魚→鳥→人


急に暖かく……というか、日中は汗ばむこともあるほど気温が高くなってきました。

新聞やらテレビのニュースでは、長良川の鵜飼いが始まったと報じられており、そういう話を聞くと、あぁ今年もアユが川を遡る時期になったんだなアと思わず季節感を感じてしまったりします。

我が家のある山の麓を流れる狩野川にもアユが遡ってきます。この狩野川は、アユの「友釣り」の発祥の地なのだそうで、今でも友釣りが盛んで、「狩野川を制すれば全国を制す」と評されているとか。

えらい大げさな言いようだなと思うのですが、どういう意味なのでしょう。アユ釣りをやったことがないのでよくわかりませんが、友釣りをするには結構難しい条件があるのかもしれません。

確かに川幅が広く、どこにアユがいるのかよくわかりにくそうだし、流れも場所によっては結構急にみえます。アユは縄張りを持っていて、自分のテリトリーに他のアユが入ってくるのを嫌いますから、その縄張りを見極めて、「友」を投入する場所やタイミングを見つけるのが大変なのかもしれません。

友釣りは釣ろうとしている「野アユ」の縄張り内に、釣り人が用意した「囮(おとり)」のアユ、これが「友釣り」といわれるゆえんですが、掛針をつけた状態で投入し、これを嫌がった野アユがこれを追い払おうとして体当たりしてきたところをうまく針で引っ掛けて釣る、という漁法のようです。

調べてみると、「川読み」という技術が必要なようで、これは、野アユがどこに縄張りを作っているか、アユの習性を考えて予測することらしいです。この的確な予測が釣果をあげるポイントだそうで、かつ友釣りの醍醐味なのだとか。

アユは石についた藻類を主食としますが、これを削ぐように、その鋭い歯でがりがりと石の表面を食べるため、石には「ハミ」跡と呼ばれる跡が残ります。私も狩野川やほかの川に下りたことが何度かありますが、確かにアユのいる川には、バーコードのようなハミ跡がついた岩があちこちにあります。

これがアユの大小や多寡を知る目安となるというのですが、素人目には、どのハミ跡が大きいアユが食べた跡なのかさっぱりわかりません。しかし、ハミ跡が多いか少ないかぐらいはわかります。

昨年も狩野川には多くのアユ釣りを楽しむ人達が入漁してきていましたが、色々ある釣場の中でも、やけに釣り人達がやけに集中しているなという場所が、2~3カ所はたいがいあり、こうした場所がポイントです。

ところが、このポイントはまた時間によって変化し、アユの好む場所も変わっていくのだそうで、これを察するのもひとつの技術なのだとか。

さらには、アユの習性だけでなく、ほかの釣り人がどこをポイントとしているかを見定めることも技術も必要なのだそうで、これは釣り人がいた場所は当然アユが減るため、アユの量が均一化するまで時間がかかります。このタイミングを見極めるのも結構難しいのだそうです。

こうしてみると、友釣りの技術というのは結構奥深いんだなーと感心してしまいますが、私自身としては、釣りといえども、動物を「殺める」という感覚がそもそも性分にあわないのであまりやりません。

海が好きなので、若いころには海釣りにはよく行きましたが、歳をとってくると、長時間紫外線を浴びるのもなんだかなーと、ずいぶんひ弱になっていることも関係しています。

とまれ、「狩野川を制すれば全国を制す」というのは、アユを捕える場所としては、かなり高度な技術が必要とされる場である、ということのようで、その道を極めた人達だけがこの川に入る資格がある……まではいわないにせよ、どうやらかなりの上級者が入るアユ釣り現場ということなのでしょう。

狩野川が友釣りの発祥の地とされている理由としては、伊豆国の代官として世襲してきた江川家に伝わる史料群「江川文庫」に、狩野川でアユの友釣りが盛んになったことを伝える記述があることが根拠になっているようです。

「頼書一礼之事」と題した1832年(天保3年)に書かれた文書が残っているそうで、これは伊豆大仁村の名主だった杉浦家の当主が、韮山の代官所に提出した書状の控え集のようです。

