ここ修善寺もたいした雨風なく一夜が過ぎ、今は暑い日差しが照っています。暑い夏の到来かと思いきや、まだまだ梅雨は続くようです。それにしても蒸し暑い……
さて、1893年(明治26年)の今日7月11日、御木本幸吉が真珠の養殖に成功しました。実験中のアコヤ貝の中に5個の半円真珠が付着しているのを確認したそうです。日本では無論初めてのことですが、それまでも、中国や欧州では真珠の養殖技術はありましたが、これほど完成度が高く天然真珠に近いものはなく、これは世界初の快挙でした。
養殖真珠には真円のほか、半円(半形)があり、御木本の作った真珠は後者でしたが、それでも宝石としての装飾価値は十分あり、御木本はその後研究を重ね、真円(球形)のものも養殖することに成功しています。。
この御木本幸吉が世界で初めて養殖に成功した半円真珠とは、内臓を覆っている「外套膜」と呼ばれる膜と貝殻の間に、人工的な半球形の核を挿入し、その上に真珠層を作らせるというもので、真珠ができたあとは、貝殻から切り離して加工します。
御木本幸吉はこの半円真珠の養殖成功によって、3年後の1896年(明治29年)には特許権を取得しており、これによって真珠事業の独占が可能となったため、それまでやっていた他の事業を整理して真珠事業に専念し、やがて「真珠王」とまで呼ばれるようになりました。
さらに三年後の1899年(明治32年)には、銀座に「御木本真珠店」を設立。1905年(明治38年)には、さらに英虞湾の多徳島で真円真珠の生産に成功し、この新円真珠を中心として海外での販売も積極的に行ったことから、以後、御木本の養殖真珠は世界中で愛用されるようになりました。
現在でも「ミキモト・パール」の名は世界に知られており、養殖真珠とはいえ天然モノとほとんど変わらないその輝きによって、高給品として扱われています。
この真珠ですが、いわずもがなですが、貝の体内で生成される「宝石」です。が、生物の体の中で造られることから、「生体鉱物(バイオミネラル)」とも呼ばれています。先述の外套膜というのは、貝の内臓を守るものでもありますが、この器官の表皮から炭酸カルシウムを分泌して貝殻を生成する大事な役割を持っています。
従って、外套膜は「貝殻の卵」ともいえるわけですが、この周りにカルシウムがまとわりついて真珠ができます。真珠養殖に使うアコヤ貝に限らず、ハマグリやアサリでさえも、貝の内側にはパール色のカルシウム膜ができることがあり、ご覧になったことがある人もいるでしょう。この成分は真珠のものとほぼ同じです。
従って、アコヤ貝に限らず、貝殻を作る軟体動物であれば真珠を生成する可能性はあるそうですが、分厚いパール質を形成できるのはアコヤ貝以外にはあまりないそうです。ただ、最初から外套膜が真珠を作るのではなく、自然状態では小石や寄生虫などの異物が貝の体内に侵入し、これが外套膜の中に入りこむことでこの周囲にパール質が生成されます。
このとき外套膜は細胞分裂して袋状になり、異物を包み込む形で真珠を生成するため、これは「真珠袋」と呼ばれます。この袋の中ではカルシウムの結晶と有機質が交互に積層され、やがてこれは「真珠層」となります。このカルシウムの結晶は「アラレ石」と呼ばれる一種の宝石です。
このアラレ石と有機質の薄い層が何十にも重なるという構造は、光の干渉を生み出し、これが真珠特有の虹色を生じさせます。このように虹色に見えるようになることは、とくに「オリエント効果」と呼ぶ場合もあります。
オリエント効果は、真珠層の構造や色素の含有量などによって微妙に異なり、これによって真珠の色・照りが決まります。通常の白い真珠のほかに、黒真珠や金色やピンクといった、変わった色の真珠が形成されることもあります。
御木本が発明した養殖真珠は、アコヤガイを使ったものであり、ご存知の通り、真っ白い真珠です。一番ポピュラーなものではありますが、「白」が大好きな日本人には最も人気のあるものであり、また淡黄色の肌を持った日本人には良く似合います。
御木本は、球体に削った核を、アコヤガイの体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる、という方法でこの養殖を成功させました。が、口で言うほどこれは簡単なものでなく、まずはどんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、などなど解決しなければならない問題は山積みでした。
