小次郎は長州人?

突然ですが、下関へ行かれたことはあるでしょうか。

私の郷里の山口県を代表する都市の一つであり、その人口規模は県庁所在地の山口市を凌ぎ、山口県一の規模を誇ります。中国地方でも広島市、岡山市、倉敷市、福山市に次ぐ、5番目の人口規模の街であり、経済面でも山口県の中心的都市です。

全国規模の企業でも、下関市に営業拠点を置く企業は多いでしょう。日本銀行も山口市ではなく下関市に日銀下関支店を置いているくらいです。

中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれており、これを「赤馬関」とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)ともよばれ、江戸時代ころまでは、ここにある関門海峡のことを、馬関海峡と呼んでいました。

幕末に長州とイギリスが砲戦を行ったことでも有名であり、その当時の大砲のモニュメントなどが海峡を見渡せる公園に置いてあったりします。九州と本土をつなぐ、関門大橋の真下にあるこのあたり一帯は、「壇ノ浦」とも呼ばれ、江戸よりもはるか昔、源氏と平氏が最後の戦いを行った戦場でもあります。

こうした史跡も多い下関は本当に見どころの多い場所であり、かつ九州と中国地方のつなぎ目をまるで大河のように「流れる」関門海峡一帯は実に風光明媚なところであり、私も大好きな場所のひとつです。

私の実家は山奥の山口市内にあるのですが、時折、この関門海峡の眺めがむしょうに見たくなり、そのためだけにわざわざ車を飛ばして出かけることもあるくらいです。

関門海峡のやや南西付近には、「あるかぽーと」という商業開発区域があり、ここには世界的にもめずらしい、「フグ」の展示で有名な、下関水族館「海響館」を中心とした商業区域であり、これに隣接した「カモンワーフ」には海産物卸場と市場が併設されていて、いつもたくさんの人で賑わっています。

この一角も私のお気に入りの場所のひとつです。市場では朝早く行けば、新鮮な魚介類がリーズナブルな価格で手に入るし、時によってはエビやカニなどの甲殻類もかなり格安に入手できます。飲食店街も充実しているため、海産物を中心にしたメニュー目当ての観光客がいつもゴマンといるのが少々難点ですが……

この、あるかぽーとより更に西方向へ1kmほど行ったところには、別の商業施設の開発区域街があり、ここは「下関海峡メッセ」と呼ばれています。

旧国鉄貨物ヤード跡地を対象として再開発された場所であり、「海峡ゆめ広場」として公園整備されるとともに、各種の商業テナントビルのほか、海峡ゆめタワーと呼ばれる展望塔が建てられています。1996年(平成8年)に完成したもので、その高さは153m、展望室の高さは地上143mあります。

この展望台の高さは大阪梅田スカイビル空中庭園展望台の170mに次ぐものですが、梅田のはビルに設けられた展望台であることから、この海峡ゆめタワーは、自立型タワーとしては西日本では最も高いものになります。

展望室が球体状になっているため、360°の景色が楽しめ、夜間にもオープンしているため、関門海峡周辺の美しい夜景を楽しむこともできます。

この海峡ゆめタワーに上って、南側すぐの真下に、ひとつの島が見えます。

これがかの有名な、「巌流島」であり、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたとされる場所です。決闘が行われたとされる当時は、豊前小倉藩領で「船島」と呼ばれていましたが、小次郎が使っていた剣の流派が「厳流」であったため巌流島と呼ばれるようになりました。

意外と知られていませんが、「巌流」は「岩流」とも表記され、岩流剣術という流儀の名称です。後年、これが小次郎の号であると誤解されるようになったため、佐々木小次郎のことを「佐々木厳流」とも呼ぶ向きがあるようですが、これは間違いです。

この巌流島ですが、下関市街から約400mほど沖合にある小島です。標高は最高地点でも海抜10mに満たない平べったい地形であり、現在は公園として整備され人工海浜や多目的広場が設けられています。東の端にある海岸に設けられた遊歩道などからは関門海峡を行きかう大型船を間近に見ることができるといいます。

島の北端に船着場が設けられており、下関港と北九州側の門司港から、船便が運航されていて、800円くらいで渡れるはずです。私自身は、海峡ゆめタワーなどから直下に見えるのでわざわざそこまで行ってみようという気にもならず、一度も渡ったことがありませんが。

かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていました。豊臣秀吉も名護屋城(現佐賀県唐津市)から大阪へ帰る途中、ここで乗船が座礁転覆したといい、このとき秀吉は配下の毛利水軍によって助けられたと言われています。

