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韮山代官 ~旧韮山町(伊豆の国市)

昨日までの大型連休は、多少天気は不純でしたがそこそこ晴れ、伊豆の各地も観光客で賑わったようです。6日の土曜日に三島方面まで行く機会がありましたが、南へ向かう国道136号は他県ナンバーの車であふれていて、途中何ヶ所も渋滞していました。こういう風景をみると、ああ、伊豆の住人になったのだな、という実感がわいてきます。

伊豆の住民になったことを感じるもうひとつのことは、あちこちで頻繁に曼珠沙華を見ることです。東京でも見る機会はありましたが、田舎の伊豆ではもっと頻度が増えたように思います。

この曼珠沙華ですが、別名は「ヒガンバナ」ともいい、この呼称は毎年お彼岸のころから開花することに由来しているようです。花や茎、また根も強い毒性があるので、一説によると、これを食べたあとはもう「彼岸(あの世)」へ行くしかない、ということで、ヒガンバナと言われるようになったといいます。

ほかにもいろいろ呼び名があって、死人花(しびとばな)、地獄花、幽霊花、剃刀花、狐花、捨子花、はっかけばばあ、などなど、あまり良い印象を与えない名前ばかりです。地方によっては不吉な花として忌み嫌われることもあるそうですが、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」とも呼ばれ、これは「赤い天上の花」という意味で、仏様のおそばにあり、めでたい兆しの象徴とも考えられています。

毒性は強いものの、玉ねぎのような形をしたその根っこ(鱗茎といいます)は、デンプン質に富みます。その有毒成分である「リコリン」という物質は水に溶けやすいそうで、このため、長時間水にさらせば無害になり、食べられるみたいです。

古くから飢饉になったときには、「救飢植物」として食べることを目的として田んぼのあぜ道などに植えられていたということで、実際、戦中と戦後すぐの食糧事情が悪かったときには食用にされたといいます。

江戸時代には、有毒であるため「農産物ではない」とされ、年貢の対象外とされたため、万一の飢饉に備えて多くの農家が田畑や自宅の周り、お墓などに植えられるようになりました。

先日話題として取り上げた韮山の「江川邸」も周りを田んぼや畑に囲まれており、今あざやかな曼珠沙華に彩られています。

この江川邸の持ち主、「江川家」の歴代当主のうち、後年もっとも有名になった、江川英龍(ひでたつ)について、今日以降しばし話題にしていこうと思います。

多彩な才能

先日も書いたとおり、江川家では代々その当主を「太郎左衛門(たろうざえもん)」と称していたため、江川英龍も「江川太郎左衛門」と呼ばれることのほうが多いようです。しかし少々長ったらしいので、以下では単に「英龍」と呼ばせていただくことにしましょう。

江川英龍は早くから洋学を学び、その中でもとりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱くようになり、やがては近代的な軍隊や西洋砲術を日本に普及させるようになる人物です。

幕府の官僚であり技術者というイメージが強い英龍ですが、意外に知られていないのはその芸術的な才能です。

京都の宇治に「大国士豊」という土佐派の日本画家がいましたが、英龍ははじめこの人に絵を学び、後にはかの有名な「谷文晁」について絵を学び直しています。

一説によると、谷文晁は、老中の松平定信が1793年(寛政5年)に伊豆巡検に来た折に同行して江川家を訪れており、そのとき英龍の父英毅はこの文晁から絵の手ほどきを受けたといいます。このころ文晁が描いた作品に「久余探勝図」というものがありますが、これには伊豆各地の風景が鮮やかに描かれているそうです。

この伊豆訪問を契機として、江川家の当主、江川英毅は谷文晁と親しくなり、その後は韮山屋敷に何度も逗留して、息子の英龍にも絵を教えたと言われています

英龍はさらに後年江戸で「尚歯会(しょうしかい)」という蘭学や儒学者などの学者たちが集まって作った一種の勉強会に顔を出すようになりますが、このことがきっかけで、この会の主要メンバーでもあった「渡辺崋山」と知り合います。

渡辺崋山は、三河国の田原藩(現愛知県田原市東部)の藩士であり、長じてから同藩の重役に抜擢され、藩政改革でその手腕を発揮した人ですが、その改革においては自ら学んだ蘭学を生かし、近代的な農業や工業の技術を藩に導入し普及させました。

その生家は貧しく、子供のころから絵を描くのが得意だった崋山少年は生計を助けるために得意の絵を売って、生計を支えています。のちに谷文晁に入門した結果、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには著名な画家として知られるようになり、この絵の技術のおかげでその後の生活は苦労せずにすむようになりました。

同じく谷文晁に師事した英龍と崋山の二人はいわば兄弟弟子で、齢は崋山が英龍よりも8つも年上でした。その絵の腕前は師匠の文晁よりも上だったという評価もあり、英龍も自分より年下の崋山に師匠になってくれるように頼みこんでいます。しかし、崋山は師匠の手前もあったのでしょう、これを謝絶しています。

英龍は絵だけでなく、刀剣制作についても造詣が深かったようで、出羽国(現・秋田山形県)の名匠、「庄司直胤(なおたね)」に師事して自らその技法を学んでいます。また、同じく直胤門下の小駒宗太(おごまそうた)」という刀工を韮山の自宅に引き取って、そこで自分の刀を打たせています。

この小駒宗太という人物は、かなりの酒飲みだったらしく、そのために師匠の庄司直胤から破門されています。が、師匠の名の一字をもらい、「胤長(たねなが)」と称していたぐらいですから腕は確かだったらしく、彼が鍛えた刀の一本は今も伊豆に残り、静岡県の指定文化財に指定されています。

英龍がこのように、いろいろな技芸を学ぶことができたのは、父英毅(ひでたけ)から韮山代官職を継いだ年齢が34才と遅かったためでもあります。

1801年(享和元)、韮山代官であった、父英毅と母久子の次男として韮山で誕生した英龍は、幼名は「邦次郎」といい、上述のようにいろいろな芸事や基礎的な学問をしながら、物心がつくころまでは韮山の屋敷で何不自由なく育ったようです。

しかし、1818年(文政元年)、17才になった年、江戸で学問を修めるように父から命じられた英龍は、江戸では公儀の学問所、昌平黌(しょうへいこう)へ入学し、その儒官(総長)であった、美濃出身の高名な儒学者、「佐藤一斎」などから英才教育を受けるようになります。

このころの昌平黌は門下生3000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子の中には、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等などがおり、いずれも幕末に活躍した人材たちばかりです。

山田方谷はあまり知られていませんが、幕末に主国である松山藩の藩政改革で手腕を発揮するとともに、幕末にイギリス式の軍隊を整え、その混乱期を乗り切った人として知られています。

江戸での英龍はまた、幕末きっての書家であった「市川米庵(いちかわべいあん)」に書を習い、詩でも頼山陽と交流のあった「大窪詩仏(おおくぼしぶつ)」に師事し、もともと素養のあった絵画とともに、さらにその方面の才能を伸ばしています。

おそらくはこの時代にあって最高の教養人ばかりから教育を受けており、先日の当コラム「江川家のこと」の最後のほうでふれたように、琴などの楽器演奏もそうした教育を受ける傍らの「余業」として、これらの師匠の誰からか学んだものと考えられます。

このように、英龍はいろんな分野で技芸を学び、いずれの道でも一流を極めたため、その方面では彼の号である「坦庵(たんあん)」の名で呼ばれることも多いようです。地元の韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読み、現代でも「たんなんこう(坦庵公)」として親しまれています。

一方、江川家は、徳川家の天領地を管理する世襲代官職を奉じている以上、英龍も武士としてのたしなみは一般の旗本以上に厳しく求められました。このため、子供のころから剣術の手ほどきを父の英毅や他の郎党から受けていたと考えられます。

後年、17才で英龍が江戸へ出たころには、もうそれなりの剣の腕前を持っていたと思われますが、さらにその腕をあげるために剣術の師匠として仰いだのは「神道無念流」の正統な継承者として知られる、「岡田吉利(よしとし、通称、岡田十松)」でした。

吉利は、同じ神道無念流の師匠、戸賀崎暉芳(とがざきてるよし)に入門し、22才で免許皆伝を得ると、武者修行によって江戸中でその名をあげたつわもので、このころ、神田に「撃剣館」という道場を開いていました。

英龍はここに入門し、本格的な剣道を修業しはじめてから、わずか二年後には免許皆伝を受け、そののちには「撃剣館四天王」の一人に数えられるようにまでなりました。

同門には、水戸藩の政治学者「藤田東湖」や、のちに韮山代官所で英龍の部下となる「斎藤弥九郎」がいます。斎藤弥九郎は英龍よりも三才年下でしたが、撃剣館への入門は英龍よりも先である「兄弟子」であり、剣術の腕前も「江戸三剣客」の1人にも数えられるほどで、英龍を凌駕していたと思われます。

