をつくりたいところにぶら下がって懸垂降下し、別の枝や葉などに到達するとその一方をそこに結び付けます。できた三角形をベースにして、円形状の枠糸を作っていきます。

そして枠糸の内外を往復して放射状の縦糸を張ります。縦糸を張り終えると、中心から外側に向けて、螺旋状に粗く糸を張っていきます。これを足場糸と呼びます。足場糸が引き終われば、仕上げの横糸張りです。この横糸を張るのは外側からです。足場糸が横糸を張る邪魔になると、その足場糸は切ります。

最終的にはすべての足場糸は切り捨てられ、細かく横糸が張られて完成します。通常のクモの巣は完成まで1時間とかかりません。

こうしてできたクモの巣の糸は、動物が紡ぐものの中ではかなり頑丈なものです。このためこの糸を工業的に利用する試みもありますが、実用になったものは少ないようです。クモを養殖するためには新鮮な生餌が必要なことと、クモは共食いを起こしやすいためです。

アメリカのマンハッタンにある自然史博物館には、世界最大のクモの糸で作った絨毯があるそうで、これは約3.4メートル×1.2メートルの大きさです。コガネグモ科のクモの糸を使ったもので、その製作には野生のコガネグモ科のクモの捕獲に70人、糸の織布に12人の人手を必要とし、4年間の年月を要したそうです。

このようにクモの糸を単体で使った工芸品を作ろうとすると手間がかかりやすいため、最近では生産のしやすい蚕にクモの遺伝子を組み合わせた品種や微生物を使用し、人工的に蜘蛛の糸を出そうとする試みが行われています。

その結果できた糸の強度は同じ太さの鋼鉄の5倍、伸縮率はナイロンの2倍もあるといい、鉛筆程度の太さの糸で作られた巣を用いれば、理論上は飛行機を受け止めることができるそうです。しかし、コストが高い上に製造上、有害性の高い石油溶媒が必要になるなどの障壁があり、実用化は難しいといわれてきました。

ところが、山形県に本拠地を置くバイオベンチャー企業、Spiber(スパイバー)が、2013年に世界初となる人工クモ糸の量産技術の開発に成功しました。

スパイバーはこれをベースに現在、構造タンパク質素材、Brewed Protein(ブリュード・プロテイン)を開発しており、この素材を用いれば、ポリエステルやナイロンのような石油由来の素材に代わって、現在の合成繊維と同等かそれ以上の性能を持つ材料を製造できる可能性があります。

人工タンパク質は、地球上に多く存在するタンパク質を原料にしていることもあり、脱石油素材の大本命の技術の一つとも言われています。その技術は世界中から注目されて資本を集め、同社の時価総額は未上場ながらも1000億円を超えているといいます。将来的には日本発祥の人工クモ糸が世界中の工業市場を席捲するもしれません。

こうした人工繊維がクモの糸に発想を得ることで開発されたように、蜘蛛そのものも身近な生物としてその昔から何かと我々の生活に関わってきました。

古来、蜘蛛を見ることによって縁起をかつぐ、といったことが行われ、よく言われるのが「朝蜘蛛」「夜蜘蛛」というものです。「朝にクモを見ると縁起が良く、夜にクモを見ると縁起が悪い」という言い伝えを聞いたことがある人も多いでしょう。

ただ、九州地方の一部ではクモを「コブ」と呼び、それゆえに夜のクモは「夜コブ」と呼ばれ、「よろこぶ」を連想させるために縁起が良いものとされています。




生物としての蜘蛛の形は一種独特であり、また他の昆虫などを捕食することもあって嫌わることが多いものですが、実際には臆病で草食的な性格で、畑の害虫なども食べてくれるため益虫とみられる向きもあります。

しかし、やはりどちらかといえば嫌われ者のキャラクターを演じることの方が多く、古代日本でも中央政府に歯向かう土着民の別称として、「土蜘蛛」という表現が使われていました。

大和朝廷に抵抗した異族として「日本書紀」などにも土蜘蛛/土雲といった名前で登場します。上古の日本においてヤマト王権、引いては歴代の天皇家に恭順しなかった土豪たちを示す名称であって、天皇に敵対する土着の豪傑・豪族・賊魁などをこう呼んでいました。

ただ、蜘蛛に由来しているかといえばそうではないらしく、「つちぐも」という名称は「土隠(つちごもり)」に由来していると考えられています。これは横穴のような住居で暮らす者がいたためのようです。彼らの一部にすぎませんが、その暮らす様子が「穴に籠る」ように見えたことがからこう呼ばれるようになったようです。

畿内だけでなく、全国にこうした土蜘蛛はいたらしく、すなわち単一の勢力の名ではありません。似たような経緯で卑しい者として扱われるようになった敵対勢力はほかにもあり、例えば国栖(くず)八束脛(やつかはぎ)大蜘蛛(おおぐも)などがあります。

