コーヒー飲んだ ?


今日12月12日には、日本最初の「カフェー」が東京の京橋にオープンした、と「今日は何の日」に書いてあったので調べてみたところ、どうもガセネタのようで、実際にオープンしたのは1911年(明治44年)の3月のようです。

まっ、日にちは違ってもいいか、あまり面白そうな話題も思いつかないし……ということで、そのまま今日は喫茶店やコーヒーに関する話題に入りたいと思いますが、どうも最近惰性でテーマを決めてばかりいるようでやや反省。

ちなみに今日のブログタイトルは「コーヒールンバ」にかけてみたのですが、誰も気がつかないか……こちらもあんちょくです。

さて、この日本初といわれるカフェーで提供されていたコーヒーですが、その当時は3銭だったといいますから、今の金額では50円ちょっと。かなり安いですし、しかもそのコーヒーを白いエプロンをした若い女性が運んでくれるのが話題となりました。

その名も「カフェー・プランタン」という洒落た名前で、喫茶店とはいえ、コーヒーが主な提供品ではなく、洋食がメニューの中心だったそうです。「カフェー」という名前でしたが珈琲以外にも酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出し、「焼きサンドイッチ」が名物でした。

しかしなんといってもその最大の売りは、和服にエプロンをきた若い女給で、ただ単に給仕をするだけでなく、店に来た客の話相手にもなってくれたため、開店当時は店内はいつも満員状態だったとか。

創業者は、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)を卒業した松山省三という人で、美術学校時代の恩師・黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェー」のような文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、友人らとともに東京府京橋区日吉町、現在の東京都中央区銀座8丁目5~6番あたりに開業しました。

建物は銀座煉瓦街のものを改装したもので、松山が明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家の小山内薫に相談したところ、フランス語で「春」の意味をもつ「プランタン」がいいと言ったことからこの名前になりました。

この店ができる前にも、「台湾喫茶店」なるものやビヤホールといったものはあったようですが、フランスなどの洋行帰りの人たちが、パリにあったのと同じような意味での「カフェー」はこれが初めてだと口にしたため、これが日本初のカフェーとして評判を呼ぶようになったということです。

このカフェー・プランタンは、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階に会員専用の部屋があったそうで、創業者の松山が美術学校の卒業生だったことから、会員には洋画家の黒田清輝や岡田三郎助、和田英作、岸田劉生などの有名どころが名を連ねました。

また作家の森鴎外や永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月などのほか、歌舞伎役者の市川左團次などのこの当時の多くの文化有名人が会員だったそうです。

「女給」つまり、ウェイトレスは、フランスのカフェにはおらず、プランタン独特のアイデアでしたが、このあとにできた「カフェー・ライオン」や「カフェー・タイガー」等では、この女給を「売り」にするいわば「風俗営業」であったのに対し、プランタンではそれだけが売りではなく、文学者や芸術家らの集まることで有名になり、このため逆に普通の人には入りにくい店であったといいます。

常連の有名人が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていたといい、永井荷風が当時入れあげていた新橋の芸妓「八重次」と通ったのもこの店で、荷風の「断腸亭日乗」という小説にもこのカフェの名前がしばしば登場するということです。

この当時のいわゆる「カフェー」を代表する存在であり、後年の美人喫茶や最近のメイドカフェの先駆けにもなりましたが、だからといってこれが、日本初の喫茶店かというと、そうでもないらしく、日本初の喫茶店と考えられるのは1878年(明治11年)に下岡蓮杖の開設した「油絵茶屋」という店のようです。

絵画を見せながらコーヒーを振る舞うといういわば「絵画喫茶」であり、喫茶店の定義をコーヒーを飲ませる店とするならばこれが日本で初めて登場した喫茶店ということになるでしょう。

このほかにも明治の初めころには、神戸元町の「放香堂」や、東京日本橋の「洗愁亭」などの店でコーヒーが振舞われたそうで、現代に見られるような本格的な「コーヒー専門店」としての形態を初めて持ったのは1888年(明治21年)に上野に開店した「可否茶館(かひいちゃかん)」のようです。

この店はトランプやビリヤードなどの娯楽も楽しめる「複合喫茶」だったそうで、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室までも備えており、「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」が売りでしたが経営は振るわず、1892年(明治25年)ころに幕を下ろしました。

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初のようです。ただ、江戸時代の狂歌師、大田南畝(おおたなんぽ)が記した「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」という随筆には「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とあり、この当時の日本人にはコーヒーの味は受け入れられなかったようです。

しかしその後、黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目にも触れるようになりました。

幕末の1866年(慶応2年)には、輸入関税が決定され、その後1877年(明治10年)からはコーヒーが正式に食品として輸入されるようになると、国内各所でコーヒーを商品として取り扱う地盤が出来上がるようになります。

