当たらぬも八卦


今年もあとわずかになりました。

今日が御用納めで明日からは家の大掃除だという人も多いでしょう。その中で、来年はどんな良い年になるだろう、とみなさん期待を膨らませているに違いありません。

では、自分はどうかと振り返ってみたところ、来年のことを思うとワクワクするか、といえばそうでもありません。ああまた歳をとるのか、とどちらかといえばネガティブなほうに目が行ってしまう今日このごろです。

ある占いによれば来年の私の運気は「乱気」だそうで、精神面で不調となりやすいとか。「乱心」で辞書を引いてみると「心が乱れ、心神喪失の状態になること」とあり、仏教用語としては「散乱する心。煩悩などにとらわれて乱れる心」だそうです。

何らかの理由で心乱れることがあるということのようで、あまりいい年ではなさそうなのですが、過去に同じ運気だった年の出来事を振り返ってみると、意外にそうでもありません。

高校に入学した年であったり、最初に勤めた会社を辞めた年、別の組織から離れた年、出向先から戻った年、といったように、どうも何か自らの境遇に変化が起こるという星回りだったようです。

そうした変化を「運が悪い」と受け止めるかどうかですが、当時のことを思い出してみるとそんなことはなく、マンネリ化していたそれまでの人生に向かって新たな風が吹いた、とむしろ歓迎するような気分だったかと思います。

考えてみれば、こうした占いというものは、人の運勢をたかだか10か12ほどのカテゴリーに分けて示しただけのものです。地球上に80憶ほども人がいるというのに、それをわずかこの程度の数で縦割りしていいのでしょうか。かなり乱暴な気がします。

そのほかの占いもそうです。例えば星占いは、その人が生まれた月に空にかかっていた星座が何であったかで占いますが、これも12パターンにすぎません。四柱推命や九星気学も9通りの運勢しかありません。

あるアンケート調査によれば、かなりの数の人々がこうした占いに示されたことを信じ、それに従って行動をしているといいます。毎日のようにテレビや新聞雑誌でいろいろな占いが紹介されていますが、多くの人がこの単純な仕分けの結果を見て一喜一憂します。

しかし、それぞれが違った個性を持っているように、本来なら運命もそれぞれ違っているはずです。

私自身、占いを全く否定しているわけではありませんし、同じようにテレビや雑誌で紹介されているものを見ています。しかし、信じるかどうかといえば半々で、どうせ占うならちゃんとしたもので占いたいなと思っています。

例えば同じ星占いでも、もっと細かい星の配置から運勢を見ることもできます。その人が生まれた時の星々の配置と、占いたい時々の惑星の動きとの関係性をもって運命を占うというもので、いわゆるホロスコープを使った占い方です。

生まれた時の惑星の配置と現在の惑星の配置の組み合わせはそれこそ天文学的ですから、こうした占い方法によれば、まったく同じ運命の人はほぼいない、ということになります。







もともと、理科系志向だった私は、子供のころからこうした星占いには興味がありました。天文学者になりたい、とまでは思いませんでしたが、天文学雑誌を定期購読し、夜空を双眼鏡で毎晩ながめていたりする少年でした。

そして、この夜空の果てにはどんな不思議があるのだろう、それを人類は解き明かすことができるのだろうか、と子供心に思ったりしていたものです。

そもそも、占星術と天文学は深い関係があります。それぞれastrology、astronomy、というようastroが冠詞として付きます。これからもわかるように両者はルーツが同じで、天文学というものの母胎が占星術でした。

天文学はプトレマイオス以来の天動説の宇宙観のもとに発展したもので、この地球を中心に天は動いているという説は占星術から生まれたものです。ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは天文学者・数学者であると同時に、占星術師でもありました。

ところが、コペルニクスが「地動説」を唱え始めたころから、分化が始まりました。それまでは、自然についての考察は「自然哲学」という体系で行われおり、単に星がどのような周期的な動きをするか、ということだけに関心が寄せられていました。

そこに地動説という科学的な視点が出てきました。それまでは占星術と天文学は未分化で混然一体の状態でしたが、それからは別者になっていきました。とくに、1687年にアイザック・ニュートンが「自然哲学の数学的諸原理」を著わしてからは占星術と自然科学の分化は歴然としたものになりました。

