8月の果て

夕景
8月になりました。

何かと行事の多い月ですが、8月を代表する行事としては、やはりお盆でしょう。

言うまでもなく、旧暦の7月15日を中心に日本各地で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事であり、国民的大イベントでもあります。

しかし、だいたいの人が、これを仏教の行事と考えているようですが、実は必ずしもそうとはいえず、このお盆の行事には仏教の教義で説明できないしきたりも多いようです。

それもそのはず、もともとお盆は古神道における先祖供養の儀式や神事だったものが、江戸幕府が定めた「檀家制度」のために、一般民衆とお寺さんとの結びつきが強くなり、仏教行事の「盂蘭盆」(うらぼん)と習合して現在のようになったものだからです。

「檀家制度」というのは、徳川幕府が宗教統制の一環として設けた制度であり、一般人は漏れなくどこかのお寺に所属する信徒であることを義務付けた制度です。江戸幕府は、キリスト教を禁止していたため、どこかの寺に所属することを民衆に義務付け、この寺にキリシタンではないことを証明させるための制度でもありました。

これを証明するために、「寺請制度」というものが導入され、民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、必ずその檀家となる事が義務付けられました。

このため民衆が檀家であることを受け入れる寺院側には、現在の戸籍に当たる「宗門人別帳」というものが作成され、旅行や住居の移動の際には、必ずその証文(寺請証文)を持ち歩くことが必要となりました。

こうして一般家庭にもそれまでにはなかった仏壇が置かれるようになり、法要の際には僧侶を招くという慣習が始まりました。このため、寺院としては労せずに多くの信徒を獲得できるようになり、収入を保証される形となり、その経営?はすこぶる安定しました。

しかし、その一方で、寺院としては幕府から、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、それまでは政治とは一線を画していた各仏教教団も、すべからく幕府の統治体制の一翼を担わせることになりました。宗教団体としての独立性が失われていったのです。

こうして、僧侶を通じた「民衆管理」が事実上法制化されたため、お寺は事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、やがて江戸265年間の間には、汚職の温床にもなっていきました。

このことが明治維新時に、新政府が過剰なまでの廃仏毀釈を推進し、神仏分離が徹底されることにつながっていきます。前にも書きましたが、この神仏分離はわが国最大の文化破壊であり、江戸期までに蓄積たされた多くの伝統美術がこの政策推進によって失われました。

庶民に強いられた檀家制度により、そもそも江戸時代以前には古神道の行事として行われていた祖霊祭(先祖を敬い祀る行事)は、その形を変え、仏教行事の一環として行なわれるようになっていきました。

自然の造形

それでは仏教と習合する前の祖霊祭はどんなものだったかというと、これは別に特別なものではなく、現在も多くの一般の家にも置かれている神徒壇、神棚に祭壇を設けて、先祖を祀るというものでした。現在では神棚には神様しかいらっしゃいませんが、その昔はここにご先祖様もともに祀られていたわけです。

江戸時代よりも前の祖霊信仰においては、「両墓制」というものがありました。両墓制とは、その名の通り、死者が出た時に二つの墓所を作ることです。

かつては遺体を埋葬する際には、実際に遺体を埋める「埋め墓(捨て墓)」と呼ばれる墓と、これとは別に自分の家の近くや寺院内に建てる参り墓、すなわち遺体が収容されない「詣で墓」を作ることがありました。

遺体を直接埋葬する埋め墓、捨て墓は、人が近づかない山奥や野末に作られたため、埋められた遺体や石塔は時が経つにつれ荒れ果て、しかもこれを代々受け継いでいくうちにその所在も不明になっていくことがあります。

しかし、この埋め墓、捨て墓自体は、そもそもここを死者供養のための墓所としていた訳ではなく、永く保存する事を目的とせず、あくまで遺体を自然に返すための場でした。

一方の参り墓、詣で墓のほうは、家の近くや田畑、寺院など参詣に便利な場所に建てられており、こちらの墓こそが、永く死者供養をすることを目的とした墓所になります。

こうして、先祖の霊を居住地の近くに配置し、供養し、家の安泰を願うことが、祖霊信仰という形で定着し、引いてはこれを家内の神棚の中に据える、という形になっていったのです。

このように、自分の家の中、すなわち「屋敷」の中にお墓的存在を据えたものを「屋敷墓」といいます。史料や遺構で確認される最も古い屋敷墓は、中世のころのものだといい、この時代の墓制や葬送習慣についての詳細は、地域や身分階級によって異なっていたようです。