前述の「カフェー・プランタン」や「カフェー・パウリスタ」、「カフェー・ライオン」などのカフェーが銀座に相次いでオープンするのはこれよりかなり後の明治末期になります。

それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博しました。

ちなみに、カフェーライオンは、今も銀座を中心として全国展開しているレストラン「銀座ライオン」の前身になります。

また、カフェー・パウリスタは、大隈重信が協力してできた店であり、その社長がブラジルへの日本人移民の斡旋をしていた関係から、その見返りとしてブラジル政府より3年間で1000俵のコーヒー豆無償提供を受けたものが原資になりました。

このため別名、「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」という名前を持ち、芥川龍之介や平塚らいてう(らいちょう)などの文化人のほか一般の学生や社会人などが出入りする庶民的な店舗として人気を博しました。

この喫茶店は今もあり、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが愛した銀座店は、現存する国内最古のコーヒーショップとして知られています。

このほか、コーヒーは提供せず、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」などもこのころかなり流行して学生などに人気を博し、これも喫茶店の元祖と考えることができます。

こうして明治時代の末期に東京に次々とできたカフェーやミルクホールなどの飲食専門の喫茶は全国に広まっていきました。

しかし、大正から昭和にかけては、「飲食を提供しつつサービスを主体にした店」と「コーヒーや軽食などの飲食を主体とした店」への分化が進むようになり、前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」として発展していき、どちらかといえばバーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになっていきます。

1929年(昭和4年)には「カフェー・バー等取締要項」が出され、続いて1933年(昭和8年)には「特殊飲食店取締規則」が出されると、「飲食を提供しつつサービスを主体にした店」は「特殊飲食店」として規制の対象となっていきました。

一方で、「コーヒーや軽食などの飲食を主体とした店」のほうは規制の対象から外れ「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、やがて外来する店舗も含んだ「カフェ」(「カフェー」ではなく)として発展していくことになります。

1933年(昭和8年)当時、「特殊飲食店」の数は「喫茶店」の2倍もあり、喫茶店のほうが劣勢でしたが、このころから次第に一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10000店舗を数えるようになりました。

その後も順調に増え続け、サービスや提供形態の多様化が進み、多様化した店舗はその地域を象徴するような存在になっていき、例えば銀座では高級感を売りに出した喫茶店がここの名物として知られるようになっていきました。

また、神田では容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開する喫茶店が、神保町では落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルの喫茶店が定着しました。

しかし日中戦争が勃発し、戦時体制が敷かれるようになるとコーヒーは贅沢品に指定され、1938年(昭和13年)には輸入制限が始まります。第二次世界大戦がはじまると完全に輸入が禁止され、供給源を断たれた喫茶店は次々と閉店していきました。

こうした中でも大豆や百合根までを原料とした代用コーヒーを用いて細々と経営を続ける店も見られましたが、一方ではこうした事情を契機として、喫茶店から別の業種へ転向する店も多くなり、現在もある「千疋屋」や「ウエスト」、「コロンバン」「中村屋」といった店はすべて戦前は喫茶店であり、そこからの転向が成功した代表的な例です。

戦後、荒廃した日本で喫茶店が復活し始めるのは1947年(昭和22年)頃からのようです。戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが闇市で流れるようになりますが、まだまだ高級品であり、一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となります。

こうした輸入豆の提供先は、そのほとんどが個人経営の喫茶店だったようで、戦後復興期に利益率の高いコーヒーを「売り」として個人商店として出発した店が多かったことを物語っています。

1960年(昭和35年)頃までは、全国的にみても個人経営の店が主流であり、「店主のこだわり」が店の個性としてもてはやされ、「おいしいコーヒーが飲める店」が人気を獲得しました。

このころからコーヒー専門店の競争も激しくなり、単にコーヒーだけを提供するだけでは経営が成り立たなくなってきたことから、次第に「音楽系喫茶」と呼ばれる喫茶店などが増えてきました。

美輪明宏や金子由香利などのミュージシャンを輩出した「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶や「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏がサービスの主となったジャズ喫茶ができ、このほかにも、歌声喫茶、ロック喫茶、後年のディスコやクラブなどに多大な影響を与えたロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶など多数の業態の店が誕生します。

高度成長期に入る前のこの時代にはまだLPレコードなどは高額な趣味品であり、個人レベルで入手することが困難であったため、喫茶店はこうした音楽鑑賞を趣味とした庶民たちが集まる場所でもありました。

ところが1970年代に入り、日本が高度成長期に突入すると、住宅環境の改善や音楽配信媒体の低価格化が進み、こうした音楽を売りにする業態の喫茶店の需要は次第になくなっていきます。

1970年(昭和45年)頃、名古屋で漫画喫茶という新たな業態の喫茶店が誕生し、雑誌やコミックを多数取り揃え自由に読ませる形式が広く受け入れられ、一大ブームを巻き起こします。

