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あの世からのプレゼント ~伊東市

昨日紹介した城ヶ崎海岸の門脇埼には、「星野哲郎」さんの歌碑なるものがありました。うん?銀河鉄道999だっけ?何で? と一瞬思いましたが、こちらの主人公は「星野鉄郎」。文字が違います。

歌碑はふたつあって、そこに書かれている歌詞は、「城ヶ崎ブルース」と「雨の城ヶ崎」なるものでしたが、どんな歌だっけなーとさっぱり思い出せないので、ウチに帰ってから調べてみました。すると、城ヶ崎ブルースのほうが1968年(昭和43年)、雨のほうが、1986年(昭和61年)にリリースされた曲みたい。両方ともロスプリモスというグループが歌っていたようなのですが、その名前にはおぼろげな記憶があるが、歌の内容がどうにも思い出せません。

ところが、ウィキペディアに、「ラブユー東京」という大ヒット曲がある、と書いてあるのを見て、ようやく思い出しました。「ラービュー、らあびゅー、なみだぁぁ~のとぉぉぉぉきょー」というヤツですな。昔、テレビでよく流れていました。しかし、この曲のあとはあまりヒット曲がなかったみたいです。覚えていないはずです。

さて、「城ヶ崎ブルース」と「雨の城ヶ崎」とも作詞をしたのが、星野哲郎さんということなのですが、大変失礼ながら、こちらもどういう方かほとんど記憶にない。が、確か数年前に亡くなったという報道があったと思ったので調べてみたところ、案の定、おととし(2010年)の11月に亡くなっています。

出身地は・・・と思ってみると、おっ!わが心のふるさと、山口県ではありませんか。山口県東部の岩国市にほど近い周防大島(すおうおおしま)というところでお生まれになったようです。

私も仕事やプライベートで行ったことがあるところなのですが、みかんの栽培で有名な温暖な島で、なかなかひなびたいいところです。広島などの大都市にも近いためか、ここに別荘地を求める人もおり、私もその昔、いい別荘ないかな~と調べたことがあります。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島だそうで、島とはいいながら、大島大橋という橋で本土と結ばれていてクルマでいけるので、交通の便は良好。しかし、瀬戸内海に浮かぶ島ということで、夏の暑さはたまらんだろう、ということで断念しました。

幕末には、長州と幕府が戦った、いわゆる「四境戦争」の舞台のひとつであり(芸州(広島)口、石州(島根)口、小倉口、そしてここ)、軍艦2隻で押し寄せてきた幕府軍と奇兵隊を核とする長州軍が、9日間もの間、この周防大島沖で激戦を続け、ついに長州軍が勝利した、という歴史があります。

また、明治時代にハワイへの移民が多かったので有名で、1885年(明治18年)~1894年(明治27年)の10年間で山口県からは、10,424人が移民。うち、周防大島のある大島郡からは、3,914人もの方がハワイへ渡っています。都道府県別では、全国で29,084人のうち、広島県(11,122人)、山口県(10,424人)、熊本県(4,247人)、福岡県(2,180人)、新潟県(514人)の順だそうで、周防大島出身の人が13%もいる!これは結構な数字です。

この広島や山口からのハワイへの移民については、私自身もハワイと縁があるので大変興味深いところ。なので、また日を改めて書いてみようかと思っています。

話が飛んでしまいました。星野哲郎さんのことです。実はどういう人かよく知らないということで、先ほどのロスプリモスさん同様、ネットでさらに調べてみました。そうすると、代表曲といわれるものには、まあ、あるわあるわ。昔懐かしい曲がたくさん。私が知っていて、覚えている歌といえば、

北島三郎さん、「函館の女」
水前寺清子さん、「涙を抱いた渡り鳥」「いっぽんどっこの唄」「三百六十五歩のマーチ」
小林旭さん「昔の名前で出ています」
都はるみさん「アンコ椿は恋の花」
村田秀雄さん「柔道一代」
美樹克彦さん「花はおそかった」

などなど。なるほど60年代、70年代を代表するような有名な歌ばかりです。しかし、晩年は演歌での作詞が多かったらしく、それで名前をよく知らなかったらしい。演歌・・・好きな人は好きなのでしょうが、私的にはあまり聞かないジャンルです。

さて、星野哲郎さんは、1925年(大正14年)生まれだそうで、私の父とほぼ同じ年齢(大正15年生)。生まれた周防大島は、瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島だそうですが、大きさ的には10km四方ぐらいの大きさ。結構高い山があり、最高で600m級の山々が連なります。山以外は狭い丘陵地ばかりなので、人が住めるところといえば、海岸部のごくわずかの平地。しかもそれほど多くありません。とはいえ、現在の人口は2000人弱とのことですが、ハワイへ移民を送り出す前はもっとにぎやかだったに違いありません。

その周防大島で、生まれ育った星野さん。1歳か2歳で両親は離婚、母が教員として中国へ渡ったため、祖母に育てられたそうです。小学校からずっと、海を間近に見渡す教室で学んでいたそうで、大きな商船が沖を過ぎるたびに、「あの船に乗ると、世界へ行けるんか、ええのう、って、いつも思った」。とか。

成人を前にして、真珠湾攻撃から日米開戦、泥沼の戦争に突入していった時代を周防大島で送った星野さん。戦争が終わると、少年のころの夢をかなえるべく、清水高等商船学校に入学します。

この、清水商船高等学校、その時代、東京高等商船学校、神戸高等商船学校と合わせ、船乗りになるための登竜門だったようですが、その後、東京高等商船学校などに併合されて廃校になっています。その後東京商船大学になり、現在は東京海洋大学に名前を変えています。

その学校が清水にあったという頃のことを少し調べてみたところ、チョーびっくり。現清水市の折戸(おりど)という場所に開校していたのですが、現在その跡地には、私の母校が建っていることを知ったからです。前にも書きましたが、私は大学時代の2年間を沼津で過ごしあと、大学3年からの2年間をこの清水で過ごしています。学校組織こそ違えど、星野さんも同じ場所で過ごした一時期があったことを知り、一気に親近感が増しました。

折戸は、清水港を囲うように海に突き出た三保半島という半島のちょうど根元に近いところにありますが、私はさらに半島のさきっぽのほうの三保というところに住んでいました。羽衣の松という観光名所があり、天女がここに下ったという伝説があるところです。