英龍が免許皆伝を受けたそのすぐあとに、師匠の吉利は病死しています。このため齋藤弥九郎が師範代となりますが、やがて独立して「練兵館」を立ち上げたとき、その厚い援助を行ったのは英龍とその父英毅だったといいます。弥九郎らが設立した練兵館は、その後、幕末江戸三大道場の一つとまでいわれるようになりました。

練兵館があったのは、現代の九段坂上、すなわち靖国神社境内です。ちなみに、この江戸三大道場は、この齋藤弥九郎の練兵館と、千葉周作の「玄武館」、そして桃井春蔵の「士学館」でした。それぞれ「技の千葉」、「位の桃井」、「力の齋藤」と称され、多くの門弟をかかえていましたが、その中から多くの幕末の志士を排出しています。

有名なところでは、坂本龍馬や清川八郎が玄武館で、武市半平太や上田馬之介などが士学館から排出されました。

齋藤弥九郎は、その後の英龍の生涯にわたって彼を支えました。後年、黒船が浦賀に来航したとき、幕府は英龍らに台場の築造を命じますが、品川に台場の築造が計画されると、弥九郎は江川の手代(部下)としてその指示に従い、実地測量や現場監督を行ったほか、湯島馬場で大砲の鋳造を行っています。

もともとは、越中国射水郡(現・富山県氷見市)の下級武士の長男として生まれ(1798年(寛政10年))、12才のとき、隣国の越中高岡に出て、油屋や薬屋の丁稚となりますが、思うところがあり、いったん帰郷。14才になったころ、わずか銀一分を持って江戸に出て、旗本屋敷に奉公します。

そして、昼は仕事、夜は勉強と努力し、やがて儒学者の古賀精里(こがせいり)などに儒学を学ぶようになり、幕府御家人で兵法家として高名だった平山行蔵(ひらやまこうぞう)には兵法を学び、さらには後年、英龍とともに西洋砲術の大家、高島秋帆(たかしましゅうはん)から砲術を教わりました。

前述のとおり、剣術の岡田門下では、神道無念流の第一人者といわれるようになり、ちょうどそのころ、入門してきた英龍と親しくなり、後年、公的には主従になりますが、私的には生涯の友ともいえる間柄になりました。

英龍は、このように江戸へ出てから文武両面にわたってありとあらゆる英才教育を受けるとともに、その過程において多くの先人や知己、そして弥九郎のような友人を得ます。幕末においてこれほど多様な人種と交流のあった人物もめずらしいのではないでしょうか。

無論、それは英龍が父親から継いだ代官職という仕事柄のためでもありましたが、そんな英龍が江川家の世襲職である「韮山代官」の職を継いだのは1835年(天保6年)、英龍が34歳の時のことでした。

韮山代官就任

父の英毅が長命だったため、それまで比較的悠々としていた生活を送っていた英龍ですが、その人生は父の死とともに大きく変わり、これ以降英龍が関わった歴史的な出来事については山ほどの史料が残っています。

反面、英龍が父のあとを継いで韮山代官になる前の生活についてはあまり資料が残っていないようです。

ただ、この年になるまでずっと江戸にいたわけではないようで、江戸と韮山の両方の代官所を年に何度も往復する父につき従って、その仕事内容の見習いをするとともに、ときには武者修行の旅にぶらりと出るということなどもあったようです。

代官に就任する以前の英龍について、はっきりしているものだけを順番にみていくと、まず1821年(文政4年)には、兄で長男の英虎が病死したため、英龍は20才で江川家を継承する嫡子となっています。またその二年後の1823年(文政6年)には、旗本の北条氏征(うじまさ)の娘と結婚しています(夫人の名前不詳)。

この北条氏征という人物がどういう人物だったのかはいくら調べても出てこないのでよくわかりません。しかし、北条早雲を祖とする後北条氏の末裔であったことは間違いないようです。また、英龍の奥さんになった人についてもあまり資料が出てきません。また詳しいことがわかったら、アップしたいと思います。

1824年(文政7年)、23才のとき、英龍は韮山代官職見習となり、このとき、将軍家斉に謁見しています。これ以降、江戸本所の韮山代官所へ出仕することが次第に多くなっていきますが、あいかわらず江戸と韮山の間を父に従って往復する習慣は続いていたようです。

1830年(天保元年)母の久子が病死。母久子からは、「早まる気持をおさえ、冷静な気持を常に持つように」と「忍」の字をさとされ、以後英龍は「忍」の文字を書いた紙を常に懐中に携帯していたといいます。

父の英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培などによって自領の増収を実現するなど幕閣からも高い評価を得た人物でしたが、母久子が亡くなった4年後の1834年(天保5年)ついに亡くなります。65才でした。

英毅は、代官として管理している諸国の新田開発や、河川・道路の改修といった土木工事を積極的に行い、その父親の「英征」の時代の放漫財政を立て直したといいます。学問への関心が高く、杉田玄白、大田南畝、山東京伝、伊能忠敬、間宮林蔵といった有名人とも交流があり、とくに伊能忠敬や間宮林蔵とは親しかったようです。

このため海防に関する知識についても豊富であったといい、こうした英毅の知識がまた英龍にも受け継がれていったと考えられます。

地元の伊豆では、修善寺の熊坂の国学者で「竹村茂雄」という人物と交流し、国学や歌への関心も高かったといいます。竹村の提言により、狩野川の鯉の放流を許可したり、また漢学者の「秋山富南」からは、伊豆ではいまだかつて詳しい地誌が造られたことがないと聞き、その編さんを秋山に許可しました。

この秋山が書いた地誌は、「豆州志稿」と呼ばれ、今日、江戸時代後期の伊豆半島の様子を知ることのできる貴重な歴史資料となっています。

伊豆、韮山代官としての仕事としては、年貢の徴収、戸籍(宗門人別帳)の管理や紛争処理、治安維持や罪人の処罰、村方への貸付金の運用などであり、行政・司法・警察・金融と、現在の市役所と警察署、そして銀行が行っていたような役務のほとんどすべてを担当していました。

こうして英毅が代官として治世を行った幕府領の農商工の生産性は着実にあがり、このため代官就任時の直轄地の石高は5万余石ほどでしたが、亡くなる前には7万石を超えるまでになっていました。

英毅が亡くなった翌年の1835年(天保6年)、ついに34才にして英龍は韮山代官に昇進し、父の英毅が豊かにした、伊豆、駿河、相模、武蔵国の各地を管理する主となりました。幕末においてもっとも有能な官吏としてようやくその歴史の表舞台に登場するようになるのです(続く……)。

江川家のこと ~旧韮山町(伊豆の国市)

先日の月曜日のことです。仕事もあまり気分が乗らず、お天気も良いからということで、これまで行ったことがなかった、伊豆韮山ある「江川邸」へタエさんと行くことにしました。

江戸時代を通じて、伊豆を中心とする諸国の「代官」を務めた「江川家」の邸宅のことで、正式名称「江川家住宅」として、1958年(昭和33年)に主屋が、1993年(平成5年)には書院、仏間、蔵、門、塀、敷地内にある神社などが、国の重要文化財に指定されました。

現在は、この江川家の御子孫が中心になって設立された、財団法人江川文庫(1967年)の所有物だそうですが、我々が訪れたとき、現在のご当主らしい方がおられ、ご近所の方と歓談されていました。

どうやら、一般公開されている重要文化財部分以外にも、文化財指定されていない居住空間をお持ちのようで、その裏木戸のようなところからお出でになり、我々に会釈されたあと、どこかへ出て行かれました。

私はちら、としか拝見しなかったのですが、館内に掲示されていた江川邸の持ち主?らしい方のお写真とお顔が同じであることにタエさんが気づき、私に教えてくれてわかりました。しっかりとお顔を拝見しなかったので、ご年齢とかはっきりはわかりませんが、おそらくは70代から80代にかけての御年と拝察されます。

とすると、韮山県令などを務め、1933年(昭和8年)に亡くなった、江川家第38代当主で最後の韮山代官、「江川英武」氏のお孫さんかではなかろうかと思われます。

江川英武氏の息子さんは、元東京大学教授名誉教授で法律学者の江川英文さん。前述の財団法人江川文庫を設立された方です。こちらは1966年(昭和41年)に亡くなっていますから、我々がおみかけした方は、年齢からしてもおそらくその息子さんに違いないでしょう。従妹などの御親戚という可能性もなくはないですが。

