1796年のこの日、イギリスの医師、エドワード・ジェンナーが、死の病といわれていた天然痘の抑止のために、8才の少年ジェームス・フィップスの腕に乳しぼりの女性サラ・ネルメスの手に出来た牛痘病変から採った材料を接種しましたが、これが世界初の種痘だといわれています。
1796年(寛政8年)というと、日本は江戸後期にあたり、伊能忠敬が蝦夷地を初めて測量したころであり、日本でも天然痘は何度も大流行していました。その致死率は40%前後ともいわれ、大きな感染力のため、日本以外の国では時に国そのものや民族が滅ぶといったことすらあったようです。
イギリスでも無論、この当時天然痘はもっとも恐ろしい病気の一つでしたが、ジェンナーの種痘の成功により、これ以降、種痘による予防が可能となったことから、その後天然痘による死亡者はヨーロッパでは劇的に減少し、その後も種痘は世界に広まっていきました。
1980年(昭和55年)5月には、世界保健機構によりその根絶宣言が出されましたが、このことにより、天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症ともいわれています。
天然痘は、ウイルスを病原体とする感染症の一つです。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいい、非常に強い感染力を持ち、全身が化膿して、膿の出る疱瘡ができます。仮に治癒してもあばたを残すことから、古くから不治の病、悪魔の病気と恐れられてきました。
発源地はインドであるとも、アフリカとも言われていますが、はっきりせず、最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃だといいます。また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世で、そのミイラには天然痘の痘痕が認められるそうです。
ヨーロッパでは、165年から15年間ローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病」も天然痘とされ、このときは少なくとも350万人が死亡しました。
その後、12世紀に十字軍の遠征によってヨーロッパ各地にウィルスがもたらされ、流行を繰り返しながらそのほかの場所へも広がっていき、アジアを含むユーラシア大陸ではとんどの人が罹患するようになりました。
ヨーロッパでは、ルネサンス期以降肖像画が盛んに描かれるようになりましたが、この当時は天然痘の瘢痕を描かないのは暗黙の了解事項であったといい、普通の風邪と同じくそれほど日常的な病気となっていた、ということのようです。
アメリカでは、コロンブスがここに上陸して以来、白人の植民するようになったために、これとともに天然痘も侵入し、先住民であるインディアンに激甚な被害をもたらしました。無論、持ち込んだ側の白人が罹患したことが原因ですが、奴隷として移入されたアフリカ黒人も感染源となっていきました。
しかし、ユーラシアやアフリカでは、天然痘の歴史は長く、天然痘は牛馬などの家畜にも伝染するため、これらの地域に住み、家畜とともに暮らす住民にはある程度抵抗力ができており、症状や死亡率はある程度軽減していました。
ところが、牛馬の家畜を持たなかったアメリカ・インディアンは、まったくといっていいほど天然痘の免疫を持たなかったため抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族も多数ありました。
とくに、北アメリカでは、植民地化のために、白人が故意に天然痘を広めるということもあり、とくにイギリスの軍隊は、天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようというひどいことまでやりました。
無論、銃器によるインディアンの駆逐もなされましたが、この天然痘のばらまきという、いわば化学兵器としての使用は、19世紀に入ってもなお続けられていたといいます。
中国でも天然痘は、シルクロードを通じて入ってきたようで、南北朝時代の495年ころに流行したとするのが最初の記録です。斉が北魏と交戦している間にまたたくまに中国全土で流行するようになり、この流行はやがて6世紀前半には朝鮮半島にも移行しました。
それまでは日本にも天然痘は存在しませんでしたが、中国や朝鮮半島との交易のために渡来人の移動が活発になるとともに流行し始め、6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられています。パンデミックとは、伝染病が予想される範囲(これをエンデミックといいますが)を超えて、急激に社会的に流行していく状態をさします。