占星術専門家が、月の満ち欠けや太陽の位置、惑星と星座の位置関係といった単純な天文現象にだけしか興味を示さなかったのに対し、ニュートンらの新しい考えを持った科学者たちは、近代的な自然科学を用いて、より正確な天体の動きを予測するだけでなく、それぞれが力学的・物理学的に関与し合っているかといったことを紐解くようになりました。

こうした結果、現代では占星術と天文学は、原則として全く別のものになりました。現代の天文学者たちはさらに、天体の配置や動きを予想するだけではなく、それらが生まれた原因を探り、将来にわたってどうなっていくのかを予測するとともに、目に見えない天体についてもその存在の意味を探ろうとしています。

一方、旧来の占星術家たちには新たな探求心はありません。現代自然科学を用いれば、より正確な惑星の位置などを予測することもできるはずですし、また太陽系内外に新たに見つかった小惑星なども取り入れた新たな占いもできるはずです。

しかし、そうしたことにはまるで興味はなく、あいかわらず太陽と月以下、水金地火木土天海冥の星の配置だけを捉え、それだけで人の性格や相性、国家の未来などを予測しています。







このように、占星術と天文学は、現代では目的も手法も、まったく別のものになっています。ただ、若干の例外はあり、微妙な領域の研究で占星術と自然科学が重なる場合があります。

例えば心理学です。フランス、ソルボンヌ大学の心理学者で国立科学統計センターの統計学者でもあるミッシェル・ゴークランという学者は、出生時の惑星の配置と性格を分類する統計研究を行い、両者には相関関係がある、と結論づける論文を発表しました。

しかし、日本の明治大学コミュニケーション研究所の検証結果は、その関係性は有意水準ではあるものの、あまりにも小さすぎて実際に適用する根拠には乏しい、といったものでした。

このほか、パーソナリティ研究の分野で第一人者であるドイツの心理学者ハンス・アイゼンクも、統計学的調査に基づき、様々な観点からの西洋占星術の妥当性を検証しましたが、その答えは否定的なものでした。

占星術者と言われる人たちの中には、これは「統計」によるものと説明する人もいます。確かに星の運行の情報は統計データに基づいて計算することができますが、星の動きと個々の人間の運命との関係性を統計的に立証できた例はありません。

こうした占いが部分的にでも当たったように感じられるのは、バーナム効果だと言う人もいます。誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまうことです。

例えば、以下のような文章を見た時、自分に当てはまる、と感じる人も多いのではないでしょうか。

・あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っているが、にもかかわらず自己を批判する傾向にある。
・あなたは外見的には規律正しく自制的だが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向がある。
・あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、それゆえに十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることがない。

実はこれは、ある星占いの星座ごとの占い結果をまとめて表示したものです。アメリカの心理学者バートラム・フォアという人が行った実験で使われたもので、彼は学生たちに、この分析がどれだけ自分にあてはまっているかを0(まったく異なる)から5(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させたところ、その平均点は4.26だったそうです。

いかに人がこうした占いを信じやすいか、を端的に示した結果といえますが、このほかにも確証バイアスというものがあります。これは仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のことです。

その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価、または過少評価しがちになりますが、こうした現象は2011年に起こった東日本大震災でもたくさん確認されました。

こんな場所にまで津波はやってこない、あるいはここにいれば津波から身を守ることができる、といった思い込みです。これが例えば星占いの場合だと、あなたは魚座でこうこうこういう性格だ、と一度言われればそれを信じ、他の星座の占い結果などはまったく見なくなります。



このように、占いというものは、元々不確実性が高いもので、また曖昧なものです。このため科学的な視点でものを見ようとする姿勢の人の目には、いかがわしいものとして映ります。占いを信じる、という人は意外に少なく、博報堂がアンケートを使って「占い・おみくじを信じる」と言う人の割合を調べたところ32.5%にすぎなかったそうです。