これらの方々よりもさらに前の江川家の第36代の当主、江川英毅(ひでたけ)は、江戸中期~後期にかけて韮山代官を務めた方ですが、民治に大変力を尽くした人で、商品作物の栽培技術を改良し、貧しかった周辺の村々の農作物の増産を実現した人物として知られます。

そしてその息子の第37代当主、江川英龍(ひでたつ)は、おそらくは江川家代々の当主の中でも最も有名な人物。我が国への洋学の導入に貢献し、激動の幕末において「お台場」の整備や洋式大砲の製造・設置といった、「海防」の整備で実績を挙げるとともに、「パン」を日本で初めて焼いた人物として著名で、知る人ぞ知る、幕末の偉人の一人です。

ここ地元韮山でも二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行うとともに、「種痘」の技術が日本に伝わると、領民への接種を積極的に推進するなど、自領の統治にも善政で臨みました。このため領民も彼を大いに慕ったといい、「世直し江川大明神」とまで呼んで敬愛したといいます。

現在に至っても地元・韮山では絶大なる人気があるそうで、江川家へ強い愛着を持っている周辺住民は多いというふうに聞いています。

我々が訪れたこの江川家の邸宅のすぐ北側には、観光客用の広い駐車場(無料)があるのですが、どうやらここに、その昔韮山代官所があったらしく、確認はしませんでしたが、その碑なども置かれているようです。

今はこのお役所は解体されてありませんが、江戸時代の管轄は、伊豆国を中心とし、駿河国・相模国・武蔵国に及び、幕末には甲斐国も管轄していたといいます。また、伊豆諸島を管轄下においたこともあるそうです。

その所領の石高は、管轄領域がしばしば変動したため、一定しませんが、およそ5~10万石余で、小さな大名に匹敵するほど。

前述したようにその代官は、代々江川家が勤めてきましたが、江川家自体は、江戸時代よりもさらに前の平安時代末期以後、この伊豆国江川荘付近を領有していた豪族でした。

その祖は、藤原道長の部下であった「源頼親」という人物で、もともとは畿内の「大和国」を領地としていましたが、政変に敗れて土佐へ流れ、その子孫は各地へ散らばっていき、この系統の子孫は「大和源氏」と呼ばれています。

このうち伊豆へ流れてきた大和源氏の一派は、当初「宇野」姓を名乗っていたようですが、平安末期に伊豆へ移住したとき、その一族の一人「宇野治長」が源頼朝の挙兵を助けた功で、現在の「江川荘」を安堵され、この地の領域支配が確定しました。その後は、鎌倉幕府に仕え、さらにその後も北条早雲を始祖とする後北条氏を主とするなど、その時代時代の支配者に仕えてきました。

宇野姓を現在の「江川」に改めたのは、かなり力をつけてきた後北条氏に仕えていた室町時代のことのようです。後北条氏は、その後関東一円の諸豪族を配下に治めるようになっていきますが、その後も江川家は後北条一門に忠実に仕え続けます。

しかしやがて戦国の世となり、1590年(天正18年)には、豊臣秀吉がその乱世を終了させるべく後北条氏が本拠とする小田原に攻め入ります。このいわゆる「小田原征伐」において、江川家28代の江川英長は、それまで仕えてきた後北条氏を見限ることを決断します。

そして、その当時秀吉の配下にあった徳川家康について後北条氏側と戦い、そのことで功を認められ、江川家始まって以来初めて中央政権の「代官」に任ぜられます。

江戸時代に入っても、江川家は引き続き代官職を踏襲しますが、1723年(享保8年)からは享保の改革の関係からか職を免ぜられ、以後35年間だけは韮山代官職を退いています。

しかし、1758年(宝暦8年)からは再度韮山代官に復職し、以後明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の代官として、民政に当たりました。その石高は最盛時には26万石にも膨れ上がったといい、これは地方の大大名にも匹敵する石高です。

江川家の当主は代々、「江川太郎左衛門」を名乗ったため、歴代の当主の中で最も有名な江川英龍のことも、一般的には「江川太郎左衛門」と称することが多いようです。伊豆のあちこちの観光地に出ている看板の名前も「英龍」ではなく、ほとんどが「太郎左衛門」と表示されています。




この江川家が管理していた韮山代官所は、韮山の江川邸に隣接して建てられていたもの以外に、江戸の「本所南割下水」にもあり、これは現在のJR両国駅(墨田区)の東側あたりの場所のようです。隅田川から引き込んだ運河が縦横に流れる場所で、その両側には大名屋敷がずらりと並ぶ一等地でした。

江川家では、この代官所とは別に同じ本所深川に自分の屋敷を持っており、このほかにも幕府から下賜された土地を持っていたようです。「江戸切絵図」という江戸時代の地図集では、その「芝口西久保愛宕下之図」の版に「鉄砲調練所」とされる建物の位置が示されており、これがそれです。現代の港区浜松町駅のすぐ東側がその場所で、この当時は海に面していました。

37代当主の英龍は幕末において幕府の軍事顧問のような役職を担っており、兵士として調練する他藩の武士がたくさんの兵士が出入りしていましたが、これらの兵士を訓練する場所がなかったため、英龍の死後、その息子の英敏の代になって、この場所が幕府から提供されたのです。

この「芝口西久保愛宕下」には、増上寺がありその敷地内には現在、東京タワーが立っています。調練所のあったのは、これと浜松町駅を挟んだ東側あたりで、ここはこの当時「芝新銭座」という地名でした。

慶応大学関連の史料の中には、「明治3年(1870年)、芝新銭座屋敷の長屋三十間ほどの総二階を慶應義塾に貸し出した」という記述が残っており、これは、この調練所の建物の一部分を、その当時江川家と親交のあった福沢諭吉が創設した「慶応義塾」として貸し出したときの関連記事のようです。

この慶応義塾は、翌年の明治4年には現在の慶應義塾大学のある三田の島原藩中屋敷に移転しました。しかしこれよりかなり以前から江川英龍は福澤諭吉と懇意だったようで、これは福沢諭吉の奥さんの実弟で「土岐謙之助」という人が英龍の門弟であったことなどに由来するようです。

こうした福沢諭吉との関係から、幕府瓦解後、このときの最後の韮山代官であった江川英武の手代(部下)だった柏木忠俊戸という人が、江戸江川家の屋敷を福沢諭吉に払い下げました。そしてその本館部分は三田に移築され、現慶應義塾大学の前身の慶應義塾舎として使われ、その一部であった正門だけが、伊豆の韮山に移築され、現在の江川邸の表門となっているということです。

その江川邸の入口脇には、50~60m四方のかなり広い広場があり、ここは江川英龍が地元の農民たちを集めて「民兵」として調練するために用いられたということです。この一帯はその昔、「金谷村」と呼ばれていたそうで、英龍は屋敷近隣の村人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織した人物とされています。

今でも日本中で使われる「気を付け~」や「右向け右」、「前へ進め」「回れ右」「右へならえ」などの掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと、英龍の甥で蘭学者だった石井修三(のち江戸築地軍艦操練所教授方)に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものです。英龍はこの新訳語を使って農民たちの訓練を行いました。

ちなみに、石井修三は、その後軍艦操練所でも、「ヨーソロー」等の船舶号令を翻訳しています。以前このブログの「ヘダ」の項で紹介した、ロシア軍艦ディアナ号が駿河湾沖で沈没したときにも、戸田にできた仮奉行所に出仕し、ディアナ号の代替船として日本で初めて建造された洋式帆船「ヘダ号」の建造に関わっています。

江川英龍が亡くなったとき、その臨終に立ち会い、「江川坦庵公臨終の記」を残していますがそのわずか二年後、艦操練所の教授方に任官6か月後の1855年(安政4年)、前述の芝新銭座の江川家の屋敷前において、攘夷派により暗殺されて亡くなりました。享年28才ということですが、残念ながら肖像画や写真などは一切残っていないようです。

英龍が造り、石井修三が農民を調練するための掛け声が響き渡ったというこの広場ですが、我々が訪れたときには、秋まっさかりということで、曼珠沙華が一面に咲き誇り、調練所というよりはまるでお花畑のような風情でした。

屋敷の前には農業用の用水路が流れているのですが、この用水路の周りの土手も曼珠沙華で満開で、江川邸のどっしりとし佇まいとあいまって、ちょっと江戸時代にタイムスリップしたような気分になりました。




実際、NHKの大河ドラマ「江」や、TBSのドラマ「仁」のロケ地としても何度も使われたそうで、入口の受付前にはそのロケ当時の写真などが掲載されていました。

建物の中に入ると、なるほどロケに使われるわけだけあって江戸時代そのままの姿がきれいに保存されており、高い屋根とその下に広がるおよそ2~300坪はあろうかと思われる広い空間には、英龍らが開発した大砲やパン焼き器などの展示品のほか、江戸時代以降、長い間代官を務めてきた江川家の関連資料が展示されており、歴史好きな私としても興味深く拝見させていただきました。

