志を得ざれば

2014-1130750先月の終わりのこと、母が山口に帰るというので、わざわざ名古屋駅まで送っていきました。

骨折後のリハビリを終えたあととはいえ、まだまだ歩行が困難なため、三島駅から新幹線に乗せると、名古屋駅では乗換となり、長いホームを歩かせることになるかもしれなかったためです。

少々過保護かな、とも思ったのですが、長いリハビリを頑張ってくれた母へのご褒美とも思い4時間もかけて車を走らせたのでしたが、この日はあいにく天気が悪く、途中の東名高速は激しい雨に見舞われました。

しかし、逆にこの雨が幸いして東名はガラスキで、このため予定時間よりかなり早く名古屋につきました。最後に駅近くのファミレスで昼ご飯を一緒に食べたあと、新幹線ホームからは万歳三唱で母を送りだしたわけですが、およそ1ヶ月もの間、寝食を共にしていただけに、その別れは少々ほろ苦いものでした。

山口に帰ったあとの彼女の様子が心配なので、その後も時々電話で確かめてはいるのですが、今のところ生活に支障が出たり、人の助けがどうしても必要ということもないようで、ほっとしているところです。

今回の彼女の来伊豆では、彼女自身も思いがけない経験をしたでしょうが、我々夫婦もまた、彼女の入院を通じで新たな知人が多数でき、またこれまで触れたこともなかった地域医療の実情も詳しくし知るところとなり、非常に良い経験ができました。

母にも入院した際にた同年輩の友人がたくさんできたようで、住所交換などもし、今度また来たらぜひ会おうというような親しい人も何人か得たようです。

今度いつ伊豆へ来るかわかりませんが、そうした知人との再会もまた、遠路はるばる伊豆へ来る理由にもなり、息子夫婦の家だからと気兼ねなであろう部分をカバーしてくれるのではないかと期待しているところです。

ところで、彼女が帰った翌朝にニュースを見ていたら、作家の渡辺淳一さんが亡くなったとの訃報が流れていました。4月30日の深夜に前立腺癌のため東京都内の自宅で亡くなったそうで、80歳でした。

北海道の上砂川町のご出身で、札幌医科大学医学部卒業した、医学博士でもあります。同大学の助手講師を続けていたころから、医業と並行して、北海道の同人誌に執筆も行っており、このころ、同大学の和田寿郎教授において、日本で初めて行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」という作品もあります。これは、後に「白い宴」と改題されて角川文庫からを発表されています。

その後、医学者としてではなく、文学者として生きていくことを決め、大学を去り、1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる「光と影」で第63回直木賞を受賞しました。

これを機に、本格的に作家活動を開始し、その後も吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞などを受賞するとともに、島清恋愛文学賞の選考委員なども務めました。

デビュー以来40年以上に亘り第一線で執筆を続け、ミリオン・セラーも多数ありますが、その中から映画化された作品も多く、ごく最近では、「別れぬ理由」「愛の流刑地」などが話題になりました。

その作品の主な主題は、伝記、医療、恋愛の三ジャンルで、伝記ものとしては、「花埋み」「女優」「遠き落日」などが代表作で、医療では上述の「白い宴」のほか「麻酔」などがあり、恋愛ものでは、「愛の流刑地」以外にも「化身」「失楽園」などが有名です。

初期においては医療をテーマとした社会派的な作品が多いようですが、伝記も時期を問わず書き続け、医療や身体から恋愛論、身辺雑記にいたるまで、幅広いテーマでエッセイも多く手がけていました。

「鈍感力」は、2007年に発売したエッセイ集ですが、同書は同年夏までに100万部を売るベストセラーとなりました。

元首相の小泉純一郎は同年2月20日、国会内で当時の幹事長中川秀直、官房長官塩崎恭久らと会い、「目先のことに鈍感になれ。鈍感力が大事だ。支持率は上がったり下がったりするもの。いちいち気にするな」と発言し、この中で「鈍感力」という言葉を引用したため流行語となりました。