これには「梁漁を請け負っているが、”友釣り”が流行って収入が上がらなくなり、梁漁に伴う税金も納められなくなるため、友釣りを禁止してほしい」と書かれており、地元の村々の役人が友釣りによるアユの乱獲をやめさせてほしいと韮山代官所に訴える内容です。

つまりはそれだけ従来の漁法よりもたくさんアユが釣れたということなのでしょう。またこの文書には、友釣りが「新規の漁事」として、「天野堰所」で2年ほど前に始まった、とも記述されているそうで、この堰はどうやら現在の大仁神社のすぐ下を流れる狩野川付近にあったようです。

このため、大仁神社の境内には、「友釣りの発祥の地」と書かれた伊豆の国市の説明板も掲げられていて、同神社の手水のオブジェは、なんと鮎の形をしています(冒頭の写真)。

この文献以外にも狩野川における友釣りの始まりが天野堰所だったと複数の記録に残っているそうで、他にも、修善寺から下田方面に2kmほど下った「大平」という場所にあったという瀧源寺(ろうげんじ)の虚無僧で、尺八の名手であった法山志定(1780年(安政9年)没)が発案したという記録もあるそうです。

これによれば、この法山坊主が、狩野川の大岩の上で尺八の練習をしている時、水中のあちこちで餌場争いをしているらしいアユたちをみかけ、これをよくよく観察してみると、どうやら尻ビレめがけ口を開けて攻撃しているらしいことに気がつきます。

そしておとり鮎に掛け針を付けて釣る方法を考えつき、自分でやってみたところ、結構釣れたので、その釣り方を地元の漁師たちにも教えるようになったのだとか。

この瀧源寺そのものは、昭和36年ごろに土砂崩れで潰れてしまい、そのとき寺の建物やこの古文書も失われてしまったということで、この伝承も地元の古老達により語り伝えられてきたことだそうです。ちなみに、現在大平には、「金龍院」という寺があるようなので、同じ「龍」の字が使ってあることから、この瀧源寺を再建したものなのかもしれません。

友釣りの発祥についてはこのほか、京都説や茨城県説もあるようであり、本当に狩野川が発祥の地なのかや、はっきりした年代は定かになっていません。しかし、各地で行われるようになったのは、明治から大正にかけてです。

とはいえ、昭和初期までは友釣りをする釣り人はさほど多くなかったようです。が、戦後しだいに多くなり、昭和中期以降、友釣りをする人が増え釣り場も友釣り専用区が作られるようになりました。

さらには、カーボンファイバーやグラスファイバーの出現によって竿の軽量化が進み、長竿が作られるようになったり、糸の張力増加による細糸・ウエットスーツなども色々開発・発売される中で、友釣りは全国的に広まっていきました。

近年はさらに軽量化できるチタン製のものまで使われているそうで、友釣り用の竿は、長さと軽さが求められるため、このチタン製のものなどは、もともと成形しにくい物質であることもあり、その製造にはかなり高度な技術が必要になるみたいです。

軽くなればなるほど高価になり、9.5m(!この長さだけで驚きですが)の竿で300g未満になると価格は概ね10万円を超え、250g未満のものは30万円以上になるということです。

とはいえ、友釣りの技術そのものは、多少形は変わったとはいえ、江戸時代の昔からそのスタイルは変わっておらず、釣り上げたアユを捕獲するタモ(網)や、おとりアユを生きたまま入れておく「オトリ缶」、「引き舟」とよばれる川中でオトリのアユや釣ったアユを入れておくための道具などは、昔ながらのものです。

おとり缶や引き舟も合成樹脂などの新しいものも出ているようですが、昔ながらの木製のほうがアユの粋がいいということで、人気があるようです。

ところで、昔ながらといえば、この項の冒頭でも話題にした鵜飼いもまた、昔からある伝統的なアユ漁法です。

日本でしかやられていないのかなと思ったら、この鵜飼、中国でもさかんに行われているということであり、ヨーロッパでもその昔16世紀から17世紀の間、スポーツとして流行った時期があったのだとか。

鵜飼いそのものの歴史は、日本が最も古く、6世紀ごろには既に行われていましたが、中国ではこれを日本で目撃した中国人が母国にこの漁法を持ち帰り、その後流行するようになったようです。

