世界一周旅行はいかが?

矢車草02

昨日おとといと、夜間気温はぐっと下がり、ここしばらく続いていた熱帯夜ともようやくおさらばです。

ただ、今年の夏はまだまだ残暑が続くかもしれないとの予報でもあり、日中はいましばらくはまだ汗をぬぐうタオルが手放せそうもありません。

しかしその一方で日はどんどん短くなっており、ちょっと前には朝の4時半くらいから陽射しに恵まれていたものが、今はもう5時過ぎが日の出の時刻になっています。日没も早くなり、夕方の早い時間から虫が鳴くようになり、秋の気配が感じられる今日この頃です。

さて、先日小泉八雲のことを書いていた中で、エリザベス・ビスランドとネリー・ブライという二人の女性記者が、世界一周をどちらが早く達成するかという勝負を行ったということを書きました。

結果としては、ネリー・ブライが勝利したのでしたが、エリザベス・ビスランドが敗れた理由としては予測もできないような不運が重なったためでもありました。その事態とは、荷物の紛失や、税関での足止め、船への乗り遅れ、などなどであり、旅先ではよくある、といってはなんですが、誰でも一度は経験したことがあるようなものばかりです。

もし、これらがなければ世界初の女性世界一周の栄誉はビスランドが獲得していたでしょうが、そうはならなかったところが、人生の面白いところです。しかし、この戦いに敗れたビスランドがその後不幸になったかといえばそうではなく、大富豪と結婚し、裕福な生活を送ったようです。

また戦いに勝ったブライもまた、富豪と結婚しており、これは二人とも類まれな美貌を持っていたことと無関係ではないでしょう。ネットで探してこの二人の写真をみるとお分かりになると思いますが、かなりのべっぴんさんであることを誰もが認めると思います。

ちなみに、ネリー・ブライは57歳という若さで亡くなっており、一方のビスランドもけっして長生きとはいえませんが、その後68歳で亡くなっています。これより先に夫が亡くなっていたためその財産を継承し、晩年までその豊かな暮らしぶりは続いていたようですが、ただ、子供には恵まれませんでした。ネリー・ブライも同様です。

日本へ帰化したラフカディオ・ハーンとは、結婚後しばらく音信不通だったようですが、その後文通を再開し、彼の著作をアメリカに紹介するとともに、ハーンの息子のアメリカ留学の世話をしたり、ハーン自身をコーネル大学へ招聘することなどにも奔走したようです。しかし結局この話は実現しませんでした。

自身も、世界一周のとき日本を訪れていますが、このときはった一日でした。しかし、ハーンが亡くなった後に再び日本を訪れており、その後も何回も来日しているようです。ハーンの死の直後、書簡も含めて編集される「公式な伝記」の出版を実現し、これは「Life and Letters of Lafcadio Hearn 」として出版され、ハーンの公式な伝記とされています。

ところで、女性で世界一周を初めて実現したのがネリー・ブライだとして、日本女性としてこれを実現したのは誰だろうと思いついたので調べてみました。

そうしたところ、明治よりも前の時代では女性が海外へ行ったという記録すら明確なものはみつかりませんでした。

おそらくは江戸期以前の朱印船貿易の時代に、下働きか何かの形で東南アジア諸国へ渡った女性などがいるのではないかと思われますが、少なくともネット上ではこうした人物に触れている記述をみつけることはできませんでした。

明治以降では、明治4年(1871年)に津田塾大学を創設したことで有名な津田梅子がアメリカに留学しており、これが日本女性による初の海外渡航かどうかはわかりませんが、おそらくは女性としての初めての留学生であることには間違いないでしょう。

この留学は、このころ北海道開拓使次官であり、女子教育にも関心をもっていた黒田清隆によって企画されたものであり、明治4~6年にかけて、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された、岩倉具視を正使とするいわゆる「岩倉使節団」の一員として子女を海外へ派遣しようという試みでした。

岩倉使節団は、政府首脳陣や梅子のような留学生を含む総勢107名で構成されており、このうちの梅子は、留学生5人のうちの最年少であり、わずか満6歳であったといいます。梅子らはその後、サンフランシスコを経て、同年中にワシントンへ到着。

この5人の留学生は、ワシントンのジョージタウンで日本弁務官書記であり、画家でもあったチャールズ・ランマン (Charles Lanman) 夫妻の家に預けられましたが、翌年にはこのうちの2名が帰国し、残ったのは梅子と、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)の3女性でした。

この3人はその後も、生涯親しく交わったということで、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際にもこの二人が援助しています。二人のうち、永井繁子はその後一定の語学力を得ると帰国したようですが、その後梅子と山川捨松はアメリカに残り、このうちの梅子はその後も十数年の年月をランマン家で過ごしています。