そういえば、折戸にあるこの母校の片隅に、何かの石碑か銅版かが置いてあったような記憶があります。それにもしかしたら、商船高等学校時代のことが書いてあったのかもしれません。それにしても、城ヶ崎海岸でたまたまみつけた歌碑の歌詞を書いた人が、同じ場所で学んでいというのは、どういうご縁なのでしょうか。さらに星野さんのことを知りたくなり、いろいろ調べてみることにしました。

望みどおり、商船学校に入った星野さんですが、それからが苦難の人生のはじまりでした。肺浸潤で学校から休学を告げられ、半年遅れでなんとか卒業。戦後の混乱の中ながら、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ食品)に入社。遠洋漁業の乗組員となります。念願の船乗りになった喜びはひとしおだったでしょう。ところが、それからまもなく、今度は腎臓結核で右の腎臓の摘出……。術後が思わしくなく、船乗りになるのを断念して島に戻るはめになります。

病床で海を眺めながら過ごした、4年の療養生活は苦しかったようです。しかし、その療養生活のおかげで、生涯の妻、朱美さんに出会うことになります。筏(いかだ)八幡宮という古い神社が星野さんの本家だったそうですが、朱実さんは旅順工科大学教授のお父さんとともに戦前、満州へ渡り、戦後帰国。星野さんが島に戻っていたこのころには、ここで暮らしていました。星野さんとは、遠縁で子どもの頃から互いを知っていたのだそうです。

本家の社務所の大広間に手回しの蓄音機があって、娯楽の少ない島では若者のたまり場だったとのこと。その頃から、星野さんは詩や小説を書き始めていたようですが、朱美さんも典型的な文学少女だったらしく、やがてふたりはひかれ合うようになります。

病気で療養中の星野さんですが、詩作の傍ら、かたっぱしから音楽雑誌などの懸賞曲に応募し始めます。生活費を稼ぐためです。そして、昭和28年(1953年)、投稿した「チャイナの波止場」が入選。初めてのレコードが出されることになります。長く暗いトンネルを抜け、ようやく明るい日が射してきたのです。

その頃、星野さんと朱美さんはすでに熱烈なる恋愛関係にあったようです。しかし、朱実さんが東京の文化放送に就職することになったため、星野さんが作詞家として上京するまでの2年間、300通余りの恋文が島と東京を行き交うことになります。

そして、作詞家としての仕事にある程度めどがたってきた、星野さん。上京後、昭和33年(1958年に)ついに朱美さんと結婚。星野さん33歳、朱美さん27歳のときの慶事です。さらに、「思い出さん今日は」(島倉千代子)のヒットで日本コロムビア専属の作詞家になるなど、めでたいことが続きます。

その後の星野さんは、朱美さんの内助の功もあって、大作詞家としての道をひたすら上り詰めていきます。星野さんが作った歌で発売されたものだけで3800曲といいますから、すごい数です。

とはいえ、それからも、心筋梗塞や腹部大動脈瘤と何度も大病に見舞われた星野さん。人生も病気も「一進一退」の繰り返しです。昭和43年(1968年)の水前寺清子さんによる大ヒット曲、「三百六十五歩のマーチ」は、そうした自分の七転び八起き人生を唄ったものだそうで、星野さん自身、自分の信条が一番詰まった歌だったと述懐していらっしゃいます。

「一日一歩。三日で三歩。三歩進んで 二歩さがる」。そういう人生を送る星野さんのそばには、いつも、愛妻、朱実さんがいました。

しかし、平成6年(1994年)。星野さんが69歳のとき、突然朱美さんが逝ってしまいます。くも膜下出血で急逝されたということで、63歳。これから楽しい老後を二人で過ごそうというときです。

69歳とはいえ、まだまだ作家魂を燃え上がらせて活動的に作詞をしていた星野さんですが、最愛の妻の死に、もう二度と作詞はできないだろうというほどの痛手を負います。

実は、ここいらのことは、星野さんの自伝「妻への詫び状(日経BP社)」という本に書かれているそうなのですが、すいません。私はまだこれを読んでいません。ですが、その内容があちこちのサイトに紹介されているので、これらをもとに以下にまとめてみます。

星野さんがそんな失意の中から立ち上がり、再び歌を作り始めるようになったきっかけは、あの結婚前に奥さんと交わした300通を越える手紙なのだそうです。

奥さんがまだ生きていらっしゃたある日のこと。星野さんが「僕らのあの手紙、いつか一冊の本にしたいね」と話したのだそうです。すると、朱美さん、「あれはもうありません。すべて焼きましたから」と答えたそうです。それを聞いてかなり落胆した星野さん。

しかし、実はその手紙が焼かれないでそのまま保管されていることを、朱美さんの死後知らされます。星野さんの子供さんが、「そんなに簡単に物を捨てる人じゃない。きっとどこかにしまってあるはず」と信じ、それを見つけ出したのです。奥さんの死後2年ほどが経っていました。

星野さんは、その手紙を読み返すことで、再び歌を作ろうという気力が蘇ってきたそうで、そして「焼かれることなく我が家に眠っていたこの恋文の束は、彼女が僕にくれた最期のプレゼントになった」と自伝に書かれているそうです。まさにあの世からのプレゼントです。

それからというもの、星野さんは、それを大事に箱に入れ、折に触れて彼女からの手紙を一通ずつ読み返すようになります。鞄に入れて、旅先で読むこともあり、それを読み返すたびに、涙が止まらないことも。そして、「僕よりもずっと“詩人”じゃないか……」とつぶやかれたとか。

スピリチュアル的な観点からみると、もしかしたら、奥さんは死後、落胆する星野さんを見て、立ち直ってもらいたく、子供たちにかつてのラブレターが見つかりやすいように仕向けたのではないか、と思うのです。子供さんたちの枕元に立ち、お父さんが探していた手紙は、家の中のどこかにあるよ…… と啓示したとか。

実際にそんな話があったなんてどこにも書いてありませんが、その手紙類はクローゼットの奥のほうにしまってあったということです。あちらに行ってからも愛する旦那さんを見守り続け、落胆する彼をみてなんとか立ち直らせたい。そう願い、子供たちに手紙のありかをささやいた、としても不思議ではないように思えます。