では、占いというものは、我々にとって全く必要のないものか、といえば、はっきりそうだと割り切れるものでもなさそうです。

たとえば、何かを決断したいけれども、はっきりと決めきれない、といったときに占いの結果に頼ったりはしないでしょうか。

卜(ぼく)、または卜定(ぼくじょう)といいう占いがありますが、何かを決断するときなどに使う事が多く、これは人が関わりあう事柄(事件)を占うものです。

時間、事象、方位など基本にして占いますが、占う事象を占う時期、出た内容などとシンクロニシティさせて結果を観ます。ある意味、偶然性や気運を利用して観る占い方法です。

ちなみに卜の文字は、亀甲占いの割れ目を意味する象形文字を原形としており、「亀卜」と呼ばれていました。21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われており、宮中行事では、大嘗祭で使用するイネと粟の採取地の方角を決定するために用いられています。

かつて明智光秀が信長を本能寺で討つときも、この亀卜でもってその成否を占ったという話もあるようです。結果は凶と出たようですが。

この卜をもっと簡単にしたものが、花占いで、一輪の花を手にとって花びらを一枚一枚摘んで「好き・嫌い」を判断したりします。また、神社では「鳥居へ投石をして、乗るかどうか」で願いが成就するかどうかを占うところもあり、これも卜のひとつといえます。

では「シンクロニシティ」とは何でしょうか。

シンクロニシティ(synchronicity)とは、「意味のある偶然の一致」とされるもので、日本語では「共時性」とか「同時性」「同時発生」と訳されます。

例えば、歩いていて急に靴の紐が切れた、としましょう。ただそれだけはなく、ちょうどその時「病院で祖父が亡くなった」と考えてみましょう。

出来事というのは、単純な物理現象ではありません。例えばこの靴は実は祖父が自分にと贈ってくれたもの(歴史)で、その紐が突然切れた(状況)ことを、自分だけでなく周囲の人たちが不吉に思う(体験)かもしれません。このように出来事というのは、複数の事柄が1つにまとまったものです。

シンクロニシティである場合には、そうした中でも「靴の紐が切れた」という出来事と、「病院で祖父が亡くなった」という出来事が偶然にも重なった場合に起こり、この場合、両者の間には“通常の因果関係がない”、という条件が必要になります。

靴紐が切れたことで祖父が亡くなったわけではありませんし、靴に何等かのバイキンがついていてそれが原因で紐が切れたり祖父が亡くなったわけでもありません。一方が他方の原因になっていたり、共通の原因から両者が派生していたりしない必要があるわけです。

ふたつの出来事は必ずしも同時に起こる必要はありません。1日違いかもしれないし、1週間後かもしれません。ただ、もしほぼ同時、もしくは近い時間に起きたとしたなら、その衝撃は大きなものになります。



これを全くの偶然と考えて因果関係などはないと考えることもできます。しかし、この二つの出来事が共起したことには何か意味があるのだ、その靴は祖父の象徴であり、紐が切れたということで永遠に別れることになったのだ、と考えることで両者の出来事の橋渡しができます。

つまり、シンクロニシティとは、それが起きることで何等かの「意味」が生成されたように捉えること、と定義できます。

心理学者のカール・ユングは、その意味するところを示そうとして、占星術をその傍証に取り上げたそうです。

例えば、あるとき自分の星座に木星が入ったときに、ある偶然で将来の結婚相手が見つかったとしましょう。ふたつの出来事が同時的に起きていることに当初は気づいていませんが、後になってこのとき木星が自分の星座に入っていた、ということを知ります。

遠く離れた場所で客観的な出来事が二つ同時的に起きたと判明したわけですが、このときこれを単に偶然と片付けることもできますが、それについて意味を見出すこともできます。

「将来の結婚相手との出会い」という客観的な出来事が、木星が自分の星座に入ったというタイミングでシンクロ的に起きたのだと確信的に考えることができるとすれば、そこに木星は幸運の星なのだ、という意味が生まれます。

このようにシンクロニシティは、それが起きることで「意味」を生成します。日常におけるシンクロニシティにおいても、そこに何かのサインや意味を見出だすことができたなら、それがその偶然が起きた理由です。

