ジョージと安二郎

LS--16今日、12月12日は、1と2ばかりで構成される日にちで、1と2を足せば、私の誕生日である3月3日ともつながるため、なんとなく親近感を覚えてしまいます。

ちなみに、嫁のタエさんは、12月21日生まれであり、今千葉の大学に通っている一人息子君は11月22日生まれと、まぁなんとも1と2ばかりの家族だろうかと、これも何かの因縁なんだろうなと、ついつい思ってしまいます。

ちなみに、今日生まれた人にどんな人がいるだろうか、と調べてみたところ、写真家の木村伊兵衛さんや歌手の舟木一夫さんの名前と並んで、映画監督の小津安二郎さんの名前もありました。

ところが、この小津安二郎の命日を見ると、なんと生まれた日と同じ、12月21日没(1963年(昭和38年))でした。

生まれた日に死ぬというのは、何か偶然を通り越した意味があるのではないか、とついついその理由を考えてしまいましたが、ひとつには、きっかりと12×5回のサイクルで計画立てた一生を過ごそうと、生まれる前にそう決めて、この世に出てきたのだろう、ということが考えられるかもしれません。

物事を理路整然と考え、何事も計画通りに済まそうとする人というのは、人生の設計においても、時間的なスパンがきっちりとしていないと、気が済まない、ということなのかもしれません。

12月12日という日が彼にとって何の意味があったのかわかりませんが、いずれにせよ、我々と同じく1と2という数字に深い関わりがある人だとわかり、がぜんその生涯に興味が沸いてきました。

この小津安二郎という人は、没後かなり時間が経っているために知らない、という人も多いと思いますが、「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出た知る人ぞ知る大監督・脚本家です。が、世界的にも高い評価を得ている人でもあります。

また、「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けましたが、その代表作にあげられる「東京物語」をはじめ、とくに原節子や笠智衆といった名優と組んだ作品群が特に高く評価されています。

1903年(明治36年)、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区深川)で五人兄弟の次男として生まれました。父寅之助は、伊勢商人「小津三家」の一つ小津与右衛門の肥料問屋「湯浅屋」の分家の六代目で、本家から日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と深川の海産物肥料問屋「小津商店」の両方を番頭として任されていました。

従って比較的裕福な家庭に育ったようで、子供のころには、この当時まだ高価だったカメラを与えられており、幼いころからこうした最新の映像機器に慣れ親しんでいいたことが、その後の映画人としての人生を歩む上での下地となったのでしょう。

1913年(大正2年)、小津一家は父の郷里である松阪に移ったため、安二郎はここの三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)へ進学し、寄宿舎に入りますが、このころ初めて映画と出会っています。その中でも特に小津の心を動かした作品は、大正6年(1917年)に公開されたアメリカ映画「シヴィリゼーション」であったといいます。

監督は、トーマス・H・インスという人で、日本ではあまり知名度は高くありませんが、海外ではモンタージュやクローズアップなどの様々な映画技術を確立し、映画を芸術的な域へと高めたことで映画の父とも言われる、D・W・グリフィスと並び称されるほどの人だそうです。

「二挺拳銃」、「呪の焔」、「ツェッペリン最後の侵入」といった映画を残しているようですが、「シヴィリゼーション」は彼の代表作といわれます。この映画は、架空の国「ヌルマ」で勃発する戦争により運命に翻弄される人々が描いたパワーあふれる作品で、戦場のスペクタクルシーンは、初期の映画とは思えぬくらい圧倒的なリアリズムで表現されました。

1999年には「文化的、歴史的に重要な1本」として、アメリカ・ナショナルフイルムライブラリーに登録されており、この映画は当時学生だった小津安二郎に映画監督になる決意をかためさせたといわれていますが、このとき、何やらの啓示があったのかもしれません。

おそらくは、このとき安二郎少年は、ちょうど12歳のころと思われ、計画されたその人生である、12×5=60年のちょうど1スパン目が終了したときのことです。

人の一生を左右するような事件には、往々にしてあちらの世界の方々からのお導きがあることが多いといいますが、安二郎少年にもちょうどこのときあちらの世界からの何かの啓示があったのでしょう。