星野哲郎さんと奥さんの朱美さんにまつわるお話で私が知りえたのはここまでです。なかなか素敵なお話だと思いませんか? 本当はもっと、いろんなドラマがあったのではないかと思うので、今度ぜひ「妻への詫び状」、買って読んでみたいと思います。ちなみに、このお話、2006年に舞台化までされたようです。再演はないのでしょうか……

しかしそれにしても、やはり石碑を残すだけの大業を成し遂げた人だけのことはあるなあ、と改めて思う次第。生涯3800曲というのもすごいことですが、星野さんが生み出した数々の名曲は、あの城ヶ崎海岸の歌碑と同様、ほかにもきっと多くの場所で人目にふれていることでしょう。

奥さんが残した300通の手紙というのも読んでみたいものです。そういえば、私にも亡き妻が残した大量の手帳があることを思い出しました。整理しなければならないと思っているのですが、なかなかその気になれません。でも、星野さんご夫婦にあやかって、いつかは取り出してみたいと思います。そこにはもしかしたら、あの世からのプレゼントがあるかもしれませんから。

城ヶ崎海岸見聞記 ~伊東市

先週の土曜日、以前から気になっていた、「伊豆四季の花公園」へ行ってきました。今、ここでもあじさい祭りが開催中、という広告をタエさんが新聞でみつけてきたのは1週間ほどまえ。その前にも下田公園へあじさいを見に行っていますが、以来、「花見」づいているわが夫婦としては、これを見逃すわけにはいかんだろう、と妙な義務感を共有している今日このごろなのです。

場所は東伊豆、伊東から南へ15kmほど離れた「富戸(ふと)」というところらしい。いわゆる城ヶ崎海岸といわれるところです。

この海岸、すぐ西側にある「大室山」という山が、その昔火山だったころに噴火したときに流れ出た溶岩でできたそうです。山から流れ出た溶岩が海にまで達し、その後長い時間をかけて、波がこれを侵食。そしてそうした自然の淘汰が、絶壁が連なる入り組んだ美しい海岸線を作りあげたもので、伊豆の観光スポットとしても一二をあらそう名所となっている場所。

どこからどこまでが城ヶ崎海岸、という定義はなさそうですが、一番北側では、富戸港といわれる漁港があるあたりから、南側では、伊豆急行線の伊豆高原駅があるあたりの海岸線までを指すみたい。

この富戸港のすぐ南側には門脇埼という岬があり、ここに灯台が設置されていることから、ここを中心に観光地としての整備がなされているようなのですが、クルマのナビで「四季の花公園」をさがしたのですが、みつからず、とりあえず、この灯台をめざして修善寺を出発。午後2時半ころに現地へ到着しました。

富戸港の脇を通りすぎるころから、道路のまわりには低木がびっしり茂ったブッシュが広がりはじめ、その合間あいまに別荘らしいお宅やペンション、土産物屋などなどが散在していて、なるほど観光地だな、というかんじ。

道路の脇に目をやると、大小の黒い石がころがっており、それがかつての溶岩だということに気付かされます。この溶岩が風化してできた大地に、草木が長年の間に生い茂ったものだ、とわかると、このエリアに低い木ばかりが育っているわけもわかります。土地が固いために大きな木が育たず、低木ばかりが広がるブッシュになるのです。

灯台横にある公営駐車場へクルマを止め、すぐそばにあった案内看板に目をやると、四季の森公園というのは、この灯台から1kmほど遊歩道を歩いて行った先にあるようです。その昔、「伊豆海洋公園」という名前だったものを最近改名して「伊豆四季の花公園」としたらしい。どうりでナビにも記名がなかったわけです。

灯台脇には観光用のつり橋などもあるのですが、これは後回しにして、とりあえず先に四季の花公園へ行こう、ということで海岸沿いに作られている「ピクニカルコース」という遊歩道を歩くことに。灯台脇の遊歩道スタート地点でも、林間から断崖絶壁の下の海が見えていましたが、歩き進むにつれ、至るところに絶景ポイントがあり、延々と続く入り組んだ絶壁と、この絶壁が押し寄せる波で食されて崩れ落ちた大小の岩や小島が海岸線沿いの至るところに広がり、波が砕けて散る様子はまさに壮観。



釣りのメッカとしても有名らしく、あちこちの岩場で釣り人が長い竿を垂れていましたが、中には、どうやってあんなところへ行けるんだろう、と思うようなところにいる人も。高所恐怖症の私にはとてもできない曲芸です。

壮観な海岸線に魅せられてバシャバシャと写真を撮っていたので、四季の花公園には20分くらいで着くところを一時間ほどもかかって到着。この日は、さほど暑い、というほどではなかったのですが、アップダウンの激しい遊歩道を通ってきたばかりで少々汗をかいていた二人。冷たい抹茶入りソフトクリームをいただいて一服。時刻は3時半になっていました。

この、四季の花公園、夕方からはお客さんが減るのを見越してか、夕方からの入園者には割引がきく、「トワイライト入園」というのを実施中。入場料が半額になるサービスです。その適用時間がなんと、3時半から、というので、超ラッキー!と喜ぶ二人。さきほどのソフトクリーム代を差し引いてもおつりが出るわい、と、ほくそえむケチな夫婦なのでした。

さて、この公園、海岸線に突き出るように飛び出した小さな半島のようなところに作られており、なだらかに海に向かう斜面をうまく利用して造園がされています。なかでも今回の我々のおめあてのあじさいは、最大の「売り」らしい。入口で貰ったパンフレットによると、230種以上の日本が原種のあじさいがあるそうで、その種類数は日本一とか。

そのあじさい園は最後に見ることにして、まずは入口近くにある西洋花壇やハーブガーデンを見学。規模は大きくないのですが、植栽係の人が10人ほどもいて、あちこちで、せっせせっせとお花の手入れをされているせいか、どの花壇もきれいに整備されています。さすがに「花」を売りにしている公園だけのことはある。

温室の中に入ると、今ブーゲンビリアが真っ盛りの見ごろらしく、人の背丈の二倍ほどある高さの株の上にびっしりとピンク色の花を咲かせていてなかなか見事です。ふだん、ガーデニングショップでみるような観葉植物はほとんど全部あり、しかも、それがみんないつもショップでみているような大きさではなく、巨大に成長しているのにはびっくり。