この靴の紐の例は、「虫の知らせ」とも呼ばれます。家族等の生命に危険が迫った際に何等かの予兆を感じるもので、このほか下駄の鼻緒が切れたり、突然棚から花瓶が落ちたりといったことがあるかもしれません。それを「虫の知らせが起きた」と認識し、人の死を悟ります。

このほか、よく知る誰かから何か電話がかかってくるような気がする、と思っていたら実際に電話がかかってきた、といったことはないでしょうか。さらには通勤途中で小銭を拾ったら、その日に宝くじが当たった、ということもあるかもしれません。

このように何か出来事が起こる前に予知できるものもシンクロニシティといえますが、同じようなものに「嫌な予感」というものもあります。

何か今日は車の調子が悪いとか、なんとなく外出したくないといった「いつもと違う」ということを感じたりしますが、そういう時に限って交通事故を起こしたり、外でつまづいて骨折したりといったことが現実になったりします。

人間には元五感を超えた「第六感」とよばれる感覚があるといいます。もともと誰でも持っていたはずですが、文明人になるにしたがって、その働きが弱くなってしまい、現在ではいわゆる霊感が強いと言われる人だけが持つようになった感覚ともいわれます。

超感覚というべきものであり、誰でも持っているものではありますが、普段はあまり表には出てきません。しかし、時にそうした能力をいつも使え、他の人以上超常感覚が優れているといわれる人がいます。



霊感がある人とか、ある種の予知能力を持っている人などがそういう人たちですが、実は彼らの中には占い師が多いようです。

最近、占いをテーマにしたテレビ番組が高視聴率を取っているようですが、ここに登場する人たちは実はそういう特殊能力を持った人たちだと私は思っています。

一応、「占い師」の体裁を保っていますが、実は鋭い第六感を持ち、シンクロニシティの意味を即座に理解して人に伝えることができる人たちであるに違いありません。中には占う相手のオーラを見ることができる人もいるようで、番組ではそうは明かしてはいませがん、私には実際にそれが見えているように思えます。

実は私たち夫婦が良く占ってもらう占い師さんがそういう人で、実はかなりの霊感がある人ですが、表向きには占い師ということで通っています。

かつて広島でその人に占ってもらったときに彼女が言った言葉が印象的でした。「こうした占いの形でも取らないと信じてもらえないんですよね~」

この人は、幼いころにまるまる2年ほど記憶がない時期があるそうで、その時期を過ぎたあとにそういう能力が身に付いたとのことです。無論、オーラを見ることもでき、私の先祖のことまで的確に言い当てました。

最近読んだ本に、我々が普段見ている世界というのは、実は本当の世界の一部にすぎず、実際の世界が100%であるとすれば、そのうちのわずか1%にも満たない世界しか我々は見ていない、と書かれていました。

従来の物理学では、物質の最小単位は原子、素粒子、クォークといった点粒子であると考えられていましたが、さらに研究が進んだ結果、最近ではそれらの存在だけではこの世の成り立ちが説明できないことがわかってきました。

身のまわりの物質はすべて極めて小さな「ひも」が集まってできているというのが、最近の物理学の最先端の理論で、これは「超ひも理論」と呼ばれています。

この理論によると、実はこの世界は、縦・横・高さの「3次元空間」ではなく「9次元空間」だといいます。さらに、私たちが暮らす宇宙とは別に、無数の宇宙が存在する可能性があるそうです。にわかには信じがたいことではありますが、かつては SFの世界と言われていたような世界が現実の世界なのかもしれません。

そうした時代に占いかよ、と言う声も聞こえてきそうですが、そうした超能力を持った占い師さんたちだけが、そうした我々に見ることのできない世界を見ることができるのだとしたら、その言葉を信じてみようかという気にもなります。

この世の中に不思議はまだまだたくさんあります。その不思議の一端を「占い」という我々にもわかりやすい形で見せてくれるのが彼らだとすれば、それを科学的ではない、という理由だけで片付けるはもったいない気がします。十分に理論的であるとされたその科学ですら、その存在があやうくなりつつある時代なのですから。

いつかそうした占い師さんたちの占い結果も理論的に説明できるような時代が来るに違いありません。その中で、来年私に訪れるという「乱気」もきっとその本当の意味がはっきりするのでしょう。