特筆すべきは近年の中国における評価であり、「言情大師(叙情の巨匠)」という異名で知られる人気作家となっているといいます。中国側の調査によれば、1990年代末以降、中国で最も翻訳されている日本の作家は村上春樹と渡辺であるといいます。

中国の女流人気作家で恋愛・結婚生活を描いた小説で話題を呼んでいる王海鴒など、渡辺の恋愛小説の影響を強く受けた作家も登場しており、中国では都市化による家族の紐帯の希薄化により、精神的支柱としての家庭が崩壊しつつあり、このために他人との愛に飢えているのでないか、ということが言われているようです。

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私も渡辺さんの恋愛小説はよく読みましたが、むしろ印象に残っているものは伝記もののほうが多く、そのひとつが、「遠き落日」です。

偉人としての野口英世ではなく「人間・野口英世」を描いた内容になっており、多くの伝記で取り上げることが憚れていた野口の借金癖や浪費癖などの否定的な側面も臆さず描き出している点が新鮮で面白く、一期に読み上げたことなどを思い出します。

同名で映画化もされていますが、映画のほうは、神山征二郎監督で、1992年に公開された、新藤兼人の著作、「ノグチの母 野口英世物語」(小学館刊)とドッキングした原作内容になっています。

野口の母シカと英世の母子ふたりの壮絶な親子愛を描いていて、野口シカは三田佳子、野口英世は三上博史のキャストでした。ただ、渡辺の原作と違い、野口英世の否定面はあまり描かれておらず、私もこの映画を見ましたが、いまひとつ野口英世の人間臭さは伝わってきませんでした。

野口英世は福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれで、北に磐梯山、南に猪苗 代湖という豊かな自然のもとで、感性豊かに育ちました。

幼名は、「清作」といい、子供のころに、母のシカが目を離している間に、囲炉裏に左手を突っ込んで火傷を負ったというエピソードは有名です。

手が不自由になったため、百姓になることができず、学問で身を立てて行くことを決め、勉学に勤しみました。その結果小学校時代では、先生の代わりに授業をするという「生長」まで務めるほど優秀な生徒でした。

野口の父は酒好きであり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いようです。しかし、当人を知る人は、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言う人が多いようです。

が、いかんせんこの父親は怠け者で余り働かず、清作の家は貧乏でした。しかし、母シカの清作に対する熱い愛情と、小学校時代の恩師、「小林栄」の私財を投げ打ってまでの援助などがあり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ通うことができました。

この高等小学校時代、清作は同じ小学校に通う仲間に慕われていたようで、彼等の援助を受け、現在の会津若 松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けることができるようになりました。

この時、清作は医学の素晴らしさを知り、これを生涯の職業としようと決意したと言われており、高等小学校卒業後も、この左手を手術した会陽医院の院長、渡部医師に弟子入りしています

清作は、ここでも熱心に勉学に勤しみ、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という口ぐせをどおり、これを実行しました。そして、19歳の時には、医師免許を取ることができるほど学力をつけ、これを実現すべく上京しました。

このとき、郷里を離れる際に言った言葉、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」は、のちにかなり有名になりました。

東京に出た清作は、会津若松の会陽医院の渡辺医師の紹介で、高山歯科医学院(現在、東京歯科大学)で医学を学び始めます。この病院には、血脇守之助という医師がおり、彼が清作の直属の教師であり上司となりました。この血脇はその後の清作の人生においても何度もその窮地を救い、生涯に渡っての恩人となる人物です。

東京では、この血脇の指導により清作の医学の知識は急激に深まり、それから間もなく、清作はわずか20歳という若さで医師免許を取得しました。さらにその後、清作は、当時日本の医学会では知らない者はおらず、世界的にも有名であった北里柴三郎を所長とする北里伝染病研究所の助手に抜擢されます。