この間、英語は無論のこと、ピアノなどを学びはじめ、日本へ宛てる手紙も英文で書くようになったといい、やがてキリスト教への信仰も芽生え、9歳のときにフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けています。

その後、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ山川捨松とともに14歳で進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ傍ら、学校が休みになると、ランマン夫妻に連れ添ってアメリカ各地を旅行しています。

1881年(明治14年)には開拓使からは帰国命令が出ますが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年(明治15年)7月に卒業。同じ年に17歳で二人とも日本へ帰国しています。

その後の梅子は、津田塾大学(当時は女子英学塾)の創設者としての道を颯爽と歩んでいくことになりますが、その生涯を追うのは今日のこの項の本質ではないため、これ以上はやめておきます。

ミツバチと花

津田梅子がそうであったように、明治維新によって外国人との交流が増えるにつけ、この頃にはクリスチャンとなることを契機として教育者になった女性が多かったようであり、それらの中には海外留学を志した人も多かったようです。

明治17年(1884年)に港区に設立された東洋英和学院の卒業者の中からもまた、その後多くの海外渡航経験者が出ています。

その一人に、「野村みち」という女性がおり、おそらくは、この人が明治のころに日本女性として初めて世界一周をした一人ではなかったかと思われます。

その世界一周旅行は明治41年のことであり、津田梅子の帰国から20数年がたっていますから、この間にも海外渡航をした経験のある女性は多かったと思われます。が、世界一周というのはおそらくなかったのではないかと推察されます。

実はこの旅行は、朝日新聞社が主催した「世界一周会」というツアーであり、一般人が参加する民間の海外団体旅行としては、日本で初めてのものであったといわれています。

ツアーといっても、現在のように数十万もあれば行けてしまえるようなものではなく、その費用は2340円だったそうで、当時の大卒初任給が40円程度であったことから推算すると、現代ならおそらくは1200万円相当という途方もない豪華旅行ということになります。

ところが、こうした高額のツアーであるにもかかわらず、50人の募集に対して80人近い申し込みがあったといい、主催の朝日新聞社もこれには驚いたようです。しかし使う交通手段の制約などから、50人の募集枠は変更することができず、このため、参加者には選考が課せられました。

ツアーに参加するのに選考があるというのは現在では考えられないことですが、このときには申込者の「地位、職業、身体健康状態、教育等」を選ぶ条件にしたようで、結局、50名を僅かばかり上回る54名の参加者が選ばれ、これに2名の新聞社社員が随行役として同行し、この56人が世界一周旅行をすることになりました。

野村みち以外にも女性は二人いたようであり、そうした意味では彼女が日本初の女性による世界一周旅行者というわけではありません。しかし、彼女の名前だけがのちの世に記録されているのは、彼女がこの旅行から帰国後、その詳細な見聞録を書き残しているためです。

野村みちは、外国人相手の古美術店「サムライ商会」を営んでいた野村洋三氏の妻でした。明治27年横浜で開業して成功し、その後大正・昭和に渡って活躍した実業家です。

大正15年には、ホテル・ニューグランド設立と同時に取締役を務め、昭和13年会長となり、その後も横浜商工会議所会頭などを務めました。

みち夫人もまた良家の出身だったらしく、母親から厳しい「良妻賢母」の教育を受けたといい、前述の東洋英和女学校でも良家の子女が受けるべき教育として英語の学習が命ぜられ、これに加えて本人の意思によりキリスト教学も選択したようです。

夫が成功した実業者であったことから、選考基準である地位、職業については問題なく、またかなりの才女であったようで英語も堪能であり、もうひとつの選考基準である「教育」においても朝日新聞社の審査員は申し分ないと考えたようです。

温泉街に咲く

こうして、明治41(1908)年3月18日、横浜港を「モンゴリア号」という客船で出発した一行は、ハワイ・ホノルル→サンフランシスコ→ソルトレイク→シカゴ→デトロイト→ボストン→ワシントン→ニューヨークと、アメリカ国内を旅したあと、ニューヨーク港からは「セドリック号」という船に乗り換え、イギリスのリバプールに入港しました。

イギリスではロンドンに立ち寄り、その後フランス、イタリア、スイス、ドイツなどのヨーロッパ諸国を歴訪後、ロシアに渡ってモスクワを訪問、シベリア鉄道に乗車し、途中、中国東北部通過後に、ウラジオストックへ辿りつきました。

こうして6月21日に、敦賀に帰着。費やした日数は延べ96日間でした。

女性として世界で初めて世界一周をなしとげたネリー・ブライの72日の記録には遠く及びませんが、それだけ時間が余計にかかったのは、ツアー旅行とはいえ、この旅行は各国への表敬訪問も兼ねており、途中立ち寄った各国の都市では歓迎式典などもが催され、これらに参加するために時間を費やしたためです。