1890年(明治23年)、三重県鳥羽市の鳥羽湾内に浮かぶ小島、相島(おじま)と虞湾内の神明浦との2箇所で実験が開始されました、この相島は現在、「ミキモト真珠島」と呼ばれ、観光名所にもなっています。
ここでの実験開始後も、まずは貝そのものの最適な生育環境を見つけるのに苦労し、またときには赤潮によって貝が絶滅してしまうといったこともあり、これらの大きな障壁をひとつひとつ乗り越えていく必要がありました。
その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝もあり、これには真珠作りの実験以上に大変な労力を割く必要がありました。
しかし、その苦労が実り、1893年(明治26年)の今日、ようやく実験中のアコヤ貝の中に5個の半円真珠を発見したわけです。
御木本幸吉は1858年(安政5年)志摩国鳥羽浦の大里町で「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれました。13歳ですでに家業を手伝う傍ら、青物行商も始めていました。20歳になった1878年(明治11年)、東京・横浜へ視察旅行に出かけ、そこで自分の故郷の天然真珠が高値で取引されているのを見て、真珠養殖を思い立ちます。
しかし、そのためには資金が必要であり、そのためせっせと青物商売で銭を稼ぎ、1888年(明治21年)、30歳になった御木本成年は、ようやく志摩郡神明浦に初めて真珠養殖場を設けることができました。その後しばらくは天然真珠貝の養殖をやっていましたが、人工真珠の養殖実験も始めたのはさらにその2年後でした。
ちょうどそのころ、御木本はこの当時所属していた大日本水産会という互助組織の幹事長から東京帝国大学の箕作佳吉(みつくりかきち)博士を紹介されます。箕作博士は慶應義塾、大学南校に学んだのちに渡米し、レンセラー工科大学で土木工学を学び、のちエール大学、ジョンズ・ホプキンス大学に転じ動物学を学びました。
帰国後東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、その後東京帝国大学理科大学長を務め、日本における動物分類学、動物発生学の草分けです。カキ養殖や真珠養殖に関してもこの当時の第一人者であり、御木本もこの箕作博士から真珠養殖の話を聞きました。
しかし、箕作博士は真珠養殖は理論上可能であるものの、これまでだれも成功していないことを御木本に話しましたが、逆にこの話が御木本の闘争心に火をつけ、養殖真珠にチャレンジする決心をするきっかけになったと言われています。
御木本は早速、箕作博士の助けも得ながら、過去における真珠養殖の実験データを集め始めます。その結果、中国に「仏像真珠」というものを作る技法があり、これについては諸外国の真珠養殖研究者も注目していることを知ります。
しかし、この当時この中国の養殖技術をもってしてもまだ真円真珠は製造することはできず異形真珠のみであり、またできた真珠のパール層も薄く、価値が低いとみなされたため、商業ベースには乗っていませんでした。
中国では11世紀頃から既に、淡水産の二枚貝に鉛で仏像などを象った物体を貝殻と外套膜の間に挿入し、これらの物体表面を真珠層で覆わせる、という試行をしており、たまに真珠ができると、これを切り取り、仏具や装飾品に使用されていました。
その後この技術は改良され、13世紀には蘇州の太湖湖畔に位置する寒村を中心に、貝殻で作った玉や薄い鉛製の仏像などを核にして盛んに「仏像真珠」が養殖されるようになりました。しかし、核にする鉛などが大きすぎ、結果形成されるパール層も薄くならざるを得ず、これを即、宝石と呼ぶには無理がありました。
この仏像真珠は1734年中国に滞在したフランス人神父によってフランス本国に伝えられました。こうして、フランスとイギリスで1735年に刊行された水産関係の書物によって中国の養殖真珠の全貌が全ヨーロッパに紹介されるようになりました。その結果ヨーロッパでは18世紀以降多くの学者がこの仏像真珠を手本に真珠養殖の研究を行うようになります。
御木本の真珠養殖もこれらの研究をもとに始められたものですが、上述のとおり、苦労に苦労を重ねた結果、天然真珠と比べても遜色のない、まさに宝石と呼ばれるにふさわしいものの開発に成功しました。