今日はもう、ページがかなり進んでしまいましたので、そうした詳しい内容などはまた後日ご紹介したいと思います。

また、本日書きはじめる予定だった、江川英龍の生涯についてもまた後日のペンに譲りたいと思います。今日は、最後にひとつだけ、江川英龍も懇意にしていたという「勝海舟」が晩年に記した「氷川清話」の中での英龍評について触れたいと思います。

勝海舟も英龍のことを高く評価をしていたようで、この氷川清話の中では、「江川太郎左衛門も、またかなりの人物であった。その嘉永安政の頃に、海防のために尽力したことは誰も知って居るだろう……」と書いています。

しかしそれだけでなく、海舟は彼が武芸のみならず幅広い教養を身に着けた風流人であったことなども評しており、江川英龍がどういう人物だったが偲ばれて面白いと思います。最後に読んでみてください。

「この男は、山の中で成長して、常に狩猟などをして筋骨を練り、明け暮れ武芸に余念がなかった。が、しかし、人の知らないうちに嗜んで(たしなんで)居たと見えて、ある時水戸の屋敷に召されて、烈公から琴を一曲と所望せられたのを、再三辞したけれども、お許しがないから止むを得ず一曲奏でたが、その音悠揚として迫らず、平生武骨なのにも似ないで、いかにも巧妙であったから、列座そのものが手を拍って感嘆したということだ……」




スプートニク・ショック

台風が過ぎてから、ここ二日ほどは曇り空が続いています。富士山はときおり顔をみせてくれますが、雲に隠れていることのほうが多く、上空に湿気が入り込んでいることの表れです。

頂上では秋と冬の空気がちょうど入れ替わっているのでしょう。先月このブログでも初冠雪を報じましたが、もうすぐ一夜で真っ白な雪化粧をした富士山が登場するに違いありません。

ここ修善寺でも、「夏」はすっかり影をひそめ、周囲の木々もめっきり黄色くなってきました。我が家では今年の春に植えたキンモクセイが花をつけ、一昨日あたりから家の内外に芳香をふりまいています。秋を感じるひとときです。これでもう少し天気が良ければさらに秋の深まりを感じることができるのですが……

さて、今日の話題です。「スプートニク・ショック(Sputnik crisis)」ということばをご存知でしょうか。1957年の今日、10月4日に旧ソビエト連邦によって打ちあげられた世界初の人工衛星「スプートニク1号」にまつわるものです。

この衛星の打ち上げの成功は、人類史上初の快挙ではありましたが、ソビエトと同様に衛星を打ち上げ、「人類初」、「世界初」を狙っていたアメリカ合衆国にとっては宿命のライバルに負けを取った形となり、このとき国民全部が地団太踏んで悔しがりました。

スプートニク・ショックとは、このとき、アメリカ合衆国の政府や社会に走った「衝撃」や「危機感」を表す言葉であり、これをきっかけとしてその後、アメリカを中心として世界中で起こった社会現象を統合する表現として知られるようになりました。

大陸間弾道ミサイルの技術

では、この人工衛星の打ち上げ成功の何がそれほど世界を揺るがせたのでしょうか。

そもそも、ソビエトのスプートニク計画は、「宇宙開発」を行うための計画だったわけですが、実はこの計画は単に人類が地球を離れ、未知なる宇宙の探索に着手することだけを目的して企画された計画ではありませんでした。

スプートニク計画においては、全部で5回のロケット打ち上げが行われ、いずれも衛星を軌道上に乗せることに成功していますが、このロケットは、元々は「大陸間弾道ミサイル」を打ち上げるために設計・開発されたものでした。

大陸間弾道ミサイル(intercontinental ballistic missile、ICBM)とは何か? よく聞く名前ですし、いまさらそんなもん説明なんかせんでいいよ、とおっしゃるかもしれませんが、その詳しい内容を知ると、これがいかに難しい技術なのかが改めておわかりかと思います。

このミサイル、通常は、地面に掘られたミサイルサイロもしくは海中の潜水艦などから発射され、数百kmの高度まで燃料を消費しながら、ロケット噴射によって飛行しますが、その間に速度、飛行の角度等を調整して目標地点へのコースが決められます。

その後ロケットは燃焼を終えて切り離され、爆弾の搭載された弾頭だけが慣性により無誘導のまま飛行するわけですが、この無誘導飛行に入った場合には当然のことながらもう微調整はききません。

つまり、ミサイルを発射する時点で目標を確実にとらえるため、発射時の仰角や左右の振れ、発射薬量などの調整が必要であると同時に、軌道修正が可能な燃料飛行の間には極力その軌道を修正しつつ、ロケット燃料が尽きて弾頭だけになったときには自力で進路や速度を変えることはできない、ということを念頭に打ち上げられなければならないわけです。

あらかじめミサイルが飛ぶ方向や角度、距離を「予測」し、ミサイルを目標物に導く正確な「弾道」を計算した上でないとミサイルを発射することができない上、ロケットの飛行状況を把握しつつその微妙な軌道修正を地上から指示、もしくはロケット自らが修正しなければなりません。

ボールを投げ、固定されたキャッチャーミットにそのボールを納めることを想像してみてください。このボールを投げるのが人間であるとすれば、当然投げる人の力量によって、キャッチャーミットに入る場合もあれば入らない場合もあります(星飛雄馬なら、入るでしょうが)。

しかし、仮にこれをピッチングマシンが投げるとしても、そのピッチングマシンの油圧の状態やバネの力の具合、マウンドからホームに届くまでの風の影響やはたまた地面からの砂ぼこりの巻き上げなどがあり、投げられたボールは必ずしもどんぴしゃキャッチャーミットのど真ん中に入るとは限りません。

さらに、このキャッチャーミットが、ホームベースではなく、外野の一番奥に置かれたと仮定すると、ピッチングマシンから投げられるボールは水平での投擲では届かなくなり、斜め上方向に投げられたボールは山のように盛り上がった弾道を描くことになります。

その軌道修正はもはやピッチングマシンにはできず、投げられたボール自らが軌道修正しない限りはキャッチャーミットにおさまることはできないのです。

この小さなボールに推力を与える動力装置をつけ、無線誘導装置も加えることを想像してみてください。考えるだけでおそろしく高度な科学技術が必要なことは容易に想像できるはずです。

大陸間弾道ミサイル(ICBM)の場合、このピッチングマシンからキャッチャーミットまでの距離が実に8000kmから10000kmにもなり、さらにその弾道の頂点高度は1000~1500kmにもなります。

これに対して、ICBMの軌道は、全体的に見ると地球の中心を焦点とするようなグローバルなものになり、ミサイルの大きさは地球の規模に比べれば「つまようじ」のような大きさにすぎず、このため、いかに命中精度を上げたとしても、ピンポイントで目標物をとらえるのは不可能になります。

無論、計算条件をいろいろ変え、コンピュータも駆使してその弾道計算を行うのですが、このスプートニク計画が実現したころはまだ、米ソともまだ非常に原始的なコンピュータを使っていました。このため、精度が悪く、ミサイルが目標物「付近」に到達しても相手に十分な打撃を与えるとは限りません。

弾頭に乗せる爆薬を通常のものにした場合、破壊できる範囲はせいぜい2~300m、よくて500m程度でしょうから、ミサイルが落ちたところが目標物から1kmも離れてしまってはまったく相手に損害を与えることができません。

そこで、弾頭にはできるだけ強力で広範囲を破壊できる爆弾を搭載しようとして考えられたのが、「核爆弾」です。精度の悪さを爆弾の爆発力で補おう、というわけです。当初のICBMの命中精度は、平均誤差半径3km前後とむちゃくちゃ誤差が大きく、このため、ロケットに積む核爆弾もメガトン級の大威力のものが採用されました。

大威力の核弾頭は当然重くなります。当初のものは400キロトン(1キロトンは1000トン)もありました。これを搭載するロケットも推進力の強い液体燃料式にしなければならず、当然ロケットも大型化せざるを得ません。

その後、米ソともに急速に改良が進み、平均誤差半径0.1km程度のものさえ開発され、それに伴って核弾頭も小さくなり、70年代以降は200キロトン程度にまで小型軽量化されました。

こうしたICBMの開発技術は、そのころそれぞれを仮想敵国とみなしていたソビエトとアメリカの双方で急速に進みました。そして、これによってある程度の完成をみたロケット技術を両国とも宇宙開発に応用する、と発表しました。しかし、実はこれは膨大な予算がかかる核ロケット開発という軍事技術の開発から国民の目をそらすための一種のプロパガンダにすぎませんでした。