くずは、ゴミくずをイメージしたものです。また「つか」は長さを示す単位であり、八束脛はすねが長いという意味で、つまりその身体的特徴を蔑視の対象としたものです。

江戸時代の穢多非人(えたひにん)のように差別の対象として見られていたのではないかと思われます。日本書紀や各国の風土記などでは「狼の性、梟の情」を持ち強暴であって、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住み、朝命に従わず誅滅されるべき存在である、などと表現されています。まるで妖怪扱いです。

「神武紀」では土蜘蛛を「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にたり」と形容しており、ひきひととは、こびとのことです。また「越後国風土記」でも「脛の長さは八掬、力多く太だ強し」と表現するなど、やはり異形の生き物として表現されています。



古くは一土豪にすぎなかったものが、妖怪扱いを受けた結果、伝説やおとぎ話に出てくる悪役のようになる土蜘蛛も多く、各国の伝説を書き出させた風土記と呼ばれるようなものの中にも「古老曰く」「昔」などの書き出しでこうした土蜘蛛伝説が書かれたものがあります。陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前などの風土記がそれらです。

そのひとつ、「肥前国風土記」には、景行天皇が志式島(ししきしま 現在の平戸南部地域)に行幸した際の話が掲載されています。海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳(たれみみ)を持つ土蜘蛛が棲んでいるのがわかった、とあります。

そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたと書かれていますが、この話などは桃太郎伝説の鬼の表現とそっくりです。

女型の妖怪と語られる話もあり、「豊後国風土記」に出てくる「土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)」というのは、山に居を構えて大和朝廷に抵抗したものの全滅させられた女性の土蜘蛛です。八十(やそ)は大勢の意であって、これはこの地方で女性首長を持つ勢力が大和朝廷に反抗し、壮絶な最期を遂げた話をデフォルメしたものと解釈されています。

こうした土蜘蛛の話は、時代を経るに従い、物語や戯曲などに取り上げられ日本を「魔界」にする輩たちとして定着していきました。

土蜘蛛以外では、「山蜘蛛」という表現も見られ、「平家物語」では源氏の家系に伝来する「蜘蛛切り」という刀にまつわる物語として登場してきます。この話は能の五番目物の「土蜘蛛」などにも取り入れられ、妖怪としての土蜘蛛がひろく知られるようになりました。

この話をもう少し詳しく書くと、鬼退治で有名な武門の名将、源頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ、身長7尺(約2.1m)の怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとしました。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去ったといい、翌日、頼光は四天王を率いて僧の血痕を追いました。

すると北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには全長4尺(約1.2m)の巨大な山蜘蛛がいました。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒したところ、頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれるようになったということです。

源頼光の土蜘蛛退治には別バージョンもあります。14世紀頃に製作された絵巻物「土蜘蛛草紙」に出てくる話で、源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇しました。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れては頼光らを苦しめました。

夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきましたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、その跡には白い血痕が残っていました。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大な山蜘蛛がおり、この蜘蛛がすべての怪異の正体だと判明しました。

頼光が激しい戦いの末に蜘蛛の首を刎ねると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきました。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに約20個の小さな髑髏があったといいます。

このように蜘蛛のイメージを悪くしたのは、土蜘蛛の存在だったといえます。しかしもともと元々悪者でもなんでもなく、単に地方の一豪族にすぎなかったものです。それがそうなったのは、天皇をトップにいただく大和朝廷をはじめとする歴代の政権が、悪者を作ることで自分たちを際立たせる目的があったためでしょう。

この土蜘蛛以外で、よく擬人化されて目の敵にされる蜘蛛に、絡新婦(ジョロウグモ)があります。女郎蜘蛛とも書き、その外観から、細身で華やかな花魁を連想して命名されたものでしょう。ド派手な色彩をしており、見ようによっては不気味に見えなくもありません。

夏から秋にかけて、大きな網を張るクモで、コガネグモと共に、日本では最もポピュラーな蜘蛛といえます。混同されることも多いようですが、系統的には別ものです。女郎蜘蛛はコガネグモよりはるかに大きくて複雑な網を張り、網の糸は黄色を帯びてよく目立ちます。

和名は女郎に由来するとよく言われますが、一方で上臈(じょうろう)が語源ではないか、とも言われています。

そのため、有職故実に長けた京の公家出身の女中がこの役職に就くことが多かったようです。法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束など古来の先例に基づいた知識のことを有職故実といいます。

彼女たちのほとんどは御台所や御簾中(貴人の正妻のこと)の輿入れに伴って奥入りしたと考えられており、生家の名前を大奥でもらってこれを代々受け継いでいきました。姉小路・飛鳥井・万里小路・常磐井などがそれらの例です。

上臈は奥女中の中では最上位に位置する職ですが、単に故事を良く知る知恵袋的な扱いを受けるばかりで、大奥の中で実権を持つことはあまりなかったようです。実際に大奥の最高権力者とみなされ、大事小事を差配していたのは単に「御年寄」と呼ばれる職で、本来は上臈よりも下位の職でした。