温室内だけではなく、屋外にもこうした熱帯植物が植えられていて、圧巻なのが、南アメリカ原産だという「オンブー」の木。実は、「木」ではなく、草なのだそうで、成長が速いので、すぐに10mほどの高さにもなるとか。こういう木、いや、草が、野外で普通に育っているのは、あたたかい伊豆ならではのことです。

園の一番奥には、「見晴らしの丘」という広場があり、その先端には展望台もあって、そこに立つと、遠くに伊豆大島や利島?らしいものも見えます。この日はガスが少しかかっていてあまり遠見はきかなかったのですが、晴れた日には伊豆七島すべてが見えるらしい。また、運がよければ沿岸を泳ぐイルカもみることができるそうなのですが、この日は残念ながら見ることはできませんでした。

そして、最後に期待のあじさい園を見学。結構アップダウンの激しい小道の両側を歩くと、我々がいわゆる「がくアジサイ」と称する少しまばらに花をつけるあじさいが展開されていきます。ここ伊豆半島や伊豆近辺の島などが原産のあじさいも多く、その名も「伊豆の華」、「城ヶ崎」「八丈千鳥」など。我々がふだん見慣れている、おまんじゅうのような形のあじさいは少なく、例えるならば、花火のようなかんじの花が多いようです。



そのためか、全体的に下田公園のような華やかさはないものの、薄暗い園内にひっそりとさく花々は、控えめに挨拶をしてくれているようで、なかなかかんじの良いもの。ただ、もうさすがにあじさいの季節は終わりに近づいているようで、枯れているものや茶色くなっているものも多く、もう少し早く来ればもっと楽しめたかな、といったところでしょうか。

とはいえ、二人で500円しか払わず、これだけの花をみせてもらったことに大満足のふたり。帰路は同じピクニカルコースを通って、灯台までを引き返しました。

灯台に到着したのはほぼ5時。日が長くなった昨今は、まだまだ明るい時刻です。灯台の展望台は5時までしか入場できませんでしたが、せっかく来たのだから、ということで、灯台のすぐ脇にある、つり橋へ向かいました。このつり橋、長さ48mとそれほど長くはないものの、海の上の高さ23mだそうで、すぐ真下は、断崖に波しぶきを上げる黒々とした海が見えるスリル満点のしろもの。


この灯台やつり橋のある場所は、「門脇崎」という名称の御崎になっていて、ここは、大室山から流れ出した溶岩の量がとくに多かったらしい。海に流出した溶岩が台地状の地形を作っていて、その風景はといえば、岩・岩・岩、また岩です。ピクニカルコースのあちこちで見えた断崖の景色もなかなかのものでしたが、ここの豪快さには負けるかんじ。灯台の真下の岬の突端までごつごつの岩の上を這うようにして歩いていくと、そこから断崖は真下まで垂直に落ちていて、青黒い海が見えます。高所恐怖症の私にしてはめずらしくそこまで辿りつきましたが、一瞬覗いただけで、すぐに首を引っ込めてしまいました。ドキドキ。やめておけばよかった。

つり橋のほうも、こわいっちゃーこわかったのですが、真下さえ見なければなんとか渡れるほどの幅と安定性があり、とりあえずクリアー。見ると、その先にも断崖絶壁が延々と富戸漁港のほうまで続いて行っているようです。遊歩道もその断崖に沿って作られているらしい。目を沖のほうに向けると、沖のほうには伊豆大島がかなりの大きさで見え、大きなケーソン(注:防波堤を作るための大きなコンクリート製の箱。浮かせて運ぶ。)をけん引するタグボートなども見えます。すぐ目の前には陸地から切り離された大きな岩があり、距離にして、20~30m先なのですが、断崖と海に阻まれてさすがにそこまでは行くことができません。

その岩の上空を無数のツバメ、海ツバメというのでしょうか、キーキーと甲高い声をあげながら飛び回り、空中ショーを繰り広げています。数百羽はいるでしょうか。すごい数です。なんで、こんなに集団で飛び回っているんだろうねーと二人で話していましたが、結論としては、岩の上に群がる昆虫などを飛び回りながら口にしているのでは、ということ。確かに回りには蚊などの小虫が飛び回っているようなので、彼らにとっては、夕方のごはん時のごちそうタイム、ということなのでしょう。


あたりは、だんだん暗くなりつつあり、よくみると、灯台にはもう灯りが点っています。夕方遅いこともあり、今日はここまでにしようということで、帰宅の途につくことに。ショートトリップではありましたが、伊豆の海の豪快さとあじさいの繊細さの両方を満喫したふたり。一路、わが町修善寺へ向けてクルマを走らせたのでした。

この日は、門脇埼から富戸漁港までの残りの遊歩道、ピクニカルコースを踏破できなかったので、次回はぜひ、ここを歩いてみたいと思っています。それにしても、もう7月になります。早いもので今年も前半戦が終わり。波乱万丈だった今年前半と今日の短い旅を振り返りつつ、その晩は夜遅くまで晩酌を続けたのでした。

愛鷹 ~沼津市

おととい昨日と、比較的というか、かなり良いお天気に恵まれ、まるで梅雨とは思えないような陽気です。富士山もよく見えていて、山開きが近づいている昨今、一層雪が少なくなったように思えます。

この富士山の南側すぐ真下に、愛鷹山という山があります。正確には愛鷹連峰ともいうべき山塊で、最高峰1504mの越前岳を含んだ9つの山の集合体です。この愛鷹山のすぐふもとに私の母校があります。大学時代、この山の上の学校へ、ふもとの町(村?)から母校のある山の中腹まで、茶畑とみかん畑の間を上る農道を通って、毎日せっせと通ったものです。

ここからの駿河湾の眺めは秀逸で、晴れた日には西方に伊豆半島の天城山がくっきりみえ、東には清水の三保半島、そして中央には青々と広がる太平洋が広がります。学生のころ、この風景が好きで、授業の合間あいまに、教室から目を転じてこの海の群青を眺めていると幸せな気分になったものです。

あれから何年経ったかな~と考えると、もう34、5年にもなります。先日その頃に住んでいた学生寮へ行ってきましたが、もう跡形もなくなっていて、普通の民家になっていました。改めて時の流れを感じます。

