日蓮 ~伊東市

 蓮着寺前の海岸

雑木、雑草を抜き、ようやく庭が作れる状態になってきたので、あちこちのホームセンターへ行っては、植木を買い込んできています。先日は、お隣との境界にキンモクセイを植えました。植樹は本当は、まだ寒い時期の2~3月のころがいいと聞きますが、強い日差しもなく、適度な湿度が保たれる梅雨時も、さほど悪くないのだとか。暑い夏が来てしまう前に、主だった庭木を植えてしまいたいところです。

どんな庭にしようかなあ、といろいろ考えてみているところなのですが、どうもイメージがわかん。しかし、手前に向かってやや斜面になっている庭なので、その高低差をうまく使うと良い庭になるのかも。先日行った富戸の四季の花公園も海に向かうなだらかな斜面をうまく使って公園づくりをしていましたっけ。

その四季の花公園をもう少し南に行ったところに、蓮着寺というお寺があります。公園からも遠目には見えたのですが、日蓮宗のお寺ということで、とくに興味もなかったので今回は訪問を見送りました。

ところが、先日、テレビ東京の「なんでも鑑定団」の録画を見ていたら、この中に日蓮上人の「坐像」なるものが登場。その中で伊豆へ流罪された、などと解説しているではありませんか。

こりゃあ、なんかそれについて調べてみい、ということなのかもしれないと思い、さっそく調べてみると、この蓮着寺、その昔、日蓮上人が鎌倉幕府ににらまれて、流罪になった地に建てられたのだそうです。日蓮さんといえば、日蓮宗(法華宗)の宗祖で、同時代の親鸞や法然と並び、現在でも偉人とされる宗教家のひとりです。現在では、330万人もの信徒がいるといわれる大宗教に成長した日蓮宗ですが、これを提唱した日蓮さんは、このとき、49歳。この当時としては結構高齢です。

で、なんでにらまれていたかというと、その当時の鎌倉幕府の執権、北条時頼に提出した、「立正安国論」なるものが、幕府批判ととられたため。

そういえば、中学校か高校のときに、「立正安国論」って出てきたよな~と思いつつさらに調べを進めると、日蓮さんは、この論文の中で、その当時のメジャー宗教であり、法然さんが提唱した浄土宗を非難したのだとか。このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けるとまで言い切り、逆に日蓮さんのとなえる法華経を中心とすれば国家も国民も安泰となる(立正安国)と主張したのです。

この論文は、浄土宗の門徒を怒らせ、僧ら数千人により居宅を焼き討ちされます。このときはなんとか難を逃れたものの、禅宗を信じていた北条時頼からも「政治批判」と見なされ、翌年に伊豆へ流罪となったというわけ。

流罪といえば、かの源頼朝も、伊豆へ流罪になったことがありますが、この時代、伊豆って政治犯を放逐するような場所だったんですね。

その伊豆に流罪となった日蓮さんが置き去りにされたのが、この蓮着寺近くの烏崎というところの海の上、「俎岩(まないたいわ)」というのだそうです。今もその岩は残っているらしく、ネットで見たのですが、人が一人立つのはちょっと無理かな、と思うほど小さく、しかもざんぶざんぶと波をかぶっています。その昔はまだ侵食されておらず、もっと大きかったのかもしれません。

しかし、そこをたまたま通った、漁師?の弥三郎という人の小舟が通りかかって、日蓮さんは助けられます。以後、この地方に拘留されることになりますが、一年九ヶ月後、幕府に許されて赦免となり、鎌倉へ帰っています。

で、この蓮着寺は、後年の室町時代、日蓮さんのお弟子さんが、宗祖の足跡をたどっていたところこの地をみつけ、地元の古老などの話を聞いて確認した上で、ここに寺を建てたのだとか。

お寺の敷地は21万坪もあって、天然の樹木に囲まれ、樹齢千年を超えるやまもも(揚梅木)の大木や樹齢百年の椿の木、薮椿の群生が有名なのだそうで、今度機会があったら行ってみようかどーです。

ところで、日蓮さんが伊豆へ流されたのは1261年ですが、その前年の1960年には、かのフビライ・ハンが即位して、モンゴル帝国を樹立しています。立正安国論で海外からの脅威を説いた日蓮さんですが、奇しくもその予言どおり、1267年には、高麗の使節団がモンゴル帝国、つまり、蒙古の新書を持って来日。その後も68、69、71年と続けざまに使節が来日して親書を日本側に渡しています。来日の目的は、名目上、通商ということだったようですが、実際には領土拡大のための侵攻のための布石でした。

1268年に蒙古の使節団が来たとき、日蓮さんは幕府に元寇の襲来の可能性があることを重ねて進言していますが、時の執権、北条政村はこれを無視。逆に幕府を批判したとして、1971年には今度は佐渡へ飛ばされます。

そして、1274年の秋、10月20日に福岡に大元(蒙古)と高麗の軍隊が進行、いわゆるひとつの「元寇」が勃発します。その後結構、激しい戦闘も行われた場所もあったようですが、蒙古軍はたった一日で撤退。その原因は台風だったのではないか、というのがもっぱらの通説ですが、蒙古軍の中の意見のくいちがいによるものだという説もあります。

実は、この蒙古が襲来したその年の春に日蓮さんは、放免されています。その理由は調べてみたけれどよくわからなかったのですが、時の執権が北条政村から時宗に代わっています。この時宗さん、蒙古からの使節団がたびたびやってくる頃に第8代の鎌倉幕府執権として就任していますが、なかなか優秀な人物だったらしく、使節団の要求も適当にあしらって追い返しています。