上臈とは、御台所付上臈御年寄の略で、これは江戸時代の大奥女中の役職名です。将軍や御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位の官職です。儀礼や年中行事を司る立場にある老女の役職ですが、公式儀礼においては将軍付老女が主に差配したため、上臈御年寄は、主に御台所、つまり将軍夫人の相談役を司りました。

ただ、綱吉時代の右衛門佐局、家宣と家継時代の豊原、家治と家斉に仕えた高岳、家慶時代の姉小路、家定時代の歌橋など、上臈でありながら幕政や幕府人事をも左右するほどの権力を握った者もおり、単純に権力を持たなかったとは言い切れないようです。

上臈は多くの人を束ねる職であり、知識人だったので、人生の何事につけても「目利き」が多く、大奥の女性たちからは頼りにされていたようです。

しかしこの上臈に由来する蜘蛛、ジョロウグモのほうは目はあまりよくありません。もっともクモ全体としてこれはいえることで、このため、巣にかかった昆虫などの獲物は、主に糸を伝わる振動で察知します。ただ、大きな獲物は巣に近づいて来る段階である程度視認でき、捕獲のタイミングを整えて捕まえているようです。

巣のどこにかかったのか、視覚では判別しづらいため、巣の糸を時々足で振動させて、そのエコー振動により、獲物がどこに引っかかっているのか調べて近づき、捕獲しています。捕獲された獲物は、毒などで動けないよう処置をされたあと、糸で巻かれて巣の中央に持っていかれて吊り下げられ、数日間かけて食べられます。

女郎蜘蛛の場合、獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕まえて食べます。グロテスクでありますが頭から食べていることが多いようで、これはここが一番栄養があるためです。成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えてもこれも食べるようです。

女郎蜘蛛は JSTX-3 という毒を持っています。興奮性神経の伝達物質であるグルタミン酸を阻害する性質がありますが、一匹がもつ毒の量は微量であって、仮に人が噛まれたとしても大きく腫れたりするようなことはないようです。

女郎蜘蛛の別名の絡新婦は、妖怪としての名前で日本各地に伝説があります。美しい女の姿に化けることができるとされていて、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では、火を吹く子蜘蛛たちを操る蜘蛛女の姿で描かれています。「太平百物語」や「宿直草」などの江戸時代の物語本にも女に化ける女郎蜘蛛が出てきます。

最後に、そうした女郎蜘蛛にまつわる話をひとつ紹介しましょう。

その昔、小間物を風呂敷に包んで背負い、行商をして歩く男がいました。その風呂敷の中には、一匹の女郎蜘蛛がこっそりと忍び込み、一緒に旅をしていました。

ある日のこと、男はひと晩かけて峠を越えようとしましたが、途中で雨が降ってきてしまいました。そこで、慌てて山を下り、古いお堂に駆け込みました。そして、タバコをふかして一息ついていたところ、ふと薄暗いお堂の中に先客がいることに気が付きました。

女は、申し訳ありません。あまりにも寛いでいらっしゃったので声をかけそびれました、といい、自分は旅の芸人だと告げました。

見ると、とてもきれいな女性です。2人はすぐに仲良くなり、一緒に酒をくみかわし始めました。しかし、男は女をひと目見たときから、人間ではないと見抜いていました。商売柄各地を渡り歩いており、いろんな物の怪に出会ってきたからです。

「さっきから考えてたんだが、以前姉さんにどっかで出会ったかねぇ。」

と、かまをかけると、女は今は昔と姿が変わっている、などと言い訳をはじめました。男は、ははーんやっぱり、物の怪かと気が付きましたが、それまでにかなり酔っており、女が弾き始めた三味線の音があまりにも心地良いこともあってついつい眠ってしまいました。

女は眠っている男をじっと見つめていましたが、やがて、ぽつり、ぽつりと独り言を言い始めました。「私達、化性の者には、悲しい決まりがあるんです。正体を人知られちゃ、取り殺すか、自分が死ぬしかない… せっかく優しくしてくれた人の命を取るのは悲しいけれど、どうぞ、かんべんしてくださいな…」

と、女は言い終わると両手から糸を出して男の首に巻き付け、殺そうとしました。しかし、やがて手をとめためいきをつき、がっくりと、うなだれながら言いました。「私はあなたが好きになってしまいました。一緒に旅が出来て楽しい思いをさせてもらったけど、これでお別れです。どうかいつまでも、お達者でいてください…」

翌朝のこと。男が目を覚ますと、お堂の床に一匹の女郎蜘蛛が死んでいるのを見つけました。そしてそのときふいに思い出したのです。半年ほども前のこと、大蜘蛛にからまれて食われそうになっている女郎蜘蛛を助けやったことを…

男は、そっと女郎蜘蛛を手のひらに乗せました。そして「かんべんしてやっておくんな」

と言いながら両手を合わせて、女郎蜘蛛を弔いました。そして、次の里を目指して歩き始めました。