その後、商業の道に進んでほしいという両親の期待にこたえるべく、神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験しましたが落第。神戸の「神戸キネマ倶楽部」や地元三重の「神楽座」、その他名古屋の映画館などに入り浸って、多くの映画を観たのもこの時期です。

翌年の1922年(大正11年)に今度は三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験しましが、この受験も失敗に終わります。両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」と考えたため、小津は三重県飯南郡(現在の松阪市飯高町)にある宮前尋常高等小学校(現存せず)に代用教員として赴任することにしました。

しかし、映画への愛着を捨てられず、この教員生活はわずか1年で終わります。教員をやめ、このころ東京に戻っていた家族の元へ帰りました。父親は初め、どうしても映画の仕事をしたいという小津の希望を聞かなかったそうですが、その熱意に負け、最終的にこれを認めました。

こうして小津は叔父が地所を貸していて縁のあった松竹蒲田撮影所に入社することになりましたが、この松竹蒲田はその後、現代劇の製作スタジオとして次々と優れた作品を生み出していく名撮影所となります。

俳優研究所も併設しており、ここからその後たびたび小津作品にも登場することになる、笠智衆ら新時代の映画俳優たちが生み出されていきました。撮影助手時代の小津はまず碧川道夫や酒井健三といったカメラマンの下につき、監督としては島津保次郎や牛原虚彦について映画製作を学んでいきました。

21歳のとき、当時の徴兵制度に従って一年志願兵として入隊しましたが、すぐ一年後の1925年(大正14年)に除隊しました。職場に復帰した小津は助監督として大久保忠素監督のもとにつき、現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督としての要件を学んでいきましたが、とくに監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励みました。

そのうちの一本「瓦版カチカチ山」が撮影所幹部の目にとまり、1927年8月、「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」という辞令によって、ようやく小津は子供のころからの念願の監督昇進を果たします。

特筆すべきは、この年、小津安二郎24歳であり、12×5=60年のその生涯において、ツースパン目が終わる時にその計画された一生の目的の一つが果たされたことでした。

こうして小津は初監督作「懺悔の刃」をクランクインしましたが、この映画は小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品でした。

小津は撮影スケジュールの調整から初めて、セットづくり、俳優への演技指導と映画のすべての部分に気を配らないと気が済まないタイプの映画監督でしたが、念願の監督になったわけであり、20代前半とまだまだ若かったこの頃の彼は充実した毎日を過ごしたようです。

1927年には、松竹の時代劇部が京都に移転したため、蒲田撮影所は現代劇に特化することになりました。小津もこの方針に沿って次々に作品をつくりあげていきますが、このころには年間5本もの早いペースで撮影をこなしており、「一年一作」となった戦後の小津からは考えられないハイペースな製作でした。

1930年(昭和5年)には、これが1年間製作の最高本数になる7本の映画を作り上げていますが、翌年になると世界恐慌の影響もあって製作本数が減少、同年は3本、さらに20代最後の年の1932年(昭和7年)には4本の製作にとどまりました。

この時代から小津は「小市民映画」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされるようになっており、批評家からも高い評価を得るようになっていました。

1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。このころから日本はその後の暗い時代に突入していきます。34歳になっていた小津は、京都から東京に移って東宝で監督業をしていた親友の山中貞雄にも召集がかかったことで、身近にも迫る戦争の暗い影を感じ取るようになります。

この年の9月、小津にも召集がかかりましたが、迷うことなくも応召し、大阪から出航して中国戦線に向かいました。かつて志願兵として入隊した経験があったことから、小津は第二中隊に属する第三小隊で班長を務め、このとき伍長に昇進しました。

小津の部隊は南京総攻撃には間に合わず、陥落後の南京を越えて奥地へと進軍しました。6月には伍長から軍曹に昇進して漢口作戦に従事、以後も各地を転戦しました。1939年(昭和14年)6月、九江で帰還命令を受けて7月13日に神戸へ上陸、原隊に復帰して除隊しました。1年10ヶ月におよぶ戦場暮らしでした。