このとき転覆した船の船長は、明石与次兵衛といい、船とともに沈んで死んでしまったため、江戸時代にはこの巌流島付近の浅瀬のことを「与次兵衛ヶ瀬」と呼んでいました。

この岩礁、その後も航行する船舶の邪魔になっていたため、大正時代に爆破されましが、その後はここを通らないで済む航路が開発されたため、埋め立てられ、現在の巌流島と合わせて一つの島となっています。

従って、現在の巌流島は300m四方もありますが、かつてのオリジナルの巌流島はもっと小さく、せいぜい100数十メートル四方の本当に小さな島でした。

与次兵衛ヶ瀬とともに埋め立てられてからは、明治中期にはコレラ患者の医療施設が立地していたそうで、第二次世界大戦後には島に移住者があり一時は30世帯に達したこともありました。

しかし、1973年には無人島に戻り、その後島の大半が下関市に譲渡され、2003年に公園として整備されました。が、今も島の一部はもともとここを埋め立てた三菱重工業の所有地になっています。

この公園、2003年度のNHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の放映にあわせた造成されたそうです。

原作は吉川英治ということで、主演もあの暴行(された)事件で有名になった市川海老蔵さんで、ほかに武蔵の幼馴染・本位田又八役に堤真一、幼馴染で恋人のお通役には米倉涼子、宿敵・佐々木小次郎にはTOKIOメンバーの松岡昌宏、小次郎の恋人・琴役は仲間由紀恵が配されました。

ほかにも、津川雅彦、西田敏行、中村勘三郎、藤田まこと、谷啓、中村玉緒らの蒼蒼たるメンバーがその脇を固め、大河ドラマ初出演になるビートたけしらの演技も話題を呼びましたが、視聴率は前半以降は低迷し、平均視聴率も16%台だったようです。大河ドラマ好きの私も、なぜかあまり興味がわかず、これを見ていません。

……と、ここまで前振りをしてきた以上、巌流島の戦いについて触れないわけにもいかないでしょう。

とはいえ、既にもう語りつくされた感のある武蔵のほうについては、あまり食指が動かないので、やっつけられて死んでしまったという、佐々木小次郎のほうをクローズアップしてみようと思います。

まず、武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、熊本藩の豊田景英が武蔵の生涯について編纂した「二天記」では、慶長17年4月13日、新暦では1612年5月13日に行なわれたことになっています。

慶長年間といえば、徳川家康が幕府を開いたころのことであり、まだ戦国時代の余韻が冷めやらぬころのことです。

これより20数年前、織田信長は、15代将軍足利義昭を擁立して、畿内から三好氏の勢力を一掃しましたが、このとき足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力したのが、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた名門、細川家出身の「細川藤孝(幽斎)」です。

その後、義昭と信長は対立するようになりますが、藤孝は長男の忠興とともに信長に従い明智光秀の組下として活躍、信長から丹後一国を拝領するようになりました。しかし、細川藤孝は本能寺の変では光秀に味方せず、その後は豊臣秀吉に服するようになりますが、その子の忠興は秀吉の死後、今度は徳川家康に属します。

このように、細川家というのは、時代ごとの覇者をうまく見極め、うまく立ち回って生き残っていった家系です。

そして、関ヶ原の戦いの功により豊前小倉藩39万9千石を領し、その子忠利の代には肥後熊本藩54万石の領主となるなど、徳川幕府内においては最大級の親藩でありながら、他藩のようなお取り潰しの憂き目をみることもないまま、明治維新に至っています。

この忠興の正室が、誰あろう、明智光秀の娘の「玉子」であり、これがかの有名な細川ガラシャです。

関ヶ原の戦いが勃発する直前、夫の忠興が徳川方につき、上杉討伐のため不在となった際、大坂の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしました。が、ガラシャはこれを拒絶し、家老に槍で自らの胸を貫かせて死んでおり、このことから悲劇のヒロイン、悲劇のキリシタンとして後年一躍有名になりました。

しかし、夫の忠興はその後の戦乱を生き抜き、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築きました。また父・藤孝と同じく、教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人に数えられ、茶道の流派三斎流の開祖としても知られています。

