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こころの旅へ

blog170423-9865

ひさびさの書き込みです。

ほぼ一年ぶりになります。

更新がないので、「おまえは既に死んでいる」、と思っていた方も多数いるでしょう。

たしかに私も、過去5年間ほどのあいだ、いろいろなことを書いてきて、ネタも尽きかけた感もあったので、そろそろ終わりにしてもいいかな、と思っていたきらいはあります。

が、実は、昨年春より勤め始めた仕事先の業務に忙殺され、更新もままならなかった、というのが本当のところです。

書こうと思えば書ける時間もないではなかったのですが、そこはやはり、いろいろなことを書いてきた中で、エネルギーが尽きた、というのもある程度本音です。

それにしても、一年を過ぎてなお、アクセス数がほとんど減らないのには驚きました。あらためて、当サイトを見てくださっている方々が多数いることを知り、仕事が一段落した現在、もう少し続けていこうかという気になっています。

なので、これまでと同じペースではありませんが、少しずつまた書いていきたいと思います。またお付き合いください。

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さて、最近、タエさんに勧められてある本を読みました。

7つのチャクラ
魂を生きる階段
本当の自分にたどり着くために
キャロライン・メイス・著  川瀬勝・訳  サンマーク出版(文庫版もあり)

この本は、神学者で直観医療者であるキャロライン・メイスさんが著者です。直観医療(Intuitive Medicine)とは、超感覚(サイキック)能力を使って体内の臓器の物理的・エネルギー的な情報を読み取り、その情報に基づいて行う医療のことです。

超感覚(サイキック)能力を使った医療というと、なにやら怪しげに聞こえるかもしれませんが、 アメリカでは歴史が長く、すでに数多くの直観医療者が医師とタッグを組んで働いているといいます。最近では、アメリカだけではなく日本でも、多くのプロフェッショナルの医療従事者が直観力を使って治療を行っているようで、「直観医療」で検索すると、いくつかのサイトに行きつきます。

なじみがないことばなので、戸惑うかもしれませんが、例えば、優れた医療技術を持つ医師や看護師は、長年の経験などにより、検査の数値にかかわらず患者さんの重症度や危険度をある程度「察知」できるといいます。

長年医療に携わってくると、単に人の傷ついた状態だけでなく、なぜその状態に至ったのかなどの心理状況など、その原因を探る手がかりを得ることが多くなるそうです。こうした「直観能力」が研ぎ澄まされてくると、正確な診断や治療が行いやすく、患者さんにとってもよりよい治療が受けられるようになります。

おそらくこれは、いわゆる「第六感」に近いものでしょう。自分自身を振り返ってみても、微妙な体調の変化を感じとったり、何となく危険を感じてそれを回避できたり、もしかしてこれって病気になる前兆では、と気づいたりするといったことはあるのではないでしょうか。

実は誰でも無意識に「見えない」情報を受け取ってそれを利用しているようで、それにより、自分がこれからどういう状態(容体)になるのかは、自分でもわかっているのでは、といわれています。とどのつまりは、誰もが第六感によって、自分が病気になるかどうかを察知している、というわけです。

このような、通常は曖昧で漠然としていて無意識に使っているその感覚を、医学の専門知識に基づいたトレーニングによってさらに洗練させていき、人体から良し悪しの情報を得、それを治療につなげていくことに特化し発展させたのが「直観医療」、ということのようです。従って、訓練さえすれば、誰でもとはいいませんが、多くの人が直観医療を施すことができるようになるそうです。

この直観医療者、キャロライン・メイスが提唱する、「7つのチャクラ」は、アメリカではかなり広く知られている名著だということで、チャクラやエネルギー、心と体の繋がりに興味を持つ人には、結構知られています。原題は“Anatomy of The Spirit”、つまり「魂の解剖学」で、そのタイトル通り、臨床事例を交えながら、かなり学問的、論理的に書かれた内容になっています。

少々難解なフレーズが多いのが難点ですが、かなり科学的な視点で書かれているので、いわゆるスピリチュアルは苦手、という方にでも割と受け入れやすいのではないでしょうか。わたしが入手したものは、かなり前の版ですが、いまで販売しているはずです。今度の連休に、どこへも行く予定がない方は、購入されて読んでみてはいかがでしょうか。

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さて、その内容ですが、端的にいうと、人が生きていく上において、その魂をいかに磨いていくかの要諦を、「気」の視点から述べています。

「チャクラ」の解説については、それこそあまたの人がこうしたテーマに関する本を書いていますが、この本では、人生を送っていく上においてあまたある「恐れ」への対処の仕方が大きなテーマです。こうした恐れに対し、これを乗り切るための「自分自身を信じる心」との関係の上において、私たちの「気」がどのような影響を受けるのかということをわかりやすく解説しています。

それにしても、そもそも「チャクラ」とはなんでしょうか。インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語、サンスクリットでの意味は、「円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)」を意味するようです。つまり人の体や精神を「動かしているもの」ものこそが、チャクラということのようです。

一方、ヒンドゥー教の「タントラ」と呼ばれる経典、あるいは、「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるヨーガの法典、仏教の後期密教などでは、チャクラとは、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる「中枢」を指す言葉として用いられています。

では、「中枢」とは何か。一般的には、「重要な部分」を指しますが、医学的には、中枢といえば、「中枢神経系」または「神経中枢」のことを指すようです。従って、いろんな解釈や批判もあるでしょうが、ここではつまりチャクラとは、私たちの体に張り巡らされている神経系のうち、「一番重要な部分」ということにしておきましょう

このチャクラは、漢訳では、輪(りん)とも訳されます。輪といえば、宮本武蔵の著した兵法書、「五輪の書」を思い浮かべますが、この五輪とは、密教の五輪「地・水・火・風・空」のことです。五輪の書は、それになぞらえての五巻に分かれており、それぞれの巻で兵法の奥義が書かれています。

人の体のことを「五体」といい、日常でも「五体満足」とよく言ったりしますが、この五体ももともとはこの五輪から来ていて、仏教においては、頭・両手・両足の5つの部分のことです。

もともとヒンドゥー教で言われていたチャクラはふたつ多く、7つだったわけですが、その思想が、中国や日本に伝来するにつれ、数やその意味の上において5つ、ということで変化していったのでは、と私は考えています。

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以下がそのオリジナルのヒンドゥー教由来の7つのチャクラです。

●第1のチャクラ
・身体系・臓器:身体の構造部分、背骨の底部、両足 骨格、直腸、免疫系
・精神・感情面の問題:家族・集団の安全、物理的生存に必要なものを提供する能力、自分自身の為に立ち上がる力、安心感、社会 家族の掟 法と秩序
・身体の機能不全:慢性の腰痛、坐骨神経痛、うつ病、直腸腫瘍/ガン、免疫系疾患

●第2のチャクラ
・身体系・臓器:性器 大腸、脊椎下部、骨盤 盲腸、膀胱
・精神・感情面の問題:批難 罪悪感、お金 セックス、力 支配 創造性、人間関係での倫理 尊厳
・身体の機能不全:慢性の腰痛、坐骨神経痛、産婦人科系の問題、骨盤の痛み、性能力、泌尿器系の問題

●第3のチャクラ
・身体系・臓器:下腹部、胃、小腸、肝臓 胆のう、膵臓、副腎、背骨の中心部分
・精神・感情面の問題:信頼 恐れ 脅迫、自尊の念 自信、自分や人を大切にすること、決めたことに対する責任、批判への反応、個人の尊厳
・身体の機能不全:関節炎、胃潰瘍 十二指腸潰瘍、大腸系の問題、膵臓炎、糖尿病、慢性急性の消化不良、過食症 拒食症、肝臓障害、肝炎、副腎系の病気

●第4のチャクラ
・身体系・臓器:心臓、循環器系、肺、肩、腕、あばら骨、乳房、横隔膜、胸腺
・精神・感情面の問題:愛と憎しみ、拒絶感 反感 悲しみ 怒り、自己中心性 寂しさ、コミットメント、許し 悲しみの心、信頼 希望、
・身体の機能不全:充血性心臓疾患、心臓肥大 心筋梗塞、ぜんそく、アレルギー、肺がん 気管支炎、背中 肩の痛み 乳がん

●第5のチャクラ
・身体系・臓器:甲状腺、喉  気管、首の骨 口、歯と歯茎、食道 視床下部
・精神・感情面の問題:意志、選択の力、自己表現 夢を追うこと 創造力、中毒症、価値判断 批判、信心 知識 決断力
・身体の機能不全:慢性の喉の痛み、口唇性の潰瘍、歯茎の障害、一過性の下顎の関節の問題、脊椎側曲、喉頭炎、甲状腺障害

●第6のチャクラ
・身体系・臓器:脳、神経系、目 耳 鼻、松果体、脳下垂体
・精神・感情面の問題:自己評価、真実、知性の力、人の考えを受け入れること、経験から学ぶ力、感情の成熟度
・身体の機能不全:脳腫瘍、脳出血、神経系の障害、視覚・聴覚障害、神経系の障害、背骨全体の障害、学習障害 ひきつけ

●第7のチャクラ
・身体系・臓器:筋肉系、骨格系、皮膚、
・精神・感情面の問題:人生に対する信頼価値観、倫理 勇気、人道主義、自己犠牲の精神、大きなパターンを見る力、信心 ひらめき、霊性 献身、
・身体の機能不全:気の障害、神秘家のうつ状態、身体の障害とは無関係の慢性疲労、光 音などの環境要素に極度に敏感になる状態

それぞれの体の部位における状態が、精神面や感情面の状況を左右しており、それが悪くなれば身体の機能不全や傷害を起こす、というのがヒンドゥー教の教えにおいて確立された論理です。

メイスさんも長年携わってきた直観医療において、この7つのチャクラが人体と心のバランスをとるために誰にでも備わっていることを確信した、といいます。

そして、そうしたチャクラとのバランスに配慮しつつ、人生をつくる体験が、人の身体をつくる、と言っています。よりよき人生を送るためには、内面を見つめる心を持つことが重要であり、そのためにも「直観力」を養うことが重要とも書いています。そして、その直観力を高めるための、「3つの法則」についてふれています。

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その法則の一つ目は、「身体は人生の履歴書」ということです。

メイスさんが提唱する「気の医学」によれば、私たちは皆、「歩く履歴」そのものです。そしてその現在の身体の健康状態というのは、それまで長年培ってきた人生の履歴の体現です。自分の持つ強みだけでなく、弱み、希望だけでなく、恐れなどが我々の体にも形を変えて出てきます。

とくに、痛みや恐れが表出してくるような場合には、「自ら病気を作り出している」といえるような状態になってきます。しかし、意識的に病気を作り出しているのではなく、身体にとって有毒な行動パターンや態度だと「気づき」を得ないでいる結果、病気や痛みは発生してくる、といいます。

人生においては良いこと悪いこともありますが、とくに悪い状態のとき、無力感を生み出すような態度や考え方は禁物です。自分を愛する心を低下させるだけではなく、肉体からエネルギーを枯渇させ、全体的な健康を弱めてしまいます。つまり、「気」が弱い状態であり、そうしたとき、上の7つのチャクラ毎にあるような、身体のどこかの部分に病気や痛みなどの疾患が発生するのです。

法則の二つ目は、「健康でいるためには内面の力が欠かせない」ということです。

最近は、通常の医療措置が効果を示さなかった場合、心理療法、電気を使った頭骨刺激、色療養、光両方といった、いわゆる「代替療法」が使われるようになってきています。通常の医療で治療ができない、ということはすなわち既にもうその人の病気は我々の科学を超えて進行するたちの悪いものであり、そうした人に対して通常治療を施してもなかなか成功しません。このため、最後の手段でとして代替療法を行おう、とするケースが多いようです。

メイスさんによれば、そうした状況で代替医療を成功させるためには、その本人が「内面的な力」を持っていなければならないといいます。私たちの人生は、「力」の象徴を軸に築き上げられています。お金、権威、地位、美、安定などがそれで、人生を満たす人間関係もそうです。そして人生の一瞬一瞬において個々がしていく選択は、「内面の力の象徴」です。

例えば、自分より強い力をもっていそうな人に反論するのをためらうことはよくあることですし、断る力がないとあきらめて同意します。その瞬間はそれでよかったとしても、同じことの蓄積の中で、やがてその人の「気」は傷ついていきます。内面の力が外部の力に屈するわけです。「内面の力の象徴」とは内部の力と外部の力のバランスの状態といえるでしょう。そして、そのバランスが崩れていることを知らずに、日々を暮していると、ある日、病気になっている…

そうした場合の治癒を起こすためには、私たち自身の真実、自分が抱える問題をとのように自分が作り出しているかについての真実を知ることが必要です。そして周りの人間とどういう関係を持っているか、力のバランスに負けていないか、といった真実をまず見つけることです。大切なのは、まず自分の心の内面の象徴が、何であるかを明確にすること。そしてその象徴と自分との物理的な関係は何か(肉体や精神のどこが蝕まれているか)を理解することです。