紀元600年ころに書かれた、中国の史書「隋書」には、日本を訪れた「隋使」が「変わった漁法を見た」という記述がみられるそうで、そこには、「小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る」と書かれているそうです。

しかし、その後中国に伝わって広まった鵜飼いは、日本のそれとは少し違うようです。まず、使用される鵜の種類が、日本ではウミウであるのに対し、中国ではカワウを使用します。また、日本では漁のための鵜は成鳥を捕獲してこれを訓練して鵜飼いに使いますが、中国では完全に家畜化されている鵜を使うのだとか。

また、魚を飲み込めないように鵜の喉に輪を装着するのは日本も中国も同じですが、中国では日本のように鵜を綱に繋がず、魚を捕らえた鵜は自発的に鵜匠の元に戻ってくるよう訓練されているそうです。賢いですよね。

このほか、日本では鵜飼いは様式化して伝統漁法として残るようになり、捕る魚もアユのみですが、中国では一般漁法として現在も普及しているとのことで、鵜が捕る魚も喉を通過する大きさのありとあらゆる魚を捕ることができるということです。

一方、ヨーロッパでの鵜飼いは、16世紀末から17世紀初めにかけての一時期、スポーツとして広まりました。

主には、イギリスとフランスの宮廷行事として広まったようで、1609年、皇太子だったルイ13世の前で鵜飼いが実演されたという記録があります。また、1618年にもジェームズ1世が漁用に飼っていたウ・ミサゴ・カワウソのための飼育小屋と池をウェストミンスターに作ろうとした記録が残っているそうです。

イギリスの動物学者たちは、ヨーロッパに鵜飼いを持ち込んだのはオランダ人であろうと推測しており、この技術が東アジアからオランダ人によってもたらされたものである可能性があるそうです。

1600年代初頭といえば、江戸幕府による鎖国が実施される前であり、このころ頻繁に日本に入国していた外国人の中にはオランダ人宣教師も多く、彼らから鵜飼いの技術がヨーロッパへ伝えられたのでしょう。

しかし、ヨーロッパで行われた鵜飼いは日本や中国で行われていたものとは少し違うものだったようです。「鷹狩り」の手法の延長で行われたそうで、鵜は目隠しをされたまま漁場に連れてこられ、漁の時だけ目隠しを外されたといいます。

鵜の運搬も革手袋をつけた飼い主の手の上に大事に乗せられて行われたということで、日本のように縄で引っ張って強引にアユを捕らせるという形ではなく、アユを捕ってくるとナデナデと褒めてやる、というようなものだったのでしょう。ヨーロッパの鵜飼いはあくまで貴族のものであり、スポーツだったことがこのことからもわかります。

このほか、南米ペルーでも鵜飼いが行われたらしく、5世紀ごろ行われたと思われる鵜飼いの様子を記した土器がペルーのチャンカイ谷という場所から出土しており、リマ市にある博物館に収蔵品されているそうです。

これが本当だとすると、鵜飼は、日本とペルーでほぼ同時期に発生したということになります。しかし、ペルーは日本の裏側であり、このころにペルーからその技術が輸入されたということは考えにくく、おそらくは地球の表裏でほぼ同じ時期に鵜飼いによる漁法が発明されたということになるのでしょう。

さて、日本の鵜飼の方ですが、現在は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所でしか行われていません。

さきほど600年ころに書かれた中国の書物に日本の鵜飼いのことが書かれていたと書きましたが、日本の文書で鵜飼いについて書かれたもっとも古いものは720年ごろに成立したとされる「日本書紀」です。

この神武天皇の条には「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、宮廷で、鵜を養っていた部門のことが書いてあるそうです。

日本書記とほぼ同じ時期にかかれた「古事記」にもこの「鵜養」のことを歌った歌謡が載っているそうで、このころから既に宮中行事として鵜飼いが成立していたことがわかります。