心乱れる年ではなく、12に一度回ってくる千載一遇のターニングポイントだと信じ、そこから人生が大きく変わることを、しかも良い方に転がることを信じたいと思います。

みなさん良いお年を。


影を見る


修善寺に住むようになって、そろそろ10年になります。

温泉街を中心にいつも観光客でにぎわっていますが、田舎といえば田舎です。

しかし、すぐ近くに設備の整った病院や市役所があり、また大きなショッピングモールや飲食店もそれなりにあって、生活するにあたっては至極便利なところです。

ただ、やはり郊外に出ればそのほとんどが田畑か林野です。住宅もまばらで、夜間の交通量も少ないため灯りは多くありません。

とはいえ、夜に外出することはほとんどないので特に不便も感じません。かえって、光害が少ないので、星が良く見えるというメリットがあります。庭先に出ると、晴れた日には満天の星が輝きいています。さすがに天の川を見ることはできませんが、車で20分ほども走って山岳部まで行くと、なんとか目視することができます。

天の川は、英語では“Milky Way”といいます。由来はあるギリシャ神話で、その中でこの白い流れを乳とみなしました。

それは最高位の女神のヘラにまつわる話です。彼女の母乳は飲んだ人間の肉体を不死身に変える力があり、息子であるヘラクレスもこれを飲んだために驚異的な怪力を発揮できるようになりました。

しかし、ヘラクレスの母乳を吸う力があまりにも強かったためヘラは我が子を突き飛ばし、その際に飛び散った母乳が天の川になったと言い伝えられています。

対して東アジアの神話の多くではこの光の帯を川と見立てました。中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川です。互いに恋しあっていた二人は天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになりました。

しかし天の川は乳でもなく川でもありません。その実体は膨大な数の恒星の集団であることを知っている人も多いことでしょう。しかし、それが我々が住まう「太陽系」を含めた姿である、ということを知っている人は意外と少ないかもしれません。

地球を含めた惑星群からなるこの太陽系は、数ある銀河のひとつである「天の川銀河」の中にあります。我々はこの銀河を内側から見ているために、この星の集団が帯として見えます。また、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためです。

その中心はというと黄道十二星座のひとつである射手座の方向にあります。銀河系の中心であるため、恒星の密度はこの付近が最も高くなっており、天体望遠鏡で観測すると多くの星雲や星団を視認できます。射手座は夏の星座ですから、夏の夜空を見上げると、天の川のこの部分がとくに濃く見えることがわかるはずです。







ただ、日本では光害のためにほとんどの地域で天の川を見ることはできず、日本人の70%は天の川を見る事ができないといわれています。

どうしても天の川を見たければできるだけ僻地に行くしかありません。あるいは日本を離れて人口の少ない場所へいけば、さらにきれいな天の川を見ることができます。

高い山の上か海の上が理想ですが、砂漠地帯もいいでしょう。日本からも比較的アクセスしやすいオーストラリアの砂漠では光害もなく、夜空の透明度が高いので、天の川の光で地面に自分の影ができるほどだといいます。

ちなみに、地球上の物体に影を生じさせる天体は、この天の川以外では、太陽、月、金星、だけです。このほか稀に地球を訪れる流星の中でも、火球と言われるような明るいものであれば影ができるといいます。

このほか、日食や月食も天体が作り出した影です。日食は、地球の周囲を回っている月が地球と太陽の間に来て、その影が地球上に落ちることによる現象です。我々は、地球に落ちる巨大な月の影の中に入ってこれが太陽を隠すのを見ています。

一方、月食は、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象であり、月面に映る地球の影を観察しているということになります。

では、この“影”とはそもそも何でしょう。それは言うもでもなく物体によって光が遮られた結果できるものです。大きさや形は影ができる面の角度に応じて異なり、歪んだ像となって見えることもあります。変幻自在のこの影は比喩的な意味でも使われることも多く、文学や心理学の概念としても使用されてきました。

視覚を感覚の中心としている我々人間にとっては、光があってものが見える場合、必ずそこには影があります。また、影は常にそれができる原因となる遮蔽物と対となって存在します。「影の中に入る」ということは、光から遠ざかることを意味しており、このため日常世界から何がしかの距離を置くことを影に例えることもあります。