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例えば、その象徴がお金である場合。お金に執着し、これを得るために働きづくめに働いた結果、深刻な病気に罹ってしまう…。自分の健康を金稼ぎに「同調させて」いた結果です。こうした場合には、難しいことですが、お金に対する自分の気持ちを一度手放してみる。執着をやめ、お金なんてなくてもいいさ、生きていけるさ、といった心境になる。そうして、身体や直観が伝えてくれるメッセージに耳を傾ければ、どんな病気に対しても、癒しが起きる環境は整えられてきます。

3つ目の法則は、「自分の癒しを助けられるのは自分だけ」ということです。

「気の医学」はホリスティックな医学です。ホリスティック(Holistic)という言葉を聞きなれない人が多いと思いますが、ギリシャ語で「全体性」を意味する「ホロス(holos)」を語源としています。現在、「ホリスティック」は、「全体」、「関連」、「つながり」、「バランス」といった意味をすべて包含した言葉として解釈されていますが、的確な訳語がないため、そのまま「ホリスティック」という言葉が使われています。

健康な状態、病気の状態に関係なく、人間の「からだ」というものは、常に全体的にとらえる必要があります。そして、ここで言う人間の「からだ」とは、肉体だけでなく、精神・心・霊魂の総体であり、すなわち人間そのものを指します。肉体以外の精神や心、霊魂の全体のバランスを考えて治療行うのが「気の医学」というわけです。

メイスさんは、「自分の健康を作り出す責任は自分にある」といいます。つまり、多くの場合、病気がかなり深刻な状態になる前のある一定のレベルでは、自分が病気の発現にも関わっており、自分を癒すことで、病の癒しに関わることも可能だといいます。

しかし、単に肉体だけを癒すのではなく、その治療の上において、感情的・心理的・肉体的・霊的な存在としての自分を、同時に癒すことが必要です。「癒す」と「治す」は同じ意味ではなく、「治す」とは病気の身体的な進行をコントロールできる、あるいは抑えられるということですが、「癒し」とは自分から取り組む積極的な内面へのアプローチです。

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癒しが必要な段階というのは、精神や心、霊魂の全体のバランスが崩れ、間違ったものの見方や、思い込みが激しい、といった状態です。こうしたとき、病はいつの間にかあなたのそばにいます。こうした場合、これまでのものの見方や記憶、信念などを見直し、自分が感情的、霊的に百パーセント回復しようとする妨げになる否定的なパターンを全て手放したい、と欲することが病気からの快復の上で重要です。

この内面の再検証の過程において、明確な意思を持って生きる人生を改めて作り出そうとするとき、それは必ず、自分自身の見直しだけでなく、自分の周りの状況の見直しへも繋がってきます。ここで言う「意志」とは、自分の人生についての真実、そして自分が気をどういう形で使ってきたのかについての真実を見据え、それを受け入れられる意思です。

気を、愛と自己敬愛の気持ちや、健康を創造するために使い始めようとする意志の事でもあります。ホリスティックな療法を成功させるためには、患者自らが自分の癒しの過程に百パーセント関わっていこうという気持ちが必要です。

もしもあなたが病気にかかってしまったとしたら… もしあなたが積極的な患者ならば、そうした自分の癒しに積極的に立ち向かおうとする気持ちが、その治療の効果を高めます。

逆に、「何でもいいから、とにかくやってくれ、治してくれ」という他力本願の受身の態度では、癒しは得られず、また治しも達成されないでしょう。回復はするかもしれませんが、病気の源であったものにきちんと対処しないで終わってしまうのです。

最後に、何よりもまず、癒しはひとりでする作業です。誰も本人の代わりに癒してあげられる人間はいません。もちろん助けることはできますが、癒されるために執着を捨てなければならないつらい体験や記憶をその人に代わって手放してあげることはできません。

さて、もうじき大型連休が始まります。もしどこへも行く予定がない方は、このブログを読んだのを良い機会とし、自分自身の癒しのための心の旅に出てみてはいかがでしょうか。

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プレートのこと

2016-1514

先週勃発した熊本地震には驚かされました。

九州は地震とは無縁と思っていただけに、改めて日本に住んでいる以上はこの災害からは無縁ではいられない、と痛感した人も多いでしょう。

さらに余震は続いており、既に刻まれた大きなつめ跡に加えて、さらなる被害の拡大が心配されています。

この地震が、九州を北東から南西に向かって走る断層帯によるものであることは、みなさんも繰り返しの報道でよくご存知のところです。

また、この「断層」というものについていまさら説明を加える必要はないでしょう。地下の地層もしくは岩盤に力が加わって割れ、割れた面に沿ってずれ動いて食い違いが生じた状態を指します。

岩盤に圧縮や引張などの力が加わると、その歪みは時間の経過とともに次第に大きくなっていき、岩盤は初めわずかに変形するだけですが、やがて周囲に小さな割れ目が数多く形成されていきます。そしてさらに時間の経過とともにエネルギーが蓄積され続け、やがてある時にエネルギーが放出されるとともに、岩盤は大きく割れてしまいます。

このとき、岩盤が割れるときに、地表面に放出されるエネルギー波の衝撃が伝わりますが、これがすなわち地震です。

一方、いったんエネルギーが放出された断層においても、長い事件を経て再び同様のエネルギーが蓄えられます。しかし、エネルギーを貯めつつも、岩盤は大きく割れずに残り、大きな地震が発生しない場合があります。この場合、さらに力を加えていくと、大きく割れる予定の岩盤の周囲の小さな割れ目は増え続けていきます。

これを繰り返していくと、さらに小さな割れ目と割れ目の間に、互いに共役関係にある多数の割れ目、断層が形成されますが、これら無数の断層を総称して「断層帯」といいます。

これら一連の割れ目こそが地震エネルギーを貯める巣窟であり、そのひとつの断層帯がいったん破裂すると、他の断層帯も次々と誘発されて多数の地震が連続して起こる、ということが起きる場合があります。

今回の熊本の地震も、九州にいくつかあるこうした断層帯がそれぞれ影響しあって一機にエネルギーを放出し始めたと考えることができ、九州以外にも日本には数多くのこうした断層帯が数多く存在します。

断層帯、といちいち「帯」をつけるのがめんどうくさいので、これを単に「断層」と呼ぶことも多いようです。

この断層のうち、極めて近き時代まで地殻運動を繰り返した断層であって、今後もなお活動するべき可能性のある断層のことを特に「活断層」といいます。

この「極めて近き時代」とは、一般に新生代第四紀を指します。地上では恐竜が絶滅し、海中ではアンモノイドと海生爬虫類が絶滅した後の時代であり、我々人類の祖先である哺乳類と鳥類が繁栄し始めたころのことです。

だいたい「数十万年前」とされますが、地質学者が勝手に決めた目安であり、あくまで便宜的なものであることから、その曖昧さが指摘されています。最近、原発の下に活断層がある、と論議の対象になることが多くなってきていますが、それが本当に活断層といえるのか、といった議論でいつも揉めるのはそのためです。

それにしても、この地上の岩盤に断層を生じさせるほどの外力とはいったい何なのでしょうか。

一般によく言われるのは、火山活動によるマグマの移動、ということで、これにより岩盤に圧縮や引っ張り、あるいはずれ(せん断)などの応力が発生することで、断層がずれるとされます。

今回地震が起こった熊本や大分に近いところには阿蘇山があり、その下にあるマグマの動きが引き金になったことは十分考えられます。今のところまだその関連性は明らかになっていませんがが、おそらくは深く関係しているものと推定されます。

ではなぜ、こうしたマグマの動きが活発になるか、といえば、これは地球の表面を覆っている「地殻」の下にあるマントルが原因といわれています。

マントル(mantle)とは英語で、「覆い」の意味です。地球のような惑星だけでなく、月などの衛星などにもある内部構造で、地球の中心にあるとされる核(コア)の外側にある層です。

地殻を形成する岩盤よりもずっと比重の重い物質でできており、これが地殻の下で対流にすることによって、その上を覆っているプレートの生成・移動・衝突・すれ違いが生じる、といわれています。

地球型惑星などでは金属の核に対しマントルは岩石からなり、さらに外側には、岩石からなるがわずかに組成や物性が違う膜があり、これが地殻です。マントルが冷え固まった薄い膜のようなものと考えられており、これがすなわち我々が家を建てたりして住んでいる大地そのものであるわけです。

全地球がこの薄い膜で覆われていると考えられており、十数枚にわかれていて、それぞれの岩盤の厚さはだいたい100kmほどあります。100kmというとすごい数字だと思われるかもしれませんが、地球の半径6371kmに比較すればわずか1.6%にすぎません。

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プレートというのは、この分かれている地殻のひとつひとつの断片のことです。正確にはテクトニック・プレート(tectonic plate)といいます。プレートには、大陸プレートと海洋プレートがあり、海洋プレートのほうが、大陸プレートよりもより強固で密度が高いため、2つがぶつかると海洋プレートは大陸プレートの下に沈んでいくことになります。

また、地下のマグマの上昇によりプレートに亀裂ができ、連続してマグマが上昇し続けると、その後プレートが分断されて両側に分かれる、といった現象もおきます。

こうした地殻付近で起こるダイナミックな地質的な変動理論を総称して「プレートテクトニクス(plate tectonics)」といいます。聞いたこともある人も多いでしょう。プレート理論ともいい、1960年代後半以降に発展した地球科学の学説です。

地球の表面が、何枚かの固い岩盤(「プレート」と呼ぶ)で構成されており、このプレートが、海溝に沈み込むことが重みが移動する主な力になり、対流するマントルに乗って互いに動いていると説明される理論です。

1912年に、ドイツ人の科学者、アルフレッド・ウェゲナーが提唱した「大陸移動説」が、そのアイデアの元になっています。ちなみに、この人の名のこれは英語読みで、ドイツ語読みでは、「アルフレート・ヴェーゲナー」のほうが近い音になるようです。

彼は、かつて地球上にはパンゲア大陸と呼ばれる一つの超大陸のみが存在し、これが中生代末より分離・移動し、現在のような大陸の分布になったと、説明しました。

元は一つの大陸であったとするこの仮説における有力な証拠のひとつとして、大西洋をはさんだ北アメリカ大陸・南アメリカ大陸とヨーロッパ・アフリカ大陸の海岸線が相似している、ということでした。また、両岸で発掘された古生物の化石も一致することなどもそれを裏付けている、としました。

しかし、当時の人には、大陸が動くこと自体が考えられないことであり、信じがたいことでした。さらにウェーゲナーの大陸移動説では、大陸が移動する原動力を地球の自転による遠心力と潮汐力に求めていました。その結果、赤道方向と西方へ動くものとしており、その説明にはいまひとつ説得力ありませんでした。

このため、彼が生存している間は注目される説ではありませんでしたが、ウェーゲナーの死後約30年後の1950年代~1960年代に、大陸移動の原動力こそがマントル対流であるという仮説が唱えられました。

さらに岩石に残された過去の地磁気の調査によって「大陸が移動した」と考えなければ説明できない事実が判明したことから、大陸移動説は息を吹き返しました。

それまでの通説は、古生代までアフリカ大陸と南アメリカ大陸との間には狭い陸地が存在するとした「陸橋説」でした。

陸橋とは文字通り、細長い橋のような大陸です。ベーリング海峡のように、今は海になっているものの、かつて陸地として自由に動植物が行き来できた場所を「沈降陸橋」といいます。これを南アメリカとアフリカを大西洋南部でつなぐ「南大西洋陸橋」、南アフリカ・マダガスカルとインドをつなぐ「レムリア陸橋」といったふうに呼びます。

こうした陸橋があることによって、広い海で隔てられた別々の大陸に、同じ種類の、あるいはごく近縁な動植物が隔離分布していることが説明できる、とされたものであり、こうした陸橋が、大陸と大陸の間にもかつてあったものが、今は深い海洋底に沈んでいる、とする説でした。

この説の前提として、地球が現在も冷却していっているため地殻が収縮していくとする「地球収縮説」がありました。収縮活動によって高くなったところが山になり、逆に沈降したところが海になったというもので、ウェーゲナーの時代ではまだ有力な説でした。陸橋説では大陸が沈む理由をこの収縮説を使って説明していました。

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しかし、この陸橋説は、その後発表されたアイソスタシー理論によって否定されました。アイソスタシー(isostasy)とは、重く流動性のあるマントルの上に、比較的軽い地殻が浮かんでいて、どんぶらこどんぶらこと流れている、というアイデアです。1855年にイギリス人の天文学者、ジョージ・ビドル・エアリーが提唱しました。