ところで、この愛鷹山ですが、古くは足高山と記されていたようです。いつから愛鷹山と書くようになったのかはわかりませんが、昔その麓に、鷹根村という村があり、それが周囲の村と合併して愛鷹村になったそうです。このとき、足高と鷹根の「たか」が同じだったことから、ふたつを合体させたネーミングが愛鷹なのではないかと私は推定しています。

明治の時代、この愛鷹の名前を冠した貨客船があり、「愛鷹丸」として伊豆沿岸で運行されていました。運行していたのは、「駿河湾汽船」という会社で、明治30年代前半に三陸航路の整備を進めていた、「東京湾汽船」という会社が、伊豆半島沿岸航路を経営する競合船社を次々合併したのち、1909年(明治42年)に子会社として設立しました。

どういう運行形態だったかよくわかりませんが、合併前の会社のひとつが、伊豆半島西岸航路を運営していたことから、沼津と下田を結び、貨客を運んでいたものと考えられます。この当時は、伊豆半島にはすでに豆相線が開通して運営を始めていましたから、沼津から下田へ行くためには陸海ふたつのルートがあったわけです。それほど需要があったということなのでしょうが、どんな需要だったのか今はよくわかりません。今後また調べてみましょう。

さて、この愛鷹丸ですが、大正3年(1914年)のこと、西伊豆、戸田の舟山という場所の沖で烈風にあおられて沈没してしまいます。どこかな、と思って地図で調べてみると、修善寺のほぼ真西にある戸田港より少し南側に舟山という地名がありました。以前、クルマで通ったことがありますが、結構際立ち、入り組んだ断崖を縫うようにして道路が走っており、なるほど、ここなら船が遭難しそうだなと思えるような場所です。

この事故での死者は乗客・乗員合わせて121名、生存者は25名のみ。愛鷹丸は定員26名の小型木造船だったそうなのですが、その5倍もの乗客を乗せていたことがこの惨事につながったようです。運輸規定の厳しい現在では考えられないほど過剰な乗員数ですが、このころ既に鉄道が走っていたとはいえ、まだまだ運賃は高かった時代のこと。運賃の安い船に乗ったほうが得と考えた人が多かったのではないでしょうか。

さて、この愛鷹丸にまつわる悲しい話があるということを昨日のブログでアナウンスしましたが、これを書いた岡本綺堂さんは大正7年の1月に修善寺を訪れるため、三島から大仁行きの豆相鉄道に乗っています。そのときの車中で乗り合わせた沼津の人からその話を聞いたそうで、私もこれを読んだとき、なるほど、かわいそうだなあ、と思いました。

綺堂さんの文章は少し文学調なので、多少現代風にアレンジして、以下掲載します。

その昔、沼津に住むある男が、強盗を犯し、相手を傷つけるという罪を犯しました。その後、捕まるのを恐れて、しばらくは伊豆の下田に潜伏していたのですが、ある時なにかの動機で突然、昔犯したその罪をひどく後悔するようになりました。その動機はよく判らないのですが、行きつけの理髪店へ行って何かの話を聞かされたものらしい、ということでした。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したのですが、警察では、その事件はもう時効を経過しているので、あなたを罪人として取扱うことが出来ないと言われてしまいます。

彼は失望しながらも、潜伏していた下田を出て、かねて住んでいた沼津へ帰ります。そして、当時自分が傷づけた被害者がその後どうなったかをあちこちに聞いて回ることにしたのです。ところがその結果、当時の被害者はとうに世を去ってしまっていることがわかり、その遺族のゆくえも判らないということが判明します。そして、彼の失望はさらにつのります。

元来、彼は沼津の生れではなかった(綺堂さんはその出生地聞き洩らしたそうですが)ので、せめて彼の故郷に帰り、彼の実家の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立ったそうです(注:おそらくは下田に近い伊豆南部の生まれだったのだと推定)。

そして、その後一年ほどの間、一生懸命に働いて、いくらかの金を作ります。彼はその金をふところにして郷里に帰り、石碑を建てるために、船を求めます。

そして、彼が乗った船が運命の愛鷹丸。彼が乗船したその日は風の強い日で、駿河の海はかなり荒れていたようですが、船はそれにも関わらず定員の5倍もの人を載せて沼津港を出ます。出航後、海は怒って暴れて、彼を乗せた愛鷹丸は木の葉のように波にもまれ、ゆれて傾きます。そして、ついには彼だけでなく、他の大勢の乗客もろとも海のなかへ投げこまれてしまうのです。

やがて救援の船が来て、生存者を救出しますが、引き上げられたのはわずか二十数名。120名あまりの人命が失われます。そして、彼はというと、数時間の後に陸へ引き上げられたものの、季節は真冬のこと。かわいそうに凍え死んでいたそうです。そして、その懐には、昔犯した罪を自分でつぐなうためのお金が大事にしまいこまれていたのでした・・・

綺堂さんによると、電車の中で彼にこの話をしてくれた人は、彼の死はその罪業による天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりだったそうです。綺堂さんは、「天はそれほどにむごいものであろうか――とわたしは暗い心持でこの話を聴いていた」そうです。

この話をどうとらえるかは、皆それぞれだろうと思いますが、私も綺堂さんと同じく、少なくとも「天罰」ではないと考えます。むしろ、罪は犯したものの、その過ちに気づき、一生懸命それを償おうとした気持ちに天が答え、死を与えたと解釈したいところです。

綺堂さんのことを調べていて、たまたま目にしたショートストーリーですが、みなさんはどうお感じになったでしょうか。

ちなみに、この当時あった沼津~下田間の航路は現在、存在しません。現在では、戸田運送船という会社が沼津と戸田、土肥の間で高速船を運営しているほか、駿河湾内の観光クルージングをやっているようです。このほかにも、戸肥港から清水港まで運航している駿河湾フェリーというのがあるようです。往復4000円弱ぐらいみたい。船好きの私としてはいつか乗ってみたいものです。

ところで、「愛鷹丸」事故を起こした駿河湾汽船は、遺族への補償などでその業務が圧迫されたのか、その後、依田汽船という別の会社に吸収されてしまったようです。過失により120人もの死者を出したのですから、当然といえば当然の報いでしょう。これぞ天罰、といってもよいのかもしれません。