ちなみに、その後この御木本が完成させたこの半円真珠を作る技術を更に発展させ、真円真珠製造の方法を日本で初めて成功させたのは御木本本人ではありません。ほぼ同時期にこの完成を見ており、それは西川藤吉・見瀬辰平という二人の人物です。
このうち見瀬辰平のほうが、1907年(明治40年)にはじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得しました。
見瀬辰平は1880年(明治13年)三重県に生まれました。はじめは船大工などの修行をしていましたが、1900年(明治33年)頃から志摩半島の的矢湾で真珠の研究を始め、やがて貝の上皮細胞の小片を貝の核に付着させ、これを外套膜に注入するための注射針をつくることに成功し、これが真円真珠を創りだしたことから特許の対象となりました。
見瀬はその後も研究を続け、1920年(大正9年)にも特許を得ましたが、この方法は先の特許技術をさらに改良したもので、外套膜細胞そのものを注射器で貝の体内に送り込むという斬新なもので、これは後年、「誘導式」と呼ばれるようになりました。
これに続いて、西川藤吉もまた真円真珠生産に関し独自の形成法技術の特許を出願します。西川は1874年(明治7年)大阪に生まれで、1897年(明治30年)東京帝国大学動物学教室卒業と同時に農商務技手として水産局に勤務。この頃から御木本と関わりを持つようになりますが、これは御木本の養殖場で発生した赤潮調査がきっかけのようです。
西川は、御木本にたいそう気にいられたようで、1903年(明治36年)には御木本の次女峯子と結婚しています。その後大学の動物学教室に復帰し、御木本も師事した箕作博士の弟子として神奈川県三崎臨海実験所で真円真珠養殖の研究に専念するようになります。
1907年(明治40年)、外套膜の小片を作り、見瀬辰平とは違うやり方でこれを貝体内に移植して真珠袋を作る方法を発明し、真円真珠を養殖する方法の一連の特許を出願しました。
ところが、先に真円真珠の特許申請を出願していた見瀬は、この特許技術の一部が自分の特許権に抵触するとして特許庁に訴えを起こします。調停の結果、西川籐吉の出した特許は特許として認められたものの、その名義は二人で共有とするということでこの問題は決着しました。
しかし、残念ながら西川はこの発明から2年後の1909年(明治42年)、東京の自宅で癌のため世を去りました。わずか35歳の若さであり、彼が出願したこの特許が登録されたのは没後のことです。
実は、御木本幸吉もこれに先立つ1902年(明治35年)ごろから本格的に真円真珠養殖研究に着手していました。新たな技術開発のために元歯科医まで雇い入れるという入れ込みようでしたが、娘婿が亡くなるとその意思を継ごうと新たな決意をします。
こうして、1917年(大正6年)、貝殻を形成して球状にした核を外套膜で完全に包んで細い絹糸で縛り、貝体内に挿入するというこれもまた斬新なアイデアを盛り込んだ技術を完成させ、これを「全巻式」と呼んで特許を出願するに至ります。
この御木本の完成させた技術によって、真円真珠の製法はほぼ確立されましたが、その創成期に活躍した彼等の功績を称え、一般社団法人日本真珠振興会は、西川・見瀬の二人が初めて特許を申請した1907年(明治40年)を「真円真珠発明の年」に定めています。
真円真珠の養殖にも成功した御木本幸吉は、これを機会に半円真珠の生産を減らし、真円真珠販売に事業の重心を置くようになります。そして次々と販路を拡大し、1919年にはついに、養殖真珠をヨーロッパの市場に売りだします。
御木本はそれまでも半円真珠をヨーロッパ市場に出していましたが、これは完全な真珠とは見做されず、高値で取引をされることはなく、一種特別な商品として扱われていました。
そこに天然真珠と変わらない養殖真珠が突如出現し、しかも御木本はこれを天然真珠より25%も安い価格で販売し始めたため、最初に販売を始めたロンドンでは「ミキモトの養殖真珠は果たして本物か偽物か」という論争が起こりました。
この論争はやがてパリにも飛び火し、天然真珠の価格暴落を恐れたパリの業者組合は養殖真珠が模造真珠であるという大キャンペーンを展開し、不買運動を起こしはじめました。