清作は語学の才能もあったようで、研究所ではとくにその才能を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当しました。

このころの清作の仕事ぶりからは強い出世欲がうかがわれ、外国図書係というどちらかといえば地味な職種には不満を感じていたようです。

自分の望んだことは何が何でも押し通したいという生来の我の強い性格に加え、不遇な環境から抜け出すためには手段は択ばないという、いつも何かギラギラしたようなものがあったようで、そうした人生に対する姿勢をうかがわせるエピソードがひとつ残っています。

あるとき、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る、この小説の登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ていることに彼は気づきます。

清作自身も若いころには金と女に関して非常に自堕落であり、この当時も借金を繰り返して遊郭などに出入りするという悪癖がありました。

ところが、この当世書生気質に、そんな自分にそっくりな人物が描写されていることを知り、清作は強い衝撃を受けます。この「当世書生気質」という本は、はこの当時の学生の間に爆発的にヒットした小説であったことから、もしかしたら、坪内逍遥はそのモデルとして自分を選んだのでは、と多くの人に邪推される可能性を懸念したのです。

作中の〈野々口精作〉なる人物の名前も「野口清作」にそっくりだったことから、そのモデルと誤解されるのを苦にした清作は、なんとかこの実名を改名することを決意。

早速、郷里の恩師、小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられました。が、改名のためには大きな問題がありました。

彼はこの新しい名前をペンネームとしてではなく、戸籍上も変えてしまいたいと考えたのでしたが、現在もそうですが、この当時も戸籍名の変更は法的にはなはだ困難でした。

そこで、清作は郷里の翁島村とは別の集落に、同名の清作という名前の人物がいることを知り、この男に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらうことにしました。

こうして、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、役所に出向き、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張し、これによってまんまと戸籍名を改名することに成功したといいます。

法を捻じ曲げてまで自分の我を通すというこの強引な手口からも、彼の若いころのエゴイッシュな側面がみてとれます。が、こうしたかなりきわどい行為までやってのけた意図としては、不遇だったそれまでの境遇を改名によってぜがひでも変え、新しい人生を歩みたい、との思いもあったに違いありません。

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こうして後世でも「野口英世」といかにもりっぱな人物のような名前を得た清作でしたが、その改名の効果があったためかどうかはわかりませんが、徐々に伝染病研究所内での彼の評価も上がっていきました。

ただ、実力があったことも確かであり、彼はこの当時、横浜港に入港した“あめりか丸”の内部で、ペスト患者を発見・診断する、という功績をあげています。

横浜の海港検疫所に派遣中のことであり、この当時ペストは、中国とインドで1200万人の死者を出すなど世界的に流行していました。

それまで日本ではペストの流行はなく、この野口が発見したものが初のペスト流行だといわれています。翌年より東京市は予防のために一匹あたり5銭で鼠を買上げるなど対策をほどこしたため、その後も日本では流行することはありませんでしたが、これを初めて発見し、未然に防止できたのはひとえに野口の功績といってよいでしょう。

ちょうどこのころ、ペストが大流行していた清国(中国)からは、日本に対して援助の要請がありました。これを受け、内務所は北里伝染病研究所に対策班の派遣を打診しますが、このとき、研究所としては、ちょうどペスト患者の発見で功績を認められていた野口を抜擢します。

こうして、野口は、ペストの国際防疫班に選ばれ、中国の牛荘(ニューチャン)へペスト国際予防委員会のメンバーの一人として派遣され、その実績をもとに、さらに世界の野口英世への足掛かりを作っていきました。

ところが、この中国への渡航に先んじては、政府から支給された支度金96円を放蕩で使い果たすというとんでもない事件を野口は起こしています。しかし、このときは恩師の血脇に資金をなんとか工面してもらい渡航することができました。

この中国での任期は半年で終了しましたが、その後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け中国に残留することになりました。そして、このように国際的な業務を初めて体験した野口の野心は、さらにそのほかの国にも向いて行きました。