各都市では、昼間は公式訪問や視察もあり、夜には必ず大使館や在留邦人の晩さん会があり、歓迎音楽会、観劇などもあったそうで、無論、現代のツアーのように自由時間などはありません。

この野村みちによる世界一周旅行記は、「ある明治女性の世界一周日記-日本初の海外団体旅行」というタイトルで、神奈川新聞社から出版されています。

実は私もまだ読んでいないのですが、多くの人がこれを呼んでその感想などをブログに書かれており、それによると、この野村みちは、江戸時代の封建社会の名残がまだ色濃く残っていた明治期の女性としては、かなり先進的な考え方を持っていたようです。

とくにこのころから頻繁に日本人が海外旅行をするようになっていく中、そのマナーについての批判なども行っており、また、アメリカなどに移住する日本人労働者などについても、相当な覚悟をもって移住すべき、というようなことを書いているようです。

曰く、「わずかな貯金ができるや否や帰国してしまうようでは、到底大きな成功は望めません。(中略)貯蓄ができたら帰国するのではなく、土地を買うでしょう。次第に買い増し、十年、十五年が経てば、この地に骨を埋める覚悟もできるはず。そのくらいでなければどうして成功などできましょうや」

といった具合であり、このころから爆発的に増えた海外移民に対して批判めいた激励を送っています。また、海外へ積極的に出ていこうとしない青年たちにも厳しい言葉を投げかけており、それは例えば、

「学問の素養がある人間こそ結局は永遠の成功者となれるのに、そのことを知らずに狭苦しい日本であくせくし、生活難を嘆いています。実に愚かの極みではないでしょうか。天は限りなく高く、地は広いのです。「人間至る所青山あり」、男子たるもの、この心意気あってこそ成功できるのです」

というもので、これはまるで、就職難であることを嘆きながらも、あいかわらず大会社への就職ばかりを夢みつつ、さらに海外へ出て行こうともしない内向きな最近の若者に向けて発せられたかのような言葉です。

私自身も留学経験があるので多少エラそうなことを言わせてもらうのですが、最近の大学生は暇さえあればアルバイトをしているくせに、その使い道はといえば、国内消費ばかりのようです。

とはいえ、耐久消費財として残るようなものには投資せず、国内旅行や映画・演劇鑑賞といった一過性のものへの浪費?が多いようで、同じ残らないものならば海外にでも行けばいいのに、と思うのですが、語学そのものにもどうやら自信がないらしく、海外旅行へ行く学生は年々減っているそうです。

確かに海外へ行っても言葉が通じないというのはつらいものがありますが、だからこそ味わえる経験も多数あるはずであり、それを嫌がるというのはつまり、未知への経験を不安がるひ弱な一面があるということなのでしょう。

……と前にも同じようなことを書いたことがあり、愚痴めいてきたのでもうやめにしましょう。ネコに小判。ウマの耳に念仏……です。

アネモネ

さて、世界一周というテーマで今日は書いてきたので、ちなみに、ということで、現在ではどんな形ならば可能なのか、という観点で改めて調べてみました。

まず、時間が潤沢にあるという場合では、昔ながらの船旅が最右翼でしょう。世界一周の定義もいろいろあるでしょうが、世界を回る、という観点から南北両半球を経験するとし、赤道を越えてすべての経線を同じ向きで通過後、出発地と同じ港に戻るための航路としては、およそ40,000km以上が必要なようです。

南半球の風向きは西風が支配的であるため、東を目指すルートよりも西を目指すルートの方が難易度が高いそうです。なので、日本を出て、ハワイ経由で、中米あたりまで行き、パナマ運河を超えて大西洋に入る、というルートが船旅の場合一般的なようです。

かつて「ラコニア」というイギリス船籍の旅客船があり、1920年代にこのルートの世界一周旅行を企画し、これに応募した数千人の人が、船旅で世界一周を達成したそうです。

「キュナード・ライン」というのがこの船の親会社であり、このほかにも、ブリタニア、カルパチア(タイタニック遭難事件で生存者の救助にあたった)、クイーン・メリー、クイーン・エリザベス(Ⅰ、Ⅱ)、クイーン・ヴィクトリアなどの数々の名船を就航させ、現在も「クイーン・エリザベス」が就航中です。

一方、日本の旅客船はどうかというと、「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」などが世界一周旅行を行っているようで、例えば「飛鳥Ⅱ」によって2014年度に企画されている世界一周旅行は、のべ113日間のクルーズのようです。

気になる値段ですが、一番安い「K:ステート」では、「早期全額支払割引」を使っても430万円ほどであり、これでも高級車一台分になります。一番豪華な「S:ロイヤルスイート」ともなると2400万円台となり、こちらは家一軒分になります。