アイソ(iso)とは、「等しい」という意味で、地殻が浮くためには、地殻の荷重と地殻に働く浮力がつりあっているとする説であり、「地殻均衡説」ともいいます。

しかし、アイソスタシー理論だけでは、なぜマントルの上を地殻が移動するのか、その移動の原動力はなんなのかについては説明できません。

この問題を解決したのが、イギリス人の地質学者、アーサー・ホームズです。彼は1928年に地球内部には「熱対流」があり、マントルが、地球の表面各地で、一定の深さでぐるぐると対流している、とする「対流説」を唱えてこれを説明しました。

その後、古地磁気学分野での研究が進展し、海洋底の磁気異常の様相が明らかになったこともあり、1960年代にはさらにはアメリカ人の地球物理学者、ロバート・ディーツが「海洋底拡大説」を唱えました。

これは、地球内部のマントルが太平洋や大西洋の海の底の「中央海嶺」でマグマとなって上昇し、新しく海底の岩盤を作るため、海底が中央海嶺の両側へ拡大するという仮説です。拡大する一方、これとは別の端にある海溝ではその岩盤が沈みこみ、結果として大規模な物質循環が起こって大洋底が徐々に更新されているとするため、海洋更新説ともいいます。

こうして「地殻均衡説」「対流説」「海洋底拡大説」の3つの説、これを全てをまとめて発表されたのが、プレートテクトニクス理論です。スコットランド系カナダ人の地球物理学者で地質学者のツゾー・ウィルソンによって、1968年に提唱されました。

この功績によってウィルソンは、カナダ勲章のオフィサー(Officer)を1969年に受賞し、さらにカナダ勲章最高位であるコンパニオン(Companion)を1974年に受賞しました。またカナダとロンドンの王立協会のフェローとなったほか、トロント大学エリンダール校の学長に就任しています。

またテレビ番組「The Planet of Man」の主宰者としてカナダ国民に親しまれましたが、1993年に84歳で亡くなっています。

こうしてウェーゲナーの提唱した大陸移動説を数多くの学者がそれぞれ発展させる形でプレートテクトニクス理論が提唱され、地殻変動を総合的に説明できる説が完成しました。

しかしやはり一番の功績者は最初に大陸が移動する、という大胆な考え方を思いついたウェーゲナー自身であり、彼の提唱した大陸移動説は「古くて最も新しい地質学」として再評価され、現在では高く評価されるようになっています。

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このウェーゲナーという人の人生をもう少し詳しく見てみましょう。正しい名前は、Alfred Lothar Wegenerであり、1880年11月1日 にドイツで生まれ、1930年11月2日、ちょうど誕生日の次の日に50歳で亡くなっています。

もともとは気象学者であり、地質学とは無縁の人です。が、現在では気象学者や地質学者も含めて地球物理学者とすることも多いわけであり、気象学と地質学は兄弟のようなものです。1908年、28歳からマールブルク大学で教鞭を執るようになり、1924年、44歳でオーストリアのグラーツ大学の教授に就任しました。

義父(妻の父親)は「ケッペンの気候区分」で有名なロシア出身のドイツ人気象学者ウラジミール・ペーター・ケッペンです。ドイツ学派の気候学の大成者として著名であり、彼の考案したケッペンの気候区分は、改良を加えられながら現在も広く使われています。

ケッペンは、おそらくは同じ研究対象である気象つながりでウェーゲナーと知り合い、才能のある男と見込んで、実の娘を嫁がせたのでしょう。

一方のウェーゲナーは、リヒャルト・ウェーゲナーと妻アンナの間に生まれた5人の子の末っ子でした。しかし、ケッペンのように、けっして学究者の家柄に生まれたわけではありません。彼の父、リチャード・ウェゲナーは、で神学者であり牧師でした。

この信仰心の篤い家庭で育てられたウェーゲナーは幼いころから神童と言われていたようです。ベルリンの高校を首席で卒業し、その後大学では物理学、気象学や天文学を学んだあと、ベルリン市内のウラニア天文台でアシスタントの職に就きました。その後、フリードリヒ大学(今日のフンボルト大学)に入学して、1905年、25歳で天文学の博士号を取得。

その年に、同じベルリンにあるリンデン天文台に勤務するようになりました。ここでは、気象学や極地研究に携わる一方、気象観測のための気球に興味を持ち、これを用いた気象調査を実施するようになります。そしてやがては高層気象観測技術における先駆者といわれるようになりました。

一方では、冒険家としての一面もあり、同じ気象台に努めていた兄の気象科学者、クルト・ウェーゲナーとともに気球に乗って滞空コンテストに参加し、当時の最長滞空の世界最高記録である52.5時間を達成しています。

また、ウェーゲナーは1906年にこの気球を使ってグリーンランドに遠征しており、ここで2年間かけてデンマークの探検隊と共に滞在し、気象観測を行うとともに、同島の北東岸の地図作りの手伝いをしたりしています。

1910年、30歳になったとき、この当時はまだ珍しかった世界地図を見て、南大西洋を挟んで、南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線がよく似ていることに気づきます。そしてこれが大陸移動説のアイデアの元となりました。

1912年にはフランクフルトで開かれたドイツ地質学会で初めて大陸移動説を発表。1915年にその主著「大陸と海洋の起源」の中で、地質学・古生物学・古気候学などの資料を元にして、中生代には大西洋は存在せず、現在は大西洋をはさむ四大陸が分離して移動を開始、大西洋ができたとする「大陸移動説」を主張しました。

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ところが、ウェーゲナーの専門は気象学であり、地質学は専門外であったため、なかなか彼の主張は認められませんでした。また、当時の地質学は今日では古典的とされる化石の研究や同一地点の地層の重なりを調べる「層序学」を主流の手法としており、気象学者である彼の言い分に耳を傾ける人は多くはありませんでした。

そんな彼の新説に対して同意し、援助を惜しまなかったのは義父のケッペンでした。1919年、39歳のとき、ウェーゲナーは、ケッペンの後任としてハンブルクの海洋観測所気象研究部門長となり、「大陸と海洋の起源」第2版を出しました。ケッペンも古気候学者として協力し、1922年には第3版が出版されました。

1929年、49歳のときには「大陸と海洋の起源」の第4版を出版。この中で、南北アメリカ大陸だけでなく、こんにち存在するすべての大陸は1つの巨大大陸「パンゲア」であったこと、しかし約2億年前に分裂して別々に漂流し、現在の位置および形状に至ったとする説を発表します。

またこの版においては、各大陸の岩石の連続性や氷河の痕跡、石炭層や古生物の分布などから漂流前の北アメリカとユーラシア大陸が1つのローラシア大陸であったこと、南アメリカとアフリカがゴンドワナ大陸であったことを説きました。

しかし当時の地質学者たちは化石に基づく研究から彼が主張する大陸移動の根拠を上述の「陸橋説」で説明し、「大陸は沈む事はあっても動くことはない」として批判しました。

一方、大陸が移動する原動力は地球の自転による遠心力と潮汐力だと主張する彼の説明には矛盾も多く、これをうまく説明できなかったウェーゲナーの説は、またも完全に否定されてしまいます。実は第4版で彼はマントル対流にまで言及していたものの、これが大陸移動の原動力であると彼は気づいておらず、この点は残念でした。

ウェーゲナーはそれまでの実績から、気象学分野、とくに大気熱力学においては一人者といわれていました。しかし、それでだけでは満足せず、大陸移動説をもって地質学の分野でも認められようと一層の努力を惜しみませんでした。

このため、大陸移動の根拠を探すために、1906年に始めて訪れたグリーンランドで何度も探査を行い、第一次世界大戦をはさんで、ここに4回も遠征しています。

ドイツ政府も彼の実績には敬意を持っていため、援助を惜しんでおらず、このため1929年に行われた3度目の遠征の際には、この当時としては革新的なプロペラ駆動型のスノーモービルを使用しています。ふんだんな調査費用があったことの表れでしょう。

1930年に行われた4度目の、そして最後の遠征で彼は、同僚の気象学者フリッツ・ロエベと13人のイヌイット(グリーンランド人)を連れて9月に現地に乗りこみました。しかし、この年のグリーンランドの気象は荒れに荒れ、旅の間、温度はマイナス60℃に達しました。

この厳しい寒さでロエベのつま先が凍傷にかかったため、ウェーゲナーは12人のイヌイットとともに彼をキャンプに戻し、彼自身は一人のイヌイットともに現場に残り、調査を続けようとしました。

しかし、やがては食糧不足から橇を引いていた犬を殺して食べざるを得ないような状況にまで追い込まれました。最後にはキャンプに戻ろうとしたようですが、その後同僚のイヌイットとはぐれ、消息と経ち、戻ってくることはありませんでした。もう一人のイヌイットだけはキャンプ無事たどり着きました。

半年後の1931年5月12日に、ウェゲナーの遺体は発見されました。最終目的地とキャンプのちょうど中間地点でした。彼は晩年に至るまでヘビースモーカーであり、また心臓発作の持病を持っていたといわれており、おそらくは過労も加わったためにキャンプに帰還できるだけの体力が残っていなかったと推定されます。

冒頭でも述べたとおり、亡くなったのはちょうど50歳の誕生日の翌日と推定されています。
彼の墓は、遺体が発見されたグリーンランドのその場所にあります。大きな十字架が立てられ、その墓標には「偉大なる気象学者であった」と記されています。しかし、大陸移動説については何も触れられていません。

彼はこの最後の遠征に臨む直前、「大陸と海洋の起源」の最終版である第5版を用意していましたが、その死により、この版は未出版のままとなっています。

その後、上述のとおり、彼の死後この大陸移動説は世界中の人々に信じられるようになりました。ただし、彼の説は、海底面を構成する地層の上を大陸自らが滑り動くとするものであり、海底面もがその表面に露出する大陸を伴って動くとするプレートテクトニクス理論とはメカニズムが異なります。

しかし、「大陸が動く」というコペルニクス的な発想の変換がその後の地質学にもたらした
影響は大きく、とくに地震国である日本では、地震学の進展の上においても、この理論の導入は大きな恩恵をもたらしました。

その日本においては、このウェーゲナーの大陸移動説から発展したプレートテクトニクス理論は、戦前には既に紹介されていました。ただし、この時代にはまだやはり「異端の説」という扱いでした。

この時期にこの説を信じる地質学者はほとんどおらず、当然、科学雑誌などに掲載されることは多くなく、ほとんどフィクション上の話と思われていました。しかし、戦後すぐのころから広く認知されるようになり、それを知った医者であり漫画家の手塚治虫は「ジャングル大帝」(1950~ 1954年)の中で大陸移動説について描いています。

同作品のクライマックスは、大陸移動説の証拠となる石を発見するための登山であり、ヒゲオヤジがレオの護衛でその山、「ムーン山」に登る、というシーンでした。寒さのため凍死しそうになるヒゲオヤジのため、レオは進んで自らの死を選び、レオの毛皮で、なんとかヒゲオヤジは下山することに成功する、といった話だったようです。

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その後、日本では1960年代になって、主に地球物理学系の学者によって上記のマントル対流とともに紹介され、70年代には小学生向けの科学読み物も取り上げられるなど、広く知られるようになりました。また、その中ではとくに、1973年に小松左京が発表した小説「日本沈没」と同年公開のその映画版は、この説を普及させる上で大きな役割を果たしました。

ただし、このころにはまだ、地球物理学系の学者と地質学系の学者の間でこの説の受容に差があり、1980年代までの高等学校の地学の教科書では出版社によって扱いに違いがあったそうです。確か私が読んだ高校の教科書にはまったくそういった記述が抜け落ちていたような記憶があり、大学に入ってからそういう理論があることを知りました。

しかし、私が通っていた大学は理系であり、また海洋学を教えていたため、そういう先進の知識が得られたのであって、他の大学、ましてや文系の大学ではまだそうしたことは教えていなかったでしょう。

日本列島の形成史という地球規模の理論、および断層帯における地震の発生といったミクロに属する領域までもが大陸移動とプレート説に基づいている、とされる説明が日本で一般的に定着したのは、「付加体説」が受容された1990年前後のこと、といわれています。

付加体というのは、英語ではaccretionary wedgeといいます。海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の堆積物がはぎ取られ、「陸側に付加したもの」のことで、現在のところ「日本列島の多くの部分はこの付加体からなる」という見方がされています。つまり、プレートの端っこに乗った「おまけ」です。

1976年に九州大学の勘米良亀齢(かんめらかめとし)という地質学者が、南九州の四万十層を調査して、その構造を付加体と名付けたもので、この概念によって日本列島を形成する海洋起源の堆積岩や変成岩について、系統的な説明ができるようになるとともに、そこにある断層帯において自身が発生する、といったことがわかるようになりました。

欧米でもほとんど同時期にオックスフォード大学の地質学者、スチュワート・マッケローらがスコットランド地方の複雑な地質を調査して1977年に付加体構造に関する論文を発表したため、現在ではこの理論は世界的にも認知されるようになってきています。