従って庶民から貴族まですべて同じように神棚に先祖を祭っていたかどうかとなると微妙ですが、ともかく、この時代にはまだ仏壇に先祖を祭るという習慣は一般化していなかったのです。

しかし、どこの家でも「両墓制」を持ていたかというとそうでもないようで、とくに江戸時代に近い近世のころになると、身近な場所場所に直接遺体を葬り、ここに墓所を建てることも多くなっていたようです。

そしてそれがやがてそれが屋敷墓として家の中に入っていき、身近な神棚で先祖供養をする形に変わっていきました。

が、前述のように、江戸幕府によって寺請制度が浸透し、民衆と寺との関係が強くなっていくと、神棚に代わって仏壇が先祖供養の場所となっていき、それと同時に、もともとは神道で行うことも多かった祖霊祭も、仏教でいうところの「盂蘭盆」とも強く結びついていくようになっていきました。

「盂蘭盆」とはもともとは仏教の発祥国であるインドの母国語、サンスクリット語の「ウランバナ」が変化してきてこう呼ばれるようになってもので、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写されていたようです。

「ウランバナ」は、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」が語源だとする説もあり、古代イランでは、祖先のフラワシ、すなわち「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事でした。

従って、古神道における祖霊祭とも相通じるものであり、発祥の違いはありますが、もともとは本質的には同じ行事であり、お互いが結びつきやすい性質を持っていたわけです。

「盂蘭盆」は、仏教が伝来してきた奈良、平安時代以降、全国に広がっていき、このときから既に毎年7月15日に公事として行なわれるようになっており、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)もあわせ行なうようになりました。

「施餓鬼会」とは、「餓鬼に施す」ための行事であり、死後に餓鬼道、つまり地獄に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀式のことです。

先祖を供養する各家の祖霊、つまり天国へ行くことのできた一般人の祖霊を祀る、盂蘭盆の儀式とは別に、無縁仏となり、成仏できずに俗世をさまよう餓鬼にも施しをしてあげようという、日本人特有の優しい行事といえます。

噴水

とはいえ、仏教が中国を経由して日本に入ってくる途中で、中国で行われていた風習が仏教に取り込まれ、経典に書かれていたものが日本に輸入され、施餓鬼会に変化したものです。

この中国の経典に書かれていた施餓鬼の内容というのは、こういうものです。

ある神通力のある坊さんが亡くなった母親の姿を探していると、餓鬼道に堕ちているのを見つけました。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出してあげたのですが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかったそうです。

哀れに思って、釈迦に実情を話して方法の教えを請うと、お釈迦さまは、「安居(あんご)の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えられました。

安居というのは、仏教の行事のひとつで、もともとバラバラに布教活動をしていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行することをいいます。また「比丘」というのは、仏教に帰依する人達のことで、男性であれば「比丘(びく)」といい、女性であれば「比丘尼」(びくに)と呼ばれていました。

もともと比丘とは「乞食」のことを指していたようです。このため、この坊さんはこのお釈迦様の言うとおりに乞食たち、つまり比丘たちすべてに布施を行ったところ、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをしたそうです。

するとやがて、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも水や食べものが入るようになったとのことです。

おそらくは仏教が伝来したこのころの中国には、こうした経典に書かれているような施餓鬼を実践するような具体的な風習はまだ浸透していなかったと思われますが、日本に伝わってからは、一般の盂蘭盆と同時に施餓鬼会として浸透していきました。

こうして旧暦の7月15日には、盂蘭盆の儀式や施餓鬼の儀式が、それまでの神道行事に代わって仏教行事としても行われるようになり、それぞれ微妙に形を変えながら日本中に浸透していきました。が、前述のとおり、江戸期にはほぼ三者が統一され、「盂蘭盆」という呼称の省略形として「盆」と呼ばれるようになっていきました。

しかし、そもそも古神道では、7月に行う行事ではなかったようです。1年に2度、初春と初秋の満月の日に、祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流するという行事だったそうで、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったといわれています。

従って、お正月といえば神社に行き、お盆といえばお寺に行くという今の風習はこうした伝統に基づくものといえます。

さて、こうして日本の神道と仏教が合体して「お盆」として定着していくようになったわけですが、その儀式の内容は、神道よりも仏教の儀式の色あいの方が強くなっていきました。これは前出の江戸幕府の寺請制度が浸透したためです。