それでも乗ってみたいですか?と聞かれてイエスといえる人は結構いるかもしれませんが、さすがに私たちのような庶民にはちと(かなり)厳しい値段でしょう。

ならば時間のかからない飛行機であれば宿泊代もかからないし、もっと安いのでは……ということで調べてみたところ、確かにこちらのほうが現実的なようです。

現在までに、何万もの人が空路での世界一周を達成しているということであり、単一の航空会社による乗り継ぎ路線(世界一周路線)や、単一の航空会社または航空連合による乗り継ぎ航空券(世界一周航空券)の形で一般の旅行客にも提供されていて、今日では割と簡単に世界旅行に出ることが可能なようです。

単一会社による世界一周路線には、かつてはパンアメリカン航空のものがあり、ボーイング707、ボーイング747などの機材で1980年代まで1日1便運航されていたそうです。これはニューヨークを発し、ロンドンなどのヨーロッパと、バンコク・マニラ、上海・東京などの東洋を結び、ホノルル~サンフランシスコ、ニューヨークへと帰着するというものでした。

最近少し経営は持ち直ししたもの、相変わらず低空飛行を続けている日本航空もかつては世界一周路線を持っており、これは、東京から、香港=バンコク=ニューデリー=テヘラン=カイロ=ローマ=フランクフルト、パリ=ロンドン=ニューヨーク=サンフランシスコ=ホノルル=東京というルートでした。

無論、国際路線はもとより国内路線でも四苦八苦している日本航空では、現在はこの路線は閉鎖中です。

現在では、今年の前半ぐらいまで、ニュージーランド航空とシンガポール航空が似たような世界一周路線を持っていたようですが、2013年後半の現時点では、両航空会社ともその途中路線が運休されたり、別会社の運営になっていたりするため、現在のところ、単一航空会社便の乗り換えによる世界一周は不可能な状況です。

が、単一航空会社にこだわらなければ、飛行機による世界一周旅行は無論可能であり、ANAなどが加入するスターアライアンスなどのアライアンスに加盟している航空会社の路線を組み合わせた世界一周航空券が実際に発売されています。また、シンガポール航空同様の航空券を販売しているそうです。

ただし、有効期限や最低旅行日数が設けられているらしく、この最低旅行日数は10日程度が基本であり、この日数は観光旅行以外たとえば商用などで航空券を使用されることを防ぐ目的で設定されているようです。また有効期限は普通運賃のそれと同様に1年程度ということです。

さらには、世界旅行ということになると、ストップオーバー(途中降機)は当然となりますが、これを頻繁にやられると元がとれないということで、利用上限回数も課されているそうで、かつては、価格の安い航空券の利用上限回数は、従来ではだいたい20~24区間だったそうです。

が、最近はこうした航空機の発券も電子化され、この処理件数を少なくしたいためか、多くのものが上限16区間程度になっているそうで、このため立ち寄れる国の数もかなり制約を受けることになりました。

ちなみに、スターアライアンスの世界一周航空券の運賃は、一番安いもので、エコノミークラスの341,800円ですが、これはトータルの搭乗マイルが29,000マイルの場合であり、これより多くの利用上限回数を希望する場合、例えば39,000マイルコースを選ぶと460,500円に跳ね上がります。

また、同じ29,000マイルの場合でも、ビジネスクラスでは661,700円と倍近くになり、さらにはファーストクラスの場合では、100万円を超え、 1,071,600円だそうです。

それでも、船旅よりもはるかに格安であり、エコノミーで我慢するならば、学生さんでもなんとかアルバイトでお金を貯めての世界一蹴旅行も可能な金額といえそうです。

さすがに私はもう、世界一周旅行をするほど若くないので、短期間であちこちをあくせく回るこうした旅行にはちょっと躊躇してしまいますが、逆にお金があれば、ゆったりとした船旅はしてみたいかも。もしかして遠い将来に小金が貯まるようならば考えてみましょう。

下田にて

ちなみに、私の奥様は、この世界一周旅行経験者です。

といっても、私費での旅行ではなく、若かりしころにコピーライターをしていた関係から、大手の釣り具メーカーからお声がかかり、そのレポート記事を書くことを条件に実現した企画だったようです。

仕事とはいえ、タダですから、なんともうらやましい限りですが、今後はそうした執筆活動で鍛えた能力でベストセラー本でも書いて、それで儲けたお金で私も連れて行ってほしいものです。

その結果を「ムシャ&タエの世界旅行」などというブログにすれば人気が出るのでしょうが、いまのところ毎日グータラ寝ているばかりなので、当分は無理でしょう。

……などと書いていると叱られそうなので、今日はこのあたりでやめにしたいと思います。

若い諸君! ぜひとも世界一周旅行を実現しましょう!