今回、このストーリーをまとめるにあたって、いろいろ調べていたのですが、その昔、伊豆半島周辺を走り回っていた船のお話にもいろいろ面白いものがありそうです。またの機会に改めてそうしたこともご紹介していきたいと思います。

今日は、6月最後の土曜日。お天気もよさそうなので、海の見えるきれいな場所にでも行ってこようかと思います。また、その風景などご紹介しましょう。それにしても梅雨はどこへ行ったんでしょうか・・・

独鈷の湯 ~修善寺温泉(伊豆市)

昨日、岡本綺堂さんのお話を書いたあと、ふと思い出したのですが、ウチのすぐ近くにある修禅寺自然公園や、修善寺梅林などのあちこちには、修善寺を訪れたことのある文学作家の碑が置かれています。結構有名な人ばかりなので、前から気になっていましたが、いったいどれだけ有名人が訪れているのか、この際調べてみようと思い、ネット検索してみました。

すると・・・結構いますねー。明治32年に今の駿豆線の前身の豆相鉄道が三島から大仁まで開設されて以来の文学者を整理すると以下のようになります。

明治32年(1899年)豆相鉄道(現駿豆線)南条駅(現在の伊豆長岡駅)~大仁駅間開業
明治34年(1901年)尾崎紅葉
明治41年(1908年)岡本綺堂
明治42年(1909年)島崎藤村、田山花袋
明治43年(1910年)夏目漱石
大正05年(1916年)~昭和31年(1956年)頃 吉田絃二郎
大正07年(1918年)川端康成
大正13年(1924年)豆相鉄道 大仁駅~修善寺駅間開業
大正14年(1925年)芥川龍之介、泉鏡花
昭和03年(1928年)泉鏡花
昭和19年(1944年)島木健作
昭和28年(1953年)高濱虚子
昭和30年(1955年)頃 井伏鱒二

そうそうたる面々ですが、この中には昨日紹介した岡本綺堂さんも含まれています。超有名なところでは、夏目漱石さんがいますが、漱石さんが修善寺を訪れたのは、持病の胃潰瘍のためだったようです。明治43年(1910年)、「門」執筆の途中に胃潰瘍で入院した漱石さん。同じ年の8月に、転地療養に期待して、修善寺温泉の菊屋旅館という旅館に滞在します。しかし、病状は悪化の一途を辿り、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ります。

このころもうかなりの有名人だった漱石さん。これを当時の新聞などでは「修善寺の大患」と呼んで事件扱いしたらしい。その後、東京へ帰ってからも持病の胃潰瘍で何度も倒れ、1915年(大正4年)に亡くなっています。ですから、修善寺とのご縁はこの大患のとき一度だったようです。

川端康成さん。修善寺温泉には大正7年に来たようですが、川端さんは温泉マニアだったらしく、修善寺以外にも伊豆のあちこちの温泉に逗留したようです。しかし、修善寺よりもやや南側にある湯ヶ島温泉が好きだったらしく、狩野川に面した岸辺にある旅館「湯本館」に20歳の頃から毎年のように訪れていて、旅館のおかみにもかわいがられていたとか。湯本館で執筆した随筆「湯ケ島での思ひ出」が、その後の名作「伊豆の踊子」につながっていったといわれています。

井伏鱒二さんは、広島の人で原爆を題材にした「黒い雨」が有名。このほか「山椒魚」なども有名です。大の釣り好きだったらしく、そのペンネームも魚由来です。修善寺の桂川によく来て釣りをしていたそうで、その作品の中には、「修善寺の桂川」というのもあるそうです。

吉田絃二郎(げんじろう)さんというのは、私もよく知らなかったのですが、小説から随筆、評論、児童文学、戯曲と幅広い分野で執筆活動をした作家さんだそうで、その作品数は236冊に及ぶとか。

夏目漱石さんが宿泊した「菊谷旅館」とも縁が深く、その経営者が早大講師時代の教え子だったこともあり、頻繁に修善寺を訪れていたそうです。絃二郎さんから菊屋に送られた手紙は数百通にものぼるそうで、その親交の深さがうかがわれます。

そうしたこともあり、修善寺をこよなく愛した吉田絃二郎さん。42歳という若さで亡くなった愛妻の明枝さんの句碑を修善寺に作り、修善寺小学校には「吉田文庫」として本まで寄贈しています。

修善寺には、大正5年頃から70歳で他界する昭和31年(1956年)まで毎年長逗留することが多く、修善寺の山と川をこよなく愛した作家だったらしい。奥さんの明枝と絃二郎さんの分骨による墓碑が修善寺を見渡せる山の上にあるそうなので、今度ぜひ訪れてみたいと思います。

ちなみに吉田さんの随筆のひとつ、「修善寺行」では、修善寺のことが次のように書かれています。

「山の桜が散り、瑠璃鳥が鳴き、河鹿の音を聴くようになった。一筋の渓澗に寄りて細長く、爪先上りの道に沿うて作り上げられたのが修善寺の温泉場である」

また、「修善寺風景」は次のように結ばれています。

「川上の方から一人の男が釣竿をかついで山を下って来た。魚篭のなかには山女のような魚が二三尾光っていた。かれはわたくしを見、微笑みながら渓を下って行った」。

井伏さんにせよ、吉田さんにせよ、愛した風景の中心には川があったようで、川のそばの宿を常宿にした川端さんも同じく川の風景が好きだったのだと思います。

修善寺の温泉街の中心には、上述の桂川という川が流れているのですが、その川のど真ん中に今も残る「独鈷(とっこ)の湯」というのがあります。

土台の岩や大きな石を組んで浴槽をかさ上げし、かつては入浴することができました。温泉街に7つあった外湯のひとつに数えられていたそうですが、現在は単にシンボルとして位置づけられ、観光客に見せるだけの施設になっています。川の中にあるため、河川法という法律にひっかかり、公に浴場として使えない、というなさけないことになっているためです。

まあ、川中に突き出ているため、大雨が降ったときには、流される心配がある、というお役人の主張もわかるのですが、せっかくの風情のある温泉なのですから、そこはなんとか例外として貴重な観光資源を復活させてもらいたいもの。原発なんか再稼働させるくらいならこっちのほうがよっぽど世のため人のためになると思うのですが・・・

