海恋し

松が取れ、三連休も終わって、仕事はじめとなった。

と、はいえ毎日勤めがあるわけではない。

日々、自己完結の中での暮らしであって、責任はすべて己に帰する。

その中で自分を律し、何をかやを成し遂げる、というのが理想だ。

人に邪魔されたり、何かを強制されるという心配はほぼない。好きなことをやればいい。

しかし、それをやっていて飽きずに楽しいというものはなかなかない。

早くそれをみつけなければ、と思っているうちにどんどんと月日は流れていく。

老後とは、あるいはそういものなのかもしれない。

多くの人がそれを見つけられないまま死んでゆく。

父もそうだったかもしれない。

彼の場合、過去への憧憬がその晩年のテーマだったようだ。

満州という、自分が生まれ育った土地への郷愁を募らせることが日課であり、それを生きがいにしていた。

ひとそれぞれだ。しかし、ノスタルジーにはおおむね進歩性がない。

私はそれはしたくない。

過去ではなく未来を見据え、何かに挑戦し続ける晩年でありたいと思う。

ただ、そのためにはエネルギーが要る。

何をテーマに選ぶかもさることながら、それをやり続けるための源泉が必要だ。

なんだろうかと考えるに、そのひとつが健康であるということだけは間違いない。

生き続けて、事を成すためには健全な肉体を維持し続けることが最も重要だ。

ほかには何が必要だろうか。

お金とか食べ物とか人間関係とかいろいろあるだろうが、私的には美しいものをいつも眺めていたい、ということがある。

花鳥風月は人の心を豊にする。美しい景色は創作意欲を掻き立て、年齢を忘れさせてくれる。

そうした意味ではこの地は恵まれている。

目の前にそびえる富士は美しいし、麓を流れる狩野川は心を癒してくれる。

少し車を走らせれば、静かに時を過ごすことができる里山がそこにある。

ただ、海が身近にないのが残念だ。

物心ついたころから、海が自分の人生の一部のように感じていた。

それをテーマにした学校を選び、学び舎のそばにはいつも海があった。

結婚式もしかり。海上神殿ともいえる島で新たな人生のスタートを切ることができた。海がこの人生の象徴であることの証だった。

その海から遠ざかってから長い。

東京で20年、伊豆で10年、人生の半分を陸や山の中で暮らしてきた。

もうそろそろいいだろう。

自分へ回帰したい。

健康でいて、海のそばで過ごす。そこでやりたいことをやる。

何をやるかは、そこへ住むようになってから決めるでもよかろう。

今年は、ぜがひでもそのための手がかりをつかみたい。

西へ。

そこから何かが始まるに違いない。