中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、やがてはヨーロッパと同じく誰もがかかる病気となっていきました。天皇さえも例外ではなく、江戸初期のころの天皇、東山天皇は天然痘によって崩御している他、江戸時代最後の天皇、孝明天皇の死因も天然痘であったといわれています。
その息子の明治天皇も幼少時に天然痘にかかっており、この天皇は写真を撮られるのを嫌がったといい、その理由は痘瘡を煩い、口の周りにあばたがあったからだといわれています。
その後、18世紀半ば以降、日本では幕末近くになって、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきました。牛痘には人間も罹患しますが、瘢痕も残らず軽度で済むことから、これが天然痘の抑止に使えるのではないかと考えた人物がいました。
これが、冒頭で述べたエドワード・ジェンナーでした。 ジェンナーはイギリスの片田舎の開業医でしたが、1798年、この種痘法を発表した後、その名声はヨーロッパ中にひろまり、1802年にはイギリス議会より賞金まで贈られました。
しかし、この当時のヨーロッパ医学界はこのイギリスの田舎医師の業績をなかなか認めなかったといい、また一部の町村では、牛痘を接種すると牛になると言われたため、その普及はなかなか進みませんでした。
これに対して、ジェンナーは接種を「神の乗った牛の聖なる液」と説明して広めようとしたと言われています。こうした努力もありましたが、このころから天然痘がヨーロッパで大流行したのを機に、ジェンナーの種痘法の効果が人々に知られるようになりました。その功績から、現在では彼は「近代免疫学の父」と呼ぶようになっています。
なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする「美談」も昔もあったようですが、冒頭で述べたとおり、実際にはジェンナーの使用人の子に接種したのでした。
実は、このジェンナーの成功よりも前に、種痘法を発見した日本人がいた、ということは日本の医学界でさながら伝説のようになっているようです。
現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔という医者で、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前の寛政4年(1792年)に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させています。
しかし、この種痘法は日本でも同じく偏見のためになかなか広まらず、これが日本で本格的に普及するのは嘉永2年(1849年)に佐賀藩がヨーロッパからワクチンを輸入してからになります。
大阪の蘭方医、緒方洪庵は、ワクチンが輸入され始めた1849年に、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼んでこれを成功させ、のちに私財を投じて「除痘館」という種痘所を開いて牛痘法の普及活動を行いはじめました。
これに触発されて、江戸ではやや遅れた1858年に伊東玄朴・箕作阮甫・林洞海・戸塚静海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙といった有名な蘭方医83名の資金拠出により、神田松枝町(現千代田区神田岩本町)の幕臣の川路聖謨の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立されました。ちなみにこのお玉が池種痘所は、のちの東京大学の前身にあたります。
こうして、近代に入ってからは、ヨーロッパでもアジアでも種痘撲滅の運動が続けられるようになり、1958年には、世界保健機関(WHO)総会で、「世界天然痘根絶計画」が可決されました。
しかし、最も天然痘の害がひどいインドなどでは、天然痘にかかった人々に幸福がもたらされるという妙な宗教上の観念が浸透しており、種痘に対する反対運動まで起きました。ほかにもアフリカ諸国のように貧しい国々では、種痘のワクチンが行きわたらず、その根絶運動は多難を極めたといいます。
こうした困難にもめげず、WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々を対象としてくまなく種痘を行い、徹底的にウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させるという方針で天然痘の感染拡大を防ぎました。これが功を奏し、とくに根絶が困難と思われていたインドでまず天然痘患者が激減していきました。