日本に帰った小津は、その翌年、36歳。これで人生の3スパン目が終了したわけで、このときは、長い戦場生活から解放されての休息のときであり、彼の人生にとってはまたしても節目の年だったことになります。

復帰第1作として1941年(昭和16年)に「戸田家の兄妹」をつくりました。この映画は小津作品として初めての大ヒットとなりました。

それ以前では1932年から1934年まで作品が3年連続キネマ旬報ベストテン第1位となるなど批評家からの評価は高かったものの、興行的な成功にはなかなか恵まれていなかったこともあり、小津にとっては大きな自信となりました。

しかし、次に取り組んだ作品「父ありき」(1942年4月公開)製作中に日米が開戦。1943年6月、小津は今度は軍報道部映画班に徴集されて福岡の雁の巣飛行場から軍用機でシンガポールへ向かいます。

シンガポールでは「オン・トゥー・デリー」という仮題のつけられたチャンドラ・ボースの活躍を映画化したものの製作に取り掛かりましたが、完成しませんでした。そしてこのシンガポールで終戦を迎えることになりましたが、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたといいます。

その中には「嵐が丘」、「北西への道」、「レベッカ」、「わが谷は緑なりき」、「ファンタジア」、「風と共に去りぬ」、「市民ケーン」などが含まれていました。

やがて帰国。戦後すぐには脱力感に襲われ、なかなかメガホンを取る気にならない小津でしたが、度重なる催促に重い腰を上げて1947年(昭和22年)になってようやく戦後第1作「長屋紳士録」をつくりあげました。さらに2年後の1949年(昭和24年)、原節子を初めて迎えた作品「晩春」を発表。

この作品は、独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用でいわゆる「小津調」の完成形を示し、戦後の小津作品のマイルストーンとなりました。さらに1951年(昭和26年)の「麦秋」が芸術祭文部大臣賞を受賞、これによって名監督としての評価を決定的なものとしました。

このとき小津48歳。ちょうど人生の4スパン目が終了したときでした。

その翌年、戦前に検閲ではねられた「お茶漬の味」を改稿し、このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが、名作中の名作といわれる「東京物語」(1953年(昭和28年))です。原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は小津の映画人生の集大成であり、誰に聞いても彼の代表作と言われるものです。

1958年(昭和33年)、10月にはこの「東京物語」が英国サザーランド賞を受賞。「彼岸花」で3度目の芸術祭文部大臣賞、さらにこれらの功績により紫綬褒章を受章しました。1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞。小津56歳。

1960年(昭和35年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞し、1962年(昭和37年)には、芸術院会員に映画監督としてただ一人選出されます。

1963年(昭和38年)を迎えた小津は、初めてテレビ用に書き下ろしたNHKのドラマシナリオ「青春放課後」を書きます。しかし、その直後に体調に異変を感じ、同年4月にがんセンターで手術を受けました。

その後、いったん退院しましたが、10月に東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院、12月12日自身の還暦の日、午後12時40分に逝去しました。60歳没。予定通り、その12×5年の人生をきっちりと終えました。生涯独身だったそうです。

LS-0B

小津作品というと一般的に伝統的な日本文化の世界と捉えられがちですが、初期の小津はハリウッド映画、影響を強く受けた作品を撮っており、たとえば「非常線の女」(1933年)には、英語のポスターや磨き上げられた高級車、洋館ばかりの風景など当時のハリウッドのギャング映画さながらの世界が再現されています。

こうしたアメリカの影響を受けることになったのは、やはり上述のようにアメリカ映画「シヴィリゼーション」を幼いころにみたことが大きかっでしょう。このころまだ少年だった小津は絵が上手で、このころ既に、ベス単やブローニーといった当時の最新カメラを操る芸術家肌の少年だったといいます。

このブローニー(Brownie)というのは、フィルムのことだと思っている人も多いと思いますが、元はコダックが製造販売した写真機のシリーズ名です。ロールフィルムを用いた最初の「ブローニー写真機」は、1900年(明治33年)に発売されました。

