広島城のこと

さるすべり

今日、8月6日は原爆記念日です。

先日の北条早雲の項を引き続き書こうかとも思ったのですが、原爆による死没者の追悼も兼ねて、今日は私が育った広島のことを少し書こうかと思います。

といっても、原爆のことについては、いまさらという気がしないではありません。その悲惨さを伝えることは大切ではありますが、その被害の全体像を書きだすことは到底困難でもあります。

私が卒業した広島県立広島国泰寺高等学校という学校は、別名「鯉城高校」ともいいます。

同様に、鯉城通り、鯉城会館、鯉城グループなど、広島市内中心部にある施設には「鯉城」を冠した名前のものが多く、「広島東洋カープ」CARPもこの鯉城の鯉をとってつけられたものです。

鯉城とは、いうまでもなく「広島城」のことをさします。かつて原爆が投下される前は広島のシンボルであり、戦後再建されたあとも原爆ドームとならんで広島の象徴とされています。

なので、今日はこの鯉城こと、広島城について少し書いて行こうと思います。

広島という町は、川の多い町です。市内に七つの川が南北に流れており、これらは上流に行くと一つの川に集約されます。太田川という川で、古い時代の広島の町は、この太田川が形成した砂州の上に造られました。

この砂州と海岸線が複雑に入り混じるような土地柄であり、この広島城があった一帯は昔「己斐浦」と呼ばれた汽水域でした。現在も広島市の西区に「己斐」という名前の土地が残っていますが、この地名はその昔は「鯉」と呼ばれていたと言われています。

一説には広島城が築城されたとき、その堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いために鯉からとったともいわれています。鯉といえば錦鯉ばかりだと思っている人も多いでしょうが、天然に生息する鯉は真っ黒というか、グレー色をしています。

この土地には、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していただけでした。鎌倉時代に後鳥羽上皇が幕府打倒を叫び旗揚げをした「承久の乱」という戦いがありましたが、このとき、幕府側について戦い、大いに戦功をあげた武家のひとつに武田氏がありました。

この戦いは幕府側の勝利に終わり、武田氏は幕府からその功によって安芸国守護に命じられ、その治世は室町時代まで続きました。

が、その後の戦国の世になると、防長から勃興してきた毛利家に脅かされるようになり、その毛利家の祖である毛利元就が武田氏を滅ぼし、また厳島の戦いでも陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地から防長一帯にかけては毛利氏によって支配されることになりました。

この広島城を築城したのは、元就の孫の毛利輝元です。天文22年(1553年、元就の嫡男、隆元の長子として安芸国に生まれ、元亀2年(1571年)、祖父・元就が死去すると、毛利両川体制を敷き、これによって地方に散らばった重臣たちの補佐を受け、親政を続けました。

毛利両川(もうりりょうせん)体制とは、毛利家を中心として戦国時代の中国地方を統治するために確立された軍事体制です。この組織は、周防岩国を統治する吉川氏には元就の次男の元春を送り込み、また広島以東の領地を司る小早川氏へは、3男の隆景を養子として送り込むことによって成立しました。

毛利家の血筋の者を吉川、小早川両家に潜り込ませ、これによって徐々にそれぞれの土地の正統な血統を絶やし、かつそれぞれの勢力を毛利側へ寝返させるというもので、時間はかかりましたが、毛利家はこの作戦に成功し、その後長きにわたり、現在の中国地方と呼ばれる地域の制覇を果たすことになりました。

元就の孫の輝元による広島城の築城は、いわばこの両川体制の集大成ともいうべきものでありました。それまでの毛利氏の居城は、吉田郡山城といい、この城があった場所は現在の広島市の北東部にあり、現在は安芸高田市吉田町という町になっています。

この城は、尼子氏の大軍を撃退したこともある堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していました。

しかし、両川体制が確立し、中国地方における毛利家の天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備する必要性が生じてきました。

このころから、全国的にも領国の政務・商業の中心地として平地にある利便の良い土地を発展させる「近世城郭」建築の時代に突入しており、中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとっても、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭で不便なものとなり始めていたのです。