ところでこの独鈷の湯。かの有名な弘法大師が大同2年(807年)に修善寺を訪れたときに「発掘」したという伝承が残っています。桂川の上流にある奥の院というお寺で修業をしていた弘法大師様。ある日、桂川の下流を通りがかったとき、川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その親孝行にいたく感心します。そして、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させたというのです。

さらに、大師様が温泉というものは疾病に効くものだということを親子に教え、父子は十数年来の患っていた病気を完治させることができ、これよりこの地方に湯治療養が広まり、修善寺温泉が始まったとされています。

その大師様が見つけてくれた独鈷の湯ですが、湯治客が入浴できたころの昔の写真を並べた写真展が温泉街のはずれにある「竹林の道ギャラリー」で開催されていました。下の写真がその一枚ですが、板塀で囲われており、なかなか風情があります。よくみると、独鈷の湯ということで、独鈷の形をしたモニュメントまで据えてあり、これがいつの時代のものかよくわかりませんが、その当時からもう観光地だったことがわかります。

修善寺温泉の歴史そのものは、上述したとおり、弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まるのですが、それ以後のことはよくわかっていないようです。修善寺に幽閉された源頼家さんは入浴中に暗殺されており、少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかりますが、弘法大師の発見が807年として、頼家さんが暗殺された1204年までの400年間もの間、どのように利用されていたかは不明です。

鎌倉時代以降のことをいろいろ調べてみると、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの4つの湯治場があったようで、周囲の農家が湯治客を相手に部屋貸しを始め徐々に設備を充実していったようです。しかし、当初はいわゆる木賃宿で、湯治客は自炊により自分で食事をとる形式で、内湯はなく共同浴場に通っていたらしい。その後、共同浴場を貸し切る「留湯」という制度が始められ、その頃から農家の副業から次第に専業の旅館に変わっていったようです。

そして、明治期になると、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、より温泉場として発展していきます。とくに、明治31年に現在の駿豆線の前身である、豆相線が伊豆長岡まで敷設されると、より多くの湯治客が訪れるようになります。翌32年には大仁まで豆相線が延伸されますが、大正13年に大仁~修善寺間が開通するまでは、利用客は待合馬車やタクシーを使っていたそうです

昨日紹介した岡本綺堂さんが、大正7年に修善寺を訪れた時の手記には、この豆相線からの車窓の眺めが次のように書かれています。

「十年ぶりで三島駅から大仁行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに震えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽られて、今にも折れるかとばかりに撓みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。」

狩野川沿いのさびしい寒村風景が目に見えるようですが、現在でもこの駿豆線からの眺めは結構ひなびているようです。実は私はまだ一度も乗ったことがないのですが、すぐ隣を走る国道136号線からは、同じ風景がみえます。晴れた日には遠くに富士山もみえ、その前にのんびりと広がる田園風景はなかなかのものなのですが、電車の高い位置からみると、もっと眺めの良いものなのでしょう。今度一度試乗して、またこのブログで披露したいと思います。

ところで、その綺堂さんの手記の中には、この記述に続いて、その電車に乗り合わせた乗客から聞いたという「悲しい話」が書かれています。それは、1914年(大正三年)に沈没した愛鷹丸という客船にまつわるもの。

これについても今日書こうかと思ったのですが、そろそろ疲れてきたのでこのへんにさせていただこうと思います。

今日は昨日までは雨の予報だったのですが一転して良いお天気になりそうなので、これからまた「下界」へ降りて、いろいろ散策してみようかなどと思っています。もうすぐ6月も終わり。暑い夏はもうすぐそこまで来ています。

 竹林の道ギャラリーにて

修禅寺物語 修善寺温泉(伊豆市)

久々に山を下って、修善寺の町へ出てみました。「町」といっても、にぎやかなのは修禅寺本堂を中心としたメインストリートの約1kmほどの区間だけ。温泉街を抜け、西のほうへ少し足を延ばすと、そこにはのどかな田園風景が広がります。

ちょっと見ないうちに、田んぼの稲も大きく育っていて、あと少しで実をつけそう。今年の出来はどうなのでしょうか。これまで例年より少し寒い日が続いたのが影響しなければいいのですが。

この田園地帯をさらに西へ西へと行った山のふもとには、昔、弘法大師が若いころに修業したという「奥の院」というお寺があるらしいのですが、今回はここへは行かず、久々に温泉街のほうへ下ってみることに。

この季節の修善寺では、新緑も落ち着いた色の緑にかわっていて、それでいて真夏のような濃い緑でもなく、しっとりとした緑とでもいうのでしょう。気のせいか、街中を流れる桂川に写るもみじの緑陰もくっきりと黒い、というよりも淡い水墨画のような色合いです。梅雨どき特有の空気感とでもいうのでしょうか、他の季節とは違うかんじがします。

しばらくぶりに修禅寺の境内にも足を踏み入れてみましたが、この季節には観光客もまばらで、むしろ地元の方が散歩に連れて出た犬と一緒に、日陰のあちこちで休んでいらっしゃる姿のほうが目立つほど。

私もいつになくゆったりとした気分で、境内のあちこちを歩いていましたが、今まであまり気に留めていなかったオブジェの形がなかなか面白いのに気が付きました。境内の手洗いには、口からお湯(水ではないのです!)を出している吐水龍があるのですが、これがなかなかの出来栄え。いい仕事してまんなーと思いつつ、ほかにも何かないかな、と探してみると、あります、あります、結構面白い形のものが。

まず、屋根を見上げてみると、そこにも立派な龍がいるのを発見。棟飾りというのでしょうか、瓦で焼き上げ、黒光りする堂々としたというよりも、かなり迫力のある龍です。さすが天下に名を覇しているお寺だけのことはあるなーとここでも感心。

さらにその龍の両脇には、こちらも立派な唐獅子が。さきほどの龍と同じ黒々と光っています。眼光も鋭く、今にも飛び上がりそう。おそらくこのお獅子もさきほどの龍も同じ作者なのでしょうが、現代でもすごい腕前の職人さんがいるもんだなーとさらに感心しきり。


この唐獅子ですが、かの有名な(といっても知らない人も多いかもしれませんが)、源頼家の最後を題材とした戯曲、「修禅寺物語」の作者、「岡本綺堂」さんも目に留めていて、大正7年の随筆に、次のように書いています。