これと同じ方針はアフリカなどの他地域でも用いられ、1971年にはついに中央アフリカと南米から天然痘が根絶されました。こうして、1975年、バングラデシュの3歳女児の患者が罹患したのを最後に、世界で天然痘を発症する患者はいなくなり、1980年5月8日にWHOは正式にその根絶宣言を行いました。
天然痘は、人間に感染する感染症で人類が根絶できた唯一の例であり、人間以外を含む感染症全般ではウシなどに感染する牛疫も2011年に撲滅宣言されています。
日本国内においても、その発生は1955年の患者を最後に確認されていません。国外で感染した患者は1970年代に数例報告されたことがありましたが、天然痘の撲滅が確認された1976年以降、日本では基本的に接種は行われていません。
このため、2014年現在の今も、自然界においては天然痘ウイルス自体が存在しないとされています。根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5~10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどいません。
ところが、撲滅したこの天然痘ウイルスを何等かの実験目的で培養し、研究施設などで保管している国もあるようです。このため、万一、これらが流出し、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されています。
アメリカの新聞社、ワシントン・ポストは、CIAが天然痘ウイルスのサンプルを隠し持っていると思われる国として、イラク、北朝鮮、ロシア、フランスを挙げているそうです
実際には天然痘を発症したという例は報告されていないことから、とりあえずはそうした兵器の行使は行われていないようですが、昨今の東アジアや東ヨーロッパの不安定な状況を見ていると、これらの地域の紛争には天然痘サンプルを持っているとされる北朝鮮やロシア主役であることから、天然痘の再来を心配する声もあるようです。
このように、天然痘に限らず、感染症というものは、世界の歴史において紛争や戦争のみならず、社会的、経済的、文化的に甚大な影響を与えてきました。
それでは、この感染症とはいったいなんでしょうか。
その定義は、マイコプラズマやクラミジアといった細菌、スピロヘータ、リケッチア、ウイルス、真菌、原虫、寄生虫といった、病原微生物ないしは病原体がヒトや動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすことです。
これらの病原体はヒトの組織を破壊したり、病原体自体が毒素を出したりして体に害を与え、一定の潜伏期間を経たのちにさまざまな病気を発症させます。感染症と伝染病は何が違うのか、という質問が飛んできそうですが、伝染病というのは「伝染性をもつ感染症」をさしており、伝染病もまた感染症です。
伝染性をもつ感染症の流行を疫病といい、これは日本では「はやり病」と言われることもあります。感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきました。
感染症の伝染性を発見したのは、イスラーム世界を代表する医学者でサーマーン朝出身のイブン・スィーナーといわれています。
サーマーン朝というのは、9世紀から10世紀にかけて、中央アジア西南部、現在のイラン東部のホラーサーンと呼ばれる地域を支配したイラン系のイスラーム王朝のことで、この国の君主であったシャムス・ウッダウラの侍医となったスィーナーは、当時の世界の大学者であると同時に、イスラーム世界が生み出した最高の知識人と評価されています。
ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えたといい、「第二のアリストテレス」とも呼ばれ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼしました。
このスィーナーが1020年に執筆したといわれる「医学典範」においては、既に隔離が感染症の拡大を止めること、体液が何らかの天然物によって汚染されることで感染性を獲得することが記述されているそうで、今よりも既に1000年以上も前から人類は感染症というものを認識していたことになります。
ただし、スィーナーはその物質が病気の直接原因になるとは考えていなかったようで、ましてや病原体(病原微生物)を直接視認できたわけではありません。
病原体の実像を人類が初めて見たのは、これよりもさらに700年近く経ったからであり、1684年のオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックが、光学顕微鏡によって世界で初めて細菌の観察したのが初めてだといわれています。