その後も、延喜年間(901~923年)には、時の天皇が長良川河畔の鵜飼たちにアユを献上させた記録があります。

源頼朝も平治の乱で敗走し、長良川河畔をさまよっていたとき、鵜飼の長の家で食べた鮎すしに感激し、その後1192年(建久3年)右大将として上洛したときにはこの長をわざわざよびだして恩に報い、また毎年鮎すしを鎌倉に送るよう命じたといいます。

織田信長もまた1564年(永禄7年)に長良川の鵜飼を見物してこれを賞賛し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称をさずけ鷹匠と同様に遇したといい、徳川家康も1615年(元和元年)、鵜飼を見物し、石焼きのアユに感賞したそうです。

家康に至っては、以来、江戸城に毎年アユを献上させるほどアユ好きになり、このころの鵜匠によるアユの献上の際には、老中の三判証文をもって継立て江戸まで2昼夜で送致させるほど珍重しました。

その後、江戸時代に入ると鵜飼はおとろえ、1805年(文化2年)には鵜匠の家は12戸にまで減少したそうです。が、その12戸に毎年120石、532両2分を給与するなどして厚遇したため、江戸末期までには鵜匠の家の数もかなり回復しました。

明治維新によって、鵜飼いは衰退するかにみえましたが、明治天皇の代によって待ったがかけられ、その後は鵜匠は「大膳職」に任命された上、明治23年(1890年)からは、岐阜県内の長良村古津やその他のアユの漁場で総延長1471間(約2.7km)が宮内省の鮎漁の「御猟場」に編入されています。

鵜飼漁がこれほど昔から珍重される理由、それはこの漁法で獲れる魚には傷がつかないためです。

ウがアユを「ウッ」といって飲み込むのか、「ウー」と飲み込むのか、実際にじっくり観察したことがないのでよくわかりませんが、いずれにせよ、その食道をアユが通過するとき、ギュッと体全体が締め付けられ、これによって、一瞬にして気絶してしまいます。

これがアユに傷をつけずに、鮮度を保つことができる理由であり、このため、鵜飼鮎は献上品として殊のほか珍重され、安土桃山時代に前述のように信長に珍重されて以降は、以後の幕府および各地の大名によってそれ以前よりもさらに鵜飼は手厚く保護されていったようです。

鵜飼いをやること自体が宮廷との関わりを保ち、中央政府である幕府との関係を保つ儀式となっていったため、鵜匠と漁場の確保は、大名達にとっても面子に関わる非常に重大なものでした。

しかし、一匹の鵜が咥えられるアユの数は知れています。このため鵜飼はとても漁獲効率のよい漁法とはいえず、明治維新後にはそれまで鵜飼いを保護していた大名がいなくなってしまったため、だんだんと減少していき、現在では、宮中行事として実施される以外で鵜匠をやる家はかなり減り、規模を縮小しています。

その昔は、鵜匠も多く、この漁法によるアユの収穫量も全国的にはそれなりにあったでしょうが、現在の鵜飼は、漁による直接的な生計の維持というよりはもっぱら、観光事業として行われています。

その多くが客が屋形船に対価を払い、船の上からその様子を見て楽しませるということで成り立っており、こうした観光事業としての鵜飼いは、愛媛県大洲市の肱川で、戦後の昭和32年(1957年)に「大洲観光うかい」として始まったものが発祥のようです。

実は、私はこの大洲市の生まれです。父がダム屋だった関係で、この地に赴任してきたときに生まれた子であり、その後すぐに父が広島に呼び返されたことから、私も生後一年半ほどここにいただけのことであり、全く記憶にはありません。

が、自分が生まれた場所ということで子供のころからそれなりの関心はあり、テレビなどで肱川の鵜飼いの様子が映し出されたりすると、自分の生まれたところの住民はこんなことで生計を立てているのか、なさけなや……などと勘違いしていたものです。

鵜匠たちのいでたちも独特であり、風折烏帽子に古風な漁服、胸あて、腰蓑を身に着けたその様子は、やはり何度見ても時代錯誤の感があります。しかし、これが宮中行事として行われる際にもこれが正装なのだといわれると、ははぁ~っという気になるから不思議です。