紙面の関係でもう詳しいことは書きませんが、この考え方の基礎は、日本列島の周辺では、約3億年前から断続的に海洋プレートが沈み込んでおり、各年代において特徴的な地質構造を有し、日本列島の骨格を形成している、というものです。

そして、海溝から遠い大陸側(日本海側)のほうがより古い地層となっており、手前にある海洋プレートにおける沈み込みは、延々と太古から現在までも継続している、という考え方です。

現在においても東海地震や南海地震の震源とされる南海トラフにおいて、日々、フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでおり、またこの活動により、四国沖では新たな付加体が形成され続けています。

熊本地震だけではなく、現在も着々と日本の沖では新たな地震エネルギーが蓄えられつつあるわけです。

新たな震災に対する備えをくれぐれもお忘れなく。

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人体から宇宙へ

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DNAとは何か、と聞かれて即、デオキシリボ核酸(deoxyribonucleic acid)の略だ、と答えられる人はそう多くないでしょう。

中学校で習ったはずですが、多くの人が忘れていると思います。たしか、遺伝子のことだよな、と言う人もいるでしょうが、正確ではありません。

DNAとは、地球上の多くの生物において遺伝情報の継承と発現を担う「高分子生体物質」のことを指し、遺伝子とはそのDNA上に刻まれている「遺伝情報」を指します。

人間などの生物のもつ細胞の中にはそれぞれ核が存在し、その中には細長い二重らせん構造のDNAと染色体が絡み合うようにして存在しています。そしてその中で、「その生物を形作る情報」を特定して「遺伝子」と呼んでいます。

一般には「ゲノム」と呼び、すべての生物にあります。このうち、人のもののみを特定して「ヒトゲノム」と定義しています。人間を形作るために一人一人に設定された情報のことであり、いわばヒトの体を作るための設計図です

もう少し詳しく言うと、このヒトゲノムは、たんぱく質の造成とそれを組み合わせて体を作ることの指示のための仕事をしています。人間は各臓器ごとに異なる種類のたんぱく質を必要としており、その必要なたんぱく質の種類や配置を判別するための設計図と指示役をヒトゲノムが担っています。

こうしたヒトゲノムの情報がすべて解読できれば、人間のからだのしくみがより詳しくわかるだけでなく、いろんな病気の原因もわかりそうです。ヒトの細胞の中で、DNAと染色体中にどういうふうに並んでいるか、これを「塩基配列」といいますが、この全塩基配列を解析することでそうしたことを実現しようとするプロジェクトがかつてありました。

人間の遺伝子情報を解読しようとする計画であり、これはヒトゲノム計画(Human Genome Project)と呼ばれていました。1991年にスタートし、1953年のDNAの二重らせん構造の発見から50周年となる節目の年である2003年にその解読は一応、完了しました。

このプロジェクトは1990年に米国のエネルギー省と厚生省によって30億ドルの予算が組まれて発足したものです。15年間での完了が計画され、発足後、プロジェクトは国際的協力の拡大と、特に配列解析技術の進歩などのゲノム科学の進歩、及びコンピュータ関連技術の大幅な進歩により、まずその下書き版(ドラフト)が2000年に完成しました。

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このドラフトの完成は予定より2年早いものでした。プロジェクトが加速した一つの理由としては、この公的なプロジェクトとは別に、アメリカのバイオ企業、セレラ・ジェノミクス社による独自の商業的なヒトゲノム解読の試みがあり、同社はその事業に莫大な投資を行いました。

そもそもこのセレラ社の事業の目的は、より高速かつ効率的なDNAシークエンシング法(DNAの配列を調べる方法)の開発であり、それを産業化に向けて技術移転することにありました。

このため、同社は「ショットガン・シークエンシング法」という新しい遺伝子情報の解析方法を開発し、これによって加速度的に解読が進められるようになりました。

最終的にはこうして発見された遺伝子情報を特許化し、私物化しようとしました。がしかし、これとは別にヒトゲノム計画が既に公的資金によって進められており、ヒトゲノムを解読しようとする試みは同じでしたが、その成果の運用は、公と私ということで拮抗してしまいます。

このため、その成果を特許化し、一企業が独占するということに対しては大きな批判が巻き起こり、結果としては、セレラ社が折れ、その成果は全ての研究者が自由に利用できるようにするという合意が成されました。

この合意では、セレラ社側がポリシーを変更し、非商業目的の利用に関しては無料で配列を公開する、ということになりました。ただし、研究者がダウンロードできる配列の量には上限を設けるという制限がついていました。

現在に至るまでにはその上限も撤廃されているようですが、とまれ、2003年に完了したこのプロジェクトによってゲノム研究は著しく進展しました。

各国のゲノムセンターや大学などによる国際ヒトゲノム配列コンソーシアムによって組織されるようになり、これまでにワーキング・ドラフトを発表し、現在もその改良版の発表が継続して行われています。

こうしてヒトゲノムプロジェクトヒトによって解読されたDNA配列に関する情報は、今日では多くの分野に生かされています。

たとえば、マウスやショウジョウバエ、ゼブラフィッシュといった試験生物を用いた研究、あるいは、酵母、線虫、また数多くの微生物や寄生虫などのモデル生物の配列解析の成果といったものであり、これらは今後とも生物学と医学の発展に重要な役割を果たすことが期待されています。

今日では、ヒトのDNA配列情報はデータベースに蓄積され、インターネットを介して誰でも利用することができるようになっています。

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ただし、これらのデータは何らかの解釈を加えなければほとんど利用価値がありません。このことから、これらのデータを解析するコンピュータ・プログラムが数多く開発されています。たとえば、単純なDNA塩基配列の中から遺伝子の境界を特定したり、何らかの特徴を見出す技術は「アノテーション」と呼ばれます。

最高品質のアノテーションを行うには生物の専門家に頼らなければなりませんが、現在、アノテーションに用いられている技術として最も役立っているのは、人間の言語の統計モデルをDNA配列解析に応用したものだそうです。形式文法などのコンピュータ・サイエンスから導入した手法を利用しており、簡単にその意味が解釈できるといいます。

この技術を使って、たとえば微生物株の中から産業上有用な株を選定し、ゲノム解析を実施する、といったことが行われています。とくに、食品・健康・環境・エネルギーなどの産業において利用が期待される菌株について、大学・企業がそうした分析を行うようになりました。

かつてのヒトゲノム計画においては、2003年4月14日に解読完了が宣言されました。そう、今日がその記念日になります。この結果、この時点でのヒトの遺伝子数の推定値は3万2615個でした。

しかし、その後の解析によりこの推定値が誤りであることが判明し、新たな推定値は2万2287個であると2004年10月21日付の英科学誌ネイチャー に掲載されました。

ただし、実際の遺伝子数は個人差などにより多少の変動が見込まれるため、未解読の領域や重複領域等について解析が継続されており、2004年の報告以降も定期的に修正報告がなされています。

また、個人のゲノムにおいても父親と母親に由来する配列間でもある程度の差異があり、個人ゲノム配列の解析は医学研究に重要な意味をもつことから、2008年より1000人ゲノムプロジェクトも開始されています。このプロジェクトでは、異なる民族グループから少なくとも1000人分の匿名ゲノムの配列決定を行うことを目指しています。

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こうしたゲノム情報の解明は、上の微生物菌株への応用のようなバイオテクノロジばかりでなく、医学上の飛躍的な発展に貢献することが期待されています。やがてはガンやアルツハイマー病などの疾患の治療に役立つものになっていくでしょう。

かつては不治の病といわれた癌についての応用も既に始まっています。例えば、ある研究者が何らかのガンについて調査していく過程で、ある遺伝子に着目したとしましょう。

この研究者はインターネットに公開されているヒトのゲノム・データベースを訪れることで、他の研究者がこれまでにこの遺伝子について何を調査したのか、すなわち3次構造はどうなっているのか、どのような機能があるのかを調べることができるようになります。これにより癌の原因が特定され、その治療法が進むことが期待されているのです。

また、他のヒトの遺伝子との進化上での関係はどうなっているのか、酵母やマウス、ショウジョウバエと比べてどうなっているのか、有害な突然変異が起こる可能性があるか、他の遺伝子と相互作用するのか、どの組織で発現しているのか、関連する疾患は何か…などなどについても調査することができるようになりました。

このように、公開されているデータによって医学上において有用な情報の種類は多岐におよび、これはいわゆる「バイオインフォマティクス」と呼ばれ、近年、大きな注目を浴びるようになってきています。

日本語では「生命情報学」といい、生物学の分野のひとつで、遺伝子やタンパク質の構造といった生命が持っている「情報」と言えるものを分析することで生命について調べる、といった研究分野です。

この生命情報学において、特にゲノム学と関連して注目を集めている技術として「マイクロアレイ」というものもあります。「DNAチップ」とも呼ばれるもので、これはプローブと呼ばれる「遺伝子断片」が小さな板の上に規則的に配置されたもので、3万件以上の遺伝子について、同時にそれらのサンプル内における存在量を測定できるものです。

このマイクロアレイの技術を使ったもののひとつに「マイクロアレイ血液検査」があります。血液を使った癌の検査で、これはがん細胞がつくり出すタンパク質などを測定することでがんがあるかどうかを診断するというものです。

がんに対する生体反応を遺伝子レベルで捉えてがんの有無を判定する最新の血液検査で、遺伝子の発現変化を見ることでがんの存在を突き止め、発生部位や進行度までも分かるという、非常に優れた血液検査です。

こうしたゲノムの解読によって得られた技術はこれからの医学・科学向けの診断用ツールとしての可能性を秘めていることから、大きな関心を集めており、また、ヒトゲノム計画の結果として今後も数多くの技術がここから派生すると見られています。

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また、人間とその他の動物などの生物間でのDNA配列比較分析が可能となったことで、生物学においては新たな道が切り開かれており、現在では多くの生物学者が、とくに「進化」に関わる問題に関してこうした新しい分子生物学の手法を用いて研究を進めるようになってきました。

例えば、我々の細胞の中で、遺伝情報を読み取ってタンパク質へと変換する機構である「翻訳」のしくみなどが明らかになってきています。このほかにも「胚」の発生から各種器官への発達、免疫系がどうやってできるか、といったことまで分子レベルで関連付けて明らかにできるようになってきました。

こうした数々のプロジェクトのデータによって、今後はますますヒトとその近縁の種の違いや類似性に関する問題が解明されていくであろうと期待されています。

それにしても、ヒトゲノムは今後も新しいものが見つかったとしてもせいぜい30000~4000であると目されています。この数字は多いように見えて専門家からみれば、かなり少ないもののようです。

実は、このように少ない遺伝子からヒトの複雑な体や脳が構築されているという事実は、このヒトゲノム情報が開示された当初、科学者たちに大きな驚きと狼狽を与えました。

さらにその後の更なる研究によって、イネ科の植物の遺伝子がヒトよりずっと多いことや、下等生物と考えられていたウニの遺伝子の数がヒトとほとんど同じであることがわかりました。しかも70%がヒトと共通していることなどが判明すると、人間が遺伝子の数で他の生物より優位にあるはずだという予想は、間違いであることが確定的となりました。

このように、ヒトはほかの生物よりも劣っている部分もあるのではないかということが次第にわかってきており、なぜそうした他より劣っているのにもかかわらず、地球上の動物の頂点に立っていられるのか、などについては、まだまだ解明できていない、むしろ新しい疑問点が数多く出てきています。

ヒトゲノムの解読は終わったとしても、それが持つ意味の全てを理解したとは言えない、というのが現状であり、ましてや今後どのようにヒトが進化していくのかもわかっていないわけです。

昨今「地球温暖化」などの環境問題が叫ばれていますが、今後も何らかの環境の変化があった時ヒトはその環境に適応するため進化をするのではないか、という人もおり、その逆に今よりもさらに退化する可能性もあるわけです。

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はたしてヒトは猿人からの進化の頂点にあって、まだまだ進化する可能性はあるのかないのか?