これは「ザ・ブローニー(ブローニーNo.1)」と呼ばれ、画面サイズ「6×9cm判」の「117フィルム」を使用したものでした。その後日本にも導入されましたが、その最初のブローニーカメラが120フィルムを使用するものだったためか、日本では「ブローニー」ということばがこれに使われる120フィルムの名称や220フィルムを指すようになりました。

この120や220フィルムなどは、いまだに中判カメラ用のフィルムとして世界的にも流通していますが、日本人がブローニーと呼ぶのは和製英語であり、世界的には通用しません。

この「ザ・ブローニー」を開発したコダックは、世界で初めてロールフィルムおよびカラーフィルムを発売したメーカーとして知られています。また、世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーでもあり、本社はニューヨーク州ロチェスターにあります。

写真関連製品の分野で高いシェアを占めることで知られるほか、映画用フィルム、デジタル画像機器などの事業も行っています。が、自らが開発したデジタルカメラによってフィルムなどが売れなくなり、またその後自社でのデジタルカメラの開発はうまくいかず、このため日本のカメラメーカーに市場を席巻されて業績不振に陥りました。

2012年(平成24年)には、日本の会社更生法にあたる、アメリカ連邦倒産法第11章の適用をニューヨークの裁判所に申請。このとき、アカデミー賞授賞式会場でもある、コダック・シアターからコダックの名を削除するという憂き目にもあいました。

日本では医薬品や写真材料等の卸売事業を中心として社業を展開していた「長瀬産業」と提携して、1981年(昭和56年)に日本法人を設立後、1986年(昭和61年)に長瀬と統合してコダック・ナガセ株式会社を設立しました。が、1989年(平成元年)に提携関係を解消。

「日本コダック」になった1993年(平成5年)には、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)のユニフォームスポンサーを1998年まで務め、また、Jリーグオールスターサッカーのスポンサーを1998年まで努めるなど、一時期は羽振りがよかったようです。しかし、アメリカ本社が斜陽になると、やがてその影響を受けるようになりました。

アメリカ本社が連邦倒産法第11章の申請を受理されて会社存続が決まった2013年(平成25年)には2009年(平成21年)にコダック株式会社へ商号変更していたものを再度変え、「コダック合同会社(Kodak Japan, Ltd.)となり、アメリカのイーストマン・コダックの日本法人、同社の完全子会社となりました。

最近、コダックのカメラやフィルムが市場から見えなくなっていたな、と思う人が多いと思いますが、以上のように、この会社のここ10数年ほどの間には、こうした紆余曲折があったわけです。

そのイーストマンコダック社は、もともとジョージ・イーストマンによって1880年(明治13年)に創業された写真乾板製造会社でした。彼は、1854年、ニューヨーク州ウォータービルで、両親がここに購入した10エーカーの農場の末っ子として生まれました。

貧しかったため、ほとんど独学で学びましたが、8歳になるとロチェスターの私立学校に通い始めました。13歳のとき、父が脳障害で死去。ジョージはこの頃通っていた高校をやめ、働き始めます。20歳のころ写真に興味を持ちましたが、この当時の写真はまだガラス板に感光乳剤を塗って、乾く前に撮影する方法でした。

その後写真の研究に没頭するようになり、25歳のころ、苦労の末についに乾式の写真板(乾板)を開発し、イギリスとアメリカでの特許を取得。1880年に写真の事業を始めました。さらに1884年には、写真の基材をガラスから乳剤を塗ったロール紙に換える特許を取得しました。

34歳になった1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得。「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります(”You press the button, we do the rest”)」の宣伝文句は一大センセーションを起こしました。

無論、宣伝文句も人々の心をつかむものでしたが、商品にも独特の工夫があり、これは顧客はカメラを送り返して10ドルを払えば、フィルムを現像し100枚の写真と新しいフィルムを装填してくれる、という斬新なもので、この新システムで彼はアメリカの写真市場を席巻するようになっていきました。

1888年9月4日、イーストマンはコダックの商標を取得し、世界最初のロールフィルムカメラ「No.1コダック」を発売。翌年の1889年にはセルロースを使った透明な写真フィルムを発明。1896年までにこれを搭載した100台のコダックのカメラが売れたといいます。