無論、宇宙開発を行うために打ち上げられるためのロケットを開発するためにも莫大な研究開発費がかかります。しかし、これによって開発される技術は、実はほとんどがICBMを打ち上げるための技術へと転用ができました。国民の目からみれば、平和利用のためのロケット開発でしたが、その実は軍用のロケット開発でもあったわけです。

スプートニクの成功

ここまで書いてくればもうおわかりでしょう。ソビエトのスプートニク一号の打ち上げ成功は、アメリカにとっては、ソビエトの大陸間弾道ミサイルの開発の成功をも意味したわけです。

人工衛星を地球の周回軌道に乗せるためには、極めて精度の高い弾道計算技術が必要です。これに成功したスプートニク1号を打ちあげたロケットは、R-7という名称ですが、これを打ちあげる前の同じ年に4回ほどの試験的な打ち上げが行われており、スプートニクの打ち上げは事実上5回目の試験飛行でした。

4回までは地上で飛行させましたが、5回目は宇宙での飛行に成功させたことの意味。これは、アメリカにとってはかなり衝撃的なことでした。なぜなら、その成功はソビエトが大陸間弾道ミサイルの技術開発を成功させたということだけでなく、さらに将来的には宇宙からアメリカにミサイルを降らせることができるのではないか、ということを危惧させるのに十分だったからです。

このころアメリカは、ソビエトのスプートニク計画に対抗して、「ヴァンガード計画」という人工衛星発射計画を立てており、ソビエトに先駆けてその第一号ロケットを打ちあげようと準備していたところでした。

しかし、ソビエトに先を越され、それでもその2ヶ月後にようやくケープカナベラルの空軍基地からアメリカ初の人工衛星を搭載した「ヴァンガードTV3」をうちあげます。ところが、これは発射2秒後に爆発炎上。その大失敗は世界中に報じられ、ソビエトの成功への賞賛とは裏腹に世界中から冷笑を浴びました。

この失敗は、それまでソビエトよりも軍事技術においても宇宙開発においてもはるかに先を進んでいると信じていたアメリカの自信を覆すことになり、軍事や宇宙開発の関係者だけでなく、アメリカの最先端の科学や技術を担っていた人々、さらにはそうした人たちを育ててきた教育界の人々に至るまでをパニックに陥れることになりました。

これが、いわゆる「スプートニク・ショック」です。

しかし、この歴史的な「大敗北」ですぐにしょげてしまわないのがこの国の良いところです。かつての太平洋戦争においても、日本による真珠湾攻撃などの緒戦での敗北は逆にアメリカ人の「負けず魂」を呼び起こすことになり、その後の戦争の経過がアメリカの一方的なものになっていったころと、このスプートニク・ショックのころのアメリカはよく似ています。

その後、危機感を感じる中で、科学教育や研究の重要性が再認識されるようになり、大きな予算と努力が割かれるとともに、アメリカの軍事・科学・教育界はそれぞれ大きく再編されるようになっていきます。

連鎖

スプートニク・ショックはアメリカ合衆国の政策提案を、大きなものから小さなものまで連鎖的に引き出す結果となりました。そしてそのほとんどは国防総省が発議したものでした。

スプートニク1号の成功からわずか2日には、イリノイ大学のアーバナ・シャンペーン校の「デジタル・コンピュータ・ラボ」である計算が行われはじめました。

その当時の最先端と言われた「ILLIACI」というコンピュータを使用して行われたもので、国防総省の依頼を受けて行われたこの計算により、打ちあげられたスプートニク1号の軌道の計算が解析されるようになりました。

翌年の1958年には、アメリカ航空宇宙局(NASA)が設立されると同時に、有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画が開始されました。

新世代の技術者を養成するため、同じ年に「国家防衛教育法」などの様々な教育計画が開始され、初等教育における「算数教育」が根本から見直されました。

集合論や十進法といったオーソドックスな数学以外にも、位取り記数法(N進法など)などのより複雑な数学的構造を早い年齢から教えるなどの「新しい数学(New Math)」という概念が導入され、よりアメリカ人の数学能力向上が図られるようになりました。

科学研究に対する支援も劇的に増加し、1959年には、連邦議会は米国科学財団に対し前年度より1億ドルも高い1億3400万ドルの歳出の割当承認を行っています。そしておよそ10年後の1968年までには、米国科学財団の年間予算はその5倍の約5億ドルにまで達しました。

軍事力での遅れを痛感した当の国防総省は、潜水艦発射型の弾道ミサイル、「ポラリスミサイル計画」を開始し、現在ではどこの会社でも取り入れるようになった「プロジェクトマネジメント」の手法を世界で初めて研究しはじめ、より現代的な計画モデルも確立されるようになりました。

例えばポラリスミサイル開発では、それまで複雑なプロジェクトが絡み合っていたものを、相互に関連した簡単な作業にまで分解し、その前後関係などの関連性を調べた上で作業の見積や管理を行う手法が生み出されました。

この手法は、PERT(Program Evaluation and Review Technique)と呼ばれ、全作業の正確な詳細と期間が不明であっても、不確実性を含んだままプロジェクトのスケジューリングが可能になっており、コストよりも時間が主要な要因となる研究開発プロジェクトに向いているといわれています。

現代では、ちょうど同じころにアメリカの化学会社である「デュポン」が開発した「クリティカルパス法」のほうが有名となり、現在では、ソフトウェア開発、研究プロジェクト、製品開発、工学、プラント保守などといった各種プロジェクトで利用されています。

いずれも現代の科学技術の進展のために大きな貢献を果たしたマネジメント手法ですが、その開発もスプートニク・ショックのたまものといえます。

こうして、アメリカの各分野でスプートニク・ショックを乗り越える改革が行われるようになり、その成果は日本だけでなく世界中の科学技術を大きく進歩させるためにも大いに役立ちました。

1960年、ジョン・F・ケネディ大統領はその年の選挙運動選のさなか、米ソの「ミサイル・ギャップ」を埋めることに触れ、1000基のミニットマン・ミサイルをはじめ当時ソ連が保有していた以上の大陸間弾道ミサイルを配備することを宣言しました。

また翌年の1961年5月25日、特別両院合同会議の席上で10年以内に人間を月に送ると発表し、それまでは単なる有人宇宙飛行計画にすぎなかった「アポロ計画」の目標を「人類初の月面着陸」に変更させました

その後、国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在の国防高等研究計画局)は1969年、「アーパネット」と呼ばれるコンピュータ網を開発し、これが今日のインターネットのもととなったといわれています。

こうしたアメリカ国内における大きな変化は、スプートニク・ショック以降、アメリカ国民の科学に対する興味・関心を高める結果ともなり、一般人にも解りやすい内容の科学解説書のたぐいのニーズも急増するようになりました。

当時ボストン大学を辞して専業作家となったSF作家「アイザック・アシモフ」の名をご存知の方も多いと思いますが、彼の以後の著作もそれまでのSF小説から科学解説を含めたノンフィクション中心へと移行する契機となり、この影響は日本にまでおよびました。

日本はスプートニク・ショックの影響を直接受けたわけではありませんが、太平洋戦争での敗戦後、アメリカに追従する形での科学技術の発展を目指していました。このため当然のことながら、科学や工学の分野で大きな影響を受けるとともに、教育の世界でもアメリカで改革された教育論が輸入されるようになりました。

文部省では、アメリカと同様に1971年(昭和46年)に学習指導要領を改訂し、とくに理数教育においての改革を行った結果、その成果は確実に日本の技術力を高めるようになり、やがて「科学技術立国」したとまでいわれるようになりました。スプートニク・ショックは、今や世界に冠たる科学技術大国日本の礎を築く要因でもあったわけです。

スプートニク・ショックによる変化は、アメリカや日本のみならず、ヨーロッパでも起こり、その結果として開発された数々の科学技術は、世界で使われるようになり、それらの技術が今の世界を支えていると言っても過言はないでしょう。

このため、スプートニク・ショックはアメリカ人にとってはショッキングな出来事でしたが、その後の世界の科学技術発展のために大いに「貢献した」出来事として語り継がれるようになりました。

よく「失敗は成功のもと」といいますがまさにその通りであり、人間はパニック状態になると、どこからか人智を超えた力のようなものが出てくる、という話はよく聞きます。「火事場の馬鹿力」、「災い転じて福をなす」などなど、日本語の中にも似たような表現はたくさん見受けられます。

スプートニク・ショックは国家レベルでのパニックでしたが、我々個人の場合でもパニックになることはままあります。そんなときにはいつも決まって冷静になれない何等かの心理状況にあることが多く、沈着に考えることができる時間的な余裕がないからこそパニックに陥るのでしょう。

いつもパニックが起こったらどうしようか、と心配していると病気になってしまいそうなので、パニックを起こすまい、と考えるのはムダのような気がします。

しかし、パニックになったとしても、スプートニク・ショックのときのアメリカのように時間をかけてその損害を補てんしていけば元に戻れる、と少しでも考えることができたら、多少はそのパニックの状態も抑えることができるように思います。

まずい!のあとに、でもきっとなんとかなる!と一瞬でも思えたらしめたもの。きっと問題の糸口が掴めるに違いありません。そんなときは頭で考えても仕方がありません。きっとなんとかなる!と思ったそのあとに頭に閃いた行動があったら、素直にそれに従ってみましょう。

きっとそれは自分自信の考えではなく、あなたを守ってくれている守護霊さんの考えだと思います。

アメリカをスプートニク・ショックというパニックから救ったもの。それもアメリカ合衆国に古くから根付く、「アメリカン・スピリット」という魂なのかもしれません。

音楽の殿堂?