当初、漫画喫茶はフルサービスの店が主流で入退店時刻を店側が管理し規定時間を超えた場合はもう1品注文して貰うといった方式が一般的でしたが、最近の不況下の漫画喫茶では何時間でも粘れる店も増えているようです。

さらに1995年(平成7年)以降のインターネットの普及に伴い、こうした店は漫画の他、インターネットのサービスも提供するようになり、全国にチェーン展開されるとパーソナル化が進行し、現在に見られる簡易な間仕切りが施されたセルフサービスタイプの店舗が一般化するようになりました。

一方、コーヒーなどの飲食だけを提供する店は別の形で発展し、1970年(昭和45年)代以降は、「コーヒーだけを飲む」という行為がより大勢の人に浸透するようになり、「珈琲館」や「カフェ・ド・コロラド」といった珈琲専門店が登場します。

やがて時代の流れが速くなり、「喫茶店でのんびり」といった行為が見られなくなると、細切れに空いた時間を活用したいという客のニーズに合わせた、従来の喫茶店に代わるセルフサービスのカフェが主流となり、そんな中で登場したのが、「ドトールコーヒー」でした。

鳥羽博道氏が1962年(昭和37年)に設立した「セルフカフェ」式の喫茶店であり、各地の主要都市の主にオフィス街で定着すると、それ以外の場所でも広まっていきました。

その後1996年(平成8年)にアメリカから進出してきた「スターバックス」は、カフェ ラテに代表される「ミルク系コーヒー」いわゆる「シアトル系コーヒー」をもたらし、そのメニューや提案は、特に女性に支持されるとともに、禁煙を売りにしたこの店のポリシーは健康志向の人々にも広く受け入れられるようになります。

スターバックスは、日本に上陸して僅か10年で業界最大手であったドトールコーヒーの売り上げを上回り、一躍業界最大手に躍り出ましたが、その後は続いて日本に進出して来た「タリーズコーヒー」「シアトルズベスト」と競合するようになり、そのほかにも「国産」のセルフカフェが多数進出し、現在この業界は混とん状態に突入しています。

こうしたセルフカフェの乱立は、業界全体を衰退させているようで、1981年(昭和56年)に全国で154630店を数えた喫茶店は2006年(平成18年)には81042店と約半減しています。セルフカフェが近所にできたことにより閉店を余儀なくされた昔ながらの喫茶店が多いものと考えられます。

「全日本コーヒー協会」が2006年に発表した「コーヒーの需要動向に関する基本調査」によれば、1週間あたりにコーヒーをどこで何杯のむかという調査結果では、喫茶店・カフェと答えた人は、20年ほど前と比べると三分の一ほどに減っており、逆に家庭や職場で、と答える人は年々増えています。

コーヒー全体の総飲用量は増加傾向にあるそうですから、こうした喫茶店での飲用量の低下は長引く景気の冷え込みによる外食産業全体の不振のあおりを受けたものと考えられます。

また、コンビニエンスストアやファーストフード店の競合など、外食産業の多様化も原因と考えられ、特にコンビニを中心として展開されるチルドカップコーヒーは、安価でおいしいと評判をとり、年々その市場規模を拡大しているようです。

今後コーヒー業界というのか、喫茶店業界というのかよくわかりませんが、こうした業種がどう変転していくのかについてはまるで見えない状況です。が、コーヒーそのものが飲めなくなってしまう、ということだけはなさそうです。

私自身はあまりコーヒーというのは好きなほうではないのですが、こうした文章を綴ったり仕事をしているときにはたいがい口にしています。好きでないのに何故飲むのかと言われれば答えに窮しますが、強いて言えば長年の習慣とあとやはり眠気覚ましでしょうか。

今考えると子供のころに初めてコーヒーを口にしたとき、なんでこんな苦いものを……と思ったものですが、長じてみるとこれが手放せないのが不思議です。ほかの紅茶や緑茶でも良いと思うのですが、やはり気がつけばコーヒーを手にしているのは、中にカフェインなどの薬物?が入っているからとしか思えません。

医学・薬学的には刺激剤や興奮剤として働く可能性も指摘されており、クリスチャンの中には一切口にしないという人も多く、「薬」として人体へ何等かの影響があるのは確かなようです。

とはいえ、アルコールのように飲みすぎないように、といわれるようなこともなく、ある研究では制癌効果も認められるなどの結果も得られているそうで、医学者の中にもこれを是認というか、むしろ勧める人さえいるようです。

その効果については賛否両論でそれを書いているとまた長くなりそうなので今日のところはこの辺にしたいと思います。

伊豆にはおいしいコーヒー屋さんがたくさんあるそうです。コーヒー好きのタエさんがそうしたお店に行きたがっています。今日はお天気が良いのでそうしたお店で富士山を眺めながらブレンドを飲むのも悪くないかも。みなさんもこんなブログなんか読んでいないで、おいしいコーヒーを一杯いかがですか。