古代ギリシア語で心や魂を意味する「プシューケー」には、魂の影もしくは人の影という意味があります。「魂の影」が何を意味するかについては色々な解釈がありますが、これを「幽霊」と同一視する向きもあります。

同じ古代ギリシアの哲学者プラトンは、我々の見ている現象世界は、本当の世界の影にすぎない、という意味のことを言っています。影は原像の姿に似た形を持っていますが、原像そのものではありません。しかし、プラトンは我々が住む世界こそが影であり、目で見て把握できない世界は別にあって、それこそが本当の世界だと主張しました。







こうした実像の仮像こそが本物だ、いやその逆だといった宗教的・文化的議論はこれまでにもよくなされ、これによって多くの影に関する神話や暗喩が生まれました。

そうした中から光に対しては闇があるならば光の世界に対しては闇の世界があるといった考え方が出てきましたが、その延長として、光が生命の躍動に満ちた生であり存在なら、闇は死であり無である、といったやや飛躍した考え方が生まれました。

影は、夢や想像に現れる死者などをイメージさせます。このため影の世界に棲む存在を「亡霊」と呼び、時にはその世界を「あの世」あるいは「冥府」と呼んだりするようにもなりました。

また、生きている人間に宿る魂に付随する第二の魂がこの闇の中に棲んでいるという見方も生まれました。人間が持つ魂には表と裏がある、と言う考え方です。

自分自身の姿を客観的に見ることを「自己視」といいます。自己の内面を見つめ、そのことによって自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為です。より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方、より優れた人格などの獲得を目指すものであって、時に自己啓発と呼ばれたりもします。

この自己視によって、人は真の自分=裏側に隠された自分を見ることができるとされます。ところがその過程で、鏡に映る自分ではなくそこから抜け出した自分とそっくりの姿をした分身を見てしまう場合があるといいます。

つまり自分の影を見ているのであって、こうした現象をドッペルゲンガーといいます。古くから神話・伝説・迷信などで語られてきました。肉体から霊魂が分離・実体化したものとされ、この影は時には第2の自我を持つ場合すらあるといいます。

古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは、同日同時刻に遠く離れた別の場所で大勢の人々に目撃されたと言い伝えられています。また、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシア皇帝のエカテリーナ2世、日本の芥川龍之介などの著名人もまた自身のドッペルゲンガーを見た経験を語っています。

医学的には“autoscopy”という名前が付けられており、日本語で「自己像幻視」と呼ばれています。現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似することもあるそうです、また普通は、独自のアイデンティティや意図は持ちませんが、自己像と相互交流、つまり対話したりする症例も報告されています。

こうした症状はたいていは短時間で消えますが、人によっては常態化します。このことから、統合失調症と関係している可能性があるといわれています。周りに誰もいないのに命令する声や悪口が聞こえたり(幻聴)、ないはずのものが見えたり(幻視)して、それを現実的な感覚として知覚する病気です。

脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースも報告されています。脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域の機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあるそうです。

しかし、こうした科学的解釈で説明のつかないドッペルゲンガー現象も多数あるようで、上のピタゴラスの例以外では、19世紀のフランス人でエミリー・サジェという女性の例があります。この人は同時に40人以上もの人々によって繰り返し目撃されたそうです。



こうした自分の影を見るというドッペルゲンガー現象は死と結びつけられ、自分自身で自分の影を見るということは「死の前兆」であるとされてきました。

「影の病」「離魂病」とも言われ、ドッペルゲンガーを見ると本人が死ぬだけでなく、その影を見た人も死ぬ、といったことまで言われるようになりました。実際、リンカーン大統領は暗殺されていますし、芥川龍之介以も自殺しています。またピタゴラスも最後は暴徒に襲われて非業の死を遂げています。

しかし、エカテリーナ2世は晩年まで大過なく暮らし、ロシア革命が勃発する前に67歳で病死しています。ドッペルゲンガーを見たからといって実際に当の本人が死んだりそれを見た人が死んだという事例も実際にはあまり多くないようです。