なお、光学顕微鏡でも視認されえないウイルス(virus)の発見は、細菌よりも遅れ、1892年のロシアの植物学者ドミトリー・イワノフスキーによるタバコモザイクウイルスの発見が最初とされています。
レーウェンフックはそれまでの顕微鏡を大幅に改良することによって細菌を肉眼で容易に観察できるようにすることに成功し、この顕微鏡には更に改良が続けられ、この光学顕微鏡は世界中に広く普及するようになりました。
この結果、1875年にはドイツ人医師のコッホが、この光学顕微鏡を用いて、世界で初めて感染力のある病原体を発見しました。この細菌は、炭疽菌と呼ばれるもので、2001年にはアメリカで同時多発テロ事件直後に発生した「炭疽菌事件」に利用されたことでも知られています。
コッホは、感染症の病原体を特定する際の指針として「コッホの原則」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出し、これによって、感染症の研究は著しく進歩しました。
こうして、種痘の発見者である、エドワード・ジェンナーや、ジョナス・ソーク、アルバート・サビンといった、有名な細菌学者が登場するようになり、彼等はそれぞれ天然痘やポリオに有効なワクチンを開発し、その成果は後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するための大きな一歩となりました。
日本でも明治維新によってこうしたヨーロッパの近代医学の知識が入ってくるようになり、やがて医学の分野において独自の進化を歩み始めるようになっていきます。そして、1894年(明治27年)には北里柴三郎がペスト菌を発見し、志賀潔も1898年(明治31年に)赤痢菌を発見しました。
しかし発見されても、天然痘以外では現在も根絶されていない疫病菌も多く、それらの細菌の多くは、「コッホの原則」の提唱以降の、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中して発見されています。
細菌による感染症は1929年に初の抗生物質であるペニシリンがイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見されるまで根本的な治療法はなく、ウイルスによる感染症に至っては患者自身の免疫に頼らざるを得ない部分が今なお大きいのが現状です。
ただ、1935年、ドイツのゲルハルト・ドーマクは初の広域合成抗菌薬であるサルファ薬を開発。既に開発されていた抗生物質とこのサルファ薬の組み合わせは、感染症治療に新しい地平を切り開いてきました。抗生物質の普及や予防接種の義務化、公衆衛生の改善は世界中で進んでおり、現在では感染症を過去の脅威とみなす風潮もあるようです。
しかし、耐性菌の拡大や経済のグローバル化による新興感染症の出現など、一時の楽観を覆すような新たな状況が生じており、いまだ、感染症はその脅威が人類社会に大きな影を投げかけています。
こうした災厄に対する人びとの対応は、歴史的・地域的にさまざまですが、現在の日本では、中国、韓国、ロシアから入ってきたのではないかといわれる、鳥インフルエンザや人間にも感染力の強い新型インフルエンザが猛威をふるっており、「インフルエンザ」という脅威への対策に主眼が置かれています。
しかし、幕末から明治にかけては、この時期に流行した「コレラ」が最大の脅威であり、後述するように、このコレラはその後の日本の近代化、国際化に大きな影響を与えました。
コレラはコレラ菌による感染症で、感染すると突然の高熱、嘔吐、下痢、脱水症状を起こします。その感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行、コレラ・パンデミックを発生させており、2006年以降、世界的には第7期流行期が継続しているといわれています。
日本でもまた、2001年に、隅田川周辺に居住していた路上生活者2名がコレラを発病し、2006年にも、路上生活者1名がコレラを発病しましたがその後は駆逐され、2007年から施行された改正感染症法においてコレラは三類感染症に分類されました。
これは事実上の格下げであり、この変更に伴って、検疫法の対象病原体から除外され、空港・港湾検疫所では病原コレラの検出そのものが行われなくなっています。
しかし、かつて、幕府が鎖国を廃して諸外国といわゆる安政五ヶ国条約が結ばれた1858年(嘉永5年)からは、3年にわたってコレラが全国を席巻するほど大流行しました。これが、いわゆる「安政コレラ」で、検証には疑問が呈されているものの、江戸だけで10万人が死亡したといわれています。
その後このコレラの流行は一服しましたが、文久2年(1862年)には、残留していたコレラ菌により再び大流行し、56万人の患者が出て、江戸では7万3,000人が死亡したといわれています。以後、明治に入っても2、3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数えたこともありました。