佐々木小次郎は、そんな細川氏が興した、後年の肥後細川藩の支藩である、小倉藩の剣術師範として生計を得ていました。

関ヶ原の戦いの際、東軍方に属し居城である丹後国の田辺城を守りとおした細川忠興は、豊前と豊後をの約40万石を領する大名となり、当初は中津城に入城しましたが、のちに毛利氏が所有していた小倉城を改修し、1602年(慶長7年)にこの小倉城に藩庁を移しました。

その後、忠興の子で、細川家2代の忠利の代になって、1632年(寛永9年)、幕府から改易を命じられ、このとき減封されるどころか逆に、54万石に加増されて熊本藩に移封されています。このため、細川家というと熊本、と思っている人が多いようですが、小次郎が細川家に務めていたころには、小倉が本拠だったわけです。

この小次郎ですが、その出自に関しては、武蔵ほど史料が残っておらず、不明な点の多い謎の人物です。出身については、豊前国田川郡(現福岡県田川郡)の有力豪族、佐々木氏のもとに生まれたという説があるほか、「二天記」では越前国宇坂庄(現福井県福井市浄)とも記されており、ほかにも長州生まれではなかったかという説もあるようです。

越前国出身説は、その秘剣「燕返し」を習得したのが、福井にある一乗滝という場所であったという史実から来ているようですが、長州説のほうは、山口県の阿武郡に、佐々木小次郎のものと言われる墓が現存していることから来ています。

しかし、もっとも信憑性が高いのではないかといわれているのが、豊前出身説であり、これは、北九州の郷土史家や武蔵研究家が唱えている説で、小倉藩家老で、門司城の城代だった沼田延元という人の家人が残した、「沼田家記」からそう推察されるからだということです。

なぜこの沼田家記からの推論が信憑性が高いかというと、これを記録するように命じた沼田延元という人は、実際に巌流島の決闘を目撃した人物だそうで、決闘の実際の内容を詳しく証言した内容をその子孫が詳しく書き残したものが、この沼田家記だからです。

とはいえ、400年以上も前の話です。小次郎が、北陸出身か、九州、はたまた長州出身かどうかというのはあまり意味のある議論でもないように思うので、とりあえず脇においておきましょう。

この小次郎、剣術使いとしては非常に才に恵まれた人で、これを学んだのが、中条流という流派の名人で剣豪といわれた、越前朝倉氏の家臣、「富田勢源」、あるいはこの勢源の門下で鐘捲(かねまき)流という流派を編み出した「鐘捲自斎」という人物だそうです。

剣術を学んだのが、こうした北陸の人だったということで、前述の佐々木小次郎の出身地論議の帰結は、やはり福井、ということになるのかもしれません。

剣の奥意を極めたのちは、安芸国の毛利氏に仕えますが、その後武者修業のため諸国を遍歴するようになり、このとき案出したのがかの有名な、「燕返し」であり、この剣法を考案したころから、小次郎は自らの流派を「巌流」と呼ぶようになります。

しかし、諸国をめぐって武者修行しているばかりでは食えないのは当たり前で、このため仕官してようやく採用されたのが小倉藩であり、ここで同藩の剣術師範となり、小倉城下に道場を開くようになります。

この小次郎が武蔵と決闘に至った経緯については、諸国修行中の武芸者となっていた宮本武蔵が、細川家の家来の長岡佐渡を通じて試合を申し込んだことが発端とされていますが、これは、吉川英治の小説などに記載されていたことであり、実際にはどういう経緯で試合に及んだかははっきりわかっていないようです。

しかし、前述の「沼田家記」には、ある年、宮本武蔵が小倉の城下へやってきて、二刀流の剣術の師範をするようになり、多くの弟子を持つようになったことが記載されています。

同じように小倉城下で剣術師範をしていた小次郎のもとにも弟子が大勢おり、この双方の弟子たちが、それぞれの師の兵法の優劣から口論になった、と沼田家記には書かれています。

そして、それがのちにさらにエスカレートし、ついには武蔵と小次郎をそれぞれの流派の代表者として二人で兵法の優劣を決するための試合をすることになったようで、場所を巌流島と指定したのは小次郎側だったようです。

公平を期すため、双方とも弟子は一人も連れてこないよう事前に取り決められて試合が行われましたが、結果としては誰もが知るように、小次郎は打ち負かされてしまいます。

吉川英治の小説では、約束の時間に遅れて島に着いた武蔵は、船の櫓(ろ)をけずって作った長い木剣で「物干しざお」と呼ばれるような大きな刀を使う小次郎を倒した……と語られています。