もっともそのせいで蒙古を怒らせたのでは、という説もあるようですが、後世の人物評価としては、その後二度にわたる、蒙古襲来を防いだ「英雄」というイメージが定着しているみたい。2001年には、狂言師の和泉元彌さん主演のNHK大河ドラマ「北条時宗」が放映されるなど、この時代のヒーローとみる向きもあるようです。

ちなみに、この大河ドラマで、第7代執権、北条政村役をやったのは、伊藤四郎さん。劇中では、食わせ者であり、のらりくらりとした人物として描かれていたそうです(私はこれを見ていません)。執権となった際には、老年になってからの就任であったために小躍りして喜んだとか、無能だったくせに、執権の座を失ったあとも、ちゃっかり時宗に連署として補佐役として君臨したとか、あまりいいイメージでは扱われていません。

実際にもそんな人物だったのかも。日蓮さんのような優秀な人を流罪にしたのも、なんとなくわかるような気がします。史実では、政村さんの生母は、かつて執権継承に我が子を食い込ませようと策謀した咎(とが)で北条政子によって追放されています。そんな母親を持つ息子ですから、あまり高級とはいえない人物だったのではないでしょうか。

ちなみに、この劇中での日蓮役はというと、奥田瑛二さんがやっています。実際にドラマをみていないので、どんなふうに演じたのかよくわかりませんが、奥田さんなら、新進気鋭の宗教家というイメージをうまく表現されていたのではないでしょうか。

さて、1274年の春に放免されて鎌倉へ帰った日蓮さんですが、その後、最も信頼していた弟子で、甲斐の国の地頭、「波木井実長」さんという人の領地に行きます。そして、その領地のひとつ、身延山を寄進され、ついに日蓮宗の総本山、身延山久遠寺を開山するのです。

この久遠寺のある、現山梨県身延町は、富士山のすぐ西側にあって、伊豆からもそう遠くないところです。私もかつて亡き妻と一緒に訪れたことがあるのですが、標高1153mの山の頂上にあるこのお寺へ行くには、ふもとから登山するか、もしくは、片道7分のロープウェイを利用するのですが、いずれにせよ大変です。ロープウェイを利用したとしても、半分は登山しなくてはならず、また、最後に本堂へ上がるには、急な石段を登らなくてはいけません。この石段、何段あったか覚えていませんが、100段以上はあったと思います。かなりの段数です。

実は、このとき、亡き妻のおなかには息子が宿っており、そのとき二人ともそのことを知りませんでした。そんな体なのに急な階段を上っても大丈夫だったくらいだから、丈夫な子供が生まれたんだ、とあとで二人で笑い合ったものですが、よくよく考えてみると冷や汗ものです。

1277年の9月のこと、この山頂にある久遠寺からの下山中、日蓮さんがお弟子一同に説法をしていたとき、「七面天女」が現れたという伝承が残されています。

七面天女とは、七面大明神が正式名称で、久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった神さまです。その七面天女が日蓮さんの目の前に現れたことの顛末というのは以下のとおり(ウィキペディアより引用。筆者により若干の編集)。

9月、身延山山頂から下山の道すがら、現在の妙石坊の高座石と呼ばれる大きな石に座り日蓮は、信者方に説法をしていました。その時、一人の妙齢の美しい娘が熱心に聴聞していたそうです。「このあたりでは見かけない人であるが、一体だれであろうか」と、一緒に供をしていた人達はいぶかしく思いました。

日蓮さんは、一同が不審に思っているのに気付いていましたが、読経や法話を拝聴するためにその若い娘が度々現れていたことも知っていました。そして、その娘に向かって、「そなたの姿を見て皆が不思議に思っています。あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」と言いました。

すると、娘は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えたので、日蓮さんは傍らにあった水差しの水を一滴、口に落としたそうです。すると、なんと今まで普通の姿をしていた娘が、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の天女の姿に変じていったのです。

そして、「私は七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎと満足を与えます」と言い終えるや否や、七面山山頂の方へと天高く飛んで行きました。その場に居合わせた人々は、この光景を目の当たりにし随喜の涙を流して感激したということです。

無論、この出来事が本当かどうかはわかりませんが、それまで苦難の人生を歩んできた日蓮さんに対して、天が最後に与えたご褒美だったのかもしれません。

1982年の9月、日蓮さんは、病を得て、地頭の波木井実長さんの勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山します。10日後には、武蔵国の池上宗仲という人の館(現在の本行寺)へ到着。池上さんの館のある谷の背後の山上にお堂を開き、長栄山本門寺と命名します。

これが、日蓮さんが最後にやった仕事です。10月8日には、死を前に6人の弟子を後継者に定め、この弟子達は、のちに六老僧と呼ばれるようになります。
10月13日、旧暦ですから、現在の11月下旬の午前8時頃、池上邸にて入滅。享年61(満60歳)。

今日は、「歴史をひもとく」シリーズになってしまいましたが、改めて思うに、伊豆はどこへ行っても歴史のエピソードの宝庫です。自分でものめりこむほど面白い出来事に出合うとついつい、時間を忘れてそれを調べてみてしまったりします。それにお付き合いいただくみなさんも大変だと思いますが、お暇があればまた付き合ってやってください。

そうそう、この間ちょっと触れたペリーさんのお話も気になります。また今度改めてアップしましょう。