しかし、温暖化についていえば、これによってすぐに進化が起きるのなら、アラスカのイヌイットとアフリカ人やインド人はすでに別の種に進化しているはずです。

ところが、この二つの民族は人種的な差異はあっても種としての差はありません。イヌイットがアフリカで生活することもアフリカ人が北極圏で生活することも十分可能だし、結婚して子供も作ることができるわけです。

これはなぜかといえば、生物の進化というものは数十年単位程度では顕著には現れず、もっと長いスパンで起こるためです。250万年ともいわれる人類の長い進化の歴史をみれば、温暖化がおこる程度の時間ではそうそう簡単には進化したり退化したりすることはないからです。

また、生物学的にみれば、人類は生物史的にはつい最近二足歩行に進化したばかりともいえ、進化したとはいえ、構造的に色々と粗だらけ、という風に見ることもできます。

たとえば腰の構造は、中途半端に四足動物の特徴を残しており、このためすぐに腰痛になります。また、足の小指は機能的にも構造的にも実に中途半端ですし、虫垂炎を起こす虫垂も、なんでそんなものがあるのかよくわかっていません。あまり存在意義がないものがヒトの体の中にはゴマンとあります。

これらの構造はこれからも変化していく可能性があり、また医療はこれからもどんどんと発達していきますから、それらが「淘汰圧」となって、進化に影響を与える可能性もあります。

人類は進化の過程おいて、何等かの環境変化が起こることによってひとつの「選択」をしますが、これが進化であり、その与えられる環境変化が「淘汰圧」です。医学がその環境変化であれば、それによって人類は新たな選択、すなわち「変化」をする可能性があるわけです。

もっともその「変化」は、このあと何千何万年もかけて起きる現象なのですぐに目に見える変化ではないでしょう。しかも、その変化が必ずしも進化であるとは限りません。退化である場合もあります。

その変化はあくまで淘汰圧による微妙な適応変化にすぎないので、それがはたして優れた存在への変化なのかどうかは、すぐには答えはでません。長い間経過を見た結果、実は退化だった、ということもありえるわけです。

例えば2000年前の人類に比べて現代人が知能が高いかと言うとそんなことはないようです。
古代ギリシャ時代の時点で現代でも最高峰の数学理論は完成されており、現代最高峰の数学者たちがこの時代の数学理論を解明しようとやっきになっています。地球の円周や直径はこの時代の人々の計算によって既に答えが出ていました。

もしかしたら、大昔の縄文人は現代の日本人よりよほど頭がよかったのかもしれません。頭脳に関していえば、言語能力や知能などの大脳系は向上していますが運動をつかさどる小脳の機能や五感の機能は低下しています。ほかにも、類人猿の骨格と現代人の手を比較すると、指の精密さを獲得したかわりに強靭な握力を失っており、これは退化といえます。

極端な話、環境次第では、今後人類が言語能力や知能を失って類人猿や四足動物へ進化していくこともあり得るわけです。ただし、それも何千万年単位のそれなりの時間がかかってわかることになりますが。

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ちなみに、生物学者がもっとも完成度の高い動物と認識している生き物はヒトではなく昆虫だそうです。あまりの生物としての完成度の高さは目をみはるものがあるとまでいい、「昆虫は宇宙人が作った地球征服用のロボットだ」なんてジョークもあったりするほどです。

今後の人類は自らを「自主的退化」させる可能性もあり、そうした時代には昆虫によって世界は支配されているかもしれません。自主的退化とは、私たちが人間としてもはや十分に進化したといえる地点まで人間の種を戻し、新たに再構築する、というものです。

人類は過去に悪行を繰り返してきており、地球環境を崩壊させてきました。これに対し、人類が文明を持つ以前の状態に一旦リセットすることで、人類自身や動物、惑星そのものの脅威となることを避けられるはずだ、というわけです。その究極のゴールは文明の終焉でありジャングルへの回帰であるわけであり、将来起こる得ることだと考えられています。

その論法でいけば、「自主的人類絶滅」という可能性もあります。こちらは、いっそ人類が滅亡してしまえば、地球の平穏は保たれるのではないか、というわけです。現在においてもすでに海外では「人類絶滅運動」を推奨する人々が活動中であるといいます。

組織の名前は「VHEMT」と呼ばれ、Voluntary Human Extinction Movementの略です。邦訳は「自主的な人類絶滅運動」であり、彼らは積極的に人類の繁殖を止めるような運動を展開中で、人類の種を減らし、やがて絶滅させることを望んでいるそうです。

そのスローガンは、「長寿は絶滅に至る」だそうで、自分たちこそが、「地球の生態系に対する無神経な搾取や大規模な破壊を防ぐ、選択肢を示している」と主張しています。少子高齢化が進み、長寿大国となっている日本は絶滅の道を歩んでいるといえ、いずれこの団体によって「モデル地区」に指定されるかもしれません。

こうして人類が滅亡したあとには、新たなるポストヒューマン(Posthuman)が現れるともいわれます。

無論、仮説上の未来の種ですが、「その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れていて、現代の感覚ではもはや人間とは呼べない」ものではないか、といったことがいわれているようです。

ポストヒューマンの形態として、人間と人工知能の共生、意識のアップロード、サイボーグなども考えられます。例えば、分子ナノテクノロジーによって人間の器官を再設計したり、遺伝子工学によって創られるものです。

こうした新人類は、精神薬理学、延命技術、ブレイン・マシン・インターフェース、進化した情報管理ツール、向知性薬、ウェアラブルコンピューティングなどの技術を適用したものである可能性もあります。

また、ポストヒューマンは、現在の人間の尺度から見て「神」のような存在になるとする考え方もあります。そう聞くと、SFによくあるような高い知能を持ったコンピュータのような存在形態を思い描くかもしれません。神のような人工知能を人々が崇めているような未来を想像するかもしれませんが、そういう意味ではありません。

ポストヒューマンの知性や技術があまりにも高度で洗練されているため、人間が見たらその意味を理解できないだろうという意味であり、現在のわれわれが想像だにしないような姿や形をしている可能性もあるわけです。

それにしてもどこまで変化(進化)したら人間はポストヒューマンになるのか? そしてその最終形はどんな形をしているのでしょうか。

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これについては、誰にも答えを出すことはできません。

あるいはそのポストヒューマンは、形などを持たず、現在我々が身にまとっているような肉体を捨てたエネルギー体のようなものなのかもしれません。

宇宙空間はこれまで真空や虚空と呼ばれていましたが、実は宇宙空間には現在科学の検出装置ではもみえない「ダークエネルギー」が蔓延している、ということが言われるようになってきています。それと同時にそのエネルギーの中に何等かの情報が内蔵されているのではないか、ということまで言われるようになってきました。

日本の研究者によって、幽霊素粒子といわれたニュートリノの質量があるのが発見されて以降、最近、素粒子に関する新発見が相次いでおり、これまで謎とされてきたものがこれからはさらにその正体が暴かれていくに違いありません。

従来、宇宙人といわれてきたものも、その正体もそうした研究の中から明らかになってくるのかもしれません。その形態としてもまさにそうしたエネルギーのようなものでできているようなものもいるのではないかという研究者も既におり、そうなるとこれはまさに「意識体」です。

そうしたものが宇宙に遍満しているとすると、あるいはそれは「宇宙意識」といえるようなものであるのかもしれません。

コンピューターサイエンスの概念で言えば、「クラウドコンピューティング」と似ています。このクラウドコンピューティングでは複数のコンピュータがグリッドや仮想化の技術で抽象化され、インターネット(雲)で接続されたコンピュータ群が巨大な1つのコンピュータになるというものです。

将来的にはそのコンピュータの一つ一つはさらに小型化が進み、究極の世界では素粒子のひとつひとつがコンピュータである、というようなクラウドコンピュータの世界もあるいは実現するかもしれません。そして、そうした時代には、そのスーパークラウドコンピュータに人間の意識をアップロードする、ということも普通に行われているかもしれません。

荒唐無稽な話かもしれませんが、将来的にはこうした進化したクラウド技術を使って、人間は自分の頭脳を仮想化させるようになっている可能性もあり、そうなるともう人間は肉体を必要としなくなるのかもしれません。

アップロードされたブレイン・データは時間の速さを調節することが可能なので、例えば新たな山や海が生まれ、それがなくなるという、地球規模の地形の変化、あるいは星々の誕生や滅亡すら見ることが可能になります。また、アップロードされたブレイン・データは体から体へ移動できるので、様々な外見の自分に遭遇することができます。

その「体」はもう肉体である必要はないわけで、あるいはロボットのようなものでもいいわけです。他にも、コンピュータ生成環境の基本的なパラメーターを変えることができるので、バーチャルな仮想空間や異次元空間を見ることができます。

これはもう、人を超えた新たなる人類であり、途方もない未来の人類シナリオといえます。こうして創りだされたクラウド世界は、文字通り雲のような宇宙意識の情報であり、古代から現在、そして未来へ受け継がれていく人類の叡智は、すべてこの中に取り込まれていく可能性もあります。

宇宙中に過去から蓄積されてきた生命力が満ち満ち、巨大な空間に存在する宇宙の至る所に存在する目に見えないエネルギーがある、という状態なのかしれず、これが、いわゆる「アカシックレコード」と呼ばれるものなのかもしれません。

宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているという記録層であり、人類だけでなく、元始からのすべての動物、植物、その他のすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念です。

そしてこの中に過去のあらゆる出来事、そしてこれから起こる未来の痕跡が永久に刻まれていくわけであり、ポストヒューマンの最終形とはまさにこうした宇宙意識との合体に違いありません。

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うつうつと春はゆく

1-destrict-7502昨日は、年始からちょうど100日目だったようです。

もうそんなか、と改めて月日の過ぎ行く速さを思って嘆息したりしているわけですが、まてよ、ということは、今日はさしずめ残る265日の初日ということになるわけで、いわば元旦です。

桜はもはや散りつつはありますが、代わって新緑が爆発的に外を埋め尽くし始めており、なるほどめでたい感じはします。

なので、わたくし的には、なんとなく2度目の正月気分を味わいたいなと思ったりしているのですが、この4月から就職した新社会人や新入生諸君は、それどころではない、といったところでしょう。

入社や入学して何がなんだかわからないまま過ごした1ヶ月後には待望の大型連休がやってきてほっとできるものの、そのあとにはまた同じ現場へ戻らなければならない、というジレンマがあり、それに対するストレスの中で体調を崩す人も多いようです。

いわゆる「五月病」というヤツで、やる気はあるものの、その環境に適応できないでいると人によってはうつ病に似た症状がしばしば5月のゴールデンウィーク明けから起こりはじめます。

私も経験があり、とはいえ、進学や社会人になったときばかりではなく、会社で長く経験を積んだあとも、しばしば5月になると憂鬱、といったことはよくありました。私がやっていた建設コンサルタントの仕事は、3月の年度末に納品となることが多く、それまでは猛烈に忙しイのが、4月になるとパタッと静かになります。

年末から毎晩のように残業をして忙しくなり3月に入ると徹夜をすることも多いほど激しい労働にさらされます。その忙しさが4月になると潮を引くように薄れていくわけで、無論、気持ちも楽になるわけですが、その分気が抜けたようになるのがこの時期です。そしてそれが一段落して新たなフェーズを迎える5月はやはりいつもいやなかんじでした。

この五月病のように、ストレスの原因、つまりストレス因子がはっきりとわかっており、それによって、ある時期に著しい苦痛が続く、といった場合には、精神面での機能の障害が起こっていることも多く、医学的にはこれは「適応障害」というようです。

「うつ病」まではいかないにせよ、軽いうつ病状態であり、一方ではそのストレスが除去されれば症状が消失する特徴を持つ精神障害とされます。従って、「五月病」というように「病」という文字がつくのは確かに医学的な根拠があるわけであり、誰しも発する症状と考えていいようです。

発症に至る例としては、今春に生活環境が大きく変化した者の中で、新しい生活や環境に適応できないま、ゴールデンウィーク中に疲れが一気に噴き出す、長い休みの影響で学校や職場への行く気を削がれる、というわけで、ゴールデンウィーク明け頃から理由不明確な体や心の不調に陥ります。

主な症状としては、抑うつ、無気力、不安感、焦りなどが特徴的な症状であり、そのほか不眠、疲労感、食欲不振、やる気が出ない、人との関わりが億劫になる、といったものです。

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一方、その対策としては、やはりいったん職場や学校を離れて気分転換をし、ストレスの解消に努める、といったことが一番のようです。

学校を出たばかりの新社会人の場合は、中学校や高校など、以前の環境の友人と会うのも良い、といわれますが、これは過ぎし日の楽しいことを思い出しストレスを解消する、という意味もあるでしょう。が、同じく学校を出て頑張っている友達の様子をみて、自分も頑張らなきゃ、と思えるようになるから、ということもあるのではないでしょうか。

私自身の経験を言わせてもらうと、こういうときにはいたずらに逃げず、直面している問題にむしろ立ち向かう、といったほうが早く適応障害からは脱せたように思います。だからといって頑張りすぎるのではなく、その立ち向かいの中で冷静に問題点を見つけ、その解決方法を自分なりに熟考する、といったことが効果があったように記憶しています。

しかし、こうした五月病に似たような症状というのは、1年に一度起こるだけでなく、週明けなどの休み明けにも起こりうります。

「サザエさん症候群」というのだそうで、日曜日の夕方から深夜、「翌日からまた通学・仕事をしなければならない」という現実に直面して憂鬱になり、体調不良や倦怠感を訴える症状です。

名前の由来は、「サザエさん」の放送が、通常日曜日の終わりにあることです。ほとんどの地域のフジテレビ系で毎週日曜日18:30 – 19:00に放送されていることから名づけられました。