一の坂川の夏

そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かすことができ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めました。

1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて、叔父の小早川隆景や従弟の吉川広家(元治の息子)らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ、秀吉が作った壮大な近世城郭を目の当たりにし、その重要性を痛感します。

新しい城を造ることを決意したのはこのときのことがきっかけと言われています。1589年(天正17年)、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、現在の広島市内を見下ろすことのできる高台3箇所に登り、太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」であり、この当時「五箇村」と呼ばれていた場所に築城をすることを決めました。

この五箇村こそが、現在の広島城の建っている場所になります。

この視察の同年には、鍬入れ式を行い、築城が開始されました。城の構造は大坂城を参考として、縄張(設計)は聚楽第に範を取ったといわれており、その縄張は、秀吉の側近で築城の名手であった黒田如水が担当しました。

この当時、豊臣家と毛利家は、まだ一触即発というような敵対関係にはありませんでしたが、戦国時代のことです、いつなんどき毛利家の攻勢により豊臣家の安泰が脅かされるかもしれません。なのに、なぜ、秀吉が側近の黒田如水に築城技術のサポートをさせたか、という点については、色々歴史家の間でも取沙汰されているようです。

この広島城の築城にあたっては、市内でも数少ない高所である、比治山という山の上に築城するという案と、全く平らな低湿地帯に築城する案との二つがありましたが、如水は結局のところ、この湿地帯案のほう、つまり五箇村への築城を推薦したといいます。

如水は輝元の叔父である小早川隆景の友人であったといい、その如水が行ったアドバイスであるから間違いない、と家臣たちが考える一方で、輝元は要害が悪くて、水攻めにされたらひとたまりもない、と考えていました。

しかし、叔父の隆景は「要害の悪い城だからこそ安全。もし、毛利の城の要害が良かったら、謀反の恐れあり、と秀吉に警戒される」と、輝元を逆に諌めたという話が残っており、このことから秀吉は毛利氏を弱体化させるため、わざと側近の如水を派遣したのではないかとも言われています。

これが本当かどうかはわかりませんが、こうして広島城は浅瀬に築城されることになったため、結果的には島普請(川の中州の埋め立てと堀の浚渫などの工事)などには相当な出費を強いられることになり、毛利家の財政を大幅に圧迫することになりました。

楠木と五重塔

しかし、鍬入れから4年後の1593年(文禄2年)石垣が完成。1599年(慶長4年)には全工事が完了し落成し、ここに中国一の巨城が誕生しました。

「広島」という名はこのときに付けられたと言われています。広島築城事業は、当時120万石の「西国の雄」毛利家が、本拠地をそれまでの吉田郡山城から移して新たに築こうという大事業であり、城の名称には家運長久の願いが込められていました。

毛利氏は代々、源頼朝の側近で、鎌倉幕府創設に貢献した「大江広元」の末裔であることを誇りとしており、本姓もこの大江氏でした。このため、毛利氏では最も頻繁に用いられる「元」は大江広元の名前からとったものであり、またもう一つの「広」も諱(いみな)として頻繁に使用する字の一つでした。

また、「広」には、「広大」「末広」の縁起の良い意味もあり、このことから地名の命名にあたっては「広」の字を冠することとし、「島」については城普請案内を務め、この界隈の地勢に詳しかった普請奉行の福島元長の名字からとり、こうして「広島」の名が誕生しました。

完成したこの広島城は、堀を三重に巡らし、馬出(まいだし、城の戦闘用出入口の外側に曲輪を築いて防御力を高めたもの)も多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれます。

こうして苦労して毛利家が作った広島城ですが、そのわずか一年後にはこの城を明け渡すという皮肉な結果となりました。

関ヶ原の戦いが生じ、この戦いで毛利家は、輝元が西軍総大将となり、家康率いる東軍と対峙しましたが、西軍は破れてしまいました。しかし、毛利家はこの戦いでは不戦を貫いたために、なんとかお家のお取り潰しだけは免れました。