今日3日は、東京の北の丸公園にある「日本武道館」が落成した日だそうです。1964年に開催された東京オリンピックの会場のひとつとして建設されました。法隆寺に「夢殿」という八角形の伽藍がありますが、日本武道館はこれをモデルにしており、同じく八角形の外観を持ち、その大屋根の稜線は富士山をイメージしてつくられたそうです。

実は、今年の春、ひとり息子君が大学に入学したときに、その入学式が行われたのも日本武道館でした。息子の入った大学以外にも東京にある10ほどの大学機関の入学式がここで行われ、その当日は黒っぽいスーツや晴れ着を着た新入生やその父兄でにぎわいます。

我々夫婦もこの入学式に参加し、生まれて初めて武道館の中に入りましたが、新入生や関係者、そして父兄全員が入ってもまだまだガラガラといった感じで、なるほど名だたる多目的ホールとはこれほどのものか、と感心したものです。

この武道館、落成後の初仕事は東京オリンピックでの「柔道競技場」であり、オリンピックの開催中は4日間連続で柔道競技が行われました。

しかし、オリンピックが終わると、その所管は国から「財団法人日本武道館」に移管し、主としてアマチュア対象の「武道」の競技を行うことになり、日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の場とすることが目的として運営される「武道の殿堂」として再スタートしました。

しかし現在は、武道以外にもダンス、マーチングバンド・バトントワリングの競技会(大会)・演武会といったアマチュア活動のほか、コンサートや民放各局主催の音楽祭、プロボクシング、プロレスリングなどのプロ格闘技などの商業的な興行を行うための会場としても使われるようになっており、さらには、前述のように大学や企業などの大規模な入学式・卒業式・入社式の会場、葬儀会場としても使われるなど、幅広く使用されています。

この日本武道館のある敷地は、元々室町時代に関東地方を席巻した武将、「太田道灌」が、最初の江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)が遷座したところといわれています。

のちの江戸城は徳川家康が拡張し整備しなおしたもので、その家康が入府した際には、現在の場所は関東代官に任命された「内藤清成」らの屋敷となり、その当時は「代官町」と呼ばれていました。

その後、徳川忠長や徳川綱重などの将軍家直系の親族が住まう屋敷が建てられようになり、江戸中期以降は徳川氏の御三卿であった田安徳川家が屋敷を構えましたが、明治維新後取り壊され、宮城を守護する近衛師団の兵営地となりました。

近衛師団は、戦後解散になり、その後長い間ただの空き地になっていたところに、オリンピックの話が持ち上がり、ここに日本最大の「武道場」が造られることになりました。

日本武道館のメイン会場、「大道場(アリーナ)」は板張りで、柔道の競技場として使用する時は畳を敷き、コンサートでは養生シートを敷き椅子を設置したりして使用されます

1階固定席は3199席、2~3階固定席は7846席、立見席(3階)は480、アリーナには最大2946席まで設置できるといいますから、最大では14471席を設けることができ、東京都心にあってはこれだけの人員を収容できる会場は数少ないことから、スケジュール的にはほとんど「空き」のない、人気会場になっているということです。

もともと、設立された頃は「日本武道の聖地」的な意味合いが強い会場であったため、1966年に、はじめて武道以外の使用としてビートルズのコンサートが行われた際には、政治家の細川隆元を始めとする人々が、「日本の武道文化を冒涜する」などとして異を唱えたといいます。

しかし、現代ではそういう声も鳴りをひそめ、上述のような様々なイベントに使われるようになりました。イベントとしては上述のようなもの以外にも、毎年1~2月に行われる、「全日本書初め大展覧会」や、11月下旬に行われる「自衛隊音楽祭り」なども開かれており、毎年8月15日に行われる政府主催の「全国戦没者追悼式」もここで行われます。

内閣総理大臣経験者の本葬も、日本武道館で数多く行われており、吉田茂や岸信介、佐藤栄作、大平正芳、小渕恵三、橋本龍太郎などの歴代総理大臣のお葬式が行われました。このほかにも、ジャイアント馬場や正力松太郎、土光敏夫などの有名人の葬儀が行われています。

「武道」以外の「格闘技」の会場として日本武道館が使われたのは、1965年11月30日のプロボクシング世界バンタム級選手権試合「ファイティング原田対アラン・ラドキン(イギリス)戦」が初めてで、それ以降、数々の名勝負が繰り広げられました。

モハメド・アリ(アメリカ)がマック・フォスター(アメリカ)を相手に、ノンタイトル10回戦を行ったのも、1972年4月1日の日本武道館ですし、1973年9月1日、世界ヘビー級王者:ジョージ・フォアマン(アメリカ)が、ジョー・キング・ローマン(プエルトリコ)を相手に初防衛戦を行ったのもこの会場です。

その後も、数々の世界選手権試合が日本武道館で開催されており、プロボクシングの聖地の一つともされていますが、ボクシング業界が低迷している昨今では、世界戦が年1~2回行われる程度にとどまっています。

プロレス興行もまた、日本武道館でよく開催されています。初めてプロレス興行が行われたのは、武道館オープン後の2年後の1966年12月3日のことで、このときのメインイベントは「ジャイアント馬場VSフリッツ・フォン・エリック」のインターナショナル・ヘビー級選手権試合でした。

それ以降も、力道山十三回忌追悼興行や「アントニオ猪木VSモハメド・アリ」の異種格闘技戦、プロレス夢のオールスター戦など、数々のビッグイベントが開催され、70年代後半は新日本プロレス、80年代中期以降は全日本プロレスがビッグマッチ用の会場としてよく使用しました。

1999年のジャイアント馬場の葬儀にも日本武道館が使用され、2000年代に入ると、全日本プロレスから独立した「プロレスリング・ノア」が定期的に興行を行うようになり、昨年の2011年には東日本大震災チャリティー興行「ALL TOGETHER」も開催されています。

東京ドームのオープン以降はオールスター戦級のビッグイベントはそちらに移ってしまいましたが、今なお日本武道館は、日本のプロレス界にとっては特別視され、ファンの間では「聖地」とされる主要な大会場です。

また日本のみならず、アメリカのプロレス界にとっても、武道館は国技である相撲を行う両国国技館以上に、日本の神聖な会場として認識されており、世界最大のプロレス団体「WWE」の日本公演にも使用された実績があるそうです。

ただ、日本武道館は各種格闘技興行に限らず、有料の興行・イベントに使用する場合、「団体が1年以上経営・存続されていること」「興行での黒字収支が見込めること」などなどの会場使用条件が大変に厳しい会場として知られ、このためもあって、プロレス業界自体が低迷している現在では、日本武道館での興行自体が少なくなっているそうです。

とはいえ、ボクシングや、プロレス以外にも数々の格闘技が行われる「メッカ」として今も日本武道館は君臨しており、古くは、「キックボクシング」でも、1969年6月28日に行われた「東洋チャンピオン・カーニバル」の会場として使用され、このときはメインイベントで「沢村忠」が東洋ライト級王座初防衛を成功させています。

K-1も、1994年に旗揚げ2度目となる興行を日本武道館で開催して以降、2004年のK-1 WORLD GP開幕戦、2002年にK-1 WORLD MAXの初代王者を決めるトーナメント決勝戦が行われ、2007年から2009年までは主会場として使用するなど、K-1でも重要な会場のひとつとされています。

私はあまり格闘技には詳しくなく、K-1ぐらいまでは何とか知っているのですが、このほか総合格闘技としてでは「VALE TUDO JAPAN」とか「PRIDE」なるものもあるそうで、こうした格闘技も武道館でよく行われるそうです。

最近では、2010年4月25日に、吉田秀彦さんの引退興行「ASTRA」も開催されたそうで、ちなみに、吉田さんが柔道選手として出場した最後の公式試合も、2002年に日本武道館で開かれた全日本柔道選手権ということです。