日曜日の夕方にはほかにも「笑点」などもあり、「笑点症候群」でもよさそうなものですが、朝早く仕事が始まる職業に就いている人などでは、笑点のあと放送される「サザエさん」が終われば、あとは風呂に入って寝る、という人も多いわけです。

45年を超える長寿番組であり、世代にかかわらず認知度が高く、放送開始時刻・終了時刻が固定されており、プロ野球中継などで放送休止になる例が非常に少ないことから、日曜夕方の代名詞となったといわれます。

この症例については身に覚えのある人も多いことでしょう。日曜日の終わりごろにこのサザエさんをみるあたりから、休日の終わり、明日からの仕事の始まりを実感し、憂鬱になる、という人は多いに違いありません。症状はやはり5月病と似ており、ごく軽度のうつ病、つまり適応障害です。

実は「サザエさん」以外の番組でも日曜の終わりを連想させる他の何かでも、同様の症状が起こりうるそうで、上の「笑点」もそうであり、「大河ドラマ」や「日曜洋画劇場」「日曜劇場」などを見て憂鬱になる人いるようです。夜遅くまでテレビを見ている人は「情熱大陸」あたりでようやく明日の仕事を思い出し、気分が落ち込むという人もいるようです。

当のサザエさんにしてみれば、明るいキャラクターでお茶の間に笑いを届ける、という役割を担っているだけに不本意でしょう。が、この症状を持っている人にすれば、サザエさん一家がドタバタ騒ぎを起こすたびに、その一挙手一投足が明日からの仕事と関連づけられてしまって、あ~ぁと溜息をついたりするわけです。

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そんならいっそのこと見なきゃいいじゃん、と思うわけですが、家族だんらんの夕方の時間帯に自分だけサザエさんを見ずに、ひとりでぽつねんといるのもおかしい、というわけで自分の意思とは別についつい家族につきあってしまいます。

こういう軽いうつ病も含めて、いったいこの世にはどのくらいうつ病を患っている人がいるのか、といった統計はないか調べてみましたが、そういうものはないようです。ただ、医者からお前はうつ病だ、と明らかに精神障害だと診断された人は世界中で3.5億人はいる、という統計データもあるそうです。

「障害調整生命年」という指標があり、これは普通の人なら正常に生きることができたはずが、病気や障害、早死などによって残る人生がどれだけ奪われたかを示すもので、ようするに「失われた年数」を意味するものです。

それによれば、いろいろな病気がある中でうつ病は、堂々にその第3位に入っているそうで、一番の癌((25.1年)、心臓病 (23.8年)に次いで、17.6年だそうです。まさに世界的な疾病といっていいでしょう。しかもWHOはうつ病の未治療率を56.3%と推定しているそうで、かなり治りにくい病気でもあるようです。

しかし、ひとことにうつ病といっても、その症状はいろいろあって複雑です。他の精神障害と同様、原因は特定されていないため、原因によってうつ病を分類したり定義したりすることは現時点では困難といわれており、上の五月病やサザエさん症候群の定義もまた確固たるものではないようです。

ただ、「精神障害」と言われるようなうつ病は、「大うつ病性障害」として扱われ、ここまでひどくなった人というのは、1日のほとんどや、ほぼ毎日、2、3週間は抑うつであり、さらに著しい機能の障害を引き起こすほど重症です。

なので、それに比べれば五月病や週末病はとるに足らないもの、と考えてもいいかもしれませんが、症状が悪化すれば大うつに発展する可能性もあるわけで、やはり日ごろから注意するにこしたことはありません。

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とはいえ、自分は病気だ、と思い込む必要はありません。五月病などのストレス以外にも失業、離婚といった人生におけるストレスは、正常な悲観反応として、軽症のうつ病と同じ症状を呈します。しかし、それは「理解可能」な出来事であり、過剰な診断と治療は避けるほうがむしろいい、ということがいわれているようです。

「精神障害の診断と統計マニュアル」といううつ病であるかどうかを判断するマニュアルがあるそうで、それによれば、こうしたよくあるストレスや喪失のほか、経済破綻、災害や重篤な病気などへの反応といった、予測可能な反応によって引き起こされるうつ病もまた精神障害ではない、とされています。

さらに、同マニュアルには、うつ病の診断基準の注釈においては、愛する人との死別によって人生を見失う、といったケースですらも、理解可能な、正常な反応である、とまでか書かれています。

これは肉親の死などによって落ち込み、重度なうつ病だと思い込んでいる人ですらうつ病とは診断されない、ということであり、それほどシビアなケースでも自分は病気だ~もうダメだーとばかりあまり深刻に考えすぎないほうが良い、ということなのでしょう。

ほかにも抑うつ症候を引き起こすようなライフイベントや人生の転機はたくさんあります。出産、更年期障害、金銭的問題、仕事上の問題、病気、いじめ問題、失恋、自然災害、社会的孤独、人間関係の問題、嫉妬、隔絶、深刻な外傷などなど、人生はストレスだらけです。

そのたびにうつになっていてはキリがないし、病気がちだと思って送る人生では何のための人生なのかはわからなくなってしまいます。うつは病気に違いない、というこれまでの風潮を改め、ごく軽い精神的なトラブルだと考えて対処していくことがこれからは求められているのではないでしょうか。

以前このブログでも紹介したことのある、「病気が教えてくれる、病気の治し方」の著者(柏書房、トアヴァルト・デトレフゼン&リューディガー・ダールケ)は、うつ病とは、人が罪の意識を強く感じ、自分自身を非難し、状態を改善しようとたえず努力している状態だといいます。

うつ病(depression)は、ラテン語で「抑制する、押し下げる」という意味だといいます。

では、何を抑圧しているのか、どうして落ち込むのか、ですが、著者はその答えは3つあるといっています。

ひとつは攻撃性。

うつにかかりやすい人は、ときに外に向けられなかった攻撃性を内側に向かわせ、自分自身に向けることが多いといいます。攻撃性とは実は生命力と行動力が特殊な形になったものであり、攻撃性を抑圧すれば、行動力やエネルギーも抑圧することになる、といいます。

医者はこうした状態にあるうつ病患者をとかく何等かの行動に駆り立てようとしますが、これは逆効果で患者はまさに、そうした「行動」を恐れているわけです。

こうした人は、世間から評価されないことをことごとく避け、非の打ちどころのない生活を送っている、というポーズをとりたがります。が、実は行動したくないだけであり、行動することによってそれが外部に対して攻撃的で破壊的なインパルスを与えることを恐れ、それを隠そうとしている状態です。

たとえば新人の場合、本当は自分自身の力を示したい、思う存分先輩と張り合って仕事をしたい、というイメージを抱くわけですが、その反面、いやいやまだその力は自分にない、今はまだ行動するときではない、と思うわけです。

このため、職場や学校では猫をかぶり、優等生であろうとする状態であり、そういう自分を出せない「嫌な自分」への気持ちが高ぶった末、逆に自分への攻撃、という状態が現れてきます。

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ふたつ目は「責任」です。

うつ病とは責任拒否の最たる形です。うつ病にかかった人は行動せず、なりゆきに身を任せようとします。積極的に生きているとはいえないような状態です。

ところが、このように人生と積極的に対決することを拒否しているにも関わらず、ときに責任がいや応にも降りかかってくる場合というのは往々にしてあり、こうしたときに逃げることに罪の意識を感じます。そして、こういう人はその罪の意識という、家の裏口からこっそりとやってくる脅威に心底おびえます。

責任をとることへの心配は、とくに新入社員や学校に入りたての学生など、人生の新しいフェーズに直面した人におこりやすいといいます。

まだまだ学生気分、あるいは前の初等教育の場での甘えの気分が抜けきらず、自分が責任をとる、ということに臆病な状態です。入って間もない自分に責任が取れるわけはない、それほど成長してないという自分が嫌なわけですが、そう思うこと自体が罪の意識につながっていきます。

あるいは明日は月曜日というサラリーマン。先週まではなんとか繰り合わせて仕事をこなしてきたものの、来週から始まる仕事ではさらに新たな責任が生まれる、しかしそれに自分は対処していける自信がなくて不安、できるものならば誰かに変わってほしい……というわけです。

こうした状態はまた、女性などでも、はじめて子供を産んだあとなどに、その生んだ子供への責任感から生じるといいます(いわゆる、産褥うつ病)。自分みたいな未熟な母親が本当に子どもを育てられるのだろうか、という気持ちが、せっかく生まれてきてくれたのに申し訳ない、という子供に対する罪への意識につながっていくのでしょう。

三つ目は、あきらめ、孤独、老化、死、です。

この4つの概念はたがいに関わりの深いことが多いものです。とくに残りの人生が少なくなった人は、その孤独な人生に悲観してうつ病にかかることも多く、生とは相対する死といやでも向き合うことになります。年老いた人には、他人とのコミュニケーションがなくなって、無気力、硬直化し、死への思いがつのってくる人も多いものです。

生命への不安と死への不安が同じくらい強く、それが葛藤になります。活動的な生活には責任が伴うものですが、まさにそれがいやなわけです。責任をとるということは、実は生への執着を捨てるとともに、残る人生における孤独を受け入れるということです。

ところがそれができない人は、孤独や死を怖がり、しがみつくことのできる相手を必要とします。そして、ときに、そうしたしがみつける相手との別離がうつ病のきっかけにもなったりもします。

ひとりっきりになるということは誰にも責任を押し付ける相手がいなくなるということであり、他人にしがみついてきた人は、その人を失った結果、自分ひとりで生きて責任をとるのがいやになります。

死が怖いうえに、生きていることの条件がわからない。生きることも死ぬこともできない状態であり、これがうつ病を助長するわけです。あきらめ、孤独、老化、死、そのすべてを受け入れ、しかもそれらがすべてつながっている、ということを理解することだけが、うつのラビリンスから抜け出す唯一の方法です。

……どうでしょう。

原文がわかりにくいのでかなり意訳しましたが、うつ病の「メカニズム」がわかった気になりませんか?

これから5月を迎えることになり心配な新人諸兄、週明けが怖いみなさんも、何が自分を押さえつけているかをいまいちど深く考えてみてはいかがでしょうか。

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靖国

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先日、一人息子君の大学の卒業式があり、九段下の日本武道館に行ってきました。

式は滞りなく終わり、午後は卒業生のみで懇親会行われるとのこと。この会に出席できない我々父兄は、当の本人と記念撮影をしただけで、あえなく、その場で解散となりました。が、せっかくだから、これまで参拝したことがなかった、隣接する靖国神社に詣でようと、二人でランチを済ませた後、参拝に向かいました。

同じく九段坂の坂上に東面して鎮座し、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀るあの神社です。一昨日桜の開花宣言があったばかりですが、この神社の境内にある標本木がその開花宣言の指標になっていることはみなさんもご存知でしょう。

元来は「東京招魂社」という名称でした。

その昔、平安時代の中頃から「招魂祭」というものが民間で行われるようになり、やがて貴族社会にも浸透しましたがそれに由来する名前です。人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていました。

このほか、病気やお産などの際にも魂は身体から遊離するとされ、このように体から離れていった魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行ったのが招魂祭です。生者に対して行う祭祀であり、もともとは死者に対して行うことは禁止されていました。

一方、死者・生者に対する神道儀礼は「鎮魂祭」と称されて区別されていました。鎮魂とは、「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式であり、魂を外から揺すって魂に活力を与えることで、これを「魂振(たまふり)」ともいいました。

こちらは、宮中で「新嘗祭」の前日に天皇の鎮魂を行う儀式でした。この新嘗祭とは皇家における収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する、というものです。

片や、前日の鎮魂祭は太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われる儀式であり、新嘗祭と同じく太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期に行われます。太陽の日が弱まるということはすなわち天皇の力も弱まることになるため、新嘗祭という重大な祭事に臨む前に、弱くなっている天皇の霊力を強化するわけです。

以後、長い間、この鎮魂祭は皇室で受け継がれ、現在も行われていますが、この「鎮魂」という言葉は天皇家の間では毎年の儀式で使われてきたのに対し、もともと民間信仰から出た行事である招魂祭に基づく「招魂」という言葉は長い間あまり日の目を見ることはありませんでした。

招魂の儀式はもともと民間の儀式ですが、江戸時代ころまでにはかなり衰退し、江戸幕府が管理していた天文道、暦道である陰陽道などに啓示されていた行事の中にも入っていません。

というのも、もともとこの儀式は朝鮮人が行う儀式である、と考えられたためのようです。招魂とは、元は朝鮮から入ってきた概念であり、彼の国では彷徨える御霊を招き、この世での未練を断ち切らせ、あるいは自分の肉体が既にこの世には無いことを教え、死者の国(常世の国あるいは黄泉の国)へ行かせる儀式と考えていました。

それが平安の時代に入り、日本にも入ってきて民間にも定着しましたが、上述のとおり、日本には皇室を中心に鎮魂という考え方があったため、招魂はオフィシャルにはなれませんでした。