これに対し、御木本のパリ支配人はこの運動は不当であると民事裁判に訴え、養殖真珠は本物か偽物かということがいわゆるパリ真珠裁判で争われることになりました。そして当時のフランスやイギリスで一流と言われた真珠研究者が鑑定を行うこととなり、その結果、裁判所は養殖真珠は天然真珠と何ら変わるところがないという結論を出すに至ります。
こうして養殖真珠は天然真珠と同じ扱いを受けるようになり、以後、世界各国に販路を拡大していきました。現在でも養殖真珠は、養殖とはいえ宝石として認定されているため大変高価なものであり、その価値を世界の市場に広め、養殖真珠を一大産業として発展させた御木本幸吉の功績は非常に大きいといえます。
毎年4月18日は、「専売特許条例」が、1885年(明治18年)のこの日に公布されたことを記念して「発明の日」とされていますが、昭和60年(1985年)の発明の日には、これがちょうど100周年を迎えたことを記念し、特許庁において「十大発明家」が選定・顕彰されました。
御木本が発明した「養殖真珠」はこの中にも含まれており、他の名立たる発明家とともにそこに堂々とその名が掲載されています。現在、特許庁のロビーには彼らのレリーフ像が飾られているそうで、無論そこには御木本の姿もあります。
この十大発明家のそれぞれ氏名と代表的な発明を以下に示すと、次のようになります。
日本の十大発明家(1985年)
豊田佐吉(木製人力織機、自動織機)
御木本幸吉(養殖真珠)
高峰譲吉(タカヂアスターゼ、アドレナリン)
池田菊苗(グルタミン酸ナトリウム)
鈴木梅太郎(ビタミンB1、ビタミンA)
杉本京太(邦文タイプライター)
本多光太郎(KS鋼、新KS鋼)
八木秀次(八木・宇田アンテナ)
丹羽保次郎(NE式写真電送機)
三島徳七(MK鋼)
どうでしょう。1985年の顕彰なので、少々古い感は否めないところであり、その後発明された、有機ELやデジタルカメラ、発光ダイオードやDVD、USBなどといった技術に加え、無論ES細胞などは含まれていません。
こうした新しいものも加えて再度見直してみてほしいところですが、しかし明治期以降の日本の工業化を支えた日本の技術としてはやはりこの10大発明の功績は大きいといえるでしょう。ここで、さっとこれらの発明を俯瞰してみましょう。
豊田佐吉の自動織機は、運転中に緯(よこ)糸が切れたとき、またはなくなる寸前に緯糸を自動で補充して連続運転する織機であり、明治・大正・昭和初期の殖産興業を支えました。豊田佐吉はG型自動織機で代表される自動織機をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をしており、ご存知トヨタの創業者でもあります。
八木・宇田アンテナとは八木秀次、宇田新太郎によって開発されたアンテナの一種であり、素子の数により調整できる指向性アンテナです。一般には「八木アンテナ」の名で知られており、電波を受信する際、素子数が少ないほど利得が小さく近距離受信に向いており逆に多いほど利得が大きく遠距離受信に向いています。
現在では主にテレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用されており、我々の生活には欠かせないものです。戦前、欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備されました。
ところが、日本の学界や軍部では敵を前にして電波を出すなど暗闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然だとし、それほど重要な発明と考えませんでした。そうしたところ、1942年に日本軍がイギリスの植民地であったシンガポールを占領した際、英国軍からレーダーに関する書類を押収し、この技術書の中に頻出する“YAGI”という単語をみつけました。
が、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわかりません。ついには捕虜に質問したところ、このイギリス兵は、「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と逆に教えられて驚嘆したという逸話が残っています。このように日本だけでなく欧米でも知られる大発明です。