中国へ渡航する前からもう既にアメリカに渡って学びたいと考えていたようで、1899年(明治32年)にアメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際にも、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診しています。

1900年(明治33年)には、中国では義和団の乱により清国の社会情勢が悪化したため、野口は 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷し、御師の小林に再びアメリカへの留学資金の融通を要請しています。

しかし、小林には逆に「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否されたため、やむなく東京へ戻り、再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻りました。

しかし、アメリカ渡航への夢は絶ち切れなかった野口は次の行動に出ます。このころ、英世は箱根の温泉地に出かけており、ここでたまたま斉藤文雄なる人物と知遇を得ます。そしてこの斎藤に医師を志す姪がいることを知らされると、あろうことか、この女性と強引に婚約を取り付けました。

ここでも目的のためなら手段を択ばないという野口のエゴイッシュな面が見て取れますが、彼はこの婚約持参金をそのままアメリカへの渡航費に当て、婚約者を放り出して単身でアメリカへ渡航しました。

そして北里の紹介状を頼りに、かつて留学の可能性を打診したフレクスナー博士の勤める、フィラデルフィアのペンシルベニア大学医学部に押しかけます。そして、博士に次期談判の末、助手の職を得ました。

このあたりの行動力には本当に舌を巻いてしまいます。

が、彼のスゴイところは、この助手としての職を得たときに吐いた「必ずやお役に立てるように頑張ります」といった言葉有限実行に移したことであり、以後、フレクスナーからもらった「蛇毒の研究」というテーマについて翌年(1900年)から3年間もの間真摯に取り組み、研究成果を論文にまとめました。

この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士から絶賛され、野口はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなりました。

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こうしてアメリカでも実績を作った野口はさらにその目をヨーロッパに向けます。1903年からは、デンマークのコンハーゲンにある、カーネギー大学に赴任し、ここのマドセン博士に師事し、ここで約1年間ヨーロッパの最新医学を学びました。

デンマークでの勉強を終えたころ、野口は既に28歳となっていましたが、その後は再びアメリアに戻り、1904年からはニューヨークのロックフェラー財団によるロックフェラー研究所に迎えられます。

実はこの研究所には同年、かつての上司、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士が所長として迎えられており、野口を知るフレキスナーは彼を一等助手に抜擢したのでした。

ロックフェラー医学研究所は、石油王として知られる、ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーが、その資産の大部分を慈善活動につぎ込んだ中から生まれた財団のひとつで、医学研究の推進を目的とし、後年、野口による鉤虫症や黄熱病の発見などによって世界的にも有名となり、その根絶にも貢献しました。

野口が採用される3年前の1901年(明治34年)に設立されましたが、実はこの研究所の設立にあたっては、フレクスナーがロックフェラーから組織構成を任されていたという経緯もありました。

野口英世のこのロックフェラー研究所時代には、その後彼の名を世界的に高める数々の研究が行われました。その研究を分けると大きく3つに別れ、それらは、蛇毒の研究(1901年~)、梅毒の研究(1905年~)、黄熱病の研究(1918年~)などです。

ロックフェラー研究所での研究ぶりは猛烈で、他の所員から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われるほどでした。

このころ、野口は既に35歳になっていましたが、この地ニューヨークで同い年のアメリカ人女性と知り合い、結婚しています。メアリーといい、彼が没するまでその晩年の人生を支えました。

ロックフェラー研究所で梅毒のスピロヘータの研究に成功した野口は、この間、1913年には、ドイツ・ベルリンにも出かけ、ドイツを始めヨーロパ各地の講 演旅行をしています。また、1915年には一次日本にも帰国しており、この際にはヒーローとしてもてはやされ、大勢の新聞にその「来日」が取り上げられました。