このうち、1879年(明治12年)の流行については、この年の初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、7月には阪神地方など西日本で大流行しました。このため、明治政府は各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則を作成し、外国船の検疫停船仮規則も新設して検疫の実施を図ることにしました。
日本政府は各国公使に仮規則の内容を通知し、これに対し、アメリカ合衆国・清国・イタリア王国の各国代表は異議のない旨を返答してきました。ところが、駐日英国公使のハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張し、拒否の返答を送ってきました。
これに同調するかのように、ドイツとフランスもまた拒否の姿勢を示し、しかも日本が作成した規則の不備を指摘して、逆にイギリスと共同で日本に抗議文を提出してきました。
普通に考えれば、日本の勧告に従って検疫を受けた方が、外国人居留地に在住する彼等の自国民の安全にも資するはずでしたが、かれらは日本の検疫そのものが厭わしいというよりは、これが糸口となって、日本の行政規則にしたがわなければならなくなることを警戒したのでした。
ちょうどこのころ、ドイツ船「ヘスペリア号」という商船が、コレラ流行地である清から日本へ直航してきました。日本の防疫当局は、この船の乗員とともにコレラが流入するのを恐れ、へスぺリア号を神戸港外にいったん停泊させましたが、その後ヘスペリア号は神戸から東京湾へ廻航し、今度はここに入港しようとしました。
このため当局は、諸外国との検疫停船仮規則の締結を見ない現状ではありましたが、この仮規則で定めた神奈川県長浦港(現横須賀市)に設けた検疫場にヘスペリア号を強制的に回航させました。
これに対し、駐日ドイツ弁理公使であったフォン・アイゼンデッヘルは、公使館付一等軍医のグッヒョウを検疫場に派遣して独自の検査をおこないました。そして、あろうことか「異状はみられない」との自前調査の結果をまとめました。
アイゼンデッヘル公使は、船長の不服申立書と立ち入り検査報告書の写しをたずさえて再度ヘスペリア号の解放を日本の政府当局へ要求し、日本側の検疫規則にしたがうことはできない旨を当局に伝えてきました。
政府当局は最初、規則の遵守を強く主張しましたが、やがてドイツ側の強硬な姿勢に譲歩し、「異状のまったく認められない場合に限る」と強調した上で、停船日数を短縮するならば、ということで入港を認めてしまいました。
しかし、ドイツ公使はこの「停戦日数の短縮」すらも不服とし、一方的に東京港外から抜錨し、ドイツ砲艦ウルフ号の護衛のもと、今度は横浜へ向かい、ここでの入港を強行しました。これが後世、いわゆる「ヘスペリア号事件」と呼ばれるようになった事件のあらましです。
外務卿の寺島宗則は、この出来事について、日本の行政権に対する重大な侵害に相当するとして、ドイツ政府に対し厳重に抗議しました。
しかし時すでにおそしであり、日本側が懸念したとおり、このヘスぺリア号の入港によって上陸したドイツ船員が罹患していたコレラが、横浜市民に伝染し、この年は横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが大流行する、という結果になりました。患者は全国で約16万8,000人にものぼり、コレラによる死者は1879年だけでも10万400人にも達しました。
東京市においては、市内数カ所にバラックの板囲いで避病院を急造して患者を隔離しましたが、1日平均200名を超過する新規患者が出るようになると、医師も看護婦も人手不足となり、ろくな看護も受けることなくほとんどの患者は死んでいきました。死者は警察官立ち会いのもと火葬に付され、避病院も用済みになると建物ごと焼き捨てられたといいます。
このヘスペリア号事件に先だつ二年前の1877年(明治10年)には、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚していました。
これは安政五カ国条約のなかの日米修好通商条約に記載されていた、アヘンの輸入は禁止するという条項に明らかに違反していましたが、翌1878年、横浜イギリス領事裁判法廷は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡しました(ハートレー事件)。
このハートレー事件に限らず、開港以来の横浜居留地では、生糸を中心とした貿易において外国人商人の商品代金踏み倒しなど不正な取引が頻発していました。しかし、治外法権によって守られていたこともあり、多くの場合、日本人側が泣き寝入りを余儀なくされていました。