ところが幕末になって、急にこの招魂祭と言われるものが広く行われるようになりました。そのきっかけは、実は、明治天皇の父、前の天皇である孝明天皇が謀略で殺害されたためだったとする説があります。

孝明天皇は、もともと攘夷運動に熱心で、西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な天皇でした。また、晩年には公武合体に傾き、これに批判的な薩長の要人たちからは、できれば排除したい対象となっていきました。

孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていましたが、それ以外では至って壮健であったといわれています。ところが、慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして満35歳で突然崩御。死因は天然痘と診断されました。

その死の直後から、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していきます。こうした状況などから、その死因に対する不審説が漏れ広がっていきました。現在に至るまでこの他殺説は根強く、研究者たちの間では議論が続いています。

このとき、孝明天皇を暗殺した中心人物こそが三条実美、伊藤博文 西郷隆盛ではなかったか、とする説もあり、このほか彼らは李王家の家臣を祖とする派閥だったとする奇説もあります。謀略で殺した孝明天皇の招魂が必要だと考えた朝鮮系の彼らは、その魂を招魂して、無事にあの世に旅立たせ、明治の時代を安穏にしようとした、というわけです。

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真偽はともかく、ここで、長らく埋もれていた招魂という言葉が改めて世に出るようになります。日本で初めての招魂社は、「櫻山招魂場」と呼ばれ、これはその当時の長州、現山口県下関にあることから、朝鮮にも近いこの長州を基盤に全国に広まっていったと考えられます。

ちなみに、この神社は慶応元年(1865年)8月創建で、現在も「櫻山神社」と呼ばれ、現存しています。私も行ったことがありませんが、グーグルマップをみると、下関駅から北へ1.5kmほど離れたところにあり、ストリート・ビューで見ると、確かに入り口の鳥居のそばに「櫻山招魂社」と書かれた石碑が立てられています。

こうした長州での動きに連動して、戊辰戦争終戦後の1868年(慶応4年)明けには、東征大総督、有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(朝廷方)将校の招魂祭を江戸城西丸広間において斎行しました。また、同年春、太政官布告で京都東山(現京都市東山区)に戦死者を祀ることも命じました。この招魂社が現在の「京都霊山護国神社」です。

さらに同年夏、京都の河東操錬場において神祇官による1853年(嘉永6年)以降の殉国者を慰霊する祭典が行われるなど、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設として、各地で招魂社創立の動きが出てくるようになります。

それらを背景に大村益次郎が東京に招魂社を創建することを献策すると、明治天皇は即座にその勅許を出しました。これを受けて1869年(明治2年)に、現在の九段下の地に招魂社創建が決定され、ここに、「東京招魂社」として現在の靖国神社が竣工しました。ただし、創祀時は未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣工したのは1872年(明治5年)のことでした。

同年8月には、皇室付きの五辻安仲(いつつじ やすなか)が勅使として差遣され、時の軍務官知事、「仁和寺宮嘉彰親王」を祭主に戊辰の戦没者3,588柱の合祀鎮祭が、この出来たての招魂社で執り行われました。

その後、その名称は靖国神社へと変わりましたが、「靖国」の名は、明治天皇の一声によって改称されたものです。この「靖国」は中国の古典「春秋左氏伝」に出てくる「吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としています。

明治天皇は「招魂社」という名について、「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」と唱えたといわれます。どういう意味かというと、「招魂」は臨時・一時的な祭祀を指し、「社」は恒久施設を指すということであり、明治天皇は招魂社の中に二つの意味が含まれることに矛盾があると考えたようです。

こうして靖国神社への改称が1879年(明治12年)に行われ、以来、東京では招魂社というよりも靖国の名のほうが親しまれるようになっていきます。

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ところが、地方では招魂社という名前の神社が多数残りました。それまで明治政府はこうした招魂社の創立には官費を支給していました。しかしあまりにも招魂社創建の出願が増えたため、その数を制限することとし、1901年(明治34年)には官費支給対象の招魂社には「官祭」を行うことを義務付けました。

一方、支給対象外の招魂社は「私祭招魂社」と呼んで区別しました。しかし、その後の日清・日露戦争後もさらに私費による私祭招魂社創建の出願が増えたため、内務省神社局は1907年(明治40年)に「招魂社創建ニ關スル件」を内務省通達として発し、さらに細かく招魂社の設置基準を定めました。

そしてその中で、真の招魂社の祭神は靖国神社合祀の者に限る、ということにしました。これによってその創設に制限を加えて抑制したわけですが、にもかかわらず、1931年(昭和6年)に満州事変、1937年(昭和12年)に支那事変(日中戦争)が勃発すると、戦没者の霊を郷土で祭りたい、招魂社を建てたいという要望が各地でさらに高まりました。

このため、さらに1939年(昭和14年)にも「招魂社ノ創立ニ關スル件」をこのころ創設されていた「神社局」の名で通達し、一部の例外を除いて各道府県に招魂社は1社のみ創立を許可する、という厳しい制限を加えました。

また、同じく同年に「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年)を内務省通達として発し、それまでの公認招魂社の名を「護國神社」と改称、それまで曖昧だった神社としての制度を明確にしました。

この「護国」の名称は、1872年(明治5年)の徴兵令詔書の一節「國家保護ノ基ヲ立ント欲ス」や、1882年(明治15年)「軍人勅諭」の一節「國家の保護に尽さば」に基づいています。祭神の勲功を称えるに最も相応しく、既に「護国の英霊」といった用語が広く用いられていて親しみも深い、との理由で採用されたものです。

こうした一連の改革により、招魂社改め、護国神社の総数は、1939年(昭和14年)4月時点で131社にまで減りました。詳しい統計は残っていませんが、おそらくはそれまでは1000、あるいはそれ以上の招魂社があったものと考えられます。

ただ、こうして現在に至るまで残る各地の護国神社の祭神は靖国神社の祭神と一部重なるものの、必ずしも靖国神社から分祀された霊ではなく、独自で招魂し祭祀を執り行っているものも多くあります。そのため、公式には、各地にある護国神社は「靖国神社とは本社分社の関係にはない」とされているものも多いようです。

しかし、共に「英霊を祀る」とする靖国神社と護国神社とは深い関わりがあり、各種の交流もあります。主要な護国神社52社で組織する全國護國神社會は靖国神社と連携し、英霊顕彰のための様々な活動を行っています。

なお、沖縄県護国神社では沖縄戦で犠牲になった一般住民、遭難学童及び文官関係戦歿者も祭神として祀られています。また、広島護国神社では原子爆弾の犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒、女子挺身隊員も祭神として祀られています。

このように、靖国神社にせよ、護国神社にせよ、亡くなった戦没者の魂を慰霊する、というのは尊いことです。しかし亡くなった魂というのは、何も幕末から維新、またその後の戦争にかけてのみ生じたわけではなく、古くは平安の時代から戦国時代に至るまで多数の魂が失われてきているわけであり、幕末以降の魂だけを祀るというのは、そもそもヘンな話です。

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ところが、靖国神社や護国神社の多くはこれを「幕末以降の動乱で亡くなった人」、と限定つきでこれを祭神にしてしまいました。幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、1853年(嘉永6年)のペリー来航、いわゆる「黒船来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等のすべての戦没者がそれです。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになりました。

この「英霊」という語は直接的には幕末の水戸藩の学者、藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来します。

藤田東湖は、日本古来の伝統を追求する「水戸学」の提唱者であり、その「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となりました。

本来は他者を救うために亡くなった人々全般に対する敬称ですが、大日本帝国憲法体制成立後は公式には天皇の命令に従い戦って戦死した者を指すようになりました。

やがてそれまでは靖国神社や各地の護国神社に祀られている戦没将兵を「忠魂」・「忠霊」と称していたものをも、人々はこの国粋主義者的な用語を知ってか知らずしてか(おそらくは知らずして)、「英霊」という言葉で呼ぶようになっていきます。

ところが、太平洋戦争敗北以降、政教分離政策の推進により靖国神社は国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなりました。護国神社も同様です。当然、戦前の軍国主義を思わせる「英霊」という用語も失われていくかと思われました。がしかしこれを存続させようという人々も多く残りました。

とくに敗戦を契機に成立した日本国憲法に対しては、その発布の直後からこれを否定し敗戦以前の政体を復活させようとする動きがすぐに出始めました。その中で、1947年11月には「日本遺族厚生連盟」が発足、1953年には日本遺族会へと発展しました。

現在に至るまで「英霊」の顕彰と慰霊に関する事業、戦没者遺族の相互扶助、生活相談に関する事業などを実施している法人であり、この遺族会は、現在でも靖国神社など特定の宗教団体と密接な関係があるとされています。

こうした「英霊」の復活の動きは、政教分離政策によって切り離されたはずの靖国神社の国家管理を復活させようとする動きと合致する部分も多かったようです。これすなわち、現日本国憲法体制の否定にもつながる、というわけであり、当然こうした解釈は日本国憲法を守るべきとする立場の人々には認められるものではありません。

このために、長年、政治的・思想的な論争の対象となってきており、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等起こるたびに、批判とそれに対する応酬が繰り返され、様々な問題が生じています。

また、戦争被害を受けた、という主張をしている中国や韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に、これを猛烈に批判、反発しています。

これに対し、満州国や朝鮮半島一帯は第二次世界大戦時には日本領であり、そもそも日本と交戦関係になかったとし、中国や韓国が「戦争被害」にあったとする事実はない、と主張する日本人もいます。が、無論、そんなのは屁理屈にすぎません。

こうしたことから、1985年の中曽根康弘首相、2001年の小泉純一郎首相の公式参拝は日本国内や中国・韓国との間で問題となり、国内では公人の公式参拝が政教分離原則など憲法違反かどうかを確認する訴訟も行われました。このほかにもこれまで11人の首相と多数の閣僚が参拝していますが、これらの是非もともに問われるようになりました。

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こうした靖国神社参拝に対する反対者の主な意見としては、彼らは戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているというものです。戦前の軍国主義を象徴するような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社が主張する第二次世界大戦に対する歴史観を公的に追認することになるという主張です。

靖国神社が主張しているという、この「歴史観」の中心になるものは、言うまでもなく、戦没者の「英霊」を祭神として祀るということですが、これを言い換えるならば、すなわち「軍神」という考え方です。

靖国神社の境内には、本殿に隣接して「遊就館」という、合祀された「英霊」の遺品や資料、戦争で使用された兵器などを展示する「戦争博物館」がありますが、この中の展示物の説明文の中にはふんだんにこの「軍神」という言葉出てきます。勇猛な戦死者の美称として古来から使われてきましたが、戦争を美化する用語の最たるものです。

こうした戦争必肯論の賛同者はよく、アメリカの公式儀礼の様子を引き合いに出します。アメリカも日本と同じく政教分離が原則となっていますが、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてます。しかし、これが問題になったことは一度もない、というわけです。

同様に、もともと靖国神社は古来からある神道に基づき建造された神社であり、しかも国家のために殉難した人の霊を祀るための国策でできた神社なのだから、諸外国からも文句は言われる筋合いはない、と彼らは主張します。

しかし、殉難者を祀るというのは理解できますが、靖国神社は明治の創建以来わずか150年弱しか経ておらず、伊勢神宮や出雲大社のように、文字通り日本の歴史そのもののような神社とは同列に扱って議論することはできません。

そうしたいわば底が浅い神社に、なぜか政治家は執着したがります。とくに自民党の議員・閣僚などは、公人としての靖国参拝を批判されると、「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という主張を繰り返しています。

公人であっても、戦争で亡くなった御霊を慰霊する気持ちは一般人と変わりない、というわけで、人権的な観点からも私人の側面を強調視しており、「個人の信仰や信念も尊重されるべきである、と言っています。参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」とも。

これはある種正しいといえるでしょう。個人としてふるまっているわけであるから、とやかく言われる筋合いはない、というわけです。公人だってゴルフに行くことがあり、これがとがめられているわけではありません。

しかし、これらはあくまで個人の意見にすぎず、その個人を包含する与党である自民党ですら、このように靖国神社に参拝することを是とするか非とするかについては党としての公式見解を出していません。これは民主党(民進党)も同じです。この二つの政党に属する議員の中には賛成派も反対派もいます(公明、共産は基本的には反対)。

ところが、この靖国神社に合祀されている「戦犯」の扱いについて、日本の国会は、靖国神社に合祀されている、国内・国外の軍事裁判で戦犯として有罪判決を受けた者も、国内法では犯罪者ではないと決議してしまっています。諸外国からこの「戦犯」とされる人々が合祀されていることを批判されているにもかかわらず、です。

戦犯の国内での扱いに関しては、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていませんでした。

しかし、1950年代には、国内外で収監されている戦犯の赦免や減刑に関する国会決議が相次いで採決され、1952年(昭和27年)、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達されました。