しかし、商業的にはまだ成功したとはいえなかったため、イーストマンは更に知恵をめぐらせ、1900年にはブローニーシリーズを1ドルで発売する、という大ばくちを打ちます。そしてこれは大ヒットを飛ばし、以後、アメリカの隅々にまで写真とカメラが行きわたるようになり、写真という新しい文化を一気に開花させることとなりました。

その後、コダック社はイーストマンの指導のもと、1921年には「シネコダック」と称して、同社初の小型映画の規格「16mmフィルム」を発表。これは、その後世界的にも普及することになる「8ミリ」の原型ともなり、小型カメラにおける嚆矢となりました。

1925年、71歳になったイーストマンはさすがによる年波には勝てず、引退。しかし、経営には死去まで関与し続け、特に研究開発部門の社員には影響を与え続けました。ブローニーシリーズが大ヒットして会社が大きくなった1911年には、Eastman Trust and Savings Bankという銀行を創設して金融業にも乗り出しましたが、これに対して社員は組合を作って反発しました。

イーストマン自身はこれを快く思っておらず組合活動を抑制しようとしたようですが、しかし、従業員の福利厚生の充実を図るなど、会社の発展には努力を惜しみませんでした。

抜け目のない実業家でもあり、カメラ業界の競争が激しくなってきたとき、フィルム製造に重心を移したことは、その後のコダック社の発展に大きく寄与しました。

高品質のフィルムを大量生産することで他のカメラ製造業者を事実上のビジネスパートナーに転換することができたわけであり、このシステムを真似たのが、日本の富士フィルムだといわれています。

引退後の、1932年(昭和7年)、イーストマンが78歳の年、コダックは、「シネコダック8」として、のちに「ダブル8」と呼ばれる小型映画の規格を発表。これはのちの8ミリの原型となります。このころから脊椎管狭窄症と見られる症状に苦しむようになり、立つことも難しく、すり足でゆっくりとしか歩けなくなりました。

イーストマンはこれに先立つ53歳のとき、母がを亡くしていますが、彼女の存在は彼の人生の大きな部分を占めており、その死はジョージに大きな衝撃を与えました。この母は晩年に子宮がんの手術を受けていますが、手術は成功したものの最晩年の2年間は車椅子を使用しており、この母親も同じ脊椎管狭窄症だったかもしれないと言われています。

イーストマンはこの母が晩年に苦しむ様子を目にしており、自らも彼女と同じような症状を発したことから、次第に強まる痛みに不安を覚え、身体の衰えからますます憂鬱になっていったようです。

そして、ついにその苦しみに耐えられなくなったのか、1932年3月14日に自邸でピストル自殺。その77年の生涯を終えました。遺書には、To my Friends, My work is done. Why wait? (私の仕事は終わった。友よ、なぜ待つのか?)と書かれていました。

小津安二郎の生涯が計画通りのものだったとすれば、イーストマンの一生は、ハプニングだらけのものだったようにも思え、ことさら対比して考えてしまいます。

次々と特許を取得して発明家としての一面をも持っていた彼は、日常の中の思いがけない出来事に発想を得るようなタイプの人物ではなかったかと推察されますが、その死もまた突拍子もないものでした。。

イーストマンは、早くから慈善家として知られており、早くからフィランソロピー活動を始めています。日本では聞き慣れないことばですが、このフィランソロピー(Philanthropy)活動とは、基本的な意味では、人類への愛にもとづいて、人々の「well being」、つまり、幸福、健康等を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指します。

あるいは慈善的な目的を援助するために、時間、労力、金銭、物品などをささげる行為のことであり、日本語では「慈善活動」「博愛」「人類愛」などとも呼ばれ、日本的には「チャリティー」に近いでしょうか。

philanthropyというのは、ギリシャ語のphilosフィロス(=愛、愛すること)と、ánthrōposアントロポス(=人類)という言葉から成っている表現であり、基本的に「人類を愛すること」という意味があり、フィランソロピーを実践している人はフィランソロピストと呼ばれます。日本語で「篤志家」という呼び方もするようです。