ただ、こうした死の前兆とされるドッペルゲンガー現象は小説家にとっては魅力的な題材となってきました。18世紀末から20世紀にかけて流行した幻想小説作家たちは、好んでこの現象を取り上げ、影は「自己の罪悪感」を投影するものだとして、数多くの作品が生まれています。

例えば、エドガー・アラン・ポーがドッペルゲンガーを主題にした怪奇譚「ウィリアム・ウィルソン(1839年)」は、ポー自身が幼少期を過ごしたロンドンの寄宿学校が舞台になっています。

ここに通う主人公の学生「ウィリアム・ウィルソン」が、突如としてそこに現れた同性同名の自分の分身に振り回されるようになり、最後には自分で自分を殺してしまう、という話です。この第二の自己は主人公を付け回しながら、次第に狂気へといざなっていきますが、実はこの影は主人公の希望を具現化したものでもあった、というのがオチです。

「ウィルソン」は英語で“Wilson”であり、書き下すと“Will son”になります。これを根拠に、この物語で登場する第二の自己は主人公の良心の具現化であるという人もいます。息子(son)は自分自身であり、つまり主人公は穢れのない少年の心を持った生き写しとともに生きることを望んで(Will)いたという解釈です。



こうした自分自身の影をテーマを扱った話は日本にもあります。戦国時代の武将の中には実際に「影武者」を持っていた人物もいるということですが、これを題材にした一つの例が黒澤明の「影武者(1980年)」です。

武田信玄に瓜二つだった盗人の男が、あるとき信玄に助けられたことなどを信義に感じて影武者になることを申し出ます。最後には正体がばれてお役御免となりますが、その後なおも信玄への忠義を守り、長篠の戦いでは小兵として参加します。

槍を拾い上げ、ひとり敵へと突進する中、最後は致命傷を負いますが、喉を潤すべく河に辿り着いたとき、河底に沈む風林火山の御旗を見つけます。その御旗に駆け寄ろうとしますが、そこで力尽きて斃れ、その屍は河に流されていく…というストーリーです。

物語の前半、数々の戦で100万人を殺したとされる武田信玄の影武者となったこの男は、合戦で戦死する兵士や自分の盾となり犠牲になった家来などを目の前にして傷つきます。

その体験を通じて「大悪党」である信玄がいかに苦悩してきたかを悟りますが、その過程で自分も成長し、最後には自分を育ててくれた信玄に殉じて死んでいくという内容であり、「影の魂の成長話」と捉えることもできます。

一方、隆慶一郎の「影武者徳川家康」では、影の方が実像の家康よりも生き生きとして才知に満ちている、といった設定になっています。関ヶ原緒戦で暗殺された家康本人に代わって、影武者となった男が自由な世の中を作るべく、駿府政権の長として大御所政治を推進し、最後は二代将軍の秀忠と戦う、という内容です。

この話では、家康に瓜二つであるだけでなく、知識からものの考え方までもそっくりの主人公の心の内が細かく描かれています。自我と無意識、つまり自分自身と影のあいだの調整を取りつつ生き方を模索し、「道々の者」として自由な世の中を作ろうとするその姿は家康本人を彷彿とさせます。

影が人間にとっていかに重要な存在かということは、ドイツの作家、アーデルベルト・フォン・シャミッソーの「影をなくした男」の物語にも示されています。少し詳しく書いてみましょう。

貧困に悩む主人公ペーター・シュレミールは、金策のためにとある富豪の屋敷を訪れ、そこで灰色の服を着た奇妙な男を目にします。男は上着のポケットから望遠鏡や絨毯、果ては馬を三頭も取り出して見せ、これを見たシュレミールは驚嘆します。しかし、周囲の人々はなぜかそれを見ても気にも留めない風でした。

そのうち男がシュレミールのもとにやってきて、あなたの影が気に入ったので是非いただきたい、と申し出ます。彼は躊躇しますが、「では、望みのままに金貨を引き出せる幸運の金袋はどうでしょう」と男が提示したことから、一年だけ、という期限を設けて自分の影を引き渡してしまいます。

こうして金には困らなくなったシュレミールでしたが、しかし影がないために道行く人という人にから非難を受けるなど、影のない人生が思ったより幸福でないことに気がつき始めます。