ただ、西軍への加担を家康から責められ、大幅に減封され、広島を追い出されて防長二州に押し込まれてしまったのです。

こうして広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)から広島城の城主となったのが福島正則です。福島正則は、その後広島城を大幅に改築しており、このため、この毛利輝元が最初に完成させた広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明なようです。

福島正則は、賤ヶ岳の七本槍で知られる猛将で、豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉が死してからは、石田三成とは仲が悪く、関ヶ原の戦いでも家康の東軍について勝利しました。

これによって、毛利家に代わり、戦後安芸広島と備後鞆49万8,200石の領国を得ることとなり、江戸時代に入って発足した幕藩体制により、「広島藩」の初代藩主に封ぜられました。

こうして広島藩の藩主になった福島正則は、「穴太衆(あのうしゅう)」とよばれる、近江の比叡山山麓を本拠とし、石工技術としては高い評価を得ていた技術集団を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりを本格的に行い始めました。

このとき、外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城の外郭が作られ、現在のような姿になったのはこの頃のことです。

また、城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えることなどにより、町人町が拡大し、広島は中国地方一の大都市となっていきました。

ところが、この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせるところとなり、福島正則は、1609年(慶長14年)、突如謹慎を言い渡されます。そしてその10年後の1619年(元和5年)には、広島城とその城下の改築が、武家諸法度を破った無届け改築と認定されたため、改易され信濃国川中島へ転封されてしまいました。

従って、福島正則が広島城の城主であったのはわずか10年にも満たない短い時間であり、その前の城主であった毛利輝元よりも長かったとはいえ、広島とは非常に短いご縁だったといえます。

こうして、福島正則に代わって、広島城の主になったのが、浅野長晟(ながあきら)であり、1619年(元和5年)以降、この城は浅野家の居城となり、この体制は明治時代に至るまで12代約250年間続きました。

広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いていました。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場を見極めて売りさばき巨利を得たことから、浅野家は「芸侯の商売上手」と評され、その後、江戸期の全般に渡って大きく繁栄しました。

青と黒

しかし、明治維新により、1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県が発布され、浅野氏による藩政体制は終りを告げ、広島県が発足しました。他藩の城の中には廃棄処分の憂き目を見るものも多数ありましたが、広島城は残され、その本丸には広島県庁舎が設置されました。

こののち、西南戦争が勃発したことなどにより、広島城本丸にも鎮西鎮台が置かれ、県庁舎はこのとき三の丸に移転しています。

1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、それまであった鎮台は熊本に移動して、熊本鎮台となりました。こうして、以後、広島城の城郭内には、大日本帝国陸軍の近代的な施設が建てられるようになっていきます。

1873年(明治6年)3月、三の丸に兵営が置かれると、県庁舎は国泰寺へ移転し、広島城は完全に軍の施設となりました。この間、江戸時代から維持されていた建物の多くが解体され、また火事によって失われており、特に1874年(明治7年)には本丸および二の丸で火災が発生し、本丸御殿(天守ではない)が全焼しました。

現在のこの広島城のある場所は、「基町」という名称に代わっていますが、これは1887年(明治20年)からのことで、広島に軍の基地が開設されたことから、旧城廓内であるこの土地に正式に「基町」の名前が与えられためです。

1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編され、その後の日清、日露と続く戦争に備え、本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市はさらに軍都として近代都市への道を歩んでいきました。

その後、基町全域は軍用地となり、1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内には広島大本営も設置されました。同年9月には明治天皇が行幸され、翌1895年(明治28年)4月まで滞在されたため、これに伴い第7回帝国議会も広島で召集されました。

東京にあった大本営が移設されたため、この期間は短いながらも、広島が「臨時首都」として機能した一時期でもありました。

1897年(明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの広島陸軍幼年学校)が城内に設置されるなど、軍属がどんどんと増えていき、とくに日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していくことになります。

これに伴って広島城の堀の悪臭が目立つようになってきたため、明治40年代になると、外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、1915年(大正4年)ころまでにはこれらの埋立が完了しました。