しかし、その後彼の医学への情熱は、アメリカやヨーロッパだけにとどまらず、南米やアフリカといった未開の土地に向かっていました。

1918年、42歳になった彼は、黄熱病の研究のため、南米エクアドルのグアヤキルに出張。その後もこの黄熱病のさらなる研究のために、南米各地を回りました。このとき回った国はほかに、ペルー、ブラジル、メキシコなどで、それぞれの国で黄熱病の特徴を分析しました。

こうして黄熱病の研究に取り組んでから早、10年という月日が経ちました。

1928年(昭和3年)、野口は南米でついに黄熱病の特効薬とする薬の開発に成功します(実際には成功していなかった)。ところが、彼が作ったこの薬を、海を隔てたアフリカで試験したところ、アフリカのロックフェラー医学研究所の現地事務所からは、黄熱病に効かない、という連絡を受けます。

こうして、野口のアフリカでの研究がスタートします。この年、イギリス領ガーナのアクラに到着。しかし、野口の作った特効薬に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所において研究をするのを彼はためらいました。

そんな彼に対して、イギリスの植民局医学研究所に勤める病理学者、ウイリアム・A・ヤング博士が自らが勤める研究施設を貸与することを提案し、こうしてようやくアフリカでの彼の研究がスタートしました。

ところが、赴任した直後から、野口自身が発症し、軽い黄熱病と診断さ、入院を余儀なくされてしまいます。ただ、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この症状は後年の調べては黄熱病ではなかったと考えられています。

その後回復し退院、研究を再開しますが、この年の5月にナイジェリアにあるラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、更に体調が悪化。このときは、黄熱病に間違いないと診断され、アクラのリッジ病院に入院しました。

このとき野口は自分が生成した黄熱病の特効薬を自らが飲んでいたようですが、終生免疫が続くはずの黄熱病に再度かかったのを不可思議に思い、見舞いに来たヤング博士に、対しても「どうも私には(効かない理由が)分からない」と発言したそうで、この言葉が最後の言葉とされています。

その直後から、病状が急激に悪化。1928年(昭和3年)5月21日昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じました。

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野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが改めて確認されましたが、このヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡しています。

野口の遺体は、その翌月にはアメリカのニューヨークに戻され、ブロンクスにあるウッドローン墓地に埋葬されました。この墓地には、日本人では野口英世のほか、高峰譲吉などの医学者や実業家の新井領一郎、宗教家の佐々木指月らの墓があります。

以上が野口英世の生涯です。小学校では学校推薦の伝記本などにも指定されているため、その一生をご存知の方も多いとは思いますが、確かに偉人といわれるほどの業績を残した人ではあるものの、特に若いころは、金遣いが荒く、女にだらしない側面があったということは伏せられることも多く、案外と知れれていません。

これらのことについては、上でも少し触れましたが、20歳のときに、医師免許を取得するために上京したときには、恩師の小林らから40円もの大金を借りており、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格はしたものの、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られています。

さらに、後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとしますが、彼の放蕩の噂を耳にした院長に拒否されています。

しかし、このときは血脇の一存で非公式ながらなんとか寄宿舎に泊まり込ませてもらうことができ、その代償として掃除や雑用をする学僕となりました。

それでもさらに厚かましくも、このころ来日していたエリザ・ケッペンという女性が開いていた夜学のドイツ語講座を受けるための学費を得たいと考え、これを血脇に相談しています。

が、血脇は医学院の一教員に過ぎず、月給4円(現在価値で2万円に満たない)の血脇には捻出できなかったため、野口は一計を講じ、血脇に院長に昇給を交渉させています。その結果、なんと血脇の給与は倍近い月額7円となり、ここから彼自身の学費を得ることができたといいます。

さらに、医師試験合格後も、開業するためその医術開業試験(臨床試験)を受けるためには予備校への入学が必要であり、このため野口は、現在の日本医科大学にあたる「済生学舎へ通いたいと血脇に訴えました。