こうしたこともあり、ヘスペリア号事件に端を発して多くのコレラ患者が出たことから、それまでに日本が諸外国と結んでいた不平等条約に関して不満の声が高まり、日本の国内世論は条約改正に向けて沸騰しはじめました。
日本の知識人の多くが、この事件やハートレー事件等により、領事裁判権の撤廃なくば国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを主張しました。その論調が新聞で掲載されると、世論は、日本の経済的不利益の主原因もまた、日本に法権の欠如していることが主原因であるというふうに変わっていきました。
実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然でした。
ヘスペリア号事件やハートレー事件は、こうして不平等条約の改正の必要性を広く世論に知らしめた事件となり、高まる世論を受け、寺島宗則につづいて井上馨、大隈重信、青木周蔵など歴代の外交担当者はいずれも条約改正に鋭意努力していきました。
その結果、1894年(明治27年)に陸奥宗光外相下で日英通商航海条約が結ばれて改正条約が発効する運びとなり、その5年後の1899年(明治32年)になってようやく日本は海港検疫権を獲得しました。
このように、この明治期のコレラという感染症の蔓延は、これが契機になって不平等条約の改正を促すとともに、これが日本が国際的に対等に諸外国と渡り合えるほどの国力をつけていくきっかけにもなっていきました。
コレラの流行はまた、日本の近代的な科学技術の発展に大きく貢献しました。ヨーロッパにおいても、19世紀前半のコレラの流行は、彼の地の科学技術を大きく発展させたという歴史的事実があります。
19世紀初頭以来の急速な都市化の進んだヨーロッパでは、その大都市はどこも劣悪な衛生環境にありましたが、コレラの猖獗(しょうけつ・悪い物事がはびこり、勢いを増すこと)によって、多くの人々が感染症は「人間の病」である以上に「社会の病」であることを痛切に感じるようになりました。
その結果として、社会の健康を考える公衆衛生学が発達するとともに、コレラなどの感染症の蔓延を防ぐための上下水道の整備が進み、これに伴って道路拡幅などのインフラ整備も進んだ結果、近代的な都市工学という学問分野が生まれました。
日本もこれと同様に、このコレラの流行を抑止するために、まず水道事業が発展しました。この当時の日本人は、河川から直接取水してこれを生活に直接使用していたこともあり、コレラだけでなく赤痢などの水系感染症が多発し、多くの死者を出していました。
これを防ぐべく、まず横浜市を皮切りに水道事業が実施され、これは次第に全国的にも普及していきました。近代的水道としては、1887年(明治20年)に横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりで、その三年後の1890年(明治23年)には、水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする水道条例が制定されました。
この中で全国第3番目の水道事業を開始した長崎市では、1891年(明治14年)に本河内高部ダムが完成し、これは日本で初めて上水道専用のダムでした。さらに1900年(明治23年)には神戸市が生田川に上水用の布引五本松ダムを完成させましたが、このダムは、日本で初めて建設されたコンクリートダムでした。
ちなみにこの両ダムは現在でも現役で稼働しており、本河内高部ダムは1982年(昭和57年)の長崎大水害、布引五本松ダムは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災という激甚災害を経験しながらも致命的な損壊をまったく受けていません。
こうしたダムの建設の促進もあって、上水道は各都市部で急速に実用化されるようになりました。旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた東京でも、1898年(明治31年)には多摩川から淀橋浄水場を経由して、市内へと配水する設備が完成し、こうしてコレラの蔓延は次第に「水際」で防がれていきました。
さらに、ダムの建設は日本の電気事業をも喚起し、こうして水道事業に端を発した数々のインフラ整備は、その後の日本における土木事業、建設事業における礎を築いていくことにもつながりました。
一方では、コレラの蔓延は、医療技術の急速な発展をももたらしました。佐々木東洋によって杏雲堂病院が創設され、佐藤泰然によってひらかれた順天堂病院は、その後の日本の医療技術の発達の嚆矢となりました。