そのフィランソロピストであったコダックは、莫大な事業の収益の一部を教育機関や医療機関の創設にあてており、例えば、1901年にはロチェスター工科大学の前身である力学研究所に62万5千ドルを寄付しているほか、1900年代初めには他にマサチューセッツ工科大学に寄付し、同大学のキャンパス建設なども支援しています。

さらには、生まれ育ったロチェスターやマサチューセッツ州ケンブリッジ、南部の黒人を受け入れている2つの大学、ヨーロッパ各地の都市などの様々なプロジェクトに1億ドル以上を寄付しているほか、無料で歯科診療を行うイーストマン歯科診療所創設の資金を提供やロチェスター大学のイーストマン音楽学校の創設資金を寄付しています。

また、ロチェスター大学の医歯学部の創設資金を寄付したほか、1915年にはロチェスターにてCenter for Governmental Researchという地方自治の研究施設を創設しており、特に医療機関創設に尽力した彼が施した慈善活動の数は枚挙のいとまがありません。

1925年に引退宣言をしてからはとくにこの慈善活動に注力するようになり、アンドリュー・カーネギーやジョン・ロックフェラーに次ぐ篤志家として知られるようになりましたが、けっしてそれを宣伝に利用しようとはしませんでした。さらに晩年の1926年から亡くなるまでには、アメリカ優生学協会に毎年22,050ドルを寄付しています。

その生前の総寄付額は、1億ドルともいわれており、その大部分はロチェスター大学とマサチューセッツ工科大学に対して贈られたものであるため、ロチェスター工科大学にはイーストマンの寄付と支援を記念して彼の名を冠した建物があります。

また、MITでは、記念銘板が設置されており、浮き彫りになった肖像の鼻を触ると幸運が訪れるという言い伝えがあるそうです。

死後、その遺産もまたロチェスター大学に全額遺贈されました。同大学にはイーストマンの名を冠した中庭もあります。ロチェスターにあるイーストマンの住んでいた家は1949年、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真映画博物館として開館され、アメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されています。

小津安二郎の人生が、12×5年、60年きっちりと生きることが目的だったとすれば、イーストマンの一生は、自分で稼いだ金でもって、人に奉仕する、ということろが目的だったような気がします。

彼の死後、彼が創業したコダック社は1965年(昭和40年)新しい小型映画の規格「スーパー8」を発表。1932年(昭和7年)に発表されたダブル8の改良版として発売されました。

ダブル8との相違点はパーフォレーションを小さくし、その分、画像面積を約1.5倍に拡大、また16コマ/毎秒が標準であったフィルム走行速度を18コマ/毎秒と早めたこと、さらに高級機種においては24コマ/毎秒という商業映画と同じ滑らかな動きの撮影・映写を可能としたことなどでした。

一般ユーザー向けの製品であり、この2年前の1963年(昭和38年)に亡くなっていた小津は無論使っていませんが、これ以前にコダック社が開発した数々の映画製作用カメラは当然、小津も使っていたはずです。

1921年(大正10年)にシネコダックとして、小型映画の規格として制定された「16mmフィルム」や、1932年(昭和7年)のシネコダック8として、のちに「ダブル8」といった小型映画の規格は、小津も携わった映画製作にも少なからず影響を与えたでしょう。

今日は、映画監督と実業家という、まったく別の人生を歩んだ二人の生涯についてみてきたわけですが、縁もゆかりもなさそうに見えるこの二人の間にも、「カメラ」という共通点があったことになります。

まさか、小津の命日である12月12日が、ジョージ・イーストマンの命日と同じ、などということはないよな、と調べてみたところ、イーストマンの命日は1932年3月14日でした。

が、ここであっ、と思ったのはその生まれは、1854年7月12日であり、月こそ違え、誕生日は小津安二郎と一緒です。

もしかしたら、前世からの因縁のある二人だったかもしれず、それならば今ごろあの世で一緒の二人はきっと、また映画や写真などの映像技術の開発に関わっているかも、などと想像してしまいます。

さて、今年も嫁の誕生日が近づいてきました。今年は何をねだられることでしょう。