このときも血脇に秘策を与えて院長と交渉させましたが、この結果、血脇はなんと今度は院長から病院の経営を任せてもらうことができるようになり、病院の予算を自由に動かせるようになりました。こうして野口は、血脇から月額15円もの学費援助を捻出することに成功しました。

その後23歳になって、北里伝染病研究所の外国図書係になってときも、蔵書が野口経由で貸し出された後に売却し、これを遊蕩に使ったという事実も発覚。この事件を理由に野口は研究所内勤務から外されましたが、野口の才能を認めていた北里所長の計らいで、横浜港検疫所検疫官補になっています。

この検疫所勤務では、上述のとおり、日本にまさに上陸しようとしていたペストを発見し、この功績で、内務省から中国へ派遣される国際防疫班スタッフに選ばれました。ところが、ここでも遊蕩のために、支度金96円を放蕩で使い果たしており、その資金補てんを血脇に頼み込み、工面してもらってなんとか渡航しています。

このように野口は恩師である血脇からは、まるで金を搾り取るように援助をしてもらい続けていますが、最初のアメリカ留学前にも血脇から500円という大金を貰っており、これさえも遊興で使い切ってしまったといいます。

このときばかりは血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったと言われます。それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しの所へ行き、野口の為に再び留学資金を準備したといい、この事に野口は涙を流したと言われています。

後年、1922年(大正11年)、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜までつきっきりで案内してまわったそうです。血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまでも会わせたといいます。

別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言いました。

これに対して、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいかしれません」と言い返したというエピソードも残っています。

このように野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも彼の父から受け継いだ才能であったと言われているようです。

ただ、野口の父は酒好きの怠け者でしたが、野口のように女癖が悪いというようなことはなかったようです。野口の女遊びはなかば伝説的ともいわれており、上で述べてきたような金にまつわる危ない綱渡りはほとんどすべてが、遊郭へ出向いて放蕩した結果でした。

初めて渡米するときの渡航資金も、血脇からもらってだけでは足らなかったため、これをほとんど結婚詐欺のような手口で入手しており、これについては、箱根の温泉地にてたまたま知り合った見ず知らずの男性の姪と強引に結婚したというのは、上でも書いた通りです。

この箱根の温泉出であった斎藤なる人物がどういう人物だったのか調べてみたのですが、何を調べてもよくわかりません。が、おそらくはやはり実業家か医家か何か裕福な一族だったのでしょう。

このとき、英世はこの斎藤の姪、ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当ててアメリカへ渡ったわけですが、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種だったようです。

実は、ます子に対しては何の愛情も持っていなかったいたようで、血脇とやりとりされた手紙の中にも「顔も醜く学がない」と書いているほどです。

婚期を逃す事を恐れた斎藤家からは、幾度も婚約履行の催促がアメリカまで来ていたようで、これに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと、いつも逃げてばかりいたそうです。

さらには逆に、この斎藤家に対して、結婚の履行を約束するために欧州への留学資金を数千円要求しており、ここまでくると厚顔無恥というのはまさにこの人のためにあると言われても仕方がありません。

このすま子とは、野口が後年、ヨーロッパからアメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍したあとの1905年(明治38年、)血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済したため、婚約の破棄が実現しました。

このとき、血脇は野口に破談を薦めたそうですが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していたともいい、どこまでもしたたかな男、という印象が残ります。

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そんな野口も、ロックフェラー研究所に勤めるようになって、ようやく物心ついたのか、35歳になってようやく生涯の伴侶を得ています。これが、野口と同い年のアメリカ人女性のメリー・ダージスであり、生まれ年は、1876年(明治9年)6月1日で、野口の11月9日とは5ヶ月しか違いません。

ペンシルベニア州スクラントンにおいて、炭鉱労働者の父アンドルー・ダージス、母フランセスの長女として生まれており、ダージス家はアイルランド系移民でした。彼女はハイスクール卒業後、ニューヨーク市に移り、ニューヨークのレストラン(一説には、酒場)で野口と知り合い、意気投合したといいます。