ところで、奈良時代に仏教がインドから中国経由して日本にやってきたとき、その儀式内容もまた中華文化における「道教」の影響をすでに受けていました。

道教では、旧暦の七月を「鬼月」とする慣習があり、旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方があります。

これが日本に伝来した仏教にも取り込まれ、日本では、お盆といえば、旧暦の7月1日からとみなされるようになり、この書に血を「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」というようになりました。

地獄の釜の蓋が開く日であり、一般的にいう、「お盆」の初日であり、つまり昨日8月1日がその日になります。

この日を境に墓参などして、ご先祖様等をお迎えし始めますが、地域によっては山や川より里へ通じる道の草刈りなどもします。これは故人が山や川に居るという、そもそもの古神道における祖霊祭の名残ともいえます。

草刈りなどによって、彼岸、つまりあの世からご先祖様や故人たちがお還りになる際、通りやすくするのです。地域によっては言い伝えで「地獄の釜の開く時期は、池や川などの水源にはむやみに近付いてはならない」というものもあるようですが、そもそも古神道では、こうした場所に先祖たちの霊が宿っていると考えられたためでしょう。

冬木立02

さて、ここまで書いてきたら、一通り、お盆が終わるまでのその全行程をもう一度確認しておきましょう。

地獄の釜蓋が空いて、といっても、ご先祖さまたちすべてが地獄に堕ちているわけでもなく、便宜上、「あの世」の入口のことを地獄のふたと称しているだけですが、8月になると、その門を通って続々と霊たちが現生へ帰ってこられます。

そして、その7日目は、「七夕」として、故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡(ばん)を拵えます。幡とは、(旛・はた)ともかき、ようするに「のぼり」です。布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のことで、正式には、幡頭・幡身・幡手・幡足などと呼ばれる部位から構成された複雑なものです。

錦・綾などの高級生地や金銅や紙、板などを用いて作られた幡もあるようですが、現在全国の七夕祭りなどでぶら下げられている例のカラフルな幟はその簡易版です。

そもそもなぜ「七夕」というかについては、この幡とこれを設える棚の二つを合わせて「棚幡」と書いたため、これが変じて七夕になったためです。

七夕である7日の日には、夕刻からこの精霊棚や笹、幡などをご安置し、先祖などの霊ががそこへ「一時帰宅」してお休みになる準備をするわけです。

そして、それから6日後の13日夕刻には、野火を焚きます。これを迎え火(むかえび)と呼びます。客人や神霊をむかえるためにたく火のことであり、同じく先祖の霊を迎え入れるための目印です。

ただ、この「火」そのものの中に、先祖の霊が宿っている(一時滞在している)考え方もあるようです。

今は消防法がうるさくなってそんなことをすれば通報されてしまいますが、その昔は、家の門口などで、皮をむいた麻の茎(オガラ)などを折って積み重ねて、これに火をつけ燃やしていました。

関東地方などでは、オガラの代わりに麦藁を焚きながら「盆さま盆さま お迎え申す」と大声で叫び、子供がその火を持ち歩くという風習もあったそうです。また、信州などでは墓から家までの道に108本の白樺の皮を竹につけ、順に火をつけるとういことも行われていたようです。

この風習は鎌倉時代から行われていましたが、年中行事として定着したのは江戸時代のころのことです。

ただ、火事の多い江戸ではその後あまり奨励されなくなり、このため迎え火の変形として盆提灯が用いられるようになりました。現在ではさらにロウソクさえ使われなくなり、電球が中に入った盆提灯が主流のようです。

地方によってはこの盆提灯が発展したものが、秋田県の竿燈や青森県のねぶたであり、また京都の五山送り火もその発展形といわれており、このほかにも「御招霊」と称して大がかりな迎え火が行われる地方もあります。

この13日の迎え火以降、精霊棚の故人へ色々なお供え物を始めます。 地方によっては、「留守参り」をするところもあり、これは故人がこちらの世界へ帰ってきているため、もともとの居場所であるお墓を、その留守中に掃除する、という風習です。お盆にお墓を掃除するというのは、そういう意味だったのですね。

さて、こうして迎えたお盆の中日、つまり、13,14,15の三が日は、先祖や故人のことを思い、静かに過ごす、というのが本来のあり方でしょう。

ところが、この15日などに寺社の境内に老若男女が集まって、盆踊りを行うというのが現在では全国的な風習です。これは地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を模したといわれています。