この物干しざお、刃長三尺三寸ということで、およそ1メートルもある野太刀だったということで、「備前長船長光」という銘も入った名品だったとか。

わざと遅れてきた武蔵に対し、待たされてイラッチになっていた小次郎は心の平静を乱されます。

しかも、「小次郎破れたり!」とエラそうに宣言する武蔵にさらにムカッときたといい、剣術で敗れたというよりもその気合いに勢いによって敗れた、というようなことが多くの史書や小説やらに描かれており、この時小次郎は、武蔵が繰り出した木の櫂で眉間を割られて死んだとされています。

しかし、「沼田家記」によれば、この決闘で武蔵は小次郎を殺すまではしておらず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返したと書かれています。

しかも小次郎は、この果し合いの約束ごとを忠実に守り、一人も弟子を巌流島に呼んでいませんでしたが、一方の武蔵の弟子達はひそかに島のどこかに隠れていました。そして、試合が終わって小次郎が息を吹き返したころを見計らって出てきて、ノックアウトされ脳震とう気味だった小次郎を打ち殺してしまったといいます。

一方、巌流島には来なかった小次郎の弟子らも、その後師匠が決闘で負けたことを知り、しかも小次郎が武蔵の弟子たちに惨殺されたのを知るとこれを大いに恨み、今度は武蔵を襲撃しようとします。

このため、あやうく武蔵も小倉城下で襲撃されそうになりますが、このとき武蔵を助けたのが、ほかでもなく、沼田家記の伝承を残した沼田延元であったというのです。

武蔵を助けたからといって武蔵に何等かの恩義があったかというとそういうわけでもないようで、この点については佐々木小次郎のほうに対しても同じであり、このような公正な立場の人物であったからこそ、決闘の現場に居合わせることを両者とも認めたのでしょう。

この決闘の結果として、小次郎が決闘の際に死んだか、あるいはその後に武蔵の弟子たちに殺されたかどうかは別として、ともかく小次郎が武蔵との戦いに敗れたのは確かです。

破れた要因は、やはり武蔵のほうが戦略を立てるのがうまく、またやはり力量の差もあったということがいわば定説になっているようです。

ところが、佐々木小次郎は、このとき、70才を超えていたのではないかという話があります。片や宮本武蔵のほうは、少なくとも20代前半か、おそらくは10代後半であったであろうといわれており、だとすると、力量以前にかなりの年齢差があり、見方によっては「老人いじめ」ではないかといわれそうです。

「二天記」には小次郎は、巌流島での決闘時の年齢は十八歳であったと記されているそうです。が、この「二天記」の元になったに肥後細川藩の筆頭家老で二天一流兵法師範の豊田正脩という人が著した宮本武蔵の伝記、「武公伝」にはこの記述はなく、こちらには、佐々木小次郎が、自らの流派の巌流を18才で打ち立てた、としか書いてないそうです。

また小次郎の師匠の鐘捲自斎の生きた時代はわりとはっきりわかっているようで、もし小次郎がこの自斎の教えを乞おうとするためには、武蔵との決闘時に最低でも50歳以上でないとつじつまが合わないそうです。

しかも自斎の弟子たちに教わったのではなく、自斎から直接教えを受けた、いわば直弟子であったとすれば、相当の老人ではなかったかと考えられるそうで、二天記の十八の「十」は「七」の誤記ではないかとまで言われているようです。

だとすれば、十代の武蔵が戦ったのは、78歳以上の老人だということになり、これは果し合い云々というよりも単に、両派のいがみ合いからやむなく発生した、一つのセレモニーのようなものであり、小次郎のほうが負けるのは目に見えていた、ということになります。

だとすれば、小次郎を負けさせるためにわざとこうした無茶な試合を組んだのではないか、と指摘する人もいて、中には、小倉藩の藩中には小次郎が剣術師範をやっているのを快く思わない一派がいて、小次郎を排除するために、武蔵との試合を仕組んだのではないか、と考える人もいるようです。

これについては、事実関係を確認できるような史料もいまさら出てこないようで、ホントかどうかもわかりませんが、いずれにせよ負けた側の小次郎にとっては踏んだり蹴ったりの話であり、勝った武蔵がその後「剣聖」として崇められるようになったのとは対照的です。

ちなみに、武蔵は、その後、熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移っており、7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷まで与えられ、鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられています。

1640年(寛永17年)といいますから、まだ20代後半のころのことであり、同じく客分として招かれていた将軍足利義輝の遺児、足利道鑑と共に細川藩では大事にされ、その後も死ぬまで毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇され続けたといいます。