もっとも、宮中行事のほうは、岐阜県の長良川で行われている鵜飼いだけです。岐阜市と関市の長良川河畔において行われているのがそれであり、このための「宮中職員」としての鵜匠は岐阜市長良に6人、関市小瀬に3人いるそう、これらは全て世襲制です。

もともと長良川の鵜飼は1300年ほど前の江戸時代において、徳川幕府および尾張家の庇護のもとに行われていたものを現在まで踏襲してきたものです。

前述のとおり、明治維新後は明治天皇の命令により、一時有栖川宮家(江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家で伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲親王家の一つ。第2代良仁親王は皇統を継ぎ、後西天皇となった)の御用となりました。

しかし、1890年(明治23年)には、宮内省にその管轄が移され、「主猟寮」という部門の所属となり、長良川鵜飼は正式に、宮内省(現宮内庁)の「御料鵜飼」となりました。ということはつまり、皇室御用の鵜飼であり、毎年5月11日から10月15日まで行われる漁のうち特に宮内庁の御料場で行われる8回の漁すべてが皇室行事ということになります。

おそらく毎年のようにこのころになるとテレビのニュース映像で流れるのは、この長良川での御料鵜飼の様子でしょう。ここで獲れた鮎は皇居へ献上されるほか、明治神宮や伊勢神宮へも奉納されるといいますが、どんな味がするのでしょう。体に傷をつけないように捕獲する特別なものということですから、きっと格別においしいに違いありません。

現在、長良川以外で鵜飼いが行われているのは、以下の川です。

山梨県笛吹市(笛吹川)
小瀬鵜飼 愛知県犬山市(木曽川)
京都府宇治市(宇治川)
京都府京都市(大堰川)
和歌山県有田市(有田川)
広島県三次市(馬洗川)
島根県益田市(高津川)
山口県岩国市(錦川)
愛媛県大洲市(肱川)
大分県日田市(三隈川)
福岡県朝倉市(筑後川)

中部地方以西ばかりですが、これはこれらの多くが琵琶湖産の稚鮎が遡上したものを目当てにしたものであり、その地方の環境が生まれた場所の気候に比較的近いためです。アユの養殖時の飼育適温は15~25℃であり、このほかの生産地も、滋賀県、徳島県、和歌山県、愛知県、静岡県など、中部以西の地方ばかりです。

このアユの生態の話は、昨年10/27の「アユのお話」に詳しく書いてあるので、ご興味のある方はこちらをどうぞ。

さて、今日はアユの話に始まり、鵜飼いの話に至りました。この「鵜」についての生態も書き足りない気もするのですが、今日はもうやめておきましょう。ただ、鵜は、中国ではペリカンを意味し、その通り、ペリカンの仲間です。

どおりで魚を飲み込むのが得意なわけですが、日本の鵜はアフリカやアメリカ大陸にいるように魚が蓄えられるほど嘴(くちばし)は発達してません。日本ではカワウ(川鵜)とウミウ(海鵜)がいますが、鵜飼いに使われるのはウミウのほうで、中国ではカワウを使うというのは前述しました。

日本でウミウがよく使われるのは、カワウよりやや大きく、また日本ではどこへ行っても海岸からはあまりそれほど距離はありませんから、カワウは入手しやすい環境です。しかし、中国では内陸に行けばいくほどウミウが入手しづらく、カワウのほうが手に入りやすくなります。

我が家の近くの狩野川にもたくさんのカワウがいて、ときおり集団でいるのを水辺でみかけることもあり、まるで会議でもやっているようです。そのうち、一匹つかまえてきて調教し、鵜飼いをさせてみようかとも思うのですが、我が家のテンちゃんが嫌がるかもしれないのでやめておきましょう。

鵜飼いはやはり見て楽しむもの。静岡では残念ながら見れないようですが、岐阜まではそれほど遠くないので、そのうち、機会あれば見物に行ってみたいものです。そして、もし可能ならば傷がついていないという絶品の「鵜飼いアユ」も食してみたいもの。

近いうちに実現するでしょうか。ま、無理かもしれませんので、今年も釣り人が捕ったアユで我慢しましょう。……などと書いていたら、急にアユが食べたくなりました。もう売っているでしょうか…… お昼ご飯にアユ飯。いいかもしれません。