アドレナリン。これは、ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血糖値を上げる作用などがあります。1895年にナポレオン・キブルスキーによって初めて発見され、血圧を上げる効果が見られましたが、これにはアドレナリン以外にも不純物質が含まれていました。
その後、1900年になって、アメリカのニュージャージーの研究所にいた高峰譲吉と助手の上中啓三は、ウシの副腎からアドレナリンを発見し、翌年に世界で初めて「結晶化」に成功しました。アドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として現在も広く用いられています。
グルタミン酸は、化学調味料として有名です。グルタミン酸ナトリウムを利用した調味料で最も有名なのは味の素でしょう。日本ではうま味調味料の代名詞とされるほど普及しまし。が、1960年代から1970年代にかけて、その害毒性が議論され、1968年(昭和43年)に中華料理を食べた人が、頭痛、歯痛、顔面の紅潮、体の痺れなどの症状を訴えました。
これは「中華料理店症候群」として報告され、マウス実験で視床下部などへの悪影響が指摘されました。しかし、繰り返し追試を行った結果、通常の経口摂取ではヒトに対する毒性はなく、症候群を引き起こす証拠も見当たらないという結論に達しました。ただ、アメリカでは、今もってその摂取が、脳などに深刻な被害を及ぼすと考える人々が存在します。
ビタミンB1。この発明は、かつての国民病であった脚気の特効薬として知られています。国民の脚気死亡者は、日中戦争の拡大などにより食糧事情が悪化するまで、毎年1万人から2万人で推移していましたが、その理由として、B1製造を天然物質からの抽出に頼っていたために値段が高かく、供与が行き届かなかったことなどが挙げられます。
この発明以後、人工的な製造が簡単になり、のちの1954年に武田薬品工業が「アリナミン糖衣錠」という商品名で売り出し、その類似品が社会に浸透すると1950年代後半以降は画期的に脚気患者は減りました。脚気の治療薬の開発を陸軍から依頼されたことがきっかけでこの開発は始まったといわれています。
和文タイプライターは、知らない人も多いでしょう。日本語の文章を活字体で作成する機械装置であり、1915年に「邦文タイプライター」としてその原型が製品化されて以降、ワードプロセッサが登場するまで長い間使用されていました。
「タイプライター」と銘打っていますが、あくまでも清書用で、欧文タイプライターのように文章を考えながら高速で文字を入力するようなことは叶わず、ましてやキーを見ないで入力するタッチ・タイピングなどは不可能なものでした。
しかし、作成した原稿は、印刷屋で写植印刷に用いられたり、青写真コピーでプリントされて利用され、長きにわたって、日本の官公庁における書類の作成や印刷業界の版下制作を支えました。特に書類作成では学校などの公共機関や企業が内外に配布する書類や連絡文章の作成に威力を発揮し、1970年代以前は事務用品としての一定の地位を得ていました。
とはいえ、活字を探し出したりと扱いが難しく、また文字の打ち間違いを後から修正することは困難で、万一横転させようものなら活字が皆飛び出して散乱してしまい、それを並べ直すだけでも専門の技術者を必要としました。持ち運びにも不便な上に作動音も大きく、1980年頃から次第に日本語ワードプロセッサーが普及するにつれ姿を消していきました。
NE式写真電送機は、これすなわちファックスのことです。が、ファックスそのものの発明は、1843年、イギリス人のアレクサンダー・ベインがファクシミリの原型を発明し、特許を取得したのに遡ります。
日本では1924年(大正13年)6月、大阪毎日新聞と東京日日新聞が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を3台購入しましたが不安定で使えませんでした。次いで、朝日新聞が1928年(昭和3年)6月フランスからベラン式の電送機を3台購入、稼働実験は成功したものの、いずれも画像乱れの問題があり、実用化されるに至りませんでした。
そこで、1928年、日本電気(現NEC)の丹羽保次郎とその部下、小林正次がこうした画像乱れを改良したのが、NE式写真電送機です。NE式は、送信側の回転ドラムを交流モーターで回し、その交流を受信側にも送って記録用のモーターを回すという同期方法を採用した結果、画像に乱れなく写真を電送することに成功しました。