これにより、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われるようになりました。つまり、国内においては、第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所で有罪となった人々の復権は正式に認められたわけです。従って靖国神社に祭られているすべての「英霊」についてもその存在を認めた格好です。

ただ、「戦犯」という汚名の名誉回復については「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」としています。この戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、現在に至るまで歴代の政権は判断を避けています。

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このように、なにやら非常にもどかしい「政治的判断」の上に、現在に至るまで靖国問題の議論は続いてきているわけです。ただ、上述のとおり、靖国神社は国家管理を離れた一宗教法人となっており、日本政府との直接的な関係はない、とする点だけは明らかです。

しかし、裏返せば、これはすなわち、政府とは関係はないが、その存続に対してもは否定していないということにほかならず、またその存在を認めているということは、そこに合祀されている、かつて戦犯とされた人々をも含めた「英霊」の存在を認めている、ということになります。

こうしたあいまいさが、諸外国を怒らせているわけであり、判断があやふやな状況のままに歴代の閣僚や議員が、繰り返し繰り返し、靖国に参拝することがまた新たな批判を浴びています。

国民の間においても、肯定派と否定派がそれぞれ多数おり、「英霊」という「神」、あるいは考え方を認めるのか、また閣僚による公式参拝を認めていいのか、ひいては靖国神社の存在の是非は、と現在でも国を二分するほどの大議論となっています。が、それにもかかわらずなかなか解決の道は見えてこないようです。

私自身の意見を言わせていたただくと、そもそも「神社」という呼称でありながら、そこに人が「神」として祀られている、ということ自体がおかしいと思います。

たしかに、神道においても「人物神」という考え方があります。いわゆる、御霊信仰(ごりょうしんこう)というものであり、これは、人々を脅かすような天災や疫病の発生は、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖したところから来ているものです。

これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとしたのが日本古来からある「人物神」信仰のはじまりと考えていいでしょう。

古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王といった奈良時代の貴族、皇室関係者などは亡霊になったとされ、こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこりました。これが御霊信仰です。

大宰府に左遷されて非業の死を遂げた菅原道真もその一人ですが、こうして死して怨霊となるというのは、それなりの理由があって怨霊になるのであって、その根本は「意趣」を返すためです。古代から中世の一般的な認識としては怨霊というものは非業の死、恨みによって生まれるものと考えられていました。

このため、平安時代から鎌倉時代にかけては崇徳上皇・藤原頼長(宇治の悪左府)、安徳天皇、後鳥羽上皇・順徳上皇、後醍醐天皇などが怨霊となったと怖れられ、朝廷や幕府は慰撫や慰霊のために寺社を立て続けに建立しています。

こうして考えると、確かに戦争で亡くなった方々の多くの死も同じく非業の死であったかもしれません。しかし、そうして戦争で亡くなったことに対する「意趣返し」のために怨霊になるとは考えにくく、これを祀るために社を建造する、というのは古来から伝わっている御霊信仰の思想からみてもおかしな話です。

従って、戦争で亡くなった戦士を「護国の英雄」として、死後賞賛の対象となるような人物神として扱って祭祀することはそもそもの神道教学上からも間違っているということになります。

また、靖国神社では、戊辰戦争・明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊や新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となっています。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外です。郷軍戦死者・刑死者は鹿児島市の南洲神社に祀られています。

戊辰戦争以前の幕末期において、日本の中央政府として朝廷・諸外国から認知されていた江戸幕府によって刑死・戦死した吉田松陰・橋本左内・久坂玄瑞らも「新政府側」ということで合祀されているばかりか、病死である高杉晋作も合祀されています。

さらに、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中には文民が含まれています。加えて、軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者が対象で、戦闘に巻き込まれたり、空襲で亡くなった文民・民間人は対象外です。

唯一の救いは、「軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者・戦犯裁判に於ける死者」であれば、民族差別・部落差別等の影響は一切無い、という点であり、これは評価できます。

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このほか、靖国神社はその創建当初、主に長州人を中心に建立されたことも気になります。戊辰戦争で賊軍とされて戦死者が靖国神社に祭られていない会津藩士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と述べています。

そもそも明治天皇に東京招魂社(靖国神社)の建立を進言したのは、事実上の「日本軍」の創設者であり、長州出身の元勲、大村益次郎です。現在の靖国神社の参道には、一番目立つところに彼の銅像が立っています。

彼は純粋なる「兵学者」であり、国学や神道に傾倒するといった「文学的」な性格は持ち合わせていなかったようです。が、維新を通じて数多く亡くなった母国長州の数多くの同志の魂をどうしても慰霊したい、という思いがあったのでしょう。しかし、「最高軍司令官」の立場を利用して、そうした葬祭事を天皇に進言した、と批判されても仕方ありません。

このほかにも、靖国神社への合祀には多数の矛盾があります。

明治維新の功労者であっても後に叛乱を起こした西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていない、乃木希典、東郷平八郎といった著名な軍人や八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者等は、戦時の死歿者でないため祀られていない、戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員等に関しては祀られていないなど、合祀の基準があいまいなのも気になります。

こうしたことも反映してか、先代の昭和天皇をはじめ、今上天皇は靖国神社への参拝を長く行っていません。また、戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していましたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言しました。

同年を最後に、それまで隔年で行なわれていた天皇の親拝が行なわれなくなりましたが、これはこの三木総理の発言が原因であると言われてきました。ところが、2006年になって昭和天皇の側近で宮内庁長官を務めた富田朝彦が、「富田メモ」を発表し、この中に昭和天皇がA級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかりました。

以下が該当部分です。

私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ

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「松平の子の今の宮司」というのは、田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男で、幕末の四賢候といわれた松平春嶽の孫、松平永芳のことで、この人は戦前は海軍軍人、戦後は陸上自衛官を務めたあと、靖国神社第6代宮司となり、このとき、A級戦犯の合祀を実施したことで知られている人物です。

また、「筑波」とは、筑波藤麿(ふじまろ)という元皇族で、終戦直後の1946年(昭和21年)に、靖国神社宮司に就任し、宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議されました。しかし、合祀はするものの、時期については慎重に判断すると決まり、結局在任中には合祀は実行されませんでした。

一方、松岡とは、日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した「松岡洋右」のことで、「白取」とは、戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた「白鳥敏夫」のことです。

昭和天皇はドイツびいきだった松岡を嫌っていたといい、また日独伊三国同盟の推進を図った白鳥についても同様の理由であまりそりが合わなかったといわれています。このため、この二人が戦後の極東軍事裁判でA級戦犯になったあと、筑波はその合祀を後回しにしたのにもかかわらず、松平宮司の代にこれを靖国神社に合祀したことを怒っていたようです。

靖国神社が彼らを含むA級戦犯らを合祀した際、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁が、「軍人でもなく、死刑にもならなかった人を合祀するのはおかしい」と、同じく文官の白鳥敏夫と並んで、松岡の合祀に強く抗議したというエピソードも残っており、上のメモはそれを裏付けるものとされています。

こうした事実から、昭和天皇は靖国神社存続にも反対だった、と決めつけるのは早計ですが、それまでは足しげく参拝されていたのに、A級戦犯合祀後からは次第に足が遠のいて行った、というのは事実のことのようです。

繰り返すようですが、現在の靖国神社は旧皇居に隣接し、まるで公共施設のようにみなされていますが、戦後は一宗教法人にすぎず、しかも国立ではなく、ただの神道の一神社にすぎません。

そうした事実を再確認するだけでも、公人の靖国参拝の不合理性ははっきりしていると私的には思うわけですが、戦前の国家神道の復活の動きや、こうしたA級戦犯合祀問題が複雑にからまって議論がいまだに続いています。

こうした議論は、今から50年ほど前の1969年(昭和44年)に始まったようです。この年、靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が議員立法案として自由民主党から提出されたことがあり、このときから神社の政教分離に関する現在のような議論が沸騰し始めたといわれます。

しかし、靖国神社を国家管理の施設に復活させる案として国会に提出されたこの案は、宗教色を薄める内容への反対もあり、廃案となりました。

現在に至るまで、それならA級戦犯だけ、合祀から分離すればいいじゃないか、という意見も存在しますが、靖国神社はA級戦犯の「分祀」は「不可能」として拒否しています。

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それなら、もう靖国神社というものは切り捨てて、いっそのこと新しい追悼施設を作ってはどうか、という意見も当然ながらに存在します。

もともとは、2001年(平成13年)、当時内閣官房長官だった福田康夫氏(のちに総理大臣)が、私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させ。4年後には超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」が設立されたのがきっかけです。

日本人ならば、戦没者の魂をねぎらう常設の国家的な戦没者追悼施設はぜひ必要と考えるのは当たり前です。しかし、靖国神社では、これまで述べてきたように、歴史的・宗教的・国際的などの多数の問題があり、それならば靖国神社に代わる国立の追悼施設を設置すればいい、というわけです。

実は、靖国神社すぐ隣には、「千鳥ケ淵戦没者墓苑」という国立の施設が既にあります。無宗教形式の施設であり、靖国神社のような宗教色はありません。ただ、納められているのは引き取り手がない無名戦士の遺骨のみであり、戦死者全体を追悼・慰霊する場ではありません。

ならば、これを拡張・強化し、現在の日本にふさわしい追悼施設にすればいい、という意見も根強くあるようです。が、それなら、すでに靖国神社に合祀「されてしまっている」魂はどうするのか、という議論が他方ではあって、一筋縄ではいきません。

また、仮にこうした施設ができたとしても、すぐ靖国神社廃止、というわけにもいきません。そもそも民間の一宗教法人を国家が廃止するなど信教の自由上不可能です。

ただし、民間の一宗教法人である靖国神社に国家の公式の追悼・慰霊の役割を担わせることそのものは、津地鎮祭訴訟で示された基準に照らし、政教分離の原則に反するため憲法違反です。1965年に三重の津市で市立体育館建設の際に行われた地鎮祭をめぐり、憲法に定められた政教分離原則に反するのではないかと争われた行政訴訟では市が敗訴しました。

一方では、1952年以降、全国戦没者追悼式が毎年開催され、特定の宗教によらない形で天皇、内閣総理大臣、衆参議長、最高裁判所長官なども出席しています。対象は民間の空襲被災者なども含み、これこそがそうした目的の場に違いありません。が、惜しむらくは常設の施設ではありません。

ちなみに、この戦没者追悼式は1964年に一度だけ靖国神社で開催されたことがあります。スペースの問題もあるから、というのが当時の表だった理由だったようですが、このころから閣僚の靖国参拝の問題も影響が出始めました。翌年は上の裁判結果も出たため、以後は日本武道館で開催されています。

以上の現状を前提に、国が公式に戦士・戦没者を追悼する常設の施設が必要との立場からは、新たな国立追悼施設が必要との意見があり、その中にはやはり千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充したほうが安上がりだ、とする意見も根強いようです。

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現在、自民党とタッグを組んでいる公明党は「日本国民も外国要人も天皇陛下もわだかまりなく、心から戦没者を追悼できるような施設のあり方を検討してもいいのではないか」とこの「国立追悼施設」に賛成しています。

自民党の中からも賛同の声が上がっています。2001年、小泉純一郎政権時代に首相官邸において、戦没者追悼施設の在り方、必要性、既存施設との関係について議論するため「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が設けられ、2002年には報告書が出されました。

また2005年、超党派の議員連盟の国立追悼施設を考える会が発足したほか、従来、「靖国神社に代わる戦没者追悼国立施設の設置」には反対の立場を取っていた日本遺族会も、最近ではこの新施設に賛同をしているようです。

昭和天皇が靖国神社参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀とされる上の富田メモが2007年に見つかったことが、その翻意のひとつの理由のようです。当時会長であった、自民党の古賀誠議員が2007年の10月に三重県津市で開かれた同県遺族会の講演で、分祀の検討を始めたことを述べました。

靖国神社へのA級戦犯合祀に関し、「首相の公式参拝だけで事足りるのか。天皇陛下を含め国民すべてがお参りできる、わだかまりのない施設を残すべきだ」と述べており、天皇の参拝実現も念頭に、A級戦犯分祀を含む論議を進めるべきだとの考えを表明しました。

古賀議員のこの発言をみると、戦犯の分祀をすれば、天皇の靖国神社への参拝が実現する、ひいては新しい施設を建設する必要はない、ということではないようです。このため、現在の遺族会は、こうしたリーダーの発言を受け、靖国神社問題を解決する手段として戦没者追悼国立施設の設立を積極的に検討しているといいます。

東京オリンピックまで、あと4年です。

4年後のこの大会のときには、この靖国問題をはじめとして各種の国際問題でぎくしゃくしている中国や韓国も含め、世界中から人々が訪れます。

それまでには、そうした靖国神社に変わる新たな国家施設をぜひ作り、問題解消したうえで、すっきりとした気分で競技大会を開くべきだと思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

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