この佐藤泰然が創設した順天堂病院は元は湯島にあり、これが現在は文京区に本部のある順天堂大学病院の前身になります。しかし、さらにはもともとは千葉の佐倉にあった佐倉順天堂がその前身です。
佐藤泰然は、武蔵国稲毛(現川崎市)の武家の生まれで、蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事しつつ長崎に留学し、江戸へ戻ってからは名医として賞賛されていました。が、天保14年(1843年)、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾である佐倉順天堂を開設しました。
この佐倉順天堂の治療は当時の最高水準を極めていたといい、とくに外科技術は欧米の技術を凌駕していたともいわれ、安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術などはいずれも麻酔薬を使わない手術だったといいます。
嘉永4年(1851年)、日本初の「膀胱穿刺」手術にも成功。他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、順天堂はやがて大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾となりました。
安政6年(1859年)、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居。順天堂の2代目堂主佐藤尚中は、泰然に子供がなかったために養子として佐藤家に入った人で、この佐藤尚中下谷練塀町で開院したのが順天堂医院の始まりです。
湯島の地に移転したのは1875年(明治8年)であり、現在も学校法人順天堂が運営する「順天堂大学医学部附属順天堂医院(醫院)病院」として現存し、開院以来一貫して「醫院」の名称を用いており、順天堂大学本郷キャンパスの一部をも構成しています。
佐藤泰然の後を継いだ順天堂の堂主(理事長)となった佐藤尚中は、これ以前の1869年(明治2年)には既に、明治政府から大学大博士を任ぜられ大学東校(東京大学医学部の前身)の創設時の初代校長となり、後の東京大学医学部を開設しました。
この大学東校は、冒頭で述べたおおり、神田松枝町(現千代田区神田岩本町)にあった「お玉が池種痘所」が前身であり、佐藤泰然もまた、緒方洪庵の種痘所の創設に協力したという話もあり、順天堂医院もまた種痘撲滅の歴史とは無縁ではありません。
そして、この順天堂医院では、その創設当時から東京大学医学部から病院長や教授などを多く受け入れており、文字通り日本の医学界のトップであり、数多くの名医を生み出してきました。
実は、ここ伊豆にもこの順天堂医院の流れを汲む、順天堂大学病院があります。順天堂大学医学部附属静岡病院がそれで、順天堂2番目の病院であり、静岡県伊豆の国市にある医療機関です。
静岡県では他に2カ所しかない総合周産期母子医療センターや、他に1カ所だけある肝疾患診療連携拠点病院などを有し、静岡県東部の基幹病院と位置づけられています。
昭和42年4月(1967年)に町立伊豆長岡病院を譲り受け、順天堂大学医学部の附属病院として発足したものですが、なぜ順天堂大学病院のような大きな組織が、こんな片田舎に病院を作ってくれたのかについては、調べてみたのですがよくわかりません。
同病院のHPには「地域の要請により」、とだけさりげなく書かれていますが、おそらくは旧長岡町の有力者の中に、順天病院の関係者と懇意の人がいた、とかいうようなことなのでしょう。
その順天堂大学静岡病院で、手術を受けた母は、すっかり元気になって山口にいます。先日の母の日に、この病院への入院当時の写真を送ったらたいそう喜んでいました。
その母が次に来るころにはもう夏になっていることでしょう。今日は全国的にも暑いところが多いようで、伊豆市での最高気温の予想も26度でした。
暑い夏がまた今年もやってきます。夏風邪は、気温の変化によってひくものだと思っている人も多いでしょうが、一部のウイルスは高温多湿の環境を好み、夏に活動的になります。
その代表がエンテロウイルスやアデノウイルスと呼ばれるもので、エンテロ(腸)、アデノ(ノド)という名称が示すように、発熱に加えて腹痛や下痢、ノドの痛みなどが特徴的な症状です。「夏風邪はお腹にきやすい」といわれるのは、主にエンテロウイルスが腸で急速に増殖するためです。
ノドの痛みは、咽頭炎などを引き起こし、食べ物や飲み物がノドを通らなくなることもあります。その結果、体力が低下して夏バテの原因にもなりかねません。
夏風邪というと、つい軽い風邪と考えがちですが、症状が長引きやすいので、油断できません。天然痘やコレラと異なり、軽い伝染病とタカをくくらず、対処法や予防法をしっかり知って、こじらせないよう注意しましょう。