大阪毎日新聞がこれを採用し、1928年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位礼を、京都から東京に伝送したのが実用化第1号だそうです。その後、NE式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省が1930年(昭和5年)に「写真電報」という名でサービスを開始しました。
1936年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン~東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていきました。1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道にも使用されるなどNECの無線技術は高く評価され、陸軍の無線・通信設備を独占しました。
戦後の普及は誰もが知るところですが、かつては電電公社の電報、気象庁の天気図、国鉄(現JR)による連絡指示事項を全国の駅に一斉同報、警察の手配写真、新聞報道の写真や記事伝送などに活躍し、インターネット全盛の今でも利用されています。
KS鋼というのは、コバルト・タングステン・クロム・炭素を含む鉄の合金で、つまり磁石です。1917年、東北帝国大学の本多光太郎と高木弘によって発明され、それまでの3倍の保磁力を有する世界最強の永久磁石鋼として脚光を浴びました。KSとは、本多らに研究費を給した住友吉左衛門のイニシャルです。
一方、MK鋼は、これを開発した冶金家の三島徳七の養家の三島家と、生家の喜住家のアルファベット表記、「Mishima-Kizumi」に由来します。合金を鋳造した後摂氏600度以上で焼き戻すことで作られ、KS鋼よりも安価で硬く、かつKS鋼の2倍の保磁力を持ちます。
MK鋼は形状や大きさを変化させても強い磁力を維持することができるため、色々な形のものがあり、その後U型磁石、棒磁石、ゴム磁石(弾磁石)、丸磁石、玉磁石など多用なものが開発されました。温度変化や振動に対しても安定した磁力を発生させることができ、この特性を利用し、エレクトロニクスや航空、自動車などの産業で広く用いられています。
こうしたKS鋼やMK鋼に代表される「磁石鋼」の開発は現在でも日本のお家芸のひとつです。日常の電化製品でよく見かける磁石の用途としては、モーターやスピーカーが挙げられますが、これらにおいては永久磁石と電磁石を用い、電気エネルギーを回転や空気の振動といった力学的エネルギーに変換しています。
またカセットテープ、ビデオテープ、ハードディスクといった記録メディアは、磁化された向きによって情報を記録しています。情報の読み出しには、電磁誘導や巨大磁気抵抗効果 (GMR)、ごく最近になってトンネル磁気抵抗効果 (TMR) が利用されています。
電子顕微鏡の電子レンズや粒子加速器などでは、磁石は電子などの荷電粒子を狙った方向に曲げるために用いられています。また、核融合では、高温のプラズマを封じ込めるためにも用いられています。
その延長にはリニアモータカーもあります。磁力による反発力または吸引力を利用して車体を軌道から浮上させ推進する鉄道です。現状においては、愛知万博で建設された愛知高速交通100L形(リニモ)が実用路線の営業運転を行っています。
が、ご存知の通り、JR東海によって超電導リニアによる中央リニア新幹線が計画されており、2027年には東京~名古屋間での先行開業が、さらに2045年には東京~大阪間での全線開業を目指して計画が進められています。
高速輸送を目的としているため、直線的なルートで、最高設計速度505km/hの高速走行が可能な超電導磁気浮上式リニアモーターカーが「超電導リニア」により建設されます。
首都圏~中京圏間の2027年の先行開業を目指しており、東京~名古屋間を最速で40分で結ぶ予定だといい、さらに2045年に完成予定の東京都~大阪市の路線では、この間を最速67分で結ぶと試算されています。
2027年まではあとわずか、13年、まだまだ元気でいるでしょうが、2045年までということになると、31年後……果たして生きているでしょうか。
そのころまでに、この老体をサイボーグ化する大発明がなされていることに期待しましょう。