さて、こうした武道ばかりでなく、日本武道館は、ミュージックアーティスト達の「殿堂」としても有名です。

現在ではコンサートやライブなどの各種音楽イベントでの使用が、日本武道館の収益の中で最大級のものの一つだそうで、大道場(アリーナ)の使用スケジュールは年間を通して「びっしり」という状況のようです。

上述のように、日本武道館の席数は最大で15000席弱ですが、コンサートホールとして使用する場合には舞台設営や観覧のしやすさなどを考慮すると、一般的には8000席から10000席程度くらいしかお客さんを呼べないといいます。

しかしそれでも、首都圏における主要な大型会場の1つであることには変わりなく、特に日本を中心に活動するミュージシャンにとっては、日本武道館はコンサート会場として極めて重要な位置づけに置かれているといいます。

10000人と簡単に言いますが、コンサートでこれだけの人数を集め、収益・内容の両面で成功に至らせることはなかなか容易なことではありません。

上述の格闘技と同様に音楽・芸能の有料興行のために使用するための会場使用条件も大変に厳しいそうで、アリーナを借りるためには、プロレスと同じように黒字収入が見込めることや、備品・設備の破損時の弁償といった、費用面も含めて様々な条件をクリアしなければならないといいます。

このため武道館公演の成功は、その公演を行うミュージシャンの「力量」によるところが大きく、大規模会場での大型興行も充分に務め上げられるだけの「一流」であることが求められます。

このため、日本武道館でコンサートを開くことができるミュージシャンは、興行能力・集客力を持っていることを業界の内外に誇示することができる、という意味で一種の「ステイタスシンボル」であり、1966年にここでコンサートを行った「ザ・ビートルズ」がその元祖といえます。

その後も1968年のザ・モンキーズ、1972年のディープ・パープル、1975年のクイーンなど、海外でビックネームを持つミュージシャンの来日公演の場として使われてきましたが、日本人の中でもロックや演歌、アイドル歌謡などのジャンルの中で「一流」を目指す人たちのメッカとなってきました。

ベテランのみならず、新人やデビュー前のミュージシャンでさえ「武道館公演の実現」を憧れとし、日本武道館での公演を「目標」とする風潮が生まれました。

また、グループやアイドル歌手などの中には、武道館で公演することが「一流」である自分たちの活動の節目と考える人たちも現れ、解散や引退の記念として1度きりの武道館公演を実施した人なども数多くいます。

しかし、逆にこのような大規模会場を好まず、武道館級以上の規模の施設ではライブをしないことを公言しつつ活動するミュージシャンも多く、有名なところでは、山下達郎さんなどもその一人です。

同様にNHKの「紅白歌合戦」などの有名テレビ番組への出場を拒む「大物ミュージシャン」も多く、これくらいのクラスの人になると、むしろそうした華々しい場所へ顔を出さないことこそを自分たちのステイタスとしており、それはそれでまたファンの目には「潔い」とか「奥深い」と映り、より崇高な芸術家とみなされたりもします。

逆にそのことによってさらに人気が高まり、これはこれでまたそういう方たちには、ある種の商業的価値が出てくるわけで、面白いといえば面白いものです。

2009年に武道館で初のアリーナ公演を開催した「スピッツ」さんも、その後は日本武道館の使用を意識的に避けているグループのひとつだそうです。その理由はよくわからないのですが、聞いた話によれば、「アリーナ公演に意味を持たせたくない」という意味のことをおっしゃっているようです。

おそらく、「日本武道館」での公演の継続は、その名を借りての自分たちの名声につながっていくことを意味する、自分たちはあくまで自分たちのミュージックにこだわって勝負したい、とおっしゃっているのだと思います。

その道の一流といわれる人は、「道具」や「場」にこだわってはいけない。「本物」はたとえ平凡な道具でも、ありふれた場所でも勝負できる。一流であるべきは自分の内面であり、勝負で生かせるのは磨き上げた自分だけだ、ということなのでしょう。私も「プロ」という者はかくあるべきである、と思います。

と、いいつつもまあ、武道館でコンサートを行うこと自体は、一流なのか一流でないのかわかりませんが一般?のミュージシャンにとっては大きな影響力を持つことは間違いありません。

これからも武道館は、ミュージシャンにとっての「殿堂」であり続けるのでしょうが、とはいえ、「日本武道館」はその名の通り、本来は音楽を主目的に建設した施設ではありません。

このため、コンサートホールとしての音響性能では、音楽演奏を主用途に設計されている専門のコンサートホールに遠く及ばず、良好な音質で観客に聴かせる場としてはあまり上等な場所とはいえないそうです。

ザ・ビートルズの来日公演では、ステージ上のギターアンプの生音と会場据付けの一般向け放送装置を使った「ボーカル」音声だけで開かれたことから、結果として演奏が全く聞こえない席が存在したといわれます。

このため、こうした問題の改善のため、現在に至るまで様々なノウハウが開発されてきているそうで、日本武道館でコンサートを開くため、それ専用の舞台音響設備が開発されるなどの歴史があります。

そうした機器の開発はそれはそれで大変だったでしょうが、現在ではこうして日本武道館で培われたノウハウが、同様に音響面で難を抱える全国各地の多目的ホールや体育館などでのコンサートにも応用されているそうです。

そうした意味では、有名アーティスト、「一流」といわれるミュージシャンと言われる人たちが日本武道館のような「音楽を聴くのに適さない」場所で公演すれば、そうした技術にさらに磨きがかかるではないか、という見方もできます。しかし、それは何も日本武道館である必要はありません。

以前、山下達郎さんの奥様の「竹内まりあ」さんが、信州八ヶ岳山麓の野外音楽堂で、ピアノ伴奏だけで歌っていらっしゃるのをテレビで拝見したことがありますが、八ヶ岳山麓の美しい風景と優れたピアニストさんの伴奏もあいまって、なかなか素晴らしいものでした。

武道館で自分のコンサートをぜひ開きたい、それが一流への道だ、と考えているアーティストさんたちのお気持ちもわかります。が、こうした音楽の「原点」のようなものをもう一回考えてみてはいかが?という方もいるのは確か。アーティストさんだけでなく、ファンの方々もその意味を今一度考えてみるべきかもしれません。

和神・荒神

ハッと気が付くと10月ですね。あともう少しで今年も終わりです……などと書くと気が早いやつだ、と言われそうですが、実際のところ、10月をすぎると、秋の日はつるべ落としに……と同じで急転直下に時間が過ぎていきます。

10月といえば、「神無月」ということで、この月は、出雲大社に全国から八百万もの神様が大集合するために、各地では神様がいなくなるので、神無月というんだ、というお話は誰でも知っています。

しかし、集まって何するの?ということなのですが、来年一年の事を話し合うためだそうで、ただ単に話しあうだけではなく、「縁結び」の相談をするのだともいわれます。このため新潟県の佐渡では、10月には縁談話を持ち込むのは避ける風習があるそうです。

北九州でも、神様が出雲に出張して帰ってくる11月には、未婚の男女が「お籠り」をする風習があったそうです。お籠りして何をするのでしょう。いろいろありそうですが、ヘンな想像はやめましょう。

しかし、神様が全部出払ってしまうと、地元の災いはどうしてくれるの、と心配になるのですが、すべての神様が出雲へ出向くわけではなく、「留守神」という神様がいるのだそうです。どこの村や家でもいる「田の神」「家の神」的な性格を持つ神様だそうで、「荒神(こうじん)」といわれる神様などがそれです。

そもそも、神道には、荒魂(あらたま)」と「和魂(にぎたま)」)という概念があり、これは神様の霊魂の性質をさすようです。

荒魂は、その名の通り、神様の荒々しい側面であり、「荒ぶる」魂です。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てるので、この魂を持った神様が「荒神」で一般には悪神とされます。神様の「祟り」といわれるのは神の持つ「荒魂」の表れといわれます。

これに対して和魂は、雨や日光の恵みなど、神様の優しく平和的な側面です。「神の御加護」といわれているのは、神様の「和魂」の表れで慈悲の心をさします。

一般に神様は荒魂と和魂の両方の心を兼ねそろえて、同一の神であっても、あるときは別の神に見えるほどの強い個性があります。なので、同じ神様なのに別の神名が与えられることがあり、「正宮」と「荒祭宮」といったように、同じ神様が別々に祀られていたりします。

人は神様の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきましたが、こうした神様の持つ極端な二面性が、神道の信仰の源となってきたといえます。

荒魂は、災いばかりを起こす、というイメージがありますが、その荒々しさから、新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂という側面も持っています。このため荒魂の「荒」を「新」と入れ替えて、新魂(あらたま)とも書かれることがあります。