結婚を持ちかけたのは、メリーのほうだったといい、野口が病原性梅毒スピロヘータの純粋培養実験を続けていた最中の1911年4月にめでたく結婚。その後、基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされるほどの大学者になった野口を生涯献身的な支えました。

メリーは、野口がアフリカのアクラで黄熱病によって死去した後も、医学博士野口英世未亡人として慎みをもって余生を過ごしたといい、野口の死から19年後の1947年12月31日、ニューヨーク市にて動脈血栓のため71歳で亡くなりました。

墓所は英世と同じニューヨーク市ブロンクス区ウッドローン墓地にあります。英世とメリーとの間には子供はなく野口家は英世の姉のイヌが婿を迎えて継承しました。イヌの息子、英世の甥にあたる栄(さかえ)氏が英世の養子となった模様です。また、英世は長男で、他に弟もいて、その弟は北海道に移住したという話もあるようです。

このように晩年は一人の女性を愛し続けた野口ですが、若いころに放蕩ばかりを続けるようになったのは、その前の失恋が影響しているのではないかということも言われているようです。

野口は、会津若松の書生時代に日本基督教団若松栄町教会で洗礼を受けています。ここで出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、このヨネ子が通う女学校校長経由で教会牧師に連絡があり、彼の行為がバレて叱責を受けました。

実は、このヨネ子の父親も実は医師でしたが、ヨネ子が若いころに逝去しており、この父の後を継ぐため、ヨネ子もまた東京の済生学舎(現・日本医科大学)で、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指すようになりました。

このころ同じ済生学舎に通うようになっていた野口はヨネ子に再会して驚きます。が、昔の失恋は忘れて学友となろう、と彼女に言ったといい、このとき野口は学習用にと、彼女に頭蓋骨を贈呈するという不思議な行為に及んでいます。

1899年(明治32年)清国に出向く直前にはわざわざ正装して、湯島に下宿するヨネ子に会いに行っており、また清国より帰国した折には野口とヨネ子の名を刻んだ指輪を贈っています。

こうしたことからみても、野口としては、やはり初恋の相手であるヨネ子を忘れられなかったのでしょうが、頭骸骨の件といい、指輪の件といい、野口のアプローチを迷惑と感じていた彼女は下宿の主婦に依頼し、以降の面会を拒否したといいます。

その後彼女もまた、1902年(明治35年)20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚して会津若松で三省堂医院を開業しました。

野口はヨネ子の従兄弟から彼女が結婚した事を知ったようですが、このとき、「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」と詠んでこの歌を従兄弟に送っています。

野口は、このころから、こうした俳句や短歌を詠うのが好きだったようで、このほか、浪花節も好きだったといい、医学以外の趣味の世界では将棋、囲碁、油絵などをたしなむなど、多才でした。

野口英世語録はいろいろ残っていますが、上述した「志を得ざれば再び此の地を踏まず」は、青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉として特に有名です。

研究の鬼をほうふつさせるような語録も数多く残っています。

「努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ」
「ナポレオンは三時間しか寝なかった」
「偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ」

一方では、女遊びや金使いの荒かった彼の山師的な側面をよく表す語録もたくさんあり、例えば、以下のようなものがあります。

「学問は一種のギャンブルである」
「名誉のためなら危ない橋でも渡る」
「忍耐は苦い。しかし、その実は甘い」

しかし、長い苦労の若いころを経て、晩年はノーベル賞にもノミネートされるほどの人格者ともなり、妻を愛して家庭も大事にしました。その頃残した語録には以下のようなものもあります。

「人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない」
「自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ」

また、晩年には、「人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである」という言葉も残しています。

前半生をエゴイスティックに生き、後半生はそれを悔いるように世のため人のためにエネルギッシュに生きたこの偉人もまた、実は自分はその人生を選んで生きてきたのだ、ということをその死の前までには理解していたのに違いありません。

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