この埋め立てられた土地には、1912年から1918年(大正7年)にかけて、現在も存続する相生通りや鯉城通りといった道路が建設され、広島電気軌道(広島電鉄本線・広島電鉄宇品線・広島電鉄白島線)なども整備されました。

旧外堀一帯は繁華街となり、こうした中、ここから見上げることのできる、広島城の価値が見直されるようになり、1926年(大正15年)、その城郭内地の旧大本営跡地が史跡指定されます。さらには、1928年(昭和3年)、それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが天守の一般開放が開始されるようになりました。

そして、あまり知られていないことですが、1931年(昭和6年)1月、広島城天守は、ついに国宝保存法に基づく、国宝にまで指定されました。

戦前に国宝に指定されていたのは、この広島城のほかに、名古屋城、岡山城、和歌山城だけでした。これらもまた、空襲によって破壊・消失してしまいましたが、現在も生き残り、国宝に指定されている、松本城、姫路城、犬山城、彦根城とともに、8つもの城がこれまで国宝に指定されており、広島城もその栄誉を得ていたことになります。

その美しい城が、原爆によって失われてしまったことは返す返すも残念で仕方がないのですが、幸い、広島城はコンクリート造りながらも再建され、その往時の姿が復元されています。

その発端となったのは、1951年(昭和26年)に催された広島国体であり、この開催に伴い、広島の復興をアピールするために、木造の仮設天守閣が作られたことです。

この仮設の城は、国体終了後すぐに解体されましたが、これが天守再建の機運へとつながり、1953年(昭和28年)に、城跡が国の史跡に指定されると天守再建への期待が高まりました。

そして、戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定します。1957年(昭和32年)着工、翌1958年3月26日に竣工。同年6月から広島城郷土館としてオープンし、現在に至っています。

ただ、「元地元民」の私としては、願わくばこの城は、木造で復元して欲しかったなと思います。無論莫大な費用がかかることは承知なのですが、現在大改修が行われている姫路城のように、近代技術を駆使すれば原爆による崩壊前の木造りの美しい姿が再現できたのでは……とついつい思ってしまうのです。

とはいえ、建てられてしまったものは仕方がありません。現在のもので我慢するしかしょうがないでしょうが、遠い将来でもいいですから木造の本格的なものを建造してほしいものです。

緑陰の噴水

その美しい国宝の城を破壊した原爆の威力はすさまじいものだったようです。石垣の完成から6年もの歳月をかけて建てられた天守閣を初めとする建物群は、ほんの一瞬で倒壊したといいます。

太平洋戦争末期の広島では、本土決戦に備え、1945年(昭和20年)6月には広島師管区司令部が中国軍管区司令部に改編され、広島場内の本丸にその司令部が置かれ、本丸の南端には、内堀の石垣に沿ってシェルター化された防空作戦室が建設されていたそうです。

このころには、まだ国宝に指定された天守をはじめ、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が数多く残っていましたが、これらの施設には軍の重要書類がびっしりと、押し込まれていたといいます。

この当時の広島にも既にいくつか高いビルは建設されていましたが、まだこの当時は天守を市内のどこからでも見ることができたといいます。

城内は、軍施設に位置付けられていたため、一般人の立ち入りは許可されていませんでしたが、司令部では学徒動員で比治山高等女学校(現比治山女子高校)の生徒が働き、臨時ニュースを放送するときのためにNHK広島放送局アナウンサーも待機していたそうです。

そして、運命の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍により、原子爆弾が投下。

広島城周辺は、軍事施設が集中していたことから、広島城天守はランドマークとしてその破壊目標となっていたといいますが、実際の爆心地は、ここから南に約900mほどのところでした。

とはいえ、ほぼ直近で原爆は爆発し、これにより、天守は爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊。まもなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱しました。

……と書けば、スローモーションのように倒壊していったように思えますが、実際には天守は爆風により一瞬にして自壊したようで、その後崩れ落ちた建材からも火災が発生しました。しかし、これらの建材すべてが完全に消失したわけではなかったようで、倒壊後はしばらくそのまま放置されていたそうです。