和魂はさらに、幸魂(さきたま)と奇魂(くしたま)という性質も持っているそうで、幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす魂で、奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える魂です。幸魂は漢字一文字にして「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名によく用いられる。豊○○大明神とか、櫛玉××神社とかいいうのがそれです。

荒魂と、三つの和魂を合わせた、4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)は、人間の心をも表わしていて、この四つを一つにまとめたものを「霊」と呼び、古くは「直霊(なおひ)」と書きました。

そして、この「霊」には4つの魂が宿っているということで、人の心は「一霊四魂(いちれいしこん)」から成るという言い方をします。そして、荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊(なおひ)がコントロールしているといわれます。

「勇」は、前に進む力であり、「親」は、人と親しく交わる力、「愛」は、人を愛し育てる力、「智」は、物事を観察し分析し、悟る力です。これら4つの働きを、直霊がとりまとめ、人の心に反映し、この四つのバランスがとれているときには、人は「良心」を持ちます。

しかし、例えば「智」の働きが行き過ぎると、分析や批判ばかりしたくなる心に変化してしまったり、「勇」が過ぎると、人を押しのけて自分だけが目立とうとする心になってしまいます。直霊は、この四つの魂が行き過ぎないよううまくバランスをとる役割を持っており、このバランスをとることこそが、「省みる」という機能といわれます。

この四つの魂の性質をもう少し詳しくみてみましょう。

荒魂(あらみたま)、すなわち、「勇」は前に進む力です。勇猛に前に進むだけではなく、耐え忍びコツコツとやっていく力でもあります。行動力があり、外向性の強い人は荒魂の部分が強い人といえます。

和魂(にぎみたま)、「親」は、親しみ交わるという力です。平和や調和を望み親和力の強い人は、この魂の性質が強いと言われます。

幸魂(さちみたま)、「愛」は、思いやりや感情を大切にし、相互理解を計ろうとする人の魂です。

奇魂(くしみたま)、「奇」は、観察力、分析力、理解力などから構成される知性です。真理を求めて探究する人は、奇魂が強いといえます。

人の魂が、一霊四魂(いちれいしこん)から成る、という表現を聞いたことがある方はわりと多いのではないでしょうか。私もこれまでに何回か聞いたことがあります。しかしその詳しい意味はよくわかっていませんでした。

人の心は神の心に通じ、その魂は、これら四つの魂から構成されているといわれます。そしてそれぞれの魂が行き過ぎた行いをしないよう、我々は神社に行って反省するとともに、「荒魂」を持つ神様の和魂の部分が強くなるよう祈り、荒魂=荒神様が暴れないようするわけです

さて、ちょっとというか、かなり脱線してしまいました。

神無月には主だった神様が出雲へ出張してしまい、地元には「田の神」「家の神」などの、「荒神(こうじん)」様だけが残るとうお話でした。

上述までのように「一般的な神様」は「荒魂」の側面と「和魂」を持った神様なのですが、この「荒神様」という神様はそもそも太古の日本では、その名の通り極めて祟りやすく、これを畏敬の念を持って奉らないと危害や不幸にあうと思われた類の神でした。

もともとは害悪をなす「悪神」であるため、本来これを祀る人はいません。もっともな話です。しかし、仏教の伝来とともに、インドから「夜叉」とか「羅刹」といった悪神様が「輸入」されるようになり、これをもって「守護神」とする風習が日本国内に根付くようになっていきました。

そして、もともとあった日本古来の「荒神」も、陰陽師(おんみょうじ)やその流れを汲む祈祷師たちが、仏教とともにこうして日本にやってきた「輸入悪神様」と同じものである、というふうに説くようになりました。こうして、日本古来の「日本産悪神」も同じ「守護神」であるとして「荒神様」として崇め奉られるようになっていったのです。

もともとインドのヒンドゥー教での悪神であったものが、仏教に帰依した人々の間では守護神・護法善神として崇めたてられ、日本古来の荒神様と一緒になって風土に根付いたものであり、それらを合わせ総称してつまり「荒神」というようになりました。

いまや仏教が日本に入ってきてから、1500年以上も経っているわけですから、今の荒神様が日本古来の悪神様なのか、インドの悪神様なのかは区別がつかなくなっているものも多くなっています。が、いずれにせよ、そうした神様たちを土着の神様として、「田の神様」「家の神様」として祀られるようになっていったのです。

「トイレの神様」というのが本当にいらっしゃるのかどうかわかりませんが、いらっしゃるとすればそうした神様も「荒神様」の一種に違いありません。トイレを汚くしていると、怒ってしまい、それを使っている人をブスにしてしまいますが、きれいに掃除をしていると、美人にしてくれる、というわけです。

…… ま、いずれにせよ、出雲に祭神が全部出向いてしまっては、その地域を鎮護する神様がいなくなるということから、「荒神様」という「留守神」なる神様が考えだされたわけです。。が、そうではなく、「恵比須様」が留守神様だ、とう地方もあり、10月だけに恵比寿様を奉る「恵比須講」を行う地方もあるということです。

しかし、それにしても主だった神様がみんな出雲へ行ってしまうと、そのほかの地域では地震とか災害が起こるのでは……というのは誰しもが思うところ。

茨城県の「鹿島神宮」の祭神は、地中に棲む「大鯰(おおなまず)」だそうで、ナマズは地震を引き起こす原因です。この神社には地震を押さえつける「要石」なるものがあって、これをナマズが鎮護しているそうですが、過去においてこの地方では、神無月に何度も大地震が起きています。

そしてそれは、この鹿島のナマズの神様が出雲に出向いて留守だったため、要石を守るものがおらず、大地震になったのだと伝承されているとか。

ほかにも神無月に大きな災害があったことがあるんかな~と調べてみようと思いましたが、こう言ってはなんですが、所詮は「神話」にすぎないとも思い、やめておきます。

しかし、10月といえば秋祭りの季節でもあります。神様がいないのにお祭りをやっていいのかな~とまた別のことを思うのです。しかし、よく考えてみれば、神無月のいわれは「旧暦」でのこと。現在では11月の初旬から12月ということで、それまでにはお祭りはやっていいのではないのでしょうか。

沖縄県では旧暦の10月には行事や祭りを一切行わない場所が多いそうですが、その前の新暦の10月には普通にお祭りはやるそうです。神のいないこの月を沖縄では神無月とは呼ばず「飽果十月」と呼ぶそうです。

「飽果」どういう意味なのかよくわかりませんが、果物がいっぱいある月なので、これを神様にお供えするだけで勘弁してもらい、その代りにお祭りはやらない、ということなのかもしれません。

私たちが住んでいる別荘地の秋祭りは10月13日だそうです。ということは旧暦ではまだ神無月ではなく、お祭りはOKのはず。

ちなみに、出雲ではこの月、国から神様が集まってくるので、旧暦10月は出雲大社をはじめとするあちこちで「神在月」の神事が行われます。

旧暦10月10日の夜に、「国譲り」が行われたとされる稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われ、その後、旧暦10月11日から17日までは、出雲大社で「神議」が行われるとして、「神在祭」が行われます。「国譲り」の意味については、このブログの「天神降臨」でも書きましたので詳しくはそちらをご覧ください。

その翌日の旧暦18日には、各地に帰る神々を見送る「神等去出祭」が出雲大社拝殿で行われるそうなのですが、旧暦の神無月すべて一か月の間、神様がいなくなるのかと思ったら、途中でみなさん解散されるんですね。

旧暦10月18日というと、新暦では12月1日。旧暦10月1日は、11月23日ですから、出雲へ神様が出張して地元にいらっしゃらなくなるのは、かなり寒くなったころです。

このころまでにはたいていの秋祭りは終わっているわけで、なるほどこれで腑に落ちました。なんで神様がいない月の10月がお祭りのシーズンなのかな、とかねがね不思議に思っていましたから。

なお、出雲地方のほかに神無月を神在月とする地域が一ヶ所あり、これは諏訪大社の周辺の地域だそうです。伝承によれば、かつて諏訪大社の祭神であった「諏訪明神」があまりにも大きな体であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになったのだとか。

諏訪大社においては、神無月でも神様がいるのか、と思ったら、ちょっと行ってみたくなりました。皆さんも、神無月ではあるけれども、神様を拝みたくなったら諏訪大社へ行ってみましょう。さすがに東京や静岡から出雲まで詣でるのは大変ですから。

と、いうことで今日は神様にまつわるお話でした。神社好きの私としては、旧暦の一時期でなければ神社にお参りしてもいいらしい、と考えると少しホッとしました。それなら天気も良いことだし、これからどこかの神社へ出かけましょう。そしてそこで「荒魂」が暴れないよう、祈ることにしますか。