これに対して、小次郎のほうは、仕組まれた試合だったかもしれないとはいえ、ともかく敗れて死んでしまったわけですから、無論藩からは何の恩賞もありません。しかし、土地の人々は小次郎に同情的であったようで、巌流島には自然石を利用した墓が作られていたようです。

その昔舟島と呼ばれていたこの島を「巌流島」と呼ぶようになったのも、地元の人達の憐憫の表れでしょう。

ところが、この佐々木小次郎の墓が、山口県北部、ほとんど島根県との県境に近い、「阿武町」というところにあるといいます。

阿武町大字福田下というところに、「小沢津」という場所があり、この山あいは、地元の人から「寺ヶ浴」と呼ばれていて、小次郎が死んだ慶長年間には真言宗の正法寺という古寺があったということです。

この境内跡地にあるのが小次郎の墓であり、小次郎の墓所を示す案内看板の奥に、小さな墓石が残されています。墓石の裏側には、「佐々木古志らう」の文字がかすかながら読み取れるといい、これがこの墓石が小次郎の墓であるという根拠になっています。

一説によれば、巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻は、「ユキ」という名前であり、キリスト教の信者、つまりキリシタンでした。小次郎が敗れた当時、懐妊中だったユキは小次郎の遺髪を抱き、ちょうどこのころから家康によって始められたキリスト教徒への弾圧を避け、多くの信者とともに九州から山陰の地に安全な居所を求めたのだといいます。

ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、その墓のすぐ下の庵で一生を終えたといわれています。このとき正法寺は既に別の場所に移転しており、この跡地にユキがこの小さい庵を建てたのだといいます。

そして、武蔵に敗れたあとも、その弟子たちが我が子に迫害を加えるかもしれないと考えたユキは、これを防ぐために、小次郎の名をわざと「古志らう」と変えて墓に記し、死ぬまでこの墓を守っていたのではないかとも言い伝えられています。

この場所には、小次郎の墓と並んでたくさんの佐々木姓の墓があるそうで、現在もこの近辺には佐々木姓を名のる家が数軒有り、末裔ではないかとも言われているそうです。

小次郎がもし、本当に70を超える老人だったとすると、その齢になって子供はちょっと……と考えられなくもありませんが、現在でも70過ぎでいまだ元気……というお年寄りはいないことはないので、無下に否定もできません。

この地に佐々木姓が多いことも相まって、この地が小次郎の出身地ではないかといわれるゆえんでもありますが、無論、真実は歴史の闇の中です。

吉川英治の小説「宮本武蔵」でも、小次郎は周防国岩国(現山口県岩国市)の出身とされているそうで、もし本当に小次郎が長州人だったらと思うと、郷里が山口の私もうれしい限りです。しかし、実際のところは、錦帯橋は巌流島の決闘の60年もあとになって建設されたそうで、この話の信憑性はゼロです。

にもかかわらず、岩国の錦帯橋のすぐ近くにある吉香公園内には、小次郎の銅像が据えられているそうです。おそらくは地元の観光協会か何かの陰謀でしょうが、観光客が地元に落とすカネが重要な収入となっている山口県としては、ネタとなるものさえあれば、なりふりかまわず観光資源化したかったのでしょう。

巌流島もまたしかりで、毎年5月のゴールデンウィークに開催される「しものせき海峡まつり」では、巌流島フェスティバルのイベントとして、コンサートや宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の再現などが行われるそうです。

そういう茶番をどれだけの人が見に行くだろうかと少々疑問ですが、まあ、冒頭で述べたとおり、風光明媚な下関のことですから、その観光のついでくらいのつもりで行くと良いかもしれません。ゴールデンウィークの行先をまだ決めかねている人は検討されてはどうでしょうか。

さてさて、今日も長話になりました。が、自分でも長年疑問だった佐々木小次郎について一通り整理できてすっきりしたかんじ。これからは小次郎のことを、小次郎ジイサンと呼ぶことにしましょう。

それにしても、小次郎とユキの間にできた子供はその後どうなったのでしょう。もし男の子だったなら、小次郎二世になるわけで、その優れたDNAを引き継いでいたとしたらきっと、優れた剣術使いになっていたはずです。

その子孫が、その後の長州藩の維新の活動を支えていたりして…… 妄想は膨らみますが、もしかしてその子孫こそが、わがご先祖さまだったりもして……

妄想の暴走はやめましょう。キリがありませんから……