残った建材のその後に関しては明らかになっていないようですが、生活に困窮した市民が使用したという証言があるほか、被爆者を救済するため、瀬戸内海の製塩業者に建材と塩を広島市が交換したという本当かウソかわからないような話もあるようです。

このとき、天守以外の建物も完全に破壊されましたが、その周辺に植えられていた樹木も多くは根こそぎ引きぬかれ、あるいは真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数にのぼりました。

城内に勤務していた兵士たちの多くは、原爆が投下されたのが早朝であったことから、食事中あるいは朝礼の真っ最中の出来事だったようであり、彼らは爆風によって軽々と吹き飛ばされ、あるものは即死、またあるものは倒壊した建物により圧死しました。

原爆が投下されたのが城の南側だったことから、生き残ったものはほぼ全員が北へ向かって逃げたそうですが、無論、生き残った者は数少なかったようです。当時ここ一帯には約1万人の兵士がいたそうですが、そのほとんどが亡くなり、軍部隊としては壊滅状態となりました。

このとき、唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が、内堀の石垣に沿いシェルターとして建てられた防空作戦室であり、ここで生き残った兵士からから被爆の第一報が東京他へ通信されています。

火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられましたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かったそうです。

翌8月7日には、松村秀逸中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントが設けられ、軍の再建を図ることになりましたが、その後8月15日の終戦をもって解散となりました。

こうして、かつての木造の広島城はなくなり、堀やその他の遺構もほとんど失われてしまいましたが、広島市内には、かつての城が由来の地名が今もたくさん残っています。

市内で一番の繁華街である「八丁堀」はかつてあった堀の名残であり、このほかにも「薬研堀」などの地名があり、八丁堀にあるバス停には「京口門」の名前が残されています。

また、城の鬼門にあたる北東部、広島駅のすぐ裏には「二葉山」という山がありますが、ここには、浅野藩の統治時に、藩主の加護により多くの神社仏閣が建てられて残っており、それらの中には、明星院(輝元の生母妙寿院の位牌所)や、広島東照宮や饒津神社、尾長天満宮・国前寺といったものがあります。

また、市の西部には、世界遺産の厳島神社がありますが、この神前の海上にある大鳥居には、それぞれの主柱下に45~60cmの松杭が約100本打ち込まれています。

実は、この工法は、広島城の築城にも使われた技術だそうで、広島城の築城当時も低湿地帯の砂地上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込み、その上に基礎を築いた工法が採用されていたそうです。

木造建築物としての広島城は失われてしまいましたが、その技術の一環が世界遺産として宮島に残され、そのシンボルである木造大鳥居が現在も健在であることは、唯一の救いです。

さて、今日は、予定を変えて原爆記念特集ということで広島城について書いてきました。

再建され、1958年(昭和33年)に「広島城郷土館」としてオープンした広島城天守閣はは、1989年(平成元年)に改装され、展示物の入れ替えも行われて、現在は、博物館「広島城」として開館しています。

内部は、5層のうち1階から3階は常設展示、4階は企画展示となっており、常設展示では、広島城の成立と役割などの歴史的な展示のほか、城下町としての広島の現在の状況も詳しく閲覧できるようなっています。また、甲冑・刀剣等も展示され、ときおり、歴史と広島城に関する企画展示も実施されています。

5階(最上階)は展望室となっていて、ここからは復興した広島の街並みを見ることができます。ベースが砂州であり、大きな建築物は無理といわれた広島にも最近は結構高層ビルが立ち並ぶようになりましたが、それでも、ほかの政令指定都市のように、大きくその視界を遮るものは少ないでしょう。

ここから見る広島は今や美しい地方都市に変身しています。もし、広島に立ち寄ることがあったら、ぜひ訪れてみてください。最近行っていないのでよく覚えていませんが、天気がよければ南の方には瀬戸内海の島の一部も見通せたかと思います。

ちなみに、入場料は一般360円、小・中・高校生180円だそうです。夏休みの宿題テーマをみつけるにはぴったりではないでしょうか。

木立