「修禅寺はいつ詣っても感じのよい御寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、この御寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽かな感じをあたえるのがかえって雄大荘厳の趣を示している。衆生をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくのでなくて、かくしゃくたる光明を高く仰がしめるというような趣がいかにも尊げにみえる。きょうも明るい正午の日が大きい甍を一面に照して、堂の家根に立っている幾匹の唐獅子の眼を光らせている。」

ちなみに、このお獅子や龍は修禅寺が2006年に改修されたときに新しく新調されたものだそうで、綺堂さんが目にしたこの当時のお獅子とは違うようです。古いものは、境内にある「宝物殿」横に飾られているとか。直接この目で確認はしていませんが、今度行ったらその古いお獅子と龍もぜひ拝見したいものです。

ところで、この宝物殿には、岡本綺堂さんが修禅寺物語を作るきっかけになった古いお面も飾られているそうです。修善寺の駅前にある本屋さんのポスターでその写真をみたことがあり、なんだろうなこれは、と気になっていたので、ちょっと調べてみました。

すると、このお面、宝物殿に文字通り、「古面」として飾られているそうですが、修善寺に伝わっている言い伝えによると、その昔、源頼家さんが鎌倉の家人の謀略により、漆の湯に入れられ、全身が脹れ(ふくれ)あがったのだとか。頼家さんは、そのときの面相をひと目母親の政子さんに見せようとして職人に作らせたんだそうです。

頼家さんといえば、父頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代将軍となった人。若いくせに、従来の習慣を無視した独裁的な政治が御家人たちの反発を招き、お母さんの政子さんの実家の北条氏を中心にした反対勢力によって追放されてしまいます。

その後、体制を翻そうと手兵を使って反乱を何度も起こしますが、ことごとく失敗に終わり、しかも急病にかかって一時は危篤状態にまでなります。

一命はとりとめたものの、もはや幕府を転覆するほどの力もなく、政子さんの指示により、伊豆の修善寺へ幽閉。そしてそこで暗殺されてしまいます。齢23歳。若いですねー。

伊豆へ移されてから、すぐに暗殺されたのかと思ったらそうではなく、その前にも何度か暗殺未遂があったみたいで、上述の漆風呂とお面の逸話もその暗殺未遂のひとつかも。本当かウソかわかりませんが、お面とともにそういうお話が寺に伝えられたようです。漆にかぶれた顔を面に彫らせて政子さんに送り、なんでここまですんだよーと抗議したかったのでしょうが、それにしても親子なのにそこまでするんかなーというかんじ。

綺堂さんは、このお面の逸話に着想を得て、「修禅寺物語」を作ったそうですが、その内容はというとこのお面の話とは全く別で、明治時代の庶民の最大の娯楽、歌舞伎の戯曲として書きおろされたもの。初演は、明治44年、東京明治座だそうで、主役の面作師(おもてつくりし)、お面を作る職人さんですが、その役「夜叉王(やしゃおう)」をやったのは二代目の市川左団次だそうです。

簡単にストーリーを書きましょうか。

伊豆の修善寺の町に住んでいた、面作り師の「夜叉王」は、そのころ修禅寺に幽閉されていた頼家から、自分の顔に似せた面を作ってくれという注文を受けます。しかし、何度作ってみてもそのお面に「死相」が出て完成させることができないでいました。

夜叉王には2人の娘があり、姉の「桂(かつら)」は気位が高く、玉の輿を望んでいるので、なかなか結婚できません。妹の「楓(かえで)」は従順な性格で、平凡な暮らしを望んでいたので、お父さんの弟子の「春彦(はるひこ)」と結ばれ、幸せな結婚生活を送っていました。

夜叉王に面づくりを頼んでいる頼家ですが、いつまでたっても面ができてこないので、何度も夜叉王に催促するのですが、返事がありません。ついに夜叉王を呼び寄せた頼家。何度作ってもその面に死相が現われるのでお見せできない、という夜叉王を頼家は怒って斬ろうとします。

これを娘の桂が止めに入り、それをやめさせる代わりにとうとう面を頼家に渡してしまいます。見事な出来映えの面。これに頼家は感銘し、この面を献上させることに。それだけでなく、桂の美貌をみた頼家は、彼女を側女として出仕させるよう要求。その昔亡くなった愛妾「若狭の局」の名前まで与えようとします。

ところが、その夜、幕府の討手が頼家が幽閉されていた寝所を襲います。桂は、面をかぶって頼家の身代わりとなって戦いますが、頼家は非業の死を遂げてしまいます。方や瀕死の状態で、父のいる実家に落ち延びた桂。頼家の死を知った父夜叉王は、自分の作った面に死相が現れていたのは、技量が未熟なのではなく、逆に頼家の運命を予言するほどの神業だったのだと知り、自分の技に満足します。そして、満足の笑みを浮かべながら、今まさに死のうとしている娘、桂の断末魔の顔を、のちの手本にするため写しとろうと、憑かれたように筆を走らせるのであった・・・

このお話、綺堂さんが30歳後半の作品のようですが、歌舞伎作品としては珍しく各国語に翻訳され、昭和2年にはパリで上演されたほどだそうです。この作品で一躍有名になった綺堂さんですが、「修禅寺物語」の作者というよりは、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の作者としてのほうがよく知られているみたいです。文庫本で出ていて、読んだ方も多いのでは。

この半七捕物帳、実は、綺堂さんが、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズを読んで刺激されてできたものなんだそうです。探偵小説というジャンルを面白いと思い、自分でも探偵ものを書こうと考えたのですがが、現代ものを書いて西洋の模倣と思われるのもいやなので、純江戸式で書くことにしたのだとか。

このほか、中国や欧米の怪奇小説を翻訳して、「世界怪談名作集」なども出版するなど、多才な人だったようです。

昭和14年、67歳で没。さきほどの随筆の引用は、大正7年の1月に書かれたもの。随筆中、10年ぶり・・・と出てくるので、おそらく「修禅寺物語」の着想を得てから初めての「里帰り」だったのではないかと思われます。

この随筆にはその当時の修禅寺の街中のことや、大仁の様子なども書かれていてなかなか面白いので、またほかの史料も合わせて引用してみたいと思います。

歩けば歩くほど、いろんな面白い事実が出てくる修禅寺の町。綺堂さんの時代に思いをはせながらまた、歩いてみたいと思います。