旧暦7月15日は十五夜、翌16日は十六夜(いざよい)であり、つまりどちらかの日に月は望(望月=満月)になりました。したがって、晴れていれば16日の晩は月明かりで明るく、今のように電燈が普及していない時代には夜どおし踊ることができたわけです。

もともとは、平安時代、空也上人によって始められた念仏踊りが、盂蘭盆の行事と結びつき、精霊を迎え、死者を供養するための行事として定着していったものともいわれています。

鎌倉時代には、さらにこれを一遍上人が全国に広めましたが、一遍らは、この踊りに念仏で救済される喜びを採りいれ、着物もはだけ激しく踊り狂うことで法悦の世界へ誘われる、と広めたところ、これが大受けし、庶民を巻き込む大ブームを引き起こしたそうです。

それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれるような念仏踊りに変化していき、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになりました。現在のように太鼓などを叩いて踊るような風習は、室町時代の初めのころには既にあったそうです。

現在では、これがさらにエスカレートし、場所は「寺社の境内」とは限らなくなってしまい、また宗教性を帯びない行事として執り行われることも多いようです。

いわずもがなですが、駅前広場などの人が多く集まれる広場に櫓(やぐら)を組み、露店などを招いて、地域の親睦などを主たる目的として行われるものも多く、盆の時期には帰郷する人も多くなることから、かつてはその地方の出身者が久しぶりに顔をあわせる機会としても機能していたようです。

青い池

さて、旧暦7月15日は十五夜、翌16日は十六夜であり、月明かりのあるこの日に盆踊りなどが行われるようになりましたが、この16日は、本来は「送り火(おくりび)」の日です。

その名の通り、あの世から帰ってきていた霊を送る時であり、例年8月16日に行われる京都の五山送り火がもっとも有名でしょう。ただ、奈良高円山大文字などのように15日に送り火を行うところも多いようです。

また、川へ送る風習もあり灯籠流しが行われます。山に灯りをともして送る風習がある地方もあるようで、このように山や川へ送るのは、古神道では故人が居るとされるのが山や川などの自然の中であったためです。

この送り火の期間は、基本的には16日から24日までであり、この間、お迎え同様に墓参などをして勤めて過ごします。

とはいえ、忙しい現代人の多くは、15日が過ぎればもとの職場に戻り、もうお盆のお休み気分は払しょくされ、新たな気分で仕事に取り組む人も多いことでしょう。

ただ、仏教では普通は、お盆といえば、1日から24日を指すようです。なぜ24日かというと、これは、地獄の王である閻魔王に対して、天国の王は地蔵菩薩であり、24日がこの地蔵菩薩の縁日だからです。ちなみに、大日如来の縁日は28日だそうで、従ってこれを御本尊とするお寺などでは、お盆は28日までだそうです。

さて、今年もまたそのお盆の季節が近づいてきました。

我々はというと、昨年もそうですが、今年も山口に帰る予定はなく、お盆の最中には故人を思って静かにここ伊豆で過ごそうと考えています。

麓の温泉街にある「修禅寺」の盆踊り大会は、実は昨日の8月1日だったそうで、夕方から施餓鬼会行われ、檀信家の総回向が修行されたあと、その後、旅館客も輪に加わって盆踊りが催されたようです。

実は昨日はこれと時を同じくして、麓の大仁で花火大会があり、我々もそちらを見に行ったため、この温泉街の盆踊り大会の風景は見ることができませんでした。

が、お盆期間中の、8月21日には、修禅寺正面にある鹿山という山の中腹から再び花火が打ち上げられるということで、こちらも楽しみです。

日本でも数少ない山の中腹からの打上げ花火だそうで、温泉街を流れる桂川にある独鈷の湯横でも、ナイアガラ花火が仕掛けられるということなので、これからまだ予定がない方は修善寺温泉に泊まりがけで見にこられてはいかがでしょうか。

8月にはこのほかにも、終戦記念日や原爆記念日もあり、例年のことではありますが、こうした戦没者の弔いもあって、やはり何かこう身が引き締まるというか、敬虔な気持ちにさせてくれる何かがある季節です。皆さんも同じではないでしょうか。

が、夏来たりならば秋近し、ということで、8月も終わればもうすぐそこに秋が近づいてきます。

昨日、今日と早朝に久々にジョギングに出たのですが、その際、その路上には早、小さな栗のイガイガが散乱していました。夏だ夏だと思っていたら、もうすぐに秋になってしまいそうです。

そんなもうあと短い夏の間、何をして過ごすか、この週末はじっくりと考えて過ごすこととしましょう。

影絵