男と取引してしまったことを後悔し始めた彼は、召使を雇って灰色の男を何とか探そうとしますが見つけることができず、やがて人に影がないことを知られないように引きこもるようになります。

ある町の温泉街で隠れるようにして日々を過ごすようになりますが、ある時この街に住むミーナという女性に一目惚れします。この恋は成就し、影がないことをうまく隠し通しながら彼女と逢瀬を続けます。

しかし、いざ結婚の申し込みをしようというときになって、召使いの一人の告げ口によって影がないことがばれてしまいます。しかも、こともあろうにミーナはこの裏切り者の召使と駆け落ちしてしまいました。



ちょうどそのころ約束の1年が過ぎました。目の前に現れた例の灰色の男を見たシュレミールは、ここぞとばかりに影を返してくれと頼みます。しかし、男はこれを拒み、影を返して欲しいなら、シュレミールが死んだあとにその魂を引き渡せと要求します。手品師のふりをしていた男は実は悪魔だったのでした。

彼は悩みますが、逡巡したのちにこれを拒みます。灰色の男を振り切り、こうしてシュレミールは幸運の金袋も財産もすべて捨てて独り放浪の旅に出ます。そんな中、ちょうど靴を履きつぶしてしまったことから、なけなしの金で古靴を購入します。すると、この靴はなんと一歩で七里を歩くことができる魔法の靴でした。

シュレミールはこの靴を利用して世界中を飛び回り、「自然研究家」として新たな人生を歩むことを決意する、というところで話は終わります。

この物語は主人公ペーター・シュレミールが友人であるシャミッソーという男に当てて自分の半生を記すという形をとっています。この人物は同姓の原作者そのものであって、実際のシャミッソーも自然研究家を目指していました。そして物語の主人公のシュレミールはその「影」ということになります。

作品の合間にときおり、このシャミッソーへの呼びかけが差し挟まれているのは、筆者であるシャミッソーの自分への問いかけでもあります。物語の最後の部分も、自然研究家として充実した人生を送っていく決意を、影である主人公が直接シャミッソーに言葉で伝える、という形で終わっています。

シュレミールは、無尽蔵に金貨が手に入るという魔法の誘惑に負けて、悪魔に自分の影を売り渡してしまいましたが、富を手に入れたのち、「影」がいかに重要なものだったのかを悟ります。著者は、自分自身の影がいかに自我に影響を与え、かつその存在を支えてきたかをこの物語で伝えたかったのでしょう。

このように、影を題材にした物語には、影と人の生きざまを関連付けるものが多くなっています。多くの宗教で、人の生死には肉体的な意味の生死だけでなく、精神的な意味の生死がある、としています。人の発達と成長は、精神的に未熟な自己、つまり影の部分の死によってこそ得られ、そうした経験を経てこそ新しい自己が生まれます。

心理学者のカール・グスタフ・ユングもまた「影は、その人の意識が抑圧したり十分に発達していない領域を代表するが、また未来の発展可能性も示唆する」と書いています。自らの未熟な部分こそが影として現れてくるのであって、その存在を意識することがより良い未来を見つけるヒントだと言っているのです。

また「影は、その人の生きられなかった反面をイメージ化する力である」とも書き残しています。人生においてはうまくいかないことが多々ありますが、それを否定することがその人の人生に影を落とします。うまくいかなかった理由を深く分析し、それを反面教師として学ぶことによって自分を成長させることができるのです。

影を無意識の世界に追いやるのではなく、むしろそれとしっかり向き合いましょう。影は自分自身の否定的側面、欠如側面ではありますが、自己の形成においては不可欠なものです。

自分の欠点が何であるか、どこにそれが形成された原因があったかをよく考えてみましょう。そうすれば、必ずその欠点を長所に変えるヒントが見つかるはずです。そしてその発見こそが影を自我に統合するということに繋がります。それによってさらに自我を発達させることができ、ひいては自己実現のための道が開けます。

この年末年始には、少し時間的に余裕のあると言う人も多いでしょう。ゆったりとした気分になって、いま一度自分の影の部分を見つめてみてはいかがでしょうか。